いつの間にか「傘寿」⑱
いつの間にか傘寿
60年前の母の手紙を読む。
手紙の中で愚痴を吐いている。

「自分の夢が何一つかなへられずに終わってしまったお母さんです。
どうぞ希望の道に前進してください。
強い意志を持って、人の笑い者にならないよう、
又、自分の能力を過信しないよう、考へて考へて行動してくれるよう
祈ってゐます」
「ふと三十五年前の自分が昨日のように思ひ出されました。
今の中学二年を中途退学して、
子守(母は10人姉妹兄弟の上から二番目)をしながら、家事一切をやり
女学講義録を取って読みふけり、向学心を得てゐた日を。
苦しみ悩み、その中から少しづつ成長し、
自分の子供にはこの苦しみは、絶対させまいと心に誓った事を」

「清子は、
文春の十一月号のパール・バック女史の人生哲学を読みましたか?
昨日お母さんは繰り返し繰り返し味わいながら読みました」
「最愛なる清子。清子の性質は非常によいですから。
昔の良妻賢母型ではなく、智的でユーモアがあって、
どこか抜けてゐるようで、(失礼)、実に近代的な女性だと思われます」
手紙は兄たちからも来た。
3歳上の次兄はこう書いてきた。
「清子は生まれながらの裸のままのナチュラル的であるといつも感ずる。
お互いに生産的に将来に向かって歩みませう」
長兄も次兄も手紙に必ず書いてきたのは、
「お金、足りていますか?」だった。
母もまた、「今月、二千円送りました」「千円送りました」
と書き添えるのを常としていた。
同室の寮生と。

母の怒涛の如き手紙を、私は戸惑いつつ読んだ。
家から駅へ続く坂道は私の履歴そのものだった。
7歳のときは、兄や姉たちがいる前で遠い場所へのお使いを命じられ、
重い買い物カゴを胸に抱いて日没後の大入道の出る暗がりを走り抜けた。
10歳の時は、母からの虐待に耐え切れず、
電車に飛びこもうと月のない暗い夜、この坂道へ飛び出した。
高校生になって映画を観た帰りに歩いたのも、
釣り竿を持った少年に出会ったのもこの坂道だった。
そして短大への入学が決まって上京する日、
大きなスーツケースを下げて振り返ることなく私はこの道を下った。
母は幼い私をよく殴った。それもなぜか顔を狙って拳で…。
姉二人を日本舞踊の稽古に連れて行くとき、
「私も連れてって」と後を追ったら「帰れ!」と手を挙げて追い返された。
後年、母は自叙伝で祭りに出かけた日の出来事をこう書いた。
「さあ、出かけようというときになって、清子はなかなか支度をせず、
行きたくないと言って皆を怒らせた」
しかし事実は全く違う。
第一、就学前の子供が「自分で支度をする」などということは不可能だった。
自分の内面の暗さを悟られまいと、いつも笑顔でいるよう心掛けていた。
だがある日「ポエムの会」で突然泣き出して、みんなを困惑させた。

祭りの日はこうだった。
母からよそ行きの服を着せられて家を出た。
坂道をほんの数歩下り始めた時、
いきなり母が「あんたを連れて行くのはやめた」と言い出した。
必死で後を追う私に母は振り向きざま、いきなり殴りかかった。
母の拳が鼻にあたって、鼻血がドバッと出た。
このときのことを50年後も母は覚えていたのに、
自叙伝には自分の都合のいいように捻じ曲げて書いていた。
しかし、そうした母の暴力は、
10歳のときの自殺未遂を境にパタッと止んだ。
兄や姉たちが一人また一人と家を出て行くたびに、
母は私への接近を強め、本来あるべき「母」の顔を見せるようになり、
女子大生になった途端、今度は手紙で能弁に語り掛けてきた。
「自分の意志は一つも通らない人生、こんなバカバカしい人生を
多くの女性はどうして切り抜けたのでせう。
不平不満に肉体も精神も切り苛まれて、
それでもどこかに活路を見出そうともがく自分の姿。
何が何でも子供に教育をつけよう、これが精いっぱいの反抗だったのに。
負けるな清子。お母さんの分まであなたは楽しい人生を過ごす義務がある。
お母さんだって残された人生を、たとへ一年でも
自分の意志で生きる権利があるわけです。消えそうな夢を描いて、
その日その日の苦しみに打ち勝とうとしてゐるのです」
おしゃれして学生のダンスパーティーにも出かけた。白い手袋をはめて。
当時は髪の毛を櫛で逆立てて、こんもりさせるのが流行っていた。

母の手紙には、常に短歌や俳句が添えられていた。
「 秋深む案山子は土手にうつぶせり
稲刈りのすんだ田んぼに、可哀そうに案山子は土手にさぼられています。
案山子は必要な時だけ大事にされて」
母の「愛」に満ちた手紙を読むたびに、私は奇妙な感覚に囚われた。
「この人は一体、誰なんだ」「一体、誰に話しかけているんだ」と。
幼い日、私は苦しさ、つらさから逃れるためにあの坂道へ飛び出した。
母が手紙で優しく語り掛ければかけるほど、
心の奥に閉じ込めていた過去が、その坂道を勢いよく流れ出てきた。
母はそんな過去など全くなかったかのように、
暗い心を抱いたままの私に、己の心のうちを奔放に吐き出し、
最後に必ず、テンションのあがった言葉で締めくくった。
「元気で若き清子! 青空に胸をはって進め!」

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手紙の中で愚痴を吐いている。

「自分の夢が何一つかなへられずに終わってしまったお母さんです。
どうぞ希望の道に前進してください。
強い意志を持って、人の笑い者にならないよう、
又、自分の能力を過信しないよう、考へて考へて行動してくれるよう
祈ってゐます」
「ふと三十五年前の自分が昨日のように思ひ出されました。
今の中学二年を中途退学して、
子守(母は10人姉妹兄弟の上から二番目)をしながら、家事一切をやり
女学講義録を取って読みふけり、向学心を得てゐた日を。
苦しみ悩み、その中から少しづつ成長し、
自分の子供にはこの苦しみは、絶対させまいと心に誓った事を」

「清子は、
文春の十一月号のパール・バック女史の人生哲学を読みましたか?
昨日お母さんは繰り返し繰り返し味わいながら読みました」
「最愛なる清子。清子の性質は非常によいですから。
昔の良妻賢母型ではなく、智的でユーモアがあって、
どこか抜けてゐるようで、(失礼)、実に近代的な女性だと思われます」
手紙は兄たちからも来た。
3歳上の次兄はこう書いてきた。
「清子は生まれながらの裸のままのナチュラル的であるといつも感ずる。
お互いに生産的に将来に向かって歩みませう」
長兄も次兄も手紙に必ず書いてきたのは、
「お金、足りていますか?」だった。
母もまた、「今月、二千円送りました」「千円送りました」
と書き添えるのを常としていた。
同室の寮生と。

母の怒涛の如き手紙を、私は戸惑いつつ読んだ。
家から駅へ続く坂道は私の履歴そのものだった。
7歳のときは、兄や姉たちがいる前で遠い場所へのお使いを命じられ、
重い買い物カゴを胸に抱いて日没後の大入道の出る暗がりを走り抜けた。
10歳の時は、母からの虐待に耐え切れず、
電車に飛びこもうと月のない暗い夜、この坂道へ飛び出した。
高校生になって映画を観た帰りに歩いたのも、
釣り竿を持った少年に出会ったのもこの坂道だった。
そして短大への入学が決まって上京する日、
大きなスーツケースを下げて振り返ることなく私はこの道を下った。
母は幼い私をよく殴った。それもなぜか顔を狙って拳で…。
姉二人を日本舞踊の稽古に連れて行くとき、
「私も連れてって」と後を追ったら「帰れ!」と手を挙げて追い返された。
後年、母は自叙伝で祭りに出かけた日の出来事をこう書いた。
「さあ、出かけようというときになって、清子はなかなか支度をせず、
行きたくないと言って皆を怒らせた」
しかし事実は全く違う。
第一、就学前の子供が「自分で支度をする」などということは不可能だった。
自分の内面の暗さを悟られまいと、いつも笑顔でいるよう心掛けていた。
だがある日「ポエムの会」で突然泣き出して、みんなを困惑させた。

祭りの日はこうだった。
母からよそ行きの服を着せられて家を出た。
坂道をほんの数歩下り始めた時、
いきなり母が「あんたを連れて行くのはやめた」と言い出した。
必死で後を追う私に母は振り向きざま、いきなり殴りかかった。
母の拳が鼻にあたって、鼻血がドバッと出た。
このときのことを50年後も母は覚えていたのに、
自叙伝には自分の都合のいいように捻じ曲げて書いていた。
しかし、そうした母の暴力は、
10歳のときの自殺未遂を境にパタッと止んだ。
兄や姉たちが一人また一人と家を出て行くたびに、
母は私への接近を強め、本来あるべき「母」の顔を見せるようになり、
女子大生になった途端、今度は手紙で能弁に語り掛けてきた。
「自分の意志は一つも通らない人生、こんなバカバカしい人生を
多くの女性はどうして切り抜けたのでせう。
不平不満に肉体も精神も切り苛まれて、
それでもどこかに活路を見出そうともがく自分の姿。
何が何でも子供に教育をつけよう、これが精いっぱいの反抗だったのに。
負けるな清子。お母さんの分まであなたは楽しい人生を過ごす義務がある。
お母さんだって残された人生を、たとへ一年でも
自分の意志で生きる権利があるわけです。消えそうな夢を描いて、
その日その日の苦しみに打ち勝とうとしてゐるのです」
おしゃれして学生のダンスパーティーにも出かけた。白い手袋をはめて。
当時は髪の毛を櫛で逆立てて、こんもりさせるのが流行っていた。

母の手紙には、常に短歌や俳句が添えられていた。
「 秋深む案山子は土手にうつぶせり
稲刈りのすんだ田んぼに、可哀そうに案山子は土手にさぼられています。
案山子は必要な時だけ大事にされて」
母の「愛」に満ちた手紙を読むたびに、私は奇妙な感覚に囚われた。
「この人は一体、誰なんだ」「一体、誰に話しかけているんだ」と。
幼い日、私は苦しさ、つらさから逃れるためにあの坂道へ飛び出した。
母が手紙で優しく語り掛ければかけるほど、
心の奥に閉じ込めていた過去が、その坂道を勢いよく流れ出てきた。
母はそんな過去など全くなかったかのように、
暗い心を抱いたままの私に、己の心のうちを奔放に吐き出し、
最後に必ず、テンションのあがった言葉で締めくくった。
「元気で若き清子! 青空に胸をはって進め!」

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