今さら …83
田畑修一郎3
武雄が送金を止めた。
覚悟はできていたから、「ああ、そうなの」と。
唯一、危惧したのは次男への送金中止だったが、幸いこれは続いた。
3年に進級するとき1年休学して、雄二はアメリカへ留学した。
その交渉もすべて雄二自身がやり遂げた。
「母親」を卒業できたと私は胸を撫でおろした。
離婚届の提出は1年先延ばしになったけれど、辛抱辛抱。
だが、それまでの数年間も、武雄には翻弄され続けた。
縁を切るのは容易なことではない。

送金を止められてから2年後、
大阪の大介からの電話で、武雄の母親が亡くなったことを知った。
大介が言いにくそうに聞いてきた。
「葬式にはお前ら二人だけで来い、
お母さんは来る必要がないって言われたけどどうする?」
「来るなと言うんだから行かないよ」と返事をしたら、
「じゃあ僕らも行かない」と、なんだか明るい声できっぱり言った。
あちらの家とはもう長い間、やりとりがない。
義兄、義姉と母親は長い間、3人で固まって生きてきた。
末っ子の武雄はそんな家庭を嫌い、私との結婚を理由に家を出たが、
結局、離れられなかった。
そして今度、一家の大きな要(かなめ)だった母親を失ったことで、
彼らだけに通じる「仮想の家」が崩壊した。
かつて義姉が私に話した。
死んだ父親の二郎は新聞記者で母親はお琴の名手、
義兄は優秀な大学を二つも出て、会計士の国家試験のため勉強中。
昔は武蔵野の広大なお屋敷に住んでいた、と。
だがそれは全部ウソだった。
真実は二郎の弟の田畑修一郎が書いた小説の中にしかなかった。
私が納得した唯一の真実は、
父親譲りのあの笑ってごまかす「エベッタン笑い」を、
兄、姉、弟の3人とも継承していたことだけだった。
虚構の家が母という演者の一人を失って、終焉を迎えたのだ。
義兄も義姉もとうに還暦を過ぎたはずだが、
私は14、5年前の顔しか知らない。
そのときも唐突に、
「うちへは武雄と孫さえくればいい。あんたは来なくていい」と言われたが、
私は「秘密」を共有できる「身内」ではなかったのだろう。

それから2、3か月たったころ、夜、突然、武雄から電話が来た。
「会ってほしい」と言う。「どうしても会って話を聞いてほしい」と。
「お断りします」と伝えても、
「玄関でもいいから。聞いてくれるだけでもいいから」と必死で頼んでくる。
やむなく「それなら」と承諾した。
夜中の1時過ぎ、インターフォンが鳴った。
高速を飛ばしてきたはずだが、車の音がしなかったのは、
少し離れたところへ置いてきたためだろう。
武雄は「金がない」を理由に、私の入院費を払わなかった。
だがその陰で、M江とお揃いのバイクを買い、
二人でキャンプや遠出のための車を買っていた。
その後ろめたさを今も引きずっているのかもしれないとも思った。
ドアを開けるとオドオドした武雄が、闇の中に立っていた。
居間へ戻る私の後をよろよろしながらついてきたが、
部屋の入口に来ると崩れるように座り込んだ。
「葬式に大介も雄二も来なかった」
「……」
「やっとわかったんだ。家族がどんなに大切かって」
「……」
「元に戻りたい。家族として戻りたい」
なんと身勝手な、と私は呆れた。
私は胸の中で叫んだ。
武雄さん、あなたは忘れたの?
あの奈良の雨の日や木枯らしが吹いた夜、バイクで引きずり回したことを。
M江に結婚を迫られて交通事故に見せかけてお前を、
と告白した東京のアパートでのあの日のことを…。
私はあの瞬間、恐怖の極限を突き抜けて、見るものすべてから色が抜けた。
未だにセピア色の、すべてが緩慢と動く世界にいるんだよ。
すごく苦しい世界だよ。

一番安心だと思っていた人が実は一番危険な人だと知って、
あれから誰かと同じ部屋に寝るのが怖くて、
部屋にはいつもきっちり鍵を掛けなければ眠れなくなった。
30代40代という、人生で一番華やかで充実したはずの時代を、
あなたのせいで暗く苦しく、みじめに過ごしてきた。
子供たちが小・中・高という一番親を必要とした時期に、あなたはいなかった。
いなかったのではなく、女に入れ込みこれ見よがしに醜態を見せ続けた。
それを葬式に誰も来なくて恥をかいた、すごく惨めだったから、
また家族に戻りたいとは。
もう戻れないんだよ。
居場所を捨てたのは、ほかならぬあなた自身だし、私はもうまっぴら。
私は奥のソファに座り、終始無言で真っ直ぐ武雄を見ていたが、
彼はそんな私を一度も見ることもなく俯いたまま、
ひたすら「戻りたい…」と呟いている。
しばらくの沈黙の後、
「いっぱい言うことがあったけど、言いたいことがわからなくなった」
そう言いつつ、ハァーッと一つ、大きなため息をついた。
それからのろのろ立ち上がると、ションボリ玄関を出て行った。

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覚悟はできていたから、「ああ、そうなの」と。
唯一、危惧したのは次男への送金中止だったが、幸いこれは続いた。
3年に進級するとき1年休学して、雄二はアメリカへ留学した。
その交渉もすべて雄二自身がやり遂げた。
「母親」を卒業できたと私は胸を撫でおろした。
離婚届の提出は1年先延ばしになったけれど、辛抱辛抱。
だが、それまでの数年間も、武雄には翻弄され続けた。
縁を切るのは容易なことではない。

送金を止められてから2年後、
大阪の大介からの電話で、武雄の母親が亡くなったことを知った。
大介が言いにくそうに聞いてきた。
「葬式にはお前ら二人だけで来い、
お母さんは来る必要がないって言われたけどどうする?」
「来るなと言うんだから行かないよ」と返事をしたら、
「じゃあ僕らも行かない」と、なんだか明るい声できっぱり言った。
あちらの家とはもう長い間、やりとりがない。
義兄、義姉と母親は長い間、3人で固まって生きてきた。
末っ子の武雄はそんな家庭を嫌い、私との結婚を理由に家を出たが、
結局、離れられなかった。
そして今度、一家の大きな要(かなめ)だった母親を失ったことで、
彼らだけに通じる「仮想の家」が崩壊した。
かつて義姉が私に話した。
死んだ父親の二郎は新聞記者で母親はお琴の名手、
義兄は優秀な大学を二つも出て、会計士の国家試験のため勉強中。
昔は武蔵野の広大なお屋敷に住んでいた、と。
だがそれは全部ウソだった。
真実は二郎の弟の田畑修一郎が書いた小説の中にしかなかった。
私が納得した唯一の真実は、
父親譲りのあの笑ってごまかす「エベッタン笑い」を、
兄、姉、弟の3人とも継承していたことだけだった。
虚構の家が母という演者の一人を失って、終焉を迎えたのだ。
義兄も義姉もとうに還暦を過ぎたはずだが、
私は14、5年前の顔しか知らない。
そのときも唐突に、
「うちへは武雄と孫さえくればいい。あんたは来なくていい」と言われたが、
私は「秘密」を共有できる「身内」ではなかったのだろう。

それから2、3か月たったころ、夜、突然、武雄から電話が来た。
「会ってほしい」と言う。「どうしても会って話を聞いてほしい」と。
「お断りします」と伝えても、
「玄関でもいいから。聞いてくれるだけでもいいから」と必死で頼んでくる。
やむなく「それなら」と承諾した。
夜中の1時過ぎ、インターフォンが鳴った。
高速を飛ばしてきたはずだが、車の音がしなかったのは、
少し離れたところへ置いてきたためだろう。
武雄は「金がない」を理由に、私の入院費を払わなかった。
だがその陰で、M江とお揃いのバイクを買い、
二人でキャンプや遠出のための車を買っていた。
その後ろめたさを今も引きずっているのかもしれないとも思った。
ドアを開けるとオドオドした武雄が、闇の中に立っていた。
居間へ戻る私の後をよろよろしながらついてきたが、
部屋の入口に来ると崩れるように座り込んだ。
「葬式に大介も雄二も来なかった」
「……」
「やっとわかったんだ。家族がどんなに大切かって」
「……」
「元に戻りたい。家族として戻りたい」
なんと身勝手な、と私は呆れた。
私は胸の中で叫んだ。
武雄さん、あなたは忘れたの?
あの奈良の雨の日や木枯らしが吹いた夜、バイクで引きずり回したことを。
M江に結婚を迫られて交通事故に見せかけてお前を、
と告白した東京のアパートでのあの日のことを…。
私はあの瞬間、恐怖の極限を突き抜けて、見るものすべてから色が抜けた。
未だにセピア色の、すべてが緩慢と動く世界にいるんだよ。
すごく苦しい世界だよ。

一番安心だと思っていた人が実は一番危険な人だと知って、
あれから誰かと同じ部屋に寝るのが怖くて、
部屋にはいつもきっちり鍵を掛けなければ眠れなくなった。
30代40代という、人生で一番華やかで充実したはずの時代を、
あなたのせいで暗く苦しく、みじめに過ごしてきた。
子供たちが小・中・高という一番親を必要とした時期に、あなたはいなかった。
いなかったのではなく、女に入れ込みこれ見よがしに醜態を見せ続けた。
それを葬式に誰も来なくて恥をかいた、すごく惨めだったから、
また家族に戻りたいとは。
もう戻れないんだよ。
居場所を捨てたのは、ほかならぬあなた自身だし、私はもうまっぴら。
私は奥のソファに座り、終始無言で真っ直ぐ武雄を見ていたが、
彼はそんな私を一度も見ることもなく俯いたまま、
ひたすら「戻りたい…」と呟いている。
しばらくの沈黙の後、
「いっぱい言うことがあったけど、言いたいことがわからなくなった」
そう言いつつ、ハァーッと一つ、大きなため息をついた。
それからのろのろ立ち上がると、ションボリ玄関を出て行った。

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