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いつの間にか「傘寿」⑧

いつの間にか傘寿1
10 /05 2023
何かを書いているときは、嫌なことはすべて忘れられた。

書くのはいつも夜。
腹ばいになって、布団から頭と両手だけ出し、
電気スタンドの光の輪の中で書いた。

背中に乗った猫が肩越しに見ているのもいつものこと。

腰に乗っかる猫や足の間にすっぽりハマって眠る猫もいて、
私は重さに耐えかねると、体を揺すって猫たちを振り落とした。

猫の日記も書いた。
一番小さい猫のコロを書いた。


コロ日記

先生が赤ペンで褒めてくれた。

「だんだん面白いものが書けますね。
観察もとても細かく表現の仕方も上手です」


中学一年生のときの詩集にも、担任の女性教師が書いてくださった。

中一の詩

家で褒められたことがなかったから、すごく嬉しかった。

母との思い出はつらいことばかりのように思っていたが、
昔の写真の中にはこんなのもあった。


母と私。
電車に飛び込もうとして踏切に向かった1年前の小学3年生のときの写真。
母はこんなふうな優しさから一転、鬼になる。これがつらかった。

でも、改めて見ると母はずいぶん痩せている。
カナダへ渡った次姉が「父の兄の後妻さん、母を見下して家へ来るときは
持参したおにぎりを食べたそうよ。母の料理は汚いからって」

母は心身ともに疲弊していたのだろうと、今にして思う。
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母が子供たちを大切にしてきたことは、残された写真から理解できる。

あの過酷な戦前戦後に、
母は子供たちのために町の写真館で、七五三の記念写真を撮っていた。

全員、真新しい服や着物。母は和裁も洋裁も難なく出来た。


後年、地元の郷土史の会で「ひな祭り」の展示を催したとき、
土人形の芥子びなと7歳のお祝いの写真を展示した私に、
30歳も年下の女性が羨ましそうに言った。

「雨宮さんは七五三をやってもらったんですか。お金持ちだったんですね。
私にはこういう写真がないんです」


長女         長男       二女
img20230919_13040906_0002.jpg img20230919_13070925.jpg img20230919_13070925_0001.jpg

二男        三女の私
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21歳で嫁いできた母は、昭和11年から18年まで絶え間なく出産。
その間も働き詰め。

父も母も慣れない商売で散々な目に遭いながら、黙々と働き続けた。

この地区で電話があるのはうちだけだったから、みんなが借りに来た。
東京や名古屋で働く子供たちへの長距離の長電話ばかりなのに、
通話料を払う人は一人もいない。
たまりかねて母が「タダではないんですが」と言っても誰も払わなかった。

父は父で大晦日は掛け取りに出向くものの、すんなり払う家はない。
夜逃げをされてがっくりして帰ってきた父の姿が、目に焼き付いている。

真夜中まで働いたので、お餅つきはいつも除夜の鐘を聞きながらだった。

そんな中で二人は5人もの子供を育ててくれた。


「姉さんや兄さんたちには立派なお雛さんや五月人形があるのに、
あんただけは何もないから」と買ってくれたのが、親指ほどの芥子びなだった。

戦時中、行商のおばさんから買ったものだという。

ひな祭りになると姉たちの立派な御殿飾りの一番下の段にこれが置かれた。
私は嬉しくてたまらなかった。私と共に80年。今も毎年飾っています。
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小学6年生になるころには、長姉や長兄は大学生になって家を離れた。
急に家の中が静かになった。

母が優しさを見せるようになったのもこのころ。


中学1年の時の日記を見たら、こんなことが書いてあった。

「今日は私の誕生日である。
母からスイカをもらった。スイカの上に貼った紙に、
丸きもの スイカのごとく 十五夜のごとく 太陽のごとく 
まるき心になってくれ、と書かれていた」


当然、嬉しかった。

小学6年生の私と母。
歯がボロボロになってしまった母は、
渡り者のインチキ歯医者に変な入れ歯をはめられておかしな口元になった。
これをいつも悩んでいたが、後年、作り変えて元の愛らしい口元になった。

この時の母はまだ42歳。年齢以上に老けているのが痛ましい。
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だが、以前の母はこうではなかった。
姉の誕生日に、母は一人一人に名前の由来を語って聞かせた。

長女のW子は皇族の名から、次男は海軍大将にとの願いを込めて、と。
順々にそう言って、次はいよいよ私の番だと待ち構えていたら、
何も言わない。恐る恐る、「私は?」と聞いたら、

「ああ、あんたはね、欲しくて産んだ子ではなかったから。
それでぎりぎりになって、なんでもいいから思い付いたのを届けた」

高校生のとき、ふと友人に話したら、話しているうちに涙が止まらなくなった。
そんな私に友人はこう言って慰めてくれた。

「いい名前よ。清らかな子ってあなたにピッタリ。苗字と合ってるし」

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どれが母の本心なのか、今もってわからない。

ただ言えるのは、10のうちの9個は優しさであっても、
残りの1つが理由なき鉄拳やグサリと胸に突き刺さる残酷な言葉であれば、
9個の優しさは雲散霧消して、すべてが不幸に置き換えられてしまう、と。

それでも、
星明かりのない冬の夜、ふみきりへ向かったあの小学4年を境に、
母は少しずつ変わっていった。
私に手を挙げることがなくなり、突き刺すような暴言も少なくなった。

だが、私は決して気を緩めはしなかった。


中学2年生になると、次姉も東京へ行ってしまい、
子供は次兄と私だけになった。

子供が去っていくたびに母は覇気を失うように見えた。
その開いた穴を埋めるかのように、母は私に近づいてきた。

だが、そうして急接近されればされるほど私は逃げた。
あれほど「お母さん、たまには私も見て!」と願っていたのに。

みんながいなくなったその穴埋めなんだなという思いがあったし、
近づき方がぎこちなかったし、
さらに姉や兄が休みで帰省したとき、たちまち元の母親に戻るのを見て、
やっぱりあれは幻想だったんだと落胆した。

母の心の揺れに、私は相変わらず影響を受け続けていたから、
幼いころからの緊張をどうしても解くことが出来なかった。

これがいつ逆方向に変わるかもしれないという不安や恐れ、
本当に人ってそんなに変われるものなのかという不信感、

そういうもろもろが、14歳の私にのしかかってきた。

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雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞