凹石への言及の変遷
盃状穴
盃状穴の集大成ともいえる「盃状穴考」の監修者・国分直一氏は、
本の冒頭で命名について、
「盃状穴という語の最初の採用者は自分ではなかった」と告白している。
国分氏は山口県の古墳の石棺蓋上の穴に「盃状穴」と命名したのち、
江上波夫、木村重信両教授が邦訳したギーディオンの名著(1962)
「The Eternal Present:The Begining of Art」を読んで、
両教授がすでに、
「盃状のくぼみ」「盃状穴」という訳語を与えていたのを知ったという。
「盃状穴考」の中で、率直に、
「この語の最初の採用者は自分ではなく、
この両教授であった」と、明記されていた。
国分先生は正直な方ですね。
石観音堂の手水鉢の盃状穴です。
盃状穴は、
石碑、石段、石橋、鳥居、力石などあらゆる石造物に穿たれていますが、
ダントツなのは「手水鉢」です。

神奈川県川崎市川崎区
この本の中で興味深かったのは、三浦孝一氏の論文です。
氏は、「日本の盃状穴がいつごろ認識されたのか」を調べ、
非常に綿密な報告をされている。
報告によると、最初にこの凹みに注目したのは坪井正五郎で、
明治19年(1886)、東京地学会での「貝塚とは何であるか」の講演だった。
「火徳石に凹みを付けたる器も其用未だ詳らかならず。
木の実を割りたる台という説あれど如何にや。
一塊の石にして数個の凹所あるが如きは他に用あるなし可し」と。
ーーーーー
「火徳石」について、坪井正五郎ゆかりの貝塚がある東京都北区の
飛鳥山博物館・学芸員さんから以下のお返事をいただきました。
「坪井正五郎は、〈火徳石ニ凹ミツケタル器〉は
人工遺物の中の石器に分類していることから、
縄文時代に木の実をすりつぶした石皿であると考えられます。
そして火徳石は、
黒曜石や秩父石(緑泥片岩)とともに、列挙されていることから
石材の一種であると思われます。
しかし、火徳石という名称は現在使用されておらず、
具体的にどの石材を表しているのかは不明です」
ーーーーーーーー
学芸員さんの見解は「木の実をすりつぶした石皿」ですが、
坪井正五郎が「一つの石に数個の凹み」と言っていることが気になります。
石皿の穴はたいてい一つなので。
話を戻します。
明治19年、坪井正五郎により、凹みのある石の報告があり、
明治27年(1894)には、八木奨三郎が「東京人類学会報」に、
「凹石と多凹石には用途の違いがある」と発表。
その2年後、
鳥居龍蔵が「〈窪み石〉あるいは〈蜂の巣石〉と称するものは、
発火補助具に使用したもの」と発表。
ここで、遺跡から出た「凹み石」についての
山梨県埋蔵文化財センターの調査報告書をご紹介します。
日用道具か葬送儀礼に使われたものなのか、
また、先史時代と中近世の「凹み石」にはつながりがあるのかなど、
考古学や民俗学的見地に立って問題提起をしています。
南アルプス市宮沢中村遺跡出土の「凹石」(1994~1996発掘調査)

「宮沢中村遺跡一般国道52号線改築・中部横断自動車道建設に伴う
埋蔵文化財発掘調査報告書」山梨県教育委員会、建設省甲府工事事務所、
日本道路公団東京第二建設事務所 2000
詳細は以下をご覧ください。
「遺跡トピックス」
三浦論文に戻ります。
鳥居龍蔵は30年後の大正15年、前言を翻し、
「凹み石類と蜂の巣石の用途は同一ではない」と発表。
しかし、具体的な言及はなかった。
昭和3年(1928)、八幡一郎は、この穴の石に「多凹石」と命名。
昭和53年(1978)、能登健が「縄文時代の凹穴に関する覚書」で、
「凹石、多凹石は、祭祀、信仰の対象にしたものだろう」と、
初めて考古学に民俗学を加えた記述をしている。
坪井正五郎の発言から100年目の昭和56年(1980)、
国分直一が「性シンボルの象徴で、再生、不滅を目的にしたもの」
と、踏み込んだ見解を示し、
「これは世界中の民族の共通した認識である」と定義付けた。
早くからヨーロッパなどの遺跡や風習に着目し、
「カップマーク」と呼ばれているこの穴に「性穴」と命名した
韓国の黄教授も、
「性穴信仰」について、女性墓に男性器を抽象して彫り、男性墓に女性器
を意味した性穴(盃状穴)を彫刻することで死者の再生を祈願したとし、
「この性穴彫刻には一種の帰元思想があるのでは」とし、
「性穴は決して単純な女性の表示ではなく、信仰と関連した先史時代の
一つのシンボルであるという点については、
ほとんどの学者の一致する意見である」と述べている。
その「性シンボル」の具体的な事例として、
執筆者の一人、柚木伸一氏は、「呪術的象徴の意味を探る」の中で、
長崎県雲仙市吾妻町の剣柄(けんぺい)神社の手水鉢を紹介している。
この神社には社殿を中心に二つの手水鉢があり、
それぞれ陰陽を表しているという。
ひとつは、
「水盤部そのものが「女陰」を象っていて、同時に剣の鍔を表している」
手水鉢の縁に女陰を表す盃状穴を無数に穿ち、
さらに水盤部も、というのは強烈ですね。

写真は「盃状穴考」からお借りしました。
もうひとつの手水鉢は、
「水盤部が男根であると同時に剣の柄を象っている」
ここまでやるかというくらい徹底しています。

同上。長崎県雲仙市吾妻町・剣柄神社
この神社の祭神は、剣の神・タケミカヅチノカミだそうです。
その剣の神と陰陽の手水鉢の関係が気になりますが、
話がややこしくなりますので深入りせず。
でも、こうして見ていくと、
ふだんは何も考えずに見過ごしていた「穴」ですが、まさに、
「なんだ穴かと、”あな”どるなかれ」です。
さて、「盃状穴考」で、日本の盃状穴の歴史を解明して見せた三浦孝一氏は、
同著によると当時、兵庫県在住で、昭和14年生まれ。
株式会社三浦設計工業所代表取締役で、
播磨石造美術研究会会員、加古川流域史学会副会長と紹介されている。
かつて経済界や政治家に郷土史を学ぶ人が多かったが、
今はどうだろうか。
郷土史はじっくり腰を据えてかからなければならないから、
短い文章やネット上の情報だけで「知ったつもりになる」今の風潮には、
合わないのかもしれません。
でも私はずっと、こう思ってきたんです。
新幹線で見る風景と、自分の足で丹念に歩いて見た風景とでは、
情報量も質も別物。
足元の郷土の歴史を知らずして未来は見えてこないって。
ーーーーー
そばつぶさん、文春オンラインに載る
そばつぶさんの真面目な性格を捉えたよい記事です。
写真も好感度抜群で、「あれっ、こんなに男前だったっけ?」って感じ。
「令和の怪力男・そばつぶとは何者か」と題して、
「パート1」
「パート2」
どうぞ、読んであげてください。

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本の冒頭で命名について、
「盃状穴という語の最初の採用者は自分ではなかった」と告白している。
国分氏は山口県の古墳の石棺蓋上の穴に「盃状穴」と命名したのち、
江上波夫、木村重信両教授が邦訳したギーディオンの名著(1962)
「The Eternal Present:The Begining of Art」を読んで、
両教授がすでに、
「盃状のくぼみ」「盃状穴」という訳語を与えていたのを知ったという。
「盃状穴考」の中で、率直に、
「この語の最初の採用者は自分ではなく、
この両教授であった」と、明記されていた。
国分先生は正直な方ですね。
石観音堂の手水鉢の盃状穴です。
盃状穴は、
石碑、石段、石橋、鳥居、力石などあらゆる石造物に穿たれていますが、
ダントツなのは「手水鉢」です。

神奈川県川崎市川崎区
この本の中で興味深かったのは、三浦孝一氏の論文です。
氏は、「日本の盃状穴がいつごろ認識されたのか」を調べ、
非常に綿密な報告をされている。
報告によると、最初にこの凹みに注目したのは坪井正五郎で、
明治19年(1886)、東京地学会での「貝塚とは何であるか」の講演だった。
「火徳石に凹みを付けたる器も其用未だ詳らかならず。
木の実を割りたる台という説あれど如何にや。
一塊の石にして数個の凹所あるが如きは他に用あるなし可し」と。

「火徳石」について、坪井正五郎ゆかりの貝塚がある東京都北区の
飛鳥山博物館・学芸員さんから以下のお返事をいただきました。
「坪井正五郎は、〈火徳石ニ凹ミツケタル器〉は
人工遺物の中の石器に分類していることから、
縄文時代に木の実をすりつぶした石皿であると考えられます。
そして火徳石は、
黒曜石や秩父石(緑泥片岩)とともに、列挙されていることから
石材の一種であると思われます。
しかし、火徳石という名称は現在使用されておらず、
具体的にどの石材を表しているのかは不明です」
ーーーーーーーー

学芸員さんの見解は「木の実をすりつぶした石皿」ですが、
坪井正五郎が「一つの石に数個の凹み」と言っていることが気になります。
石皿の穴はたいてい一つなので。
話を戻します。
明治19年、坪井正五郎により、凹みのある石の報告があり、
明治27年(1894)には、八木奨三郎が「東京人類学会報」に、
「凹石と多凹石には用途の違いがある」と発表。
その2年後、
鳥居龍蔵が「〈窪み石〉あるいは〈蜂の巣石〉と称するものは、
発火補助具に使用したもの」と発表。
ここで、遺跡から出た「凹み石」についての
山梨県埋蔵文化財センターの調査報告書をご紹介します。
日用道具か葬送儀礼に使われたものなのか、
また、先史時代と中近世の「凹み石」にはつながりがあるのかなど、
考古学や民俗学的見地に立って問題提起をしています。
南アルプス市宮沢中村遺跡出土の「凹石」(1994~1996発掘調査)

「宮沢中村遺跡一般国道52号線改築・中部横断自動車道建設に伴う
埋蔵文化財発掘調査報告書」山梨県教育委員会、建設省甲府工事事務所、
日本道路公団東京第二建設事務所 2000
詳細は以下をご覧ください。
「遺跡トピックス」
三浦論文に戻ります。
鳥居龍蔵は30年後の大正15年、前言を翻し、
「凹み石類と蜂の巣石の用途は同一ではない」と発表。
しかし、具体的な言及はなかった。
昭和3年(1928)、八幡一郎は、この穴の石に「多凹石」と命名。
昭和53年(1978)、能登健が「縄文時代の凹穴に関する覚書」で、
「凹石、多凹石は、祭祀、信仰の対象にしたものだろう」と、
初めて考古学に民俗学を加えた記述をしている。
坪井正五郎の発言から100年目の昭和56年(1980)、
国分直一が「性シンボルの象徴で、再生、不滅を目的にしたもの」
と、踏み込んだ見解を示し、
「これは世界中の民族の共通した認識である」と定義付けた。
早くからヨーロッパなどの遺跡や風習に着目し、
「カップマーク」と呼ばれているこの穴に「性穴」と命名した
韓国の黄教授も、
「性穴信仰」について、女性墓に男性器を抽象して彫り、男性墓に女性器
を意味した性穴(盃状穴)を彫刻することで死者の再生を祈願したとし、
「この性穴彫刻には一種の帰元思想があるのでは」とし、
「性穴は決して単純な女性の表示ではなく、信仰と関連した先史時代の
一つのシンボルであるという点については、
ほとんどの学者の一致する意見である」と述べている。
その「性シンボル」の具体的な事例として、
執筆者の一人、柚木伸一氏は、「呪術的象徴の意味を探る」の中で、
長崎県雲仙市吾妻町の剣柄(けんぺい)神社の手水鉢を紹介している。
この神社には社殿を中心に二つの手水鉢があり、
それぞれ陰陽を表しているという。
ひとつは、
「水盤部そのものが「女陰」を象っていて、同時に剣の鍔を表している」
手水鉢の縁に女陰を表す盃状穴を無数に穿ち、
さらに水盤部も、というのは強烈ですね。

写真は「盃状穴考」からお借りしました。
もうひとつの手水鉢は、
「水盤部が男根であると同時に剣の柄を象っている」
ここまでやるかというくらい徹底しています。

同上。長崎県雲仙市吾妻町・剣柄神社
この神社の祭神は、剣の神・タケミカヅチノカミだそうです。
その剣の神と陰陽の手水鉢の関係が気になりますが、
話がややこしくなりますので深入りせず。
でも、こうして見ていくと、
ふだんは何も考えずに見過ごしていた「穴」ですが、まさに、
「なんだ穴かと、”あな”どるなかれ」です。
さて、「盃状穴考」で、日本の盃状穴の歴史を解明して見せた三浦孝一氏は、
同著によると当時、兵庫県在住で、昭和14年生まれ。
株式会社三浦設計工業所代表取締役で、
播磨石造美術研究会会員、加古川流域史学会副会長と紹介されている。
かつて経済界や政治家に郷土史を学ぶ人が多かったが、
今はどうだろうか。
郷土史はじっくり腰を据えてかからなければならないから、
短い文章やネット上の情報だけで「知ったつもりになる」今の風潮には、
合わないのかもしれません。
でも私はずっと、こう思ってきたんです。
新幹線で見る風景と、自分の足で丹念に歩いて見た風景とでは、
情報量も質も別物。
足元の郷土の歴史を知らずして未来は見えてこないって。
ーーーーー

そばつぶさん、文春オンラインに載る
そばつぶさんの真面目な性格を捉えたよい記事です。
写真も好感度抜群で、「あれっ、こんなに男前だったっけ?」って感じ。
「令和の怪力男・そばつぶとは何者か」と題して、
「パート1」
「パート2」
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