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アーティストさんからの手紙⑩

私が出会ったアーティストたち
03 /31 2024
山本昭子(やまもと あきこ) 工芸作家(こぎん刺し)

千葉県生まれ

東北地方の代表的な手芸、民芸で知られる「刺し子」
初めは貧しい農民たちが衣服の補強のために編みだした技法だったが、
やがて独創的な民俗文化として発展した。


刺し子の代表例「こぎん」は、津軽に生まれた刺しこぎんで、
文様は実に4000種以上もあるという。

この津軽生まれの「こぎん刺し」を、山本さんは40年も続けてきた。


こぎん1

「こぎんは東北地方でも明治の中頃には廃れて、
伝承する人がほとんどいない状態。
まして静岡で教えてもらうところなんてどこにもなかったんです。
それで自分で研究して、試行錯誤しながら続けてきました」


「昔の人は麻布にもめん糸を刺していましたが、
今は木綿地にもめん糸を刺しています。麻が高価になったものですから。
初めはなかなか”平ら”にさせられなかったんです。
刺した布がキクラゲみたいにヘラヘラしてしまうんですよ。
それで糸にヨリをかけてみたら、ちゃんと平らになった」

「個展にきてくれた方がきんちゃく袋を見て、
”これ、仮の親子ですよねぇ”とおっしゃったの。


香道のとき使う源氏香(源氏物語五十四帖に基づいてたてた名称)
”夕霧”の袋を表に、その夕霧を育てた義理の母、”花散る里”を
裏に刺したんです。だからまさしく”仮の親子”。
作品名をつけなくてもわかる人がいたんだって、もう嬉しくて」


こぎん3

「この作品”龍爪”は、息子との竜爪登山から生まれたものなんです。
当時中学2年だった息子が”全部荷物持ってやるから行こう”って。
文殊岳の頂上でラーメーン作って、”ハッピバースデー、かあさん”って。
すごく幸せで、この気持ちをどうしても残しておきたかったんです」

山本昭子img20240324_20055949.jpg

「山あり谷ありの人生でしたけど、
今がよければいいんじゃないって、そう思っています」


取材のお礼のはがきに、
「カゼだったとのこと。早くわかれば美味しいお粥を届けたかったのに」
と書いてくださった。

優しかった山本さん、お元気だろうか。


ーーーーー

大塚亮治(おおつか りょうじ) 彫刻家(彫刻・面打ち)

静岡県島田市生まれ

多摩美術大学の彫刻科を出て、
24歳の時「現代日本の美術展」の最高賞を受賞。


だがその後大塚氏は、
彫刻から「創作面」の「面打ち」の世界に力点を移した。
その理由をこう話してくださった。

「受賞したとき思ったんです。
自分自身がやりたいと思うような彫刻がなくなってきちゃったなって。
なんかこう表面的な形の面白さとかそういうものが主流になってしまって。

みんな西洋に目を向けているけど、本当に日本はそんなにダメなのか、と。
それと受賞したことで一応彫刻家として認められたけど、
そんな作品でも家でただほこりになっている。この現実は何なんだ、と」

「彫刻は展覧会のためであって生活の中に存在する場所がない。
それでもう一度日本の美術を見直そうと思ったんです」

創作面1

「日本の美術は精神的なところでものすごい深いものを持っています。
中でも能面はすごい抽象的な仕事をしているけれど、
きちんとした骨格を持っている。ほんとに彫刻的だなって」

大塚さんの面打ちは独学。失敗作を山ほど作って、
ようやく「コレでやれる」、そう思ったとき初めて東京で発表した。

そこへ和泉流宗家の万之丞氏が来られて、
「この人なら新しい面を任せられる。これからも一緒にやっていこう」
そうおっしゃってくれた。


大塚亮治の創作面「童(じっ)」           「童(にっ)」
img20240324_20150501.jpg
いただいた絵はがきから。

以後、大塚氏は創作面の作者としてめざましい活動を展開していった。

狂言師和泉流十九世宗家・和泉元秀氏の依頼による「白蔵王」「猿」を始め、
二十世和泉元彌氏、観世流能楽師・青木道喜氏などからも依頼を受けた。

万之丞氏から「真伎楽」のための伎楽面二十三面を依頼され、
3年かけて制作。

「伎楽面は能面と違ってヘルメットみたいに被るものなんですね。
だからすごく大きいんです。
伎楽は千数百年前、日本に仏教が入ってきたとき
その宣伝として演じたものといわれていますが、記録が全くないんです。

それでどういうふうにやっていたのか万之丞さんが調べて…。

千数百年、誰も作っていない面なので、
正倉院などに残っている面を参考に作りました」

大塚亮治の創作面「風」               創作面「山芋」     
img20240324_20174569.jpg
同上

「伝統的な能面作りは昔のものを正確に伝えていく模写の世界。
でも新作など今までやったことのない舞台を作るときは、
模写しただけの面では対応できません」と大塚さん。

その後、能狂言面にとどまらず、「リア王」「マクベス」、
仮面喜劇「眠れる森の美女」の半仮面八面を制作。
ドイツでの古能面の修復を手掛け、当地で講演や個展も開催した。

氏は、伎楽面二十三面を納めた時のことをこんなふうに話してくれた。

「終わったものはすぐ忘れるんですよ。
だからあとから見て、よく彫ったなぁって。まるで人の仕事みたいに」

そう言って、無垢な子どもみたいなまぁるい笑顔を見せた。

その大塚さんのHPを拝見したら、24年前と同じようにまぁるく笑っていて、
こちらまで、まぁるい気持ちになりました。


「大塚亮治~面の世界~」

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アーティストさんからの手紙⑨

私が出会ったアーティストたち
03 /28 2024
長船恒利(おさふね つねとし) 映像作家

北海道小樽市生まれ

一般には「写真家」と紹介されていますが、
私が新聞の記事で「映像作家」としたのは、ご本人からの要望でした。

コンピュータ・アートに取り組んでいたときだったから、
そうおっしゃったのかもしれません。


「写真がおもしろいと思ったのは小学生の時です。
それからずっと続けてきました。
20年ほど前から情報も文字を並べるとか、計算だけでなくアニメなどの
画像処理を扱うようになり、
そういうこともコンピュータの重要な仕事になってきました。

そこで初めてテクノロジーとアートが自分の中でつながってきたのです。
時代の一つの結果かもしれないけれど、
両方やってこないとできなかったことだと思っています」


長船氏は、北海道大学工業教員養成所で電気工学を学び、
筑波大大学院工学研究科で情報工学を学んだ。

テクノロジーにもアートにも弱い私には、言葉一つとっても難しい取材でした。


このころ私が使っていたのはニコンの一眼レフ。
思えば私は大胆にも写真家にカメラを向けたんですね。
でも被写体になった長船さん、なんだか嬉しそうだった。
長船

1991年、写真集「在るもの」を自費出版した。
載せたのは、1978年から1986年までの初期のころの作品で、
後書きにこう書いている。


「モノはただそこに在るだけで”無”さえもただ存在するという、
ただそれだけである」

収録された写真はすべてモノクロで、4×5判の大判カメラを使用。

被写体になったのは、
「すでに人々の意識の中に刷り込まれて、ただそこに在るだけ」
という、民家や野球場のネット裏、田舎道や駐車場などの
日常の中のありふれた「モノ」たちだった。

長船氏は、大判カメラを使用したことについて
「肉眼と写真の眼の違いを思い知らされた」とも語っています。


長船氏にいただいた「在るもの」
img20240322_16234524.jpg

若き日の長船氏は病魔との闘いだった。

「再発と手術を繰り返した20代を過ぎて、絶対値の前に世界はすべて
無化されていく。
あてもない日々は、自分を留めおく何らかの手がかりを必要とした。
まわりのモノと空間に付加されてくる”意味”が、うっとうしくてならなかった」

「1980年代以降は、表現にかかわる活動が、
写真だけでは収まりがつかなくなった」

「いずれも”在るもの”の知覚を引きついでいるのは、
ある取り返しのつかない刻印を受けたからなのかもしれない」

「取り返しのつかない刻印」とは、病気のことだろうか。

下は、長船氏も実行委員の一人として参加した「偏在する波動展」の作品集。
1993に静岡県立美術館で、
1994年に、マニラのメトロポリタン・ミュージアムで開催。
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写真集の中で語る長船氏の言葉は、
難解な哲学書を読んでいるようで、頭がクラクラしたが、
面と向かっての取材中は終始にこやか。懇切丁寧にお話ししてくださった。

最初に語りだしたのは、行ってきたばかりのチェコの旅の話だった。
チェコは社会主義体制が崩壊した1989年までは、
簡単に行けなかった国。

「日本でほとんど知られていない写真家ヤリミール・フンケのことを
インターネットで見つけて、それでチェコへ。
本屋さんをたくさん回って建築の本や詩集、CDなど50㎏も買いました」
と、楽しそうに笑った。


「チェコに関心を持ったのは、
チェコはヨーロッパの心臓、文化の十字路といわれ、あらゆるものの
集積地であったこと。大国に翻弄されつつも破壊を免れたため、
古い建物がたくさん残っていること。

それからスラブは言語学の発祥の地で、特にプラハは盛んだったこと。
情報のソフトウエアは言語学に非常に関係がありますから、
これは私の仕事にもつながってきます」 

帰国後、「PRAHA2000 長船恒利写真展」が、
静岡市のギャラリーSensenciで開催された。
このギャラリーは建築家の柴田彰氏が女子美大出身の妻と開いたもの。


いただいた絵はがきには、写真展の作品が印刷されていた。
img20240322_16330018.jpg

2000年11月11日の土曜日、私もここにおじゃまして、
長船さんの写真を見、ギャラリートークを拝聴し、スライド上映と
チェコからの留学生の詩の朗読を楽しませていただいた。

「二十世紀が終わっていく段階で、
私が一番気になっているのがモダニズムです。これは何だったかと。
モダニズムは今世紀初頭にドイツ、オランダ、中部ヨーロッパなどから
始まりまして…。

建築を例にとると、直線的で装飾のない機能第一という、そういう非常に
強い形で世の中に流通していきました。
しかし、モダンは最初から今ある形だったかというとそうではない。

1910年代、20年代、30年代の理論や作品には、
かなり多様なものがあるんですね。
それで私はモダンデザインの始まりのころの有様を、
もう一度調べ直してみようと思ったわけです」

力強くそうおっしゃっていた長船さんでしたが、
取材から9年後の2009年、
「とりかえしのつかない刻印」に再び倒れ、この世を去った。


img20240322_16263459.jpg img20240322_21074057_202403222115033d2.jpg
「偏在する波動」展より

ここまで書いてきて、当時、聞き忘れたことを思い出した。

北海道生まれの長船氏は、就職先や終の棲家を静岡に求めた。
なぜだったのか。


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アーティストさんからの手紙⑧

私が出会ったアーティストたち
03 /25 2024
田島征三(たしま せいぞう) 画家・絵本作家

大阪生まれ。

「世渡りは下手だけれど、率直に自前の信念を持って強く生きる人」

これは友人で画家の谷川晃一氏が語った田島さんの人間像。


「いやあ、世渡りは下手ではなかったよ」と、田島氏は苦笑い。
「だって谷川さんみたいな人と親しくなったし、病気になればこんないい所に
引っ越してこれるし…。凶が吉に転じる。運がいいんです」


田島新聞記事

上は私がお会いしたときの田島氏。

下はお送りくださった原画展のチラシ。
この絵の田島さんはヤギの「しずか」と一緒に空を飛んでいます。


純粋で真っ直ぐな人。田島さんは人にも自分にも居心地のよい場所や
楽しいことを探し続けて力いっぱい生きている、そう思いました。


img20240314_09064222.jpg

唯一の欠点は、「すぐカァーッとなってケンカすること」と自ら認めた。

「美大時代、”絵のこともわかってないくせになんだ”って大ゲンカして…。
相手は事務のおじさんだと思ったら、なんと主任教授だった。

謝りに行ったら”お前みたいなケンカ早い男はデザイナーには向かない。
紹介状書くから出版社へ行け”って」

すでにポスターの制作でグランプリをもらっていた田島さん。
でも出版社となるとポスターではまずいだろうと、
急きょ、リトグラフの絵本作りを開始。


だが三畳間暮らしの貧乏な美大生には印刷機なんて買えない。
そこで部屋の押し入れに足を掛けて逆立ちして、人間機械になって刷った。

初めての自刷り絵本「しばてん」は、こうして出来た。


下は田島さんからいただいた手紙です。

「春です。いろんな花が咲きました。花粉を飛ばす花も咲いています。
ボクは「スギ」ではなく「ハンノキ」にやられています。
でも今年はすこし らく」


絵はがきの絵は「明日に希望を持つ人の肖像」
手紙田島

逆立ちして印刷したこの絵本に紹介状を添えて、
出版社19か所を回ったものの、どこにも相手にされない。
最後のデザイン会社でイラストレーターの和田誠さんを紹介され、
その和田さんから童話作家の今江祥智さんへ渡された。


19社に振られ続けて落ち込んだ田島さんだったが、
この絵本は最後に辿り着いた今江氏の心を打った。

「ポロポロ涙がこぼれましたと今江さんから言われて…。
今まで会ったこともない人が自分の本に感動して泣いたなんて…。
すごい自信につながりました」

しかし、それで暮らしが好転したわけでもなく、相変わらずのどん底。


24歳のとき、絵本「ふるやのもり」を出し、
日本の美術館やヨーロッパのデザイン誌に紹介されたものの、
当時の日本は「子供の本に芸術はいらない」という風潮で
酷評されてしまった。

絶望の淵に立ち、
無収入で栄養失調になって死ぬんだなと思っていたとき、
美大の後輩が訪ねてきた。


「それが今の女房です。もし女房に助けられなかったら、
夭折の画家になるところでした」


田島
2005年、ぎゃらりー由芽(三鷹市)のチラシ

田島さんに転機が訪れたのは20代後半。

絵本「ちからたろう」が外国で高い評価を受け、
画家・絵本作家としての地位を確立。売れっ子になった。


ここで当時いただいた展覧会のチラシより作品を2点、ご紹介します。

左は「想い出はたらりとたれる」 
「生命の記憶・木の実」展 新潟県まつだい農舞台 2004~2005
ファブリアーノ紙に手すき和紙、泥絵の具、アクリル、
プラタナスの実の綿毛の核。

右は「夢のスペイン旅行」
「海・山・のんびりアート」-田島征三・谷川晃一・宮迫千鶴三人展
東京都練馬区立美術館 2005
ファブリアーノ紙に手すき和紙、泥絵の具、アクリル、モクレンのつぼみの皮。
田島2         tajima.jpg

売れっ子作家になったと同時に、一家で東京・西多摩郡日の出村に転居。
自給自足の生活を始めた。
だが転居9年目に2つもの巨大処分場建設という難問題が持ち上がり、
もうこれ以上の環境汚染は許せないと、
田島さんは仲間たちと反対運動を起こした。


「でも処分場との闘いでガンになってしまって。
神さまが休めと言うことだからと仲間たちが伊豆へ送り出してくれたんです」

この取材から数年たったある日、
私は田島さんからこんなお知らせをいただいた。


「新潟県十日町市にある鉢という集落で、廃校になった小学校を舞台に、
地域の人々と”小学校を絵本にする”活動を始めます」


img20240228_21142534.jpg

お知らせをいただきながら忙しさに紛れて一度も訪れることなく、はや15年。

申し訳なかったと思いつつ、
活動の様子を「絵本と木の実の美術館」HPで初めて拝見しました。


鉢&田島征三
「絵本と木の実の美術館」

24年前私は新聞の記事の中で、
「森や畑のいのちを描き続けた画家は今、伊豆の海でいのちと向き合っている」
と書いた。

その田島さん、
今度は海から雪深い山村で新たな「いのち」と向き合っていました。


谷川晃一さんが言った通り、「自前の信念を持って強く生きる人」は、
ずっとそのまんま。

ヤギの「しずか」が草を食んでいる光景もそのまんまでした。


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アーティストさんからの手紙⑦

私が出会ったアーティストたち
03 /22 2024
増田幸雄(ますだ ゆきお) 彫刻家(石彫)

静岡県小笠郡浜岡町(現・御前崎市)生まれ。

静岡県立美術館は小高い丘の上にあります。
その横に並んでいるのが県立図書館。


この図書館、
谷間から這い上るみたいな長~い石段の先にあるので辿り着くまで大変で、
だから私はゆるやかなアプローチ歩道からいったん美術館へ入り、
細い通路を通って裏口へ抜けるルートから隣の図書館へ通っていました。

ところがドアを開けるとあるんです。
首のない石像が…。目の前の薄暗い空間に。

毎回、うわぁ!


これです。「第10回 富嶽ビエンナーレ展」大賞作品
増田幸雄「風に吹かれて」 1990 御影石
4_270.jpg
静岡県立美術館蔵 写真は丸八不動産グループHPよりお借りしました。

その脅かされっ放しの石像の作者にお会いしたのは、2000年の秋でした。

工房はメロンやセロリのビニールハウスが並ぶ一画にあって、
むき出しの地面にテントがひと張り。
そのテントを囲むように数体の石像や牛の首が無造作に置かれていた。

出てきたのは農家のおじさん風の、飾り気なしの人物。
これがまた、温ったかぁ~い人で…。

工房にて
増田記事

私は増田さんの柔らかい「風」に吹かれながら、お話を伺った。

「農家のおじさんがひょいと立ち寄って、おもしろいねと言ってくれるんです。
あの人たちは自分の作っているセロリの形にこだわりを持ってるんですよ。
生き方なんかも含めて、そういう人の話の方が美術の専門家のものより
ためになります」


「”芸術家”という人から見ると、ぼくの仕事は”芸術”ではないんですよ。
石の具象彫刻なんてエジプト時代からやっていることで、
少しも新しくないから。
でもぼくは抽象はあまりやりたくない。
説明しなければ分からないものは作りたくないんです。

この先変わっていくかもしれませんが、今、評論家に褒められるより、
村のおじさんおばさんがいいなあと思うものの方が、
自分もいいなあと思っています」


第68回二科展で特選になった「八月の雲」 1983 100×160×150cm
そうそう、こんな雲、浮かんでいますよね。石なのにふんわり。
増田作品

「学生時代、先輩から”若い時に苦しいことをやっておきなさい”と言われて、
体力も集中力もいる石を彫ることにした」という増田さん。

どうせ彫るなら硬い石をと思ったものの、
叩くと半鐘みたいな金属音がするインドの石は一度で懲りた。


「今はアフリカの”ベルファースト”などの黒い石ばかり彫っています。
黒い石はノミ跡と磨いたところの色のコントラストが出て、
それがたまらなくいいんです。

白い石は柔らかいし磨いても白くしか光らないんです。
あれは抽象作品が似合う石なんです」


後日、「この細煮をどうしても差し上げたく…」と記された手紙と「細煮」
お送りくださった。もうね、すぐいただきました。おいしかったです。
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「中学教師から美術館の学芸員になって七年になります。
企画から作品の展示、草取りまで何でもやりますから、
学芸員じゃなくて”雑芸員”です」と笑った。


その学芸員時代に手掛けたのが、
造園家・中根金作の企画展と100頁にも及ぶ記念の写真・資料集、

「中根金作とその庭の美」です。

中根庭
浜松市美術館 1998 この写真集も「細煮」と共に増田氏からいただいた。

中根金作  大正6年(1917)静岡県磐田市生まれ。

78年の生涯の中で300余の国内外の作庭・造園を行い、
「昭和の小堀遠州」と謳われた人。


ジミー・カーター氏と。同氏の大統領記念館に日本庭園を作庭。1986年公開。
カーターと
「中根金作とその庭の美」より

「大阪芸術大学の学長だった中根先生の庭園を写真やビデオで紹介する
『日本庭園に捧げた生涯ー中根金作とその庭の美』を企画したんです」

これはNHKの「新・日曜美術館」にも紹介されたが、
ここまで来るにはさまざまな苦労があったという。

予算が少ないからプロのカメラマンを頼めない。そこで増田氏、
自分でカメラやビデオを持って全国の庭園30数か所を回った。


「庭園って雨降りの時の方がいいものが撮れるんですよ。
ぼくは雨男だからその点、ラッキーでした」と、カラッと笑った。

「自腹もいっぱい切ったけど、いろんな方と知り合って、
お金にはかえられない財産をもらいました」

全く同感です。
私もこのシリーズでたくさんの方と出会い、得難い「財産」をいただきました。


こちらはいただいた絵はがきの石像。
「増田幸雄 彫刻展~石塊に遊ぶ」展 浜岡町立図書館 2000より
増田1

「作品には人格が出る」とおっしゃった増田さん。

「作品売れないかなあ、お金が欲しいなあ、なんてチラッと思っていると、
いやらしい顔になる。反対に清々しい顔が彫れると、
今、自分の生き方は間違っていないんだな、と」


公民館などの公共施設に置かれている増田作品を見ると、
作品にも命名にもそこはかとなく、優しい人柄がにじみ出ています。


静岡県袋井市立中学校に設置された像は「素敵な夢もちたいな」
地区公民館の芝生に寝そべっている少女像には「たおやかな大地」。

埼玉県入間市の地区センターに設置された「腰掛ける」の若い男女像は、
並んで座り遠くを見つめている。


もちろん「首」付き。(笑)

この「腰掛ける」は、二科会推奨作品で入間市買い上げとなった。
そのとき増田氏は思ったそうです。

「10年やってきてこの賞金でまた、石が買えました。
また10年やれってことかなぁ」と。

増田さぁーん、「首」がつながってよかったですね!
(笑)

増田氏の作品や人柄に多くの人が魅せられていますが、
そのお一人に下記の丸八不動産グループの経営者がいます。
この会社では、住まいや街づくりにアートを取り入れているそうです。


増田氏のまた違う一面が見られます。
「丸八不動産アートフォルム」

増田幸雄氏にお会いしてからすでに24年。

今回改めて氏を掘り下げたら、
「風に吹かれる」どころか、強風で吹っ飛びました。


あの日、増田氏は、
「中学の教師から美術館の学芸員になって7年目」
とおっしゃっていましたが、実は学芸員になる前は、
単なる「中学校教師」ではなく、「校長先生」だったんです。

そしてなんと、この自称「雑芸員」さん、
その後、浜松市美術館の館長さんになっていたのです。


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アーティストさんからの手紙⑥

私が出会ったアーティストたち
03 /19 2024
山下淳子(やました じゅんこ) 版画家(銅版画)

静岡県浜松市生まれ

この人の作品には、「びっくらしたァー!」
だって描かれているのは、ふっくらした女性ばかりですから。


「はじめまして」銅版画
「山下淳子銅版画展」ギャラリーサーカスサーカス 2000
右下に描かれたタカアシガニみたいな手は何を語ろうとしているのでしょう。
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いただいた絵はがきから。

ほかにこんな女性も。

ふくらんだほっぺにぶ厚い唇、肉厚の指を揃えて天に向かって
祈っているのは「くされえん さいごのおねがい」の女性。

※下に出てくる「Artist in Japan」参照。

「ハートをひきよせて」の女性は、
ぜい肉でファスナーがしまらない背中をこちらに向けて、
ハートマークが無数に付いた布を片足でたぐり寄せている。


ハートを引き寄せて

こっけいで哀しく、醜くて美しいー。
観客は”そんな彼女たち”を嘲笑しつつ、同時にそこに自分の姿を見るという
皮肉な体験をさせられてしまいます。

作家ご本人はごく普通の家庭の人で母親で、体形もごく普通。
だがひとたび口を開くとこれがまァ、とびきり楽しい人に。

取材中、笑いっぱなし。


「昔からどういうわけか膨らんじゃうんです。
だからモデルさんが気を悪くするんです」と、笑った。

他の作品は以下のURLでご覧ください。


「Artist in Japan」

「結婚して子供が生まれた時、なんともいえないフラストレーションがあって。
それでゼロからスタートしようと思って、そのとき手にしたのがピーマン。
これに手足が生えて、立ち上がったら女の人になっちゃったんです」


「版画制作と子育ては似てますよね。手を抜くとそれがそのまま出てしまう」
「子供が寝ている時、首からタイマー下げて制作し、離乳食作ったり掃除機
かけたり。時間のパッチワークだァーって」と、どこまでも明るい。


その山下さんから手紙が届きました。

img20240308_11372115.jpg

「何せ取材していただくことは初めての体験でしたので、
頭の中はボーッとなってしまい、
何をおしゃべりしたか覚えていない状態でした。
記事を読んで、そうそう私、こういうことを言いたかったのよ!!
と、ひとり喜んでいます」

この記事を「私が会場にいない日の身代わりの”お札”になってもらおう」と、
個展開催予定の、神戸市のギャラリーへ送ったとのこと。

山下さんは謙遜していますが、
このときすでに静岡、東京、名古屋、ベルギーで個展を、また、
オランダ、スペインの団体展に参加するなど押しも押されぬ作家さんでした。


「腹ごなしみたいにぶらりと画廊に入ってきた人が、
ぶすっと笑ってくれたときは嬉しくて。
ベルギーの個展でもみんな笑ってくれたんです。
私、世界の笑いをとったんだ、と。
みんなから”ミセス・ビーン”と呼ばれて、思わずニンマリ」


そう言って快活に笑ったので、私もつられて大笑い。

※「ミセス・ビーン」は、当時人気者だったイギリスのコメディアン、
ミスター・ビーンをもじったもの。

その山下さんが教えを乞うたのが、版画家の柳澤紀子さんだった。

ーーーーー

柳澤紀子(やなぎさわ のりこ) 版画家(銅版画)

静岡県浜松市生まれ。

柳澤さんの作品「水邊の庭Ⅳ」1990 銅版画
img20240308_11532146.jpg
ギャラリーURANOでの
「NORIKO YAGISAWA A Garden at Water-Frount」より

私は山下さんにお会いする1年前、柳澤さんのアトリエへお邪魔しました。

柳澤さんは、開口一番、制作に着手するときの衝動をこう表現した。
「体が先へ出るんです」


その衝動を集中力という形で何か月も持続しなければならない。
だから、
「完成したときは達成感より虚脱感。大作になると体を壊します」


柳澤

1980年ごろからニューヨークに4年住んだ。

「その人工的なものにどっぷりつかったあと、
西チベットのラダックへ行ったんです。そこで大自然と人の営みを見て、
今まで忘れていたものが甦ってきて…」


以後、世界の中心ではない「縁(へり)の国」で、
展覧会を多く行うようになった。

「文化は厚いけど経済的政治的に問題を抱えている国へ行くと、
一体自分は何だろうと考えますね」


この柳澤さんを師と仰いだ山下さんは、こうおっしゃっていました。

「制作も子育ても、
ご主人
(当時・国会議員)の補佐もこなす先生を見ていたら、
結婚しても続けられるんだという自信が生まれました」

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アーティストさんからの手紙⑤

私が出会ったアーティストたち
03 /16 2024
版画家の栗山茂氏は旧制静岡中学(現・県立静岡高校)卒業後、
市の水道局に勤務。

その後、満州国東辺道開発会社に入社して、
鴨緑江中流域の地質や水質の検査に従事。
戦後は中学校の美術教師として勤務し、59歳で退職した。

職業の変遷を重ねますが、版画の技法も長い年月の間に、
木版画、紐
(ひも)版画、単色版画、ボール紙を素材にした紙版画と、
さまざまに変化していきます。


初期の木版画。「日本平A」 1936 第一回国画奨学賞受賞作。
img20240305_11280078.jpg
「第16回特別展 栗山茂版画展」画集 平成12年 島田市博物館
よりお借りしました。

この特別展は栗山氏の米寿を記念して、島田市博物館で開催されました。
特別展に行けなかった私のために画集をお送りくださったんです。

この画集に挟んであった挨拶状にこうありました。

「小生今のところ体調もよく、頭の方も順調で制作に励むことができますので、
ご支援のほどお願い申し上げます」

確かに、お会いした時も記憶力抜群でした。

さて、「紐版画」ですが、文字通り「ひも」を使った版画のことです。

氏が終戦で日本へ引き上げてくるとき、
彫刻刀などの刃物の持ち出しが禁止されていたそうです。
そこで、刃物を使わず版画を作る方法はないかと探したら、
荷造り用の紐が目についた。

その紐に絵の具をつけて紙に押し当てたら、
思いのほか面白い作品になった。
以後、紐を使った作品が次々と生まれます。

左から「三人像」1951 紐版画 
「魚の構成B」1962 ボール紙を使った紙版画 「貝族」1952 紐と紙版画
img20240305_11304254.jpg img20240305_11335520_0002.jpg img20240305_11304257_0001.jpg
同上

栗山氏は言う。

「戦前の版画は彫ることが主体でしたが、
戦後は転写されたものが版というふうに版画の概念が変わってきました。
木版ばかりが版画じゃないよということですね。

それを言い出したのは恩地先生で、
例えば靴の底に絵の具をつけて摺っても版画だよ、と」

※恩地孝四郎=東京生まれ。日本の抽象版画の創始者

「現在はさらに多様化して、より複製の意図が強い版画が出てきています。
それを自分でどういうふうに処理していくかが、
今後の課題になるでしょうね」

私が取材した当時、栗山氏が手掛けていたのが、
石器時代をテーマにした「古代の賦」。


前回ご紹介した「三姉妹」も「古代の賦シリーズ」の一つですが、
こちらも同じシリーズです。


「昔ばなし」 1995 紙版画
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同上

紙版画も自身が考案した技法で、
一つの版を使ってすべての色版を彫るという「彫り進み技法」

「削っていくから版は残りません。手間がかかるしたくさん摺れなくて
商売にならないから誰も真似しない。
ぼくは自分の楽しみでやっていますから」と、にこにこ。


「市販の絵の具は退色しやすいから、それを独自の方法で防いでいます。
これは企業ヒ・ミ・ツ」

そう言っていたずらっぽく笑った。

実は私も栗山作品、持っているんです。ここで一挙公開といきますか。


左は「古代のくらし」 2/2  紙版画  
右は「音楽教室」作家保存分 島田市博物館の画集では「舞踊」となっていますが、栗山氏は「音楽教室」と書いています。単色木版画。
この二枚は「栗山美術資料館」で私が購入した作品。
20240305_105835.jpg 20240305_105916.jpg

以下は栗山氏からプレゼントされた作品です。
「リポートを書いてくださったり版画を買ってくださったり、すみませんでした」との礼状が添えられていた。

左は「green circle」 13/30    右は「鷺」 作家保存分

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「卓上秋果」 作家保存分

20240305_110129.jpg

「考古学が好きで昔はあちこち掘って、中国でも収集して歩きました。
ぼくは考古学、短歌、版画のこの三つで一生暮らしちゃったですね」

中学生のころ、竹久夢二の挿絵に憧れた栗山少年は、
大先輩たちの版画の影響を受けながら常に模索。
脱皮を繰り返しつつ、ついに独自の技法に到達したのです。


その根底には一貫して、
「短歌も版画も単純化が大切。欲が深いと内容の浅いものになります」
との精神が絶えず流れていた。

「考古学、短歌、版画のこの三つで一生を暮らしちゃった」

そうおっしゃった栗山氏。


私の取材から10年後、九十八歳であっぱれな人生を締めくくりました。
最後まで現役のままで。


こうして改めて写真の栗山氏を見ると、竹久夢二に夢中になった
少年のころに還っているような気がしました。
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アーティストさんからの手紙④

私が出会ったアーティストたち
03 /13 2024
栗山 茂(くりやま しげる) 版画家・歌人

静岡市生まれ

お会いしたのは1999年の夏。八十八歳の米寿のときでした。

栗山茂氏とお話を伺っている私。
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「先生の作品には年齢が出ないですね」と言ったら、
「いつも二十代の青年の気持ちを失わないようにしていますから」と、
端正なお顔をホッと和ませた。

「人間っていうのは一生懸命やり過ぎると、
それで果たしちゃって急に老衰してしまうんです。
僕はいつも若い人に言うんです。
”大成しようとする考えは持たない方がいい、早く枯れてしまうよ”って」

このとき栗山氏は日本版画協会、国画会の最長老だった。

この当時、制作されていた「古代の賦シリーズ」の一つ、
「三姉妹」1998 紙版画 島田市博物館蔵 材料はボール紙。
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私の部屋の押し入れの奥に、かつてお世話になったアーティストさんからの
手紙や画集などを入れた箱がある。

ずいぶん長い間、ほったらかしたままだったが久々に開けてみたら、
栗山氏からの手紙や版画が一番多く出てきました。

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栗山氏は一時代を築いた高名な方なのに決して偉ぶらず、
私のような若輩者にも優しく丁寧に接してくださった。

筆まめで賀状には印刷ではない実物の版画を摺り、
暑中見舞いには花や果物、風鈴などを描いてお送りくださった。


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こちらは暑中見舞いです。

暑い中、花や果物や風鈴など、心をこめて描いてくださったんですね。
私はその光景を思い浮かべながら、とても幸せな気持ちになったものです。


栗山氏からの便りには必ず、
「また、お遊びにおいでください」のひと言が添えられていましたが、
お会いしたのは取材のときの一度だけになってしまいました。


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この版画界の巨匠の一世紀にも及ぶ道程をこのスペースに込めるには、
あまりにも大きすぎる人。なので、2回に分けてご紹介していきます。

限られた行間からその大きさ、魅力を感じ取っていただけたら幸いです。

静岡に現代版画の原点といわれる創作版画が生まれたのは、
昭和4年ごろのこと。


その種を蒔いたのは小川龍彦(19歳)、仲村岳(20歳)、栗山茂(17歳)など、まだ十代、二十代の若者たちだった。

「静岡の創作版画」静岡県立美術館 1991に、
栗山氏のこんな思い出が載っている。


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「われわれの版木と言えば、下駄屋からわけてもらった朴歯に使う朴の木。
紙の知識がなかったのでワラ半紙か上質紙だった」

だから第一回の展覧会は、
「朴歯用の下駄材だったからせいぜい4号止まり。会場を貸してくれたのは
青島シャツ店
(のちの田中屋百貨店。現在の伊勢丹)」だった。

「もの珍しさにさまざまな人が見に来てくれて、
われわれの方がむしろ驚いたくらいであった」

彼らは未開の分野を切り拓くという意志を込めて、
版画の会「童土(どうど=未だ耕さざるの土)社」を結成。

「未だ耕さざるの土」っていいですね。


そして彼らは、
美術学校を出ない素人が絵を描くなど考えられなかった時代に、
展覧会まで開いてしまい、また栗山氏は18歳のとき、
版画誌「艸笛
(くさぶえ)」まで刊行してしまいます。

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栗山氏より2歳年長で、まだ二十歳そこそこだった小川龍彦は、
「第2回展覧会記」でこう述べている。

「寥々たる枯野の如き第一回展を以てオセンコ花火の如く消え果てんとした
我社は本年俄然躍魚の如き溌剌さを以て眠れる地方画壇の太鼓を乱打し、
一陣の怪風を巻き起こしたと今や吾らは大いに自負するものである」


自分たちの手で新風を巻き起こしたんだという、
いかにも若者らしい気宇壮大さが見て取れます。


これが縁で当時の大先輩、平塚運一、恩地孝四郎らとの交流が始まり、
さらに中央展への出品に伴い、
棟方志功、畦地梅太郎らと親交を持つようになった。

その後の栗山氏の活躍はめざましい。


昭和11年(1936)、24歳で日本版画協会展で第一回協会賞受賞、
同年、第11回国画会展・国画奨学賞を受賞。

以後、海外の美術展にも出品を重ねるようになる。


〈つづく〉

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アーティストさんからの手紙③

私が出会ったアーティストたち
03 /10 2024
谷川晃一(たにかわ こういち) 画家

東京生まれ

夫人の宮迫千鶴さんから、「アステカ怪人」と呼ばれていました。
謎の古代アステカ文明の壁画に出てくる人物群に似ているから
というのがその理由だったが、

いわれてみれば呪文一つで猫にも花にも変身してしまいそうな
不思議な雰囲気の方でした。

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しかし、この「アステカ怪人」、「変えた」のはご自分ではなく、
住まいのリゾート地・伊豆高原に新風を吹き込んで変えてしまったのです。

それが住民だれもが参加して気軽にアートに親しむ
「伊豆高原アートフェスティバル」でした。

1988年、東京から伊豆高原に居を移した谷川・宮迫夫妻は、
都会では得られなかった大地や森からのマジカルパワーを受けつつ、
キャンパスに向かっていた。
そんな中お二人は、この町に暮らす人たちとともに、
自由に楽しく文化活動が出来ないものかと考え始めた。

この「地元の人たちと楽しく文化活動」という雲をつかむような夢は、
思わぬきっかけから「カタチ」になっていきます。

ある日、谷川氏は「わたくし美術館運動」の尾崎正教氏から、
「九州の湯布院温泉で開かれているアートフェスティバルへ参加しないか」
との誘いを受けた。


氏はそのときの様子をエッセイ集「土から空へ」でこう書いている。

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1996 夢譚書房

「そのフェスティバルの運営委員たちが私を招待作家に選んだので、
未知の土地への好奇心もあって、作品を持って参加してみることにした」

「由布院は雄大な由布岳の麓、水田のある盆地である。
金鱗湖という静かな湖水から流れ出た水は澄んでいて、
ヤマメが泳いでいるのが見えた」

「木立に囲まれた風情のある温泉宿、
その一角にアーティストたちがたむろする喫茶店もある。
私の個展会場は驚いたことにJR久大線ゆふいん駅の待合室だった」


下のURLは、
湯布院盆地の四季折々を写真で紹介している十七代さんのブログです。
素晴らしい湯布院の数々をどうぞ、ご堪能ください。
「散歩のお供はカメラを持って」(湯布院散策)

谷川氏はここで「空想の森美術館」の館長・高見乾司氏を紹介された。

自然環境に恵まれた湯布院も企業による乱開発で樹木が伐採されていく。
そうした乱開発を食い止めようと、高見氏は仲間と共に山を購入。
植樹して森の復元を図るとともに美術館建設をしたのだという。

「土から空へ」の中の「湯布院」の記事。
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谷川氏は、
「美術を媒介にした運動が環境保護運動と連動しつつ、
人々が手をつなぎ合っている姿」に感動。

湯布院から帰った翌年の1993年、プロもアマも関係なく、
自宅の軒先やアトリエの一角を開放して自作の作品を展示するという
「伊豆高原アートフェステバル」をスタートさせた。

私が取材に訪れた年はフェステバルも7年目で、
地元の幼稚園から小・中学生すべてが加わるなど、
参加84軒という盛り上がりを見せていた。

そして25年目の2018年、
「五月祭」と名を変え、さらなる発展を続けている。

「伊豆高原五月祭」

このフェスティバル開催の発端となった「湯布院空想の森美術館」は、
開館から15年後の2001年、財政難などで閉館。

しかし再開の声が高まり、
2018年、古民家を移築して新たな一歩を踏み出した。

同美術館HPの「湯布院アート1970~90年代のこと」に、
「伊豆高原の風」として谷川氏のことが書かれています。

「湯布院空想の森美術館」

さて、「アステカ怪人」の町への貢献に紙数を取られ過ぎて、
本職の画家としての話が疎かになりました。

谷川氏の絵は、かなり異色です。

「ツバメの季節」1999
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いただいた絵はがきより

谷川氏自身、ご自分の絵についてこう語っています。

「対象を描くというより不思議なことを記すという衝動にとらわれてしまい、
その結果、極端にデフォルメされた記号らしきイメージの充満になってしまう。

それゆえ意図しないにもかかわらず、
子供の走り書きを思わせる稚拙さに似通った反具象性を帯びたものに
なってしまうのです」

アカデミックな美術教育観や既成の美意識を全く無視して、
自分の絵画衝動をストレートに押し出す、
そのことに少しためらいを持っていた谷川氏だったが、


プリミティヴィズムに貫かれたゾンネンシュターンの作品に出合ったことで、
そのプレッシャーから解放されたという。

※ゾンネンシュターン=シュルレアリスムのアウトサイダーアート作家。

「猫のいる室内」2000
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いただいた絵はがきより

その谷川氏、絵本にも挑戦。
初挑戦の絵本は「ウラパン・オコサ」で、
これは数が1(ウラパン)と2(オコサ)の二つしかない南の島のお話。

今は孫が愛読しています。


左が絵本作家の田島征三さんにいただいた「いのちを描く」
右が谷川さんの「うたがきこえる」。上に見えるのが「ウラパン・オコサ」
おこさ

最後にひと言。

「静岡の文化」誌(2000 静岡県文化財団)で、
谷川氏は画家・鈴木慶則氏
(水の絵の作家)のことをこんな風に語っています。

「トロンプ・ルイユを描いていたころの鈴木「と」石子順造は、
実作者「と」理論家というかたちでメビィウスの輪状に連動している
よい意味での干渉関係あるいは照応関係と思えた」


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アーティストさんからの手紙②

私が出会ったアーティストたち
03 /07 2024
宮迫千鶴(みやさこ ちづる) 画家

広島県生まれ。

かつて宮迫千鶴さんという画家がいた。
谷川晃一さんと伊豆高原で暮らしていた。

谷川さんも画家で、私は1999年6月にお二人の元を訪れてお話を伺った。

その2か月後、丁寧な手紙が届いた。


「お手紙を書こうと思いつつ、
アメリカへ行ったり東京、大阪と動き回っていて時間がとれませんでした」

「あなたにはパッとひとめ見たときから安心できるものがありました」
との有難いお言葉も。


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取材のとき、
「ある時、ダウン症の子が絵を描くのを見たのよ」
そう言って床に腹ばいになった。

「紙にね、こう描いたの。下から上にグーッと筆を走らせるのね。
花の芽が地面から出て空に向かって茎を延ばしていくのよ。
延ばした先に紙がなくなればそこでおしまい。
その無心なこと、のびやかさがなんともよかった」

幼い頃両親が離婚。父との暮らしの中では、
母を通しての女性の”文化”は継承されなかった。


父は母のいない娘に人生の歩き方をこう教えた。
「人に教わるな。自分で答えを見つけなさい」

「伝統的結婚の外側(アウトサイド)で自己形成したから、
ある意味では旧来の日本人集団性から自由だった」


2001年にいただいた賀状。
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「今度ゆっくりお会いしませんか? お互い”宮”という字に縁がありますね?」

しかしお会いしないまま、この賀状から以降、連絡が途絶え、
6年後の2007年、突然、賀状が届いた。


その空白の数年間は私が新聞社を辞めたあとのころで、
毎年、会社宛てに届いていたものを事務員が捨てていたとのこと。

前任者が退職して新たな事務員が転送してくれて初めてわかった。

宮迫さんは私からの返信がないまま、毎年、お送りくださっていたのです。


しかしこの翌年、夫の谷川氏から、
「妻 宮迫千鶴が永眠いたしました」のハガキが届いた。

私より三つも若い宮迫さんの思いもしなかった訃報でした。

改めて前年の賀状を見ると、気のせいでしょうか、
その死を予感するような色彩のない寂しい絵です。

私はとうとう会わずじまいになってしまいました。

谷川、宮迫

宮迫さんはエッセイなども書かれていました。

私が読んだ本は2冊。


一つは東大名誉教授の上野千鶴子氏との対談、
「つるつる対談・多型倒錯」
創元社 1985

もう一冊は、「森のイスキアで話したこと」創元社 1999

青森県弘前市の岩木山の麓に、
山荘「森のイスキア」を開設した佐藤初女さんとの対談です。

「イスキア」とは、イタリアにある島の名前。
生きる希望を失くした青年がこの島の豊かな自然の中で暮らすうちに、
元気を取り戻したという伝説の島。


佐藤さんは悩みや問題を抱えた人たちが伝説の青年のように、
再び元気に社会へ帰っていける、そんな居場所を考えて
「イスキア」の名を冠した宿泊施設を建てたのだそうです。

そこで手作りの食事を共にしながらその人に寄り添い、話に耳を傾ける、
そんな活動をされていました。

表紙の絵は宮迫さん。
盛りのイスキアで話したこと

子供の時から「幾多の困難」(笑)を、自ら突破してきた私だったから、
ここにお世話になることはまずないなぁなんて思いつつ読んでいましたが、
岩木山に登ったときのことや、
麓の無人販売所で買ったりんごのおいしかったことなどが浮かんできて、
無性に懐かしくなりました。

本を読み進むうち、
威勢のいい宮迫さんがカトリック信者の佐藤さんにだんだん共鳴して、
「丸く」なっていくのが、ちょっぴり可笑しかったり可愛らしく思えたり…。


さて、「旧来の日本人性から自由でした」とおっしゃっていた宮迫さん、
実はとてもシャイで律儀な方でした。

母のいない娘に父は「自分で答えを見つけなさい」と自立への道を示唆。
娘は父の教え通り、時代を先取りする思考を身に着けながら成長した。


「だからいつも周りから浮いていました」と笑った。

伊豆の工房に飾られた絵は、淡い色調とふくよかな線、塗り忘れたような
小さな空間から、とぎれとぎれに聞こえるメロディ。

そんな絵だった。


千鶴3

「絵は描いた人だけではなく見る人の体も心も癒すものだと思う。
私は見る人の心の日曜日になりたい」

そうおっしゃった宮迫さんの絵には、どれにも優しい母性が感じられたが、
それは幼い頃別れた母への、永遠の思慕のように私には思われた。


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アーティストさんからの手紙①

私が出会ったアーティストたち
03 /04 2024
久々に美術館へ出かけたら、昔お会いした方々のことが思い出されました。

私は、1998年から1999年にかけて県内の画廊46カ所を巡り、
引き続きアーティスト76人の取材に入った。

連載のほかに定期的に催し欄と単発の記事、
ときには県庁詰めの記者の代わりや、叙勲者や祭りの取材を頼まれたり。

正社員の記者たちは、例えば静岡支局なら市内の取材だけで済むが、
私の守備範囲は静岡県全域。だから目の回る忙しさだった。


へとへとになって夜遅くタクシーで帰宅すると、
隣家の主婦が裏の戸を細目に開けて盗み見て、
翌朝、路上で近所の主婦たちを集めてのうわさ話。

「夕べ、男と遊んできたらしいよ」と。

大変でした。


でもこうして来し方を振り返ってみると、
得難い方々との交流があって、「豊かな人生だったな」と。

アーティストさんたちからいただいた挿絵など、ちょっと披露してみますね。

(敬称略)

ーーーーー

大井碧水(おおい へきすい) 現代書家

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静岡県藤枝市生まれ。
筆まめな方で、繊細な美しい墨跡の手紙をたくさん頂戴しました。

私が在職中に不慮の事故で亡くなりました。
お酒が大好きな優しい方でした。


ーーーーー

三井康亘(みつい やすのぶ) マルチ・アーティスト

大阪生まれ。同志社大工学部を中退してこの道に。
ロボット・アーティストとして著名な方ですが、イラストレーター、文筆家
と多彩な方なので、新聞では「マルチ・アーティスト」とご紹介しました。


「息子がご著書の「アクリルロボットの工作」を読んでいた」とお伝えしたら、
「光栄です」と。
下はお送りくださったイラスト入りのハガキです。
裏にご本人の説明が書かれていました。

「エストニアのアンティーク店でみつけたロシア・イコンの天使を
描いたものです」
(左)
「我が家のギャラリー。今はどんどん展示物が増えていく傾向にあります」

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三井氏からの賀状です。

金ピカのお鼻にメガネをかけた愉快なおじさんが、
口をへの字にして、「やぁー、どうもどうも」と左手で頭をかいている図?

いただいたとき、三井さんにそっくりだと思ったものです。


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ーーーーー

王伝峰(ワン・チャン・フェン) 画家

中国山東省生まれ。
このとき32歳でしたが、すでに中国、日本、ドイツで個展を開催。

「富士山が好きなので富士宮市に住んでいます」

「北京、タイなどのスケッチ旅行から帰ってきたばかりです。
頭に新鮮な空気を入れてきました」とにっこり。

王伝峰氏と私。王さん、私の息子と同い年でした。
王さん

このころ主なテーマにされていたのが「魚」

「生物は微生物から始まり、
魚から人へと無限の時間を経て進化し続けている。
私事でいえば私には命を与えてくださった母がいて、次には私が命を与えた
私の子供がいる。母の生命は連綿と続いていくわけです。
そういう人の命の原点を魚に求めて作品にしたのが魚シリーズです」


「私は日本のお茶や華の世界、とても気に入っているんです。
でも今の日本人はそういう伝統文化をちょっと忘れてしまっている。
もったいないです」

王氏のひと言一言がすごく心に響きました。

当時の新聞記事。
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王氏はこんなこともおっしゃっていました。

「魚というのは束縛されるのが嫌いな生き物ですよね。
海のどこへも自由に泳いでいける。
私も自分の芸術を世界中に持っていって、
これが東洋の芸術だと認めてもらえるようになりたい。

来年、ニューヨークで個展を予定していますが、
中国の文化でもなく日本の文化でもない、
僕自身の東洋の文化を見せたいと思っています」


王氏にいただいた画集「王 伝峰の世界」の表紙の一部です。
1999年発行。
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このときお会いしてからもう25年も立つんですね。
あのとき32歳だった王さん、今は50代半ば、
なんだか信じられないけど、私自身がもう傘寿ですものね。

久しぶりにネットでお顔を拝見したら、
柔和な人懐っこい笑顔はあのときのまま。

ますますのご活躍を!


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雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞