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「雁木」にフォーカスしてみた⑪

小論文
09 /25 2022
関所の厳しさと渡船の危険から、
旅人が湖北の本坂道
(姫街道)の陸路を歩くようになった。

そのため、渡船で潤っていた新居宿は困窮。

そこで、ほかの五カ宿と共同して本坂道の通行停止を幕府に嘆願した。


「東海道新居関所の研究」(近藤恒次 橋良文庫 1969)によると、
「この嘆願を受けて幕府は船の安全航行のため、荒井、舞坂間の中瀬に、
波除の杭を打った。その数5,628本。その航路を大名の一行が
多い時で160隻も渡った」


この杭は波戸といい、
広重の「東海道五十三次之内舞坂・今切真景」に描かれている。
絵では数本だが、実際は5,628本。
広重舞坂
国立国会図書館デジタルコレクションより

江戸の狂歌師で幕府の役人だった大田蜀山人は、
享和と元号が改まった年
(1801)に、公用で江戸から難波(大阪)へ出かけた。

その旅のつれづれに記したのが「改元紀行」

蜀山人は役人だから関所もスイスイ。
新居宿の酒家
(酒屋)に立ち寄り、おいしいと聞いてきたウナギを食べた。

その味、「ことによろし」かったそうで…。

旅籠(はたご)「紀の国屋」の当時のメニューは、
ごはんにみそ汁、アサリのむき身、そしてやっぱり名物のウナギ。


さて、新居といえば有名なのが「遠州新居の手筒花火」です。

これです。
「花(花火)を浴びて男気を示す」新居の男衆です。
参加資格は18歳以上。成人の通過儀礼でもある。
img20220917_10324258 (2)
新居町役場提供。この写真お借りしてすでに27年。おじさん、元気かなぁ。

私が撮影したのがこれ。当時の新聞の県内版はモノクロだった。

img20220918_02463876.jpg

翌年行ったら、若い女性たちがイナセな姿で手筒を抱えていた。
火の粉に浮かんだ彼女たちの緊張した顔が非常に美しかった。


こちらは静岡市郷島(ごうじま)「郷島煙火大会」

手筒花火は孟宗竹に畳表を巻き、その上を荒縄で固く巻いたもの。
節を抜いた竹の中に火薬を詰めるが、その作業が一番難しいという。

この手筒には、最後に底が抜けるものとそうでないものがある。

郷島のは最後に筒の底が抜けてドカンと大きな音がするように、
火薬に「ハネ粉」を入れるそうで、
動けば危険なため、腰を落として安定させた姿勢を保つ。

一方、新居のは底が抜けない作りのため持ったまま乱舞できる。


しかし、どちらも爆発の危険は常にある。

「郷島の手筒」です。
市内最大の火薬量の筒を持った男衆が一列に並ぶ。
巨大な火柱が立ち、火の粉が雨のように降り注ぎ、最後に筒の底が割れて
ドカンとものすごい音と煙が地面を揺るがす。
CIMG1525_2022092211525832e.jpg

新居の男たちは「恐怖が快感に変わり陶酔していく」と表現していたが、
命がけで恐怖の極限に挑む郷島の男たちはあまりにも神々しくて、
声をかけるのもはばかられた。


CIMG1521_20220922120715593.jpg
静岡市葵区郷島

さて、浜名湖です。

地震以前、ここを通った「東関紀行」の作者は、

「南に海潮(遠州灘)あり。漁舟波に浮かぶ。北に湖水(浜名湖)あり。
人家岸につらなれり。湖に渡せる橋を浜名となづく」
と、湖が切れる前の情景を書いているが、


その「岸につらなっていた」人家も、地震でことごとく海中に没した。
だが浜名の橋の跡は長く残っていたという。


蜀山人は輿(こし)を担いでいた者に橋の跡を尋ねたら、
「教恩寺の四辻の向かいに道があって、その先に橋の跡がある」
と教えられた。だが公務の身ゆえ、あきらめて先を急いだ。

そのとき作れる歌。


「いにしえのはまなの橋の跡問えば
           風吹きわたる松のひとむら」


教恩寺の境内です。1995年撮影
img20220918_02463878.jpg
新居町浜名

このときの私のお目当ては、天然記念物の「大イチョウ」

だが行ってみたら、無残な切り株になっていた。
台風で倒れたとのこと。

そこでわたくしメの詠める歌。


「いにしえの寺のイチョウを尋ぬれば
             虚ろな穴を残すひと株」


あ、しまった。話が逸れすぎました。「雁木」でしたね。

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雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。