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いつの間にか「傘寿」⑮

いつの間にか傘寿1
11 /01 2023
大学落ちた。

当然の帰結だから納得したが、家を出る手段をなくして慌てた。

あたふたして探したら、手頃な学校が見つかった。
短大だったが図書館司書の資格も教員免許も取れるとあったから、
これだ!と思った。

「女は手に職を持たなければお母さんのように惨めな思いをするから」
と、母は常日頃、職業婦人になれと勧めていたから、これなら説得できる。
それに2年という期間なら、両親の経済的負担も軽い。


というわけで、ほとんど無試験みたいな短大に入り込んだ。

花の女子大生になった!
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入学が決まったとき、母は私を隣町の洋裁仕立ての店へ連れて行った。
そこで3着も誂
(あつら)えた。

一つは萌黄色のワンピースにお揃いのボレロ、
2着目は、えんじ色の地に黒い線が入った厚手のスーツ。
これには同じ生地でできたマフラーがついていた。

一番おしゃれだと思ったのは3着目の洋服だった。
千鳥格子のジャケットに箱ヒダのスカートのスーツと、
金ボタンがついた赤いチョッキのセット。


洋裁店の女店主は、「チョッキは肌に直接着てね」と言ったから
その通りに着たら、硬いスーツの下から赤と金色のボタンが
チラリと見える。

これが都会風で、なかなかおしゃれだった。


父からも小さな包みを渡された。
開けたら、なんと数枚のピンクのパンティ。母は呆れた顔をしたが、
私は真面目な顔をしてしっかり受け取った。

母は表面ばかりに気を取られる人だったから、
今までも下着の調達には苦労した。
父はそういう妻の性格を知り抜いていたのだろう。


その頃の私は腰と両腿にゴムが入ったズロースばかりだったから、
パンティなるものは初めて。そんな娘を察して、
父は衣料品店の女主人に相談して、見繕ってもらったに違いない。
母は「やだぁ、お父さん」と言いつつ、丁寧にスーツケースに入れてくれた。

最後の子供が家から出て行く。


今にして思えば、どんなに寂しかったことかと思ったが、
そのときの私は、これから始まる新しい世界ばかりに気を取られて、
父と母の気持ちなど知ったこっちゃなかった。

いよいよ上京する日が来た。


私は仕立てたばかりのスーツに身を包み、
母が購入してくれたバカでかいスーツケースを下げて家を出た。
そしてそのまま振り向きもせず、通いなれた道を一直線に駅へ向かった。

母は私が坂道を下りその先を曲がり切るまで、見送っていたに違いない。
父は家の中にいただろう。


母の背後にはもう誰もいなくなった2階がぽっかり穴を開けていたはずだ。
後年、母は手紙に書いてきた。

「だれかがいつでも帰って来てもいいように、
お母さんは毎日、2階を掃除しています」


女子寮に入った。4人部屋だった。

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困ったのはお風呂だった。人前で裸になることに慣れていなかったから、
イヤでイヤで仕方がなかった。
今でも温泉が嫌いなのは、この時の後遺症が尾を引いている。

寮には賄いのじいさんがいた。
じいさんは最後のお湯に入るのを毎晩、楽しみにしていたが、
その理由はこうだった。

「若い娘が入った後はホルモンがいっぱいだからな。体にええ」

そのせいか、肌はピカピカだった。

朝と夜の食事は食堂で食べたが量が少ない。


寮の食事風景。お櫃が時代を感じさせます。
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みんな食べ盛りだから争うようにご飯も味噌汁もてんこ盛りだったが、
私はいつも食いっぱぐれて、自分に回ってきたときはほとんど空。
だからいつもお腹を空かせていた。

同期生は買い食いや栄養剤で凌いでいたが、
父からの仕送りが少なくて昼食代にも事欠いていたから、栄養失調になった。


痩せた体に追い打ちをかけたのが病魔、帯状疱疹というすごいやつで…。
「全然、栄養が足りてないよ」と医者から笑われた。

花の女子大生が鶏ガラになって、帯状疱疹で水膨れだなんて最悪だった。
なんとかしなければと考えてアルバイトに行き始めた。


行った先は運送会社。今のクロネコの前身で伝票整理をやった。

いろんなことをやり過ぎて疲れ果てて爆睡。母が送ってくれた布団で。
日曜日になるとそのころまだ東京にいた次姉から「手伝いに来て」と。
「Y子はまたあんたをこき使って」と母は憤慨していたが…。
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短大の勉強は楽勝だった。
平安文学の先生が主宰するポエムの会に入った。
図書館通いも始めた。最初に借りたのが「チボー家の人々」。
これは11巻もあって大変だったが読み切った。

図書館の司書講座は熱心に勉強した。教員免許への道も忘れなかった。
これさえ完璧にやっていればよし。

アルバイトで少し余裕が出来たら、途端にいろんなことをしたくなり、
ハワイアンと座禅にのめり込んだ。


座禅は夜、早朝問わず、禅堂へ通った。
夏休みには遠方の寺へ泊りがけで出かけた。

静けさのほかは何もない禅堂は居心地がよかった。
空気さえ動かなかった。
だが、無の境地になろうとすればするほど、頭の中は騒ぎ出す。


警策を持った直堂(僧)が音もなく禅堂の中を歩いている。
ただ微かに風を感じるだけだ。

その風が背後で止む。直堂がピタリと後ろに立った瞬間だ。
気配を察して合掌し首を傾け警策を肩にバシッと受けた。

禅堂に入ったとき天空にいた月はいつの間にか姿を消し、
しらじらと夜が明け始める。
その流れを背中で感じるときが一番好きだった。


ハワイアンは独学で始めた。
ハワイアン喫茶に通い詰め、楽譜を買い、ウクレレを買って…。


裏声を出す練習をしたり…。
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そしてなんと、
翌年、私は卒業していく2年生から頼まれて、
横浜の劇場で弾き語りをしたのだ。

シルクホールという会場だった。
卒業生を送る謝恩会で、ぜひ演奏を、ということで、
恐いもの知らずの私はホイホイと承諾。


当日、大きなステージで一人ウクレレ片手に2、3曲歌った。
歌った曲はもう覚えていないけれど、

「小さな竹の橋」「サンゴ礁のかなた」「バリバリの浜辺」か、
それとも、
♪月の夜は 浜に出て みんなで踊ろう、フラの踊りの「月の夜は」か、
「マニヒニメレ」の、♪フムフムヌクヌク魚も楽しく歌うよ が好きだったので、
そのあたりだったかも。


それにしてもなんと無謀で恥知らずなことを、と、思い出すたびに赤面。
でもみなさん、万雷の拍手で讃えてくださった。
真剣に耳を傾けてくれていたホールのボーイさんたちの姿は、
今も目に浮かぶ。

田舎から出てきたおのぼり一年生の19歳は、こうして暮れていきました。

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雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞