もう知る人は誰もいない
みなさまからの力石2
静岡県での久々の力石の新発見です。
この情報をお寄せくださったのは、
先月、拙ブログでご紹介した富士宮市在住の郷土史家・増田文夫氏です。
先月いただいたお手紙には、こうありました。
「定年退職して10年の歳月を数えることとなり、人生の一区切りとして
この間に調べた郷土・内房の石造物についてまとめる作業をしてます」
そしてその本の中に「内房の力石」を入れる予定ということで、
原稿をお送りくださったのです。
増田氏は現在、富士宮市史編纂の事業に携わり、
「民族編」の基礎資料・石造物の悉皆調査員として、
他の調査員4名ほどで調査を進めているとのこと。
そんな中で力石を発見。
場所は静岡県東部。静岡県富士市の富士駅から山梨県甲府に至る
身延線添いにある山寄りの集落です。(赤丸)

静岡県富士宮市上稲子(旧芝川町上稲子池ノ谷)
「5月から稲子地区の調査に入りまして、そろそろ調査も終わりに近づき、
池ノ谷区の観音堂の地蔵尊などの調査に入りました。
そうしましたところ、観音堂の地蔵尊の足元に力石が置かれていることに
調査員の一人が気づきました」
力石の散逸を惜しんで、どなたかが地蔵さんのところへ置いたのでしょう。
それが何十年ぶりかで増田さんたちによって発見された。
「二人一緒なら寂しくないね」。地蔵さんと共にこの先もずっと一緒です。

「重量は推定30㎏と見えました。
石の存在については、もう知る人も恐らくいないだろうと思います」
(増田氏)
このあたりは、谷あいや川を挟んで小さな集落が点在しているところで、
公共交通の手段がないうえ、車の運転をしない私なので、
力石探しの時は苦労しました。
だから探訪はすべて、地元の方々に助けられて…。
あの頃見た村々が、調査員の方々の目に映った光景と重なり、
懐かしく思い出されました。

当時、音が消えた村の中に立って思ったものです。
村が活気に満ちていたころ、お堂や氏神さまに集まって、
石の担ぎっこをして楽しんだ若者たちの姿を…。
そんな集落の一つに暮らしていた老婦人の話は、今も忘れられません。
「お堂の横に青年宿があって、夜になると煌々と明かりがついたですよ。
仕事が終わるとみんな集まって、石の担ぎっくらして賑やかだった。
青年らは毎晩、夜回りをして、祭りには張り切っていたっけが、
でもみんな、いなくなっちゃった」
今はもう遥か遠い日の出来事になってしまったけれど、
老婦人には、そのときの賑わいも楽しい笑い声も、
昨日のことのように残っていた。
この方もその後まもなく、鬼籍に入られたと知らされた。
草に埋もれ苔に覆われた、池ノ谷観音堂の力石です。

56・7×35×27・3cm
過疎化が進んだ村里では、この石もまた自然に帰っていくことでしょう。
でもこうして調査員のみなさんに発見されて、
記録に残されることになったのです。
恐らくこの石が「紙」に記載されるのは、初めのことだと思います。
「庶民のこんな過去の遺物を記録に残して何になる」
そう言う人もいます。
でも私は思うのです。
王様の遺物は貴重で、庶民の遺物は価値がないというのは間違っている、と。
権力者たる「王様」の記録は紙に残され、遺留品のお宝や出土品から、
その時代の文化や人間模様を後世に教えてくれますが、
名もない庶民文化は価値のないものとしてその都度消えていき、
何も残りません。
ですが歴史は、人口の9割以上を占める庶民の存在なくしては作れなかった。
ささやかな存在ながら、力石もその一つです。
だからこそ、「力石が生きた証し」を残すべきだ、と。

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この情報をお寄せくださったのは、
先月、拙ブログでご紹介した富士宮市在住の郷土史家・増田文夫氏です。
先月いただいたお手紙には、こうありました。
「定年退職して10年の歳月を数えることとなり、人生の一区切りとして
この間に調べた郷土・内房の石造物についてまとめる作業をしてます」
そしてその本の中に「内房の力石」を入れる予定ということで、
原稿をお送りくださったのです。
増田氏は現在、富士宮市史編纂の事業に携わり、
「民族編」の基礎資料・石造物の悉皆調査員として、
他の調査員4名ほどで調査を進めているとのこと。
そんな中で力石を発見。
場所は静岡県東部。静岡県富士市の富士駅から山梨県甲府に至る
身延線添いにある山寄りの集落です。(赤丸)

静岡県富士宮市上稲子(旧芝川町上稲子池ノ谷)
「5月から稲子地区の調査に入りまして、そろそろ調査も終わりに近づき、
池ノ谷区の観音堂の地蔵尊などの調査に入りました。
そうしましたところ、観音堂の地蔵尊の足元に力石が置かれていることに
調査員の一人が気づきました」
力石の散逸を惜しんで、どなたかが地蔵さんのところへ置いたのでしょう。
それが何十年ぶりかで増田さんたちによって発見された。
「二人一緒なら寂しくないね」。地蔵さんと共にこの先もずっと一緒です。

「重量は推定30㎏と見えました。
石の存在については、もう知る人も恐らくいないだろうと思います」
(増田氏)
このあたりは、谷あいや川を挟んで小さな集落が点在しているところで、
公共交通の手段がないうえ、車の運転をしない私なので、
力石探しの時は苦労しました。
だから探訪はすべて、地元の方々に助けられて…。
あの頃見た村々が、調査員の方々の目に映った光景と重なり、
懐かしく思い出されました。

当時、音が消えた村の中に立って思ったものです。
村が活気に満ちていたころ、お堂や氏神さまに集まって、
石の担ぎっこをして楽しんだ若者たちの姿を…。
そんな集落の一つに暮らしていた老婦人の話は、今も忘れられません。
「お堂の横に青年宿があって、夜になると煌々と明かりがついたですよ。
仕事が終わるとみんな集まって、石の担ぎっくらして賑やかだった。
青年らは毎晩、夜回りをして、祭りには張り切っていたっけが、
でもみんな、いなくなっちゃった」
今はもう遥か遠い日の出来事になってしまったけれど、
老婦人には、そのときの賑わいも楽しい笑い声も、
昨日のことのように残っていた。
この方もその後まもなく、鬼籍に入られたと知らされた。
草に埋もれ苔に覆われた、池ノ谷観音堂の力石です。

56・7×35×27・3cm
過疎化が進んだ村里では、この石もまた自然に帰っていくことでしょう。
でもこうして調査員のみなさんに発見されて、
記録に残されることになったのです。
恐らくこの石が「紙」に記載されるのは、初めのことだと思います。
「庶民のこんな過去の遺物を記録に残して何になる」
そう言う人もいます。
でも私は思うのです。
王様の遺物は貴重で、庶民の遺物は価値がないというのは間違っている、と。
権力者たる「王様」の記録は紙に残され、遺留品のお宝や出土品から、
その時代の文化や人間模様を後世に教えてくれますが、
名もない庶民文化は価値のないものとしてその都度消えていき、
何も残りません。
ですが歴史は、人口の9割以上を占める庶民の存在なくしては作れなかった。
ささやかな存在ながら、力石もその一つです。
だからこそ、「力石が生きた証し」を残すべきだ、と。

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