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アーティストさんからの手紙⑭

私が出会ったアーティストたち
04 /12 2024
24年前私は、素敵な親子さんにお会いした。
父の名は牧野宗則、娘の名は風鈴丸。共に木版画家。

お二人は平成10年、静岡県裾野市の市民文化センターで「親子展」を開催。
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「親子展」の画集。主催は裾野市。

画風は大きく違うけれど、
その底流に流れているのは共に湧水のような清冽さ。

私はこんなことを思ったものです。


水の湧き出る穴から潜り込んで、
富士山のどこまでも続く地底の水の道を魚になって泳いでいく娘と、
湧き上がる水に半身を浸して、刻々と変化する富士山を眺めている父。

そんな父と娘のお話です。まずは父から。

ーーーーー

牧野宗則(まきの むねのり) 版画家(木版)

静岡市生まれ

牧野氏は独学で、彫りに10年、摺りに10年を費やし、
江戸時代の伝統浮世絵木版画を習得。
それを土台に創作版画への道を開拓した稀有の版画家です。


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平成三年、東京・渋谷の太田記念美術館で、
「北斎・広重からの華麗なる展開 牧野宗則木版画展」という
現存作家では初めてという個展を開催した。

※太田記念美術館 浮世絵専門の私設美術館。

これは現代木版画と浮世絵との接点を、
牧野氏の作品を使って学問的に検証するための展覧会で、
このとき氏は副館長からこう言われたという。


「牧野さんは日本の伝統版画のすべてを吸収するという、
北斎や広重にはできなかったことをやっているのだから、
本当は”展開”というあいまいな表現ではなく”発展”としたかった。
でも浮世絵美術館としては北斎・広重より牧野がいいとは言えないので」


美術館の牧野氏への期待が、いかに大きかったかわかります。

「外国人がぼくの版画を見て”何時代の人?”って聞いてきたんです」
と、ちょっと照れくさそうに笑った。


「自分がいなくなった後、ここに一点でも収蔵されたらいいなと思っていたら、
これまでの全作品と今後のものもすべて収蔵してくださるんだそうです」


「赤い風」1990 ed.180 49.3 ×742cm
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「風鈴丸・牧野宗則 親子木版画展」画集より

「浮世絵に出会ったのは中学三年生の時。展覧会場で実技を見たんです。
これはすごいと。それで毎日通って閉店までいたら職人さんが、
”そんなに好きならやってみるか”と、
広重の”さった峠”を摺らせてくれました。うれしかったですね」


「高校生になってからはこづかいを貯めて、職人さんがいる京都や
東京へ通いました。そこでみなさんがいろいろ手ほどきをしてくれて…。
高校三年間、ずっと通い続けました」

「伝統版画の技術は職人さんたちが持っていて、
美大などで教える人がいなかったんです。
ただ職人さんは絵を描く人、彫り師、摺り師と分業なんですね」

35歳の時、浮世絵版画のプロとしてスタートした。


「東京と関西で個展を開いたら来るのは職人さんばかり。
そこで初めて絵、彫り、摺りの全工程を一人でやる作家は、
ぼくのほかにはいないことを知りました」


「人の心に響く作品って何だろうっていつも自分に問いかけ、
作品の判断は見てくださる人の反応だけとずっと思ってきました。
だからグループに所属することもコンクールも私には必要なかった。
パフォーマンスになるコンクールは、
自分自身に対して不誠実な作品になりますから」


その後、「有明海シリーズ」に取り組んだ。
九州の画廊から「有明海を生命の輝きとして現わせないか」
と言われたのがきっかけだった。


「光る道」1985 ed.125 49.3 ×35.3cm
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同上

「色の深みや光の輝きの具合、そういう形で現わし得ないものを、
版画で表現しようとチャレンジしていたときだったので、
光や色が自分の言葉になり得るんだったらと…。
有明には15年通いました」


「小学生の時、病気の父を慰めようと、
安倍川などをスケッチしてみせたんですね。その時の父の喜ぶ様子を見て、
”元気出してね”と言う以上に、
絵は生きていく上で必要なものだと思ったんです」


「今、ぼくは自然と向き合い、
その中に神々しさや安らぎ、厳しさなどを感じながら作品を創っていますが、
子供のころのそんな思いが原点になっているような気がします」


1997年、父と娘は合作「STAND BY ME」(下の版画)を完成させた。
別々に活動を続けるふたりの作家が、
ひとつの作品を同じ画面で制作するという大変めずらしい作品です。

これは風鈴丸さんのお姉さんの結婚祝いに作ったもので、
中央の”希望に満ちた富士山”を父・牧野が、両端の
両端の姉と妹と、いつも傍らにいる猫と詩を娘・風鈴丸が制作した。


「皆がいつも笑って暮らせますように」と祈りつつ摺りあげたそうです。
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静岡市はこの作品を採用して、下敷きとして配布した。
で、なんと裏に書かれていたのは、結婚を祝うという作家さんの意図とは違う
税務広報課の「税金払ってね」の話。


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「税金さん、STAND BY ME(いつも私のそばにいて)
だなんて、お役所さん、冗談キツくない?
(笑)

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アーティストさんからの手紙⑬

私が出会ったアーティストたち
04 /09 2024
小林由季(こばやし ゆき) 美術家

静岡県焼津市生まれ

焼津のなまり節屋の長女として生まれた。
「芸術なんてのは何だかわからねぇ」。そう言っていた父が倒れた。

集中治療室に横たわる父親の体から、管を伝って線や数字がモニターに
流れていく。それを見た小林さんは一人の表現者として「命の線」を
自分の指先から描くことを思い立つ。

針金で小さな人形を作り、その人形の一体一体を集合体にした作品を制作。
この作品は「柳屋ギャラリー大賞」を受賞した。

そのあとに作ったのが、
綿棒の集合体による
「エモーショナル・ホワイト・ポジション」
その2年後に「体中の細胞たち」11点を制作した。

「すべて父の闘病生活と自分の病院勤務の中から生まれたテーマなんです」

「体中の細胞たち」と小林さん。
ゼロ号サイズの中にどれだけの可能性を込められるかを追及した作品。
綿棒、薬のカプセル、肌着などを使った。
体中の

「二十歳の時、書に出会ったんです。トンカツ屋で。(笑)
いいなあと思って、家でいたずら半分に書いていて、
それから桜井烏石先生の所へ通い始めました。

そこで自分の表現したいものはコレだったんだ、人間ってこんなに自由で
いいんだと気づかされて、学生時代コチコチになっていたものがやっと
壊れ始めたんです。あとでわかったんですが、トンカツ屋で見た書、
桜井先生の書だったんですよ。
(笑)

「VOICE-沈黙の声」 鳥の子紙。100×200cm
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小さい頃から絶えず言葉が体中を駆け巡っていたという小林さん。
「だから何かの形(作品)で吐き出さずにはいられなくなるんです」

取材の最後に小林さんから、
「今、お腹に赤ちゃんがいるんです」と打ち明けられた。
翌年の賀状「ゆめ」に、
「12月21日、女の子を出産しました」と書かれていた。

「自分はずっと一人で生きていくものと思っていたんです。
でも自然な形で子どもが出来て…。
今までは”テーマを探してがんばってがんばって”だったけれど、
今はなにげない日常の中でごく自然に言葉が生まれてくるようになりました」

あれから24年。
お母さんになった小林さんの力強いご活躍、ネットで拝見しております。

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ーーーーー

クレイグ・ハンセン 演奏家(パイプオルガン・チェンバロ・ピアノ)

アメリカ・インディアナ州生まれ

芸術プロデューサーの妻の故郷・富士市へやって来たのが、1986年。
私がお会いしたのは来日13年目の時。
自前の「ハウスゾンネンシャイン音楽堂」で、お話をうかがった。

「ハウスゾンネンシャインはドイツ語で、太陽の輝く家と言う意味です。
娘の名前の”太陽”
(たいよう)にちなんでつけました」と、ハンセンさん。

娘の太陽さんとリハーサル中のハンセンさん。1999年
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音楽堂の真正面に1910年フランス製のパイプオルガンがある。
鍵盤が一段しかなくて、同じ鍵盤で二つの音色を弾くという珍しいもの。
弦のような優しい音色だとか。


「あのアルベルト・シュバイツアー博士、この人はバッハ研究の第一人者で
オルガニストでもありました。その彼の古い録音を聴いたら、
このパイプオルガンと同じ音色だったんです」


ハンセンさんからいただいた礼状。
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「日本には立派なパイプオルガンがたくさんあるのに、
ただ置いてあるだけで弾く人もいないし弾かせてもくれない。
いつも弾いていないとパイプにほこりが入って錆びてしまうのに」

「日本はなんでも欧米の外側の格好だけを取り入れているので、
中身が伴っていない。音楽も同じ」

「西洋の音楽はキリスト教から生まれたものだから、本当に理解するには、
本をいっぱい読んで背景にある歴史を知る必要がある」
とハンセンさんは力説する。


「それに今のピアニストの90%はうるさ過ぎます。日本人は大きい音、
早く弾くことがいいことだと思っているけど、
音楽はサーキットではありません。
芸術は自分の心を伝えるものだから”急いで急いで”はダメ」

手厳しいが真実。

クレイグ

「夫をここに連れてきて本当によかったのだろうかと思うことがあります」
という妻に、ハンセンさんは、
「富士山の近くだし、ぼくはここが好き。
これからもコンサートを続けていきます」と、さわやかな笑顔を見せた。


「ハウスゾンネンシャイン音楽堂」

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アーティストさんからの手紙⑫

私が出会ったアーティストたち
04 /06 2024
重岡健治(しげおか けんじ) 彫刻家(木・ブロンズ・大理石)

旧満州ハルビン生まれ

重岡健治氏の作品です。
「遊」(左)、「祈る」(右の中央)「横たわる像」(後方右)=座れる彫刻、「家族」(後方左)いずれもブロンズ。
「重岡健治作品集」撮影・武智幹夫 1999より
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静岡県伊東市のなぎさ公園

武智幹夫 伊東市生まれの写真家。
      重岡氏をローマ留学時代から撮り続けている。

私が初めて重岡氏にお目にかかったのは、取材の3年前のことだった。
そのときのことを記事にこう書いた。

「芸術家は気難しく、彫刻はいかめしい。
さらにアトリエとなれば余人を寄せ付けない聖域…。
そういう私の固定観念を吹っ飛ばす出来事があった。
三年前、「伊豆高原アートフェスティバル」に出かけたときのことだった。


著名な彫刻家の重岡さんも、期間中アトリエを開放していると聞き、
恐る恐る足を踏み入れた。すでに大勢の来訪者がいて、
木彫やブロンズ作品が林立する中を勝手気ままに歩き回っていた。


作品を壊したりしないかハラハラしながら声のする方を見ると、
なんと作家自身がいて、
素人のどんな質問にも一生懸命対応しているではないか。
信じられない光景だった」


新作の木彫作品「三美神」と重岡氏
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それから3年後、改めて取材させていただいたが、
そのとき、こうおっしゃったんです。

「彫刻は見るだけではなく、手で触って味わう芸術なんです」

この言葉に私は衝撃と感動を受け、重岡氏の大きな人間性に包まれて、
取材していることを忘れて話にのめり込んだ。

「彫刻って、みなさんにあまりわかってもらってないんですね。
それで道具を見て貰ったり、
制作過程を明らかにすることで理解していただけたらと思いまして…。

彫刻は触ってはいけないとされていますし、
鳥のフンで汚れても掃除もしないから余計親しみが持てなくなるんですね」


「20年ほど前、京都の美術館で娘が彫刻に触って叱られたんです。(笑)
じゃあ、自分が触れる彫刻を造ろうと。
そこで触れる彫刻を造るにはどうすればいいか考えました。

壊れないもの、子供がぶら下がっても危険でないものをと考えていくうちに
どんどん単純化していき、”全部つながっている”という彫刻ができました。
解剖学的に仕事をしていますので、目の見えない方たちが
手で彫刻の線を辿っていくと感じていくものがあるといいます」


確かに重岡作品は一つの作品が切れ目なく「全部つながっている」
左は、モニュメント「家族」1977 ブロンズ・テラゾー 450×680×200cm
右は「青春の詩」1996 木彫 220×80×46cm
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重岡氏にいただいた「武智幹夫写真集Ⅵ」「重岡健治作品集」の表紙

「視覚障害の方たちには、手で彫刻の線を辿って鑑賞していただきたい」
重岡氏はそういう思いも込めて彫刻展を開いていた。


氏を撮り続けてきた武智氏は、その個展会場での感動を作品集にこう書いた。

「1984年5月17日、静岡市民会館の個展会場に静岡盲学校の生徒40人が
招待された。生徒たちが木、ブロンズ、大理石などを指先や手のひらで
一点一点確かめながら鑑賞する姿に、
私は熱い感動を憶えながらシャッターを切った」


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重岡氏が「解剖学的に仕事を」とおっしゃったとき、アッと思った。

解剖学の本を読んでいた時、イタリアルネッサンス期の彫刻家は、
「人体の解剖に立ち会い、直接骨格や筋肉などに触れていた。
だからあんなに精巧な裸体彫刻が出来た。
解剖医学者が彫刻の筋を辿っていくと、人体と同じ構造になっている」

そう書かれていた。


重岡氏はそのイタリアで7年間、エミリオ・グレコに師事。
当然、「解剖学的」な教えも受けたはず。
だから「解剖学的に仕事をしていますので」とおっしゃったんだ、と納得した。

エミリオ・グレコ イタリアの代表的現代彫刻家

グレコと重岡氏 武智幹夫氏撮影
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「彫刻に触ってもいいよ」とお聞きした時、ほかでは絶対無理だと思った。
だって咳払い一つしても展示場に座っている係員から鋭い目で睨まれるし、
じっくり見ていると「立ち止まらないで」と言われてしまう。

だから「触る」なんて不可能だと思っていたら、
限定した作品のみ「触ってよい」と書かれた札のある美術館があって、
おおーっ、重岡効果だ!と思わずニヤリとしたことがあった。

「でも触るということにみなさん慣れていないから、
なかなか触ってくれない。
(笑)
そこでいやでも座れるようにベンチを造りました。(笑)
それから蛇口をつければ水を飲むときいやでも触るから水の出る彫刻を。
ブロンズの栓は誰かに持っていかれてしまいましたけど。
(笑)

重岡氏は10歳の時、家族と共に満州から引き揚げてきた。
一家は熱海の山奥に入植して農業を始めたが、暮らしは楽ではなかった。


「家計を助けるために薪を割り炭を焼いて町へ売りに行きました。
高校生のとき、玩具商から勧められて竹で最初は鶯笛を作り、
鹿や猿なんかも作って京都や奈良、広島、九州まで売り歩きました。


京都の円山公園にいたとき、雪が降ってきたので美術館に入ったら、
圓鍔勝三先生の展覧会をやっていたんです。
作品に魅かれて高校を卒業するとすぐ弟子入りしました。22歳のときでした」

圓鍔勝三(えんつば かつぞう) 広島県出身の彫刻家。
 「圓鍔勝三彫刻美術館」 

圓鍔氏と重岡氏。武智幹夫氏撮影
圓鍔氏と

「その後、グレコの展覧会を見たら、またまたその作品に魅せられて、
それでイタリアへ行こうと…。
費用を捻出するために、ものすごく働きました。


イタリアにはトータルで10年ほど。とにかくお金を使い切るまでいました。
あんなに長いこといたのに、
なんでイタリア語しゃべれないのっていうくらい彫刻一筋でしたね。
(笑)

「木の多くはこのあたりのクスノキを使っています。
宅地造成や道路拡張で切られ捨てられた木ですが、それをもう一度
彫刻として生かしたくて…」


制作中の重岡氏
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武智幹夫氏撮影

「木でもブロンズでも”大地より生まれた命”。
愛と祈りを彫るのが私の仕事だと思っています」


大事な制作時間を割いて、有意義なお話をお聞かせくださった。
新聞社の名刺がなければ絶対こういう機会はなかった。
ブラック待遇
(笑)のしがないフリーランスライターの私でしたが、
このときばかりは会社に感謝しましたです。
(笑)

そして今でも忘れられないのは「彫刻に触ってもいいよ」という言葉です。

「愛と祈りを彫る」

それを体現されている方だと心底思いました。


今年88歳。
毎年開かれる「伊豆高原五月祭」(伊豆高原アートフェスティバル)に、
今も変わらず参加され、
アトリエや庭を開放してみなさんを招じ入れているそうです。

27年前のアートフェスティバルで見たあの光景が甦り、胸が熱くなりました。

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アーティストさんからの手紙⑪

私が出会ったアーティストたち
04 /03 2024
柿下木冠(かきした ぼっかん) 現代書家

静岡県榛原郡中川根町(現・本川根町)生まれ

昨年、「喪中」の報せをいただいて呆然としてしまいました。
10月に柿下先生、亡くなられてしまって…。
元気いっぱいだったし、
先生にはそういうことは起こらないなんて思い込んでいましたから。


初めてお会いしたのは2000年6月
その時の記事がこれです。


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この時60歳。
すでに毎日書道会、独立書人団などの要職にある書道界の重鎮で、
作品はシカゴ美術館やジョスリン美術館など国内外に収蔵。
のちにオマハ市名誉市民にもなった。


新聞掲載に対してのお礼の手紙です。
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「木冠」の号は師の手島右卿氏(昭和の三筆)が命名。

「木」はすべて(喬木、灌木)の総称であり、
墨痕が木に三分ほど染みこんだほど筆力があったという中国の書家、
王義之の故事「入木道」
(じゅぼくどう。書道の異称)の木でもあること。
そして昭和初期の政治家・犬養毅の号「木堂」の木をも指す。
この三つがからまって生まれたのが「木冠」だという。

「重い名前です」と柿下さん。


柿下氏は大井川上流左岸の、そのまた支流・河内川の一番奥の、
戸数わずか5軒という山村に生まれた。
家は代々林業で、御父上は確固たる哲学を持った立派な林業家でした。

「蛇口をひねれば出る水も水源に木を植え育てる者がいればこそです。
都会のみなさんにはぜひこのことをご理解いただきたいものです。
山村に人がいなくなることは、水道の管理者がいなくなることです。
ぜひ、川の下流に立って上流のことに思いを馳せてください」

1993年、若き林業家をお訪ねした時、山から下りてきたご老人がいた。
それが柿下氏の父・柿下萬寿雄氏だった。このとき85歳
御子息の柿下氏を知る7年前に、私は御父上と会っていたことになります。

※私事で恐縮ですが写真の私、痩せていて自分でもびっくり。このとき50歳。
 長かった夫からのハラスメントが終わりに近づいた頃。苦労しましたです。

柿下氏の取材からほどなく、萬寿雄氏は跡取りのご長男を亡くされて…。
木冠先生宅へお花をお送りしたら、悲痛な声で「ありがとう」と何度も…。
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号の由来をお聞きしたとき、思ったんです。

三つの「木」からなる「木冠」の要素の一つである
「木はすべて
(喬木・灌木)の総称」の「木」には、
ご自身が育ち、御父上が心血を注いで守った山の命だけではなく、
この父の崇高で強靭な精神をも色濃く込められている、と。


下のURL、ぜひお読みください。私が「心血を注いで書いた」記事です。
ちょっとオーバーですみません。

「書・柿下木冠①」

「書・柿下木冠②」

どんなに高名になろうとも柿下先生は全く変わらずの自然体。
私が新聞社を辞めたあとも展覧会のお知らせや賀状をくださった。

書も習ったこともない、ただ取材でお世話になっただけの私にも、
丁寧に対応してくださった。


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展覧会の挨拶状の中に私の記事のコピーを同封して、
みなさんに送ってくださったり…。


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招待券もたくさん頂戴しました。
今度久しぶりに箱を開けたら、使わなかった招待券が出てきました。


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賀状も毎年。

右が取材の翌年の賀状
(巳)、左が最後になった2023年の賀状(卯)
かならず一筆添えてくださるんです。

最後の賀状となった2023年には、
「益々お元気でお過ごしください」と書いてきて、その10か月後に急逝。

最後にお目にかかったのは2020年の「磊展ー悪ガキ三人展」で、
書の柿下氏、彫刻の杉村孝氏、染めの鈴木健司氏の競演でした。

久しぶりにお会いしたら、おーっという顔で開口一番、
「ずいぶん逞しくなった
(太った)なぁ。えへへ」だった。
私もえへへと笑いながら、内心、こう思っていました。

「先生もすっかりジイサンになっちゃって。お互いさま!」


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いろんな要職に就かれていて国内外の知己も半端な数ではない。
お弟子さんもたくさんいらっしゃる。

今年2月の「お別れの会」には全国から250名もの方々が参列したという。

私などの出る幕はないと思いつつもささやかでも恩返しをと思い、
春彼岸の少し前に花屋さんに依頼して生花をお送りした。

菊

で、私はここで失敗をやらかした。

普通郵便は市内でも配達は二日後、土曜日は配達なしということを知らずに、
お悔やみとお花をお届けする旨の手紙を出したら、
生花が先に着いてしまったのです。

ご遺族は弟子でもない見ず知らずの「女性」から、
突然、生花が届いて驚かれたのでしょう。先生の娘さんから電話が来た。

「父とはどういうご関係でしょうか」

そう言われて私はなぜか、しどろもどろに…。

24年前の取材で初めてお会いしたことや「三人展」が最後になったこと、
そして私の勘違いで手紙がお花より遅れて着くことなどを話し、
やれやれ理解していただけたと安堵したのもつかの間、
最後に大失態。

つい言ってしまったんです。

「では、柿下先生によろしくお伝えください」って。

「ああーっ、す、すみません。よろしくだなんて…」と慌てふためいたら、
娘さん、笑いながら応えてくださった。

「はい、父に伝えます」


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雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞