見えてきた家族の姿…㊿
田畑修一郎2
タオルを持った婦長が部屋を出ていってしまうのを見届けると、
ハツエは打って変わって憎々し気にこう言った。
「フン。人を馬鹿にして。
こういうところって医者に金積むか、医者の知り合いがいるかで、
すごく待遇が違うって言うからね」
ハツエの目がまた私に向けられた。
むくんだ顔がさらに膨張して、今にも爆発するかのようだ。
その顔を私に向けたまま、ハツエはなおも言い続ける。
「ガンのくせになんにもしない人がいるからね。
私なんか医者に金積まなかったから、
あんな新薬の実験台にされちゃったんだ」

ハツエはガン患者の私が、あのつらい抗がん剤治療をしないのは、
医者に金を積んだか、医者に知り合いがいるせいだと言う。
「医者に知り合いがいる」というのは、あたっている。
兄が従兄弟の医者に妹の病気の相談をしたから、
こちらの医師に問い合わせぐらいはしたかもしれない。
だが、それが、
「新薬の実験台から免れた」などというハツエの妄想には、
とても結びつきそうにない。
そんなことを言ったら、抗がん剤治療をしたTさんだって真弓さんだって、
実験台ということになってしまう。
そのとき、ふと思った。
こんなときにこそいるべきなのはハツエの夫なのに、
何故、彼はいないのか。
同室の患者を犠牲にして自分は逃げている、そうとしか思えなかった。

思えば今までその夫が、
ハツエのベッドの傍らに座っているのを見たことがない。
「エレベーターの中で主人がね、お前は可愛い女だねって言って、
チューしてくれたの」とハツエは嬉しそうにみんなに自慢していたが、
あれもまた、彼女の妄想だったのだろうか。
だとしたらこの人もまた私同様、置き去りにされた妻なのか。
そう思ったら哀れにも思えて、
私はハツエの憎悪に燃えたその目を真っすぐ受け止めた。
そう受け止めるだけの余裕が、いつの間にか私にはできていた。
現実から逃げてはいけない。本質を見誤ってしまうから。
現実を直視すること。
そこから出発しなければ問題は解決しないのだから。
それから間もなく、ハツエの髪が抜けだした。
「こんなに抜ける」
片時も放さないヘアブラシを見ては、怯えた声をあげている。
その声が次第に小さくなり、ヘアブラシがくず入れに投げ込まれたあと、
ハツエは頭にナイトキャップを被り、一日中、ベッドに潜るようになった。

その年の大晦日、私は退院することになった。
そんなある日の早朝、ふいに長男の大介が病室の外から声を掛けてきた。
細目に開けたドアのすき間から、大介の困惑しきった目が覗いていた。
病院はまだ閉まっているはずなのに。
私は急いでベッドから抜け出すと、そっと廊下へ出た。
「守衛さんに入れてもらったんだ。
お父さんがね、緊急に電話をくれって」
大介は白い息を吐きながらそう言った。
まだお日さまも出ないこの凍てついた中を、
懸命に自転車を走らせてきたのだろう。
その大介の顔が、固く冷え切っていた。
少し痩せてもいた。
母のいない1カ月間を、弟と二人で過ごしてきた。
それだけでも充分重荷なのに、東京にいる父はその我が子に、
「お母さんに電話を掛けろと言ってこい」と命じたというのだ。

それでも私は別の理由を探した。だって、いくらひどい父親でも親なんだもの。
よほどの緊急事態が起きたに違いない。そうでもなければ、
我が子をまだ明けきらない冬の道へ放り出すなんてことをするはずがない。
私は胸騒ぎを覚えて、そのまま公衆電話へ走った。
夫はすぐ電話に出た。

「あのさぁ」
気抜けするほどのんびりした、どこか投げやりな声が聞こえてきた。
「あのさぁ。金ねえんだよ。入院費、そっちでなんとかしろよな」
これが緊急を要したことなのか。あまりにもひどすぎる。
絶句したまま固まった私にイラついたのか、
「おい! 聞いてるのか!」と、声を荒げた。
私はカッと頭に血が上ってますます声が出ない。
受話器から何かを食べている音がする。
「なんとかしろといったって…」
やっとの思いでそう言うと、さもバカにしたような返事が返ってきた。
「はぁ? 貯金ぐらいあるだろうが」
「あるわけないじゃないの。あなたからの送金、ずっと滞っていたし…」
「だったら実家から都合してもらえばいいじゃないか」
また、実家から借りろという。
絶望という部屋に閉じ込められたような気がして、うまく息が吸えなくなった。
そんな私に追い打ちをかけるように、武雄が言い放った。
「病気になったのはお前なんだし、だから入院費は自分で何とかしろよな」
そう言い捨てると、ガチャンと電話を切った。

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ハツエは打って変わって憎々し気にこう言った。
「フン。人を馬鹿にして。
こういうところって医者に金積むか、医者の知り合いがいるかで、
すごく待遇が違うって言うからね」
ハツエの目がまた私に向けられた。
むくんだ顔がさらに膨張して、今にも爆発するかのようだ。
その顔を私に向けたまま、ハツエはなおも言い続ける。
「ガンのくせになんにもしない人がいるからね。
私なんか医者に金積まなかったから、
あんな新薬の実験台にされちゃったんだ」

ハツエはガン患者の私が、あのつらい抗がん剤治療をしないのは、
医者に金を積んだか、医者に知り合いがいるせいだと言う。
「医者に知り合いがいる」というのは、あたっている。
兄が従兄弟の医者に妹の病気の相談をしたから、
こちらの医師に問い合わせぐらいはしたかもしれない。
だが、それが、
「新薬の実験台から免れた」などというハツエの妄想には、
とても結びつきそうにない。
そんなことを言ったら、抗がん剤治療をしたTさんだって真弓さんだって、
実験台ということになってしまう。
そのとき、ふと思った。
こんなときにこそいるべきなのはハツエの夫なのに、
何故、彼はいないのか。
同室の患者を犠牲にして自分は逃げている、そうとしか思えなかった。

思えば今までその夫が、
ハツエのベッドの傍らに座っているのを見たことがない。
「エレベーターの中で主人がね、お前は可愛い女だねって言って、
チューしてくれたの」とハツエは嬉しそうにみんなに自慢していたが、
あれもまた、彼女の妄想だったのだろうか。
だとしたらこの人もまた私同様、置き去りにされた妻なのか。
そう思ったら哀れにも思えて、
私はハツエの憎悪に燃えたその目を真っすぐ受け止めた。
そう受け止めるだけの余裕が、いつの間にか私にはできていた。
現実から逃げてはいけない。本質を見誤ってしまうから。
現実を直視すること。
そこから出発しなければ問題は解決しないのだから。
それから間もなく、ハツエの髪が抜けだした。
「こんなに抜ける」
片時も放さないヘアブラシを見ては、怯えた声をあげている。
その声が次第に小さくなり、ヘアブラシがくず入れに投げ込まれたあと、
ハツエは頭にナイトキャップを被り、一日中、ベッドに潜るようになった。

その年の大晦日、私は退院することになった。
そんなある日の早朝、ふいに長男の大介が病室の外から声を掛けてきた。
細目に開けたドアのすき間から、大介の困惑しきった目が覗いていた。
病院はまだ閉まっているはずなのに。
私は急いでベッドから抜け出すと、そっと廊下へ出た。
「守衛さんに入れてもらったんだ。
お父さんがね、緊急に電話をくれって」
大介は白い息を吐きながらそう言った。
まだお日さまも出ないこの凍てついた中を、
懸命に自転車を走らせてきたのだろう。
その大介の顔が、固く冷え切っていた。
少し痩せてもいた。
母のいない1カ月間を、弟と二人で過ごしてきた。
それだけでも充分重荷なのに、東京にいる父はその我が子に、
「お母さんに電話を掛けろと言ってこい」と命じたというのだ。

それでも私は別の理由を探した。だって、いくらひどい父親でも親なんだもの。
よほどの緊急事態が起きたに違いない。そうでもなければ、
我が子をまだ明けきらない冬の道へ放り出すなんてことをするはずがない。
私は胸騒ぎを覚えて、そのまま公衆電話へ走った。
夫はすぐ電話に出た。

「あのさぁ」
気抜けするほどのんびりした、どこか投げやりな声が聞こえてきた。
「あのさぁ。金ねえんだよ。入院費、そっちでなんとかしろよな」
これが緊急を要したことなのか。あまりにもひどすぎる。
絶句したまま固まった私にイラついたのか、
「おい! 聞いてるのか!」と、声を荒げた。
私はカッと頭に血が上ってますます声が出ない。
受話器から何かを食べている音がする。
「なんとかしろといったって…」
やっとの思いでそう言うと、さもバカにしたような返事が返ってきた。
「はぁ? 貯金ぐらいあるだろうが」
「あるわけないじゃないの。あなたからの送金、ずっと滞っていたし…」
「だったら実家から都合してもらえばいいじゃないか」
また、実家から借りろという。
絶望という部屋に閉じ込められたような気がして、うまく息が吸えなくなった。
そんな私に追い打ちをかけるように、武雄が言い放った。
「病気になったのはお前なんだし、だから入院費は自分で何とかしろよな」
そう言い捨てると、ガチャンと電話を切った。

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