いつの間にか「傘寿」②
いつの間にか傘寿
80年なんてあっという間でした。
でも振り返ってみると思い出の中の時代は古い。やっぱり長かったのかな。
終戦の2年前に生れたから一応「戦前生まれ」。
戦争は知らないけれど、
物心がついてから、「米軍機のB29が炎に包まれて家の上を通過した」
なんて話を聞かされていたから、それが自分の体験のようになって、
悪夢に飛び起きることが度々あった。
昭和18年、家の裏山にて。
左から二女4歳、長男6歳、二男3歳と母に抱かれた私。母30歳。
家の厚い木の引き戸に直径5㎝ほどの穴が開いていた。
父が出征中、誰かが小刀で開けた穴で、
母は震えながら木刀を手に身構えていたが、板戸が厚くて諦めて去ったという。
戦時中の留守宅へ男が押し入る事件は日常茶飯事だったという。

家は店をやっていた。
ある日、車で通りかかった女性が店へはいってくるなりこう言った。
「ああやっぱり〇〇さんだ。まあ、落ちぶれて、こんなところに」
明治維新で父の実家は没落し、父はこの地に活路を求めてやってきた。
最初は農協組合長として赴任。戦後数年して商店主になった。
女性はかつて父がいた集落の人だった。
私は商人になった父親は立派な人だと思っていたが、
女性は「落ちぶれて」と言った。父はと見ると、黙って笑っていた。
田舎の遊び友達は女の子でも「オレ」と言った。
私には「オレ」なんてとても言えなかったが、
みんなの前で「わたし」と言う勇気もなかった。
そこで早口で「わたし」と言ったら、「わちゃ」になった。
それを聞きとがめた母が烈火のごとく怒り、はっきり「わたし」と言えるまで、
直立したまま、永遠と思えるほど言わされた。
少女時代の母。大正時代。

食事の作法も厳しかった。
箸は1㎝以上汚してはならぬ。テーブルに肘を突かぬよう。
おかずの皿の上をあれこれ動かす「迷い箸」は最も賎しいこと。
音を立てて食べるのもいけないと。
この「音を立てない」と言うことが沁みついて、私は今もソバを啜れないし、
人がズズーッと啜る音にも敏感になって、ソバ屋が苦手になった。
歩きながらアイスを食べたり、地べたに座って食べることもご法度。
食べ物は必ず皿に移し替えること。瓶の飲み物は必ずコップに注いでから。
職場の女性が、
「うちの母親、皿に移してから食べろとうるさくて」と言ってたから、
これは昔の母親たちの共通した常識だったのだろう。
町から訪ねてくる叔母たちは「清子さん、ごきげんよう」と言った。
「落ちぶれて何がごきげんようだ」と反発したが、
そうかといって「オレと言う女の子の世界」には馴染めなかったから、
子供なりに葛藤にさいなまれた。
葛藤しつつも「オレ女子会」に入って野山を駆け回った。
桑の実、イタドリ、ツツジモチ、食べられるものは何でも口に入れた。
ヘクソカズラの花を鼻にのせて天狗になったり、草の茎でメガネを作ったり。
そのころは田んぼにドジョウがうじゃうじゃ。蛍狩りに墓場まで出かけた。

みんなが言う「ウン〇」なんて言葉がたまらなく嫌で、
今でも文字にも書けない。家では「オババ」と言っていた。
戦時中の影響が色濃く残った田舎では、戦後も正月元日に学校へ行った。
君が代を歌い、紅白のお菓子をもらった。
その日小学1年生の私は、袴をつけて登校した。
それは神主だった祖父の袴をほどいて、母が仕立て直してくれたもので、
紫と白の地に小花を散りばめた振袖とよくマッチしていた。
そんな私をみんなは遠巻きにしてヒソヒソ。
今にして思えば母は、
落ちぶれても心まで落ちぶれるなと、無言で教えていたのだろう。
幸か不幸か私には元から、
「人は人、自分は自分」という意識が備わっていたから、
その日も私は臆することなく、のほほんと立っていた。
二十歳の私。母に似てるかな。

それでも私たち兄弟姉妹には、
異常なほど周囲に気を遣い、遠慮する傾向があった。
長姉は「虐げられた民衆のための運動」にのめり込んだ。
会社経営をしていた長兄はある日、ポツリと言った。
「どうしても強く出れないんだ。経営者は冷淡さもないとダメなんだけど」
小学生の時、父と二人で実家の墓参りに出かけたら、
農家の老婆に呼び止められた。
「あんたも昔だったら、おひいさまなのに、やれ、気の毒に。へっへっへ」
父が黙って私の腕を引っ張った。
「まったくいい時代になったもんだよ」という老婆の声が後ろから響いた。
父の家は集落の小さな神社の神主で、名主でも権力者でもなかった。
それでも虐げられた「百姓衆」には、羨望と憎悪の対象だったのだろう。
それにしても、なんで老婆はあんな言葉を子供の私に投げつけたんだろう。
このときはすでに明治から100年余もたっていたし、
この老婆だって幕藩体制の時代なんて経験していないはずなのに。
鳥居横の晩年の祖父。撮影のためだろうか、何かに腰かけて写っている。
明治維新後、世襲制が廃止されたため、祖父は複数の神社を兼務。
訓導(学校の教師)もしていたという。嘉永六年生まれ。

「日本史蹟」昭文堂 明治44年
墓所へ着くと父が墓石の周りにある小さな石を指さして言った。
「これは捨て子の墓だよ。よく門前に捨てられていてね。
たいていは栄養失調ですぐ死んでしまった」
ここは古宮と呼ばれていたところで、古社と屋敷と墓所があったという。
寛政五年(1793)、七代目の先祖が墓所だけ残して、
甲州街道脇の現在地へ移設したと叔母たちから聞いた。
戦後、父の腹違いの長兄が他界してまもなく、
その長兄の後妻と先妻の子供との間で家督争いが起きた。
長い裁判を経て本家を継いだのは、生まれも育ちも東京という先妻の孫で、
相続してすぐ墓所も屋敷も解体。
両親の骨と先祖伝来のめぼしいものだけ持って関西へ移っていった。
昔日の父の家のことを知っている方が、夥しく残された墓石を惜しんで、
空き地の脇に並べてくださったという。
昨年案内されて見に行ったら、住宅の間にずらっと並んでいた。(下の写真)
昭和初期ごろまでは、
葬儀は神式で行い、すべてが終わってから寺の住職さんが来たという。
墓石に「南無妙法蓮華経」と刻まれているのは、そのためだろうか。
私には縁のない法華経にびっくりした。
墓地の中央にあった墓石には「奥津城」と刻まれていた。
中央の墓石には婿養子の名「雨宮」と元の名「細川」が並んでいた。

今またそれが市から撤去の要請がきていると、人伝てに聞いた。

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でも振り返ってみると思い出の中の時代は古い。やっぱり長かったのかな。
終戦の2年前に生れたから一応「戦前生まれ」。
戦争は知らないけれど、
物心がついてから、「米軍機のB29が炎に包まれて家の上を通過した」
なんて話を聞かされていたから、それが自分の体験のようになって、
悪夢に飛び起きることが度々あった。
昭和18年、家の裏山にて。
左から二女4歳、長男6歳、二男3歳と母に抱かれた私。母30歳。
家の厚い木の引き戸に直径5㎝ほどの穴が開いていた。
父が出征中、誰かが小刀で開けた穴で、
母は震えながら木刀を手に身構えていたが、板戸が厚くて諦めて去ったという。
戦時中の留守宅へ男が押し入る事件は日常茶飯事だったという。

家は店をやっていた。
ある日、車で通りかかった女性が店へはいってくるなりこう言った。
「ああやっぱり〇〇さんだ。まあ、落ちぶれて、こんなところに」
明治維新で父の実家は没落し、父はこの地に活路を求めてやってきた。
最初は農協組合長として赴任。戦後数年して商店主になった。
女性はかつて父がいた集落の人だった。
私は商人になった父親は立派な人だと思っていたが、
女性は「落ちぶれて」と言った。父はと見ると、黙って笑っていた。
田舎の遊び友達は女の子でも「オレ」と言った。
私には「オレ」なんてとても言えなかったが、
みんなの前で「わたし」と言う勇気もなかった。
そこで早口で「わたし」と言ったら、「わちゃ」になった。
それを聞きとがめた母が烈火のごとく怒り、はっきり「わたし」と言えるまで、
直立したまま、永遠と思えるほど言わされた。
少女時代の母。大正時代。

食事の作法も厳しかった。
箸は1㎝以上汚してはならぬ。テーブルに肘を突かぬよう。
おかずの皿の上をあれこれ動かす「迷い箸」は最も賎しいこと。
音を立てて食べるのもいけないと。
この「音を立てない」と言うことが沁みついて、私は今もソバを啜れないし、
人がズズーッと啜る音にも敏感になって、ソバ屋が苦手になった。
歩きながらアイスを食べたり、地べたに座って食べることもご法度。
食べ物は必ず皿に移し替えること。瓶の飲み物は必ずコップに注いでから。
職場の女性が、
「うちの母親、皿に移してから食べろとうるさくて」と言ってたから、
これは昔の母親たちの共通した常識だったのだろう。
町から訪ねてくる叔母たちは「清子さん、ごきげんよう」と言った。
「落ちぶれて何がごきげんようだ」と反発したが、
そうかといって「オレと言う女の子の世界」には馴染めなかったから、
子供なりに葛藤にさいなまれた。
葛藤しつつも「オレ女子会」に入って野山を駆け回った。
桑の実、イタドリ、ツツジモチ、食べられるものは何でも口に入れた。
ヘクソカズラの花を鼻にのせて天狗になったり、草の茎でメガネを作ったり。
そのころは田んぼにドジョウがうじゃうじゃ。蛍狩りに墓場まで出かけた。

みんなが言う「ウン〇」なんて言葉がたまらなく嫌で、
今でも文字にも書けない。家では「オババ」と言っていた。
戦時中の影響が色濃く残った田舎では、戦後も正月元日に学校へ行った。
君が代を歌い、紅白のお菓子をもらった。
その日小学1年生の私は、袴をつけて登校した。
それは神主だった祖父の袴をほどいて、母が仕立て直してくれたもので、
紫と白の地に小花を散りばめた振袖とよくマッチしていた。
そんな私をみんなは遠巻きにしてヒソヒソ。
今にして思えば母は、
落ちぶれても心まで落ちぶれるなと、無言で教えていたのだろう。
幸か不幸か私には元から、
「人は人、自分は自分」という意識が備わっていたから、
その日も私は臆することなく、のほほんと立っていた。
二十歳の私。母に似てるかな。

それでも私たち兄弟姉妹には、
異常なほど周囲に気を遣い、遠慮する傾向があった。
長姉は「虐げられた民衆のための運動」にのめり込んだ。
会社経営をしていた長兄はある日、ポツリと言った。
「どうしても強く出れないんだ。経営者は冷淡さもないとダメなんだけど」
小学生の時、父と二人で実家の墓参りに出かけたら、
農家の老婆に呼び止められた。
「あんたも昔だったら、おひいさまなのに、やれ、気の毒に。へっへっへ」
父が黙って私の腕を引っ張った。
「まったくいい時代になったもんだよ」という老婆の声が後ろから響いた。
父の家は集落の小さな神社の神主で、名主でも権力者でもなかった。
それでも虐げられた「百姓衆」には、羨望と憎悪の対象だったのだろう。
それにしても、なんで老婆はあんな言葉を子供の私に投げつけたんだろう。
このときはすでに明治から100年余もたっていたし、
この老婆だって幕藩体制の時代なんて経験していないはずなのに。
鳥居横の晩年の祖父。撮影のためだろうか、何かに腰かけて写っている。
明治維新後、世襲制が廃止されたため、祖父は複数の神社を兼務。
訓導(学校の教師)もしていたという。嘉永六年生まれ。

「日本史蹟」昭文堂 明治44年
墓所へ着くと父が墓石の周りにある小さな石を指さして言った。
「これは捨て子の墓だよ。よく門前に捨てられていてね。
たいていは栄養失調ですぐ死んでしまった」
ここは古宮と呼ばれていたところで、古社と屋敷と墓所があったという。
寛政五年(1793)、七代目の先祖が墓所だけ残して、
甲州街道脇の現在地へ移設したと叔母たちから聞いた。
戦後、父の腹違いの長兄が他界してまもなく、
その長兄の後妻と先妻の子供との間で家督争いが起きた。
長い裁判を経て本家を継いだのは、生まれも育ちも東京という先妻の孫で、
相続してすぐ墓所も屋敷も解体。
両親の骨と先祖伝来のめぼしいものだけ持って関西へ移っていった。
昔日の父の家のことを知っている方が、夥しく残された墓石を惜しんで、
空き地の脇に並べてくださったという。
昨年案内されて見に行ったら、住宅の間にずらっと並んでいた。(下の写真)
昭和初期ごろまでは、
葬儀は神式で行い、すべてが終わってから寺の住職さんが来たという。
墓石に「南無妙法蓮華経」と刻まれているのは、そのためだろうか。
私には縁のない法華経にびっくりした。
墓地の中央にあった墓石には「奥津城」と刻まれていた。
中央の墓石には婿養子の名「雨宮」と元の名「細川」が並んでいた。

今またそれが市から撤去の要請がきていると、人伝てに聞いた。

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