間引き
盃状穴②
子宝を授かりたい、無事出産したい、丈夫な子を産みたい…、
今も昔もほとんどの女性が願うことだと思います。
でもその一方で、生まれたばかりの赤ん坊をくびり殺したり踏み殺した、
そういう「間引き」という現実が、かつて確かにあった。
子宝を願うことと生まれた子を殺すこと、
この相反する行為は不可解としかいいようがない。

さらに驚くべきことに、
「間引き」は罪悪感なしで行われたという。
本当だろうか。
臨月まで自分のお腹で育み、産みの苦しみの果てに生れた我が子です。
その子を殺される、しかも出産直後に。
何の選択も許されない母親には、悲しみと無念さが残ったはずです。
そう思うのは、現代風の見方で短絡的過ぎるからでしょうか。
「遠野奇談」を読んだ。

「遠野奇談」佐々木喜善・著 石井正巳・編 河出書房新社 2009
佐々木喜善(1886~1933)
著者の佐々木喜善は岩手県・遠野の人。
この人から話を聞いて、民俗学者の柳田国男は「遠野物語」を書き、
これが日本民俗学の先駆けとなった。
佐々木喜善なくして「遠野物語」は生まれなかったし、
柳田なくして「遠野」はこれほどまで世に知られなかった。
だが、のちに佐々木は柳田と対立して東京を去り、
47歳という若さでこの世を去った。
編者の石井氏は本の巻末にこう記している。
「本書には民俗学の主流を行く雑誌に載ったものは一遍もない。
柳田民俗学がアカデミズムに向かうことが最優先されると、
民俗学の先駆者と評価されていた佐々木は次第に忘れられて、
切り捨てられてしまったのです」
「柳田国男が遠野物語で触れなかったもの」の一つ、
「悲惨極まる餓死村の話」を読んだ。

同上
ここには、佐々木喜善が村の老人たちから聞いた
「奥州における天保年間(1830~1844)の飢饉のときの惨状」
八編が収録されています。
「飢饉の年、村の薬師社の別当をしていた家の息子が、
腹を空かせて村をうろつくので村人が別当に掛け合ったら、
迷惑を掛けぬよう始末しましょうといい、鉈で殴り殺した」
「飢饉で子連れの女などどこでも雇ってくれず、娘を川に落として殺した」
「捨て子があってもみんな知らん顔で素通りした」
「お腹がすいた母親が乳飲み子の腕を食いちぎって、
口に入れたまま峠で死んでいた」
「子守り娘が、ママ(飯)食いたさに、
主人の赤ん坊の腹を裂いて胃袋の中のものを食べた」
と、どれも地獄絵図を見るような、悲惨極まりない話ばかり。
飢饉は全国的だったからどこでもあったと思うものの、
これほど身近にここまで赤裸々に語られる話は他では出てこない。
こちらは大正9年の世界恐慌から関東大震災、凶作、第二次大戦で、
人々が疲弊していった時代の写真です。
左は青森県「娘を売らずに食える道」部落座談会 昭和9年 影山光洋撮影。
右は「娘を売りたい場合は村役場へ」と呼びかけた看板。昭和5年。
「娘身売り」の横の「健康週間」の張り紙がなんとも…。

私、思うんですよ。
日本は江戸時代以前から自国の貧困や窮状や負の部分を、
すべて東北地方に押し付けてきたのではないだろうかって。
平安時代には大和朝廷が、
自分に従わない者がいる東北地方へ坂上田村麻呂を派遣(侵略)して、
土地の指導者、アテルイと戦かわせて屈服させた。
権力者は己の権威を高め維持し栄華をむさぼるために、
常に「根拠のない敵」を作ることで力を誇示してきた。
それは「サタン」や「地獄」を口にする宗教の教祖も同じで、
そうして自分や賛同者以外の人や民族を脅し誹謗し、貶め排除してきた。
こうしたことは、今も変わらないけれど、
東北地方への締め付けは常軌を逸していたのでは、と思えてならない。
さて、佐々木喜善は同著作にもう一つ、気になることを書き残していた。
「昔から奥州の一部の国には、生児をくびり殺す風習が、
なかなか盛んに行われていた」
飢饉の非常時や止むに止まれぬ理由とはまた違った「間引き」。
それを「風習」と呼ぶのはあまりにも酷すぎる。

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今も昔もほとんどの女性が願うことだと思います。
でもその一方で、生まれたばかりの赤ん坊をくびり殺したり踏み殺した、
そういう「間引き」という現実が、かつて確かにあった。
子宝を願うことと生まれた子を殺すこと、
この相反する行為は不可解としかいいようがない。

さらに驚くべきことに、
「間引き」は罪悪感なしで行われたという。
本当だろうか。
臨月まで自分のお腹で育み、産みの苦しみの果てに生れた我が子です。
その子を殺される、しかも出産直後に。
何の選択も許されない母親には、悲しみと無念さが残ったはずです。
そう思うのは、現代風の見方で短絡的過ぎるからでしょうか。
「遠野奇談」を読んだ。

「遠野奇談」佐々木喜善・著 石井正巳・編 河出書房新社 2009
佐々木喜善(1886~1933)
著者の佐々木喜善は岩手県・遠野の人。
この人から話を聞いて、民俗学者の柳田国男は「遠野物語」を書き、
これが日本民俗学の先駆けとなった。
佐々木喜善なくして「遠野物語」は生まれなかったし、
柳田なくして「遠野」はこれほどまで世に知られなかった。
だが、のちに佐々木は柳田と対立して東京を去り、
47歳という若さでこの世を去った。
編者の石井氏は本の巻末にこう記している。
「本書には民俗学の主流を行く雑誌に載ったものは一遍もない。
柳田民俗学がアカデミズムに向かうことが最優先されると、
民俗学の先駆者と評価されていた佐々木は次第に忘れられて、
切り捨てられてしまったのです」
「柳田国男が遠野物語で触れなかったもの」の一つ、
「悲惨極まる餓死村の話」を読んだ。

同上
ここには、佐々木喜善が村の老人たちから聞いた
「奥州における天保年間(1830~1844)の飢饉のときの惨状」
八編が収録されています。
「飢饉の年、村の薬師社の別当をしていた家の息子が、
腹を空かせて村をうろつくので村人が別当に掛け合ったら、
迷惑を掛けぬよう始末しましょうといい、鉈で殴り殺した」
「飢饉で子連れの女などどこでも雇ってくれず、娘を川に落として殺した」
「捨て子があってもみんな知らん顔で素通りした」
「お腹がすいた母親が乳飲み子の腕を食いちぎって、
口に入れたまま峠で死んでいた」
「子守り娘が、ママ(飯)食いたさに、
主人の赤ん坊の腹を裂いて胃袋の中のものを食べた」
と、どれも地獄絵図を見るような、悲惨極まりない話ばかり。
飢饉は全国的だったからどこでもあったと思うものの、
これほど身近にここまで赤裸々に語られる話は他では出てこない。
こちらは大正9年の世界恐慌から関東大震災、凶作、第二次大戦で、
人々が疲弊していった時代の写真です。
左は青森県「娘を売らずに食える道」部落座談会 昭和9年 影山光洋撮影。
右は「娘を売りたい場合は村役場へ」と呼びかけた看板。昭和5年。
「娘身売り」の横の「健康週間」の張り紙がなんとも…。


私、思うんですよ。
日本は江戸時代以前から自国の貧困や窮状や負の部分を、
すべて東北地方に押し付けてきたのではないだろうかって。
平安時代には大和朝廷が、
自分に従わない者がいる東北地方へ坂上田村麻呂を派遣(侵略)して、
土地の指導者、アテルイと戦かわせて屈服させた。
権力者は己の権威を高め維持し栄華をむさぼるために、
常に「根拠のない敵」を作ることで力を誇示してきた。
それは「サタン」や「地獄」を口にする宗教の教祖も同じで、
そうして自分や賛同者以外の人や民族を脅し誹謗し、貶め排除してきた。
こうしたことは、今も変わらないけれど、
東北地方への締め付けは常軌を逸していたのでは、と思えてならない。
さて、佐々木喜善は同著作にもう一つ、気になることを書き残していた。
「昔から奥州の一部の国には、生児をくびり殺す風習が、
なかなか盛んに行われていた」
飢饉の非常時や止むに止まれぬ理由とはまた違った「間引き」。
それを「風習」と呼ぶのはあまりにも酷すぎる。

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