捨てられた民間学
盃状穴②
神社や寺の手水鉢に奇妙な穴や溝があっても、
それが何んで、誰が何のために穿ったのか誰も知りません。
わからないから仮説をたてるしかない。
なぜこんなことになってしまったかと言えば、
明治新政府の施策にあるとしか言いようがない。
明治5年(1872)、
政府は罰則を伴った「違式詿(かい)違条例」という風俗統制を実施した。
混浴、野外での大小便、裸体、入れ墨を禁止したのは理解できます。
リンガもその一つ。でも、庶民はしぶとい。
では、法の目をくぐって生き残ったリンガのお披露目といきますか。
※露出狂の「ワイセツ物」とは動機がまったく違いますから、誤解なきよう。
下の写真は、狛犬ならぬ「コマリンガ」。
ちゃんと「阿(あ)」と「吽(うん)」の形に置かれています。
「阿吽」は「生と死」を表わしています。
ちなみにしめ縄は水の神の雌雄の蛇が絡まっている(交尾の)姿で、
紙垂(しで)は稲妻です。その下に「種」を噴出する陽物を配置。
「五穀豊穣」と「子孫繁栄」を招く装置として完璧。お見事です。

江戸から東京に変わって間もない明治11年(1878)、
東京から日光、新潟経由で北海道まで旅行したイギリスの女性旅行家、
イザベラ・バードの旅行記にも、
入れ墨の体にふんどしをつけただけの男たちが出てくるから、
外国人の目を気にしていた新政府は、国民をねじ伏せてでも
こういう未開人みたいな風俗は隠したかったに違いない。
まあもっとも、当時はパンツなんてない時代で、
下層民の普段着は、女は腰巻、男はふんどしだったから、
本人たちにしてみれば、「野卑」だなんて思いもしなかったはず。
お堂の裏へ回ればこれこの通り。ニョッキニョキ。
花嫁さんのお尻を叩いて子宝を得る祭りに使われます。

なにしろ異人さんが来たというだけで、
混浴の風呂屋から裸の男女が見物に飛び出してきたというのだから、
その場に居合わせたら、私だって目のやり場に困る。
でも新政府はあまりにも、白人種の外国人に媚びへつらい過ぎました。
こうした心理は、今も続いていると思うのは私だけ?
政府は文明開化を急ぐあまり、政治力で民間の風習や風俗を弾圧して、
風俗の一律・画一化を強制した。
廃仏毀釈、修験道や邪教の禁止、淫祠の破壊…。
下の写真は、某寺院に奉納された木製の巨大陽物。
この姿から「神さま仏さま助けて」の切実さが伝わってくるのは、
祈願者が梅毒などの下の病気平癒のため奉納したからかも。
「夜遊びが過ぎました。母ちゃんごめん」って、もう遅いよ。
陽物は魔除けとして村境などに置かれて道祖神になったけれど、
この「陽太郎」さん、ご飯を前におわずけをくらったワンコさんみたい。

おそらくこの「風俗・風習の弾圧」のときを境に、
盃状穴は「謎の穴」になってしまったのではないでしょうか。
「禁止令が出たため、盃状穴のある手水鉢は土中に埋められた」
との報告が「伊勢民俗」誌にありましたから、
「穴」の言い伝えもそのとき、封印してしまったのかもしれません。
先の記事に、民俗学の大家の柳田国男は、子殺しと性的なものは
やらなかったが、岩手の佐々木喜善は臆せず収録したと書きましたが、
その理由の一つに、
柳田は国の役人で、佐々木は民間人ということもあったような気がします。
「禁止令」が出たとき、陽物など淫靡とされたものは、
焼却したり土中に埋めたりしたが、破壊せず密かに隠したところも。
そんなお寺で、無数の陽物を拝見。もう圧倒されました。
お堂の中には、木彫りやら石造りの大小の男根さんがいっぱい。
ここのご住職、仏さまのような微笑を浮かべてこんな内輪話も。
「本堂の上に隠し部屋があるんですよ。江戸時代の博打部屋です。
寺に貸し賃が入ったんですね。それを寺銭と呼んでいました」
キンピカのお座布団にうやうやしく置かれた「金精様」。
中央の女陰石は、下の悩みを抱えた女性からの奉納です。
右の写真には立派な木彫りのリンガと奉納者の名が…。まだ新しい。

歴史学者の網野善彦は著作の中で、しばしばこう言っています。
「歴史学は成年男子と稲作の歴史しかやってこなかった」
「日本の歴史教育は政治史中心で、権力の交代ばかりを教えている。
非常におかしなことだ」
「大正末から昭和初期にかけて日本の学問は民間学を切り捨てた。
柳田国男も外されていった」
無縁仏の中に「チン座」。(モザイク)
力石を自分の墓石にした人もいるし、ひょっとして墓石? だとしたら、
これを拝まされた遺族や坊さんを想像すると笑いが込み上げてきます。

明治政府が「犯したもうひとつの罪」は、
「家制度(家父長・戸主制度)」です。
「夫婦は同姓か別姓か」の問題になると、今どきの政治家や宗教団体から、
「夫婦同姓は日本古来からの伝統」との声が出てくる。
でもこれは間違いなんです。
日本で夫婦同姓を決めたのは、
明治31年(1876)の明治民法が初めてで、それ以前は夫婦別姓でした。
この「家制度」により、夫婦は一体だから夫婦同姓は当たり前、
戸主はその家の統率者で、妻は戸主に従属するものとされたのです。
これは権力側にとっては大変便利な制度ではないでしょうか。
だって、国民の管理や財産の把握がしやすくなりますから。
政治家さんたちが今もなお、明治時代の旧弊を押し通そうとするのは、
ひょっとして、
夫婦といえども人格は別ものという論理は重々承知の上で、
国民の管理統制を最優先したいがためなのでは、と勘繰りたくなります。
併設の幼稚園児たちが、無邪気にカクレンボしていました。(モザイク)
ここの祭りの神輿は巨大な陽物。この奇祭は外国人観光客に好評とか。

でも、国はこうして強制的に個人の家庭に踏み込んでくるけれど、
虐待やDVや貧困には、「民事不介入」を盾に知らん顔なんですよねぇ。
で、ちなみに、
夫婦同姓を法律で義務付けている国は世界で日本のみ。
だから、日本の男女間格差が、
「世界の先進国の中で最低」は、当然の帰結です。
夫婦間の姓ばかりではない。
新設した静岡市の博物館は、相も変わらず「徳川家康」一辺倒で、
「権力者ばかりの歴史」という網野善彦の嘆きは届きませんでした。
こうしてみていくと、人口の9割以上の庶民が築いてきた民間学を捨てさせ、
日本の本当の歴史を消してしまった明治政府の罪は大きい。
おキツネさんまで、この通り。しかしこれには、
古代へつながる深~い歴史があります。ほとんど神話の世界ですが…。

日本の政治家さんたちに、謹んで「チン情」いたします。
「盃状穴の底の底まで見つめて、庶民の歴史を学び直してちょうだい!」
「それにしても、姫の意外な一面を見た」ですって?
いえいえ、これらの写真の原点は、すべて、
ヨーロッパでは古代神話、日本では古事記、日本書紀の世界のこと。
私の対象はあくまでも「力石」でございます。(笑)

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それが何んで、誰が何のために穿ったのか誰も知りません。
わからないから仮説をたてるしかない。
なぜこんなことになってしまったかと言えば、
明治新政府の施策にあるとしか言いようがない。
明治5年(1872)、
政府は罰則を伴った「違式詿(かい)違条例」という風俗統制を実施した。
混浴、野外での大小便、裸体、入れ墨を禁止したのは理解できます。
リンガもその一つ。でも、庶民はしぶとい。
では、法の目をくぐって生き残ったリンガのお披露目といきますか。
※露出狂の「ワイセツ物」とは動機がまったく違いますから、誤解なきよう。
下の写真は、狛犬ならぬ「コマリンガ」。
ちゃんと「阿(あ)」と「吽(うん)」の形に置かれています。
「阿吽」は「生と死」を表わしています。
ちなみにしめ縄は水の神の雌雄の蛇が絡まっている(交尾の)姿で、
紙垂(しで)は稲妻です。その下に「種」を噴出する陽物を配置。
「五穀豊穣」と「子孫繁栄」を招く装置として完璧。お見事です。

江戸から東京に変わって間もない明治11年(1878)、
東京から日光、新潟経由で北海道まで旅行したイギリスの女性旅行家、
イザベラ・バードの旅行記にも、
入れ墨の体にふんどしをつけただけの男たちが出てくるから、
外国人の目を気にしていた新政府は、国民をねじ伏せてでも
こういう未開人みたいな風俗は隠したかったに違いない。
まあもっとも、当時はパンツなんてない時代で、
下層民の普段着は、女は腰巻、男はふんどしだったから、
本人たちにしてみれば、「野卑」だなんて思いもしなかったはず。
お堂の裏へ回ればこれこの通り。ニョッキニョキ。
花嫁さんのお尻を叩いて子宝を得る祭りに使われます。

なにしろ異人さんが来たというだけで、
混浴の風呂屋から裸の男女が見物に飛び出してきたというのだから、
その場に居合わせたら、私だって目のやり場に困る。
でも新政府はあまりにも、白人種の外国人に媚びへつらい過ぎました。
こうした心理は、今も続いていると思うのは私だけ?
政府は文明開化を急ぐあまり、政治力で民間の風習や風俗を弾圧して、
風俗の一律・画一化を強制した。
廃仏毀釈、修験道や邪教の禁止、淫祠の破壊…。
下の写真は、某寺院に奉納された木製の巨大陽物。
この姿から「神さま仏さま助けて」の切実さが伝わってくるのは、
祈願者が梅毒などの下の病気平癒のため奉納したからかも。
「夜遊びが過ぎました。母ちゃんごめん」って、もう遅いよ。
陽物は魔除けとして村境などに置かれて道祖神になったけれど、
この「陽太郎」さん、ご飯を前におわずけをくらったワンコさんみたい。

おそらくこの「風俗・風習の弾圧」のときを境に、
盃状穴は「謎の穴」になってしまったのではないでしょうか。
「禁止令が出たため、盃状穴のある手水鉢は土中に埋められた」
との報告が「伊勢民俗」誌にありましたから、
「穴」の言い伝えもそのとき、封印してしまったのかもしれません。
先の記事に、民俗学の大家の柳田国男は、子殺しと性的なものは
やらなかったが、岩手の佐々木喜善は臆せず収録したと書きましたが、
その理由の一つに、
柳田は国の役人で、佐々木は民間人ということもあったような気がします。
「禁止令」が出たとき、陽物など淫靡とされたものは、
焼却したり土中に埋めたりしたが、破壊せず密かに隠したところも。
そんなお寺で、無数の陽物を拝見。もう圧倒されました。
お堂の中には、木彫りやら石造りの大小の男根さんがいっぱい。
ここのご住職、仏さまのような微笑を浮かべてこんな内輪話も。
「本堂の上に隠し部屋があるんですよ。江戸時代の博打部屋です。
寺に貸し賃が入ったんですね。それを寺銭と呼んでいました」
キンピカのお座布団にうやうやしく置かれた「金精様」。
中央の女陰石は、下の悩みを抱えた女性からの奉納です。
右の写真には立派な木彫りのリンガと奉納者の名が…。まだ新しい。

歴史学者の網野善彦は著作の中で、しばしばこう言っています。
「歴史学は成年男子と稲作の歴史しかやってこなかった」
「日本の歴史教育は政治史中心で、権力の交代ばかりを教えている。
非常におかしなことだ」
「大正末から昭和初期にかけて日本の学問は民間学を切り捨てた。
柳田国男も外されていった」
無縁仏の中に「チン座」。(モザイク)
力石を自分の墓石にした人もいるし、ひょっとして墓石? だとしたら、
これを拝まされた遺族や坊さんを想像すると笑いが込み上げてきます。

明治政府が「犯したもうひとつの罪」は、
「家制度(家父長・戸主制度)」です。
「夫婦は同姓か別姓か」の問題になると、今どきの政治家や宗教団体から、
「夫婦同姓は日本古来からの伝統」との声が出てくる。
でもこれは間違いなんです。
日本で夫婦同姓を決めたのは、
明治31年(1876)の明治民法が初めてで、それ以前は夫婦別姓でした。
この「家制度」により、夫婦は一体だから夫婦同姓は当たり前、
戸主はその家の統率者で、妻は戸主に従属するものとされたのです。
これは権力側にとっては大変便利な制度ではないでしょうか。
だって、国民の管理や財産の把握がしやすくなりますから。
政治家さんたちが今もなお、明治時代の旧弊を押し通そうとするのは、
ひょっとして、
夫婦といえども人格は別ものという論理は重々承知の上で、
国民の管理統制を最優先したいがためなのでは、と勘繰りたくなります。
併設の幼稚園児たちが、無邪気にカクレンボしていました。(モザイク)
ここの祭りの神輿は巨大な陽物。この奇祭は外国人観光客に好評とか。

でも、国はこうして強制的に個人の家庭に踏み込んでくるけれど、
虐待やDVや貧困には、「民事不介入」を盾に知らん顔なんですよねぇ。
で、ちなみに、
夫婦同姓を法律で義務付けている国は世界で日本のみ。
だから、日本の男女間格差が、
「世界の先進国の中で最低」は、当然の帰結です。
夫婦間の姓ばかりではない。
新設した静岡市の博物館は、相も変わらず「徳川家康」一辺倒で、
「権力者ばかりの歴史」という網野善彦の嘆きは届きませんでした。
こうしてみていくと、人口の9割以上の庶民が築いてきた民間学を捨てさせ、
日本の本当の歴史を消してしまった明治政府の罪は大きい。
おキツネさんまで、この通り。しかしこれには、
古代へつながる深~い歴史があります。ほとんど神話の世界ですが…。

日本の政治家さんたちに、謹んで「チン情」いたします。
「盃状穴の底の底まで見つめて、庶民の歴史を学び直してちょうだい!」
「それにしても、姫の意外な一面を見た」ですって?
いえいえ、これらの写真の原点は、すべて、
ヨーロッパでは古代神話、日本では古事記、日本書紀の世界のこと。
私の対象はあくまでも「力石」でございます。(笑)

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