宇宙の盛衰と王殺し
盃状穴②
古代人たちは人の魂は不滅だとし、次に人間として再生するまで、
その魂はさまざまな動物へ転生すると考えた。
「イランの動物仮装の行列は、祖先のこの世への訪問。
鳥獣と人間の行列は雅楽や伎楽にも見られる」(井本英一)
ということは、
行列に参加したご先祖様は、人間に転生する前段階ということでしょうか。
古代エジプト人は、人間への転生までの年数を3000年としていたとか。
だとしたら私の前世は縄文人か!

で、3000年なんて待っていたら、自分は永久に王様になれない、
と考えたかどうかは知りませんが、
手っ取り早く再生するには現王を殺すしかない、そう考えたようで、
「ギリシャの場合、王の統治期間に古い王を殺して新しい王位を継いだ」
そうですから、なんとも血生臭い。
その権力闘争はいつ実行したかというと、12年目ごとだという。
なんで12年目ごとかというと、
「十二」は、ものごとの終末と始原を暗示していて、
このとき、宇宙が弱まると信じられていた。
その弱まった宇宙を再び強く盛んなものにするには、
現王を殺して新しい若い王に替えなければならなかった。
そうかァ。今、日本が少子化で、
衰退の一途を辿っているといわれているのは、
現役の政治家に年寄りが多すぎるせいか。(*゚Q゚*)
で、宇宙が弱まったらなぜ王を殺すことになるのかというと、
王は宇宙の体現者とされていて宇宙と一体だったからだそうで…。
だから、こうして12年目ごとに王を殺していったんだと。
王様も気楽な稼業ではなかったんですねぇ。

井本先生によれば、
女神の神殿を12年目に建て替えるのも、
沖縄・久高島のイザイホーの祭りを12年目ごとに行うのも、
「宇宙の弱まり」から「再生」を願うためなんだそうです。
再生のために祖先を殺してその霊魂をわが身に移動させる
というのも凄い発想ですが、のちに王の身代わりに、
別の人間を銅牛の中に入れて焼き殺したというのですから、
これまた、なんとも残忍で理不尽な話です。
井本先生は、
フレイザー「死にゆく神」ロンドン 1991から、こんな話も紹介しています。
「アフガニスタンの初春の行事に、山羊の生首を奪い合う騎馬競技。
この山羊は王様のスケープゴード」
「インドのマラバルでは王の生首が実際に奪い合われた。
5年の任期が切れると王は首を切られ、群衆の中に空高く投げ上げられ、
人々は落ちてくる生首を奪い合い、
それを手にしたものが次の王の座についた」
私はこの個所を読んで、
兵士たちが敵兵の首を奪い合ったことから始まったという
サッカーの起源説を思い出してしまいました。(真偽はわかりませんが)
「怖え~」「聞かなかったことにします」「他言はしません」

人間ってこんなに残酷だったなんてにわかに信じられませんが…。
でもそんな一つに、鍛冶屋が強度を願うため、
窯に幼児を投げ込んだ話もあります。
こうしたイケニエの習慣は世界のどこにでもあって、
こちらは牛ですが、
雨乞いに牛の首を滝壺へ投じた話は、当地の名主日記にも書かれています。
毎年娘を怪神に人身御供として捧げる伝説、
これは裏がありそうな話だと疑っていますが、
橋や堤防に人柱を埋めた話は、
実際に人骨が出てきた例があることから、嘘ではなかったと思います。
このイケニエ、時代が下るにつれて、
本物から絵に変わっていったといいますからホッとしますが、
それにしてもこの地球上で一番恐ろしいのは人間だなぁと、
つくづく思ってしまいました。
で、宇宙の盛衰は宇宙の体現者の王様にだけ関係したのかというと、
どうもそうでもないらしい。
普通の人間の体と精神の盛衰の運行も宇宙と連動していて、
やっぱり12年目ごとに終末と始原を繰り返すとされていたようです。
「千石船の大小暦」万延元年(1860)庚申

「歴史読本」新人物往来社 昭和48年
そこで思い当たるのが、あの12個の穴に燈明を灯した「燈明石」です。
あの石に穿たれた穴は12の干支+閏年の1個。
これが古代オリエントと繋がりがあったと考えると、
なんだかワクワクしてきませんか。
以下は拙ブログの記事です。
「燈明石」
次回はまたまた井本先生の本からお借りして「十二」のお話を。
※参考文献/「十二支動物の話」法政大学出版 1999
「輪廻の話」同 1989 いずれも井本英一著

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その魂はさまざまな動物へ転生すると考えた。
「イランの動物仮装の行列は、祖先のこの世への訪問。
鳥獣と人間の行列は雅楽や伎楽にも見られる」(井本英一)
ということは、
行列に参加したご先祖様は、人間に転生する前段階ということでしょうか。
古代エジプト人は、人間への転生までの年数を3000年としていたとか。
だとしたら私の前世は縄文人か!

で、3000年なんて待っていたら、自分は永久に王様になれない、
と考えたかどうかは知りませんが、
手っ取り早く再生するには現王を殺すしかない、そう考えたようで、
「ギリシャの場合、王の統治期間に古い王を殺して新しい王位を継いだ」
そうですから、なんとも血生臭い。
その権力闘争はいつ実行したかというと、12年目ごとだという。
なんで12年目ごとかというと、
「十二」は、ものごとの終末と始原を暗示していて、
このとき、宇宙が弱まると信じられていた。
その弱まった宇宙を再び強く盛んなものにするには、
現王を殺して新しい若い王に替えなければならなかった。
そうかァ。今、日本が少子化で、
衰退の一途を辿っているといわれているのは、
現役の政治家に年寄りが多すぎるせいか。(*゚Q゚*)
で、宇宙が弱まったらなぜ王を殺すことになるのかというと、
王は宇宙の体現者とされていて宇宙と一体だったからだそうで…。
だから、こうして12年目ごとに王を殺していったんだと。
王様も気楽な稼業ではなかったんですねぇ。

井本先生によれば、
女神の神殿を12年目に建て替えるのも、
沖縄・久高島のイザイホーの祭りを12年目ごとに行うのも、
「宇宙の弱まり」から「再生」を願うためなんだそうです。
再生のために祖先を殺してその霊魂をわが身に移動させる
というのも凄い発想ですが、のちに王の身代わりに、
別の人間を銅牛の中に入れて焼き殺したというのですから、
これまた、なんとも残忍で理不尽な話です。
井本先生は、
フレイザー「死にゆく神」ロンドン 1991から、こんな話も紹介しています。
「アフガニスタンの初春の行事に、山羊の生首を奪い合う騎馬競技。
この山羊は王様のスケープゴード」
「インドのマラバルでは王の生首が実際に奪い合われた。
5年の任期が切れると王は首を切られ、群衆の中に空高く投げ上げられ、
人々は落ちてくる生首を奪い合い、
それを手にしたものが次の王の座についた」
私はこの個所を読んで、
兵士たちが敵兵の首を奪い合ったことから始まったという
サッカーの起源説を思い出してしまいました。(真偽はわかりませんが)
「怖え~」「聞かなかったことにします」「他言はしません」

人間ってこんなに残酷だったなんてにわかに信じられませんが…。
でもそんな一つに、鍛冶屋が強度を願うため、
窯に幼児を投げ込んだ話もあります。
こうしたイケニエの習慣は世界のどこにでもあって、
こちらは牛ですが、
雨乞いに牛の首を滝壺へ投じた話は、当地の名主日記にも書かれています。
毎年娘を怪神に人身御供として捧げる伝説、
これは裏がありそうな話だと疑っていますが、
橋や堤防に人柱を埋めた話は、
実際に人骨が出てきた例があることから、嘘ではなかったと思います。
このイケニエ、時代が下るにつれて、
本物から絵に変わっていったといいますからホッとしますが、
それにしてもこの地球上で一番恐ろしいのは人間だなぁと、
つくづく思ってしまいました。
で、宇宙の盛衰は宇宙の体現者の王様にだけ関係したのかというと、
どうもそうでもないらしい。
普通の人間の体と精神の盛衰の運行も宇宙と連動していて、
やっぱり12年目ごとに終末と始原を繰り返すとされていたようです。
「千石船の大小暦」万延元年(1860)庚申

「歴史読本」新人物往来社 昭和48年
そこで思い当たるのが、あの12個の穴に燈明を灯した「燈明石」です。
あの石に穿たれた穴は12の干支+閏年の1個。
これが古代オリエントと繋がりがあったと考えると、
なんだかワクワクしてきませんか。
以下は拙ブログの記事です。
「燈明石」
次回はまたまた井本先生の本からお借りして「十二」のお話を。
※参考文献/「十二支動物の話」法政大学出版 1999
「輪廻の話」同 1989 いずれも井本英一著

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