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いつの間にか「傘寿」④

いつの間にか傘寿
09 /17 2023
10歳、小学4年生。

このとき、私は生まれて初めて挫折した。
追い詰められて鉄道自殺を試みたが果たせなかった。
原因は母だった。

いろんなことが重なった。

夕方、裏木戸でぼんやり立っていたら、田んぼ帰りの近所のおばさんが、
周囲を警戒しつつ、スーッと近づき、小声で言った。


「あんたはシンデレラみたいな子だね。
あんたのお母さんは上の二人の姉さんばっかり可愛がって…」

私は思いっきり頭を殴られたみたいになって、呆然と立ちすくんだ。

そそくさと立ち去るおばさんの泥まみれの後ろ姿を睨んで、心の中で叫んだ。
「私のお母さんはあんたなんかよりずっと素晴らしい人だよ!」


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あんな無学で汚らしい農婦が「シンデレラ」の話を知っていて、
それを私と結びつけた。

継子ではないのに、この私をシンデレラみたいな子と言った。
ふざけるな。あんたなんかに何がわかるってんだ。

だがすぐあとから、猛烈な自己嫌悪に陥った。


いくら強がっても、事実、私は母から理不尽な扱いを受けていた。
私は可哀そうなシンデレラ。その通りじゃないか。

でもあんな人にまで、私の本当の姿が見えていたなんて。

だとしたら、この近所の人たちは、みんな私をそう見ていたのか。
いつも遊んでいる「オレ女子会」のあの遊び仲間も…。

そう思ったら、恥ずかしくてたまらなくなった。


後年、75歳で亡くなった長兄の通夜の席で、兄の妻が言った。
「この人はよく言ってたよ。清子は可哀そうな子だったって」

長兄が亡くなって2年後、今度はカナダ在住の次姉が亡くなった。
ガンで余命を宣告された姉は、まだペンが持てるころ手紙に書いてきた。

「向こうへ行ったら、清子に謝りなさいとお母さんに言うからね」

今さらと思ったが、素直に受け止めた。


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みんなは子供時代の私の窮状を知っていた。
知っていたのに誰も助けてはくれなかった。
私は母の不満のスケープゴードだってわかっていながら。

いや、わかっていたからこそ我が身の保身に走り、見て見ぬふりをし続けた。


理由もなく、ただ虫の居所が悪いというだけで、母は突然私を殴り、
洗濯物を私のものだけ土間に投げつけた。

私だけ夕ご飯を食べさせてもらえなかったこともあった。
あの時はまだ、10歳にもなっていなかった。

私はわけがわからぬ恐怖に怯えつつ、
隣の部屋からみんなの食事を見ていた。それなのに誰も助けてくれなかった。
母の逆鱗に触れないよう、
いつもは優しい父までが黙々と食べているばかりだった。


その晩私はお腹がすいてたまらなくなり、
寝静まった家の中を足音を忍ばせて歩き、台所の土間へ降り、
暗がりの中を手探りでご飯の入ったお櫃を探した。
やっと見つけて中に手を突っ込んだら、子供茶碗一杯分のご飯があった。

それを手づかみで夢中で食べた。
「やっぱりお母さんは私のお母さんだ」って感謝しながら。

私は何があっても泣かない「可愛げのない子」で、
それも母の気に障ることの一つらしかったが、このときも泣かなかった。

むしろ、温かい気持ちになっていた。
あんなにひどい仕打ちをしても、心の中では私を気遣ってくれていたんだ、と。

そのとき母が布団の中で、台所の動きに耳をそばだてているような気がした。


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母はつらく当たってばかりいたわけではない。
そのすぐあとに反動がきて、今度は異常なほどベタベタと優しくなった。

母の言動はその時々で激しく揺れたから、
子供心に何かの病気ではないかとさえ思った。


冷たさと優しさが交互に来る。
この極端から極端への行動に、私は翻弄され続けてきた。

それは5人兄弟姉妹の中で、私だけに向けられていたことで、
長兄も次姉も、こう言った。

「清子は一番小さくて、抵抗できない弱い立場だったから」


笑顔が消え無口になっていき、「オレ女子会」から遠ざかった。
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その通りだと思ったが、
頼れるのは父と母しかいない幼子には、あまりにも過酷過ぎた。
10歳の時、とうとう耐えきれなくなった。

冷淡にされるほどに私は母を求め、「お母さん、私を見て!」と、願った。
情けないことに、
母に自分を認めて欲しいという気持ちを、私は結婚してからも引きずり、
還暦間近まで続けてしまった。

今思えば、自分の子供たちに注ぐ愛情をそっちのけで、
母を求めていたような気がする。

「この関係はもう断ち切ろう」
そう決断するまで半世紀ほどの長い時間がかかった。

そのとき私は60歳目前で、母もすでに90歳目前の超高齢者だったが、
しかしそれは、
遅すぎる決断ではあったけれど、決して無駄なことではなかった。

自分を取り戻すのにまだ間に合う、そう思った。

80歳を迎えた今、あれは正解だったと心底思う。

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私が取ったのは、母と距離を置くことだった。
その母の背後にいる長姉の支配から逃れるには、それしかなかった。

生半可な態度では腰砕けになる。
だから絶縁を言い渡した。

母から掛かってきた「明日、手伝いに来てちょうだい」
という一方的な電話を受けて、即座にこう告げた。

「もう終わりにします」


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雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞