いつの間にか「傘寿」⑥
いつの間にか傘寿
10歳で目覚めたのは料理だけではなかった。
マイナスをプラスにすると、いろんなものが見えてきた。
その一つに読書があった。
母は無類の読書家だった。
自由学園の羽仁もと子に傾倒して「婦人之友」の愛読者になっていた。
子供たちにも本や雑誌を惜しげもなく与えてくれた。
あんな時代のあんな貧しさの中だったのにと、今も信じられない思いがする。
母が語った父とのなれそめは、とてもロマンチックだった。
隣町にいた母を見初めた若き日の父は、毎晩、バイオリンを弾きながら
母の家まで行ったという。そこでようやく母を射止めた。
自宅で次姉の結納の日、みんなに勧められて父はバイオリンを披露した。
父はどんな思いで弾いたんだろうか。あの日は照れながらも嬉しそうだった。

だがその頃の父の家は、母が聞いていたのとは大違いだった。
「誰知らぬ者もない名家に嫁いだものの、そのころはすっかり零落して」
「その上、夫は3度目の妻の子で相続する権利がなく、
東京から兄が帰郷して家を追われて当地にやってきた」(母の自叙伝)
祖父の最初の妻は離縁。2度目の妻は病死。
幕末から父の実家は困窮を極めた。そのことが、
兄弟姉妹たちが実父に送った手紙に、赤裸々に綴られている。
柳田国男が弟子を使ってこの家を調査したのは、このころだったのだろう。
「宝物もろくにないただの小祠で、歩き巫女が定住でもしたんだろう。
加藤玄智博士まで騙されて」と全集に書いている。
困窮時代の兄弟姉妹たちの手紙。

結婚して間もなく夫の生家を追われて、見ず知らずの田舎に来た母は、
7年の間に5人の子をもうけた。ときは第二次大戦の真っただ中。
田舎特有のいじめを受けつつ留守を守った。
母は自叙伝でそのときの苦労を綴っている。
「夫の出征中に軍馬の飼料として乾草30㌔の供出が課せられた。
山も畑もない者には刈るところがない。近所の農家では
誰も苅場を貸してくれず、まだ5歳の長女に下3人の子供を預けて、
誰の持ち物でもない遠くの山まで刈りに行った。
慣れない鎌でようやく刈り終えたときはすでに月が出ていて、
大急ぎで家へ戻ると、長女が赤ん坊の次男を背負い子守歌を歌っていた。
赤ん坊の足が地についているのです。
それを見て涙があふれ、戦争を呪った」
下は父の一族の写真。昭和12年撮影。
後列一番高いところにいるのが父の母親違いの兄(51歳)、隣りが父(29歳)。
前列右端に長女を抱いた母(22歳)が写っている。
この兄は東京の神田芳林小学校の校長を最後に帰郷。
芳林小学校では虚弱児童のためのスクールバスを発案。映画教室も開催。
男女青年団・全国家事裁縫研究会会長、帝都学校委員だったという。

父が病気になって軍隊から帰されたが収入の道がない。
そこで母は近所の人に教わりながら行商に出た。
「警察の取り締まりで米を没収されたり、
ドアの閉まらない満員電車から振り落とされそうになったり…。
仕入れたイワシが一匹も売れず腐って、全部川へ捨てた」
「中央線に乗ってお米を売りに行った。ある家で2俵買うというので、
毎日1斗ずつ運んだ。だが、1俵まで運んでもお金を払ってくれない。
命の危険を感じたが、このままでは取られ損になる。
払うまで帰らないと押し問答の末、その場を動かなかったら夜になった。
仕方なくその家の子供たちの中に入って一夜を明かした。
朝になってその家の主人が、この先の劇場へ行けば払うと言う。
行ってみたらたくさんの人がいた。
そこで飛び交っていたのは全部、朝鮮語だった。
身のすくむ思いで1時間ほどいたら、立派な身なりの人が来て、
「〇〇組の者です。待たせましたね」と日本語で言い、お金を払ってくれた。
追いかけてくるのではないかと必死で駅まで走った。
この人が名乗った「〇〇組」は、今もある大手ゼネコンの会社だった」
明治15年の「隠居届け」。このとき父の祖父(文政8年生)は戸長。
この人は邦孝といい、幕末、大宮浅間大社・大宮司の富士亦八郎が結成した
神職だけの討幕軍「駿州赤心隊」に参加した。
この人が当主のとき、勘定奉行や長崎奉行などを歴任した河津祐邦が、
まだ若殿のころ、ご訪問くださった。毎年、お初穂が送られてきたという。

父が商売を始める戦前戦後の数年間、母はこうして一家を支えた。
「行商の途中、喉が渇いてボウフラが湧いた水を飲んだが大丈夫だった。
若かったから」と、自叙伝にはさらりと書いているが、
このときの苦労話は事あるごとに子供たちに聞かせていたから、
そのつらさは相当なものだったに違いない。
母は父のバイオリンに乗せられて求愛を受け入れ、「名家」に嫁いだものの、
すでに落ちぶれていて、その上、老父とたくさんの小姑たちがいて、
苦労が絶えなかった。
下は父の母親違いの姉が夫を亡くして3年後、記念碑を建てたときのもの。
当時はこうして歌を詠み、みなさんに配った。
3人の幼子はそれぞれ養子に出された。長男は実父の家を継いだ。
母親は再婚。静岡市(旧清水市)に住んでいたようで、
ご子孫とは親戚であることを知らないまま、どこかで会っていたかも。

母には苦労だけが待っていた結婚だった。
そして長引く戦争がそれに拍車をかけた。
戦後は商家の女房として、早朝から終電車まで40数年も働き続けた。
お酒もタバコもたしなみ、東京暮らしも経験した大正のモダンガールは、
都会の文化や知識を絶やさないよう、それを本に求めた。
客のいない店の奥で雑誌を読みふける母の姿は、
子供の私の目に尊く誇らしく映った。
母と子供たち。
いつもは仲間に入るのを嫌う長姉がいる。
近所のカメラ好きの青年が私たちをよく撮影してくれた。

しかし、田舎の農婦よりずっと教養があるはずのその母は、
私を苦しめ続けた。
私の目の前で、すぐ上の兄だけに玉子かけご飯を食べさせ、
日本舞踊の稽古に行く二人の姉のあとを追いかける私を母は殴った。
大きい姉や兄たちの前で私にお使いを命じた。
まだ母が夕食を作っていたころだから、10歳前だっただろう。
駅近くの目的の八百屋まで、子供の足で往復1時間。
帰りは急坂ばかりで、すでに日没。
人家が途絶えた暗がりには、山から下る発電所の導水管があって、
ゴーゴーと水しぶきを上げていた。
そこは「大入道というお化けが出る」と噂のある場所だったから、
私は重い買い物かごを胸の前にしっかり抱えて、全速力で走り抜けた。
兄だけに玉子かけご飯を与えた時「私も食べたい」と言ったら、
「兄ちゃんは今、成長期で栄養つけないとだめだから。
大きくなる時骨が伸びて痛むから」と。
私はそれを真に受けて、兄ちゃんの年になったとき「骨が痛い」と言ったら、
母は呆れた顔をして一笑に付した。
私の骨が痛いのはウソだったが、それは同時に母のウソでもあった。
そのとき誓った。
「よし、大きくなったら働いて、いっぱい卵を買おう」と。

幼いながらも怒りを抑える術を思いついたものの、
ただ、一人だけ除け者にされる寂しさはどうしようもなかった。
だが、そんな母でも私は憎めなかった。
本という世界を教えてくれたから。それだけは惜しみなく与えてくれたから。
母が「あんたはお父さんに似ているから、イヤでイヤでしょうがない」
と、私の存在をどれだけ否定しても、
本が好きということだけは、確実に母から受け継いでいた。
本を開くと活字が語り掛けてくる。
私はなにもかも忘れて、すぐに物語の中の一人になった。
そして、気づいた。
本の中にこそ、私の「居場所」があった、と。

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マイナスをプラスにすると、いろんなものが見えてきた。
その一つに読書があった。
母は無類の読書家だった。
自由学園の羽仁もと子に傾倒して「婦人之友」の愛読者になっていた。
子供たちにも本や雑誌を惜しげもなく与えてくれた。
あんな時代のあんな貧しさの中だったのにと、今も信じられない思いがする。
母が語った父とのなれそめは、とてもロマンチックだった。
隣町にいた母を見初めた若き日の父は、毎晩、バイオリンを弾きながら
母の家まで行ったという。そこでようやく母を射止めた。
自宅で次姉の結納の日、みんなに勧められて父はバイオリンを披露した。
父はどんな思いで弾いたんだろうか。あの日は照れながらも嬉しそうだった。

だがその頃の父の家は、母が聞いていたのとは大違いだった。
「誰知らぬ者もない名家に嫁いだものの、そのころはすっかり零落して」
「その上、夫は3度目の妻の子で相続する権利がなく、
東京から兄が帰郷して家を追われて当地にやってきた」(母の自叙伝)
祖父の最初の妻は離縁。2度目の妻は病死。
幕末から父の実家は困窮を極めた。そのことが、
兄弟姉妹たちが実父に送った手紙に、赤裸々に綴られている。
柳田国男が弟子を使ってこの家を調査したのは、このころだったのだろう。
「宝物もろくにないただの小祠で、歩き巫女が定住でもしたんだろう。
加藤玄智博士まで騙されて」と全集に書いている。
困窮時代の兄弟姉妹たちの手紙。

結婚して間もなく夫の生家を追われて、見ず知らずの田舎に来た母は、
7年の間に5人の子をもうけた。ときは第二次大戦の真っただ中。
田舎特有のいじめを受けつつ留守を守った。
母は自叙伝でそのときの苦労を綴っている。
「夫の出征中に軍馬の飼料として乾草30㌔の供出が課せられた。
山も畑もない者には刈るところがない。近所の農家では
誰も苅場を貸してくれず、まだ5歳の長女に下3人の子供を預けて、
誰の持ち物でもない遠くの山まで刈りに行った。
慣れない鎌でようやく刈り終えたときはすでに月が出ていて、
大急ぎで家へ戻ると、長女が赤ん坊の次男を背負い子守歌を歌っていた。
赤ん坊の足が地についているのです。
それを見て涙があふれ、戦争を呪った」
下は父の一族の写真。昭和12年撮影。
後列一番高いところにいるのが父の母親違いの兄(51歳)、隣りが父(29歳)。
前列右端に長女を抱いた母(22歳)が写っている。
この兄は東京の神田芳林小学校の校長を最後に帰郷。
芳林小学校では虚弱児童のためのスクールバスを発案。映画教室も開催。
男女青年団・全国家事裁縫研究会会長、帝都学校委員だったという。

父が病気になって軍隊から帰されたが収入の道がない。
そこで母は近所の人に教わりながら行商に出た。
「警察の取り締まりで米を没収されたり、
ドアの閉まらない満員電車から振り落とされそうになったり…。
仕入れたイワシが一匹も売れず腐って、全部川へ捨てた」
「中央線に乗ってお米を売りに行った。ある家で2俵買うというので、
毎日1斗ずつ運んだ。だが、1俵まで運んでもお金を払ってくれない。
命の危険を感じたが、このままでは取られ損になる。
払うまで帰らないと押し問答の末、その場を動かなかったら夜になった。
仕方なくその家の子供たちの中に入って一夜を明かした。
朝になってその家の主人が、この先の劇場へ行けば払うと言う。
行ってみたらたくさんの人がいた。
そこで飛び交っていたのは全部、朝鮮語だった。
身のすくむ思いで1時間ほどいたら、立派な身なりの人が来て、
「〇〇組の者です。待たせましたね」と日本語で言い、お金を払ってくれた。
追いかけてくるのではないかと必死で駅まで走った。
この人が名乗った「〇〇組」は、今もある大手ゼネコンの会社だった」
明治15年の「隠居届け」。このとき父の祖父(文政8年生)は戸長。
この人は邦孝といい、幕末、大宮浅間大社・大宮司の富士亦八郎が結成した
神職だけの討幕軍「駿州赤心隊」に参加した。
この人が当主のとき、勘定奉行や長崎奉行などを歴任した河津祐邦が、
まだ若殿のころ、ご訪問くださった。毎年、お初穂が送られてきたという。

父が商売を始める戦前戦後の数年間、母はこうして一家を支えた。
「行商の途中、喉が渇いてボウフラが湧いた水を飲んだが大丈夫だった。
若かったから」と、自叙伝にはさらりと書いているが、
このときの苦労話は事あるごとに子供たちに聞かせていたから、
そのつらさは相当なものだったに違いない。
母は父のバイオリンに乗せられて求愛を受け入れ、「名家」に嫁いだものの、
すでに落ちぶれていて、その上、老父とたくさんの小姑たちがいて、
苦労が絶えなかった。
下は父の母親違いの姉が夫を亡くして3年後、記念碑を建てたときのもの。
当時はこうして歌を詠み、みなさんに配った。
3人の幼子はそれぞれ養子に出された。長男は実父の家を継いだ。
母親は再婚。静岡市(旧清水市)に住んでいたようで、
ご子孫とは親戚であることを知らないまま、どこかで会っていたかも。

母には苦労だけが待っていた結婚だった。
そして長引く戦争がそれに拍車をかけた。
戦後は商家の女房として、早朝から終電車まで40数年も働き続けた。
お酒もタバコもたしなみ、東京暮らしも経験した大正のモダンガールは、
都会の文化や知識を絶やさないよう、それを本に求めた。
客のいない店の奥で雑誌を読みふける母の姿は、
子供の私の目に尊く誇らしく映った。
母と子供たち。
いつもは仲間に入るのを嫌う長姉がいる。
近所のカメラ好きの青年が私たちをよく撮影してくれた。

しかし、田舎の農婦よりずっと教養があるはずのその母は、
私を苦しめ続けた。
私の目の前で、すぐ上の兄だけに玉子かけご飯を食べさせ、
日本舞踊の稽古に行く二人の姉のあとを追いかける私を母は殴った。
大きい姉や兄たちの前で私にお使いを命じた。
まだ母が夕食を作っていたころだから、10歳前だっただろう。
駅近くの目的の八百屋まで、子供の足で往復1時間。
帰りは急坂ばかりで、すでに日没。
人家が途絶えた暗がりには、山から下る発電所の導水管があって、
ゴーゴーと水しぶきを上げていた。
そこは「大入道というお化けが出る」と噂のある場所だったから、
私は重い買い物かごを胸の前にしっかり抱えて、全速力で走り抜けた。
兄だけに玉子かけご飯を与えた時「私も食べたい」と言ったら、
「兄ちゃんは今、成長期で栄養つけないとだめだから。
大きくなる時骨が伸びて痛むから」と。
私はそれを真に受けて、兄ちゃんの年になったとき「骨が痛い」と言ったら、
母は呆れた顔をして一笑に付した。
私の骨が痛いのはウソだったが、それは同時に母のウソでもあった。
そのとき誓った。
「よし、大きくなったら働いて、いっぱい卵を買おう」と。

幼いながらも怒りを抑える術を思いついたものの、
ただ、一人だけ除け者にされる寂しさはどうしようもなかった。
だが、そんな母でも私は憎めなかった。
本という世界を教えてくれたから。それだけは惜しみなく与えてくれたから。
母が「あんたはお父さんに似ているから、イヤでイヤでしょうがない」
と、私の存在をどれだけ否定しても、
本が好きということだけは、確実に母から受け継いでいた。
本を開くと活字が語り掛けてくる。
私はなにもかも忘れて、すぐに物語の中の一人になった。
そして、気づいた。
本の中にこそ、私の「居場所」があった、と。

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