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祖先が残した暗号

盃状穴③
06 /28 2023
手水鉢の縁に穿たれた穴と溝の、妄想第2弾です。

この穴と溝を見ていてハタと浮かんだのが、
奈良の
「酒船石」と鹿やイノシシの骨で占った「骨卜」です。

またまた飛躍しすぎだァーって?
そうです。素人だから無責任なんです。
(^^♪

ここでは「酒船石」を取り上げます。

私の下手な手書きの「酒船石」です。
img20230612_17332983.jpg
所在地は奈良県高市郡明日香村岡

酒の醸造、辰砂の精製の装置なんて言われた時期がありました。
その後は「導水施設」となったそうですが、
近くの山下に本格的な導水施設が出土して、この説も消えたそうです。


早くからこの説を否定していた考古学者の河上邦彦氏は、
こう主張していました。


「酒船石は、毎年春に行われる
五穀豊穣を祈念する〈水口祭〉の施設
だったのではないだろうか。
そのため水口に水神を招かねばならず、その供犠に牛を使った」


これと同じ説を、井本英一氏も大阪外国語大学論集33で言っています。

「酒船石は水の神の崇拝施設」と。

石と穴と水と祀り
古代から地球上の人間はみんな同じことを考え、実行してきた。

「酒船石」に似た「穴と溝をつなぐ」、そんな石をいくつかお見せします。

こちらはへいへいさんのブログ
「へいへいのスタジオ2010」からお借りした氷川神社の手水鉢です。


神聖な手水鉢ですから、ふざけて穿ったとは思えません。
きっと何かの意図があったはずですが、残念ながら現在には伝わっていない。
へいへいさん氷川神社
埼玉県比企郡川島町上八ツ林854・氷川神社

手水鉢ではありませんが、ホッとする記事をご紹介します。
へいへいさんのブログに登場した猫ちゃんと力石です。


「春うらら」

こちらは斎藤氏撮影の、踏み石にされてしまった石造物です。

もったいないですね。


DSC01981.jpg
埼玉県春日部市備後東5‐10‐48・雷電神社

石の側面に、「願主 酒屋内 おかつ」と、あります。

酒屋のお内儀が、どなたかのために心を込めて奉納したものと思われます。
それが後世になって踏み石にされるとは、思いもしなかったことでしょう。 


この石造物を奉納してのち、参拝者がこうした穴と溝を穿ったわけですが、
穿つだけの価値やご利益がこの石にはあったということだと思います。

DSC01980.jpg

こちらは、地蔵堂への石段に穿たれた穴と溝です。
穴の中に金が塗りこめられています。

かつて家の入口に胞衣や亡き嬰児を埋めて、
たくさんの人に踏んでもらうことで無事の成長や亡き子の再生を願う、
そういう風習がありましたから、
これも同じ意図から穿たれたのでは、と思うのです。

ここは地蔵堂へ向かう石段ですから、なおさらのこと、
幼くしてあの世へ旅立ったわが子を守ってくださるよう、
再びこの世に生まれてくるよう、お地蔵様へお願いしたはずです。

白幡地蔵堂
さいたま市南区白幡1‐16‐4・白幡地蔵堂

小学一年生の頃、亡くなったばかりの赤ちゃんを見ました。

そこは小学校の先生の家で、ある日遊び仲間とその家の庭へ入ったら、
赤ちゃんを抱いたおばあさんが出てきて、「見てあげて」と声を掛けてきた。
死産だったことを知っていたからみんなは逃げたが、私だけはとどまった。

おばあさんは縁側に座ると、抱いていた赤ちゃんを傾けて私に見せた。
真っ白い産着とフリルの付いた帽子を被ったきれいな赤ちゃんだったが、
その顔は硬く、もう息をしていないことは子供心にもわかった。

「よかったねぇ。お姉ちゃんに見てもらえて」
と、おばあさんは愛おしそうに赤ちゃんに話しかける。

座敷の布団の中から赤ちゃんのお母さんの先生が顔をこちらに向けて
微笑んでいた。たくさん泣いて赤く腫れた顔だった。

「生まれてきてよかったねぇ。お姉ちゃんが見てくれたよ」
おばあさんは子守歌でも歌うように、優しく何度もささやいた。

今になって思います。

はかない命だったけれど、
赤ちゃんがこの世に存在した証しを誰かに覚えておいて欲しかった、
おばあさんはそう願ったんだ、と。


DSC05491.jpg

話が湿っぽくなりました。元へ戻します。

いかがでしょう。
こうした穴と溝、「酒船石」の穴と溝に通じるものがあると感じませんか?

願う目的は違っても、

誰かのために穿つ。神に願い、祈る。

そんな姿が見えるような気がします。

そんな穴と溝が「盃状穴考」にも紹介されていました。
「水路の石橋の板石上に穿たれた連結盃状穴」です。
中村2

酒船石の穴と溝のことについて、
日本文化史研究者の重松明久氏は、こう言っています。

「これには古代国家の道教的色彩がある。
中国梁(りょう)代の陶弘景の「天地陰陽昇降図」が、
酒船石の池と溝の構成に酷似している」


「天地陰陽昇降図」

これは、「この世はすべて陰と陽の二つの「気」の動きによって、
盛衰、天変地異、寒暖などが起きる」ということらしいのです。

ということは、酒船石の「穴は陰で溝は陽」ということになります。

骨卜では骨に穴を開けてその割れる溝の方向で、吉凶を占ったそうですが、
酒船石でも同様に、その年の「気」の動きを知るために、

陰の穴に水を注ぎ、どの陽の溝を通過するか、
そこから次のどの陰(穴)に辿り着くかで、
その年の雨の降り方や、豊作か不作かを占っていたのではないでしょうか。

こちらは全身に穴を穿たれたサイの神さん(道祖神)です。
「何のために、かくまでたくさんの穴をつけたのであろうか」と著者。
静岡県沼津市桃里中町
img20230625_21394394.jpg
「伊豆のサイの神(前編)」吉川静雄 吉原書店 昭和51年 

「盃状穴考」の執筆者の一人が、
「溝は陽(男根)を表わしているのではないだろうか」と言っていたが、

私もそう思います。


河上邦彦氏も、著書「飛鳥を掘る」の中で、こう言っている。

「終末期古墳から飛鳥の初めに、道教思想がかなり入っていた。
風水思想に基づき古墳は作られた。
ハミ塚古墳から白黒の小石が出たが、これは道教の陰陽説からと思われる」

酒船石も飛鳥時代のものだそうですから、
陰陽思想が入っていると考えてもおかしくないはずです。

ただそれ以前の縄文遺跡からも、
盃状穴が穿たれた石や石棒が出土していますから、
そうした日本の古くからの「穴」と「溝」に、中国伝来の陰陽思想が融合し、
日本の風土と人に合う形で独自に発展してきた、と思うのです。

手水鉢などに残る穴と溝は、そうした思想を一般民衆が、
土俗信仰として取り入れて穿ったものではないでしょうか。


CIMG1691_20230623112013100.jpg
静岡市清水区・八幡神社

盃状穴の謂れについて、古代のどの国にも共通していたのは、
穴は「女性器」で、「子宝」「多産」を祈願して開けたということでした。


そして「子宝・多産」から、穀物や家畜の「豊穣」が想起された。

人でも動植物でも子孫を生み出すには当然、
「女性=陰」と「男性=陽」の交わりがなければ成り立たない。

それを国家的規模ではなく個人的・私的目的で具現化したのが、
身近にある手水鉢や石造物への穴と溝だった。


神域にあって生と死の境に置かれ、不浄を流すとされた手水鉢、
その大切な石の縁を傷つけるこの行為を寺社が黙認していたということは、
それだけの重要な意味があったからで、
誰もが暗黙のうちに了解していた大切な風習だったからだと思うのです。

下の絵は、
幕末・明治初期に来日した外国人が描いた「手水鉢の前に座る女性」です。
「何のために座っているのか解し兼ねる」と添え書きがあるように、
非常に珍しい不思議な光景を捉えた貴重な一枚です。

女性は正座して目を閉じています。何かを祈っているように見えます。
img20230625_20480209.jpg
「外人の見た幕末・明治初期 日本図会〖文化・景観篇〗」
池田政敏編 春秋社 平成20年新装版1刷発行よりお借りしました。

祖先が残したこの「暗号」から、いろいろ学び、考えさせられました。
迷走しつつ妄想しつつたどった
「私の盃状穴考」

これにておしまい。

※参考文献
「盃状穴考」国分直一監修 慶友社 1990
「飛鳥を掘る」河上邦彦 講談社 2003
「飛鳥発掘物語」河上邦彦 産経新聞社 2004

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ガステーブル

世間ばなし➁
06 /25 2023
ガステーブルを買い替えた。

使い始めて11年。
まだどこも悪くはないけれど、
この前、「老い支度」の講演会で聞いた話が妙に胸に刺さってて…。

講師の先生はこう言った。

「老年期には三段階ある。
まだまだ元気なピンピン期、少し危なくなってきたヨロヘタ期、
最後は力が尽きるバタリ期です」

講師は自作のこの「ピンピン、ヨロヘタ、バタリ」を、
興奮しながら繰り返した。

おかげで家に帰っても、この「ピンピン…」が脳裏から離れなくなった。

今の私は以前に比べたら体力は落ちた。
でもまだヘタバってはいないから、
「ピン、ヨロ」ってところかなぁなどと思いつつ、台所に立ったら、
ここへ入居したとき買ったガステーブルが目に入った。

ガス会社では10年目が買い替え時だという。


11年使ったガステーブル。
20230624_113315.jpg

講師の先生がとどめを刺すみたいに、
「料理ができなくなったら、人間おしまいです」
と言い放った絶望的な物言いが蘇る。

そうか。今までは考えてもみなかったけれど、
料理ができなくなる時が必ず来るんだな。

東海大地震じゃないけれど、
今の自分の年齢を考えたら、それは「いつ来てもおかしくはない」

というわけで、買い替えるなら、
まだ説明書も読めてホースの取り付けもできる「今しかない」と。

早速通販で購入。思いのほか早く手元に届きました。

今年5月の製造になっているけれど、段ボール箱はなんだか古い。
これ、大丈夫かなあと思いつつ、取り付けにかかろうとしたとき、

今までお世話になったガステーブルとの別れが、急に惜しくなった。

毎日三度三度、お世話になって、安全に楽しく使わせていただいたんだもの、
ガステーブルだってまだ私と同じ「ピン、ヨロ」ぐらいだもの、

それをもう価値がないと勝手に決めつけて捨てるなんて、
自分を捨てるようなもんじゃないの、なんて感傷的になっちゃって。

で、せめてもの感謝の気持ちに、
きれいに拭いて「ありがとう」と撫でて、お塩でちょっと清めてあげた。

DSC05482_20230624164115769.jpg

見渡せばまわりのご老人たちは、
ガスから電磁調理器に替えた人、宅配弁当一辺倒の人とさまざま。

でも私は、
料理を作れなくなるその日その時まで思いっきり楽しんでいこうと、
新しいガステーブルの前で誓ったのであります。


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やけのやんぱち

世間ばなし➁
06 /22 2023
ハトとの攻防戦、まだ続いています。

南国の毒蛇もどきの赤いだんだら模様のザイルも、効き目ゼロ。

またしても黒い影が現れて、
洗濯物が揺れてバサバサッと人を嘲る羽音。

昔見た「鳥」という恐怖映画の再現です。

「ウワーッ」と声を出してベランダへ飛び出したら、
さすがに慌てて障害物にぶつかりながら逃げ出した。

信じられないんですよ。あんなデカイ図体なのに…。

手摺りと床の5㎝ほどの隙間には、
針金とテープを張り巡らせてあるのに、それを頭で押しのけてもぐりこむ。

見つかるとヘリコプターみたいに垂直に舞い上がり、
網と天井との隙間に巡らせた針金の、わずか10㎝足らずの空間を、
あちこち羽根をぶつけながら逃げるんですから。


おーい、ウルトラマーン! 助けに来てー。
DSC05454.jpg

そこまで苦労しなくたって上は空き部屋なのに、なぜかそこへは行かない。

ほかの棟を見たら、家具を置いたまま10年余も住民不在の部屋があって、
ベランダにはエアコンと外れた網戸、洗濯機まであって
恰好の巣作り場なのに、そこは避けてその真下の家へ頻繁に行く。

その家ではCDをぶら下げて応戦しているものの効き目ナシ。

なにゆえそこまでこだわるのか。

この執拗さはストーカーだよ。接近禁止命令ものだよ。


近くに半分朽ちかけた2階屋がある。
「隣で畑を耕しているじいさんの小屋」とご近所さん。

下が農機具小屋で2階が全部ハト小屋だったけど、
「もうハトの世話はしていないらしいよ」ってんだから、

悪いのは人間でハトに罪はない。罪はなくても今や悪行三昧。


「毎日来てはクルクルパーって鳴くので、ほうきで追っ払ってる」
と、自虐気味のご近所さん。


この方は埼玉のハトポッポで、指名手配のハトではないけれど…。
でも一度でいいから、この丸い頭をポカリとやりたい!
DSC04634.jpg

観察すると、
彼らの飛行はベランダから見て、常に右から左へ移動して逆がない。

しかし逃げ場の多い角部屋を好むかと言えば、そうでもない。
狙われた真ん中の家では、とうとう業者に頼んで全面、網で防御した。


以前は30羽ほど止まっていた川向こうの民家では、
屋根全体に電気を仕掛けたので今は一羽も来ない。
が、フンが流れた外壁は何本もの筋になって無残な姿を晒している。


キジバトは狩猟してもいいのに、
ドバトはなんでこうも自由にさせているんだろう。

ハトの羽根にはダニやノミ、フンには大量の病原菌やウイルスや寄生虫。

お上は「赤ちゃんのいる家は特に気をつけろ」と言いながら、
「威嚇したり傷つけたり卵を除去したら、懲役だ罰金100万円以下だァと言う」


「ハトの繁殖期は3月~11月と、ほぼ一年中。
その間、5回から7回も産むから、年中、網を張って防げ」と言う。

あまりにもバカげていませんか? 
人間の方が一年中、網の中で暮らせって、なんだよ、それ。

何が起きても自己責任って、ハト版マイナンバーカードかよ。

「ドバトは鳥獣保護法から除外する」
という公約を掲げて、立候補しようかしらん。
(笑)

「オイ! ハトのニート野郎! ちったー、こういう方を見習ったらどうよ」
いいねぇ、こういう孤高の鳥さんって…。
鷹

野鳥観察が趣味の人に相談したら、
「鳥は好きなので、あまりつっけんどんにはしたくないです」

と、つっけんどんな返事が返ってきた。

「鳥が好き」というのは、「野外で」「自分には被害が及ばない範囲で」
ということであって、その範疇から一歩も出ないのであれば、
本当の鳥の理解者ではないと思うんだけどなぁ。

で、思案の末、今度は蚊取り線香をつけてみた。


30年も前の蚊取り線香です。登山でヤブ漕ぎのとき腰へぶら下げました。
まだ使えました。キンチョウさん、ありがとう。
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やけのやんぱち、日焼けのなすび。
これでどうだ!と、
雨上がりの早朝に飛来するから、その前に起きてぶら下げましたよ。

20230612_061422.jpg

案の定、来ました。つがいで意気揚々と。

立ち昇る煙とにおいに気づいたのか、慌てて避けて通り過ぎました!

やったぁー!
ハトが豆鉄砲食らうとは、このことだね!

と、喜んだものの、私の鼻がムズムズ、ハックション!
煙で鼻炎になりました。


表側はハト、裏側はムクドリの大集団が建物の穴と言う穴へ巣づくり。
ギャーギャーけたたましく鳴くのは許せるとしても、
玄関前や通路にまき散らされる小枝、藁くず、羽根、フンにはゲンナリ。

が、ハトのように洗濯物や布団を汚すようなことがないから、まだ許せる。


攻防はまだまだ続く。

ーーーーー

と、書いてから10日後。ついにハト撃退

蚊取り線香作戦、大成功! 
布団も洗濯物もお日さまをいっぱい浴びて、いい匂い!

でもこれって単に巣づり期間終了ってことかも。
裏側のムクドリの集団は全部巣立って、再び静寂が戻ったし。

ほんの短い至福の時になりそうだけど、ひとまずホッ。
で、間もなく、カブトムシや蛾の襲来です。


と思っていたら、早速お出ましです。

20230620_135311.jpg

ーーーby 斎藤氏ーー

「目には目を、歯には歯を、
鳥(鳩)には鳥(鶏)を、正に金鳥ですね!」


ヽ(`ω´*)ノ彡☆ーーー来ちゃいました!

本日、ベランダからグルグル、グルグルと鳴き声が…。
見たらノコノコ歩いてた!

洗濯物を干してあるのに。

再び、蚊取り線香に火を灯しました。ああ…。

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力石二題

みなさまからの力石2
06 /19 2023
先日、平塚市の
「路傍の石」の情報を呼びかける記事を書きました。

ブログ「横浜水道みちを行く」のdoushigawaさんが見つけた石で、
刻字はありませんが、形は力石そのもの。

これです。
水道みち2
神奈川県平塚市札場町 

で、平塚市博物館へ問い合わせたものの「五輪塔の残欠です」との?回答。

ならばと、地元の須賀公民館に依頼して須賀史談会へ改めて問い合わせ。
しかし、公民館を通じて返答があったものの、結論は「わからない」

ここであえなく行き詰った。

でも、返信メールをよく見たら、博物館の方も史談会さんも、
大事な情報を伝えてくださっていたんです。


「港地区内に力石は、
港稲荷神社平塚市立港小学校の2か所にあります」

そういえば、doushigawaさんもブログで港稲荷神社の力石に触れていて、
私は手持ちの資料にはないから、新発見石かなと思ったのに、
路傍の石に気を取られてすっかり忘れていました。


赤い鳥居のそばに力石が見えます。
港稲荷
神奈川県平塚市千石河岸64 港稲荷神社

地元では知られていたこの2か所の石、
全国版では「初お目見え」といったところでしょうか。


個数については博物館では神社に1個、小学校に2個、
史談会では神社に2個、小学校に1個か2個と違いはあるものの、


神社の石には、
「弐拾四メ目 大正四年五月吉日 大庭定吉 五十二才」
(doushigawaさん解読。1個確認)

小学校の石には「廿四〆」「廿七〆」(博物館確認)と、刻字もある。

港稲荷神社の力石です。
港稲荷神社

博物館の方によると、これらの石は、
「神社が昭和20年代前半の区画整理で現在地に移転する際、
神社跡地から出てきた力石で、この2か所に移設した」


「小学校には《地域の人が力比べに石を持ち上げていた》
との説明板がありますが、実際に使っていた方のお話を聞いたことはない」
とのこと。


港にある神社で出たということは、仲士たちが担いだ石かもしれませんが、
昭和20年代といえば、第二次大戦が終わって間もない時期ですから、
逆によくぞ無事に残っていてくれたと思います。

あの路傍の石もここから出た力石だったのではないか、
それが無銘の石だったので捨てられた、

との思いが消えません。

が、この長い年月、どこをどう彷徨って現在の側溝の上に収まったのか、
ますます知りたくなりました。


平塚市立博物館、須賀公民館、須賀史談会の皆様、
ご協力ありがとうございました。

こちらは力石を見つけたときのdoushigawaさんの記事
「須賀漁港周辺の石仏を訪ねて」です。
「横浜水道みちを行く」

ーーーもう一つ、東京の力石に関する出来事をお伝えします。

ブログ「Busybee Life」のBUSYBEE-GAEIさん、
この日はお母様と素敵な時間を過ごされた後、神社へぶらりと立ち寄りました。


蒲田八幡神社です。
蒲田八幡1
東京都大田区蒲田4丁目ー18-18

そこで、「大田区の文化財 第7集」に、
ここの力石が載っていたのを思い出し、境内を探したが、


「あれれ、ない」

そこで神職の方にお聞きしたら、「無い」と。「あれ、勘違いしたかなあ」

勘違いじゃないですよ。あるはずなんです。


「三拾八〆目 新村」

これです。
img20230615_02442196.jpg
「東京の力石」高島慎助 岩田書院 2003

BUSYBEE-GAEIさんのブログ記事です。
「母とタカマル鮮魚店へ」

そこでワタクシメが出しゃばって、大田区へ問い合わせました。
お返事、早かったですよ。その上、ありがたいお言葉まで。


「蒲田八幡神社の力石は、「大田区の文化財 第7集」のほか、
平成初期に実施された石造物の調査報告書
「大田区の文化財 第37集」
(2010年刊行)にも掲載されております」

「今回確認できなかった理由として考えられるのは、
八幡神社の境内整備
(令和元年頃に実施)のため、移設もしくは撤去」

そして、こんな言葉もいただきました。

「近日中に確認してまいりたいと思います。
この度は情報のご提供ありがとうございました」


大田区教育委員会文化財担当者様、感謝申し上げます。
そして、よろしくお願いいたします。


蒲田八幡2

で、平塚をネット検索していた折、某ブログと遭遇。
その中に力石があったんです。

ーーー初見の石か?ーー

場所は平塚市明石町恵比寿神社。

これも、全国版では初お目見えの力石ではないでしょうか?

ドクター・キムルさんのブログです。
「平塚・大磯旅行記」

ひょっとして「平塚市」は、見落しの多い「力石の穴場」かも。

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医療のシンボル

盃状穴③
06 /16 2023
見れば見るほど不思議な穴、考えるほどわからなくなる、
それが「盃状穴」だと思います。

穴だけならまだしも、溝状の窪みまであるのだからますます混迷。
で、ちょっと推理してみました。

先に古代中国の最高仙女「西王母」を出したのは、
西王母の髪飾り「勝」と、溝状の窪みに何か関連がありそうだぞ、
と思ったからなんです。


でもこれ、例によって全くの思い付きですから、
「なるほどねぇ」と笑って楽しんでください。


古代中国の墓門につけられた「勝」です。(両側にヒレ状のものを付けた円)
「西王母と七夕伝承」の著者・小南一郎氏の結論は「魔除け」
墓門の勝
「西王母と七夕伝承」小南一郎 平凡社 1991よりお借りしました。

死者の家の屋根や墓門に刻まれているそうで、
最高仙女・西王母の本来の「世界の秩序を織り出す」役目に、
宗教的要素が加味されて、
「円」が蓮弁や日輪、月輪になっているものもあるそうです。

で、これを見て、とっさに浮かんだのがこれ。

手水鉢に刻まれた「盃状穴」です。ちょっと似てませんか?

古代エジプトの「有翼円盤」や、
ゾロアスター教の「有翼日輪」にも似ています。

いますぐにでも、大空へ飛び立ちそうです。
お正月のしめ飾りは、この有翼日輪から派生したという説もあります。
越谷香取神社
埼玉県越谷市大沢3-13-38 香取神社。天和二年(1682)奉納

でも「勝」って瑞祥ではなかったっけ? それがなんで墓に?
と思いましたが、


「勝」は「甦り」と邪を退ける「魔除け」の二つを求められたそうですから、
墓門にあってもおかしくはない。

加えて、生命の誕生に不可欠な水盤を持つ手水鉢は、
生と死の境にあって、「命の再生・誕生」を願うものとされてきた。


考古学者の河上邦彦氏によると、
「西王母の絵の下には野合図が描かれていることが多い。
(この野合図、リアルすぎてぶったまげました)
西王母は子供を産むという生産に関わる神と認識されていたのではないか」

「一旦死して再生する」という考えは、現代の祭りや行事にも見られるし、
だから墓に「勝」が刻まれたのも、自然なことだったのかも。

こちらは、
ブログ「へいへいのスタジオ2010」のへいへいさん撮影の手水鉢です。
大間木稲荷
埼玉県さいたま市緑区大間木1914・大間木稲荷神社

船運(見沼通船)で栄えた八丁に鎮座する神社だそうです。

「大間木稲荷神社の力石と手水鉢」

この長ーい溝を見たとき、思ったんです。これは蛇だ!って。

蛇は脱皮を繰り返すことから、昔から再生復活のシンボルで、
永遠の命をもらえるものとされてきた。

だからこれは蛇を象ったものではないか、と。

西王母の髪飾りの「勝」にも、
蛇を模したものがあることを小南氏が著書で紹介していました。


後漢墓画像石「勝図」。
図の中央に軸を通した「玉勝」が刻まれている。
「勝」の上下に玄武と羊。羊は「祥」を表わしているという。

蛇の頭に角が生えています。龍に移行中なのでしょうか。
後漢墓
「西王母と七夕伝承」平凡社 1991よりお借りしました。

蛇は剣としても表現されますが、せんじ詰めれば男根。
民俗事例を見ていると、この「陽物」がいろんなところに出てきます。

神さまになって神輿に担がれるものもありますが、
殿方には気の毒なくらい、笑いの対象にされているものも多い。
男性自身が自虐ネタにしていたり。


で、ふと気が付いたのですが、WHOや救急車のマーク、
あれも蛇なんですよね。


あれは古代ローマで疫病が流行ったとき、
太陽神アポロンの子・アスクレピオスが蛇の姿になって市民を救った
という伝説から「医療のシンボル」として用いられたそうですが、


なんで市民を救済するのに「蛇」なの?って、思うわけです。
だって、瀕死の病人のところにあんなのがニョロニョロ現れたら、
恐怖で絶命しそうじゃないですか。


WHOの紋章
WHO.png

論文「蛇についてー神学的考察ー」の小林謙一氏によると、

「蛇は気味が悪い、陰険、不気味でサタンの化身であると言われる一方で、
そうした力を我が物にしようとして、トーテム(呪物)にされてきた」
という。

考えてみると、宗教ってのもお決まりみたいに、
「地獄と極楽」「サタンと救世主」のセットで人心を惑わせて勧誘してるよな。
サタンの有効利用ってことか。

古代エジプトの王は王冠にコプラをつけ、
その猛毒と強さを我が身と一体化させて民衆を威嚇し、国を統治した。

「邪悪と崇拝という二面性を持つ」ゆえに利用されたわけですが、
蛇にしてみたら勝手に解釈されて、いい迷惑だったかも。

さて、手水鉢のあの溝状の窪みが「蛇」のつもりなら、
あれは陽物で、それに穴が組み合わされれば子宝に結び付くわけで…。


下は、ブログ「路傍学会」の路傍学会長さん撮影の
「盃状穴と溝状窪みを組み合わせた手水鉢」です。

この穴を見て、
「四隅の穴は手水舎の柱を受ける穴」なんて言う学者もいますが、
いくらなんでもそれはないんじゃないですか?
だって、手水舎は手水鉢全体を覆うものだし、
じゃあ、他の場所にある穴は何なのよってことになるし。

路傍学会手水鉢
千葉市長州一丁目・龍蔵神社

会長さんの記事には手水鉢のほかに、
中央区の神明神社や王子神社の見事な力石も掲載されています。


「神社のLanndscape313]

もう一つ余計なことを言えば、
「蛇石」は医学的な力があると信じられて、削って飲んでいたそうですから、
あの溝状の窪みの中には、

遊郭なんぞで遊び呆けた挙句いただいちゃった「梅毒」の治癒祈願に、
男どもが開けたものもあるのでは、などと、勘ぐってしまったのであります。

盃状穴でボコボコになった手水鉢にあった説明板です。
これによると、「石を擦ってできた粉を薬として用いた」とあります。
CIMG1689_2023060918011563f.jpg
静岡市清水区・八幡神社

で、思うんですよ。
もし、病気の平癒祈願にこの石の粉を飲んだのなら、

丸い穴の粉なら妊産婦の体調不良や婦人病の薬として、
長い溝の粉なら殿方の性病の薬として、飲んだんじゃないかって。

石の穴に溜まった水を「いぼ取り」に使っていたことからも、
昔の人は、石には特別な力が宿っていると信じていた。

だから、神社やお堂に木彫りや石造りの陽物を奉納したことと同様、
やがて廃人になっていく恐ろしいこの病いから救われようと、
神聖な手水鉢の「蛇状の窪み」に頼った。

瘡守り稲荷なんていう神社が、各地にありますしね。

ちょっと飛躍しすぎ? でも、

当たらずとも遠からず かも。

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西王母

盃状穴③
06 /13 2023
「盃状穴」からとんだ方向へ行きましたが、
大丈夫! 最後はちゃんと戻ります。


天の川のアメノタナバタ姫、アマテラスに続く3人目の機織りの姫は、
中国の最高仙女
「西王母(せいおうぼ・さいおうぼ)です。

紀元前1600年ごろの中国・殷の時代の甲骨文字に、その名があるとか。

アマテラスさんはこの女神をモデルにしたそうですから、
「岩穴に籠って再生復活」とか、「人間界の秩序を担っている」、
「男女二要素を持っている」「機織り」などの共通性があります。


西王母の一番の特徴は、「勝」という髪飾り。
原初の「人頭獣身」のころのザンバラ髪にも、「勝」をつけていたとか。


「勝」には「金勝」「玉勝」「華勝」「織勝」などの呼び名があるという。
写真は、円の両側に台形状のヒレをつけた「勝」。(中国・漢代)。

「ヒレ」=天女が肩に掛けている長い布。これを人を招いたり別れるとき振る。
神話にスサノオがヒレを振って蛇を退けた話が出てきます。
img20230531_09372896.jpg
「西王母と七夕伝承」よりお借りしました。

この「勝」をつけているのは西王母だけなので、
他の女神との識別になるそうです。


で、この「勝」って何なんだというと、機織り機の部品で、
織り機の経(縦糸)を巻き付ける「軸」のことだそうです。


勝
同上

「西王母と七夕伝承」の著者・小南一郎氏によると、

「機を織るという行動は、世界の秩序を織り出すという重要な行為で、
一人で再生を繰り返す円環的な時間=永遠の循環の中にいる神と、
織り機の軸の回転とを重ね合わせて、
この「勝」を象徴的に利用したものと推測される」

「もし勝が折れたりして、天上の機織りに支障が出ると、

宇宙の秩序を失って混乱に陥る

と考えられていた」

ということは、
戦争や天災って、天上の機織り機の「勝」が折れちゃったってことか。


ということは、
ロ・ウの戦争も天上の機織り機の軸が壊れちゃったからなんだ。
まだ戦火止まずってことは、
G7に集まった偉い方々の誰も、軸の直し方を知らなかったってことか。

img20230531_09265372.jpg

そんなわけでこの仙女さん、桑摘みや養蚕にも深く関わっていたため、
中国の皇太后などが儀式として養蚕を行っていたという。

そういえば日本の皇室でも皇后さんが、
蚕に桑の葉を与える「御給桑」や「繭搔き」をされていますね。

あれは単なる蚕の世話なんかではなくて、
こうした神話の世界からの深いつながりがあってのことだったんですね。


宇宙の秩序、日本国の秩序を司っているのは、
実は皇后さんであったともいえそうで、私はちょっと嬉しくなりました。


天皇ご一家に幸あれ!
実は私、このご一家、大好きなんです。

品格、知性、優しさ、あたたかさ、すべてが自然体でホッとします。

崑崙山
「西王母と七夕伝承」よりお借りしました。

機織りなんてただ布を織るだけのものと思っていましたが、
「宇宙の秩序を織り出す」

そういう思想があったとは。


で、その西王母のお住まいはどこかというと崑崙山(こんろんさん)で、
そこに生えている世界樹のテッペンに、「勝」の髪飾りをつけた西王母が
いつも座っているそうです。


そして、そのまた上には北斗七星があるというのです。

この山は天地のヘソで、天上、地上、地下の三つの世界を貫いていて、
その中心軸においてのみ、この三つの世界を行き来できた。
そしてこの中心軸を行き来していたのは
「気」なんだそうです。

私、ふと思ったんです。
この「気」、現代人も日常的に使ってるよなって。

「天気」なんてのもそう。

当たり前みたいに使っているけれど、これ「天」の「気」なんですよね。
「天気予報」なんてのは、
天の気のご機嫌を予測してみなさんにお知らせしているんですから。

で、長い年月の間には「勝」の形も変わり、神仙思想などの影響で、
西王母に人間に不死の生命を与える役目も加わります。

月の中のうさぎですが、私はずっと「餅をついている」と思ってきましたが、
あれは不老不死の仙薬を突いているところだとか。


中央に「勝」をつけた西王母。右でうさぎが不老不死の仙薬を突いている。
うさぎ
同上

こうして、
長い間、世界の中心に君臨していた最高位の女神・西王母でしたが、
のちに両性具有から男性的な要素が分かれて、

「東王父」「西王母」となり、
「東王父」に権力が移って弱体化していったそうです。

「西王母」(中央)と「東王父(公)」(左)
西王母と東王父
同上

天の川と西王母の伝承はいろいろありますが、ここでは、
「牽牛と織女は、西王母が統一する男女二要素」とだけ、記しておきます。

※参考文献
「西王母と七夕伝承」小南一郎 平凡社 1991
「勝についての一考察、「勝」と昇仙思想の関係について」八木春生
成城大学 論集9 1992

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もう知る人は誰もいない

みなさまからの力石2
06 /10 2023
静岡県での久々の力石の新発見です。

この情報をお寄せくださったのは、
先月、拙ブログでご紹介した富士宮市在住の郷土史家・増田文夫氏です。

先月いただいたお手紙には、こうありました。

「定年退職して10年の歳月を数えることとなり、人生の一区切りとして
この間に調べた郷土・内房の石造物についてまとめる作業をしてます」

そしてその本の中に「内房の力石」を入れる予定ということで、
原稿をお送りくださったのです。

増田氏は現在、富士宮市史編纂の事業に携わり、
「民族編」の基礎資料・石造物の悉皆調査員として、
他の調査員4名ほどで調査を進めているとのこと。

そんな中で力石を発見。

場所は静岡県東部。静岡県富士市の富士駅から山梨県甲府に至る
身延線添いにある山寄りの集落です。(赤丸)
img20230606_13250132.jpg
静岡県富士宮市上稲子(旧芝川町上稲子池ノ谷)

「5月から稲子地区の調査に入りまして、そろそろ調査も終わりに近づき、
池ノ谷区の観音堂の地蔵尊などの調査に入りました。

そうしましたところ、観音堂の地蔵尊の足元に力石が置かれていることに
調査員の一人が気づきました」

力石の散逸を惜しんで、どなたかが地蔵さんのところへ置いたのでしょう。
それが何十年ぶりかで増田さんたちによって発見された。

「二人一緒なら寂しくないね」。地蔵さんと共にこの先もずっと一緒です。
上稲子4

「重量は推定30㎏と見えました。
石の存在については、もう知る人も恐らくいないだろうと思います」

(増田氏)

このあたりは、谷あいや川を挟んで小さな集落が点在しているところで、
公共交通の手段がないうえ、車の運転をしない私なので、
力石探しの時は苦労しました。

だから探訪はすべて、地元の方々に助けられて…。

あの頃見た村々が、調査員の方々の目に映った光景と重なり、
懐かしく思い出されました。

CIMG4716_2023060721184544d.jpg

当時、音が消えた村の中に立って思ったものです。

村が活気に満ちていたころ、お堂や氏神さまに集まって、
石の担ぎっこをして楽しんだ若者たちの姿を…。

そんな集落の一つに暮らしていた老婦人の話は、今も忘れられません。

「お堂の横に青年宿があって、夜になると煌々と明かりがついたですよ。
仕事が終わるとみんな集まって、石の担ぎっくらして賑やかだった。
青年らは毎晩、夜回りをして、祭りには張り切っていたっけが、
でもみんな、いなくなっちゃった」

今はもう遥か遠い日の出来事になってしまったけれど、
老婦人には、そのときの賑わいも楽しい笑い声も、
昨日のことのように残っていた。

この方もその後まもなく、鬼籍に入られたと知らされた。

草に埋もれ苔に覆われた、池ノ谷観音堂の力石です。
上稲子稲子3
56・7×35×27・3cm

過疎化が進んだ村里では、この石もまた自然に帰っていくことでしょう。

でもこうして調査員のみなさんに発見されて、
記録に残されることになったのです。

恐らくこの石が「紙」に記載されるのは、初めのことだと思います。

「庶民のこんな過去の遺物を記録に残して何になる」
そう言う人もいます。

でも私は思うのです。
王様の遺物は貴重で、庶民の遺物は価値がないというのは間違っている、と。

権力者たる「王様」の記録は紙に残され、遺留品のお宝や出土品から、
その時代の文化や人間模様を後世に教えてくれますが、
名もない庶民文化は価値のないものとしてその都度消えていき、
何も残りません。


ですが歴史は、人口の9割以上を占める庶民の存在なくしては作れなかった。
ささやかな存在ながら、力石もその一つです。

だからこそ、「力石が生きた証し」を残すべきだ、と。

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縁結びの「神さま」になった話

できごと➁
06 /07 2023
金沢大学・e教育サロンの機関誌が届きました。

この機関誌とは、
以前、力石の記事を載せていただいて以来のお付き合いです。

執筆者は名誉教授さんとか元・学長さんとか偉い方々ばかりですから、
私には難しすぎて読むのに難行苦行。
(時にはスルー)

でもそういう誌面の中に、
みなさんが歯牙にもかけない石っころの話を「堂々と」挟むのですから、
痛快と言えば痛快です。
(笑)

さて、そんな折、
久しぶりにサロン事務局から「原稿をお願いできますか?」のメールです。

テーマは
「山の思い出」

二人の息子を置いて山へ行っていたころ。
ご近所さんから「変人」「主婦のくせに」などなど面と向かって叩かれた。(笑)
img20230603_18514051.jpg

登山から離れてン十年なのでと伝えたら、「昔の話でいいですから」と。
事務局の先生の連絡はいつも深夜です。

原稿が集まらなくて困っているんだろうと思い、私は徹夜で書いて送信。
なんでもすぐやらないと気が済まないタチなもんで。

で、せっかくだから皆様にも読んでいただこうと、ここに掲載しました。


記事はずっと下の12ページ。

「縁結びの神さまになった話」です。

お手すきの折にでもお読みいただけたら幸いです。

「チョウゲンボウ87号」

 ーーー只今私はハトとの攻防戦、真っ最中ですーー

ハトの撃退法、教えてください!
集合住宅の同じ間取りの部屋が並んでいるのに、なぜかうちばかり。

網を張って、手すりにはトゲトゲ、ベランダの隙間には針金とトゲトゲ。
ですが、入るんです。素人の下手な工作だとせせら笑われています。


この前は部屋に入って、ノコノコ、キョロキョロ。
「そうかそうか。ハトにも私の人の好さがわかるんだな」
と自分を慰めたものの、毎度の落とし物と布団も干せない不自由さ。

でも傷つけたり卵を捨てたりしたら、法律違反で1年以下の懲役か
100万円以下の罰金だそうで。

熊は駆除されるが、ハトでは人間の方が駆除される! 

年に7,8回産卵し病原菌をまき散らす。
表向きは穏やかな顔で裏では凶悪なんてのが人間にもいるが、
私にはハトの野郎とダブる。

お隣さんに聞いたら、「蛇のおもちゃを吊るしたら全然、来なくなった」
でも、そんなのを吊るしたらハトより私の方が心臓を悪くします。

考えたあげく、南の国の毒蛇だぞーというつもりで、
昔登山で使っていた赤と紫と黄色のだんだら模様のザイルを、
本日、天井から手すりへ巻き付けてみました。

「ヘッ、そんな蛇、知らねぇーや」と、バカにされそうですが…。

不思議なことに、私の並びの別棟の家には全然、立ち寄らない。
見るとベランダにハーブの鉢を置いている。

そうか! 匂いに弱いのか。次亜塩素酸をまくよりいいかも!
というわけで、現時点での試行錯誤はここまで。

ハトは「夫婦」で来ます。夕方になると電線や民家の屋根に大集合。
その数30羽ほど。放棄された伝書バトかも? 

まあ、鳥小屋もどきのつつましいお家ですからねぇ。帰巣本能かも。


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情報をお寄せください

みなさまからの力石2
06 /04 2023
水の道を辿ってその源を突き止め、源を下って水の行く末を丹念に追う。

そのdoushigawaさんのブログに、こんな石が出ていました。

どう見ても力石に見えます。

水道みち
神奈川県平塚市札場町

ブログ主さんも「刻字は見当たらないけど、力石ではないか」と。

確かに。

形もそうですが、こうして捨てずになんとなく置いてあるのも、
後の人たちがよくする方法です。


doushigawaさんからこんな情報もいただきました。
「グーグルのストリートビューを見たら、2011年のビューにも載っているので、相当昔からここに転がっているみたいです」


以下の記事の最初に出てくる港稲荷神社の石は、すでに収録済み。
次に出てくるのが問題の石です。民家の脇の側溝上に転がっています。
「横浜水道みちを行く」

そこで博物館に問い合わせました。

そのお返事は、「それは力石ではなく、五輪塔の残骸です」


事前に「その先に道祖神の小祠があります」と伝えましたが、
そのあたりには似たような小祠が多そうなので心配していました。
でもお返事の内容から、伝えた道祖神を把握されたのは確かです。

でも残念な回答で…。
あまりにもきっぱり「五輪塔の残骸です」と断定されたので、しばし呆然。

資料を見ただけで判断されたのか、早とちりをしたのか。
もしかしたら力石を見たことがない学芸員さんなのかな。

こちらが「側溝上の石」近くの道祖神の祠です。
平塚道祖神
平塚市札場町26・北町西原大門の道祖神

学芸員さんがいう「五輪塔の残骸」は、たぶん、これ。(下の写真)
でもなぁ、ちゃんと自己紹介をしたし、
いくら私がそそっかしくても、五輪塔と力石の違いはわかります。

なんだかがっくりです。

ちょっとピンボケですが、確かに五輪塔の一部が写っています。
五輪塔部分

それで改めて石の写真を貼付してお送りしたのですが、
今度は待てどくらせどお返事をいただけず。

返信メールにあった公共と個人2か所のメルアドに出したけど、
なぜかどちらもリターン。だから知らないでいるかと思いますが、
これ以上の手段が見つからず断念しました。

私がこの近くに住んでいたなら直接、このお宅に伺ってお聞きできますが、
そうもいかず。


石が置かれた場所のお宅の方が、拙ブログをご覧になってくださっていて、
ご一報いただけたらこんな有難いことはありませんが、
まず無理ですよね。

そこで、みなさまにお願いです。


この石の詳細をご存じの方がおられましたら、ぜひお教えください。

水道みち2

場所は、doushigawaさんの以下の説明を参考にしてください。

「平塚市札場町26の路傍の”赤鳥居と小祠”写真の奥、
一筋目道路を左へ入った右側の側溝の上」


※赤鳥居の小祠は「北町西原大門の道祖神」です。

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やがて悲しき…

世間ばなし➁
06 /01 2023
このところいろいろあって、ちょっと疲れちゃって、
それで本日は世間話です。

カンヌ映画祭で北野武さんが新作映画「首」で、万雷の拍手だったそうで…。

大昔、この人の映画を見たら、残虐場面がコマ落としみたいに現れて、
結局、何を言いたい映画だったんだろうということになって、
その後は見る気がしなくなった。

ほかの監督の作品に俳優として出ているときは、
いいね!となるんですけど。

ただ、どの映画の役柄も同じに見えた。

私は映画に詳しくないし凡人だから、
良さがわからないだけかもしれない。きっとそうだろうな。

だって海外のみなさん、あんなに熱狂していたし。

有名俳優を起用して、何本もの映画を制作するって、
すごいお金持ちなんですね。才能もエネルギーも枯渇しないのがすごい。

img20230525_10543581.jpg

で、映画の残虐シーンを背にした北野氏の顔を見ていたら、
なんだかウクライナの大統領とダブってきちゃって…。

ごめんなさいね、おかしなこと思っちゃって。

でも、よその国のお殿様が用意した特別仕立ての「空飛ぶお駕籠」から、
G7の日本国・ヒロシマへTシャツ一枚で現れたのを見たら、

ひょっとしてこれは戦争映画のスクリーンを背にしたお芝居で、
あの悲痛な顔が次の瞬間、
「アッハッハー! みーんなトリックだよ」とお道化出すんじゃないか、と。

こんなことを書くと、「侵略された非常時の国なんだよ。不謹慎な!」と、
お𠮟りを受けそうですが…。
これって、韓国に現れた大統領夫人の美しい装いを見たせいかも。

で、そのお二人の顔にさらに重なったのが、子供の頃観た地方まわり、
そのころはドサまわりと言っていた役者の顔。

なぜこの3人がダブって見えたのか、自分でもわからない。
もしかしたら、
先の二人も芸人出身だから、そういう刷り込みで見ているだけなのかも。


私が住んでいた田舎に大きな製紙工場があって、
そこに芝居小屋があったんです。
芝居小屋といっても歌舞伎座に似た立派なもので、枡席も花道もあった。

格天井には企業の派手な広告が描かれていて、まわり舞台まであった。

まわり舞台は手動式だったから、床下ではおじさんたちが梶棒を持って
ぐるぐる回しているんだと親から聞かされた。

その役者さんたち、興行の前になると舞台衣装を着け、
一座の名を染めた幟を立てて、村のメインストリートをゾロゾロやってきた。

幟には「美空すずめ」とか「中村銀之助」なんていう
当時の有名歌手や俳優の名を寸借したインチキ名が書かれていた。

そうして村中を宣伝して歩くのだが、
太陽に晒されたその顔の気色の悪いことったら。

img20230525_10522788.jpg

男も女も白塗りべったりの顔に真っ赤な口紅。
青やら黒のシャドウで隈取りした中に黄色味を帯びた目。

そういう一団が真っ昼間、わーわードンドコ賑やかにやってくる。

役者が喚くたびに口紅がこびりついた歯がむき出しになり、
安物のカツラが額や耳の境目でフガフガ、パクパク動くので、
その異様さにギョッとなって、私はすぐ家の中へ逃げ込んだ。

夜になると、芝居の幕が開いた。


ほとんどが時代劇で、斬った張ったの大立ち回り。
座長扮する正義の素浪人が、悪人共をバッタバッタと斬り倒す。

小人数の一座だから、
死んだはずの悪人が生き返ってはまた斬られ役を演じるので、
その都度、笑いが起きた。


素浪人は死体が転がる舞台の真ん中に立つと、
血に染まった刀をかざしたまま、静止画像に成り切った。

そのスキを突いて舞台の袖から小走りに現れた悪人が襲いかかる。
観客が「あっ!」と息を飲んだ瞬間、バサリ。
素浪人の刀のほうが一瞬、早かった。


勝新太郎主演。「総天然色」「大映超大作」と銘打った昭和の映画。
「賭場から喧嘩場へ! 腕も上った! 
子分も出来た! 命知らずは寄ってきな!」
と書かれている。
映画

浪人はそのまま円を描くように刀をぐるりと回すと、再び静止画像になり、
首をひねって観客をねめまわしてキッと睨んだ。

すると満員御礼の客席から、万雷の拍手が起きた。
大向こうから声がかかる。


「なかむらやっ!」

無数のおひねり(投げ銭)が舞台めがけて宙を飛ぶ。
おじさんもおばさんも、持参した重箱の御馳走を頬張りながら一斉に叫ぶ。
「ほれぼれするよォー!」「あんた、さっきは後ろも危なかったよォ!」

役者は額に受けた刀傷の偽物の血を滴らせたまま観客席に向き直ると、
ニンマリ笑い、歯をむき出して叫ぶ。

「ありがとヨ!」

最後に子役を出す。これがまた悲しい役柄で…。
その子がたどたどしい声で言う。
「ととさま、かかさまの仇を討ってくれて、ありがとう」

客はもらい泣きしつつ、またも競っておひねりの雨を降らせた。

そしてすべてが終わると、「悪を滅ぼす正義」の舞台は一変。

さっきまで敵同士だった役者たちやあの幼い子役までもが、
おひねりを夢中でかき集めるシーンとなって、現実に戻っていた。


世界の映画監督と大統領閣下には恐れ多いことだけれど、
私にはなんだか、戦後間もない田舎の芝居小屋で、
見得を決めて拍手喝さいを浴びた座長とこのお二人が重なって…。

そんなふうに思うのは、やっぱり変ですよね。

このところいろんなことがあって、ちょっと疲れちゃったせいかも。
そうですよね、きっと。


紙芝居に見入る戦後の昭和の子どもたち。
img20230531_15324464.jpg
「藝能東西」小沢昭一編集・発行 新しい芸能研究室 1976

面白うてやがて悲しき鵜舟かな   芭蕉

    ーーー明るいニュースーー   

心を乱されて疲れちゃった私のために、
そばつぶさんがこんな情報を届けてくれました。


「73歳が石上げに挑戦」

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雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞