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いつの間にか「傘寿」⑥

いつの間にか傘寿
09 /29 2023
10歳で目覚めたのは料理だけではなかった。
マイナスをプラスにすると、いろんなものが見えてきた。

その一つに読書があった。

母は無類の読書家だった。
自由学園の羽仁もと子に傾倒して「婦人之友」の愛読者になっていた。
子供たちにも本や雑誌を惜しげもなく与えてくれた。

あんな時代のあんな貧しさの中だったのにと、今も信じられない思いがする。


母が語った父とのなれそめは、とてもロマンチックだった。

隣町にいた母を見初めた若き日の父は、毎晩、バイオリンを弾きながら
母の家まで行ったという。そこでようやく母を射止めた。


自宅で次姉の結納の日、みんなに勧められて父はバイオリンを披露した。
父はどんな思いで弾いたんだろうか。あの日は照れながらも嬉しそうだった。
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だがその頃の父の家は、母が聞いていたのとは大違いだった。

「誰知らぬ者もない名家に嫁いだものの、そのころはすっかり零落して」
「その上、夫は3度目の妻の子で相続する権利がなく、
東京から兄が帰郷して家を追われて当地にやってきた」
(母の自叙伝)
祖父の最初の妻は離縁。2度目の妻は病死。

幕末から父の実家は困窮を極めた。そのことが、
兄弟姉妹たちが実父に送った手紙に、赤裸々に綴られている。

柳田国男が弟子を使ってこの家を調査したのは、このころだったのだろう。
「宝物もろくにないただの小祠で、歩き巫女が定住でもしたんだろう。
加藤玄智博士まで騙されて」と全集に書いている。

困窮時代の兄弟姉妹たちの手紙。
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結婚して間もなく夫の生家を追われて、見ず知らずの田舎に来た母は、
7年の間に5人の子をもうけた。ときは第二次大戦の真っただ中。
田舎特有のいじめを受けつつ留守を守った。

母は自叙伝でそのときの苦労を綴っている。

「夫の出征中に軍馬の飼料として乾草30㌔の供出が課せられた。
山も畑もない者には刈るところがない。近所の農家では
誰も苅場を貸してくれず、まだ5歳の長女に下3人の子供を預けて、
誰の持ち物でもない遠くの山まで刈りに行った。

慣れない鎌でようやく刈り終えたときはすでに月が出ていて、
大急ぎで家へ戻ると、長女が赤ん坊の次男を背負い子守歌を歌っていた。
赤ん坊の足が地についているのです。
それを見て涙があふれ、戦争を呪った」

下は父の一族の写真。昭和12年撮影。
後列一番高いところにいるのが父の母親違いの兄(51歳)、隣りが(29歳)。
前列右端に長女を抱いた(22歳)が写っている。
この兄は東京の神田芳林小学校の校長を最後に帰郷。

芳林小学校では虚弱児童のためのスクールバスを発案。映画教室も開催。
男女青年団・全国家事裁縫研究会会長、帝都学校委員だったという。
一族

父が病気になって軍隊から帰されたが収入の道がない。
そこで母は近所の人に教わりながら行商に出た。

「警察の取り締まりで米を没収されたり、
ドアの閉まらない満員電車から振り落とされそうになったり…。
仕入れたイワシが一匹も売れず腐って、全部川へ捨てた」

「中央線に乗ってお米を売りに行った。ある家で2俵買うというので、
毎日1斗ずつ運んだ。だが、1俵まで運んでもお金を払ってくれない。
命の危険を感じたが、このままでは取られ損になる。

払うまで帰らないと押し問答の末、その場を動かなかったら夜になった。
仕方なくその家の子供たちの中に入って一夜を明かした。
朝になってその家の主人が、この先の劇場へ行けば払うと言う。

行ってみたらたくさんの人がいた。
そこで飛び交っていたのは全部、朝鮮語だった。

身のすくむ思いで1時間ほどいたら、立派な身なりの人が来て、
「〇〇組の者です。待たせましたね」と日本語で言い、お金を払ってくれた。
追いかけてくるのではないかと必死で駅まで走った。
この人が名乗った「〇〇組」は、今もある大手ゼネコンの会社だった」

明治15年の「隠居届け」。このとき父の祖父(文政8年生)は戸長
この人は邦孝といい、幕末、大宮浅間大社・大宮司の富士亦八郎が結成した
神職だけの討幕軍「駿州赤心隊」に参加した。

この人が当主のとき、勘定奉行や長崎奉行などを歴任した河津祐邦が、
まだ若殿のころ、ご訪問くださった。毎年、お初穂が送られてきたという。
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父が商売を始める戦前戦後の数年間、母はこうして一家を支えた。

「行商の途中、喉が渇いてボウフラが湧いた水を飲んだが大丈夫だった。
若かったから」と、自叙伝にはさらりと書いているが、

このときの苦労話は事あるごとに子供たちに聞かせていたから、
そのつらさは相当なものだったに違いない。

母は父のバイオリンに乗せられて求愛を受け入れ、「名家」に嫁いだものの、
すでに落ちぶれていて、その上、老父とたくさんの小姑たちがいて、
苦労が絶えなかった。

下は父の母親違いの姉が夫を亡くして3年後、記念碑を建てたときのもの。
当時はこうして歌を詠み、みなさんに配った。


3人の幼子はそれぞれ養子に出された。長男は実父の家を継いだ。
母親は再婚。静岡市(旧清水市)に住んでいたようで、
ご子孫とは親戚であることを知らないまま、どこかで会っていたかも。
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母には苦労だけが待っていた結婚だった。

そして長引く戦争がそれに拍車をかけた。

戦後は商家の女房として、早朝から終電車まで40数年も働き続けた。

お酒もタバコもたしなみ、東京暮らしも経験した大正のモダンガールは、
都会の文化や知識を絶やさないよう、それを本に求めた。

客のいない店の奥で雑誌を読みふける母の姿は、
子供の私の目に尊く誇らしく映った。


母と子供たち。
いつもは仲間に入るのを嫌う長姉がいる。
近所のカメラ好きの青年が私たちをよく撮影してくれた。
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しかし、田舎の農婦よりずっと教養があるはずのその母は、
私を苦しめ続けた。

私の目の前で、すぐ上の兄だけに玉子かけご飯を食べさせ、
日本舞踊の稽古に行く二人の姉のあとを追いかける私を母は殴った。

大きい姉や兄たちの前で私にお使いを命じた。
まだ母が夕食を作っていたころだから、10歳前だっただろう。
駅近くの目的の八百屋まで、子供の足で往復1時間。


帰りは急坂ばかりで、すでに日没。
人家が途絶えた暗がりには、山から下る発電所の導水管があって、
ゴーゴーと水しぶきを上げていた。

そこは「大入道というお化けが出る」と噂のある場所だったから、
私は重い買い物かごを胸の前にしっかり抱えて、全速力で走り抜けた。


兄だけに玉子かけご飯を与えた時「私も食べたい」と言ったら、
「兄ちゃんは今、成長期で栄養つけないとだめだから。
大きくなる時骨が伸びて痛むから」と。

私はそれを真に受けて、兄ちゃんの年になったとき「骨が痛い」と言ったら、
母は呆れた顔をして一笑に付した。

私の骨が痛いのはウソだったが、それは同時に母のウソでもあった。
そのとき誓った。
「よし、大きくなったら働いて、いっぱい卵を買おう」と。

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幼いながらも怒りを抑える術を思いついたものの、
ただ、一人だけ除け者にされる寂しさはどうしようもなかった。

だが、そんな母でも私は憎めなかった。
本という世界を教えてくれたから。それだけは惜しみなく与えてくれたから。


母が「あんたはお父さんに似ているから、イヤでイヤでしょうがない」
と、私の存在をどれだけ否定しても、
本が好きということだけは、確実に母から受け継いでいた。

本を開くと活字が語り掛けてくる。
私はなにもかも忘れて、すぐに物語の中の一人になった。


そして、気づいた。
本の中にこそ、私の「居場所」があった、と。


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「テムズとともに」を読んで②

書籍
09 /26 2023
徳仁親王殿下「ヒロ」さんの、オックスフォードでの研究テーマは、
「テムズ川の交通史」

そのわけを本書で明かしています。

「幼少の頃から交通の媒体となる”道”について、大変興味があった」

「外に出たくてもままならない立場」だったが、
「たまたま赤坂御用地を散策中、奥州街道と書かれた標識を見つけた。
古地図や専門家の意見などにより、実は鎌倉時代の街道が御用地内を
通っていたことがわかり、この時は本当に興奮した」

鎌倉街道といえば、静岡県にはこんな伝説と寺院跡が残っています。
かつて鎌倉街道沿いに「紅葉寺」(もみじでら)という尼寺があった。
庵主さんは「橋本宿」の長者の娘で、源頼朝と恋仲になり、
頼朝亡き後、尼になってこの寺に住んだ、そんなお話です。

今は数体の石仏を残すのみ。「紅葉寺」の正式名称は「本覚寺」。尼寺。
紅葉寺
静岡県新居町浜名

御用地の中で偶然見つけた「鎌倉街道」から、
親王は目を開かれ、ご自分の進むべき一筋の「道」を見出します。

「私にとって道は、いわば未知の世界と自分とを結びつける
貴重な役割を担っていたといえよう」


「初等科高学年の折に母とともに読破した芭蕉の「奥の細道」により、
旅、交通に対する興味がより深まった」


日光街道・草加松原
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「外へ出たくてもままならない立場」が切なく、
それでも限られた中で探求心を失わずコツコツと歩まれた姿に、
私は思わず拍手。

また、小学生の時、美智子妃とともに「奥の細道」を辿ったという話に、
私は驚きと共にまたも胸を熱くした。

我々が知り得ようもない御所の奥深いところでの「母と子」の姿が、
眼前に浮かびました。

こちらのお母さんも愛情たっぷり。
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学習院大学の史学科に席を置いた「ヒロ」さんは、中世の交通制度に着目。

やがて「中世の海上交通が交通史分野では未開拓」であることを知り、
瀬戸内海を対象地域として、大学院進学後もこのテーマに取り組んだ。

そして、オックスフォードでもそれが、
「英国中世の交通史の研究」へと繋がっていった。


ラテン語の中世資料に四苦八苦しつつ、
史料館、文書館、図書館へ通い、何度も現地を歩く研究生活が続く。

図書館での閲覧には利用許可証の申請が必要だったが、
図書館では、日本の皇太子だからといって特別待遇はしない。
それを「ヒロ」さんは当然のこととして、素直に規則に従った。


傘を盗まれたときも施設で傘を貸してくれるわけではなかったから、
強い雨の中をずぶぬれでコレッジまで帰った。


別の著作もご紹介します。
「水運史から世界の水へ」徳仁親王 NHK出版 平成31年
これは、昭和62年から平成30年に行った国内外での講演集です。
中世の琵琶湖の水運、江戸の利根川の水運、テムズ川の水運史などを、
図や写真で分かりやすく説明されています。
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オックスフォードでは滞在2年という限られた中での調査。
来る日も来る日も研究に没頭します。

テムズ川の歴史、ここを行き来した船舶、輸送業者と製粉業者間の争い、
運ばれる二大産業のモルトや石炭とそうした人たちの居住区、関税。

やがて鉄道や車の出現で衰退していった水上交通とその後など、
その綿密な調査や手法に、私は驚かされっ放しでした。

この研究成果が実り、論文は「The Thames as Highway」と題され、
オックスフォード大学出版会によって出版された。


この留学中に撮影した写真は2000枚だという。

インドネシアご訪問の折にも、歴史的建造物を目にすると、
胸のポケットからデジカメをサッと取り出し、素早く撮影されていましたが、
本当に歴史がお好きなんですね。

ファインダーを覗く時は歴史学者の目になっておられるのでは、と思いました。

テムズ川の水門に取り付けられたパウンド・ロック。(上の写真)
下は、オックスフォード運河に設置された水門の開閉を操作体験する殿下。
この本に、
日本最古の閘門(ロック)は、さいたま市の見沼通船堀」と書かれていた。
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「水門史から世界の水へ」より

この聡明さ、行動力、好奇心・探求心、そして真摯で丁寧な性格、
もし一般人であったなら、日本の史学界をリードする方になっただろう、
そんなことが私の脳裏をかすめました。

「ヒロ」さんの真っ直ぐな目は、
ロンドンに到着した翌日に見た「英国議会の開会式」にすでに表れていた。

「女王陛下からの使者が下院のドアを叩くが、2回拒絶して3回目にドアを開く。
いわば女王陛下の使者に三顧の礼を尽くさせるわけであるが、
私はこの一連の所作に、ピューリタン革命にまで遡る王権から自立した
議会を主体とする政治の理念が表わされている思いがした」


そして私が注目した記事の一つに、図書館の在り方があった。

「ヒロ」さんが体験したイギリスの図書館や文書館には
各分野の専門職がいて、
閲覧希望者に対して高度な対応がなされていたという。


「英国の文書館や図書館制度がとてもよく整備されていること、および
アーキヴィストや司書のサービスの良さを再認識した。
これらが高いレベルを誇る英国の歴史研究に大きく貢献していることは
論をまたない」と、「ヒロ」さんは本書に綴っている。


下は「中世日本の諸相・下巻」吉川弘文館 平成元年の目次です。
徳仁親王はこの論集に執筆者の一人として、(右から5番目)
「室町前中期の兵庫関の二、三の問題」を寄稿されています。

「兵庫関」とは神戸市和田岬付近に存在した関所で、
ここで東大寺と興福寺が兵庫津に入港した船舶から関銭を徴収していた。
中世日本の

英国の図書館についてを読んだ時、私は羨ましくて仕方がなかった。
だって今の日本の図書館ときたら、あまりにも理念がなさすぎるから。


本屋に経営させる図書館なんて最悪だし、
司書資格もない定年役人を館長に据え、パート従業員を使い捨て。

司書の仕事はバーコードに光をあてるだけとなり、
図書館同士で入館者数や貸し出し数を競わせるという
競争主義、商業主義へ堕落。


古い資料はパッパと捨てる図書館まで出現した。

本を借りに行けば、「いつもありがとうございます」なんて言う。
「ありがとう」を言うのは、貸していただくこっちじゃないの。

図書館の存在意義はそんなところにあるのではないのに。


かつては日本の図書館にも専門職はいた。
私が欲しい資料を伝えると「それなら」とすぐ見つけてきて、
懇切丁寧に説明。さらに地域の郷土史家まで紹介してくれた。

それなのに、今は惨憺たる状況ではないか。
なんで日本はこうなったのかと、つい愚痴が出る。


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「テムズとともに」に戻ろう。

巻末の言葉には「ヒロ」さんの物のとらえ方と感性が凝縮されていた。

「新しいもの、古いものと一見矛盾するものを抱えながら、
それを対立させることなく見事に融合させているイギリス社会」

「イギリスの石の文化と日本の木の文化」

「最初に建物の石を積み上げた職人は完成を見ないまま、次代へ引き継ぐ。
それが長い目でモノを見る目に繋がったのではないか」
と、「ヒロ」さんは分析する。


留学生活を終え、離英を前にしての思いもまた胸を打つ。

「英国の内側から英国を眺め、様々な人と会い、
その交流を通じて英国社会の多くの側面を学ぶことができた。
さらには日本の外にあって日本を見つめ直すことができた」

そして24歳の若者らしく正直に、


「再びオックスフォードを訪れるときは、今のように自由な一学生として
この町を見て回ることはできないであろう。

おそらく町そのものは今後も変わらないが、
変わるのは自分の立場であろうなどと考えると、妙な焦燥感に襲われ、
いっそこのまま時間が止まってくれたらなどと考えてしまう」と。

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この「テムズとともに」は、留学を終えた8 年後に発刊された本で、
そのとき33歳になられていた殿下は、あとがきでこう回想されていた。

「思い出というものは自分で作る部分も多かろうが、
人に作ってもらう思い出も多いと思う。上記の方々
(お世話になった方々)
温かい心遣いがあってこそ、当地での私の滞在は実り多く、
思い出深いものとなったのはいうまでもない」


陛下はどんなときでもどなたにも「感謝」を忘れない方だと思いました。

「テムズとともに」は勉学と友情を、若者らしい透明度で描き切った名著です。
多くの方が読むべき本であり、
特に若い方々にはぜひ、と強く思いました。

※本書に習い、「ヒロ」さんを使わせていただきました。お許しを。

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「テムズとともに」を読んで①

書籍
09 /23 2023
皇室というとはるか遠い、別世界という思いがあって、
皇室のニュースはスルーばかりしてきました。
失礼ながら、世間知らずでわがまま、そんな風にも思っていました。

けれど天皇ご一家のニュースを拝見しているうちに、
ご一家が醸し出す何とも言えない温かさに引き寄せられました。

温かさだけではない。
言葉や表情に現れる重厚な奥行きや幅広さ、
それがごく自然に発せられるところに、私はすっかり魅了されたのです。


「なんて素敵なご一家なんだろう」と。

今年6月、両陛下はインドネシアをご訪問された。

そのとき見せた皇后さまの、周囲を和ませるお心遣いやお茶目な一面、
さらに陛下による記者の囲み取材というサプライズに、
おふたりは本当に豊かな心をお持ちなんだな、と。

それが安心と共感につながりました。


ちょうど「川と人類の文明史」を読んでいたときだったので、
ローレンス・C・スミス 藤崎百合・訳 草思社 2023

そういえば、陛下にも川をテーマにした「テムズとともに」
という著作があったことを思い出し、早速、図書館に申し込んだ。

驚きました。このときすでに申込者が10数人もいたのです。
ようやく手元に届いたのが4か月後。


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「テムズとともに」ー英国の二年間ー 徳仁親王著 
学習院総務部広報課 平成五年

今年出た復刊本ではなく、30年前に出版された本で、
水濡れ、解説書ナシ、破損、除籍図書というヘロヘロの本。

当時、それだけ皆さんに読まれたということなんですね。

「要回収」の張り紙付きだったから、
私が最後かと思ったら、借り手は私の後に20人ほど出来ていた。


ヘロヘロ、ボロボロになってもなお、読みたいと思うのは、
私と同じように即位後の陛下とご一家に改めて魅了された人が、
それだけ多いということではないでしょうか。

文章のうまさに驚きつつ、一気に読み終えてつくづく思いました。
「ああ、いい本だった」と。


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陛下は徳仁親王時代の23歳のとき、イギリスのオックスフォード大学・
マートン・コレッジで2年間過ごされた。

ご自身で「持ち前の好奇心も手伝って」とおっしゃる通り、
徳仁親王さんはみんなに「ヒロ」と呼ばれ、
滞在先の方々や友人たちと積極的に交わっておられた。

ヴィオラでの演奏に映画にオペラ鑑賞、スキーにボートにテニスに登山、
そして何度も出てくるのが恩師や友人たちと入ったパブ。

「ビールの注文の仕方には、
ビターまたはラガーをくださいと言うことを教わった」


「注文するときは勇気がいる。一軒目は大丈夫だったが、
二軒目ではパブのマスターから、
何んだこいつは、という感じの目で見られてしまった」

「誘われて友人の部屋でみんなでコーヒーを飲んだ。
コーヒーの入ったマグを平気で床に置くことも、この時初めて知った」

だが、「ヒロ」さんは素直に受け入れて、どんどん溶け込んでいく。

用意されていた部屋もまた、なかなかの代物で、
「今にも破れそうなカーテンが頼りなげに下がっていて」
「浴室にはシャワーがなく、浴槽に半分ほどお湯をいれるともう出なくなる」
という、
プリンスだから特別に用意したのではない、ありのままの部屋。

「セントラルヒーティングの設備はなく、電熱器が一つあるだけ。
隙間風が入るので窓に目張りをし、電気毛布で寒さをしのいだ」

洗濯もアイロンがけもご自分でされた。


「マートン・コレッジ」 親王殿下の部屋は、左ページの下の写真。
「セント・オーバンス・クオッド 右翼の三階正面が私の部屋」と説明。
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「テムズとともに」より

まさかと思うような暮らしぶりだが、相手を敬いつつも特別扱いしないという
イギリス人の精神が垣間見えて、
日本メディアの忖度しすぎる、あるいは風聞や想像で作られた
真実を反映しない報道の異常さが、浮き彫りになるような気がした。

本書の随所に現・上皇ご夫妻への感謝が綴られていたのもよかった。

巻頭に、
「私は本書を、二年間の滞在を可能にしてくれた私の両親に捧げたい。
両親の協力なくしては実現しなかった」と記し、

「両親がアフリカ訪問の帰途、ロンドンに立ち寄ったので
自分が滞在する場所を見てもらうことができた。 

私の父は19歳のとき、エリザベス女王の戴冠式に出席。
その際、オックスフォードの学長宅に泊り、桜を植樹した。
31年を経て、大きくなった様子を目の当たりにして嬉しそうであった。

また父が泊ったコレッジの部屋も、
当時とは様子が変わっているようであったが、
懐かしげな父の表情が忘れられない」と、弾んだ筆遣いで記されていた。

そして、次に訪れたブロートン城での晩、
「レディー・セイのヴィオラと母のピアノ、私のヴィオラを交えて合奏をした」
と、なんの気取りもてらいもなく素直にその時の喜びを吐露しておられた。

JR・東静岡駅構内に置かれたストリートピアノ。
私はそこに上皇后さまが座ってピアノを弾いている姿を想像してしまいました。
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私がなによりも胸を熱くしたのは、この記述だった。

「私の母は、
(イギリスへの)出発前の私にできるだけ食堂へ出ることと、
よい傘を買うことを勧めてくれた。

それは、食事の場こそ、自分の専門外の話や広範な知識を他の学生との
会話を通じて身につけられる得難い重要な機会となる場所だったから」と。


今は上皇后になられたお母様。
「賢母」という言葉がこれほどぴったりくる方はいないのではないか。


子への情愛は身分や学歴とは無縁のものだということを、
この書で気づかされました。

「この母にしてこの子あり」

若き日の美智子妃とその母の教えに耳を傾ける徳仁親王の姿に、
慈愛に満ちた一幅の絵を見る思いがいたしました。


       ーーーーー◇ーーーーー

ーー教えてくださいーー

最近、windowsペイントがおかしくなりました。
写真に文字がうまく入りません。

デフォルト文字が「YuGthic UI」で固定されて、
文字、色、サイズの変更ができなくなりました。

8月半ばごろの自動更新でそうなったようですが、
みなさんのところはいかがですか? 対処法があれば教えてください。
難しそうなら「修正を待つ」ほかないかと思っています。

現在は最初にアルファベットで入力して続いて日本語入力、
そのあと最初のアルファベットを削除していますが、文字が薄いのです。

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いつの間にか「傘寿」⑤

いつの間にか傘寿
09 /20 2023
小学4年、10歳は、生涯、私の忘れえぬ年になった。

あの日私は、それまで母から受けた理不尽な扱いに耐えきれなくなり、
ふらふらと外へ彷徨い出た。
電車に飛び込もう、場所はあのふみきり、そう決めた。

そこにさえ行けば楽になれる、それだけを思って歩き出した。

あの晩は月が出ていたか覚えがない。
前方は黒々としていたから、たぶん、闇夜だった。

後年、これを小説に書いて、地方の文学賞に応募したら佳作に入った。
授賞式で選考委員の渡辺淳一氏から、

「これ、あなた自身のことでしょう」と言われて、言葉に詰まった。

寂しさを慰めてくれたのは猫たちだった。いつも私に寄り添ってくれていた。
空を飛ぶ夢を見るのだけれど飛び立てない。両手をバタバタしてもダメ。
汗びっしょりで目を覚ますと、足の上で猫が長く伸びて眠りこけていた。
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自殺は未遂に終わった。
それを思い止まらせたのは、母のこの呼び声だった。

「ごはんですよー!」


なんだ、そんなことでと笑われようとも、それこそが私の命の糸だった。

坂の途中の一軒家の我が家は、鰻の寝床みたいに長い。
母は一番端っこの台所から反対側の一番端っこの店にいる父や、
二階で勉強中の兄や姉たちに声が届くよう、大声で何度も叫んだ。


家を過ぎ、下り坂の途中まで来た時、遠くで母のその声を聞いた。
ハッと我に返って振り返ると、闇の中に店の明かりがぼんやり光っていた。

それは音とも声ともつかない切れ切れの微かなものだったが、
私は信じた。
あれは確かに母の「ごはんですよー!」の呼び声だと。

お母さんは私だけに呼びかけてくれたんだ。
勝手にそう思い込んだ。

その声に引きよせられるようにふらふら家へ戻ると、
さっき開け放して出てきた引き戸から、あったかい空気が流れてきた。

それ以来、私はこの「ごはんですよー」の言葉に取りつかれた。
この単純でありきたりの、しかしなんともいえない温かいこの言葉に。


長兄と初代犬の「まる」。利口な犬だった。何度も不審者を知らせてくれた。
ある日、村の男が「犬を吠えさせるな」と怒鳴り込んできた。こいつは、
最近ドロボーに入った男で、「まる」は男のにおいを忘れなかったのだ。
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戦後の食糧難とその後に続いた子供たちの教育費で、
食事はいつも質素だった。ことに母の食事は貧しかった。

久々の魚の煮つけのときは、一番いいところを父の皿に盛り、
あとは順々に子供たちへ分けた。

あとには骨だけしか残らなかったが、母はその骨を器に入れると、
上からお湯をかけ、その染み出た煮汁を自分のご飯に掛けて食べた。

働きづめの母には骨だけ、というこの理不尽さにここにいる誰も目をとめず、
当たり前のこととして平然とテーブルを囲んでいる。
それが私にはたまらなかった。

その日を境に、私は母に替わって夕ご飯を作ることに決めた。

この時、長姉は17歳の高校生。次姉は14歳の中学生だった。
二人は母の希望で、
中学は遠くの町の私立の女子中学へ電車通学していたから、
朝早く家を出て夕方遅く帰宅する。

女学校へ行けなかった母は、娘たちに学問をさせるのが生き甲斐で、
その望み通り、勉強も言葉も身のこなしも村の子供たちとは格段に違う、
そういう我が娘たちを誇りにしていた。

「姉さんたちは勉強があるから」というのが免罪符になって、
姉たちは皿を洗うことさえしなかった。

だから、次姉が初めて食事作りをしたのは結婚してからのこと。
長姉がご飯の炊き方を覚えたのは、平成になってからの60代半ばごろで、
母が老い過ぎて、もう台所に立てなくなってからだった。

クリスマスをやってみた。みんなに帽子を作った。父には王冠。
寡黙で感情を表さない父は、末娘のなすがままに頭へ載せてくれた。
なるべく楽しませようと、猫もペコちゃん人形も仲間入りさせた。
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小学4年生だった私は、
母が読んでいた婦人雑誌の料理のページをかたわらに置き、
母のご飯づくりを思い出しつつ、毎晩、台所に立った。

家族7人分の食事作りは大変だったが、私は淡々とこなしていった。

そのころの煮炊きはカマドで、大きな釜に米を入れて薪で炊いた。
かまどをこの地方では「へっつい」と呼んでいた。

そのへっついには穴が三つ開いていて、左端でご飯を炊き、
右端で汁物や煮物を作り、真ん中には茶釜をかけて左右の余熱で
お湯を沸かしていた。

重い木の蓋を両手で釜に載せ、盗み聞きした母の口癖通り、
「はじめチョロチョロ、中パッパ、赤子泣くとも蓋取るな」
を心の中で唱えながら、ごはんを炊いた。

やがて石油コンロなるものが登場して、グンと楽になった。

だが、ある晩、事故が起きた。

コンロに火をつけた途端、ボンと大きな音がして炎が燃え上がった。
私は慌てて炎に包まれたコンロに手を突っ込むとツマミを切った。

あたり一面、異臭が立ち込めたが、家の者は誰も気づかない。
「どうした」と駆けつける者は誰もいなかった。

母に、これはおかしいと必死で訴えたが信じてくれない。
なおも食い下がると、半信半疑ながらようやく異変に気づいてくれた。

灯油屋の店主が間違えて、灯油の代わりにガソリンを配達してしまった
とわかったのは、翌日になってからだった。

だが母から「無事で良かった」と私を案じる言葉は何もなかった。

それでも私は夕飯づくりを止めなかった。

まだ水道もないころのことで、
家では富士山の伏流水を引いた水を使っていたから氷のように冷たくて、
冬は手がアカギレとシモヤケだらけになった。


学校で赤黒くささくれた手を出すのが恥ずかしかったが、
それでも私は止めなかった。

夕食作りは、母の気持ちを穏やかにしたい、その一心で始めたが、
やってみると、これほど楽しいことはないと気が付いた。

店の売れ残りの黒はんぺんやちくわで天ぷらを揚げ、青菜でお浸しを作り、
実だくさんの汁物を鍋いっぱいにこしらえ、
樽の中から取り出した白菜の塩漬けに削り節をかけてテーブルに並べた。


みんなを楽しませたくて「のぞくと夢の国へ行けます」という箱も作った。
一番、夢の国へ行きたかったのは、私だったのだが…。
img20230909_17313081.jpg

母は八十八歳のとき、米寿を記念して自叙伝を出した。
その中でこう書いていた。


「清子は末っ子ということもあって、
誰も当てにしなかったような気がしていたのに、
どこで覚えたのか料理が上手で、黙々と夕食の支度をしてくれた。

あるクリスマスの晩には、大きなケーキを作って、
みんなを喜ばせたり驚かせたり、とにかく大助かりでした」

オーブンもない時代だったから、ケーキの生地は蒸し器で作った。

いびつに膨らんでしまったが、
クリームを塗りたくった上に缶詰のミカンをのせ、
神棚から失敬した燈明用の小さなロウソクを立てて、なんとか完成させた。

クリーム作りでは、泡だて器がないので菜箸を何本も束にしたもので、
腕があがらないほどかき回した。

母はケーキを前にして、ちょっと戸惑うような顔をしたが、すぐ笑顔になった。
私はなんともいえない幸福感に包まれた。

私の夕食づくりは、中学生の頃まで続いた。


            ーーーーー◇ーーーーー

「いつの間にか傘寿」の途中ですが、
感動した本をどうしてもご紹介したくて、次回は「書籍」を綴ります。

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いつの間にか「傘寿」④

いつの間にか傘寿
09 /17 2023
10歳、小学4年生。

このとき、私は生まれて初めて挫折した。
追い詰められて鉄道自殺を試みたが果たせなかった。
原因は母だった。

いろんなことが重なった。

夕方、裏木戸でぼんやり立っていたら、田んぼ帰りの近所のおばさんが、
周囲を警戒しつつ、スーッと近づき、小声で言った。


「あんたはシンデレラみたいな子だね。
あんたのお母さんは上の二人の姉さんばっかり可愛がって…」

私は思いっきり頭を殴られたみたいになって、呆然と立ちすくんだ。

そそくさと立ち去るおばさんの泥まみれの後ろ姿を睨んで、心の中で叫んだ。
「私のお母さんはあんたなんかよりずっと素晴らしい人だよ!」


DSC05470.jpg

あんな無学で汚らしい農婦が「シンデレラ」の話を知っていて、
それを私と結びつけた。

継子ではないのに、この私をシンデレラみたいな子と言った。
ふざけるな。あんたなんかに何がわかるってんだ。

だがすぐあとから、猛烈な自己嫌悪に陥った。


いくら強がっても、事実、私は母から理不尽な扱いを受けていた。
私は可哀そうなシンデレラ。その通りじゃないか。

でもあんな人にまで、私の本当の姿が見えていたなんて。

だとしたら、この近所の人たちは、みんな私をそう見ていたのか。
いつも遊んでいる「オレ女子会」のあの遊び仲間も…。

そう思ったら、恥ずかしくてたまらなくなった。


後年、75歳で亡くなった長兄の通夜の席で、兄の妻が言った。
「この人はよく言ってたよ。清子は可哀そうな子だったって」

長兄が亡くなって2年後、今度はカナダ在住の次姉が亡くなった。
ガンで余命を宣告された姉は、まだペンが持てるころ手紙に書いてきた。

「向こうへ行ったら、清子に謝りなさいとお母さんに言うからね」

今さらと思ったが、素直に受け止めた。


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みんなは子供時代の私の窮状を知っていた。
知っていたのに誰も助けてはくれなかった。
私は母の不満のスケープゴードだってわかっていながら。

いや、わかっていたからこそ我が身の保身に走り、見て見ぬふりをし続けた。


理由もなく、ただ虫の居所が悪いというだけで、母は突然私を殴り、
洗濯物を私のものだけ土間に投げつけた。

私だけ夕ご飯を食べさせてもらえなかったこともあった。
あの時はまだ、10歳にもなっていなかった。

私はわけがわからぬ恐怖に怯えつつ、
隣の部屋からみんなの食事を見ていた。それなのに誰も助けてくれなかった。
母の逆鱗に触れないよう、
いつもは優しい父までが黙々と食べているばかりだった。


その晩私はお腹がすいてたまらなくなり、
寝静まった家の中を足音を忍ばせて歩き、台所の土間へ降り、
暗がりの中を手探りでご飯の入ったお櫃を探した。
やっと見つけて中に手を突っ込んだら、子供茶碗一杯分のご飯があった。

それを手づかみで夢中で食べた。
「やっぱりお母さんは私のお母さんだ」って感謝しながら。

私は何があっても泣かない「可愛げのない子」で、
それも母の気に障ることの一つらしかったが、このときも泣かなかった。

むしろ、温かい気持ちになっていた。
あんなにひどい仕打ちをしても、心の中では私を気遣ってくれていたんだ、と。

そのとき母が布団の中で、台所の動きに耳をそばだてているような気がした。


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母はつらく当たってばかりいたわけではない。
そのすぐあとに反動がきて、今度は異常なほどベタベタと優しくなった。

母の言動はその時々で激しく揺れたから、
子供心に何かの病気ではないかとさえ思った。


冷たさと優しさが交互に来る。
この極端から極端への行動に、私は翻弄され続けてきた。

それは5人兄弟姉妹の中で、私だけに向けられていたことで、
長兄も次姉も、こう言った。

「清子は一番小さくて、抵抗できない弱い立場だったから」


笑顔が消え無口になっていき、「オレ女子会」から遠ざかった。
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その通りだと思ったが、
頼れるのは父と母しかいない幼子には、あまりにも過酷過ぎた。
10歳の時、とうとう耐えきれなくなった。

冷淡にされるほどに私は母を求め、「お母さん、私を見て!」と、願った。
情けないことに、
母に自分を認めて欲しいという気持ちを、私は結婚してからも引きずり、
還暦間近まで続けてしまった。

今思えば、自分の子供たちに注ぐ愛情をそっちのけで、
母を求めていたような気がする。

「この関係はもう断ち切ろう」
そう決断するまで半世紀ほどの長い時間がかかった。

そのとき私は60歳目前で、母もすでに90歳目前の超高齢者だったが、
しかしそれは、
遅すぎる決断ではあったけれど、決して無駄なことではなかった。

自分を取り戻すのにまだ間に合う、そう思った。

80歳を迎えた今、あれは正解だったと心底思う。

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私が取ったのは、母と距離を置くことだった。
その母の背後にいる長姉の支配から逃れるには、それしかなかった。

生半可な態度では腰砕けになる。
だから絶縁を言い渡した。

母から掛かってきた「明日、手伝いに来てちょうだい」
という一方的な電話を受けて、即座にこう告げた。

「もう終わりにします」


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いつの間にか「傘寿」③

いつの間にか傘寿
09 /14 2023
小学一年生の時、同じクラスの男の子に恋をした。
男の子はとおるくんといった。

授業中もとおるくんを見ていなければどうにかなりそうで、
勉強どころではなかった。

休み時間になると、とおるくんのところへ直行して椅子に座った。
一つの小さな椅子に無理やり二人で座った。

小学1年生の私。サザエさんちのわかめちゃんヘアー。
小1

ただ黙って座っているだけだったが、
密着したとおるくんの体のぬくもりが、ほのかにこちらへ伝わってくる。
それがうれしくてたまらなかった。

評判になったが、全然、気にならなかった。


クラスの子供たちが奇異の目を向けても、眼中になかった。
先生が隣のクラスの担任とヒソヒソしながら私を見ていても、
私は夢の中にどっぷりいたから、何も見えず何も感じなかった。

だがある日、大失敗した。
一日中、とおるくんと密着していたのでトイレに行く暇がない。
トイレへ行くのも惜しんでいたから、おしっこを我慢しすぎた。


慌ててトイレを目指したが、時すでに遅し。
途中でザァーと大洪水をやらかした。

恥ずかしさのあまり、ランドセルもなにもおいてそのまま家へ直行。
そうして私の初恋は大洪水と共に流れ去り、あえなく終わった。


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それから間もなく、とおるくんはいなくなった。
「お父さんの仕事の都合で遠くへ引っ越した」と、先生が説明した。

「風の又三郎」みたいな消え方だった。

とおるくんとは言葉を交わしたわけではなかった。
一緒に遊んだ記憶もない。

なのに好きでたまらなくなった。ただ一緒にいるだけでよかった。


色白の大きな目をしたクリクリ頭。
模造の金ボタンのついた小学生用の黒い詰襟が似合う少年だった。

ご存命なら私と同じ80歳。

得体のしれない女の子に言い寄られて、さぞ迷惑だったでしょうが、
とおるくんは何も言わず、逃げもせず拒否もしないまま、
私と座り続けてくれた。


小学校のあの硬い四角い小さな木の椅子を見るたびに、
私は思い出すんです。

あの大胆な熱情と腰に伝わったほのかなぬくもりと、そして、大洪水を。

人生で初めて訪れた7歳の恋は、今も強烈に懐かしい。


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いつの間にか「傘寿」②

いつの間にか傘寿
09 /11 2023
80年なんてあっという間でした。
でも振り返ってみると思い出の中の時代は古い。やっぱり長かったのかな。

終戦の2年前に生れたから一応「戦前生まれ」。

戦争は知らないけれど、
物心がついてから、「米軍機のB29が炎に包まれて家の上を通過した」
なんて話を聞かされていたから、それが自分の体験のようになって、
悪夢に飛び起きることが度々あった。

昭和18年、家の裏山にて。
左から二女4歳、長男6歳、二男3歳と母に抱かれた私。母30歳

家の厚い木の引き戸に直径5㎝ほどの穴が開いていた。
父が出征中、誰かが小刀で開けた穴で、
母は震えながら木刀を手に身構えていたが、板戸が厚くて諦めて去ったという。
戦時中の留守宅へ男が押し入る事件は日常茶飯事だったという。
母と

家は店をやっていた。

ある日、車で通りかかった女性が店へはいってくるなりこう言った。
「ああやっぱり〇〇さんだ。まあ、落ちぶれて、こんなところに」

明治維新で父の実家は没落し、父はこの地に活路を求めてやってきた。
最初は農協組合長として赴任。戦後数年して商店主になった。

女性はかつて父がいた集落の人だった。
私は商人になった父親は立派な人だと思っていたが、
女性は「落ちぶれて」と言った。父はと見ると、黙って笑っていた。

田舎の遊び友達は女の子でも「オレ」と言った。
私には「オレ」なんてとても言えなかったが、
みんなの前で「わたし」と言う勇気もなかった。

そこで早口で「わたし」と言ったら、「わちゃ」になった。

それを聞きとがめた母が烈火のごとく怒り、はっきり「わたし」と言えるまで、
直立したまま、永遠と思えるほど言わされた。

少女時代の母。大正時代。
みやこ

食事の作法も厳しかった。
箸は1㎝以上汚してはならぬ。テーブルに肘を突かぬよう。

おかずの皿の上をあれこれ動かす「迷い箸」は最も賎しいこと。
音を立てて食べるのもいけないと。


この「音を立てない」と言うことが沁みついて、私は今もソバを啜れないし、
人がズズーッと啜る音にも敏感になって、ソバ屋が苦手になった。

歩きながらアイスを食べたり、地べたに座って食べることもご法度。
食べ物は必ず皿に移し替えること。瓶の飲み物は必ずコップに注いでから。


職場の女性が、
「うちの母親、皿に移してから食べろとうるさくて」と言ってたから、
これは昔の母親たちの共通した常識だったのだろう。

町から訪ねてくる叔母たちは「清子さん、ごきげんよう」と言った。


「落ちぶれて何がごきげんようだ」と反発したが、
そうかといって「オレと言う女の子の世界」には馴染めなかったから、
子供なりに葛藤にさいなまれた。


葛藤しつつも「オレ女子会」に入って野山を駆け回った。
桑の実、イタドリ、ツツジモチ、食べられるものは何でも口に入れた。

ヘクソカズラの花を鼻にのせて天狗になったり、草の茎でメガネを作ったり。
そのころは田んぼにドジョウがうじゃうじゃ。蛍狩りに墓場まで出かけた。
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みんなが言う「ウン〇」なんて言葉がたまらなく嫌で、
今でも文字にも書けない。家では「オババ」と言っていた。

戦時中の影響が色濃く残った田舎では、戦後も正月元日に学校へ行った。
君が代を歌い、紅白のお菓子をもらった。

その日小学1年生の私は、袴をつけて登校した。
それは神主だった祖父の袴をほどいて、母が仕立て直してくれたもので、
紫と白の地に小花を散りばめた振袖とよくマッチしていた。

そんな私をみんなは遠巻きにしてヒソヒソ。

今にして思えば母は、
落ちぶれても心まで落ちぶれるなと、無言で教えていたのだろう。


幸か不幸か私には元から、
「人は人、自分は自分」という意識が備わっていたから、
その日も私は臆することなく、のほほんと立っていた。


二十歳の私。母に似てるかな。
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それでも私たち兄弟姉妹には、
異常なほど周囲に気を遣い、遠慮する傾向があった。

長姉は「虐げられた民衆のための運動」にのめり込んだ。
会社経営をしていた長兄はある日、ポツリと言った。
「どうしても強く出れないんだ。経営者は冷淡さもないとダメなんだけど」

小学生の時、父と二人で実家の墓参りに出かけたら、
農家の老婆に呼び止められた。

「あんたも昔だったら、おひいさまなのに、やれ、気の毒に。へっへっへ」

父が黙って私の腕を引っ張った。

「まったくいい時代になったもんだよ」という老婆の声が後ろから響いた。


父の家は集落の小さな神社の神主で、名主でも権力者でもなかった。
それでも虐げられた「百姓衆」には、羨望と憎悪の対象だったのだろう。

それにしても、なんで老婆はあんな言葉を子供の私に投げつけたんだろう。
このときはすでに明治から100年余もたっていたし、
この老婆だって幕藩体制の時代なんて経験していないはずなのに。


鳥居横の晩年の祖父。撮影のためだろうか、何かに腰かけて写っている。
明治維新後、世襲制が廃止されたため、祖父は複数の神社を兼務。
訓導(学校の教師)もしていたという。嘉永六年生まれ。
img958 (2)
「日本史蹟」昭文堂 明治44年

墓所へ着くと父が墓石の周りにある小さな石を指さして言った。

「これは捨て子の墓だよ。よく門前に捨てられていてね。
たいていは栄養失調ですぐ死んでしまった」

ここは古宮と呼ばれていたところで、古社と屋敷と墓所があったという。

寛政五年(1793)、七代目の先祖が墓所だけ残して、
甲州街道脇の現在地へ移設したと叔母たちから聞いた。

戦後、父の腹違いの長兄が他界してまもなく、
その長兄の後妻と先妻の子供との間で家督争いが起きた。

長い裁判を経て本家を継いだのは、生まれも育ちも東京という先妻の孫で、
相続してすぐ墓所も屋敷も解体。
両親の骨と先祖伝来のめぼしいものだけ持って関西へ移っていった。


昔日の父の家のことを知っている方が、夥しく残された墓石を惜しんで、
空き地の脇に並べてくださったという。

昨年案内されて見に行ったら、住宅の間にずらっと並んでいた。
(下の写真)

昭和初期ごろまでは、
葬儀は神式で行い、すべてが終わってから寺の住職さんが来たという。
墓石に「南無妙法蓮華経」と刻まれているのは、そのためだろうか。
私には縁のない法華経にびっくりした。

墓地の中央にあった墓石には「奥津城」と刻まれていた。

中央の墓石には婿養子の名「雨宮」と元の名「細川」が並んでいた。
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今またそれが市から撤去の要請がきていると、人伝てに聞いた。

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いつの間にか「傘寿」①

いつの間にか傘寿
09 /08 2023
私、80歳になりました。

傘寿

市からお祝いが届きました。
「多年にわたり社会の発展にご尽力され…」

いえいえ、そんなことは…。(#^.^#)
「これからも健やかに自分らしい生活を…」 はい! 命の続く限り。

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年齢のことは忘れていたけど、
気が付いたら、鏡の中の顔はかつて見た老いた母の顔そのまま。

でもほとんど気にならない。今までもずっとあるがままだったから。
ただもう「先は知れている」ということに、びっくりした。

周囲の知人たちは終活、断捨離に時間を費やしている。
私も、と捨て始めたが、待てよと立ち止まった。

部屋にあるものは私の人生そのもの。
それを捨てるのは自分を捨てるのと同じではないか。

それはいやだ。

息子たちへ託すものさえキチンとして、
あとは整理屋さん費用を残しておけば、と考えて断捨離は止めた。

だから今まで通り、ゴチャゴチャした中で暮らしている。


知人からお祝いが届きました。ウフフ、なんだか妙な気分。
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開けてみたら、プリンが…。

子供の頃、先生から「一番尊敬する人は誰ですか?」と問われて、
私は「郵便屋さん!」と答えた。

そのころの郵便配達は黒い大きなカバンを肩から斜めにかけて、
自転車に乗ってやってきた。

家の前でカバンをパカッと開けて手紙を取り出す。
私はあのカバンには夢がいっぱい入っているんだって思った。

カバンいっぱいの夢を運んでくる人だから、
郵便配達のおじさんは、私には光に包まれた特別の人に見えた。


今もその気持ちは変わらない。

宅配のお兄さん、大雨の中をカッパ着て、この贈り物を届けてくれた。
やっぱり光に包まれた特別の人って思いましたよ。
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異国に住むご夫妻から誕生日の早朝、お祝いメッセージが届いた。

「私たちはいつもあなたを想い…」

あ、ありがとうございます。

「ほんのちょっとしたことに幸せを感じられるような、
素敵で落ち着いた時間が続きますよう…」


はい、肝に銘じて残されたこれからを歩いていきます。

なんて素敵なお心遣いでしょう。本当にありがとうございます。

あ、でもお二人、私の誕生日、なんでご存じなんだろう?
うーむ。


いつもお世話になっているご近所さんからも。
「これ、おいしいから」とさりげなく。このお気遣いもまた嬉しい。


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このところ孫たちに、お食い初めだの宮参りだの初節句だの入学祝だのって、
祝ってばかりだったけど、こうしてみなさまから祝福されて感無量。

でも息子たちからは…。(;_;)

この夏、会いに来てくれた3歳の孫が私の白髪頭を見て、「?」と。
生後半年の赤ん坊は「ギャアアー」と泣き出した。


ヘアカラーを止めたから、私の頭は黒髪から一気に白い頭のヤマンバ。

それならと、黒いベレー帽を被ったら、「あ、ばあば!」だって。
赤ん坊に「いないいないバア」をしたら、キャッキャ。
名前を呼んだら、口をあんぐり開けて「アー」と返事をした。

髪の毛一つで、こうも違って見えるなんて、ショック。


そうよねぇ。頭に入道雲が乗っかってるみたいだもんね。
で、少しでもカッコつけようと思って、後ろから黒髪を引っ張って来て、
真っ白な前髪に被せてみました。いかがでしょう。
白い雲 髪だけ

息子たちは揃って晩婚だったから孫たちはまだ幼い。
やっぱりまた染めようかなぁなんて思ったけど、このままの自然体でいいや。

息子は何も言わないけれど、老いた母親は見たくないのかもな。

プリンと一緒に配達された「風月堂のゴーフル」
おいしかった!
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この日は宅配のお兄さん、大雨の中を我が家へ2度も。
怪訝そうな顔をしていたので「今日は誕生日なので、お祝が…」と言ったら、
「あ、そうでしたか」と、ニッコリ。

今度届いたのは、ちょっと重い。
開けたら、高級な「稲庭うどん」

スーパーで売っている切れっぱししか食べたことがなかったので、
思わず、「オオーッ!」


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ウフフ、傘寿の記念日も悪くない。
だって、なんだか夢のような一日だったから。


      ーーーーー◇ーーーーー

ブログ「そよ吹くかぜに」">「そよ吹くかぜに」のk.miyamotoさんが、
素敵な歌を詠んでくださいました。

八十の福徳積むや力姫
   力石
(石)への道を照らし続けて

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そばつぶさん、お見事!

力持ち大会2
09 /05 2023
金沢大学の教育機関誌「チョウゲンボウ」の編集長・鈴木先生から、
新聞の切り抜きが届きました。

石川県小松市・菟橋神社恒例の「西瓜祭り」のイベント、

「盤持ち神事」の記事です。

子供から大人までの男女192人が、
盤持ち石
(力石)や俵に挑戦したというのですからすごい!

7歳の坊やが20㌔の俵を持ち上げたというのですから、

北陸人、恐るべし!

小松市すいかまつり
北陸中日新聞 2023年8月28日 「盤持ち神事」は26日開催。 

で、そばつぶさんに問い合わせたら、速攻でメールが届きました。

「もちろん出ましたよ。
敢えて負荷の高い方法で挑戦してきました!」


ここには一石四斗、一石二斗、八斗の3個の盤持ち石(力石)がありますが、
力持ち神事で使われるのは「八斗石」です。
一斗は15㎏。

この日、これを挙げたのは3人。
もちろん、そばつぶさんもその中の一人です。

動画、ぜひご覧ください。


どんどん力をつけてきています。本当に凄いです。



限定御朱印に描かれた男性のモデルは、

「ぼくがモデルだそうです。ほんとすいません」

な、なんと!


          ーーーーー◇ーーーーー

ブログ「風まかせ」のkoozypさんへ

訪問すると「このページには到達できません」と表示されます。
他の方も同様のようです。
早く気づかれて、また写真や記事をお見せください。

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「俺はリニアには乗らない」③

世間話③
09 /02 2023
肝心の乗車率はどうか。

東大の研究者二人によると、
「人口減少やリモートワークなどで新しい需要は見込めないため、
リニアが黒字になれば新幹線が赤字になり、そのまた逆もある。
どちらにしてもリニアは事業収支に悪化をもたらす」そうだ。

樫田秀樹氏の「リニア新幹線が不可能な7つの理由」に、こんな記述がある。


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岩波書店 2017

『2013年、(当時の)JR東海の山田佳臣社長は、記者会見でこう公言した。
「リニアは絶対ペイしません」
リニアは黒字にならないというのだ。


加えてリニア計画に反対する市民団体が国交省との交渉で、
「ペイしない事業をなぜ認めるのか」と質問すると、国交省鉄道局職員は、
「リニアはどこまでいっても赤字です。
ただ鉄道事業は採算だけで行うものではない」と』


それなら採算の合わない鉄道をなぜ、廃線にするの?
なぁんて、突っ込みたくなるが…。

リニアは赤字になるとみんなわかっている。
なのに、山を破壊し、生態系を危機にさらし、川から水を取り上げ、
コミュニティを壊し、大量の残土で災害を誘発し、莫大な税金を投入する。


富士山についで2番目に高い南アルプス北岳山頂にて、小学生の次男と。
まだ高山への子連れ登山が皆無に近かったころで、たくさん非難された。
確かにヒヤリハットも多々あったから、無事だったことは奇跡。
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下の写真は、鳳凰三山「南御室小屋」の小屋番さんと次男
雨の中をやってきた私たちをストーブの前に座らせ、みんなが口々に
「よく頑張ったね」と声を掛けてくれるので、次男は嬉しくてたまらない。

次男は日記にこう書いた。「頭も手も雪女みたいに冷たくなってしまった。
ご主人さんがストーブを燃やしてくれた」
山男たちにはずいぶん優しくしていただいた。
みなさんの支援があってこそできた母子登山でした。


大学生になった次男が仲間たちと旅に出たとき、
車窓に広がる黄金色の稲穂に「きれいだなぁ」と言ったら、みんなから
「どこが! ただの稲なのにおかしなヤツ」と笑われたと憤慨していた。

でも私は稲の美しさ、尊さを知っている息子を誇りに思いました。
小屋番さんと次男
43年前の南御室小屋

さらに樫田氏はこう書いている。

『2010年、国交省の中央新幹線小委員会が設置され、パブリック・コメントを
募集。888件集まり、計画中止や再検討の意見が648件に対し、
推進を望む声はわずか16件だった。


だが委員長の家田仁・東京大学大学院工学研究科教授は、
「批判は答申を覆す意見ではない」として、
リニア方式で建設、ルートは南アルプスルートでという答申を出した』

偉い人の一存でゴーサインって、何のためのパブコメ募集なんだろう。

じゃあ、この事業で誰が得するの?ってことになるわけですが、
知れば知るほど不思議なプロジェクトです。


残土というのは法律上は廃棄物ではなく資源だという。
国の公共事業では残土の活用先を指定してから事業認可をするが、
民間事業ではその限りではないのだそうで、

そのためか、「リニアでは活用先を決めずに着工した」


南アルプス聖岳登頂の際見た「ライチョウ」
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JR東海では一日の乗客を10万数千人と見込んでいるそうだが、どうだろう。
観光客を見込んでも、
リニアは新幹線や在来線に乗り換えることができないし、
窓ナシだから車窓から富士山は見えない。観光には不向きだろう。

シビアな株式市場は、この計画を発表したときドーンと下がったという。


これだけの悪条件が出揃っているのに、
なぜ工事を強行するのかといえば、唯一「速さ」なんだそうだ。

「日経ビジネス」誌では、記事の表題に「陸のコンコルド」と付けたそうだが、
山本氏は自著で、
「悲惨な墜落事故を起こして破綻した超音速コンコルドになぞらえている
ところに、リニアに対する評価がおのずと透けて見える」と述べている。


ネットでは川勝知事攻撃ばかりが目立つが、
過去から現在まで各分野の多くの学者や研究者たちは、地味ながら、
著書や論文で「リニアはいらない」と声を挙げているんです。

「大井川・川越し」 「東海道名所図会」より
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また登山から離れていたとはいえ、静岡の県や市の山岳連盟も反対の
署名運動を展開していたことを、私は今ごろになって知りました。


経済の低迷、物価高、貧困、人口減少、気候変動、国のすごい赤字、
リモートワークへの流れ、
そんな中で莫大な費用をかけた長期にわたるリニアの建設。

「世界の趨勢は行き詰った重化学工業からの脱却、
都市一極集中から地方分権的・分散的システムへの移行、
大量生産・大量消費・大量廃棄の経済活動からの転換を模索。

それを決定づけたのが、世界規模で蔓延したコロナだった」と山本氏。


下の写真は、鳳凰三山縦走中の長男と次男。
地蔵岳からの帰路、
深い谷に架かった手摺りもない細い丸木の一本橋に直面。
登山者の男性が心配そうに「ぼくたち、だいじょうぶだろうか」と。

私はきっぱりと「大丈夫です」と言い、
一人で渡っていく息子たちの背中を息を止めて見守った。

「おにいちゃんを見てろよ」と長男が弟に言い、最初に渡り切った。
続いて、まだ幼い次男も前方にいる兄に向かって渡り切った。
このときばかりは、
子供たちを命の危険にさらしてしまい、なんて無謀でバカな母親かと思った。

かなりの緊張を強いられたはずなのに、二人とも何も言わなかった。
私も何も聞かなかった。

いろんな出会いがあった。

私たち母子がいかにも危なっかしかったのか、山岳レンジャーの青年二人が、
薬師岳から次の観音岳まで同行。肩車したり山の話を聞かせてくれたり…。
別れたあと、息子たちは何度も振り返っては手を振る。
お兄さんたちの「ポヨッポヨッ、ホホホホー」の不思議な声が、
背後からいつまでも聞こえていた。

鳳凰三山1

世界の趨勢は変わりつつある。
だからこそ、学者さんたちは警告しているのでは?


「エネルギーを大量に使い、速さだけを誇るリニアは、
時代遅れの無用の長物となり、
外国への技術の輸出も難しいのではないか」と。

そして、
「日本人は戦後の驚異的な復興の成功体験をいまだに引きずっている」と。


そうですよね。
原発は今後10年以内に満杯、核燃料サイクルはすでに破綻
ということですから、電力の供給も危ういのでは?


福島原発の爆発で「アトムズ・フォア・ピース」は、平和どころか、
放射能被害という破滅をもたらす怪物であることを、みんなが知ってしまった。

そして今、溜まった「処理水」の海への放出で右往左往。

原子力がもう人間のキャパシティーを超えてしまい、お手上げなんだろう。
なんだか、昔見た映画「渚にて」を思い出す。


鳳凰三山での反省もコロッと忘れ、再び息子たちを連れて南ア茶臼岳へ。
北アのようなにぎやかさはなく、小屋も素泊まり。
この日は私たち親子だけだった。
おおつりばし
大井川・畑薙ダム湖上流の畑薙おおつり橋

茶臼岳の小屋にいたワンくんたちに、熱烈歓迎されたのもこのとき。

山小屋の地面に穴だけ開いたボットン便所、板敷に雑魚寝。
息子たちはそういう不自由さをむしろ面白がった。

小屋番のおじさんとの焚火も贅沢な遊びになった。

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だからこそ、このプロジェクトは本当に必要なのかを考えるべきで、
知事がああ言ったの、前とは違うことを言ったウソつきだのって、
うるさい小姑みたいな揚げ足取りをしている場合ではないんじゃないの?


南アは年間数ミリずつ隆起しているそうで、
数ミリとはいえ、この地殻変動は恐い。

断層の破水帯から突発的に大量の湧水が噴き出す懸念もあるそうだし。

JR東日本の松田会長とJR東海の会長だった葛西敬之氏は共に、
国鉄民営化の立役者だったそうですが、その松田氏が、
「俺はリニアには乗らない」と言ったことが、
すべてを語っていると、私は思います。


南ア北岳へ行く途中のお花畑。
小屋へ着くなり次男がひどい頭痛と足の痛みを訴えた。
高山病だとみんなが心配してくれたが、私はなぜか悠然と。
というより、実はどうしていいかわからず頭の中が真っ白に。

今なら冷静になって、ヘリコプター要請と騒ぐはずなのに。
幸い大事には至らず、翌朝は小屋の御主人特製の味噌汁をいただいて、
元気に登頂。思わず「山の神さまありがとう」と。
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「潔く引き返す」という登山のルールは、リニアにもあてはまる。

でも、企業が一度決めたことから引き返すのはなかなか大変。
突き進んで失敗したら「想定外だった」という言葉も用意されている。

準・国策事業のお墨付きも得ているし。


リニア破れて 山河荒れ、日本壊れた

になるか、はたまた、

リニア走って 山河荒れるも 日本栄えた

になるかは、のちの歴史のみぞ知る。

荒地に咲くコマクサ
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このプロジェクトへの投資を、現在の鉄道の保全に使う方がいいと思うし、
日本の再生のために、
山林、農地、牧畜、漁業、そういうところへ補助金とする方がいいなぁとも。

外国では自国の食料自給率を守るために、
農民などに7割、9割の補助をしているという。
日本政府はこういうことを真剣に考えて欲しい。

だって、飢餓になっても、リニアは腹の足しにもならないんだから。


ーーー参考までにーーー

静岡県のHPの
「リニア中央新幹線」をご覧いただけたら、
真面目に取り組んでいる姿勢がわかっていただけるかと思います。

※参考文献
 「リニア中央新幹線をめぐって」山本義隆 みすず書房 2021
 「福島の原発事故をめぐって」山本義隆 みすず書房 2011
 「南アルプスにリニアはいらない」宗像 充 オフィスエム 2018
 「リニア新幹線が不可能な7つの理由」樫田秀樹 岩波書店 2017

ーーー

山本義隆氏の著書には、ものすごく多くを学ばせていただきました。
氏は「解析力学」や「磁力と重力の発見」など多数の著作と、
数々の受賞歴のある物理学者、科学史家です。


ーーー

南アのリニア問題から息子たちと歩いた南ア登山まで思い出して、
長々書き連ねてしまいました。みなさま、申し訳ない。

私が愛した南アルプスの悲鳴が聞こえるようで、いたたまれず。

でも言いたかったことを言わせていただき、すっきりしました。


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雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞