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出雲、丹後は古代の国際都市だった

盃状穴②
05 /26 2023
長野正孝氏はその著書で、
自身が古代史に踏み込んだ理由をこう言っている。

「日本の最初の正史である「日本書紀」を読みながら、
古代史の現場に立った時、現場の地形と「日本書紀」の内容や、
この国が積み重ねてきた歴史学的知見との間に乖離があることに気づいた」

長野氏のライフワークは海洋史、土木史研究。


現役時代は広島港、鹿島港、第二パナマ運河などの計画・建造に従事。
世界三十余国の海や川をつぶさに見て歩いたといい、
自らを、「海の技術屋」と称している。

その長野氏が「日本書紀」に持った大きな疑問の一つがこれ。


「日本海側の古代史がほとんど記載されていない!」

あっ、これって、他の学者さんたちも主張している
「ヤマト王権を目立たせるために藤原不比等が使ったトリック」ってことか、
とワタクシメの心もザワつき、色めき立ちました。


長野先生が想定した「倭国」。「古代史のテクノロジー」PHP 2023より
倭国

中国の歴史書「魏志」東夷伝 倭人条に、
「邪馬台国の卑弥呼」が出てくることから、その所在地について、
長い間論争が続いている。

で、そのことについての長野氏の見解はこうだ。

「当時、国家が存在したとは思えない。
朝貢は国家を代表したものではなく、商売人の頭目の表敬訪問であった。
集団は利益で結びつく。それが交易の成り立つ摂理である。


卑弥呼が存在したとすれば、丹後周辺であろう。
漢書のいう百余国というのは、日本海沿岸にあった集落のことだろう。
ここには世界一長い海の交易路、縄文人のネットワークがあった」

どういう交易かというと、「玉石」だという。

新潟・糸魚川のヒスイ、長野県、北海道の黒曜石、秋田県のアスファルト
岩手県久慈市の琥珀、佐渡の赤玉、能美の碧玉、出雲のメノウ…。

古代史学の水野祐先生も、
「古代の出雲」吉川弘文館 1972で、こうおっしゃっています。

「北陸と山陰地方は古くから海上を通じて通航が行われていた。
出雲文化は海によって開けた。
出雲はシベリア、満州、韓半島と中国山地とを結ぶ南北交通路と、
日本海の東西を結ぶ東西航路とがクロスする交通の要衝であった」

これ、島根県・宍道湖産のしじみです。店頭に並んだのはこれ一度切り。
CIMG5742.jpg

「ここが変わる!日本の考古学」ー先史・古代史研究の最前線ー
藤尾慎一郎・松木武彦編 吉川弘文館 2019に、こんな記述がある。

「魏志倭人伝には、2世紀後半ごろ、倭国が大いに乱れたと書かれている。
文献に残る最古の戦いの記録とされる倭国の乱だが、
これを境に卑弥呼が擁立され、邪馬台国の時代に入ることから、
多くの古代史ファンの関心を集めている。

しかし考古学的に倭国争乱の証拠があるかと言えば、
見つかっていないというのが実態である」

CIMG5740.jpg

長野氏はいう。
「玉造りに秀でていたのが、丹後と出雲。
大陸からは銅鐸や鉄、優れた技術や文化がもたらされた。
古代の交通路は海と湖と川。そのころの畿内の船や港湾の技術は未熟で、
瀬戸内海航路はまだ開発されていなかった」


「朝鮮半島から対馬、壱岐、糸島、下関、出雲という交易路を通って、
渡来人が大勢やってきた」

そういえば「禹王と日本人」王敏 NHK出版 2014にも書かれていた。

img20230515_10311232.jpg

「日本書紀・欽明五年十二月の段に、
佐渡嶋に「みしはせ」人(中国東北の民族)が暮らしている。
嶋の東側には朝鮮半島経由でやってきた人々の村がある」
と。

長野氏の論を進めます。

「航海には水の補給が不可欠。その供給地には、
「渡し(和多志)」=航海を助ける専門家集団
(のちに海賊になる)がいた。
「渡し」には船の安全を祈る「渡しの神」を祀る神社があり、
そこは水の供給所であり、宿泊施設でもあった」


私はこの個所を読んで、
神社の成り立ちはそういうことかもしれないと、えらく納得したんです。

古墳は水辺にあってその上に祠や神社があることが多いのも、
そういうことかも、と。


祈りの場のほかに水の補給、宿泊、そして情報交換の場であった。
そういう
「実」を伴なったからこそ、
神社は重視され有難がられたのだろう、と。


静岡県沼津市に「高尾山古墳」という古墳前期前半に造られた
前方後方墳があります。
ここの発掘調査に携わった筑波大学の滝沢誠教授によると、


「前方後方墳は全国で500基余、静岡県内では7基。
その6割が東日本に存在する。

西日本とは異なる政治的背景を持った有力者たち
がいたのではないか」

これを沼津市文化財センターでは、「スルガ最初の王」と呼んでいる。



「出土品の青銅製の鏡は2世紀代の中国の官営鏡工場で製作されたもの。
また副葬品の構成が東日本最古期の前方後方墳のものと類似しており、
このことから、
これらの地域の人々に共通した意識があったものと思われる」


「古墳後期になって前方後円墳が現れるので、そのころ大きな社会の
変化があって、大和王権の影響があったと考えられる」
(滝沢誠教授)

長野先生もこういう。
「4世紀後半になると大陸から安い鉄が大量に入り、これにより列島の
鉄が値崩れを起こし、日本海側の「倭国」と言われた集落は衰退していった」

ここで初めて、畿内の大和政権の登場です。


で、それから400年後に現れた藤原不比等らが何をしたかというと、
日本海沿岸に栄えた「倭国」の栄華を横取りして、
すべて畿内の大和政権の事績とするために、
記紀から、日本海側の古代史を消し去った。

その空白を埋めるために、何人もの架空の天皇さんを登場させて、
日本書紀に盛り込んだ。
(長野正孝。大山誠一)

というのですから、
あまりのことに、私は
「ポワ~ン」としてしまったのであります。
ただねぇ、長野先生、「タカミムスヒ」の「ヒ」を「ビ」と表記しているんですよ。何でか、お聞きしたいところですが…。

で、長野先生の本に、能登の「雨の宮古墳群」の話が出てきたんですよ。

私、思わず、
「おおーっ! 私と一緒じゃないですか!」

マスコットキャラクターの「あめろく」さんです。
まるで自分を見ているような…。

あめろく
ここは能登の王を葬った国の史跡で、
北陸最大級の前方後方墳など全部で36基もの古墳があるそうです。


「雨の宮古墳群」

命名の由来を中能登町の教育委員会にお聞きしました。

「以前は、雨の宮1号墳の古墳上に、
「天日陰比咩(あめひかげひめ)神社」が建っておりました。
(現在は移築)。
当神社は古くから、地域の”雨乞い社”としての役割を担っていて、
俗に「雨の宮」と呼ばれていた。古墳の名称の由来はここから来ております」


私の先祖も、
「雨を降らせ給え。かしこみかしこみもうす」なんてやってたのかしら。

幸い、今回の地震の影響は受けなかったそうです。

私は名前とは真逆の晴れ女だけれど、こうなったら是が非でも、
「あめろく」さんに会いに行かなくちゃ。

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コメント

非公開コメント

No title

面白い説だなと思いました。
僕も日本書紀に関しては、いくつかの全く別の物語の編集という考えに賛成です。
大和に対し、北関東政権は明らかに別のものですし、出雲はまさにそうだと思います。
歴史ってその自体の為政者によって、書き換えられるという意識が大事だと思います。
現在の史観も、だいたい悪く言われている人はその次の時代の権力者にとって黒歴史なのですから。
石田三成、会津藩などがそうですね。

No title

この中能登町にも力石があるようです。「石川の力石」参照。

たいやきさんへ

コメントありがとうございます。
素人なのに難しい方向に行ってしまい、アタフタしていますが、でも、高名な学者さんたちも過去のいろんなパーツを組み合わせて持論を展開しているんだと思ったら、気が楽になりました。

で、つくづく思うのは、学校で刷り込まれた歴史はなかなか変えられないということです。テストで試されるから暗記するし…。
一つを教えるのではなく、いろんな説を伝えて、でもこれからも新説がでてくるかもと子供に伝えるのが一番いいなあと思っております。
また近現代史を教えないことにも危惧しています。

夏目さんへ

コメントありがとうございます。
「石川の力石」、見ました。ありますね。
古墳の命名を問合せた時、今どうなっていますか?とお聞きすればよかったです。
能登ははるか昔に一度行っただけですが、すごく魅力的なところですね。
また朝市などほっつき歩きたいです。

雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞