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御師の村

富士塚
05 /22 2022
富士山の話の途中で、「縄文時代」に入り込んじゃいました。

なんでかなァとつらつら考えたら、これでした。

徳川幕府を倒したイギリスかぶれの若造たちが、
「文明開化」と称して廃仏毀釈をやり、縄文の時代から続いてきた習俗を、
「淫らな風習」「邪悪な教え」として大弾圧した。

その禁止されたものの一つに修験があったからで、
胸に金ピカの勲章をつけた成り上がり「名誉白人」が、
こうした「日本の心」を捨てさせたことに、カチンときたからでした。


廃仏毀釈で首を斬られた仏像を見るたびに、
なんでこれが「文明開化」なんだと。(怒)

山中にあった首を斬られたお地蔵さんです。
台石に「若者□」とありますから、若者組・若衆組で奉納したものでしょう。

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まあ、いつの世も時代は先を急ぐんだから仕方ないんですけど。

明治新政府にアイディンティティを否定された庶民は、
お咎めを恐れて石棒や女陰石を土中に埋めた。

富士講信者を迎え入れていた御師(おし)も、
明治四年の「御師職禁止令」で職を失った。

講の一行を出迎える御師(左)と道者(信者・講員)たちです。
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「富士詣」仮名垣魯文

白装束に金剛杖を持ち、講印をつけた菅笠をかぶった道者たちは、
道中もたくさんのお金を落としてくれる大事なお客様でした。

掲げているのは「マネキ」という講旗です。

こちらは山梨県「吉田口」の御師だった「外川家」の屋敷内です。

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「富士山御師の歴史的研究」高埜利彦編 山川出版社 2009の
執筆者・伊藤裕久氏の「御師町の街並と住居」からお借りしました。

御師は百姓と神職の中間的身分だったそうで、
富士山登山口に宿坊を構え、信者たちの登拝案内と檀那場へのお札配り、
武家の代参などを生業にしていたそうです。

それが明治4年の「御師職廃止令」でこの特権を失います。

「廃止令」のその後を同書の執筆者・谷本晃久氏が、
河口湖畔の御師集落「川口」を例に述べています。

こちらは葛飾北斎の「富嶽三十六景」のうち、
河口湖畔から見た富士山と逆さ富士を描いた「甲州三坂水面」です。

国会図書館
国立国会図書館デジタルより

この絵を見ながら、私は川口村はここかなあとか、この大きな屋根は
寺ではないのかなどと謎解きをやりましたが、ついにギブアップ

これは地元の方に聞くしかないと、早速、山梨県河口湖町へ問い合わせ。

すぐにとびきりのお返事が来ましたよ
葛飾北斎のこの絵の謎解きをされている方のHPをご紹介くださったんです。

これが面白いんです。

私は右端の村が「川口村」かと思っていましたが、とんだ方向違いでした。

「葛飾北斎の富士山の場所を特定する謎解き」

さて、謎解きのあとは、
「御師職廃止令」で生業を失ったあとの「川口村」についての話です。

「富士山御師の歴史的研究」の中で、谷本氏はこう語っています。

「明治の変革は御師集団の生業を揺るがせることになった」

とはいえ、特権を失ってもすぐ衰退したわけではなかったようで、

「大正期の旅行案内を見ると、吉田口は変わらず繁栄していたが、
交通の不便な川口はふるわず、その差は歴然としていた」


「しかし、それをもって
従来の学者の川口御師に対する「退化の百年」という位置づけは、
果たして妥当だろうか」と疑問を呈し、

「挫折を伴いつつも、様々な可能性を模索していった川口御師集団の近代化を
評価し直すべきではないか」
と。

「尊王攘夷の東征軍に参加して、官吏への道を模索し、
御師から祠官、禰宜への転身をはかり、宿坊を宿屋経営へと経営転換。

そして、生業を維持するため、富士講系教派神道と結んで、
明治20年ごろまで御師職を継続させてもいた。

御師の教養だった俳句、和歌、漢詩の素養を生かして、
教導職(教師)になったり、役場の官吏、養蚕業などにもなった」


「御坂釈迦ケ岳」(1641m)の頂上に坐(いま)すお地蔵さんです。
誰が着せたのか、きれいな服に身を包み仲良く下界を見下ろしていました。

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山梨県笛吹市芦川町

下は川口村(現・富士河口湖町)の中心的存在だった
「河口浅間(あさま)神社」の紹介URLです。

「天空の遥拝所」

谷本氏はその一例として、この村の御師の家に生まれ、
のちに作家になった「中村星湖」をとりあげている。

「星湖は母から、江戸の聖堂で学び、
近郷きっての学者であった曽祖父のことを聞かされ、そのあとこう言われた。

「お前も学問に精出して、偉い者になれ」

星湖少年は衰退する故郷を出て、甲府中学から東京の早稲田大学高等予科へ。
卒業後は東京に留まり、教師になるものの、

第二次大戦末、故郷へ帰り公職についてふるさとの近代化へまい進、
90歳でこの世を去った。

御師たちは、学問や医業を生かし志向性を持って、
主体的に近代化へ参入していった。決して退化ではなかった」
と。

私は富士五湖周辺の山もよくほっつき歩きました。

たき火でアジの丸干しを焼いていたところを写真に撮られました。(#^.^#)

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山梨県の富士山周辺の山は一種独特の雰囲気がありました。

山中の廃屋の軒下に子供の水筒が下がっていたり、墓が放置されていたり。
まむしの養殖場や当時騒がれていた宗教の一団に遭遇したことも。
あの痛ましい行方不明があった道志の山も歩きました。

富士山をとすれば、その周辺の山々はのような…。

でも、山のテッペンから見下ろした湖の美しさは、また格別でした。

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ブログ「ITOWOKASI」のplateauさんの河口湖の美しい雪景色をどうぞ!

「雪景色、忍野」

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コメント

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No title

山を歩いていてアジの丸焼きのにおいがしてきたら、お腹が随分減るだろうと思いました(笑)
僕は山ではまるっきり軽量なレトルトの食材しか持ち歩かないので、何だか羨ましい気持ちになりました。
僕も明治維新の宗教政策に関しては否定的なのですが、どうも歴史はこのような宗教弾圧を経て成り立つようですね。
それでも富士が愛されているのは、そもそも目に見えない神様ではなく、大きな姿をいつも見せてくれる可愛らしいいで立ちの山で、それを愛する人の心までは変えられなかったからでしょう。

たいやきさんへ

低山徘徊のときは、山頂での食事が楽しみでした。
すき焼きやてんぷらをやったこともあります。
単独のときはおにぎりぐらいでしたが、グループのときはこれが楽しみで、
特に中年独身者は「山での食事の方が豪華だ」と喜んでいました。

時代が変わる時は過激なことをしないと変われないのでしょうが、
でもそれまでの風習が明治維新を境に寸断されてしまったのが、
ちょっと残念過ぎます。
それ以前もいいことばかりではなかったのでしょうが、
ただ明治政府の富士講への弾圧は苛烈を極め、
そのひどさは江戸時代の比ではなかったそうです。

確かに富士山は特異な山ですね。
高校生の頃は通学の電車内からいつも富士山を眺めていましたが、
毎日見ていても全然飽きないのです。
不思議な山だなあとつくづく思いました。

雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。