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いつの間にか「傘寿」㊱

いつの間にか傘寿2
02 /03 2024
それは唐突だった。

「会社辞めた。東京へ引っ越す」

息子が3歳になる直前だった。
運の悪いことに息子は日本脳炎の予防接種で高熱を発し、
危機を脱したものの衰弱が激しい時だった。


だが引っ越しは強行された。
神奈川県の端っこから東京まで、
ぐったりした息子をどのように連れて行ったか記憶がすっぽり抜けている。

東京の住まいは2階建ての木造アパートで、
似たようなアパートが立ち並ぶ吹き溜まりのような場所だった。


でも東京では雪が降った。初めて見る雪に息子は大喜び。
さっそく長靴を履いて庭に出て、雪だるまを作った。
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出版業界は大盛況の時代で、面白いように仕事が舞い込んだ。
同時にSの暮らしも派手になっていき、朝帰りが当たり前になった。

明け方帰るなり、「天ぷら食いてえ」と命令されて、
女の香水の匂いを漂わせているSのために天ぷらを揚げた。


予防注射の副作用を発して以来、息子は喘息持ちになったが、
ゼーゼーと苦しむ幼子の横で、Sは平然とタバコを吸い、
酔っぱらって大いびきをかいた。

Sの働きで収入は大幅に増えた。
だが入金するとすぐ多額を引き出されて生活費が足りない。


私は息子を保育園に預けて、家で校正や雑誌の記事を書き始めた。

保育園入園を申し込んだら区の役人から、
「旦那は女房子供を食べさせられないほど低収入か」と言われた。
無事入園したが、園長兼任の大学教師から「楽しそうに見えても
長時間保育はお子さんには負担が大きいんですよ」と言われ、
そうだなと思ったがどうしようもなかった。


お昼寝の様子。高いところの子供、落っこちないか心配した。
保育園昼寝

後年、Sが書いた本を読んだら、こんな記述があった。

「会社勤めの頃の月給は15、6万。当時はそれと同じくらい飲んで使ったが、
全部、会社のツケにできたからよかった。
でもフリーになったら全部自分持ちになったから大変だった」

Sは湯水の如くお金を使った。
私が息子を保育園に預けて、家で細々と得る収入なんて焼け石に水。

ささやかながらも安定していた団地での暮らしが思い出されて、
私は徒労感を覚えた。

保育園で息子を可愛がってくれた保母さんがいた。愛称は「レモンちゃん」
嫁ぎ先の三重県熊野市から手紙をくださった。
中にお嫁さん姿の「レモン先生」の写真が同封されていた。
手紙れもん

そんなとき、義姉から電話があった。
「あんなに収入があるんだから、こっちを援助するのは当然じゃない?」

義姉はとげとげしい言葉の中に「なんて気が利かない嫁だろう」と匂わせる。
「いくらぐらいですか?」と聞いたら、「月3万。そのくらいは出せるわよね」

その一件をSに告げると、アハハと軽く笑った。

「義姉さんはあんなに収入があるのにって言ってたけど、
どうしてうちの収入を知ってるの?」と聞いたら、
「姉貴に確定申告やってもらっているから」と、至極あっさり言った。

なぜ妻の私に頼まないのか。バカにしているのか。
どのみち、私は頼りにされていないってことなんだと思った。

父親不在の夜が続く。
布団に入って息子に絵本を読んであげるのが日課になった。
そのうち息子は自分でもお話を作るようになった。

「おばあさんがワニを焼いて食べました。
ワニを食べるおばあさんは、ワニを食べないおばあさんのところにいます。
ワニを食べないおばあさんはご飯を食べます」

実家の母から送られてきた甚平さんを着て、生まれて初めて花火をした。
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義姉からの要求が目に見えて増えてきた。

「せいちゃんの嫁さんにあんたの着物を貸してやって」と言われた。
私の返事を待つまでもなく、Sが当然のように義姉宅へ着物を届けた。

義兄の「せいちゃん」の嫁は「さる銀行頭取の姪」と義姉は言っていたが、
そんなご令嬢が「親戚の結婚式に着ていく着物がない」なんて、
バレバレなのに懲りずにまだウソをつく。


この「嫁さん」は、がっしりした体格で太い眉毛のキツイ目をした人だった。
自分が「令嬢」などと言われていることをたぶん知らないのだろう。
気の毒に思ったが、同情はしなかった。


保育園の運動会。私に似て駆けっこはいつもビリ。
でも小学校でも中学でも恥じることなく最後まで走り抜いた。
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着物はなかなか返却されなかった。
数か月後ヨレヨレで返ってきた。広げると襟にもわきの下にも汗滲みが。
胸元には点々と食べこぼしの跡が付いていて、思わずアッと声が出た。

この着物は自分で購入し、
その記念に写真スタジオで写真を撮っただけだったから、
食べこぼしなど付くはずがない。それに夏でもないのになんで汗ジミ?

腹が立って「ひどく汚れていました」と抗議したら、
義姉がいきなり怒鳴り散らした。

「初めからついていたわよ。難癖付けるのはよしてよ」

悔しくて腹が立ってどうしようもなかったが、黙るしかなかった。
でも疑問が湧いた。
義姉は私が着物を持っていることを、なぜご存じだったんだろう。

義姉からの要求は着物だけではなかった。

「あれ、もういらないんじゃないの? こっちへ頂戴」と、
まるで我が家の持ち物は何でも知っているとでもいう風に要求してくる。
なんでなの?

夫から家の収入も知らされない妻ってなんだろう。
義姉に支配されている「私たち一家」って、なんなんだろう。

そんなある日、Sが私に告げた。
「みんなで旅行に行くことになった。お前や息子は連れて行かないから」

それを補足するように義姉から電話が来た。

「Sちゃんの結婚の報告を兼ねて、
お父ちゃまの遺骨を故郷の墓に納めに行くことにしたのよ。
私と母さんとせいちゃんとSちゃんの私たち家族4人だけで。悪いわね」

「私たち家族4人」


その言葉にS自身がなんの疑問を持たないことが、私には信じられなかった。

ある日保育園へ迎えに行ったら、息子の指に包帯が巻かれていた。
先生が申し訳なさそうに言った。「他の子からトイレのドアに指を挟まれて
しまって。泣くか騒ぐかすればすぐ気が付いたんですけど」

帰る道々「どうして助けてと言わなかったの?」と聞いたら、
「僕さえ我慢すればいいんだよ」と。私はハッとした。

この子にこんな考えを植え付けてしまったのは私なんだ。
我慢ばかりしている母親を見て、それが正しいことだと思ったのに違いない。

罪悪感と自分の不甲斐なさでいたたまれなくなった。


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義兄の「せいちゃん」は、「会計士の国家試験」の勉強のためという
見え透いたウソをつき通して、嫁や我が子のいる家へ行くことはなかった。

このときすでに小学生になっていた彼の娘は、
数か月に一度、「父親」のいる家へ来て数時間で帰った。
この異様な暮らしを彼女はどう思っていただろうか。

義姉は暗黙のうちに示し続けた。
「私たち家族4人」は永遠に「4人」だと。

だが10数年後にその行き着く先に悲惨な現実が待っていたことを、
この時点で彼らも私も知る由もなかった。

離婚という選択肢は全く考えなかった。
ただ普通の家庭生活がしたい、この「壊れた人たち」から逃れたい、
そればかり考えていた。

母がよく言っていた。

「困難にぶつかっても誰も助けてはくれないんだよ。
だから自分で起き上がるしかないんだよ」

自分で起き上がる、そのことを模索しているうちに、
私は第二子を妊娠した。

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雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞