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布の回廊

盃状穴②
05 /11 2023
静岡市の「機織り」の話、続きます。
かなり昔に調べたことですが、改めてブログにアップしてみます。


静岡市の背後には、標高の低い賎機(しずはた)の峯が連なっています。
その峯の中ほどに、「倭文(しどり)布」を織っていたという
「賎機
(しずはた)」村があった。

そして連峰のどん詰まりに、「麻を織っていたのでは」と言われている
「麻機
(あさはた)村」があった。

この村から賎機連峰へ登り、左への道に入り、
尾根の南端まで行くと、6世紀後半に作られた古墳に出ます。

その古墳の下にあるのが、静岡浅間神社です。
今川氏や徳川氏の尊崇深かった神社です。

浅間神社境内からこの100段階段を登ると、右手に「麓山(はやま)神社」
左へ行くと、「賎機山古墳」に出ます。
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静岡市葵区宮ケ崎・静岡浅間神社

賎機山古墳から出土した馬具
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「財団法人静岡県埋蔵文化財調査研究所 設立20周年記念埋蔵文化財展」
「古代との対話」2004より、お借りしました。

その浅間神社の対岸の、安倍川と藁科川が合流する地には、
古くから「服織
(はとり)の郷」という村があって、
大陸から渡ってきた「秦氏」が住んでいたといわれています。


秦氏と言えば、蚕が吐き出す絹織物を伝えた氏族です。

またこの地には、かつて栄華を誇った
白鳳時代の創建といわれる「建穂寺
(たきょうじ)」がありました。

今は幻の寺となってしまいましたが、
「枕草子」にも載るほどの、都に聞こえた大寺院だったそうです。

建穂寺パンフより
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静岡市葵区建穂

この「服織(はとり)の郷」が、
秦氏や絹織物と関連があるのでは、とされている理由は、
建穂寺の守護神の建穂神社の存在です。

この神社の旧名は、「馬鳴
(まみょう)大明神」で、
これは養蚕の守護神なんです。
ですが残念ながら、
この地の秦氏と絹織物の話は確証がなく、今は幻となっています。

でも国宝・久能山東照宮には、かつて久能寺という大寺があって、
創建者は、秦河勝の子の久能忠仁とされていますから、
秦氏はこの地にかなり食い込んでいたことが想像されます。


ちなみにこの久能寺、中世には、京から東国へ下る旅人が、
「山上から流れてくる1500余人の僧たちの読経を聞きながら、
三保まで続く有度浜を歩いた」そうですから、
かなりの寺院だったことが伺えます。

駿河湾の波音を聞きつつ、天女の羽衣伝説の有度浜を歩き、
ふと見上げると、霊峰富士が眼前に現れて…。
さぞかし、旅の疲れも吹っ飛んだことでしょう。


〽 や 有度浜に 駿河なる有度浜に 打ち寄する波 七草の妹
   ことこそよし ことこそよし


「ちょっとおばさんぽい天女」ですって? そりゃ私だって年取りますわよ。
だってこの天井に住み始めて、もう、ン百年もたっているんですもの。
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この久能寺、戦国時代、甲斐の武田氏による焼き討ちを逃れるため
山上から移され、以来、荒廃していたところを明治初年、
幕臣の山岡鉄舟に救われて今は「鉄舟禅寺」となっています。

鉄舟禅寺。初期の老住職の聞き書きが本になって残っていますが、
欲得のない自然体の禅僧で、風流でユーモアに富む人柄が伺えます。
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静岡市清水区村松・鉄舟禅寺

話を「倭文(しずり・しどり)布」に戻します。

静岡浅間神社の境内社の一つに、
「大歳御祖
(おおとしみおや)神社」があります。
浅間神社よりも古く、中世にはここで「あべの市」が開かれたといいます。

この市の遊女とひと夜を過ごした都人の歌が、今に残っています。

この神社、江戸時代までは「奈吾屋大明神」といい、
「倭文部」の祖を祀った神社といわれています。


ということは、「しずはた村」の「倭文部」たちとこの神社は
深い関係にあり、麻織りの「あさはた村」も、
浅からぬ関係があったのでは、と思われます。

賎機山の最南端にあるこの「奈吾屋大明神」から尾根通しで
反対側の最北端に行くと、「北浅間神社」に到達します。

近年、この神社を修復したとき出てきた棟札に、
大正年間、奈吾屋大明神を解体した際、その木材をこの神社に再利用した
と書かれていたそうです。


北浅間神社本殿の屋根に座っている「四方睨みの猿」
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静岡市葵区北・北浅間神社

大麻や苧麻(ちょま。からむし)などで織った麻布は
「麁妙
(あらたえ)」といい、神官の衣服になり、麻そのものは、
お祓いの神具や鈴の縄などに使われましたから、神社の必需品でした。

賎機山を通じてそれぞれの村から、倭文布や麻布や麻が神社に供給され、
絹布もまた、服織の村から川を越えてもたらされていたのではないでしょうか。

もしかしたら、賎機、麻機の村人は、富士川のほとりにいて秦氏と戦った
「大生部多」と同じ部民だったのでは、と思うのです。

それはこのあさはた村の古老から、こんな話を聞いていたので。

「ここの賎機の尾根の下には皇ノ池という池があって、
東国の賊を成敗するために都から来た軍隊が休んだという言い伝えがある」

この尾根道は古い街道だったし、秦氏が通ったというのもあり得るし。
なんか、すごくないですか? といっても、興奮するのは私だけか。


尾根道への道標です。
今は山の下に何本もの新道ができ、
行き場を失くした道しるべだけが民家の庭に残されていた。
CIMG4407.jpg
麻機街道沿い

さて、謎の村「あさはた村」の話をもう少し。
年寄ると文章まで長くなります。(#^.^#)

「駿河国新風土記」(新庄道雄 文化13年~天保5年)に、

「浅畑(麻機)北村に浅畑浅間三社明神あり。神部神社なるべし。
伊勢神宮の書に、神服部
(かんはとりべ)と麻服部を神部というとある。
この神社は古社に浅間を合わせ祀ったもの」


とあった。

鎌倉時代の宝治元年(1247)の、公家・葉室定嗣の日記「葉黄記」には、
「後嵯峨院の評定において、浅服庄のことが論議された」とある。

また「鹿児島県史」によると、
「するがのくに、あさはたのしょうのうち、きたむらのごうのごうし職を
千竃
(ちかま)氏にくだした」と出てきます。

この千竃氏の本貫地は尾張国千竃郷で、
その所領は常陸、駿河、尾張、薩摩の国々だった。

しかし、
静岡市の北のどんづまりの名もなき寒村が朝廷で話題になり、
支配権を鎌倉武士の間で争われたりしていたことを知る地元の人は皆無。

歴史学者が編纂した「麻機誌」にも掲載されてはおりません。


「北浅間神社」には「大門」「神子面」などの地名や、
流鏑馬の言い伝えがあり、天文3年
(1534)の鰐口が存在しているのに、
詳しいことは誰も知らない。歴史が寸断されてしまっているんです。


もったいないですね。

開発されて「遊水地公園」ができたが、今もなお残る湿地帯。
背後に連なる山が「賎機連峰」です。
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静岡市葵区・麻機沼周辺

神社の背後にはかつては密教の修験者たちの寺が散在し、
そのまた背後に竜爪山という信仰の山がある。


一番奥に見えるのが、神体山の竜爪山。
下を走っているのが「新東名」です。
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静岡市葵区麻機地区から見た竜爪山

あさはた村の北浅間神社の後ろに神の山・竜爪山、前方には大きな沼。

風水思想でいえば、この沼は周辺の「気」が集まる「龍穴」かも。


なんちゃって

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雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞