私も働いた、働いた …79
田畑修一郎3
「赤城の工房へいらっしゃいませんか」
俵さんは私に何度もそう呼びかけてくださった。
「女性の自立を支援する」お仲間たちからも、お誘いの手紙を頂戴した。
だが私は行かなかった。
行かなかったというより、行けなかった。
まだ次男は大学生で離婚まで間があったから離婚しないままだったし、
なによりも多忙だった。
新聞社では使い勝手がよかったのだろう。
フリーの記者だったが、あれこれ仕事を背負わされた。
登山者のゴミやし尿問題の取材のため富士山へ。(左)
山岳会からの依頼で初心者登山の引率者の一人として南アへ。(右)
ついでに新聞の連載記事にした。

若い記者を休ませたいからと言われて、
大晦日やお正月にも私はカメラを持って町を歩き回った。
宿直しかいない支局で暗室にこもり、写真の現像と紙焼き。
薬品で爪がふやけた。
どんど焼きや花火は夜間の取材になる。
山村の民俗芸能の神楽や「ひよんどり」は、真冬の真夜中。
夏の特集の水辺や秘境の取材には交通の不便さと危険が伴った。
左は、旧富士郡芝川町瓜島のどんど焼き。
集めた竹やお飾りは2トントラック2台分+軽トラック6台分。
30本の孟宗竹の割れる音が闇夜に轟いた。
右は浜松市新居の「手筒花火」

長期連載がいつも紙面を埋めた。在籍していた14年間途切れることなく。
大井川中流域の旧中川根町へ。郷土芸能の「鹿ん舞」をカメラに収め、
篝火がゆらめく神社の境内では、少女たちが踊る「ヒーヤイ踊り」を観た。
すべての取材を終えて大井川鉄道の最終便を、誰もいない駅のホームで待った。
この日懸命に舞ってくれた少年たちももう40代。元気にしてるかなぁ。

毎日が戦争だった。
県内各地の演劇人を訪ね歩き、アーティストに会いに行き、
紀行文を書くために旧東海道を歩き、大井川を海から源流部まで遡り、
川と共存しつつ暮らす人々を訪ねた。
熊の取材には大井川奥地の猟師さんを訪ねて熊鍋をいただいたり、
広島と島根の県境の山村で開催された「世界クマフォーラム」にも出かけた。
左は、調査用の罠にかかり、発信器をつけられた熊。(提供写真)
ほかに、
巣穴で子育て中の熊を撃ったのだろう。頭に銃弾を受けて即死した母熊が、
赤ん坊を胸に抱いている写真があった。赤ん坊は生きていた。
右は林業家と。
「山持さんは金持ちという時代は過ぎたが、
林業は都市の水源を守る重要な仕事」と熱く語った老林業家。
この方は著名な現代書家・柿下木冠氏の父上。

こんなこともあった。
朝日新聞阪神支局襲撃事件と、
それに続いた同新聞静岡支局爆破未遂事件の2、3年後、
私がいた支局に、突然、関西弁の男が入ってきた。
眼光鋭く、全身から異様な威圧感を放っていた。
危険を察知したデスクがとっさに机の下にもぐって隠れたので、
その場にいた女性事務員と私とで対応した。
男は全国版の記事の苦情を地方支局に言いに来た。
「あの記事はなんだ! 朝日のようになりたいかっ!」
右手に下げた紙袋から何が飛び出すかヒヤヒヤした。
男が立ち去ったあと、机の下からデスクが顔を出した。
デスクがデスクに隠れるなんて、シャレにもならない。
女を盾に自分だけ逃げただけでも恥を知れ!と思ったが、
顔を出したとき発した「大丈夫だよ、うちはウ〇ク新聞だから」に、
女二人、思わず、「はァ?」
それを言っちゃァ、オシメーよ。
ともかく事件にならずに済んだが、
私はこの一件以来、関西弁を聞くと、ギクリとするようになった。
支局長はほぼ2年交代で、東京の本社から赴任してきた。
ほとんどが生え抜きだったが、
一人だけ、頭の薄いぶよっとした、いかにも場違いなジイサンがやってきた。
地方でミニコミ誌をやっていたという男で、これがやたら威張った。
無能なヤツほど威張るというけれど、その通りだった。
どうやら私が目障りだったようで、
なにかにつけ「ミスしたら即刻クビですから」と脅す。
あげくにこんな張り紙まで張り出す始末。(下記)
誰が見ても私に当てつけたもので、単なる嫌がらせだとわかっていた。
ある日、支局へ入った途端、このジイサン、鬼の形相で怒鳴った。
「あんたの記事で県庁の偉い役人から抗議を受けた。クビだっ!」
私は笑いながら、「そんなら、私が直接、話をつけてきますよ」と。
帰社後、「役人さん、どうか穏便にと低姿勢でしたよ」と言ったら、
コソコソと局長室へ隠れて、以後、大人しくなった。
こいつは一年ほどでいなくなった。
張り出した年月日は「1998年4月2日」。
私は大声は出さないが、陰にこもるタチだから、いまだに持っている。(笑)


本社から、
「著作権を会社に譲れ」と再三、言われたがこれだけは突っぱねた。
県内版の大半を書かせておきながら、
フリーという名目のまま、一文字5円だなどと生活保護費よりも安く使い、
今度は著作権をよこせとは、人をバカにしやがってと怒りが沸いた。
退社してからも「譲渡しろ」と手紙が来たが無視した。
あまりの労働形態に疑問を持ち、しかるべきところに相談したら、
「新聞社がこんなでたらめを。きちんと契約書を交わしなさい」と叱られたが、
私の立場は弱い。だからあきらめた。
しかし仕事は楽しかった。企画から原稿まで全部、任された。
任されたというより、小規模支局で新人記者ばかりだったから、
腰を据えての長期取材は不可能。そこを私が埋めた。
誰にも口出しされることなく、自由に取材し書きまくった。
名刺一枚でどんな人にも会えた。
沼津市の写真家と。
この写真はご長男が撮影してくれた。

お会いしたアーティストは200人以上。
画廊、アトリエ、劇場と県内くまなく駆け回った。
普段は注目されないアマチュア劇団、70団体ほどを訪ねた。
「身内で細々と活動していたので、こんなふうに取材されるとは」と、
誰もが驚き、喜んでくれた。
でもそのすべてが、私の大きな糧となった。
何人かは鬼籍に入ったが、今も交流が続く人も。
テレビディレクターの息子の依頼で、ン十年ぶりに電話したら、
「お久しぶりです!」と。
覚えていてくれたんです。
胸がいっぱいになった。これが記者冥利というものか。
心に残る人は何人もいるが、
一番思い出すのはシェークスピア研究の第一人者の先生。
すでに大学を退官されて別の大学にいたとき、お訪ねした。
権威をまとわない朴訥な老学者で、
「ごちそうする」と嬉しそうに私を学食へ誘った。
先生はコッペパンとジャムを選んだ。
「これ、おいしいよ。ぼく、いつもこれなんだよ」と。
コッペパンってまだあったんだと思いつつ、私も同じものにした。
支局へ帰って事務員に話したら、フンとした表情でこう言った。
「ああ、その先生の隣りの人が言ってた。庭が草ぼうぼうで迷惑してるって」
私は即、こう言い返した。「だったら草を刈ってあげたら?」
子供のいない高齢の夫婦二人暮らしで、妻は介護施設に入っていた。
「施設の終了時間まで妻のそばにいるのが僕の一番の幸せなんだ」
そう言ってジャムをのせたコッペパンに噛り付いたので、
私も同じように噛り付いた。
ほんのちょっぴりでも、「父と娘」の時間になってくれたら、そう思った。
私生活では神楽があれば見に行き、国指定の盆踊りに参加し、
合間に登山雑誌の原稿を書くために山に登り、本を書き、テレビにも出た。
青春切符と地図だけ持ってローカル線の小旅行にも出かけた。
講演を頼まれて、遠く北海道まで出かけた。
未熟な私に飛び込んできた講演依頼。
大勢の聴衆を前にあがりにあがって…。
あのときの不出来をあの時来ていただいた皆様に謝りたい。
でもあの経験から多くを学び、その後は順調にいきました。

摩周湖にて。
出身校の同窓会の理事にもなった。みんなを歴史散歩に連れて行った。
時には新人記者の代わりに記者会見の席に顔を出し、
勲章受章者のインタビューや社会問題の記事も書いてきた。
取材相手が演劇人なら、伊豆の果てでも県西部の山間地へも行き、
芝居や人形劇を観た。
取材相手がアーティストなら、可能な限り展覧会を観、著作を読んだ。
一晩に2,3冊読んだら、心臓がバクバクしてぶっ倒れた。
画廊で開かれた展覧会とコンサートを取材。
イタリアへ絵の修行に行く友人のために芸大出身の声楽家たちが協力。
私も餞別代わりに絵を一枚買った。

他社から自分の本の取材も受けた。
事前に「本をください」と言われたので送ったが、当日現れた若い記者から、
「ところでこの本には何が書いてあります? 忙しくて読む暇がなかったので」
と言われて、言葉を失った。
年下の当時のデスクから、たばこを買いに行かされた。
カラオケ、冠婚葬祭にも付き合った。
いやだなぁと言いながら、陶酔しております。

仕事が夜間に及ぼうが休日だろうが、私だけ手当は一切出なかったが、
真夜中の選挙報道も手伝った。
局長から「新聞購読の勧誘」を強いられて、
紹介されたおばちゃんの生命保険に入るのと引き換えに契約も取った。
だが、2回目の要請があったとき、
新人記者として赴任してきた女性記者に救われた。
「この会社は正社員でない人に、こんなことまで強制するんですか!」
そんな女性記者の一人とは、今も賀状のやり取りが続いている。
「お元気ですか? お体大切に」と、本当の娘のように案じてくださる。
たった1年しか一緒じゃなかったし、その間、会話はほとんどなかったのに。
きちんと見ていてくださったんだなぁと、またまた胸がいっぱいになる。
朝から晩まで必死で働いた。寝る暇もなかった。
ガン患者だったことなどすっかり忘れた。
疲労困憊して、
「もう人生を終わらせて楽になりたい」と虚ろになっていると、
いつもどこからか楽しいお誘いが…。
知人の遊び場の古民家です。廃村にただ一軒。
仲間が集まって、いろりで鮎を焼いたり蓄音機でレコードを聴いたり。

市井の方から要職にある方までお会いするのだからと、
洋服にはお金をかけた。
ある晩遅くタクシーで帰宅したら、隣家の裏のドアがスーッと開いた。
ドアを細目に開けてそこの主婦がこちらを見ていた。
翌朝、ご近所さんが道端に集まって、聞こえよがしに言っていた。
「ねえねえ、夕べ、男と会ってきたらしいよ」
多忙を極めていたときも、
「山へ連れてって」というご近所さんの要望に応えてきた。
小雨がぱらつくと「こんな日に連れてきて」と文句を言われ、
まだ頂上ではないのに、「疲れたから帰りたい」と言われて引き返した。
当番でもないのに町内会の役も押し付けられた。
それでも悪口を言われる。
「誰もやりたがらないのに引き受けてバカみたい」
思えば子供のPTAの時もそうだった。
自分はいったい、何やってんだろう。
このバカさ加減に自己嫌悪に陥って不眠になった。
バスの中では涙をこらえ、支局に入るときはニコニコ顔で入った。
俵さんからの何度ものお誘いのすえ出かけたのは、
東京での「やきものの個展」だけだった。
東京在住の友人とお訪ねした。

それから俵さんは乳がんになった。
だがそれも克服して、おっぱいを失った女性たちとグループを作り、
「1、2の3で温泉に入る会」を結成。
しかし、10数年後、肺がんになってこの世を去った。
「離婚を、世間やメディアはそれみたことか、
だから女が仕事をすればロクなことはない。
男は仕事、女は家庭。母親が出歩いていると子育ても失敗するぞ、と」
明るい顔を見せつつも苦悩を吐露していた。
そんな俵さんの大きさに比べたら、私など記者とはとても呼べない。
だが、同じ名の新聞社に在籍ということが私を安心させてもいた。
私はこの大先輩の赤裸々な告白と怒りと前向きな姿勢に、
どんなに励まされたことか。
本社から賞もいただいた。

俵さんがこの世を去ってから今年(2022)で14年。
一人、モーツァルトを聴いて声を上げて泣いたあの赤城の家や工房は、
今は深い草に埋もれているという。
あんなにお誘いを受けていたのに、
とうとう赤城の家を見ることも、再びお会いすることもなく終わってしまった。
また後手に、と悔やんだが、でも、それで良かったと思うようになった。
贈られた本や手紙を開くたびに、
そこには、今なお「生きた俵さん」がいるのだから。
還暦を目前にしたとき、新聞社を辞めた。
14年間全力疾走で駆け抜けてきた。疲れた。心に空洞ができていた。
潮時だと思った。
写真を見ると一目瞭然。笑顔がない。もう覇気がないのがわかった。
このあとすぐ、新しい感動を求めてカナダへ出かけた。

俵さんは自著「五十代の幸福」を、
七転八倒していた四十代の私へエールのつもりでくださった。
あれから気の遠くなるような長い年月を歩いてきた。
「お見事でしたよ!」
私が駆け抜けた五十代を、俵さんは天国から笑顔で褒めてくださったと、
私は今も信じている。
ーーー想いあふれて
書き出したら懐かしいあの人この人のお顔が次々現れて…。
うらみつらみ、あれこれを辛抱強くお読みいただき、ありがとうございました。

にほんブログ村
俵さんは私に何度もそう呼びかけてくださった。
「女性の自立を支援する」お仲間たちからも、お誘いの手紙を頂戴した。
だが私は行かなかった。
行かなかったというより、行けなかった。
まだ次男は大学生で離婚まで間があったから離婚しないままだったし、
なによりも多忙だった。
新聞社では使い勝手がよかったのだろう。
フリーの記者だったが、あれこれ仕事を背負わされた。
登山者のゴミやし尿問題の取材のため富士山へ。(左)
山岳会からの依頼で初心者登山の引率者の一人として南アへ。(右)
ついでに新聞の連載記事にした。

若い記者を休ませたいからと言われて、
大晦日やお正月にも私はカメラを持って町を歩き回った。
宿直しかいない支局で暗室にこもり、写真の現像と紙焼き。
薬品で爪がふやけた。
どんど焼きや花火は夜間の取材になる。
山村の民俗芸能の神楽や「ひよんどり」は、真冬の真夜中。
夏の特集の水辺や秘境の取材には交通の不便さと危険が伴った。
左は、旧富士郡芝川町瓜島のどんど焼き。
集めた竹やお飾りは2トントラック2台分+軽トラック6台分。
30本の孟宗竹の割れる音が闇夜に轟いた。
右は浜松市新居の「手筒花火」


長期連載がいつも紙面を埋めた。在籍していた14年間途切れることなく。
大井川中流域の旧中川根町へ。郷土芸能の「鹿ん舞」をカメラに収め、
篝火がゆらめく神社の境内では、少女たちが踊る「ヒーヤイ踊り」を観た。
すべての取材を終えて大井川鉄道の最終便を、誰もいない駅のホームで待った。
この日懸命に舞ってくれた少年たちももう40代。元気にしてるかなぁ。

毎日が戦争だった。
県内各地の演劇人を訪ね歩き、アーティストに会いに行き、
紀行文を書くために旧東海道を歩き、大井川を海から源流部まで遡り、
川と共存しつつ暮らす人々を訪ねた。
熊の取材には大井川奥地の猟師さんを訪ねて熊鍋をいただいたり、
広島と島根の県境の山村で開催された「世界クマフォーラム」にも出かけた。
左は、調査用の罠にかかり、発信器をつけられた熊。(提供写真)
ほかに、
巣穴で子育て中の熊を撃ったのだろう。頭に銃弾を受けて即死した母熊が、
赤ん坊を胸に抱いている写真があった。赤ん坊は生きていた。
右は林業家と。
「山持さんは金持ちという時代は過ぎたが、
林業は都市の水源を守る重要な仕事」と熱く語った老林業家。
この方は著名な現代書家・柿下木冠氏の父上。

こんなこともあった。
朝日新聞阪神支局襲撃事件と、
それに続いた同新聞静岡支局爆破未遂事件の2、3年後、
私がいた支局に、突然、関西弁の男が入ってきた。
眼光鋭く、全身から異様な威圧感を放っていた。
危険を察知したデスクがとっさに机の下にもぐって隠れたので、
その場にいた女性事務員と私とで対応した。
男は全国版の記事の苦情を地方支局に言いに来た。
「あの記事はなんだ! 朝日のようになりたいかっ!」
右手に下げた紙袋から何が飛び出すかヒヤヒヤした。
男が立ち去ったあと、机の下からデスクが顔を出した。
デスクがデスクに隠れるなんて、シャレにもならない。
女を盾に自分だけ逃げただけでも恥を知れ!と思ったが、
顔を出したとき発した「大丈夫だよ、うちはウ〇ク新聞だから」に、
女二人、思わず、「はァ?」
それを言っちゃァ、オシメーよ。
ともかく事件にならずに済んだが、
私はこの一件以来、関西弁を聞くと、ギクリとするようになった。
支局長はほぼ2年交代で、東京の本社から赴任してきた。
ほとんどが生え抜きだったが、
一人だけ、頭の薄いぶよっとした、いかにも場違いなジイサンがやってきた。
地方でミニコミ誌をやっていたという男で、これがやたら威張った。
無能なヤツほど威張るというけれど、その通りだった。
どうやら私が目障りだったようで、
なにかにつけ「ミスしたら即刻クビですから」と脅す。
あげくにこんな張り紙まで張り出す始末。(下記)
誰が見ても私に当てつけたもので、単なる嫌がらせだとわかっていた。
ある日、支局へ入った途端、このジイサン、鬼の形相で怒鳴った。
「あんたの記事で県庁の偉い役人から抗議を受けた。クビだっ!」
私は笑いながら、「そんなら、私が直接、話をつけてきますよ」と。
帰社後、「役人さん、どうか穏便にと低姿勢でしたよ」と言ったら、
コソコソと局長室へ隠れて、以後、大人しくなった。
こいつは一年ほどでいなくなった。
張り出した年月日は「1998年4月2日」。
私は大声は出さないが、陰にこもるタチだから、いまだに持っている。(笑)


本社から、
「著作権を会社に譲れ」と再三、言われたがこれだけは突っぱねた。
県内版の大半を書かせておきながら、
フリーという名目のまま、一文字5円だなどと生活保護費よりも安く使い、
今度は著作権をよこせとは、人をバカにしやがってと怒りが沸いた。
退社してからも「譲渡しろ」と手紙が来たが無視した。
あまりの労働形態に疑問を持ち、しかるべきところに相談したら、
「新聞社がこんなでたらめを。きちんと契約書を交わしなさい」と叱られたが、
私の立場は弱い。だからあきらめた。
しかし仕事は楽しかった。企画から原稿まで全部、任された。
任されたというより、小規模支局で新人記者ばかりだったから、
腰を据えての長期取材は不可能。そこを私が埋めた。
誰にも口出しされることなく、自由に取材し書きまくった。
名刺一枚でどんな人にも会えた。
沼津市の写真家と。
この写真はご長男が撮影してくれた。

お会いしたアーティストは200人以上。
画廊、アトリエ、劇場と県内くまなく駆け回った。
普段は注目されないアマチュア劇団、70団体ほどを訪ねた。
「身内で細々と活動していたので、こんなふうに取材されるとは」と、
誰もが驚き、喜んでくれた。
でもそのすべてが、私の大きな糧となった。
何人かは鬼籍に入ったが、今も交流が続く人も。
テレビディレクターの息子の依頼で、ン十年ぶりに電話したら、
「お久しぶりです!」と。
覚えていてくれたんです。
胸がいっぱいになった。これが記者冥利というものか。
心に残る人は何人もいるが、
一番思い出すのはシェークスピア研究の第一人者の先生。
すでに大学を退官されて別の大学にいたとき、お訪ねした。
権威をまとわない朴訥な老学者で、
「ごちそうする」と嬉しそうに私を学食へ誘った。
先生はコッペパンとジャムを選んだ。
「これ、おいしいよ。ぼく、いつもこれなんだよ」と。
コッペパンってまだあったんだと思いつつ、私も同じものにした。
支局へ帰って事務員に話したら、フンとした表情でこう言った。
「ああ、その先生の隣りの人が言ってた。庭が草ぼうぼうで迷惑してるって」
私は即、こう言い返した。「だったら草を刈ってあげたら?」
子供のいない高齢の夫婦二人暮らしで、妻は介護施設に入っていた。
「施設の終了時間まで妻のそばにいるのが僕の一番の幸せなんだ」
そう言ってジャムをのせたコッペパンに噛り付いたので、
私も同じように噛り付いた。
ほんのちょっぴりでも、「父と娘」の時間になってくれたら、そう思った。
私生活では神楽があれば見に行き、国指定の盆踊りに参加し、
合間に登山雑誌の原稿を書くために山に登り、本を書き、テレビにも出た。
青春切符と地図だけ持ってローカル線の小旅行にも出かけた。
講演を頼まれて、遠く北海道まで出かけた。
未熟な私に飛び込んできた講演依頼。
大勢の聴衆を前にあがりにあがって…。
あのときの不出来をあの時来ていただいた皆様に謝りたい。
でもあの経験から多くを学び、その後は順調にいきました。

摩周湖にて。
出身校の同窓会の理事にもなった。みんなを歴史散歩に連れて行った。
時には新人記者の代わりに記者会見の席に顔を出し、
勲章受章者のインタビューや社会問題の記事も書いてきた。
取材相手が演劇人なら、伊豆の果てでも県西部の山間地へも行き、
芝居や人形劇を観た。
取材相手がアーティストなら、可能な限り展覧会を観、著作を読んだ。
一晩に2,3冊読んだら、心臓がバクバクしてぶっ倒れた。
画廊で開かれた展覧会とコンサートを取材。
イタリアへ絵の修行に行く友人のために芸大出身の声楽家たちが協力。
私も餞別代わりに絵を一枚買った。

他社から自分の本の取材も受けた。
事前に「本をください」と言われたので送ったが、当日現れた若い記者から、
「ところでこの本には何が書いてあります? 忙しくて読む暇がなかったので」
と言われて、言葉を失った。
年下の当時のデスクから、たばこを買いに行かされた。
カラオケ、冠婚葬祭にも付き合った。
いやだなぁと言いながら、陶酔しております。

仕事が夜間に及ぼうが休日だろうが、私だけ手当は一切出なかったが、
真夜中の選挙報道も手伝った。
局長から「新聞購読の勧誘」を強いられて、
紹介されたおばちゃんの生命保険に入るのと引き換えに契約も取った。
だが、2回目の要請があったとき、
新人記者として赴任してきた女性記者に救われた。
「この会社は正社員でない人に、こんなことまで強制するんですか!」
そんな女性記者の一人とは、今も賀状のやり取りが続いている。
「お元気ですか? お体大切に」と、本当の娘のように案じてくださる。
たった1年しか一緒じゃなかったし、その間、会話はほとんどなかったのに。
きちんと見ていてくださったんだなぁと、またまた胸がいっぱいになる。
朝から晩まで必死で働いた。寝る暇もなかった。
ガン患者だったことなどすっかり忘れた。
疲労困憊して、
「もう人生を終わらせて楽になりたい」と虚ろになっていると、
いつもどこからか楽しいお誘いが…。
知人の遊び場の古民家です。廃村にただ一軒。
仲間が集まって、いろりで鮎を焼いたり蓄音機でレコードを聴いたり。

市井の方から要職にある方までお会いするのだからと、
洋服にはお金をかけた。
ある晩遅くタクシーで帰宅したら、隣家の裏のドアがスーッと開いた。
ドアを細目に開けてそこの主婦がこちらを見ていた。
翌朝、ご近所さんが道端に集まって、聞こえよがしに言っていた。
「ねえねえ、夕べ、男と会ってきたらしいよ」
多忙を極めていたときも、
「山へ連れてって」というご近所さんの要望に応えてきた。
小雨がぱらつくと「こんな日に連れてきて」と文句を言われ、
まだ頂上ではないのに、「疲れたから帰りたい」と言われて引き返した。
当番でもないのに町内会の役も押し付けられた。
それでも悪口を言われる。
「誰もやりたがらないのに引き受けてバカみたい」
思えば子供のPTAの時もそうだった。
自分はいったい、何やってんだろう。
このバカさ加減に自己嫌悪に陥って不眠になった。
バスの中では涙をこらえ、支局に入るときはニコニコ顔で入った。
俵さんからの何度ものお誘いのすえ出かけたのは、
東京での「やきものの個展」だけだった。
東京在住の友人とお訪ねした。

それから俵さんは乳がんになった。
だがそれも克服して、おっぱいを失った女性たちとグループを作り、
「1、2の3で温泉に入る会」を結成。
しかし、10数年後、肺がんになってこの世を去った。
「離婚を、世間やメディアはそれみたことか、
だから女が仕事をすればロクなことはない。
男は仕事、女は家庭。母親が出歩いていると子育ても失敗するぞ、と」
明るい顔を見せつつも苦悩を吐露していた。
そんな俵さんの大きさに比べたら、私など記者とはとても呼べない。
だが、同じ名の新聞社に在籍ということが私を安心させてもいた。
私はこの大先輩の赤裸々な告白と怒りと前向きな姿勢に、
どんなに励まされたことか。
本社から賞もいただいた。

俵さんがこの世を去ってから今年(2022)で14年。
一人、モーツァルトを聴いて声を上げて泣いたあの赤城の家や工房は、
今は深い草に埋もれているという。
あんなにお誘いを受けていたのに、
とうとう赤城の家を見ることも、再びお会いすることもなく終わってしまった。
また後手に、と悔やんだが、でも、それで良かったと思うようになった。
贈られた本や手紙を開くたびに、
そこには、今なお「生きた俵さん」がいるのだから。
還暦を目前にしたとき、新聞社を辞めた。
14年間全力疾走で駆け抜けてきた。疲れた。心に空洞ができていた。
潮時だと思った。
写真を見ると一目瞭然。笑顔がない。もう覇気がないのがわかった。
このあとすぐ、新しい感動を求めてカナダへ出かけた。

俵さんは自著「五十代の幸福」を、
七転八倒していた四十代の私へエールのつもりでくださった。
あれから気の遠くなるような長い年月を歩いてきた。
「お見事でしたよ!」
私が駆け抜けた五十代を、俵さんは天国から笑顔で褒めてくださったと、
私は今も信じている。

書き出したら懐かしいあの人この人のお顔が次々現れて…。
うらみつらみ、あれこれを辛抱強くお読みいただき、ありがとうございました。

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コメント
こんにちは
涙があふれてどうしようもなく
ただ泣きました。
憧れと尊敬をもって
2022-11-25 11:22 ちい公 URL 編集
ちい公さんへ
コメントを読んで胸がいっぱいになり、すぐにはお返事ができませんでした。
コーヒーを2杯飲んで、ようやく落ち着いてこれを書いています。
いろいろありましたが、どこかで自分をきちんと見ていてくださっている人は、
必ずいるんですね。修羅場の真っただ中にいると、いやがらせを仕掛けてくる、
そういう人ばかりが目につきますが、落ち着いてみるとそうではない。
だからいじめや困難にぶつかって人生に絶望した人に伝えたいです。
我慢しなくてもいいよ。今いる位置からほんのちょっとずらせば、
別の世界が見えてくるよって。
2022-11-25 16:32 雨宮清子(ちから姫) URL 編集
No title
おおっ、いい記事だなぁ。素敵な仕事をされてきたのですね。
職場は、メチャクチャ「ブラック」ですが(◎_◎;)
新聞社のイメージとはずいぶんかけ離れた世界でした。
デスクがデスクに隠れちゃいけません。
2022-11-27 22:49 torikera URL 編集
torikeraさんへ
言われてみると、そのまんまですね。
仕事自体は興奮と感動で。私一人の世界って感じで。
未知の人に会う、会って話を聞かせていただく、これが本当に楽しかった。
戦争経験のあるご老人をお訪ねしたら、
「遠いところへわざわざお越しいただいてありがとうございます。
でもこんな年寄りの話、本当に価値があるでしょうか」と。
「そのお話こそお聞きしたかったんです」と。
名もない市井の方の話にこそ価値がある、このことが「力石」探しの原点かも。
この支局は今年、撤退しました。
2022-11-28 07:07 雨宮清子(ちから姫) URL 編集