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いつの間にか「傘寿」⑤

いつの間にか傘寿
09 /20 2023
小学4年、10歳は、生涯、私の忘れえぬ年になった。

あの日私は、それまで母から受けた理不尽な扱いに耐えきれなくなり、
ふらふらと外へ彷徨い出た。
電車に飛び込もう、場所はあのふみきり、そう決めた。

そこにさえ行けば楽になれる、それだけを思って歩き出した。

あの晩は月が出ていたか覚えがない。
前方は黒々としていたから、たぶん、闇夜だった。

後年、これを小説に書いて、地方の文学賞に応募したら佳作に入った。
授賞式で選考委員の渡辺淳一氏から、

「これ、あなた自身のことでしょう」と言われて、言葉に詰まった。

寂しさを慰めてくれたのは猫たちだった。いつも私に寄り添ってくれていた。
空を飛ぶ夢を見るのだけれど飛び立てない。両手をバタバタしてもダメ。
汗びっしょりで目を覚ますと、足の上で猫が長く伸びて眠りこけていた。
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自殺は未遂に終わった。
それを思い止まらせたのは、母のこの呼び声だった。

「ごはんですよー!」


なんだ、そんなことでと笑われようとも、それこそが私の命の糸だった。

坂の途中の一軒家の我が家は、鰻の寝床みたいに長い。
母は一番端っこの台所から反対側の一番端っこの店にいる父や、
二階で勉強中の兄や姉たちに声が届くよう、大声で何度も叫んだ。


家を過ぎ、下り坂の途中まで来た時、遠くで母のその声を聞いた。
ハッと我に返って振り返ると、闇の中に店の明かりがぼんやり光っていた。

それは音とも声ともつかない切れ切れの微かなものだったが、
私は信じた。
あれは確かに母の「ごはんですよー!」の呼び声だと。

お母さんは私だけに呼びかけてくれたんだ。
勝手にそう思い込んだ。

その声に引きよせられるようにふらふら家へ戻ると、
さっき開け放して出てきた引き戸から、あったかい空気が流れてきた。

それ以来、私はこの「ごはんですよー」の言葉に取りつかれた。
この単純でありきたりの、しかしなんともいえない温かいこの言葉に。


長兄と初代犬の「まる」。利口な犬だった。何度も不審者を知らせてくれた。
ある日、村の男が「犬を吠えさせるな」と怒鳴り込んできた。こいつは、
最近ドロボーに入った男で、「まる」は男のにおいを忘れなかったのだ。
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戦後の食糧難とその後に続いた子供たちの教育費で、
食事はいつも質素だった。ことに母の食事は貧しかった。

久々の魚の煮つけのときは、一番いいところを父の皿に盛り、
あとは順々に子供たちへ分けた。

あとには骨だけしか残らなかったが、母はその骨を器に入れると、
上からお湯をかけ、その染み出た煮汁を自分のご飯に掛けて食べた。

働きづめの母には骨だけ、というこの理不尽さにここにいる誰も目をとめず、
当たり前のこととして平然とテーブルを囲んでいる。
それが私にはたまらなかった。

その日を境に、私は母に替わって夕ご飯を作ることに決めた。

この時、長姉は17歳の高校生。次姉は14歳の中学生だった。
二人は母の希望で、
中学は遠くの町の私立の女子中学へ電車通学していたから、
朝早く家を出て夕方遅く帰宅する。

女学校へ行けなかった母は、娘たちに学問をさせるのが生き甲斐で、
その望み通り、勉強も言葉も身のこなしも村の子供たちとは格段に違う、
そういう我が娘たちを誇りにしていた。

「姉さんたちは勉強があるから」というのが免罪符になって、
姉たちは皿を洗うことさえしなかった。

だから、次姉が初めて食事作りをしたのは結婚してからのこと。
長姉がご飯の炊き方を覚えたのは、平成になってからの60代半ばごろで、
母が老い過ぎて、もう台所に立てなくなってからだった。

クリスマスをやってみた。みんなに帽子を作った。父には王冠。
寡黙で感情を表さない父は、末娘のなすがままに頭へ載せてくれた。
なるべく楽しませようと、猫もペコちゃん人形も仲間入りさせた。
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小学4年生だった私は、
母が読んでいた婦人雑誌の料理のページをかたわらに置き、
母のご飯づくりを思い出しつつ、毎晩、台所に立った。

家族7人分の食事作りは大変だったが、私は淡々とこなしていった。

そのころの煮炊きはカマドで、大きな釜に米を入れて薪で炊いた。
かまどをこの地方では「へっつい」と呼んでいた。

そのへっついには穴が三つ開いていて、左端でご飯を炊き、
右端で汁物や煮物を作り、真ん中には茶釜をかけて左右の余熱で
お湯を沸かしていた。

重い木の蓋を両手で釜に載せ、盗み聞きした母の口癖通り、
「はじめチョロチョロ、中パッパ、赤子泣くとも蓋取るな」
を心の中で唱えながら、ごはんを炊いた。

やがて石油コンロなるものが登場して、グンと楽になった。

だが、ある晩、事故が起きた。

コンロに火をつけた途端、ボンと大きな音がして炎が燃え上がった。
私は慌てて炎に包まれたコンロに手を突っ込むとツマミを切った。

あたり一面、異臭が立ち込めたが、家の者は誰も気づかない。
「どうした」と駆けつける者は誰もいなかった。

母に、これはおかしいと必死で訴えたが信じてくれない。
なおも食い下がると、半信半疑ながらようやく異変に気づいてくれた。

灯油屋の店主が間違えて、灯油の代わりにガソリンを配達してしまった
とわかったのは、翌日になってからだった。

だが母から「無事で良かった」と私を案じる言葉は何もなかった。

それでも私は夕飯づくりを止めなかった。

まだ水道もないころのことで、
家では富士山の伏流水を引いた水を使っていたから氷のように冷たくて、
冬は手がアカギレとシモヤケだらけになった。


学校で赤黒くささくれた手を出すのが恥ずかしかったが、
それでも私は止めなかった。

夕食作りは、母の気持ちを穏やかにしたい、その一心で始めたが、
やってみると、これほど楽しいことはないと気が付いた。

店の売れ残りの黒はんぺんやちくわで天ぷらを揚げ、青菜でお浸しを作り、
実だくさんの汁物を鍋いっぱいにこしらえ、
樽の中から取り出した白菜の塩漬けに削り節をかけてテーブルに並べた。


みんなを楽しませたくて「のぞくと夢の国へ行けます」という箱も作った。
一番、夢の国へ行きたかったのは、私だったのだが…。
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母は八十八歳のとき、米寿を記念して自叙伝を出した。
その中でこう書いていた。


「清子は末っ子ということもあって、
誰も当てにしなかったような気がしていたのに、
どこで覚えたのか料理が上手で、黙々と夕食の支度をしてくれた。

あるクリスマスの晩には、大きなケーキを作って、
みんなを喜ばせたり驚かせたり、とにかく大助かりでした」

オーブンもない時代だったから、ケーキの生地は蒸し器で作った。

いびつに膨らんでしまったが、
クリームを塗りたくった上に缶詰のミカンをのせ、
神棚から失敬した燈明用の小さなロウソクを立てて、なんとか完成させた。

クリーム作りでは、泡だて器がないので菜箸を何本も束にしたもので、
腕があがらないほどかき回した。

母はケーキを前にして、ちょっと戸惑うような顔をしたが、すぐ笑顔になった。
私はなんともいえない幸福感に包まれた。

私の夕食づくりは、中学生の頃まで続いた。


            ーーーーー◇ーーーーー

「いつの間にか傘寿」の途中ですが、
感動した本をどうしてもご紹介したくて、次回は「書籍」を綴ります。

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雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞