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火の行事

盃状穴②
03 /30 2023
宇宙は12年目ごとに死と再生を繰り返す。
古代人はそう考えた。

「十二」という数字は一年の中でも「特別な日」だったそうで、
神話学の井本英一先生は、10~11世紀のイラン人、アル・ビールーニーの
「古代諸民族の暦法」から、こんな話を紹介しています。


「イラン暦で1月6日は大正月といわれ、神が創造を終えた日で、
ペルシャ人はこの日を希望の日と呼んでいる」

つまり悪魔を征服して秩序を回復した日なんだそうです。

大昔、温泉街で買ったカエルさん。
「よみガエル」「若ガエル」のご利益があるといわれて…。
でもまあ、こんなふうにのんびりしていれば、長生きします。
若返るかえる

で、なんでこの「1月6日」が「十二」と関係があるのかというと、
この日は、
12月25日から数えて12日目の前夜「十二夜」だからなんだと。

この十二夜にあたる1月6日は、大正月から小正月へ移行する日で、
「霊魂の再生」という新しい年の始まりだから、
どこの国でも大変重要な日で、様々な形で祝った。

「古代イランの十二夜の仮面行列。アルメニア教会でのキリスト生誕祭。
日本では元旦の歳神の来訪と小正月の仮面神のナマハゲ」


そして中国では小正月「上元の夜」の行事、「燈火祭」があった。

「この燈火祭はイラン文化の影響を受けている」と井本先生。

この「十二夜の行事」につきものは、
「火」「水」だそうです。

そこでまずは「火」から。

小正月に行われる「どんど焼き」という風習があります。

どんど焼きの火に力自慢の男が厄落としに、道祖神を投げ込んだ瞬間です。
遠藤秀男どんど焼き
「富士宮の道祖神」遠藤秀男 緑星社 昭和56年よりお借りしました。

このどんど焼き、今も日本の各地で行われていますが、
これも古代オリエント、古代ヨーロッパの習俗だったんだそうです。

私も子供の頃、経験しましたが、これが苦痛で…。

その日は、3つに枝分かれした木の先にそれぞれ団子をさして、
会場になっている道祖神場へ行くわけですが、


あの木を担いで歩くのが恥ずかしくて、いやでたまりませんでした。
なんでこんなカッコ悪いことをしなければならないんだろう、と。

でも、あれは「十二夜の火」で、邪気を払い魂の再生をするという
大事な行事だったんですね。


焼けた団子は虫歯予防に食べたり、屋根に供えて防火にしたり。
今思えば貴重な体験をさせてもらいました。

先の写真で見たように、
静岡県東部では力石や道祖神をどんどの火に投じる風習があった。


左の石は「力石」と呼ばれていたとの記録があるが、恐らく道祖神で、
何度も火に投じられてこのような姿になったものと思われます。
CIMG0041.jpg
沼津市・薬師堂

さて、その「どんど(とんど)焼き」です。

オリエントや欧州の古い習俗にも
日本と同じような「とんどの火祭り」があって、
それはこんな感じだったそうです。


「山頂や丘や川辺、平原などでとんどを焚き、
冬が去り春が近づいてくることを祝った。これは新年の行事であった」

「また、ローソクにも関係があった。クリスマスに12本のローソクを用意し、
十二夜まで毎日一本ずつ燃え切らせる。
十二夜には祖先の霊魂がこの世に帰ってくるという信仰があった」

(井本英一「輪廻の話」)

そこでパッと浮かんだのが、大分県などに残る「燈明石」です。
これは、
大きな石に12個の穴を開け、油を注ぎ点灯して祈った行事だったそうです。

これって、
かの地の古い「燈火祭」と、同じ思想が流れていると思われませんか?

日本の「燈明石」の行事は、
大晦日から夜七日間、穴に火を灯して無病息災、五穀豊穣を祈った。

「大晦日から夜七日間」というところに、
外国の古代につながる大きな意味があると思うのです。

燈明石2
大分県豊後高田市田染・真木大堂

古代オリエントやヨーロッパでは、
十二夜にあたる1月6日を境にそれ以前は「死の儀礼」の期間、
以後は「再生・復活」の期間だった。

そして大分県でも同じように「大晦日から七日間、火を灯した」。

こうしたことから、このアジアのはずれの日本での「燈火行事」もまた、
「死の儀礼」から「再生・復活」へという、
世界各地の古代の風習を見事に体現していたといえます。


なぁーんだ。肌の色や言葉は違っても、
人間、考えることはみんな一緒じゃないの。なんだかルンルン♪♪

だからこそ、
「たかが石っころ。過去の異物だ。くだらねぇ」と思わず、
こうした身近なところから学ぶことを、若い人たちにぜひ知ってほしい。

「くだらない」と思われた石一つから、
考古学や文化人類学へと繋がりますから。


この「燈火の行事」は、その後、万灯会となって今に生きています。

※新暦、旧暦で日にちにズレがあります。
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宇宙の盛衰と王殺し

盃状穴②
03 /27 2023
古代人たちは人の魂は不滅だとし、次に人間として再生するまで、
その魂はさまざまな動物へ転生すると考えた。

「イランの動物仮装の行列は、祖先のこの世への訪問。
鳥獣と人間の行列は雅楽や伎楽にも見られる」
(井本英一)

ということは、
行列に参加したご先祖様は、人間に転生する前段階ということでしょうか。


古代エジプト人は、人間への転生までの年数を3000年としていたとか。

だとしたら私の前世は縄文人か!


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で、3000年なんて待っていたら、自分は永久に王様になれない、

と考えたかどうかは知りませんが、
手っ取り早く再生するには現王を殺すしかない、そう考えたようで、

「ギリシャの場合、王の統治期間に古い王を殺して新しい王位を継いだ」
そうですから、なんとも血生臭い。


その権力闘争はいつ実行したかというと、12年目ごとだという。

なんで12年目ごとかというと、
「十二」は、ものごとの終末と始原を暗示していて、
このとき、宇宙が弱まると信じられていた。

その弱まった宇宙を再び強く盛んなものにするには、
現王を殺して新しい若い王に替えなければならなかった。


そうかァ。今、日本が少子化で、
衰退の一途を辿っているといわれているのは、
現役の政治家に年寄りが多すぎるせいか。(*゚Q゚*)

で、宇宙が弱まったらなぜ王を殺すことになるのかというと、
王は宇宙の体現者とされていて宇宙と一体だったからだそうで…。

だから、こうして12年目ごとに王を殺していったんだと。

王様も気楽な稼業ではなかったんですねぇ。


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井本先生によれば、
女神の神殿を12年目に建て替えるのも、
沖縄・久高島のイザイホーの祭りを12年目ごとに行うのも、
「宇宙の弱まり」から「再生」を願うためなんだそうです。


再生のために祖先を殺してその霊魂をわが身に移動させる
というのも凄い発想ですが、のちに王の身代わりに、
別の人間を銅牛の中に入れて焼き殺したというのですから、
これまた、なんとも残忍で理不尽な話です。


井本先生は、
フレイザー「死にゆく神」ロンドン 1991から、こんな話も紹介しています。

「アフガニスタンの初春の行事に、山羊の生首を奪い合う騎馬競技。
この山羊は王様のスケープゴード」

「インドのマラバルでは王の生首が実際に奪い合われた。
5年の任期が切れると王は首を切られ、群衆の中に空高く投げ上げられ、
人々は落ちてくる生首を奪い合い、
それを手にしたものが次の王の座についた」


私はこの個所を読んで、
兵士たちが敵兵の首を奪い合ったことから始まったという
サッカーの起源説を思い出してしまいました。
(真偽はわかりませんが)

「怖え~」「聞かなかったことにします」「他言はしません」
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人間ってこんなに残酷だったなんてにわかに信じられませんが…。

でもそんな一つに、鍛冶屋が強度を願うため、
窯に幼児を投げ込んだ話もあります。

こうしたイケニエの習慣は世界のどこにでもあって、
こちらは牛ですが、
雨乞いに牛の首を滝壺へ投じた話は、当地の名主日記にも書かれています。

毎年娘を怪神に人身御供として捧げる伝説、
これは裏がありそうな話だと疑っていますが、

橋や堤防に人柱を埋めた話は、
実際に人骨が出てきた例があることから、嘘ではなかったと思います。


このイケニエ、時代が下るにつれて、
本物から絵に変わっていったといいますからホッとしますが、
それにしてもこの地球上で一番恐ろしいのは人間だなぁと、
つくづく思ってしまいました。

で、宇宙の盛衰は宇宙の体現者の王様にだけ関係したのかというと、
どうもそうでもないらしい。

普通の人間の体と精神の盛衰の運行も宇宙と連動していて、
やっぱり12年目ごとに終末と始原を繰り返すとされていたようです。


「千石船の大小暦」万延元年(1860)庚申
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「歴史読本」新人物往来社 昭和48年

そこで思い当たるのが、あの12個の穴に燈明を灯した「燈明石」です。

あの石に穿たれた穴は12の干支+閏年の1個。

これが古代オリエントと繋がりがあったと考えると、
なんだかワクワクしてきませんか。

以下は拙ブログの記事です。


「燈明石」

次回はまたまた井本先生の本からお借りして「十二」のお話を。

※参考文献/「十二支動物の話」法政大学出版 1999
     「輪廻の話」同 1989 いずれも井本英一著

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輪廻観は世界共通

盃状穴②
03 /24 2023
霊魂は不滅。
一旦、肉体を離れても必ず、何かに転生して甦る。

この輪廻転生・霊魂移動説があるのは日本だけではない。

「輪廻の話」
井本英一 法政大学出版局 1989によると、
これは「古代人に一般的なものだった」という。

ダライ・ラマの転生化身、空海は不空三蔵の生まれ変わり…。
カルトと呼ばれる新興宗教の教祖も、自らを〇〇の再来などと自己申告。


で、「その他大勢」はどうなるのかというと、動物に転生したという。

古代ギリシャ人の輪廻観がおもしろい。


「食いしん坊で不摂生で酒浸りの人の魂は、
ロバの中へ」

「私が酒浸りだなんて、ひどい言いがかりよね」とロバさん。
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大分県・湯布院

「不正や専制や略奪を好んだ人は狼、鷹、鳶に」

シンリンオオカミも怒ってます。
「失礼だなぁ。不正や略奪とオイラを結びつけるなんて」
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静岡市・日本平動物園

「哲学や知性なしの人は蜂の仲間に」

「私たち蜂の一族は文武両道でございます。ブンブ、ブンブ」

「哲学や知性を求めて生を送った人は、
神さまの種族に帰一する」

(井本英一氏)

酒浸りの方は「ロバ」だそうですから、お気をつけください。(笑)

日本ではこんな感じ。

「前世の業によって、蛇、馬、牛、犬、鳥などに生まれ変わる。
だから現在は畜生であっても、過去は父母であったかもしれないし、
六道四生は自分が生まれ変わるところなので、慈悲の心がなければならない」

(日本霊異記)

ただし、天の子は鳥になるとか。

そういえば、ヤマトタケルは伊吹山で白鳥になって飛び去った。


ヒグマ、エゾシカ、キタキツネに囲まれて。ひょっとしてこれって私の転生先?
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北海道・美幌峠

神話学の井本先生は、
「古墳に残る石人、石馬は被葬者の転生する姿」としていますが、
考古学の河上邦彦先生のとらえ方は違います。

奈良の「吉備姫王(きびつひめのみこ)墓」の境内に安置されている
4体の「猿石」と称する石像についての、両者の違いを見てみます。


井本説。

「もとからこの墓に付随していたのなら、転生途中の動物の像で、
両面像については、
一方の顔はこの世を向き、もう一方はあの世を向いている。
四ツ目犬と同じように、この世とあの世の境界に立つ存在である」

=「十二支動物の話」 法政大学出版 1999

河上説。

「4体の「猿石」は元禄15年(1702)に、現・欽明天皇陵の南側の
田畑より掘り出され、欽明陵に並べられた。
おそらく明治になってから欽明陵北側にある吉備姫王墓前に移され、
現在に至っている。

この4体は、乳房があるので「女」、裸体に陽物を出しているから「男」、
もう一体の陽物を出す裸体は「山王権現」との名称で呼ばれてきた。
この3体は二つの顔を持つ「二面石」だが、「僧」だけは「一面石」。


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のちにこの「僧」が掘り出され、ふんどし姿で陽物の表現はなく、
また痩せた坊さんのイメージもなく、むしろ太っていたことから
河上先生は、これは
「力士」ではないかと考えた。

そこで結論として、亀田博氏の「猿石は伎楽を表わしたもの」に賛同。

う~ん。伎楽って裸で陽物やらおっぱい丸出しで演じるかなぁ?
まあもっとも、神楽も田楽もかなりきわどかったし…。

それはさておき、河上先生、力士像だけが異質だったことや、
近くにあるキタガワ遺跡を天皇に拝謁する迎賓館のようなものと推測し、
こう考えた。

「相撲は見世物だったから、
各地からの使者たちを楽しませるために
相撲伎楽を催した。
催しがない時は代わりに猿石のような石像を置いて楽しませたのではないか」

=「飛鳥を掘る」 講談社 2003

学者さんでもこのように意見が違いますから、
ド素人のワタクシメも臆せず、「妄想」を申し上げます。

どちらかといえば、私は井本説。
ただし、陽物やおっぱいを露わにしているところや猿顔
(魔去る)から、
邪気を払う「魔除け」かなぁとも思いました。

それと気になったのは、「男」「僧」の手が〈礼拝の形〉であることと、
「山王権現」が敬意を表す〈膝まづいた姿〉であること。


で、この「猿石」たちを見つめていたら、こんなことが浮かんだんです。
何の根拠もありませんが…。

4体のうちの鰐顔の「女」は海神(わたつみ)の娘のトヨタマ姫。
「男」は山幸彦。「山王権現」は、この二人の子供のウガヤフキアエズ命。

「山王権現」
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この人が被っている頭巾は胞衣。赤ん坊は胞衣を被って生まれてくるから。
猿顔は赤ん坊そのものだから。

なぁ~んてことはないか…。


河上先生が喝破した「力士像」について、
先生は「各地・各国の賓客をもてなすため、相撲を見せた」としていますが、

どうなんでしょう。


相撲に関していえば、
日本史への登場は、建御雷神の「国譲り神話の力くらべ」が最初。
その後、
その年の豊作物を占う儀式となり、宮中に入って「相撲節会」となった。


「崇神天皇、
当麻蹴速(たいまのけはや)と野見宿祢(のみのすくね)の相撲を見る図」
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「日本名所風俗図会」角川書店 竹村俊則・編 昭和56年

こういう事例があります。

「相撲やレスリングは葬送や墓前で行う儀礼の一つであった。
アレキサンダー大王はペルシャ遠征のとき、アキレウスの墓に詣で、
墓前競技を催した。

中国吉林省の高句麗遺跡の角抵(相撲)塚に、
生命の樹の下で相撲を取る図がある」
=「輪廻の話」

相撲は見世物から始まったとは思いたくないなぁ。
古代の相撲は神聖な儀礼としての要素が強かったし…。


今は完全に娯楽となりましたが、
神聖な儀礼としての痕跡は、力士が土俵を塩で清め、
神鎮めの四股を踏み、清めの水を口にするなどに見ることができます。

そうした伝統は力石にも残っています。

昭和初期になっても力持ち力士たちは、
「力石には神が宿っているから腰掛けたりしてはいけない。
売買するものではない」と、自らを戒めてきた。

そういう敬虔さがあったからこそ、石に自分の名を刻み神に捧げたのです。


CIMG0287.jpg
静岡県富士市神戸上・神戸弁財天水神

なので、賓客をもてなすための見世物ではなく、
欽明天皇への墓前儀礼とした方が理に適っていると私は思います。

みなさまはどうお考えでしょうか。

で、この「猿石」の顔はどう見ても現・日本人の顔ではない。
そんなことから、遠い国々から中国経由で来日した人たちの
手になるものともいわれています。


「南米グアテマラから大量に発掘されたデモクラーシアの巨石彫刻」
しぐさが明日香の「猿石」と似ていませんか?
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「歴史読本」新人物往来社 昭和51年

輪廻転生思想も神話も世界共通だし、
現代人が思っているほど古代人は無知ではなく、
地球規模で活発に動き回っていた。

その根拠の一つに「法隆寺の香木」があります。
これに刻まれた文字は、ペルシャ人やソブド人の文字なんだとか。


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鬼熊の玉垣

みなさまからの力石1
03 /21 2023
新発見、新情報です。

力石ではなく玉垣ですが、あの鬼熊の名を発見!
今まで誰も気づかなかったんです。

力石以外で鬼熊の名をみるのは、初めてではないでしょうか。


発見者は、
ブログ「とりけらのアウトドア&ミュージック日記」torikeraさんです。

これです。
西新井とりけらさん
東京都足立区・西新井大師

西新井大師の記事は下のURLでどうぞ!

「西新井大師で花より団子」

ここには10個もの力石が奉納されています。

これです。
西新井力石

その一つに鬼熊が働いていた酒問屋「豊島屋」のものがありますが、
鬼熊ではなく、伝七の名が刻まれています。


しかし、慶応元年の「花長者」(一枚刷)に、
「力持 芳治郎 伝七 六十四歳大力鬼熊」
がありますから、間違いなくこの伝七は、鬼熊一門ですね。

torikeraさんのブログを見た斎藤氏、

「西新井大師は何度も訪れましたが、力石以外は観察力もゆるくなって、
まったく気づきませんでした。とりけらさんは真面目で着実で凄い!」と。

で、斎藤氏、このところの陽気も手伝って早速、西新井大師へ。


ありました。
西新井1

「豊嶋町 力士鬼熊」

奉納年は不明ですが、力士とあることから引退前だったのでしょうか。

そしてこちらが、鬼熊の玉垣と並んだ「直吉」の名のある玉垣です。


「豊島町若者中 牧野鉄蔵 箱屋直吉」

西新井3

「直吉」という力持ちは、豊島屋にもいたし、
鬼熊と並び堂々と玉垣の親柱に名を刻んでいることから、
鬼熊がらみかとも思いましたが、

別人かなぁ? どうなんでしょう。

「箱屋」というのは、芸者衆の荷物持ちという説があり、
力のある中年男が仕事としたそうですから、
あるいは…。

この隣りの石柱には「御蔵前」と刻まれていますから、
やはり力持ち関連かなとも思いましたがはっきりしません。

さて、斎藤さんもtorikeraさんも、
いつもお世話になっているへいへいさんも埼玉在住者。

みなさん、フットワーク、識見、人柄も抜群。

その根底に共通するのは「郷土愛」のような気がします。
それも自然に備わった、あったかくてゆったりした…。


DSC00112.jpg

以前、torikeraさんからもたらされた、
「上戸田氷川神社の力石の説明と石の位置、訂正されていました」
との知らせを聞いた斎藤さん、


「確認に行こうと思っていましたが、
とりけらさんが行ってくださったんですね。嬉しいですねぇ~。
確認に行くという気持ちが嬉しい。
こうしたいろんな人の力石への思いがミスを是正していくんですねぇ」

と、感慨無量でした。


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捨てられた民間学

盃状穴②
03 /18 2023
神社や寺の手水鉢に奇妙な穴や溝があっても、
それが何んで、誰が何のために穿ったのか誰も知りません。

わからないから仮説をたてるしかない。

なぜこんなことになってしまったかと言えば、
明治新政府の施策にあるとしか言いようがない。

明治5年(1872)、
政府は罰則を伴った
「違式詿(かい)違条例」いう風俗統制を実施した。

混浴、野外での大小便、裸体、入れ墨を禁止したのは理解できます。

リンガもその一つ。でも、庶民はしぶとい。
では、法の目をくぐって生き残ったリンガのお披露目といきますか。

※露出狂の「ワイセツ物」とは動機がまったく違いますから、誤解なきよう。

下の写真は、狛犬ならぬ「コマリンガ」
ちゃんと「阿(あ)」と「吽(うん)」の形に置かれています。
「阿吽」は「生と死」を表わしています。

ちなみにしめ縄水の神の雌雄の蛇が絡まっている(交尾の)姿で、
紙垂(しで)は稲妻です。その下に「種」を噴出する陽物を配置。
「五穀豊穣」「子孫繁栄」を招く装置として完璧。お見事です。
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江戸から東京に変わって間もない明治11年(1878)、
東京から日光、新潟経由で北海道まで旅行したイギリスの女性旅行家、
イザベラ・バードの旅行記にも、


入れ墨の体にふんどしをつけただけの男たちが出てくるから、
外国人の目を気にしていた新政府は、国民をねじ伏せてでも
こういう未開人みたいな風俗は隠したかったに違いない。

まあもっとも、当時はパンツなんてない時代で、
下層民の普段着は、女は腰巻、男はふんどしだったから、
本人たちにしてみれば、「野卑」だなんて思いもしなかったはず。


お堂の裏へ回ればこれこの通り。ニョッキニョキ。
花嫁さんのお尻を叩いて子宝を得る祭りに使われます。
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なにしろ異人さんが来たというだけで、
混浴の風呂屋から裸の男女が見物に飛び出してきたというのだから、
その場に居合わせたら、私だって目のやり場に困る。

でも新政府はあまりにも、白人種の外国人に媚びへつらい過ぎました。
こうした心理は、今も続いていると思うのは私だけ?

政府は文明開化を急ぐあまり、政治力で民間の風習や風俗を弾圧して、
風俗の一律・画一化を強制した。

廃仏毀釈、修験道や邪教の禁止、淫祠の破壊…。

下の写真は、某寺院に奉納された木製の巨大陽物

この姿から「神さま仏さま助けて」の切実さが伝わってくるのは、
祈願者が梅毒などの下の病気平癒のため奉納したからかも。
「夜遊びが過ぎました。母ちゃんごめん」って、もう遅いよ。

陽物は魔除けとして村境などに置かれて道祖神になったけれど、
この「陽太郎」さん、ご飯を前におわずけをくらったワンコさんみたい。
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おそらくこの「風俗・風習の弾圧」のときを境に、
盃状穴は「謎の穴」になってしまったのではないでしょうか。

「禁止令が出たため、盃状穴のある手水鉢は土中に埋められた」
との報告が「伊勢民俗」誌にありましたから、
「穴」の言い伝えもそのとき、封印してしまったのかもしれません。

先の記事に、民俗学の大家の柳田国男は、子殺しと性的なものは
やらなかったが、岩手の佐々木喜善は臆せず収録したと書きましたが、

その理由の一つに、
柳田は国の役人で、佐々木は民間人ということもあったような気がします。

「禁止令」が出たとき、陽物など淫靡とされたものは、
焼却したり土中に埋めたりしたが、破壊せず密かに隠したところも。

そんなお寺で、無数の陽物を拝見。もう圧倒されました。
お堂の中には、木彫りやら石造りの大小の男根さんがいっぱい。

ここのご住職、仏さまのような微笑を浮かべてこんな内輪話も。

「本堂の上に隠し部屋があるんですよ。江戸時代の博打部屋です。

寺に貸し賃が入ったんですね。それを寺銭と呼んでいました」

キンピカのお座布団にうやうやしく置かれた「金精様」
中央の女陰石は、下の悩みを抱えた女性からの奉納です。
右の写真には立派な木彫りのリンガと奉納者の名が…。まだ新しい。
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歴史学者の網野善彦は著作の中で、しばしばこう言っています。

「歴史学は成年男子と稲作の歴史しかやってこなかった」

「日本の歴史教育は政治史中心で、権力の交代ばかりを教えている。
非常におかしなことだ」


「大正末から昭和初期にかけて日本の学問は民間学を切り捨てた。
柳田国男も外されていった」

無縁仏の中に「チン座」。(モザイク)
力石を自分の墓石にした人もいるし、ひょっとして墓石? だとしたら、
これを拝まされた遺族や坊さんを想像すると笑いが込み上げてきます。
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明治政府が「犯したもうひとつの罪」は、
「家制度
(家父長・戸主制度)」です。

「夫婦は同姓か別姓か」の問題になると、今どきの政治家や宗教団体から、
「夫婦同姓は日本古来からの伝統」との声が出てくる。


でもこれは間違いなんです。

日本で夫婦同姓を決めたのは、
明治31年
(1876)の明治民法が初めてで、それ以前は夫婦別姓でした。

この「家制度」により、夫婦は一体だから夫婦同姓は当たり前、
戸主はその家の統率者で、妻は戸主に従属するものとされたのです。

これは権力側にとっては大変便利な制度ではないでしょうか。
だって、国民の管理や財産の把握がしやすくなりますから。

政治家さんたちが今もなお、明治時代の旧弊を押し通そうとするのは、
ひょっとして、
夫婦といえども人格は別ものという論理は重々承知の上で、
国民の管理統制を最優先したいがためなのでは、と勘繰りたくなります。


併設の幼稚園児たちが、無邪気にカクレンボしていました。(モザイク)
ここの祭りの神輿は巨大な陽物。この奇祭は外国人観光客に好評とか。
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でも、国はこうして強制的に個人の家庭に踏み込んでくるけれど、
虐待やDVや貧困には、「民事不介入」を盾に知らん顔なんですよねぇ。

で、ちなみに、

夫婦同姓を法律で義務付けている国は世界で日本のみ。

だから、日本の男女間格差が、
「世界の先進国の中で最低」は、当然の帰結です。

夫婦間の姓ばかりではない。


新設した静岡市の博物館は、相も変わらず「徳川家康」一辺倒で、
「権力者ばかりの歴史」という網野善彦の嘆きは届きませんでした。

こうしてみていくと、人口の9割以上の庶民が築いてきた民間学を捨てさせ、
日本の本当の歴史を消してしまった明治政府の罪は大きい。

おキツネさんまで、この通り。しかしこれには、
古代へつながる深~い歴史があります。ほとんど神話の世界ですが…。
CIMG0832_202303071028150bc.jpg

日本の政治家さんたちに、謹んで「チン情」いたします。

「盃状穴の底の底まで見つめて、庶民の歴史を学び直してちょうだい!」

「それにしても、姫の意外な一面を見た」ですって?

いえいえ、これらの写真の原点は、すべて、
ヨーロッパでは古代神話、日本では古事記、日本書紀の世界のこと。

私の対象はあくまでも「力石」でございます。
(笑)

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ドナーで生まれた子

盃状穴②
03 /15 2023
数回で終わるはずだった「盃状穴」考。

私の悪いクセが出て本題を忘れて、またもや興味は四方八方に。
どこまでいくかわかりませんが、どうぞ、お付き合いください。

子どもにまつわる話から、こんな本も読んでみました。


「ドナーで生まれた子どもたち」
サラ・ディングル (株)日経ナショナル ジオグラフィックス 2022

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作者はオーストラリア人で、ウォークリー賞ほか多数の受賞歴を持つ
オーストラリア協会の調査報道記者兼司会者。

白人の父親と中国系マレーシア人の母親との間に生まれたが、
父親は実父ではない。


つまり、著者のサラ自身が、
「ドナーで生まれた子ども」だったのです。

私はこの本を読むまで、
ドナーとか精子提供とか不妊治療などという言葉は知っていても、
その内実について興味すら持たないままできた。

というか、子供が欲しい人の福音みたいに思っていた。

だが、この本の副題にもあるように、
これが「精子・卵子・受精卵の売買」で、
とても崇高な医療とはいえない内実に、ただただ驚かされた。


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サラは自身がドナーで生まれた子、DC児であることを知って以後、
実父探しに奔走します。


血のつながりがなかった「社会学的父親」は、
サラがDC児であることを知る前に他界。


精子提供を受けた実母は、相手のことなど何ひとつ知らなかったから、
すべてが手探り状態だった。

自分はいったい誰なのか関係先に聞いても、だれもが口を閉ざす。
真実を知りたいと願うDC児は、自分のことなのにいつも蚊帳の外だ。

そうした困難な状況の中で、明るみに出てきたのは、
不妊治療クリニック(国・私立・個人)のずさんな医療記録管理と、
命の売買の汚い実態だった。


サラはそれを、
「ビジネスとして命の過剰生産と、断罪した。

不妊治療を標榜する医療機関では、
一人のドナーから、10人から500人という大量の子どもを作っていた。

担当医が診療の合間に、自分の精液で間に合わせることも多々あった。

こうして愛情とは無縁のコピー人間が大量生産され、
知らぬ間に悪い遺伝子が広範囲に広がり、近親結婚が起きた。
実際、サラの知人がそうだった。


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実父探しを始めて10年後、
サラはついに「生物学的父親」を突き止めた。

彼の告白によると、
当時、3か所の病院で精子を提供。一つの病院だけで200回も提供していた。
その対価は約9000ドルだったという。

まさに、「ビジネスとして命を過剰生産」していたのです。

「全部妊娠に成功したとすると、自分の異母きょうだいは4000人になる」
と、サラは戦慄する。


事実、その後、サラの異母姉妹が次々、判明した。

だが、生物学的父親の精子提供は「4000人」で打ち止めになった。

理由は、エイズが大きく報じられるようになり、
彼はゲイだったため、精子提供を拒まれたからだった。

2019年、サラ・ディングルは国連で、
「命の大量売買」の実態と改善を訴えた。

しかし、本の末尾にこう記している。

「いまだに当事者のDC児は何も知らされず、隠され、
法整備にも反映されていない」と。


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著者のサラは育ててくれた父からの愛情は、しっかり受け止めていたし、
突き止めた生物学的父親には、愛情など感じなかった。

だがそれでも、自分は何者かを知りたかったし、それは権利だと主張した。
だから世間に知らしめた。

「命のビジネス」の暗部と改善を…。


日本ではどうなんだろうか。

「子は宝」と言いながら、
間引き、命の選別、DC児のどれにも共通しているのは、
主役である生まれ出る子どもたちに、選択権も生存権もないということだけ。


考えさせられました。
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占いが決めた命の選別

盃状穴②
03 /12 2023
岩手県・遠野の民俗学者・佐々木喜善は、

「奥州の一部の国には、
生児をくびり殺す風習がなかなか盛んに行われていた」

と「遠野奇談」に書き残している。

「ある家で普請のとき戸口の踏み台の下を掘ったら、
小さい人間の骨が夥しく出た。一斗笊
(ザル)で二つばかりあったという。

これなどは実に極端な例であろうけれども、大概の家々で、
一人やあるいは数人分の小さな骨が出ない処はまずあるまい
と想像されるのである」


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「幼児の遺体は戸口の踏み台や大黒柱の下に埋められた」という記述は、
佐々木以外の民俗誌にも見られることから、
これは佐々木が語る地方だけの風習でなかったことがわかります。

けれど、今までの民俗学誌に載っていたのは、
「病死などで幼くして世を去った子」という話で、
佐々木のいう「人為的に世を去った子」ではなかった。

もしかしたらそう思わされてきただけで、
今では「犯罪」になる「過去の負」を、あえて隠した結果かもしれません。

しかし、
これだけは他の地方ではあまり例がないのではと思える事例があった。


そのことを知らしめてくれたのは、鈴木由利子氏の、
「選択される命」ー子どもの誕生を巡る民俗ー(臨川書店 2021)です。

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著者の綿密な調査で明らかにされたのは、

「子供の生まれる家ではあらかじめ、今度は置くとか置かぬとかの
相談があったようである」という、
子どもの命を生かすか殺すかの選択肢を親が決めていたという事実だった。


貧しさゆえの苦渋の選択かと思ったらそうではなかった。

間引きには「貧しさ」や「障害児だった」という理由が確かにあった。
だがそればかりではなかったことを、この本は明らかにした。

著者は福島県の角田家の当主「藤左衛門日記」から、
こうした裕福な家でも間引きが行われていて、
それをすべて占いで決めていたという驚愕の事実を知り、

そこには「罪悪感」など微塵もなかったことに、さらに驚く。

五体満足に生まれた子を間引く理由はこんなことだったという。

「占いでは男の子のはずが女の子が生まれてしまったから」
「父親である自分の年齢なら、女児が生まれるはずなのに男だったから、
違(たがい)子として押し返した
(間引いた)

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「育てる子」「抹殺する子」いうのは、
母親の胎内にいるときに決め、しかもその決定をするのは、
「占い」だったということに、愚かさと戦慄を覚えます。

現代人から見たられっきとした犯罪ですから、
とても容認できるものでないことは明らかです。

けれど当時は、「生まれて七日間は神の子」と言われ、
「子どもはその神からの授かりものだから不要な子どもは神に返す」
という社会通念があった。

この社会通念から導き出されるのは、
「神に返すだけなのだから、罪の意識は持たなくてもよい」
という意識だったのではないでしょうか。

裕福な角田家の当主・藤左衛門といえども、
いやむしろ、家の存続を第一に考えたそういう家だからこそ、
そんなことは当たり前のことだったのかもしれません。


だからこそ藤左衛門は隠ぺいなどせず、
日記に堂々と書き残しているのでは、と思います。

地元の古老がごく普通に「間引き」を話し、それを聞いた佐々木喜善が、
「家の下から、子どもの骨が出ない家はない」と書いたのだから、
当時は誰もが古老や藤左衛門と同じ認識だったはず。

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しかし、「選択される命」の著者・鈴木由利子氏はいう。

「民俗学の考え方(通説)に、子どもの魂は再生するという考えがあった。
しかし、幼くしてこの世を去った子への思いには再生があるが、
これと、人為的な間引きとは違う」
と。

この罪悪感なしで行われていた「間引き」がようやく終息を迎えたのは、
明治13年(1880)の刑法堕胎罪が施行され、「犯罪」とされた以降だった。


寺社には「間引き戒めの絵馬」が出るようになったという。

民俗学の大家・柳田国男が、調査対象としなかった事例は、
こういう「子殺し」と「性的なこと」だったという。

しかし佐々木喜善は、臆せず書き残した。


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間引き

盃状穴②
03 /09 2023
子宝を授かりたい、無事出産したい、丈夫な子を産みたい…、
今も昔もほとんどの女性が願うことだと思います。

でもその一方で、生まれたばかりの赤ん坊をくびり殺したり踏み殺した、
そういう「間引き」という現実が、かつて確かにあった。

子宝を願うことと生まれた子を殺すこと、
この相反する行為は不可解としかいいようがない。


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さらに驚くべきことに、
「間引き」は罪悪感なしで行われたという。

本当だろうか。
臨月まで自分のお腹で育み、産みの苦しみの果てに生れた我が子です。

その子を殺される、しかも出産直後に。
何の選択も許されない母親には、悲しみと無念さが残ったはずです。


そう思うのは、現代風の見方で短絡的過ぎるからでしょうか。

「遠野奇談」を読んだ。


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「遠野奇談」佐々木喜善・著 石井正巳・編 河出書房新社 2009
佐々木喜善(1886~1933)

著者の佐々木喜善は岩手県・遠野の人。
この人から話を聞いて、民俗学者の柳田国男は「遠野物語」を書き、
これが日本民俗学の先駆けとなった。

佐々木喜善なくして「遠野物語」は生まれなかったし、
柳田なくして「遠野」はこれほどまで世に知られなかった。

だが、のちに佐々木は柳田と対立して東京を去り、
47歳という若さでこの世を去った。

編者の石井氏は本の巻末にこう記している。


「本書には民俗学の主流を行く雑誌に載ったものは一遍もない。
柳田民俗学がアカデミズムに向かうことが最優先されると、
民俗学の先駆者と評価されていた佐々木は次第に忘れられて、
切り捨てられてしまったのです」

「柳田国男が遠野物語で触れなかったもの」の一つ、
「悲惨極まる餓死村の話」を読んだ。

遠野
同上

ここには、佐々木喜善が村の老人たちから聞いた
「奥州における天保年間
(1830~1844)の飢饉のときの惨状」
八編が収録されています。


「飢饉の年、村の薬師社の別当をしていた家の息子が、
腹を空かせて村をうろつくので村人が別当に掛け合ったら、
迷惑を掛けぬよう始末しましょうといい、鉈で殴り殺した」

「飢饉で子連れの女などどこでも雇ってくれず、娘を川に落として殺した」

「捨て子があってもみんな知らん顔で素通りした」

「お腹がすいた母親が乳飲み子の腕を食いちぎって、
口に入れたまま峠で死んでいた」

「子守り娘が、ママ(飯)食いたさに、
主人の赤ん坊の腹を裂いて胃袋の中のものを食べた」

と、どれも地獄絵図を見るような、悲惨極まりない話ばかり。

飢饉は全国的だったからどこでもあったと思うものの、
これほど身近にここまで赤裸々に語られる話は他では出てこない。

こちらは大正9年の世界恐慌から関東大震災、凶作、第二次大戦で、
人々が疲弊していった時代の写真です。


左は青森県「娘を売らずに食える道」部落座談会 昭和9年 影山光洋撮影。
右は「娘を売りたい場合は村役場へ」と呼びかけた看板。昭和5年。

「娘身売り」の横の「健康週間」の張り紙がなんとも…。

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私、思うんですよ。
日本は江戸時代以前から自国の貧困や窮状や負の部分を、
すべて東北地方に押し付けてきたのではないだろうかって。

平安時代には大和朝廷が、
自分に従わない者がいる東北地方へ坂上田村麻呂を派遣(侵略)して、
土地の指導者、アテルイと戦かわせて屈服させた。

権力者は己の権威を高め維持し栄華をむさぼるために、 
常に「根拠のない敵」を作ることで力を誇示してきた。

それは「サタン」や「地獄」を口にする宗教の教祖も同じで、
そうして自分や賛同者以外の人や民族を脅し誹謗し、貶め排除してきた。

こうしたことは、今も変わらないけれど、
東北地方への締め付けは常軌を逸していたのでは、と思えてならない。

さて、佐々木喜善は同著作にもう一つ、気になることを書き残していた。

「昔から奥州の一部の国には、生児をくびり殺す風習が、
なかなか盛んに行われていた」

飢饉の非常時や止むに止まれぬ理由とはまた違った「間引き」。
それを「風習」と呼ぶのはあまりにも酷すぎる。


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命の再生

盃状穴②
03 /06 2023
明治新政府が「迷信禁止令」を出す前まで、
庶民はあちこちの石に穴を穿った。

最も多く開けたのは手水鉢で、そうした穴や溝は今でも各地に残っている。

のちに「盃状穴」と命名されたこの穴は、
子宝や安産祈願のために開けられたと世間に流布していますが、
果たしてそうでしょうか。


ライデン神社1
埼玉県春日部市備後東5‐10‐48 雷電神社

この奇妙な「穴」や「溝」は、なぜ手水鉢に多いのか。
なぜ、手水鉢は特別視されたのか。

その理由の一端を、イラン研究者で神話、歴史学者だった井本英一先生が、
「十二支動物の話」
井本英一 法政大学出版 1999で解説しています。

「西洋の水盤や日本の手水鉢は古くは自然の泉にあたる場所にあり、
そこはあの世とこの世との境界を意味する場所であった」

「イスラエルではこのような境界に、牛の表象が用いられた」
「手水鉢の青銅製の竜はあの世の水である生命の水を吐き出している」


井本英一
この本、すごく面白いです。砂地に水が沁み込むように納得の連続。

さて昔から、生命の誕生は海からといわれてきました。
そういえば、盃状穴のある石造物は海寄りの地域に多い。

当地で私が歩いた範囲で言えば、圧倒的に南に開けた村々にあって、
山間部ではほんの1、2例、沼や川のそばの寺で見つけたくらいだった。

山間部だが沼の近くにある寺の敷石に穿たれた盃状穴
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静岡市葵区南沼上 大安寺

井本先生はしきりに「あの世とこの世の境界」を言う。
そしてそこは「命を再生」する場所だった、と。

私は今まで「命の再生」ということを、サラッと流し過ぎてきました。

そんなこと、不可能に決まっているから、見果てぬ「夢」ではないか、
だって命は自分一代限りのものだもの。

でも、ちょっと立ち止まって考えてみた。

ひょっとして、

人々が「あの世とこの世の境」で、子宝や安産を願ったのは、
子供が欲しいという単なる個人的な願望だけではなく、
もっと別の意味が込められていたのではないか、と。

古今東西、人々は、
「命は繰り返し生まれ変わる」という「輪廻転生」を信じてきた。

とはいえ、
なぜそれほどまでに「繰り返し生まれ変わりたい」と思ったのか、
そして死してのち必ず子孫となって再生すると信じたのか、

サッパリわかりません。

下の写真の石は現在は踏み石ですが、
石の側面に「願主 酒屋内 おかつ」とあるそうです。


酒屋のおかつさんが何を願って奉納したものか、
この状態ではわかりません。


穴や溝は後世の人が開けたものでしょうが、
この様子から、よほどご利益がある石碑だったように思います。

でも今はそれが「踏み石」に。末路が哀れ過ぎます。
雷電神社さんには石を起こして再調査して欲しいと願っています。
面白い発見がありそうですから。
雷電神社
埼玉県春日部市備後東5‐10‐48 雷電神社

「穴と溝」の深みにハマるにつれて私の中で、
「盃状穴は子宝や安産祈願に女性が穿った」
という定説への疑問が出てきました。

定説ではそうなっているけれど、
そんなふうに一括りにするのは間違っているんじゃないのか、と。

市井の女性が穿ったとすれば、それは後世のことであって、
その場合でも主導者は男性ではなかったのか、と思ったんです。

だって、そうでなければ、
古墳から出土した石棺の盃状穴の説明がつきません。

また、
女性の血の穢れを嫌う神域の、しかも手水鉢という神聖な場所に、
妊婦をやすやすと招き入れていたというのも疑問です。

もしそうであれば、
それは巫女という特別な女性にしかできないことだと思うのです。


盃状穴を穿った行為には、もっと根元的で複雑な要素があったはず。

そう思い始めた理由の一つが、
明治中頃まで行われていた「間引き」の風習です。

間引きは罪悪感なしで行われていたという。

子供を授かりたいという気持ちと生まれた子供を殺す「間引き」

次回はそのことに触れていきます。


ーーーお願いーーー

お問い合わせのお返事に関する件です。

拙いこのブログにお目を止めていただき、またお問い合わせを頂戴するなど、
身に余ることで感謝しております。
ただ昨今の諸事情もあり、お返事は個人メールへではなく、
記事のコメント欄にて差し上げることにしております。

どうぞご理解くださり、
そちらでお目を通していただきますようお願いいたします。
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宮司さん、違ってますよ~

盃状穴②
03 /03 2023
境内に立派に保存された上戸田氷川神社の力石ですが、

うーん、残念。置き違いがあります。

その一つが「本町東助」の石です。

元の場所にいたころの「本町東助」の刻字石です。(赤丸)
保存前の上戸田氷川神社3
埼玉県戸田市上戸田3‐20‐11 上戸田氷川神社

新たな設置場所がこちら。
右側の石の説明には「本町東助」とありますが、これ、違うんです。


上戸田氷川保存6

ちなみに、
左の石は「三ノ宮卯之助」「大盤石」です。

卯之助の「大盤石」は、元はここにありました。(赤丸)
保存前の上戸田氷川神社1

さて、問題の右の石です。
札には「資料⑫ 本町東助」となっていますが、
この石は「代地由五郎」が持った石なんです。

最初の写真の「本町東助石」と比べると、違いがはっきりわかります。
「東助石」はその隣の「資料⑬」と書かれた石なんです。

代地由五郎が持った石、もうひとつご覧ください。
下記のへいへいさんのブログから、写真をお借りしました。


「上戸田氷川神社の力石」">「上戸田氷川神社の力石」

「龜遊石 御蔵前代地 由五郎持之」

亀遊ぶ石

「龜遊石」の元の場所はこちら。(赤丸)

保存前の上戸田氷川神社2

そしてもう一つ、説明の札と石があわない箇所がありました。
これには手こずりました。

※斎藤氏やへいへいさんの情報頼みで、うまく把握できなかったのです。
 現地へ行かない弱点が露呈しました。

最初斎藤氏から、
「資料⑤」と「資料⑥」の石は逆に置かれていたと知らされたけれど、
写真がなかったので、
へいへいさんが個別に撮影した写真とにらめっこしたのです。

でも、
石と説明はピッタシで、どこも間違ってはいません。


下の写真は、「資料⑤」「奉納 五拾貫目 上戸田村 八五郎」

斎藤さんに「あってますよー」と伝えても「違ってます」って言うし。??
へいへい50貫目資料

「資料⑥」も、「奉納 五拾貫目余 上戸田 清次郎」で合っています。
ただし、札の「五十貫目余」の「五十」は間違いで、正しくは「五拾」です。

斎藤氏が言う「石の置き違い」ってなんなのよと、
うんうん唸ってハタと気づきました。

去年の斎藤さんのメールにあったひと言を思い出しました。


確かメールに、「へいへいさん、石の置き違いに気づいて、
ご自分のブログ上では正しい説明に置き換えてある」
と。

そういうことだったのか、フーッ

この二カ所の石の置き違いについて、
後日、斎藤氏が町会長さんへお知らせしたとのことなので、
今頃は正しい置き方になっているかと思います。

上戸田氷川保存4

もともとこの神社では力石を大切に扱ってくれていましたが、
新たにこのような立派な居場所を用意してくださったんです。

こうして手を加えつつ時代を越えて後世に伝えていく、
郷土の歴史が生き続けていくってことなんですよね。

私、思うんですよ。


力石ももちろんですが、
道の角にポツネンと立っているお地蔵さんや青面金剛像や道しるべ、
ほこりを被っていようが欠けていようが、
ああして立っていてくださるだけでも有難いって…。


「肥つき石」です。この石に触ると奇病に罹るとの言い伝えがあります。
針金で作った鳥居を供える風習、今も忘れずに奉納してありました。
CIMG5522_202303021929252de.jpg
静岡市葵区

野の花が添えられていたり、赤いヨダレかけが掛けてあったりすると、
見知らぬ人の温かさや優しさがほの見えて、心が和みます。

そして意識しなくても、そこを通るたびにそれが目に入る。
そういうなにげない日常って、
本当はすごく大事なことなのではないでしょうか。


それは大人になってから気づくことだけれど、
だからこそ思うんです。
人に居場所が必要であるように、石造物にも必要だってね。


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雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞