fc2ブログ

いつの間にか「傘寿」㊴

いつの間にか傘寿2
02 /15 2024
次兄から言われたことがある。
「お前は昔のことを克明に覚えているから怖い」

そう言われて初めて気が付いた。
私は映像で記憶するという、兄とは違う記憶の仕方をしているらしい、と。

だから過去を振り返る時、そのときの映像を巻き戻せば表情や匂いと共に
記憶が鮮明に蘇ってくる。ただしこの記憶装置は、
感情を揺さぶられたり衝撃的、印象的な出来事に限られていたから、
苦手な学校の勉強にはほとんど役に立たなかった。

持って生まれたこの記憶装置、
40代半ばで入った新聞社でもごく自然に活用していたから、
取材の時、メモもテープへの吹き込みもしなかった。

そんな私を見てデスクが忠告した。


「あとで取材した人から、
そんなことは言ってないと苦情が来た時困るから証拠を残してくれ」


取材中の自分の写真はわずか。これはその一枚。
img20240203_15343902_0001.jpg

もっともだと思ったものの不遜にも私は、
テープレコーダーは買ったものの使わずメモもいい加減だった。
だが幸いにも、記者時代の14年間、苦情は一度もなかった。


第一、テープ起こしに時間を取られるなんて愚の骨頂だし、
そうした記事は往々にしてダラダラとして、
一体何を言わんとしているのかという意味不明な記事になりやすい。

実際の取材の現場で要点をすばやく掴み記事にする方が、
よっぽど正確な記事になる。
それに目の前で録音されれば緊張して、よそ行きの会話になりがちだから、
本音が出ない。つまらない記事になる。


今は記者会見の場で各社一斉にパソコンに打ち込んでいるが、
あれはデスクへの送信なのか、あとから記者自身が読んで記事にするため
なのだろうか。今の私にはわからない。


画家修業にイタリアへ旅立つ若者へインタビュー。若い友人たちも一緒に。
img20240203_15343902.jpg

幸い私の担当は文化面で、
事故や事件のような緊急を要するものではなかったし、企画も取材対象も
全部私の自由だったから事前調査にたっぷり時間を使うことができた。

演劇人なら伊豆半島の先端から遠州の山奥まで足を運んで芝居を観、
アーティストなら展覧会場へ出かけたり画集を見たり、
著作があれば読んで、可能な限りの情報を頭に入れてから取材に臨んだ。


そうして情報収集をしているうちに人物の輪郭がおぼろげに浮かび上がり、
その人のクセや主張、趣味、家族、経歴などが見えてくるから、
取材当日は相手との対話が以前からの知己のように弾んだ。

勉強不足や事前の調査不足は、
記者の思い込みや何を言いたいのかわからない記事になる。

今はそういう記事が多くなったと思うのは、私だけでしょうか。

「寄り道・回り道ー大井川を訪ねて」の取材で。1993年。
かつて就航していた高瀬舟の船宿など大井川流域に暮らす人々を訪ねた。
img20240203_15392924.jpg

元・夫のSは人生の大半を雑誌のライターとして生きた。
ただ彼はアンカーライターだったから、取材経験はない。

アンカーライターというのは室内にいて、
取材記者が現場で取材してきたデータや資料を元に、
雑誌の掲載用の記事に仕立てるライターのこと。

彼が20年勤めた雑誌で一度現場取材をしたものの編集長から、
「君には無理だ」と言われたと、正直に自分の著作に書いている。


アンカーライターにはそれなりの才能がいるだろうが、
現場を見ずに書くという臨場感に乏しい仕事で、
想像力を働かせすぎると事実とかけ離れた記事になる。

「講釈師、見てきたようなウソを言い」の状態で記事を書くのは、
なんだか気の毒だなとも思った。


俳優の橋爪功氏率いる演劇集団「円」と地元の人たちたちが一つになって、
菜の花が咲き乱れる野外で「菜の花舞台」を演じた。
その第一回目の公演(1994年)を取材した。写真は練習風景。
風邪を引いて鼻水が止まらず、難儀した取材だった。現在も存続とのこと。
img20240204_15483049.jpg
静岡県伊豆市小土肥

彼は作家志望だった。
38歳の時、ある新人賞に応募したが落ちた。
そのときのことを彼自身が後年、自著にこう書いている。

「ほとんどフィッシュオンしていたのに、土壇場で逃げられた」


しかしそれは事実ではない。

応募も通常の形ではなく、その出版社にいる友人に頼んで予選を飛ばし、
いきなり最終候補作5編の中にいれてもらったという特別な扱いだった。
だから「もう受賞したのも同然」と、彼は浮かれていた。

だが落ちた。私はそのとばっちりを受けて、
「お前が俺の才能を潰した。お前のせいで落ちた」と散々罵倒された。


どんなものを書いたのか気になって本屋で雑誌を求めたら、
選者のこんな酷評が目に飛び込んできた。

「これは小説とは呼べない。週刊誌記事の拡大に過ぎない」


Sの叔父は芥川賞候補にもなった戦前の作家だった。
生い立ちや生きざまをこれは絶対書かねばという強い動機に立ち、
技巧におぼれず淡々と書いていたが、Sの文章にはそれがなかった。

作り過ぎていたし、知ったかぶってもいた。
面白いだろう?凄いだろう?という自意識が先走っていた。

彼が還暦になって出した最後の本を今、読んでみたら、
「屈折」や「言い訳めいたもの」ばかりが目に付き、その根底に、
叔父の作家が指摘していたSの亡父の「えべったん笑い」と同じ、
えへらえへら笑ってごまかす「逃げ」みたいなものが感じられて、
やっぱり「文は人なり」だよなぁと、哀しいような寂しい気持ちになった。


私には、
「現場に立っての取材なくして物は書けない」というこだわりがあった。

写真家が「その場の動きを切り取って静止画像にする」ような、
そうした個人技に魅せられていたから、
元旦でも休日でも現地を飛び回っていた。

未知の人を掘り起こして新聞紙上で知らしめるという醍醐味もあった。
そして、たくさんの人に出会い、その出会った数だけの人生を知った。

静岡支局にて、掲載紙を前に。
img20240203_15343901_0001.jpg

まだ記者になりたてのころ、
一人の県立静岡農業高校・園芸科の生徒さんに会った。

「高校生輝きコンクール最優秀賞」(産能大学主催)を受賞した
17歳の高村直登君。


早いものですね、この取材からすでに30年余たちました。
あのとき「夢はオランダ留学。品種改良がケタ違いに進んだ国ですから」
とおっしゃっていましたが、きっと実現されたことと思います。
高校生バラ

彼が言った。
「バラは改良に改良を重ねて大輪の美しいバラになりました。
でもその陰で失ったものがあります。
香りです。
バラは美しさと香りが揃ってバラなんです。

香りを失ったのは、
色と形ばかりを重視した育種家の考え方にあることに気づき、
色、形、香りの三つ揃った本物のバラを作ろうと決意。
僕は今、その香りを取り戻そうと実験を重ねています」

その後私は偶然にも、全く別の方からまた別の「香り」の話を聞いた。

マスクメロンの品質・生産額で日本一を誇る袋井市の、
その基礎を作ったメロン研究者で、
元・静岡大学教授の鈴木英治郎氏
(1908年生まれ)がその人だった。

私は1994 年から一年かけて静岡県内の旧東海道二十二宿を歩き、
「今」と「過去」をつなぐ「ぶらぶら旅日記」を書いた。
魅力的な場所・人だらけで私はしょっちゅう街道を大きく外れて歩き回った。

88回の連載で100人ほどの方にお会いした。
その中のお一人が鈴木先生だった。

img20240210_11330782.jpg
いろいろお話を伺ってそろそろおいとまを、と思っていたとき、
先生が「メロンの香り」についてポツリと話された。


「マスクとはジャコウ(香り)を意味しています。だが見た目や甘さを重視
するあまり、香りをおろそかにする傾向にあります。
僕はそれを懸念しています。香りの研究をしてくれる人がいれば…」と。

鈴木先生のご著書「メロン考・1991」鈴木英治郎 1991 私家本
img20240210_11211817.jpg

そこでバラの香りの研究をしている高村君の話をしたら、
「えっ、そんな若者がいるんですか」と、鈴木先生の顔がパッと輝いた。


先生の優しいお顔は今も忘れがたく、落ち込んだ時助けられています。
img20240210_11192525.jpg
同著より
にほんブログ村 歴史ブログ 日本の伝統・文化へ
にほんブログ村
スポンサーサイト



雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞