占いが決めた命の選別
盃状穴②
岩手県・遠野の民俗学者・佐々木喜善は、
「奥州の一部の国には、
生児をくびり殺す風習がなかなか盛んに行われていた」
と「遠野奇談」に書き残している。
「ある家で普請のとき戸口の踏み台の下を掘ったら、
小さい人間の骨が夥しく出た。一斗笊(ザル)で二つばかりあったという。
これなどは実に極端な例であろうけれども、大概の家々で、
一人やあるいは数人分の小さな骨が出ない処はまずあるまい
と想像されるのである」

「幼児の遺体は戸口の踏み台や大黒柱の下に埋められた」という記述は、
佐々木以外の民俗誌にも見られることから、
これは佐々木が語る地方だけの風習でなかったことがわかります。
けれど、今までの民俗学誌に載っていたのは、
「病死などで幼くして世を去った子」という話で、
佐々木のいう「人為的に世を去った子」ではなかった。
もしかしたらそう思わされてきただけで、
今では「犯罪」になる「過去の負」を、あえて隠した結果かもしれません。
しかし、
これだけは他の地方ではあまり例がないのではと思える事例があった。
そのことを知らしめてくれたのは、鈴木由利子氏の、
「選択される命」ー子どもの誕生を巡る民俗ー(臨川書店 2021)です。

著者の綿密な調査で明らかにされたのは、
「子供の生まれる家ではあらかじめ、今度は置くとか置かぬとかの
相談があったようである」という、
子どもの命を生かすか殺すかの選択肢を親が決めていたという事実だった。
貧しさゆえの苦渋の選択かと思ったらそうではなかった。
間引きには「貧しさ」や「障害児だった」という理由が確かにあった。
だがそればかりではなかったことを、この本は明らかにした。
著者は福島県の角田家の当主「藤左衛門日記」から、
こうした裕福な家でも間引きが行われていて、
それをすべて占いで決めていたという驚愕の事実を知り、
そこには「罪悪感」など微塵もなかったことに、さらに驚く。
五体満足に生まれた子を間引く理由はこんなことだったという。
「占いでは男の子のはずが女の子が生まれてしまったから」
「父親である自分の年齢なら、女児が生まれるはずなのに男だったから、
違(たがい)子として押し返した(間引いた)」

「育てる子」と「抹殺する子」というのは、
母親の胎内にいるときに決め、しかもその決定をするのは、
「占い」だったということに、愚かさと戦慄を覚えます。
現代人から見たられっきとした犯罪ですから、
とても容認できるものでないことは明らかです。
けれど当時は、「生まれて七日間は神の子」と言われ、
「子どもはその神からの授かりものだから不要な子どもは神に返す」
という社会通念があった。
この社会通念から導き出されるのは、
「神に返すだけなのだから、罪の意識は持たなくてもよい」
という意識だったのではないでしょうか。
裕福な角田家の当主・藤左衛門といえども、
いやむしろ、家の存続を第一に考えたそういう家だからこそ、
そんなことは当たり前のことだったのかもしれません。
だからこそ藤左衛門は隠ぺいなどせず、
日記に堂々と書き残しているのでは、と思います。
地元の古老がごく普通に「間引き」を話し、それを聞いた佐々木喜善が、
「家の下から、子どもの骨が出ない家はない」と書いたのだから、
当時は誰もが古老や藤左衛門と同じ認識だったはず。

しかし、「選択される命」の著者・鈴木由利子氏はいう。
「民俗学の考え方(通説)に、子どもの魂は再生するという考えがあった。
しかし、幼くしてこの世を去った子への思いには再生があるが、
これと、人為的な間引きとは違う」と。
この罪悪感なしで行われていた「間引き」がようやく終息を迎えたのは、
明治13年(1880)の刑法堕胎罪が施行され、「犯罪」とされた以降だった。
寺社には「間引き戒めの絵馬」が出るようになったという。
民俗学の大家・柳田国男が、調査対象としなかった事例は、
こういう「子殺し」と「性的なこと」だったという。
しかし佐々木喜善は、臆せず書き残した。

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「奥州の一部の国には、
生児をくびり殺す風習がなかなか盛んに行われていた」
と「遠野奇談」に書き残している。
「ある家で普請のとき戸口の踏み台の下を掘ったら、
小さい人間の骨が夥しく出た。一斗笊(ザル)で二つばかりあったという。
これなどは実に極端な例であろうけれども、大概の家々で、
一人やあるいは数人分の小さな骨が出ない処はまずあるまい
と想像されるのである」

「幼児の遺体は戸口の踏み台や大黒柱の下に埋められた」という記述は、
佐々木以外の民俗誌にも見られることから、
これは佐々木が語る地方だけの風習でなかったことがわかります。
けれど、今までの民俗学誌に載っていたのは、
「病死などで幼くして世を去った子」という話で、
佐々木のいう「人為的に世を去った子」ではなかった。
もしかしたらそう思わされてきただけで、
今では「犯罪」になる「過去の負」を、あえて隠した結果かもしれません。
しかし、
これだけは他の地方ではあまり例がないのではと思える事例があった。
そのことを知らしめてくれたのは、鈴木由利子氏の、
「選択される命」ー子どもの誕生を巡る民俗ー(臨川書店 2021)です。

著者の綿密な調査で明らかにされたのは、
「子供の生まれる家ではあらかじめ、今度は置くとか置かぬとかの
相談があったようである」という、
子どもの命を生かすか殺すかの選択肢を親が決めていたという事実だった。
貧しさゆえの苦渋の選択かと思ったらそうではなかった。
間引きには「貧しさ」や「障害児だった」という理由が確かにあった。
だがそればかりではなかったことを、この本は明らかにした。
著者は福島県の角田家の当主「藤左衛門日記」から、
こうした裕福な家でも間引きが行われていて、
それをすべて占いで決めていたという驚愕の事実を知り、
そこには「罪悪感」など微塵もなかったことに、さらに驚く。
五体満足に生まれた子を間引く理由はこんなことだったという。
「占いでは男の子のはずが女の子が生まれてしまったから」
「父親である自分の年齢なら、女児が生まれるはずなのに男だったから、
違(たがい)子として押し返した(間引いた)」

「育てる子」と「抹殺する子」というのは、
母親の胎内にいるときに決め、しかもその決定をするのは、
「占い」だったということに、愚かさと戦慄を覚えます。
現代人から見たられっきとした犯罪ですから、
とても容認できるものでないことは明らかです。
けれど当時は、「生まれて七日間は神の子」と言われ、
「子どもはその神からの授かりものだから不要な子どもは神に返す」
という社会通念があった。
この社会通念から導き出されるのは、
「神に返すだけなのだから、罪の意識は持たなくてもよい」
という意識だったのではないでしょうか。
裕福な角田家の当主・藤左衛門といえども、
いやむしろ、家の存続を第一に考えたそういう家だからこそ、
そんなことは当たり前のことだったのかもしれません。
だからこそ藤左衛門は隠ぺいなどせず、
日記に堂々と書き残しているのでは、と思います。
地元の古老がごく普通に「間引き」を話し、それを聞いた佐々木喜善が、
「家の下から、子どもの骨が出ない家はない」と書いたのだから、
当時は誰もが古老や藤左衛門と同じ認識だったはず。

しかし、「選択される命」の著者・鈴木由利子氏はいう。
「民俗学の考え方(通説)に、子どもの魂は再生するという考えがあった。
しかし、幼くしてこの世を去った子への思いには再生があるが、
これと、人為的な間引きとは違う」と。
この罪悪感なしで行われていた「間引き」がようやく終息を迎えたのは、
明治13年(1880)の刑法堕胎罪が施行され、「犯罪」とされた以降だった。
寺社には「間引き戒めの絵馬」が出るようになったという。
民俗学の大家・柳田国男が、調査対象としなかった事例は、
こういう「子殺し」と「性的なこと」だったという。
しかし佐々木喜善は、臆せず書き残した。

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