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いつの間にか「傘寿」㉟

いつの間にか傘寿2
01 /31 2024
「僕はあなたを憎からず思っていました」

結婚式の席で、Kさんはそう言った。

あのとき私は、誰もいない草原に立ってその声を聞いたような気がした。
同時にSが会社の会合の時、
「花嫁人形」を歌い出した意味がこのときはっきり読めた。

文金高島田をつけ、赤地に金箔の振袖に銀箔の帯を締めた私に、
あの歌がかすかに聞こえてきた。


♪ 金襴緞子の帯締めながら 花嫁御寮はなぜ泣くのだろう
  文金島田に髪結いながら 花嫁御寮はなぜ泣くのだろう


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たぶんSは思っていただろう。
自分の「たくらみ」に、私が気づいた時泣くだろうと。
でも私は泣かなかった。かわりに見抜けなかった自分を責めた。

あとで写真を見たら、Kさんの近くのテーブルにポエムの友人がいて、
怒ったような顔で写っていた。
Sは泣き笑いのような顔でいた。


そのころポエムの友人は美術刀剣商のところで働いていて、
そこの社長の本のことでこの会社に出入りしていたから、
顔見知りのSにKさんへ取り持って欲しいと頼んでくれたのだろう。

それが裏目に出た。


ほどなく彼女も結婚した。
私は自分の結婚式と重ね合わせていた。
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思えばSが私の前に現れたのはそのころだったから、
Kさんには伝えないままだったに違いない。


それから一年後、生まれたばかりの息子にKさんからお祝いが届いた。

直径20㎝ほどの玩具の和太鼓で、牛皮を張った面には、
朱、緑、黒の三つ巴が鮮やかに描かれていた。


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叩くと軽快にトンと音が跳ねた。
トン、トン、トン。

撫でるように叩きながら、
私はこの玩具を買い求めているKさんの姿を思い浮かべた。
何度も浮かんでは消え、消えては浮かんだ。


息子を寝かしつけた後、
花嫁衣装に心を隠して結婚式に臨んだ花嫁の「ラ・ノビア」を、
小さな音量で繰り返し聞いた。


結婚式を挙げている教会から花嫁を略奪する「卒業」という映画もあった。
息子を抱っこしながら、映画雑誌の中のダスティン・ホフマンと
キャサリン・ロスのあのシーンを飽かず眺めたりもした。

SはKさんとは出身校が同じで、入社も同期で親しかったが、
結婚後はほかの友人たちのように、家へ招待することは一度もなかった。


息子の写真を撮る時、ありったけの玩具を並べて撮影するのに、
あの和太鼓だけは決して手に触れなかった。
どこかに写っているかもと思いつつ、アルバムを見たがやっぱりなかった。

人形と

それから間もなくKさんは出版社を辞めてフリーのライターになり、本を出版。
それが注目され売れて、瞬く間に作家の仲間入りを果たした。

その初版本を寄贈してくれたのに、
Sはページを繰ることもなく本棚に放り込んだ。


3年ほどたったころ、Sも会社を辞めて文筆家を目指すことになった。

フリーのライターとしてはまずまずの仕事があったが、
目標にしていた作家への道は厳しく、新人賞には落ち続けた。

そんなある日、神妙な顔でSが言った。
「お前を作家の妻にしてやれなくてごめん」


そんなことを考えてくれていたなんてと、私はちょっぴり胸を熱くした。

だがその言葉は数年後、こんな罵声に置き換わった。

「俺が文学賞をとれないのはお前のせいだ。
お前と家族が俺の才能を潰したんだ。謝れ!」


でもそのころはまだ、多少の分別が残っていたのか、
散々罵倒したあと部屋に籠って落ち着くと、憔悴しきった顔でこう言った。

「さっきはみっともないことを言ってすまなかった」


そうしたSの言動の奥に、
快進撃を続けるKさんの存在があったことは否めない。


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ずいぶん後になって、遠慮がちに長男が言った。
「僕はお父さんの性格、好きだよ」

私は黙って頷いた。


たぶんSは私と出会わなければこんなふうに無理を重ねることもなく、
もっと自然に穏やかに人生を楽しめたはず。

あのときのSのほんのちょっとのいたずら心が、
そして「又三郎の風」の中に飛び込まなかった私自身の勇気のなさが、
すべてを招いたのだと。


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いつの間にか「傘寿」㉞

いつの間にか傘寿2
01 /28 2024
実家の母から、お宮参りの祝着が送られてきた。

長兄のとき使った祝着だった。


母は21歳で結婚。年子で長姉と長兄を出産した。このとき23歳。
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夫のSが「宮参り? くだらねぇ」と言うかもしれない。
そう思いつつ祝着を見せたら、意外にも「行く」と言う。

さっそく、近くの氏神さまと思しき無人の神社に出かけた。

母のように正装してという訳にはいかなかったが、
神さまにこの子が生まれた報告と無事成長を願うことができて安堵した。


お宮参り

Sの態度も少しずつ変わってきた。

だが珍しく抱っこして「ねんねんよ」をやれば、
振り回し過ぎて柱に赤ん坊の頭をぶつけて大泣きをさせてしまうし、
相手をしてもすぐ飽きてほっぽり出す。

元日を過ぎてからSの実家へ挨拶に行ったら、
義姉から「夫の実家には元日に来るものだ」と言われた。

赤ん坊を連れての外出は大変だった。
生後4か月の息子を背負い、おむつやミルクを持って出かけたが、
Sはなぜか私と離れて電車に乗った。


綿入れのねんねこ半纏に大荷物を持った私を気の毒に思ったのか、
中年のおじさんが「ここに座りなさい」と席を譲ってくれたが、
Sは遠くにいて知らん顔でいた。

息子が動物園や遊園地を喜ぶ歳になったときも、
「人のいない日なら行ってもよい」なんて言っていたから、
父親として見られることに抵抗があったのだろう。

家では息子と自分にヒゲをつけて面白がったりしていたが…。
父と

翌年、私たちは出来たばかりの団地に引っ越した。

職場からまた遠くなったが、風呂もトイレもダイニングキッチンもあり、
部屋数も増えてやっとまともな暮らしになった。

意外なことに、
結納のとき「うちは形式的なことはしませんから」と言っていた義姉から、
初節句の五月人形が届いた。

実家の両親からは鯉のぼりが送られてきた。


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生後11か月になりました。あんよはお上手でごきげんです。

今年のお正月、次男のところの生後1年の孫に、
この「あんよはお上手」をやってあげたら、大喜びでもっとやれとせがまれた。

だが傘寿の腰が痛みだして、長くは続けられなかった。


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私たちの建物は一番はずれにあった。
出来立ての大団地で立派な商店街も交番も診療所もあった。

ただ私は買い物には難儀した。

まだスーパーマーケットのない時代で、店主に注文しなければならず、
私は団地の主婦たちの勢いにはじかれて取り残され、
誰もいなくなってからようやく買い物が出来たという体たらくで、
あまりにも帰りが遅いのでSが見に来たこともあった。


父親としての風格がだんだん出てきて、息子と自然に接するようになった。
ホッとするものの、「階段から落ちて流産してくれ」と言った言葉を、
私は払拭できないままでいた。

それは決して息子に漏らしてはならないことだと、固く心に誓っていた。


団地

向かいは沖縄出身のご家族だった。
ちょうどベトナム戦争のときで、ご主人は米軍の輸送船に乗っていた。
目の大きな美人の小学生が二人いて、息子をよく可愛がってくれた。


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その息子が沖縄に一家を構えて永住。

不思議なご縁だと思った。


    ーーーーー中丸明氏ーーーーー

徳間書店にいた「栗原裕」さんが、その後スペインに渡り、
中丸明というエッセイストとして活躍していたことを最近知った。


新入社員研修の時の栗原氏。
栗原裕

私たち一家が団地に住み始めたころ、その栗原さんがぶらっと訪ねてきた。
「あれ、栗原さんもここに?」と聞いたら「そうだ」という。
私と同期で夫・Sの一年先輩だったが、これまで親しく話す機会はなかった。

朝、ぶらりとやってきて昼飯にカレーを出したらそのまま畳にごろり。
すっかりくつろいで星が出るころやっとお帰りになった。


スペインが大好きで「絵画で読む聖書」「ハプスブルク一千年」など、
スペインに関連した著作があるという。
そういえば家に来た時、フラメンコギターを弾くんだと言っていた。


Wikiで「中丸明」を見たら、「登場人物に名古屋弁をしゃべらせる」
「非常に下品な下ネタが多い」とあって驚いたが、それなら図書館には
ないだろうと思ったら、ちゃんとあったので二度びっくりした。

そして著作を読んで三度目の「びっくり」をした。
スペインへの情熱と家族愛。見事な生きざまだった。


「スペインひるね暮らし」中丸明 文藝春秋 平成9年
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「東京の某所の、公衆便所の真ん前の」「大小便と酔っ払いのゲロの悪臭が
いつもたちこめていて」「乞食が日溜りで昼寝をむさぼっている」
(同著より)
そういう環境にあった「小さな出版社」で30年勤めて退職。
そんなひどくはなかったよ!

27歳のときから毎年渡っていたスペインに、退職を機に住み始めた著者。
酒飲みで女好きでスペイン狂いだが、
常に心にあるのは家族を路頭に迷わせまいとする責任感だった。

日本に残してきた女房・子供と愛猫へも絵はがきを書いたというくだりに、
なんともいえない温かさを覚えた。
2008年没、享年67歳。

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いつの間にか「傘寿」㉝

いつの間にか傘寿2
01 /25 2024
生まれたばかりなのに息子は結膜炎になった。
目をひっかかないようガーゼで手袋を作って両手にはめた。

目薬でかぶれたのか、頬に湿疹。
パンパンに太って平家ガニみたいな顔で、ニコニコとよく笑う。

いただいたベビー服を箱から出して息子の体に合わせてみた。
一歳児のものだったから、ダブダブで潜水服みたいで笑った。

早く大きくなることばかり祈って、カレンダーの日付を消していった。

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抱き上げて一緒に鏡の前に立ったら、ふと不思議な気持ちに襲われた。

「お前の顔はお前自身のものなのに、
横顔はまぎれもなくSの母親のものだし、真正面は従姉妹の〇〇ちゃんだ。
お前はお前の体を流れる何百年もの先祖の血を、
なぜそんなにも体現できるの?


みんなは私に似ていないと言う。似てなんかいなくていい。
なによりもお前自身であって欲しいから。
自分に誠実に生きてほしい。素敵な恋をしてほしい」


M編集長が言った。
「結婚してお前が素直な生き方に入ったのは良かった」と。

これが素直な生き方? そうじゃないよ。

M編集長は「お前さんはいつもトンガってていけねぇや」って言ってたから、
「平穏な」「普通の」と言いたかったんだろうけど、
そういうことじゃないんですよ。

私はとんでもない間違いをしてしまったんじゃないかって、そればっかり。


産後の出血が止まらない。左目までかすんできた。
奥歯まで痛み出したので歯医者へ行ったら、「全く異常なし」と言われた。

でも歯痛は収まらない。「抜いてください」と医者に言ったら、
「健康な歯を抜くことはできない」と。
「構わないから抜いてください」と懇願して抜いてもらったら、すっきりした。


医者が言った。「疲れているんだね。ストレスだよ」
私もそう思った。これは一種の自傷行為だ、と。


「ちゃーちゃん(おかあさん)、疲れちゃった」。
息子は私も父親も「ちゃーちゃん」と呼んだ。

「オイ!」という声でハッとしたら、茶碗と箸を持ったまま眠ってた。
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つくづく思った。
私は自分の若さの使い方を知らなかったのではないかって。

何をやっても中途半端で。飽きたのでもなく夢を失くしたのでもないのに、
続けることを止めてしまう。

怖くて恋などできなかった。飛び込んでいく勇気がなかった。

小学一年生の時の私はそうではなかった。
あのとき私は「とおるくん」に恋をして、猛烈なアタックをかけた。


休み時間になるとあの小さな木の椅子に二人で座った。
密着した腰と腕からとおるくんの体温が伝わってくるのが嬉しかった。

周りなんか見えなかったから、
級友たちに嗤われても先生からイヤらしい目で見られても平気だった。


でもある日、悲喜劇ともいうべき出来事が起きた。
いつものように二人でぼーっと座っていたとき、
溜まりに溜まったおしっこに気づいて慌ててトイレを目指したが、
時すでに遅く廊下で大洪水。恥ずかしさで泣き泣き家へ帰った。


それから間もなく、とおるくんはいなくなった。
風の又三郎みたいに消えた。
先生は「お父さんの転勤で遠くの町へ引っ越した」と言ったが、
私のせいだと思った。


母が送ってくれた安産守り。
上に載っている輪は「赤ちゃん取り違え防止」の足環。
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それから15年。22歳になった私は、
ようやく新たな「とおるくん」を見つけた。Kさんといった。

「とおるくん」がいなくなったのは自分のせいだと、
ずっと罪悪感を背負ってきたのに、Kさんを見たら、
たちまち小学一年生のときのあの熱情に包まれた。

でも、風の又三郎になって風のひゅーひゅー吹く晩、
また私から去っていくのではないかと怖気てもいた。

部署が違うKさんとはなかなか会えない。Kさんからなんのアプローチもない。
私なんかに関心がないのかもと思い悩みつつも、恋しさばかりが募る。

悶々とした日々が続いたある日、ポエムの友人に打ち明けたら、
「ちゃんと告白しなさい。でないと一生後悔するよ」ときつく叱られた。

だが、とうとう告白する勇気も機会もないまま、
私はSの申し出を受けて結婚した。

結婚式の披露宴で祝辞が始まった。その何人目かにKさんが立った。
Kさんは直立不動のまま、口ごもりつつ言い出した。

「僕はあなたを憎からず思っていました」

結婚式の最中に花嫁の私への愛の告白だった。

「お前、何言い出すんだよ」と、
友人が慌ててタバコに火をつけて煙を吹きかけた。
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いつの間にか「傘寿」㉜

いつの間にか傘寿2
01 /22 2024
私たちは横浜の私鉄沿線のアパートの一部屋で、新生活をスタートさせた。
そこは田んぼが広がる農村だった。

トイレが共同だったことは覚えているが、
風呂はどうしていたのか記憶にない。
ただ部屋が西向きだったため夏は蒸し風呂だった。

部屋にあるのは私が独身時代に使っていたソファベッドと箪笥と三面鏡と
本箱。それにコンロに鍋釜に食器類。
18歳で買った鉄製のフライパンも捨てずに持ってきた。


結婚祝いにM編集長からいただいた「輪島塗の椀」
今回の能登半島大地震で、輪島塗や九谷焼の店舗や工房が焼失したり、
破損したりの被害が出ていることを知りました。
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真新しいものはと言えば、
母が送ってくれた布団二組と客用の座布団、母手作りの二人の綿入れ半纏。
それに食器も送ってきた。

食器は家にあった見慣れたものばかりで、
私はガチャガチャと粗雑に使っていたが、
それらは代々、父の家に伝わってきた古九谷などの古いものだったことを、
ずいぶんあとになってから気が付いた。


Sは勉強机と衣類だけ持ってきた。
写真は高校時代のものだけで、それ以前を語るものは何もなかった。

かなりあとから義姉から「これしかないけど」と言って手渡されたのは、
5㎝四方にも満たない割れ目だらけのSの幼児時代の写真だった。


女性社員一同から茶びつに入った日本茶セットをいただき、
かつてご一緒した銀行頭取の令嬢からコーヒーカップのセットが届いた。
令嬢はすでに会社にくることもなくなり、ほんの短いお付き合いだったのに、
どこからか聞きつけて送ってくださった。
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新婚生活は生活費を全く渡してくれないという、困惑から始まった。

当時はまだ現金を給料袋に入れて支給されていたが、
その袋さえ見せず、請求するとこう怒鳴り散らした。

「おれが稼いだ金を俺が使って何が悪い!」


仕方なく私の失業保険金でまかなうという思ってもみなかった事態になった。
その保険金が切れたとき、Sからようやく現金を手渡された。
と同時になにやら書類も渡された。

「俺の奨学金の書類だよ。姉貴がこれからはそっちで払えってサ」


結婚してすぐ、私は妊娠。出産はSの実家に近い病院で。男の子だった。
入院中も退院後も義母の世話になった。息子を私に触らせず黙々と育児。
母乳をやることも出来ずとうとう母乳は出なくなった。
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そうか、そうだったのか。
Sは結婚前から給料は袋のまま義姉に渡していたんだ。

私との結婚後もそれはそのまま続いていたのだろう。

貧しい中で弟を私大にやった。しかも一浪までさせて。
ようやく卒業して有名企業に入って、
さあ、これで貧しさから抜け出せると安堵した矢先、
私という「トンビ」に貴重な現金収入の「油揚げ」をさらわれたのだ。


赤ん坊と同じ布団で寝る義母に「危ないからベビーベッドに」と頼んだら、
「私は寝ないから大丈夫」と言い、昼も夜も片時も離さなかった。
無口な人だったので、おむつ替えも湯浴みも黙って手本を示してくれた。
義母と心を通わせられたのはあの時だけだったが、素直に有難かった。

おかげで赤ん坊の体を洗うのにもすぐ慣れた。
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Sの給料袋は義姉に手渡され、そこから新婚生活分として、
お金をもらっていたのだろう。
Sはそれを「自分が稼いだ金だから全額自分が使って当然」として、
結婚前と同じ気持ちで使っていた。


だがさすがにおかしいと気づいたのだろう。
義姉へ渡すのを拒んだら、義姉から「それなら奨学金はそっちで払え」と。

こういう「家庭」があることを私は予想だにしていなかったし、できなかった。
M編集長の「彼は育ちがいい」という言葉が虚しく蘇ってきた。

妊娠を告げた時、Sは「階段から落ちれば流産できる」と。
予定日を10日ほど過ぎた夜、突然破水。さすがのSも慌ててタクシーを呼んだ。
産科が満員で婦人科へ。ところが真夜中に大破水、陣痛が始まった。
東北なまりの中年の看護婦がベッドを汚したと怒鳴ったのを、
同室の付き添いの人が抗議。他の看護婦が車いすを持って飛んできた。
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結婚前、初めてSの実家を訪れた帰り、Sは私にこう言った。

「俺、あの家いやでいやで。わかっただろう? あの異常な雰囲気。
兄貴はね、何かあるとすぐ姉貴やおふくろに泣きつくんだよ。
この前も駅員にひどいことを言われたと言って、二人に泣き泣き訴えて。


そしたら姉貴もおふくろも、うちのせいちゃんになんてことをと怒って、
すぐ抗議しなさいと。
兄貴は駅に電話を掛けると、大声でバカヤローと怒鳴って電話を切った。
せいちゃん、よくやったねって。40男にそう言うんだよ。あの無職男に…。
バカじゃないかと思うよ。
あいつら、そうしてしょっちゅうつるんでるんだ」


次姉からもらったベビーベッドで眠る息子。
Sは泣いても知らん顔で抱くこともしなかったが、写真だけはよく撮った。

当時の日記に私はこう記している。
「産後、2か月たっても出血が止まらず通院。夜は泥のように眠った。
Sから「ポンコツ」と言われて、産卵を終えてポッカリ白い腹を見せる魚と
同じような気がしてつらい」
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私は返事のしようがなく、ただぼーっとなった。
そんな私に構わず、Sはさも愉快そうに明るく言い足した。

「だから俺、早くあの家出たくてサ。
そしたら結婚っていう方法があったんだよな」

結婚っていう方法?


会社のあの集会の席で唐突に、
「金襴緞子の帯締めながら」と泣き泣き歌ったのは何だったのか。

あれは演出だったというのか。
Sが家を出るための手段に私は使われたってことなのか。


「Sが酒を口にしない日は少ない。ひっきりなしにタバコ。
息子が生まれてから彼はよく苛立つ。
どんなことがあっても、育てて見せるからね」
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だが不思議なことに、
結婚後もSは何かにつけてその「異常」な実家に帰った。

「おふくろがサ。今日は泊って行けってうるさいんだよ。
わざわざあっちへ帰ることもないんじゃないのってサ、ハハハ」

そう言ってカラカラ笑った。

結婚前、母は手紙に書いてきていた。


「とにかく結婚の相手はよくよく調べてくださいね。
盲目にならないようにお願いします」

父の胸騒ぎ、母の心配がこんなに早く的中するとは思ってもみなかった。

そして愚かにも、がんばればなんとかなるという自信過剰が
このときも私を奮い立たせていた。

子供の母親になったことがその後押しになった。
Sはきっと変われる、
だって我が子を可愛いと思わない親なんていないだろうからと。

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いつの間にか「傘寿」㉛

いつの間にか傘寿2
01 /19 2024
10月、私たちは結婚式を挙げた。
人生に一度の晴れ舞台です。

花嫁っていい響きですもの。

Sの「あんなものを指になんてみっともねぇ」のひと言で、
婚約指輪も結婚指輪さえもらえなかった花嫁だったが、
当時の私は強いて欲しいとは言わなかった。


父と母の懸念や忠告も上の空。何が起きてもどこ吹く風です。
何がそうさせたのかって、つらつら考えてみると
一度決めたことはやり通すという忍耐力と自負。

式も滞りなく済み披露宴会場でお客さまのお出迎え。父も母も並んでくれた。
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私は今までどんな困難にも打ち勝ってきた。
母からの理不尽な虐待も逆転の発想で、夕食を作って母を助けて乗り越えた。
だから自分には不可能はないなんて、まあ、自信過剰だったんですけど。


でも人並みに花嫁になれたことには、心底嬉しかった。
式場の手配から招待状、衣装合わせなどすべて一人でやり遂げた。

出しゃばったわけではない。Sは何もせず動かず、何一つできなかったから。

今まですべて一人でこなして自活してきた私と、
一度も家を離れることもなく、すべてを義姉に任せっきりで、
「誰かがやってくれる」ことを当然のように思ってきたSとの差。


これがこののち私をずっと苦しめることになるとは、
その時は思い至らなかった。

花嫁衣装は二着。


式にはウエディングドレスを、お色直しには着物。
こう決めたのはこの形の方が安かったから。
でもすごく気に入った。

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ハプニングがあった。
美容師さんから「化粧道具は?」と言われて、「持ってこなかった」と。

私はてっきり式場で花嫁独特の化粧を施されるとばかり思っていたが、
化粧品は自前だという。
「このままでも、ま、いいか」と、二人の美容師さん。


だから家を出てくるときほんの少し白粉をはたいてきただけで、
私は皆さんの前へ。

ただ式終了後、母からこっそり叱責された。
「せっかくきれいに産んでやったのに、なぜ化粧をしなかったのか」と。

受付や司会進行はSの友人たちが受け持ってくれた。


私の方は姉や兄たち、親戚の伯母、ポエムの知人、
私の短大時代の恩師などが出席。
会社からゆかりの社員たちが大勢、出席してくれた。

徳間社長もずっとお付き合いくださり、祝辞もいただいた。
内容は覚えていないが、なんだかボソボソ喋っていた印象だった。
徳間社長

佐高信氏の「飲水思源」に、社長のこんなエピソードがあった。

側近の社員の結婚式で祝辞を頼まれた徳間社長、
立ち上がるといきなり、


♪ 逃~げたァ 女房にゃ 未練はなァーいいがァー

と、「浪曲子守歌」を歌い出して、みんなのけぞったという。

これを読んで私はすっかり忘れていたことを思い出し、今になって赤面した。
それは入社して間もなく開かれた新入社員歓迎会でのことだった。


一人ずつ壇上に立ち出身地や出身大学、これからの抱負などを語った中、
どんじりに控えていた私はいきなり浪曲を唸った。

♪ 旅ィーゆけばァ ァあ 駿河の~国にィ 茶の~香りィッ

途中でぺペン、ペンと口三味線。

子供の頃のラジオ番組に「浪曲天狗道場」というのがあって、
聞くともなく聞いていたら覚えてしまって…。


壇上に立ってマイクを前にしたら急に唸りたくなって、いい気持で続けた。

♪ 街道一の親分はァ 清水み~なァ~とオオオの 次郎長オオオ~

みんな呆気にとられ、シーンとなった。
その静寂を破るかのようにヤジが飛んだ。

「おーい! 今のはシャンソンかい!」 会場は大爆笑。

双方の親に感謝の花束。予算が足りなくなって私の手作りの花束で。
父の寂しそうな顔を見たら、ああ、父の分をどうして用意しなかったか、と。
父3のA

結婚後、初めて帰った実家で母から思いがけないことを言われた。
「お父さんは親の代表として感謝の言葉を用意していたのに」

父は毎晩、原稿書きに取り組み、夜遅くまで練習していたと母が言った。

「あんたのためにあんなに一生懸命だったのに、
なぜ、そういう機会を作ってやらなかったのか」と母は語気鋭く私を責めた。

あのとき親族の代表として長兄がしゃべった。
長兄は自分の会社の宣伝ばかりで、私はハラハラしどうしだった。

でもなぜ、母は黙っていたのか。
受付や進行係に伝えていれば父の言葉は実現したではないか。

私は聞きたかった。
原稿を何度も書き直し、暗記するほどまで練習を重ねた父の肉声を。

しかし、その後たくさんの年月があったにもかかわらず、
私はとうとう詫びることなく、父と永遠の別れをしてしまった。


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いつの間にか「傘寿」㉚

いつの間にか傘寿2
01 /16 2024
「おーい、アメちゃん」

M編集長が呼んでいる。

「あのな、結婚式のときの引き出物、決まったか?」
「引き出物。あ、そうか。全然考えてなかったです」
「そうか。なら、焼き物はどうだ」

M編集長は石川県のご出身。友人が九谷焼の窯元だという。


「とっくりなんかどうだ。一輪挿しにもなるし。かさばらないしな。
名前とか余計なものは書かないでサ」
「あ、いいですね。おしゃれです。よろしくお願いします」

というわけで、M編集長の故郷の友人に特注してもらった。

結婚式の費用などは全部二人でまかなうと決めていたから、
それを知って、編集長は格安で頼んでくれた。


それがこれ。
引き出物

在職は2年半という短い間だったけれど、
M編集長にはずいぶん可愛がられ、守っていただいた。

でもこのあとの言葉に「なぬっ!」と思った。

「Sクンには育ちの良さが見える。裕福で立派な家庭で育ったんだろうな。
そこへいくとお前さんはガラッパチでいけねぇや」

確かにね。

Sはいつも柔らかい笑顔でいるし、ヌーボーとしているから、
それが「育ちの良さ」に見えてしまうのかも。

でも人は表面だけではわからない、
他人の見方って当てにならないものだとつくづく思った。

式場は「日本出版クラブ」に決めていた。
出版社の社員なら格安で利用できるから、ペーペーの二人の懐に優しいし、
巷の結婚式場のあのゴテゴテしさは避けたかったので、
ここは私たちにはピッタリだった。

当時は新宿区袋町にあった。平成30年、神田神保町に移転。
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結婚したら退社するのが、当時の暗黙の決まりだったから、
私もそれを当然みたいに受け入れた。

今思えば、当時でも頑張っていた女性がそれなりにいたようで、
同年齢の方がずっと職業婦人としてがんばってこられたことを知るにつけ、
私は羨望と共に拍手せずにはいられなかった。

独身時代の私は一時もじっとしていなかった。
休日は神社仏閣巡りや食べ歩き。

平日の退社後はシャンソン喫茶やフラメンコのクラブなどへ入り込んだ。
シャンソン喫茶は2か所。確か一つは「雪子の店」という名ではなかったか。
当時、丸山(三輪)明宏さんや菅原洋一さんなんかがここで歌っていた。

アパートでは買ったばかりのレコードプレーヤーで、
イブ・モンタンの枯葉なんかを繰り返し聞いて悦に入っていた。


当時はジャズ喫茶が大流行りだったが、ジャズはよくわからなかった。
ただマーサ・三宅さんだけは「いいな」と思っていた。
内容はわからなかったが、あの声に引きずり込まれた。


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食べ歩きのガイドブックを片手に、あちこちの店へ入った。
バナナのてんぷらを食べたのもこのとき。

この店は地下にあって、東南アジアの人たちがやっていた。
言葉がわからずメニューを見て指さしたら、バナナのてんぷらが出てきた。

食べ歩きのガイドブックは今年初めまで持っていたのに、
断捨離でエイヤッと捨ててしまった。惜しいことをしました。

ポエムの友人がお仲間に紹介してくれたこともあった。
彼女はみんなに私を紹介するとき、決まってこう言った。

「この人はもう売約済みですから」


詩人の高橋睦郎氏のところへも連れて行っていただいた。
このとき購入した「愛の教室」
-女性のためのギリシャ神話-は、
今もまだ持っている。


目次に「さあみんなで愛のレッスン」とある。
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そのころの母の手紙が残っている。

「無事婚約も調いお目出とう。
ここまでもってくるのにさぞ大変な事だったろうと思います。
娘をくれてやるという観念から抜けきれないお父さんにしてみれば、
平静を保ってゐるのは、これ又大変だったのでせう。


結婚は両性の合意に基づきなんて講義する気にもなれず、
良きに計らっていますから、案じる事はありません。
あなた方も出港まで短い期間でいろいろと準備が大変と思いますが、
がんばってください」


父があの結納の日、
「平静を保っているのに苦労していた」と母は言ってきたが、
これは母自身の気持ちでもあったはずだ。

しかし、本当の理由は別にあった。

上級学校へ行けなかった父と母の共通の願いは、
男女の区別なく教育を受けさせ自立した人間に、というものだったから、
子供達の自主性を重んじ、進学や結婚に口を挟むことなど一度もなかった。

だから二人には元から、
「娘をくれてやる」などという通俗的な考えは全くなかった。

ずいぶんあとになって、ようやく気付いた。
この手紙で母は「この結婚は止めた方が」と遠回しに言ってきたのだ、と。


父は何も言わず、結婚式にはにこやかに頭を下げていた。
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だが当時、この手紙を読んだ私は、
「ああ、そうなの」ぐらいに聞き流していた。

旧家に育った父にしてみれば、そしてまた大事な娘を嫁がせる身であれば、
上目遣いで喋りまくる義姉や親なのに他人事のように終始無言の義母、
ヘラヘラ笑うSの未熟さに不信感を抱いたのも当然だと今にして思う。

だが、当時の私の中に、
父の「重み」に反発したい気持ちも少なからずあったことは否めない。

江戸から明治へという変革の波を受けて生家が没落、
その家を支えるために上級学校を断念して製粉所の小僧になった父は、
貧しさと屈辱をいやというほど経験してきた。
だからたとえ彼らが貧しくても無学でも、父は気にならなかったはずだ。

ただ、苦境に落ちても誇りを失わず、どんなときにもウソがつけない、
真面目に真っ直ぐ生きてきた父には、
この一家に垣間見える卑屈さや不自然さが耐えがたく、
「娘が不幸になる」と見抜いていたのだろう。

Sもまた父に近寄りがたいものを感じたのか、
私との29年の結婚生活の間に、Sが私の実家を訪れたのは、
この結納の時と父の葬儀の時の2回しかない。

父がS一家に違和感を持ったように、
Sもまた父が醸し出す旧家の人ならではの重々しさに戸惑い、
反発しつつ逃げていたのだろう。その鬱憤をSはしょっちゅう、私に向けた。

「オレをバカにしやがって。謝れ!」

印象深かった言葉に、こんなのがあった。

「ウソをつき過ぎて、どれが本当の自分かわからなくなった」


父がこの世を去ってからすでに42年。
母も10年前にいなくなり、自分自身も老いた今、
あの日の父と母の硬い表情が鮮明に浮かんできて仕方がない。


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寡黙な父は何も言わず、私の離婚を知る前に逝ってしまったが、
今、私は父に懺悔する。

お父さんの危惧した通り、私、苦労してしまいました。
努力すれば乗り切れると思って頑張ったけど、
ダメなものはダメ、合わないものは合わないんですね。

で、思ったんです。

それはきっと、
「平静さを保つのに大変だった」あなたの胸騒ぎを知ろうともしなかった、
そういう愚かな娘への罰だったんだろうって。


ーーーーー九谷焼の徳利の絵柄についてーーーーー

この徳利を気に入られた方がいて、絵柄について質問がありましたので
お答えします。

徳利の二面はストライブで、あとの二面の一つには冒頭出した「花」
もう一面には「竹」が描かれています。

これです。
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銘は入っていませんが、腕のいい職人さんが描かれたのではないかと
思っています。余った3個が手元にありますが、
四角い形も面白く、絵柄もシンプルで味があって私もすごい好きな徳利です。

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疫病ゴミ

ショートショート
01 /13 2024
大災害の現地視察に赴こうとしている、とある国の首相と側近の架空の会話。

側近「首相、賞味期限切れは歓迎できないと現地から言ってきております」
首相「なんだと! 失礼じゃないか。言うに事欠いて賞味期限切れとは」
側近「ですが被災地のみなさん困惑しているそうです。
  見てくれだけで騙すような、あんな上っ面だけの役立たずは迷惑だって」
首相「上っ面だけの役立たずだと! ますます無礼千万じゃないか!」
側近「家がつぶれて大勢の人が亡くなって寝る所も食べ物もないのに、
  なかなか救援物資が届かず。
  得意のバラマキはどうしちゃったんだろうって思ってたら、
  発生から10日もたってようやく動きが…。でも安堵したのもつかの間、
  あんな食えない疫病ゴミが来るなんてと、みなさん怒っているとか」
首相「あんな食えない疫病ゴミだと!
  恐れ多くも一国の指導者の私に言うセリフか!」


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側近「ですがすでに体調を崩して病院へ収容された人も出ているとか。
  あんなのは見るだけで胃がムカムカ、これ以上被災者を苦しめるなって、

  避難所はパニックになっているとか」
首相「パニック…」
側近「はい。あちこちでゲーゲー。思い浮かべるだけで吐き気と下痢が…。
  人々は口々に、あのウイルス野郎と…」
首相「ウイルス野郎だと! やめたやめた! 被災地視察は取りやめだ!」
側近「それは困ります。真新しい防災服着て安全地帯でぬくぬくとでは、
  世間がうるさい。ここはひとつ、人気挽回のためにもお出ましを。
  安全な場所でテレビ映りのいいご老人を用意させておきますから」
首相「だって私はウイルス野郎なんだろ? 上っ面だけの役立たずで、
  賞味期限切れの疫病ゴミなんだろ?」
側近「あはは、何を勘違いされているんですか。
  被災者が言う賞味期限切れの疫病ゴミは、
  先に避難所で配ったおにぎりのことでございますよ」


     ーーーーー◇ーーーーー
被災地では空き巣や置き引き、詐欺師も出没しているとか。
加えて、期限切れの迷惑物資も。


雑草のモンスター
石垣の草

昔、近所の医者の女房が某所に支援物資を送ったら、
先方から「二度と送ってくるな」と断りの電話があったとかで、
本人は「人の善意を踏みにじって」と怒り狂っていた。


送った物は、
「若い頃着た高級服に、履き古したテニスシューズなどなど」

「主人のも私のも昔の服だけど彼らには到底買えない高額な服よ。
テニスシューズはちゃんと洗ったわよ。
段ボール2箱も送ったのよ。送料返せと言いたいわ」

その彼女が私の所に、
「食べきれなくて余ったからいかが?」と持ってきたのは、
黒ずんだ甘エビ5尾と期限切れのコーヒーと何かのおまけのビスケット。

生食用の甘エビの食べ残しをその都度凍らせていたのだろう。
穴ぼこが開いた氷ごと強引に押し付けて、
「茹でれば、まだ食べれるわよ」

しかしさすがの彼女も気になったのだろう。
翌日、「召し上がった?」と聞いてきた。

もちろん、絶交した。


こういう「疫病ゴミ」が被災地を困らせているんだろうな。


  ーーーーー57年前の輪島の朝市ですーーーーー

みんな焼けちゃったんですよね。何とも言いようがありません。

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世間ばなし③
01 /10 2024
元日の夕方息子一家が帰ってすぐ、片付けを開始。

布団カバーやタオル、毛布の洗濯、台所の洗い物や掃除、
汚れたおむつの始末などを終えると、シャワーも浴びず布団へ倒れ込んだ。

ところが真夜中、ムカムカっと。

慌てて台所へ直行。途端にぶわーっと嘔吐。
のべつ胃の不快感が襲ってくる。

吐いて吐いて、また吐いて。最後に大嘔吐。
そしたら今度はすごい下痢が始まった。

これってノロウイルスじゃないのか! 
以前勤めていたところで、胃の内容物を噴水のように吹き上げた人がいて、
ノロウイルスだと騒いでいたが、その光景が浮かんだ。

孫のために絵本を作った。「ばあば、大好き!」の声にほだされて。
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白湯ばかり飲んで少し落ち着いたら、朝になっていた。
息子たちはと心配していたが、この症状はどうやら私一人らしい。

ストレスか…。
嫁の病気とそれに伴う息子の疲労が半端でなかったから。

息子は任された大きな仕事を直前で断念せざるを得ず、
将来を半永久的に断たれた悔しさを滲ませていたし。

長期の家事・育児と嫁の世話で、心身ともに極限状態だったのだろう。

2か月前に一家全員インフル、アデノウイルスに罹患。
自分も罹患しながら家族の面倒を見ているうちに、
今度は息子だけ帯状疱疹に。

見ればまだ顔にカサブタが付いていた。

「ごはんはどうしてたの?」と聞いたら、「コンビニで」と。
腫れあがった顔で動き回っていたと、止まらない咳をしながら言った。

中年に差し掛かった息子が、赤ん坊のおむつを替え離乳食を与えている姿に、
胸が詰まった。


その痛々しさと息子の体調への心配と展望のない今後に暗澹としつつ、
私は平穏な暮らしから一変、食事や孫の世話に明け暮れていたから、
知らず知らず心労が重なったようで…。

嘔吐と下痢はそのときだけで収まったが、食欲が全くない。
毎日、水ばかり飲んでPCとにらめっこして居眠りをして…。

孫二人と嫁の世話を、たった三日間しただけでこうだから情けない。

利発だが情緒不安定気味。3歳半なのにまだおむつ。偏食も気になって。
育児放棄の母親に腹を立てつつ、どうか健やかに育ってと祈りつつ。
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6日目に無理やりうどんを食べたが、
気持ちが悪くなって半分も食べられない。

翌日の昼になったらなんだかお腹がすいてきたので、パンを食べた。
今度はすんなりお腹に収まった。

寝てばかりではいけないと思い散歩に出たら、歩き方がおかしくなっていた。
足が「ロレツが回らない」って感じで、うまく歩けない。
動かずにいたからだろう。

8日ぶりにご飯を炊いた。もち麦入りにした。
冷凍してあったシャケを焼いて食べた。味がわかっておいしく感じた。
もうムカムカしなくなっていた。

いい天気なので長めの散歩に出たら、今度はうまく歩けた。

あ、トンネルを抜けたんだと思った。

そうだ、花を飾ろうと思い立ち、小さなバラの花束を買った。

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農協市場で「ほうば餅」も買った。

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花っていいなと、しみじみ思った。ふうーっと安らいだ。

花を見ながら、ほうば餅を2個食べた。

ようやく前向きになった。

あの日別れ際に「ありがとうございました」と息子が言った。
孫に「またゼリー、作ろうね」と言ったら、べそをかいた。

去年の秋、二人の子供を連れて深刻な顔でやってきたとき、
「こんないい子たちを授かったんだもの」と言ったら、
息子はほんのり明るく頷いたっけ。

そうだよ、明るい方を向いて歩いていけばいいじゃない。

どうせ私のこの先しれたもの。
少しでも支えになりたいから、倒れるまでがんばってみるか。

        ーーーーー◇ーーーーー

石川県七尾市の能登島で「寒ブリ漁再開」のニュース。

なんだか泣けてきて…。

被災者から逆に励まされました。
食べて応援するしかできないから、ここまで届いたら絶対買います。

岸田さん、被災地に行くんなら、自前のおにぎりを背負って行ってください。
被災地で飲み食いして、
被災者の食料を減らすようなことをしてはいけませんよ。

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全員脱出! 素晴らしかった

世間ばなし③
01 /07 2024
泣けました。感動しました。

JALの全員脱出。

何度見ても奇跡としか。でも奇跡なんかじゃない。
CAが素晴らしかった。乗客が素晴らしかった。
機長・パイロットが素晴らしかった。

飛行機に乗った回数は少ないけれど、2度ほどヒヤリとしたことがある。


一度目は北海道へ向かうとき。
雲の上の青い空の中を快適に飛行中、突然、「ベルト着用」のアナウンス。

慌ててしめたとたん、機体が急降下。

なんだなんだと窓を見たら、外に別の飛行機が…。ニアミス。
機体の文字も見えたから、かなりの近さだった。

2度目は沖縄を離陸するとき。
そろそろと動き始めて、さあいよいよと思っていたら、急に止まった。

滑走路を軍用機が横切って行ったんです。

軍用機優先。ああ、これが沖縄なんだって。


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このとき思ったんです。
パイロットってすごい仕事だって。

だって離陸から着陸までの長時間、
安全運航に全神経を集中させてみんなを乗せているんですから。

そしてCAさんは今まで、空の旅の「優しい花」のように思っていたのが、
今回の素晴らしい対応で認識が一変。


この機には9人のCAさんが乗務していたという。

「言うは易し行うは難し」は世の常ですが、彼女たちはそうではなかった。

命を預かる、そういう使命を危機に直面した時、即・実行に移せるプロなんだ、
プロとはこういうものなんだ、そのことを思い知らされました。

彼女たちの冷静かつ機転がなければ成功しなかったのは確かだけれど、
でもこれは機長ほか乗務員12人全員の、
日ごろからの厚い信頼と強い結束、責任感の賜物だろうと。


政界の汚いニュースでこの国に絶望していたけれど、
久しぶりに日本人であることに誇りが持てました。

大丈夫、こういう人たちがいる限りは。


       ーーーーー◇ーーーーー

JALで安堵しましたが、やっぱり能登地震の被災地が気になって…。

で、先日、首相が「40億円出す」と、胸張って言ったけど、
非情というか、冷酷というか、
だって、あまりにも少なくて…。

大阪・関西万博にかかる費用、建築費国庫負担は1,647億円
インフラ関連9・7兆円(うち会場関連は8,390億円)、
空飛ぶ車などに3・4兆円、運営費1,160億円、国際関連72億円などなど。

そんでもって、ふと思ったんですよ。
そういえば秋篠宮邸改修・増築建設費用って、50億円だったなって。


お屋敷一つに50億円、対して能登地震の被災地に40億円

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防災

世間ばなし③
01 /04 2024
能登から次々入ってくる被害の映像にただただ驚いています。
被災地のみなさまに心よりお見舞い申し上げます。


「初笑い」のショートショートを用意していましたが、
被災者さんたちを思ったら掲載できなくなりました。

ちょっと延期して、急きょ私の防災備蓄品をご披露することにしました。

静岡へ転居してきた当初、東海大地震が来ると言われて、
学校では避難訓練を実施。
子供たちは戦時中使っていたものと同じ防災頭巾を携帯していました。
あの綿入れの…。普段は座布団に、いざとなったら頭にかぶります。

そのときから家に防災用の備蓄品を置くようになって、はや半世紀。


最初はお定まりの乾パン。
一年後に取り出したら袋の中で蛾が飛んでいました。

袋は破れていなかったから、袋詰めのとき卵が付着したとしか。

乾パンからパンの缶詰やレトルト食品になり、
今はせんべいや飴、クラッカーなど日常食べるものに切り替えました。

一番大切なものは水。


常時、2ℓのペットボトル12本、玄関に置いてあります。
逃げるとき取りやすいようにここに置いてあります。

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寝る部屋には何も置きません。
ただ近くにスリッパと懐中電灯を置いてあります。
スリッパは窓ガラスが散乱した時、ケガをしないように、です。

パジャマの代わりにトレーニングウエアを着て寝ています。
その他、簡易トイレ、山で使った簡易寝袋などなど。

でも建物が倒壊したら、逃げるだけなんですけど。

能登地震と南海トラフ大地震とは関連があると言われていますが、
南海トラフ大地震の発生予想は、
地震学者で元・京都大学学長さんなど複数の学者さんたちによると、
2038年+-5年だそうです。

ほんとにまじかに迫っています。


連動して富士山噴火も予想されていますが、この影響は静岡市よりも
県東部から関東方面に大きな被害が出るとされています。
火山灰は細かいガラス片、危険で始末に負えないものらしいです。

日本列島沈没が頭をかすめます。

CIMG5808.jpg
富士市

天災で幕を開けた2024年、暗い気持ちになりましたが、明日は我が身。

今度の震源域の珠洲市に原発を作ろうとしていたんですよね。
幸いにも反対運動で建設凍結。
これがもし出来ていれば、東日本の二の舞でした。

当県にも浜岡原発があります。他人ごとではありません。
ついでにいえば、大阪万博にかける莫大な税金、被災地に回してください。
というか、回すべき。

東日本大震災の時、「花が咲く」という復興支援ソングができました。
私は当時コーラスに入っていて歌うことになったのですが、
私には歌えませんでした。
歌詞も歌っている人たちも自己陶酔しているようで、いやだったんです。

日本列島が壊滅するかもしれないという大地震・大噴火が迫っているのに、
この国の政治家たちは地震後の復興シミュレーションを何も立てていないと
国内外の研究者たちから懸念されているという。

会議なら会議室でやればいいものを高級料亭で税金で飲み食いし、
海外視察なら個人で行けばいいものを税金で団体旅行する、
ニギニギばかりが上手で、官僚の書いた紙がなければ喋れない、

そういう政治家と称する人たちに言いたい。

復興支援ソングなどのおためごかしはもう効きませんよ。
災害後に防災服着て安全地帯で悲痛な顔を見せてももう遅い。

民間人の同情を煽ってお金を出させる手法は、無策な政治手法です。

まして自国そっちのけで武器を買い他国に巨額を支援して、
どこかの大統領に「いい子いい子」と褒められて悦に入っているなんて。

ついでのついでに叫びます。

議員のみなさん、神聖な会議中にいぎたなく居眠りするんじゃないよ!

能登は私の新婚旅行の地です。
その地で見た美しく懐かしい街並みと人情厚い土地柄は、
今も私の心にあります。

みなさん、負けないで!

   ーーーーー◇ーーーーー

有名無名、元迷惑なんたらなんて人たちが、
被災地に支援物資を届けただの、巨額のお金を寄付しただのって
自分の顔写真入りで公表しているけど、


匿名で黙ってやりなさい!

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雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞