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いつの間にか「傘寿」⑲

いつの間にか傘寿1
11 /13 2023
短大の二年はまことに短い。入学した翌年はもう卒業。

その短い期間に、
教育実習を無事終え、図書館司書や司書教諭の資格も得た。

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私はこの免許状や卒業証書を両親に見せなかった。考えもしなかった。
不遜にも当時は「たかが紙切れ」と。

父も母も家の都合で、熱望していた高等教育を受けられなかった。
そのつらさ悔しさを、子供たちだけには味わわせたくないとの一念で
働き詰めだったのに。


図書館司書の資格証明書。
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卒業の年、母は手紙で熱心に言ってきた。

「こちらに就職した方がよいと思います。
清子がその気になれば、お母さんはすぐあちこちと探します。
高校の図書館司書になれると思いますから、至急決心して返事を下さい」


つい10年前まで私を無視する母に、私はいつも心の中で叫んでいた。
「お母さん、たまには私も見て」と。
その母が私をこんなに注目しているのだ。
ふと、帰ろうかなという気持ちが起きたが、同時に不安も湧いた。


この二年間、母は私に頻繁に手紙を送ってきた。

どの手紙にも娘を心配する気持ちが綴られ、愛情に溢れていたが、
母が話しかけているのは私ではない、そう感じてもいた。
私というダミーを通して、姉たちに話しかけている、そう思っていた。

しかし長姉も次姉もすでに結婚して実家に戻らない。
長兄は東京で働き始め、次兄のめざす職業は実家周辺では得られない。

消去法で末娘の私だけが残ったというだけなのだろう。
母の望み通り、実家へ帰ったとしても、ダミーは本物にはなれない、
そう思った。


中学2年生の私。大好きだった担任と。
先生は私の詩を熱心に見てくださり、地域の学校が連携して出していた
文芸誌「ふもと」によく応募してくださった。
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手紙にあったこんな一文も、「帰らない」決意を強めた。

「寂しくて寂しくて、
お父さんを一人残してW子
(長姉)のところへどんどん出かけてしまったの。
もう楽しくて一日中おしゃべりして終電車で帰宅。
身も心もせいせいしてとても愉快になってしまいました」


母は長姉をずっと特別扱いしていた。
「W子とはあの苦しかった戦時下を共に助け合った戦友」とも言っていた。

自叙伝に、
「W子は成績抜群で皆の先頭を務める。
小学六年生の時、先生がいじわるをしてW子を二番の成績にしたので、
学校へ行き、なぜW子が一番でないのか理由を教えてくださいと
先生を追及した」と、臆面もなく書いた。

10歳の妹が作った夕食を17歳のこの姉は当然のように食べ、
食い散らかしたまま2階へ上っていく。
母も「姉さんは勉強があるから」と黙認し、家の手伝いを一切させなかった。

その母が私に「こっちで就職を」と言ってきた。


本当に母は私の幸せを考えて言ってきたのだろうか。
いや、そんなはずはない。
「帰って来て」というのは、母のエゴだろう。

当時母は私を虐待したあと、
その痕跡を消そうとするかのように、今度はベタベタ接してきた。

美容院へ連れて行き、まだ珍しかったパーマネントを小学一年生の
私の頭に施し、隣町へ連れて行き、ままごとのセットやミルク飲み人形、
ピカピカ光ったビニールのハンドバッグを買い与え、ラーメンを食べさせた。

小学2年生の私。
お出かけの日、母は私に化粧を施した。チンドン屋みたいでいやだった。
「オレ女子会」の幼なじみたちには決して持てないハンドバックを持ち、
革靴を履いて…。私が最も嫌いな写真。
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何をされても私は、母の気の済むように黙って従った。
ただ心の中では常に怯えていた。

母の心の針は右に振れたかと思うと、突如左へ大きく傾く。
その振幅の急激なことに、幼い私は戸惑った。


優しくされたあと、また殴られる。ひどい言葉で打ちのめされる。
そういう危機感があったから、優しくされればされるほど身構えたし、
極端から極端へと翻弄されて、子供の私は常に身も心も疲れ切っていた。

あれから10年たったとはいえ、母の甘言につられて家へ帰ったら、
また同じことが起きるだろう。


10歳まで繰り返されたあの体への痛みと言葉の暴力とで、
私はどんなに怖かったか、どんなに孤独だったか。

理由もなく一人だけご飯を食べさせてもらえなかった惨めさと、
誰も助けてくれない状況に何度絶望したことか。

近所の人から「シンデレラみたいな子」と言われたときの衝撃と、
私の暗部をみんなに知られていたという動揺と恥ずかしさ、哀しさ。

母が私一人だけにこんなことをするのは、
きっと私に悪いところがあるからだと執拗に自分を責めたりもした。


家を離れたことでそこからやっと逃れたのだ。
だから決して後戻りはするなと自分に言い聞かせた。

7歳離れた長姉は、母の暴力をその背後でいつも眺めていた。


後年、次姉が「W子姉は氷のような女」と言ったが、冷たい人だった。
家族の中で私に手紙も電話も終生、一度も寄越さなかったのは、
この姉だけだった。


二人の姉と中学生の私。
教師になったばかりの長姉(真ん中。21歳)は、
赴任先の先輩教師と恋に落ち結婚。そのハシャギようは尋常ではなく、
今まで冷たくあしらっていた妹の私に満面の笑顔で急接近してきた。
だが私が優しくされたのは、後にも先にもこのときだけだった。
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その長姉は、親戚の伯父や伯母たちが来ると必ずこう言った。

「清子は心のいじけた子ですから。
空想癖がありますから、この子が何かを話してもみんな作り話ですから」

父方の伯母はその言葉に耳を貸さず、
小学生の私にしっかり向き合って昔話をしてくれた。


「清子さん、よく覚えておくんですよ。
あなたのひいおじいさんは元服の時、
沼津の水野のお殿様に支度してもらって、
東海道を富士まで行列を作ってきたそうですよ。
たいそう立派だったそうですよ」

「信州から雨宮氏を婿にとって細川から雨宮に変わったころ、
浪人中の河津のお殿様が、うちに一年も居候なさって。
そのとき、扇を開いたらどこからともなく小さな白い蛇が現れて、
扇の縁をスルスル渡ったそうですよ」

後年、町役人だった佐野与一の「角田桜岳日記」が解読され、
その中に幼い日に伯母から聞いた話が出ていた。
「お伽噺」が本当だったことに、私の興奮はなかなか収まらなかった。
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父の腹違いの兄もよく来た。東京の芳林小学校を退職した人で、
電車と徒歩で1時間の道のりをはるばるやってきた。

家に入ると母の作った綿入れ半纏を着込み、
猫を膝に乗せて終日、こたつで過ごしていた。


父も母も店が忙しかったので、代わりに幼い私が隣に座って相手をした。
何を話したかは忘れたが、
元校長先生の伯父のこれ以上ないという笑顔は、今もはっきり思い出す。


母のすぐ下の叔父は「たけひこおじちゃん」といった。
家に来ると真っ先に私を見つけて「きーちゃん」と声を掛けた。
大柄のがっしりしたおじさんで、四角い顔の小さな目で心配そうに私を見た。


「おばあちゃんが二男を溺愛して、たけひこをいじめて家から追い出した」
と、母が言っていたから、
叔父は自分と共通したものを私に感じていたのだろう。

その叔父は私が短大生のころ亡くなった。
母たち姉妹は新聞の訃報欄でそれを知り遺族に抗議したら、叔父の妻から、
「誰にも知らせるなというのが、あの人の遺言でしたから」と突っぱねられた。

「昔のことを根に持って」と母たちは憤慨していたが、
私はひそかに、おじさんの見事なしっぺ返しに拍手を送った。

そんなことを思い出していたら、
ふいにおじちゃんの顔が浮かび、涙が溢れてきた。


後列右から二人目が母。その隣が「たけひこおじちゃん」
この写真は戦時中、「産めよ増やせよ」の国策に協力したとして表彰され、
新聞に載ったもの。昭和10年ごろ。
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そのおじちゃんから、
「きーちゃん。しっかり」と励まされている気がしてハッと我に返り、
情に流されまいと気を引き締めた。

それでも、私は母への罪悪感を感じていた。

「愛する清子へ」と、陳腐なラブレターみたいな母の手紙に苦笑しつつも、
母の希望通りに田舎へ帰らないことは恩を仇で返すような気もして、
親不孝な娘だと自分を責めた。

だがそれから数年後、
私の「帰らない」という選択は間違っていなかったことを知ることになった。

長姉が離婚して実家に出戻ってきたのだ。


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雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞