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凹石への言及の変遷

盃状穴①
01 /30 2023
盃状穴の集大成ともいえる「盃状穴考」の監修者・国分直一氏は、
本の冒頭で命名について、

「盃状穴という語の最初の採用者は自分ではなかった」と告白している。

国分氏は山口県の古墳の石棺蓋上の穴に「盃状穴」と命名したのち、
江上波夫、木村重信両教授が邦訳したギーディオンの名著(1962)
「The Eternal Present:The Begining of Art」を読んで、

両教授がすでに、
「盃状のくぼみ」「盃状穴」という訳語を与えていたのを知ったという。

「盃状穴考」の中で、率直に、

「この語の最初の採用者は自分ではなく、
この両教授であった」
と、明記されていた。

国分先生は正直な方ですね。


石観音堂の手水鉢の盃状穴です。
盃状穴は、
石碑、石段、石橋、鳥居、力石などあらゆる石造物に穿たれていますが、
ダントツなのは「手水鉢」です。
石観音
神奈川県川崎市川崎区

この本の中で興味深かったのは、三浦孝一氏の論文です。

氏は、「日本の盃状穴がいつごろ認識されたのか」を調べ、
非常に綿密な報告をされている。


報告によると、最初にこの凹みに注目したのは坪井正五郎で、
明治19年(1886)、東京地学会での「貝塚とは何であるか」の講演だった。

「火徳石に凹みを付けたる器も其用未だ詳らかならず。
木の実を割りたる台という説あれど如何にや。
一塊の石にして数個の凹所あるが如きは他に用あるなし可し」と。


ーーーーー

「火徳石」について、坪井正五郎ゆかりの貝塚がある東京都北区の
 飛鳥山博物館・学芸員さんから以下のお返事をいただきました。

「坪井正五郎は、〈火徳石ニ凹ミツケタル器〉は
人工遺物の中の石器に分類していることから、
縄文時代に木の実をすりつぶした石皿であると考えられます。

そして火徳石は、
黒曜石や秩父石(緑泥片岩)とともに、列挙されていることから
石材の一種であると思われます。

しかし、火徳石という名称は現在使用されておらず、
具体的にどの石材を表しているのかは不明です」 

ーーーーーーーー

学芸員さんの見解は「木の実をすりつぶした石皿」ですが、
坪井正五郎が「一つの石に数個の凹み」と言っていることが気になります。

石皿の穴はたいてい一つなので。


話を戻します。
明治19年、坪井正五郎により、凹みのある石の報告があり、

明治27年(1894)には、八木奨三郎が「東京人類学会報」に、
「凹石と多凹石には用途の違いがある」と発表。


その2年後、
鳥居龍蔵が「〈窪み石〉あるいは〈蜂の巣石〉と称するものは、
発火補助具に使用したもの」と発表。


ここで、遺跡から出た「凹み石」についての
山梨県埋蔵文化財センターの調査報告書をご紹介します。


日用道具か葬送儀礼に使われたものなのか、
また、先史時代と中近世の「凹み石」にはつながりがあるのかなど、
考古学や民俗学的見地に立って問題提起をしています。


南アルプス市宮沢中村遺跡出土の「凹石」(1994~1996発掘調査)
宮沢遺跡
「宮沢中村遺跡一般国道52号線改築・中部横断自動車道建設に伴う
埋蔵文化財発掘調査報告書」山梨県教育委員会、建設省甲府工事事務所、
日本道路公団東京第二建設事務所 2000

詳細は以下をご覧ください。
「遺跡トピックス」

三浦論文に戻ります。
鳥居龍蔵は30年後の大正15年前言を翻し、
「凹み石類と蜂の巣石の用途は同一ではない」と発表。
しかし、具体的な言及はなかった。


昭和3年(1928)、八幡一郎は、この穴の石に「多凹石」と命名。

昭和53年(1978)、能登健が「縄文時代の凹穴に関する覚書」で、
「凹石、多凹石は、祭祀、信仰の対象にしたものだろう」と、
初めて考古学に民俗学を加えた記述をしている。


坪井正五郎の発言から100年目の昭和56年(1980)、
国分直一が「性シンボルの象徴で、再生、不滅を目的にしたもの」
と、踏み込んだ見解を示し、
「これは世界中の民族の共通した認識である」と定義付けた。

早くからヨーロッパなどの遺跡や風習に着目し、
「カップマーク」と呼ばれているこの穴に「性穴」と命名した
韓国の黄教授も、


「性穴信仰」について、女性墓に男性器を抽象して彫り、男性墓に女性器
を意味した性穴(盃状穴)を彫刻することで死者の再生を祈願したとし、
「この性穴彫刻には一種の帰元思想があるのでは」とし、


「性穴は決して単純な女性の表示ではなく、信仰と関連した先史時代の
一つのシンボルであるという点については、
ほとんどの学者の一致する意見である」と述べている。

その「性シンボル」の具体的な事例として、
執筆者の一人、柚木伸一氏は、「呪術的象徴の意味を探る」の中で、
長崎県雲仙市吾妻町の剣柄
(けんぺい)神社の手水鉢を紹介している。

この神社には社殿を中心に二つの手水鉢があり、
それぞれ陰陽を表しているという。


ひとつは、
「水盤部そのものが「女陰」を象っていて、同時に剣の鍔を表している」
手水鉢の縁に女陰を表す盃状穴を無数に穿ち、
さらに水盤部も、というのは強烈ですね。
剣柄神社・手水鉢女陰
写真は「盃状穴考」からお借りしました。

もうひとつの手水鉢は、
「水盤部が男根であると同時に剣の柄を象っている」
ここまでやるかというくらい徹底しています。
剣柄神社手水鉢男根
同上。長崎県雲仙市吾妻町・剣柄神社

この神社の祭神は、剣の神・タケミカヅチノカミだそうです。
その剣の神と陰陽の手水鉢の関係が気になりますが、
話がややこしくなりますので深入りせず。


でも、こうして見ていくと、
ふだんは何も考えずに見過ごしていた「穴」ですが、まさに、

「なんだ穴かと、”あな”どるなかれ」です。

さて、「盃状穴考」で、日本の盃状穴の歴史を解明して見せた三浦孝一氏は、
同著によると当時、兵庫県在住で、昭和14年生まれ。

株式会社三浦設計工業所代表取締役で、
播磨石造美術研究会会員、加古川流域史学会副会長と紹介されている。

かつて経済界や政治家に郷土史を学ぶ人が多かったが、
今はどうだろうか。


郷土史はじっくり腰を据えてかからなければならないから、
短い文章やネット上の情報だけで「知ったつもりになる」今の風潮には、
合わないのかもしれません。

でも私はずっと、こう思ってきたんです。

新幹線で見る風景と、自分の足で丹念に歩いて見た風景とでは、
情報量も質も別物。

足元の郷土の歴史を知らずして未来は見えてこないって。


ーーーーー

そばつぶさん、文春オンラインに載る

そばつぶさんの真面目な性格を捉えたよい記事です。
写真も好感度抜群で、「あれっ、こんなに男前だったっけ?」って感じ。


「令和の怪力男・そばつぶとは何者か」と題して、

「パート1」

「パート2」

どうぞ、読んであげてください。

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「盃状穴考」を読んで

盃状穴①
01 /27 2023
「盃状穴考」という本は、盃状穴の集大成ともいえる論文集です。

監修は、
山口県の神田山古墳の石棺蓋上に穿たれていた穴に「盃状穴」と命名した
国分直一教授。

その国分氏を含め、日本と韓国の考古学、民俗学、民族学、歴史学の
10人の研究者によって編まれています。

この本が出版されてからすでに33年。

以降、盃状穴のことは研究者の間では忘れられ、
またこの本自体も所蔵館が少なく、
静岡県では県立図書館のみに一冊というのが現状です。

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「盃状穴考」国分直一監修 国領駿、小早川成博編集 慶友社 1990

近頃は公共図書館にまで企業原理が入り込み、
地味な本は買わず、借り手のない本は捨てられる。

バカじゃないかと思う。


図書館や博物館こそ専門知識のある人を長く手厚く雇うべきなのに、
パートで使い捨てる。上司には専門知識もない役所の定年退職者が付く。


※今でも忘れられない光景があります。
市内で一番大きい図書館に行ったら、受付カウンターに靴のまま足を乗せて
ふんぞり返っていた男がいた。天下ってきた新館長だった。

図書館の蔵書や博物館の所蔵品は、
この国の精神的根幹を守り伝えるもの。それをないがしろにするとは、

この国を亡ぼす気か!

と、私は本気で怒る。もちろん為政者に。

国分氏は本の序に、こう書いています。

「盃状穴をめぐる問題に強い関心を注いでくださっているのは、
むしろ野にあって、それ故、かえって
新鮮な問題意識を持っておられる研究者の方々であるように思われる。
これらの方々は何ら権威意識をお持ちでないから、
そんなものに妨げられない」

今はその33年前よりもっと深刻な状況ではないでしょうか。

なんでも「金」の世の中で、人の価値も「金に換算する」世の中で、
金さえ貢げば地獄へ落ちないなんてカルトに夢中になる人さえ出てくる。

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金のある者はまるで人格者ででもあるかのように振る舞い、見られる。

企業であれ芸術家であれ、利益を生まないものはことごとく捨てられるから、
長いスパンで物事を考える人や組織は成り立たなくなった。

「利益を生まない」力石や盃状穴なんてその最たるものだから、
ちぃっと説得力に欠けるけど、でも私はこうしたモノたちこそ尊いと思う。

金では買えない「心」や「文化」や「誇り」を生み、歴史を紡いでいくから。

だって、私たち、人間なんだもの。


弁当の無人販売所に監視カメラを置く。
そのあげく、弁当が盗まれたと騒ぐ。
なぜ直接、客に対応しないのかと私は思う。

わざわざ、窃盗を勧めているようなものではないか、と。

スーパーのレジで交わすたった一言の会話に、
独居老人は一日中、幸福感に包まれる、


そういう人間心理を忘れてはいけないと私は思う。

「さいとくさん」 玉垣の中に無数の盃状穴が穿たれた石が祀られている。
「歳徳神」(としとくじん)はあるけれど、「さいとくさん」? 
と、ちょっと疑問が生じたので、ただいま姫路市に問い合わせ中です。
さいとくさん
兵庫県姫路市別所町佐土・「祭祀盃状穴」。「盃状穴考」よりお借りしました。

「無駄」という円滑油を捨て去ったら、人は擦り切れてしまいます。

石っころに願を掛ける、お正月には潮水で身を清める、
元を訪ねれば、古代からの歴史・習俗につながっていく。

昔はこれを「アイディンティティ」なんて言った。


日本の優秀な研究者はどんどん海外に出て行くというニュースを読んだ。

そうした研究者を受け入れる国は、
「無駄の中にこそ、価値あるものがあるはず」と考え、
「長いスパンで物事を考えることを大切にしている」のだと思います。

そこには、夢があります。希望があります。

「短いスパン」でしか物事を考えられない今の日本は、
目先ばかり気にした非常に刹那的な国のように思えるのです。


いえ、明治初年からこうした短絡的な、
いつも他人の目を気にして行動する国民性は何も変わっていない。


明治政府は、西洋は文明国、日本は野蛮国と自ら卑下し、
風俗を取り締まる「違式詿違
(いしきかいい)条例」を施行した。

ビゴーが描いた風刺画「日本人の猿真似」
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確かに、野蛮で陳腐で人の道にはずれた風習は山ほどあった。
でも、取捨選択が苦手なのか、旧時代のものは何もかも否定。

このとき、廃仏毀釈、文化財破壊、民俗的風習の禁止の嵐が吹き荒れ、
錦絵も仏像も名画も美術品も大量に海外に流出した。


盃状穴から、大きく逸れました。
でも言わせてください。

研究者や企業の海外流出、壊滅的食料自給率、荒れた山林、
放置された田畑、貧困者や自殺者の増加、自暴自棄になる若者たち、
そして、
子供を産めない厳しい状況…。


そうした自国の国民には目もくれず、
ジャイアンの腰ぎんちゃく・スネ夫の如く、大国の親分にヘラヘラ。

「男女格差は先進国中、最下位」を恥じず、
気がつけば身の回りから「made in japan」が消えている、

そういうことに平気でいられる政治家たちに、

私は、


力石を担がせたい!

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「どうだ、これが国民の苦しみの重みなんだぞ!」

「そういう力石も担げねぇ奴は、
政界からとっとと去りやがれ!」


ってね。(笑)

でもねぇ、この前、スネ夫クンが言ったんだってね。
「国民は自ら重みを背負え!」って。

ダメだ、こりゃ。アベコベじゃん。ああ…。


問題のある、しかも他国の団体と知りながら票欲しさに媚びる議員や、
パパ活、年金未納、国会欠席、わけのわからん未熟者まで「議員さま」とは、
ここまで日本人は劣化したか。今や国会は”無法地帯”か。(*`へ´*)

ベトナム製の痩せるゼリーを食べたら、違法薬物入りで、
深刻な健康被害が出た」とか。どうやら日本人をターゲットにしたようで。

現地でそれを作っていたのが太ったおばさんというのもふざけた話だが、
そういうベトナム人から、投げつけられた言葉が、
「お前ら日本人はバカ過ぎる」だったそうで…。

でもホントにその通りだよ。

ああ、いつになく怒りが四方八方に…。
気を取り直して次回から、「盃状穴」、真面目に綴ります。


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欲がないからストレスがない

書籍
01 /25 2023
読書の話のついでに、この本もご紹介します。

「過疎の山里にいる普通なのに普通じゃない すごい90代」

表紙のご老人、いいですね。
こんな笑顔でいられたら、本当に幸せ!

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場所は静岡県の西部、浜松市天竜区春野町。
著者は池谷 啓氏。

40年の東京暮らしからこの山里に移住した著者、

「山里に暮らすのはお年寄りばかり。でもとにかく元気。
80代、90代で現役で仕事をし、自立して暮らしているのにびっくり」

この本は、そんな「すごい90代」の大先輩たちに密着、
どこまでも自然体のさわやかな人生を写真と文で紹介した記録です。


著者の説明によると、春野町はこんなところ。

「東京23区の4割ほどの広さに3500人ほどが住む。
過疎高齢化が著しく、この10年で人口減少率は3割近い」

私も、登山、新聞の取材、力石の調査、神楽や歌舞伎、人形劇大会にと、
この辺りにはよくおじゃましました。飯田線にも何度か乗りました。

山深いところですが、南北朝期にはその舞台になるなど、
歴史、民俗事例の宝庫でもあります。


この本には、
99歳の商店主を始め林業家、和紙職人、鍛冶屋など10人が登場。

山奥のポツンと一軒家の古民家で暮らすご夫婦は95歳と94歳。

ある日、妻が畑から帰ってきたら、朝は元気だった夫の息がない。
その半年後、妻も逝った。
二人は「今あるもので満ち足りる」生き方をしていた。

「欲がないからストレスがない」
「毎日やることがある」
「人に喜んでもらえることをする」


そういう教訓を残したと著者はいう。

そして巻末にこう記していた。


「今日、することがある」こと。そして、それを「自ら生み出す」こと。
それこそが人生100年時代の鍵だろう、と。

※参考文献
「過疎の山里にいる普通なのに普通じゃない すごい90代」
池谷 啓 すばる舎 2022 

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遅まきながら、「高倉健」③

書籍
01 /22 2023
高倉健はエッセイ「あなたに褒められたくて」の中で、
さらに古い先祖のことに言及していた。

俳優の萬屋錦之助にすすめられて、
「相模湾の藍色が、視界いっぱいに広がって美しい墓地」を買い、
いずれ自分もここに入るつもりで、
江利チエミとの間にできた亡き水子の墓を建てたという。

※しかし高倉没後すぐ壊され、更地にされてしまったそうで…。(;_;)

そこは鎌倉霊園といい、そのそばに宝戒寺という寺があった。

「宝戒寺といえば、僕の遠い先祖が、一族門葉のもの八百余人とともに
自害して果てた寺であることを、数年前、父の生家「小松屋」に残る
古文書を読んでいて知ったことを思い出した」

そこで寺を訪ねて、家系図の一番最初にあった名、
「苅田式部大夫篤時」の名前を言ったら、
ご住職が「あっ」という顔をしたという。


ご住職が出してくれた古い過去帳にもその名が記されていた。

高倉健の先祖は鎌倉幕府執権の北条氏に仕えた武士で、
この宝戒寺は北条氏の館があったところだという。

エッセイによると、

元弘三年(1333)、新田義貞軍の鎌倉攻めで、
先祖の篤時を含め、一族郎党八百余人は自害。


このとき、篤時三十四歳。

篤時の子供は鎌倉から逃げて西へ向かい、岡山を経て山口へ。
そこで大内氏に仕えたが、その後、大内氏が滅亡したため、
今度は七歳、四歳、三歳の子供を伴って北九州へ逃げのびて、
そこに居を構えた。


のちに筑前国黒田藩主から名字帯刀を許されて「小田」姓を名乗り、
両替屋「小松屋」を営んだ。

その何代かのちに出たのが歌人・小田宅子で、その五代あとの子孫が、
俳優・高倉健ということなのだが、いやはや、すごい。

「小説より奇なり」ではなく、「映画よりドラマティック」ではないですか。

高倉はエッセイの中で、「ぼくは普通の人間です」と主張するが、
鎌倉武士や歌人・宅子から受け継いだDNAは確実に高倉の中にあって、
それに高倉自身の個性が練り込まれて、熟成を重ねてきたはずなのだ。


その非常に良質で細やかな遺伝子は、高倉の対人関係にも表れる。

「旅の途中で」(新潮社 2003)には、
ロケ地で知り合った幼い女の子や西表島のダイバーの青年、
若き刀匠との心温まるやり取りが綴られている。


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そしてそこには、相手からのふとした言葉に耳を澄ませて感動する、
そんな高倉健がいる。

滞在中の石垣島では小中校生15名ほどの小さな運動会を見た。
村中総出の運動会で、
じいちゃんばあちゃんが縄をどれだけ長く編めるか競争していた。


それを見ていた高倉は、
「戦後の日本は、金を掛けたものが心がこもっていると思ってきたが、
本当にそうなのか」と、わが身を振り返り、

「それに比べると石垣島の運動会はとっても温かい、熱い」と感動して、
「思わず、一生懸命、手が痛くなるほど叩いていました」と綴る。

「ぼくは無口な男、寡黙な奴と言われるが、
自分ではそんな風に思ったことはない。不器用とか無愛想とか寡黙とか、
映画の役柄からそういうイメージがあるんだと思います」

そしてこんなことも。

少年の日、一番の親友と密航を企てたが叶わず。
親友はのちに検事正となり、国連刑事局議長になったが、
付き合いはずっと続いた。

明治大学の学生の頃は、下宿のワル仲間と遊郭へ行った。
みんな金がないから時計や布団を質にいれて工面した。


そんな青春時代の話も、赤裸々に語る。

「高倉健インタヴューズ」(文・構成 野地秩嘉 プレジデント社 2012)に、
編者によるこんな一文があった。

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「カッコつけない真心がそのまま表れているインタビューがある。
亡くなった元妻の江利チエミについて語ったものだ」

高倉はチエミとの結婚の前年、
生まれて初めて買った新車ベンツに新妻を乗せた。

そしたら途中で、
「下ろして。あなたが走っているところを見たいから」と。

今度は道に立つ新妻の前を行ったり来たり走った。
すると新妻は拍手をする。

「かっこいいよ!」って。

そんな妻を見てこう思ったと、インタビューで答えている。
「可愛いなぁと思いました。この女のためなら、なんでもできるなぁと」

エッセイに「いい人との出会いは人生の宝物」と書いていた高倉健。
その「いい人」と、天国で久々に再会したに違いない。

もしかしたらチエミさん、いたずらっぽく言ったかも。

「あなたの終わり方、ちょっと不器用で無愛想だったわねぇ」

遅まきながらのファンになった私は、そんな思いに駆られた。
そしてこんなことも思った。

高倉健に子供を持たせたかったな。

毎年、先祖の墓参りを欠かさず、何よりも「血」のつながりを重んじたと、
エッセイにも書いているほどだから。

もし子供がいたら、どんなお父さんになったか、
それが映画や人生にどう反映したか見てみたかった、と。


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遅まきながら、「高倉健」②

書籍
01 /19 2023
田辺聖子さんの「姥ざかり 旅の花笠」を読んだ。

これは筑前の商家の内儀・小田宅(いえ)子の旅日記「東路日記」を下敷きに、
その旅の足跡を丹念にたどった労作で、
田辺さん独特の巧みな筆力にぐいぐい引き込まれていった。

ただ、関西人特有?の「こってり感」に、「胃もたれ気味」にもなった。


天保12年閏正月16日、
宅子は歌人仲間の女性4人と筑前・上底井野村
(福岡県中間市)を出立。
そのとき宅子、53歳。4人とも50代前後の商家のお内儀さん。

そんな「姥ざかり」たちが下男3人を供に連れ、

九州から日光まで、5か月間(144日)、800里の旅をした。
しかもその旅は、
手形を持たない抜け参りというのですからたまげました。


もっとも、江戸末期のころは関所の抜け道は半ば公然。
幕府設置の関所は厳しいから、女性の旅人は「抜け道」を利用した。

旅のほとんどは徒歩で、一日、7里半から10里もの道を歩き、
時には単独で別ルートをとるなど、
現代女性も顔負けの自己主張と行動力を示します。

※1里は約4キロ

これを田辺さんはこう表現していた。

「和して同ぜずの人間的車間距離が感じられる」と。

彼女たちは行く先々で歌を詠み、名所旧跡をもれなく訪ね、
富士のお山に感嘆。
「ここまで来たらあそこへ寄らなくちゃ」と、欲が出ることもしばしば。


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舟で乗り合わせた会津の人たちと、
お国自慢の歌を披露しあって楽しんだことも。

日光見物のあとは、いよいよ「生涯一度の大江戸見物」へ。

「お江戸は喧騒のるつぼ」と驚くも、芝居や江戸城見物、有名寺院巡りと、
精力的に動き回り次々と新たな感動と知識を吸収していく。


著者の田辺氏がたびたび文中で賞賛していたのは、
「小田宅子」とその仲間の知識の豊富さ、教養の高さだった。

田辺さんは彼女たちの歌の端々や名所旧跡の歴史の詳しさから、
本居宣長、万葉集、古事記、伊勢物語、西遊記、西行のこと、
源氏物語や平家物語などの古典、歌舞伎に至るまで、

「日ごろから読み込んでいる」と、驚嘆する。


そして、こうも言う。
「現代(いま)風にいえば宅子さんの旅は、さながら自分の体で古典する」と。

田辺さんはうまいことを言う。

著者は本のあとがきにこう記している。

「宅子さんは俳優・高倉健さんの五代前の人である。
そもそも「東路日記」は、高倉さんが、

〈うちの先祖の人が、こういう手記をものしているが、
これをわかりやすく読めるようにならないものだろうか、面白そうだけれど〉

と、イラストレーターの福山小夜さんに示され、集英社の池氏経由で
私に紹介されたもので、この本を読み解くことになった」

宅子の五代後の子孫、高倉健さんも先祖に負けず劣らずの旅好きで読書家。

ただ、違うのはお酒。

宅子はお酒が大好きでしかも強い。宿では必ずお銚子を頼み、
「酒は皺伸ばし」と言いつつ、楽しんだそうだが、
子孫の健さんは下戸だったそうで…。

さて、道中、落伍者もなく誰もが意気軒高。

「ここまで来たら、善行寺さんへ寄らねば」と、悪路の峠越えに挑んだ。
思いのほか険阻でその上雨も降り出して難儀するものの、
「まるで乞食(ほいと)の一座でごたる」と冗談が口をついて出る。

「若い時の苦労は買うてもせぇち、いうじゃござっせんな」と誰かが言えば、
「そげんたいねぇ、みんな気は若いき」と、姥ざかりたちは笑い飛ばす。

板屋根に丸石を乗せた家を見て奇異の思いをしたり、
髪は伸び放題で破れた布切れを巻いただけの「猿」の如き村人を見て、
カルチャーショックを受けつつも、ようやく善光寺に辿り着いた。

早速、宅子は如来様に手を合わせ、亡き父母と亡きわが子に語りかけた。
実は宅子の善光寺詣りはこれで2度目。最初の参詣は20年前だったという


高倉健がこの宅子のことを知ったのは、
福岡女子大学の前田淑教授からの手紙からだったという。


彼は「あなたに褒められたくて」(集英社 1991)に、こう記している。

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「その手紙を読みながら、長年ぼくの中でくすぶっていた謎ともいえない謎、
気がかりだったことの一つが、すーっとほどけていくような気がした」


「ぼくの本名が小田であり、宅子の子孫であることはまぎれもない事実であり、
そしてぼくが三十年来、善行寺に惹かれ続けていることと、
宅子の二度にわたる善行寺参詣との間には、
「血」を感じないわけにはいかないのだ」

そして高倉は毎年節分の日に善行寺へ通い、参詣人がいなくなった夜中、
雪の舞う寒風の中に立って手を合わせたという。


「ぼくは行かなくてはすまなくなった。どんな忙しいときでも、
この日だけは無条件で善光寺を目指した」

「理屈ではなく、祖先の霊とぼくの魂とが呼び合っていたのかもしれない。
宅子おばあさんとぼくが、善行寺を通して結ばれていたのだ」


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遅まきながら、「高倉健」①

書籍
01 /16 2023
ここでちょっと横道に 読書の話

       ーーーーー◇ーーーーー

「高倉健」という俳優さんがいた。

周囲には思慕して止まない熱烈なファンが多かったが、
私は何も感じなかったから、
みなさん、なんでこうも夢中になるのか不思議に思っていた。

私は任侠ものは嫌いだったし、
さらに、世間に流布していた「寡黙で不器用な男」というイメージに、
なんちゅうキザな男かとも思っていた。


ところが昨年、そんな思いが吹っ飛んだ。
笑われるでしょうが、没後8年にして私はファンになった。


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「高倉健インタヴューズ」文・構成 野地秩嘉 プレジデント社 2012

きっかけはたわいないものだった。

図書館の本を検索していたとき、
ふと、

「高倉健 七つの顔を隠し続けた男」(森功 講談社 2017)が目に留まり、
たまにはこういう本も読んでみるか、と。

読み始めて、胸糞悪くなった。

著者が言う「七つの顔」はよくわからなかったし、
最期を看取ったのは、親族もその存在を知らなかった養女というくだりや、
亡くなったことも身内に知らせなかったという異常な状況。

そしてそれが高倉本人の希望だったという記述に、
肉親をそこまで粗末にする人だったのかと憤慨したりした。

本によれば遺産は約40億円で、そのすべてが養女に渡ったという結末に、
これまた三文ミステリーを読んでいる気分になった。


「健さんは高級時計のロレックスを取り巻きに気前よくあげてしまう」
とも書かれていたから、ならば80代では使いきれないその遺産も、
例えば、
国境なき医師団や貧困家庭の子供たちなどへの社会貢献として還元する、
そういう考えになぜ至らなかったのか。

高倉健は死の前年、文化勲章を授与された。


そういう方ならなおさら、無償の愛による社会への還元は、
有終の美を飾るに最もふさわしい、究極の「男の美学」ではないかと。

まあもっとも、他人が口をはさむのは余計なお世話なんだけど、
とにかく、がっかりしたことは否めない。


ただ、その本の中にこんな箇所があった。
そこだけがキラリと光っていた。

「高倉健の江戸時代の先祖に女流歌人がいて、
50代の時、女友だち4人と5か月間、居住地の福岡県から日光、江戸、
さらに長野・善光寺まで800里の旅をした。

その旅のつれづれに歌を詠み、旅日記「東路日記」を残した。
それを田辺聖子氏が本に書いた」


img20230104_21223800.jpg
集英社 2001

高倉健はその先祖を誇りにし、自身も「善光寺へ31回も詣でた」とあった。

健さんファンになったのは、肝心の映画でなかったのは心苦しいけれど、
私はこの部分にたちまち魅了された。

俳優・高倉健の根っこを見たくて、私はすぐ田辺聖子さんの本、

「姥ざかり 花の旅笠ー小田宅(いえ)子の「東路日記」-」
(集英社 2001)を借りてきた。

ご先祖は「小田」姓で、高倉健の本名も「小田」

この人には小田宅子の血が流れている。
だから文学的センスや感性をも引き継いでいるはずだ。

それが俳優・高倉健の真ん中にあって、
人々を魅了してきた素地の一つだったのではないか。


彼は「他人」に作られた俳優ではなかったんだ。

そう思ったら、この人のことをもっと知りたくなって、
エッセイなどをできるだけ読んでみた。


「高倉健は〈高倉健〉という肩書を重要視していない」

これは、
「高倉健インタヴューズ」(プレジデント社 文・構成 野地秩嘉 2012)
の中で、風間克二という広告制作会社プロデューサーが漏らした言葉です。
肩書より人間として、人に接したということだろうか。

また、
「彼はマネージャーを持たない。ロケも打ち合わせも一人でやる」とも。
あいだに人をはさむと真意がまっすぐ伝わらないからだという。

それを裏付けるように、彼自身がこう語っている。

「中国のチャン監督に乞われて、ロケ地の雲南省麗江へ一人で出かけた」

「出演者は全員現地の素人だったが、理解しようと努めた。
だが言葉がわからない。
日本語や英語だとどこでセリフが終わるかわかるが、中国語だと掴めない。
そこで通訳に、監督が言ったこと、相手役が呟いたこと、スタッフの独り言も
すべて通訳して欲しいと頼んだ」。


そこで高倉健は、こんなことを悟ります。

「俳優の仕事とはセリフ回しのうまさでもないし、表情を作ることでもない。
監督が何を考えているのかを理解するのが、俳優の仕事だ」。

彼はいつも単独で世界中を旅した。そのどこででも人と仲良くなった。
現地で知り合った小学生とも手紙のやり取りをした。

そしてエッセイの中で、こうつぶやく。

「人間っていいなあ。人生って捨てたもんじゃないなあ」

彼が綴った文章の行間から垣間見えたのは、
努力家で、思慮深く礼儀正しく、自分自身の人生哲学を持ち、俗に落ちず、

ユーモアを忘れず、利害など考えず誰とでも胸襟を開き愛情を注ぎ、
そして故郷を愛し先祖を敬い、墓の中の母の横で眠りたいと願う、

ごく普通のそんな素顔。

「あなたに褒められたくて」という著書に、母への思いが綴られていた。

最愛の母が逝ったとき、大事な撮影で駆けつけることができなかった。
そのときの心情を活字に託して吐露している。

「葬式に出られなかったことって、この悲しみは深いんです」
そして、
「お母さん、僕はあなたに褒められたくて、ただそれだけで、
背中に刺青を描き、返り血を浴び、さいはての夕張炭鉱や雪の八甲田山、
北極南極、アラスカ、アフリカまで、三十数年駆け続けてこれた」と。

このどこにも「隠し持った顔」なんて、見られないではないですか。

こんなにもわかりやすい人はいないと思った。

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廃村で新発見力石

みなさまからの力石1
01 /13 2023
久々の新発見です。

でもこの石の発見の経緯や場所は、今までとはちょっと違います。
廃村に取り残された力石なんです。

私は廃村の動画をよく見るんです。
消えた暮らしや歴史が愛おしくて、忘れたくないなぁって思うから。

何十年たっても、そこに住んでいた人々の思いが残っていますしね。

登山や取材で山村を歩いていた時、思ったんです。
山村は一旦崩れ始めたら、もう後戻りはできない、と。


下の写真は、南ア直下の静岡市最奥部の集落です。

以前は、
向かいの山の分校から子供たちの元気な声がこだましていたのに、
数年後に行ってみたら、もう何も聞こえてこない。

閉校になっていたんです。


山の中腹に見える白い建物が分校です。場所は楢尾集落。
こちら側の崩野集落の子供たちも川を渡り山を登って、
あそこまで通学していたそうです。平成5年閉校。
CIMG1325.jpg
藁科川の支流・崩野川沿いの集落。

過疎化で老人ばかりになって、人がどんどん減っていく。
祖先から引き継ぎ守ってきた神楽ももう、やる人がいない。

「今は笛を吹く人もいなくなってナ、
録音テープを回して数人で舞ってるよ」と、老人が寂しそうに言った。

無人の家々は本当に寂しい。かつては人々の営みがあり、
子供たちの甲高い声で満ちていたはずなのに、それがない。

人がいてこそ家は生きるって、つくづく思いました。


さて、新発見の力石です。

この力石は、historicaさんのyoutubeに出てきたんです。

場所は岐阜県山県市の、今は廃村になった西洞集落。


力石が出てきます。よく見ててくださいね。


見逃した方は、historicaさんが送ってくださった下の写真をどうぞ。
力石の横に「青年の力石」と刻んだ立派な石碑があります。


1970年代に廃村になったそうですから、それから半世紀。
よくぞ残っていてくれました。

力のある若者は娘っ子たちの憧れの的。
「あがったぞー!」「よし、今度は俺が」とかわるがわる力石を担ぐ。
そんな光景がここにもあったんですね。

「忘れないで」という村の若い衆たちの熱い思い、確かに受け取りましたよ。


右下に少しだけ見えているのは、
かつてここにいた村人たちの家と名前を刻んだ石碑です。
ヒストリカ岐阜県山県市西洞力石

こちらにここの集落の歴史の紹介があります。

「historica 西洞集落の歴史」

私、この方々の動画が好きなんです。

廃村・廃屋の動画はたくさんありますが、他人の家に土足で踏み込み、
残されたモノをあれこれいじったり写したり、夜逃げだなんだと面白半分で、

あれが嫌だったんです。


でもhistorica動画にはそれがない。非常に礼節を重んじています。
探訪の主旨が違うんですね。

HPにはこう書かれています。


「歴史は、平凡な人々の営みの連鎖によって紡がれている。
今この瞬間にも歴史から零れ落ちようとしている人々の、
生きた証をここに遺す」

自分の足で丁寧に訪ねた村々の貴重な探訪動画、たくさんあります。
ぜひご覧ください。


「historica HP」

今回、力石を発見してくださっただけでなく、
写真の使用を快く、また迅速に許可していただき、
その上、改めて鮮明な写真をお送りくださった、

心より感謝申し上げます。


   
ーーーよかったら「崩野集落」の動画もみてくださいーーー

令和4年、崩野/人口19人。14世帯。楢尾/人口18人。10世帯。

でも静岡の太陽は明るいから、集落も明るいですよ。


「集落町並みWalker」さんよりお借りしました。


  ーーそばつぶさんからーー

「激レア」という番組に出演とのことです。どうぞ見てあげてください。

激レア
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穴あけ信仰

盃状穴①
01 /10 2023
さて、ここで一度、「溝状の窪み」をお休みして、
「穴あけ信仰」について、見ていきます。

「穴」はずばり、女性の穴です。これは古今東西、世界中どこでも。

こういうことをテーマにすると、おかしな妄想を膨らませて、
慎しみを忘れてしまう殿方が出てくる、そのことを心配しています。

女性にとっては命に係わる切実な問題だったと捉えていただき、
どうぞ、民俗史として真面目にお読みくださいね。

昔は子供を産めない女性は、婚家を追われ、
人間性を否定されるようなひどい目に遭いましたし、
首尾よく妊娠しても出産で命を落とす人が多かった。


出産は医学が発達した現在でも危険な「大仕事」ですから、
まして昔は、神さまか呪術に頼るしかなかった。

その代表的な「まじない」が「盃状穴」です。


力石に穿たれた盃状穴。
img220.jpg
東京都足立区入谷・氷川神社

これは「子宝」や「安産」を願う女性が夜間、人目に付かないようやってきて、
小石で擦って開けた穴とされています。

でも、それを行ったのは果たして女性だけだったのか、
私はちょっと疑問に思っております。詳細は後日。

こちらは山梨県の縄文中期~晩期の遺跡から発掘された
「蜂の巣穴」と呼ばれるものです。こういう石はのちに道祖神場に置かれ、
子宝祈願に穴を突ついて、「コンボーメ」(子を産め)と唱えたそうです。

先の「穴と溝①」で書いた「先史時代の卵石とカップ・マーク」そのままです。
img20220418_17111283 (2)
「石に宿るもの・甲斐の石神と石仏」中沢厚 平凡社 1988より

「穴」は石ばかりに開けたわけではなかった。
杓子(しゃくし=飯杓子、汁杓子)にも開けた。

民俗学者の柳田国男によると、杓子は「ひとだま」に似ており、
霊物とされていたとのこと。

また「嫁に杓子を渡す」ことは「家の世帯(主導権)を渡す」ことで、
女性たちにとっては重要な道具であった。


穴を開けた柄杓は「するりと生まれる」安産を願って子安さんなどに奉納した。
穴を開ける時期も二通りあって、「願掛け」として事前に開ける方法と、
無事生まれたとき感謝を込めて開ける「願ほどき」があった。
柄杓
静岡市清水区・美穂神社の子安神社

静岡市石部の子安地蔵では、生まれた子が男の子なら「鎌の絵馬を」、
女の子なら「穴の開いた柄杓」を奉納しました。

静岡市清水区由比東山寺の東山神社では、子授け、安産祈願に
「底なしの巾着袋」を奉納。
願いが叶ったら底を縫って再び奉納したそうです。

こちらは小石に穴を開けた例です。
無事、生まれたことを感謝して、小石に穴を開けひもを通して奉納した。
現在では合格や病気平癒の願掛けやお礼としても行われている。

一本の紐に石を2個通してあるのは、
一つは願掛けのとき、もう一つは願いが叶ったお礼の石。
CIMG1745_20221223195728c8a.jpg
静岡市葵区松野・阿弥陀堂

「穴」はその後、2次的な使い方をしていきます。

穴に溜まった雨水をいぼとりに使ったり、海女さんの魔除けにしたり、
子供が野草をつめてままごとに使ったり、
また、穴に油を注ぎ燈明代わりにしたという言い伝えもあります。

出征兵士の母親や妻が、再び穴を擦って無事の帰還を祈った話も。

第2東名(新東名)開通前にウオーキングに参加したとき、
記念に「トンネル貫通石」をもらいました。受験生は大喜びでした。

こちらは手水鉢にあった「薬石」の説明板です。


CIMG1689.jpg
静岡市清水区

小石で擦ってできた石の粉を薬として飲んだとのことですが、
これは2次的使用の例ではないかと思うんです。
明らかに安産祈願の「盃状穴」ですから。

第一、こんな木製のすりこ木では石は削れません。


CIMG1691.jpg

柳田国男によると、霊験あらたかな石に付いた苔を飲んで、
病気を治す風習があったそうですから、ここも、
穴に生じた苔や雨水を「薬」として用いていたのではないでしょうか。

また、あえてすりこ木を置いたことから推察すると、
すりこ木は男性の生殖器を表すものと考えられていましたから、
薬を得るための穴というより、
「子授け」や「安産」に関連した穴という方がふさわしいと、私は思うのです。


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穴と溝②

盃状穴①
01 /07 2023
上戸田氷川神社の宮司さんは、石造物に開けた穴について、

「溝(みぞ)状などさまざまな形状があるのだから、
単純に盃状穴と一つに括れないのではないか」との論文を書き、
独自に「石造物に見られる凹み」

とした。

手水鉢の縁の窪み
溝状
埼玉県春日部市赤沼・赤沼神社

さらに宮司さんは、蕨市の「凹み」のある石造物23基を調査。

「石造物に見られる凹みは、いわゆる盃状穴や凹石にとどまらず、
形状的には、すり鉢型、船底型、筋型などが見られる」ことから、

「その形成の方法としては、叩く(打撃)、こする(回転摩擦または水平摩擦)
などが考えられる」とし、
「ある種の法則があるのだろうか」と、論文に記している。

宮司さんの言う「盃状穴」と一括りにできない窪みを
見たことがあった斎藤さん、

今度は手水鉢に施された物凄い長い「溝」を思い出し、
寒風吹きすさぶ中を愛車の「黄子嬢」を走らせ、目的地の稲荷神社へ。


それにしても斎藤さん、こんなちっちゃなお堂まで調査していたんですね。
DSC01417.jpg
埼玉県宮代町須賀・稲荷神社

ありました。かつて見た不思議な溝が…。

手水鉢の縁にぐるりと長~い溝が掘られています。イメージは蛇か龍。
DSC01427.jpg
同上

こんな溝、私は見たことがありません。
気づかなかっただけかもしれませんが、みなさまは如何ですか?

盃状穴と溝状の窪みが同じ石に穿たれている例もあるはずなので、
そんな「穴」と「溝」もありましたら、ぜひ、ご一報ください。
その意味をご存じなら、お教えください。

さて、斎藤さん、
ちょっと遊び心を発揮して、この「溝」に9つほど命名してみた。


「塹壕(ざんごう)状溝」
戦場のにおいがします。
出征兵士の家族がわが夫、わが子の無事を祈って削ったんでしょうか。


「明渠(めいきょ・開渠)状溝」
なるほどなぁ。確かに。
※明渠とは、地上に出ている部分を開けた水路。閉じた水路は暗渠。

「棒状溝」は盃状穴に対する命名でしょうか。
「祈り溝」「拝み溝」はあり得ますよね。

なんてったって昔の人は、
石に神が宿ると信じて、石には熱い尊崇の念を持っていたし、
その石に穴を穿って「命の誕生」や「再生」を一生懸命、願ったのですから。

民俗学者の柳田国男も言っています。
「石に穴を穿ち、乃至は穴ある石を大切にした」と。


いろんな事例がありますが、珍しい一例をお見せします。
石の穴に小銭を納めた例です。
CIMG1010_202212201034557a1.jpg
静岡県三島市路傍

命の再生から派生した「お金を生む」という思想があったのか、
または報謝の意味だろうか。

そういえば、
「小石川の牛の御前」にも似たような言い伝えがありました。


ここの「撫で牛」が座っている石の窪みに塩を供えるという習慣です。
牛と塩の関係は失念しましたが、何かありそうですね。

と、書いてアップしたら、斎藤氏から、

「牛の御前と牛天神は違いますよ~」
とのご指摘。

あああー!

柳田国男の本からの受け売りでしたが、読みが足りなかった…。
「牛が座る石の穴に塩」は、文京区小石川の牛天神(北野神社)で、
「牛の御前」は、墨田区向島の牛嶋神社でした。
(*゚Q゚*)

有名なのは牛を撫でると健康になるという謂れですが、
(これはどちらも同じ。ホッ)
もう一つ、子供が生まれたとき撫で牛にヨダレかけを掛けると、
子供が丈夫に育つというおまじないです。

昔の人は、ヨダレがたくさん出る子は健康な証拠と言いました。
確かにねぇ。牛のヨダレは半端じゃないですものね。

で、このおまじないを知る前の私は、
牛になぜヨダレかけ?って思っていたんです。

あの世へ一人で旅立つ幼子を地蔵さんに託すためのヨダレかけ、
それと同じ意味かと思っていたんです。
ですが、
牛さんの場合は健康に育つ祈願だった。

「生」と「死」、大きな違いです。


CIMG0940_2023010315383061c.jpg
東京都墨田区向島・牛嶋神社

さて、三島市の路傍にあった小銭を納めた石ですが、
どこにあったかというと、ここです。


CIMG1009_202212201032440cc.jpg
静岡県三島市・路傍

さて、斎藤さんの一押しは、「拝み溝」
理由は、
「悪い現状を変えたくて、ひたすら擦りながら拝んでいる姿が偲ばれるから」


そうかも。

でも、古代人のとらえ方からも陰陽の思想からいっても、
丸い穴は「女の穴」。
ならばこの長い溝は「男の棒」ではないかいな?

だってその方が自然じゃないですか。
穿った場所は生命誕生の水を暗示する「手水鉢」。

ばっちりじゃないですか。

「女の穴」×「男の棒」、「性穴」×「性棒」、「盃状穴」×「溝状棒」、
「カップ・マーク」×「スティック・マーク」

「成り足りないものと成り余れるもの」が、すべて対になっている。
田んぼに立つ案山子がなぜ一本足なのかもこの原理。

なぁんて、またまた私の独走が始まりましたが、
(^∇^)

「穴」と「溝」、続きます。

※参考文献 
蕨市調査報告書第八集「蕨の石造物」
「石造物に見られる凹み再考」
ー蕨の石造物を中心にしてー 堀江清隆 平成4年

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穴と溝①

盃状穴①
01 /04 2023
「力石を愛する宮司さん」のつづきです。

      ーーーーー◇ーーーーー

宮司さんは力石に造詣が深いだけでなく、盃状穴にも詳しかった。

「30数年前の学生時代に盃状穴に到達したものの、
この穴について周囲に知らせても全く無視された」という宮司さん。

一念発起して研究を重ね、
"穴"だけでなく”溝状”など、さまざまな形状の凹みを発見し、

「これは単に〈盃状穴〉という語で括るには、形状的にも無理がある上、
食物の加工や発火に使用されたと言われる縄文時代の〈凹石〉との混乱を
避けるため、〈石造物に見られる凹み〉とした」そうです。

この話を伺った斎藤さん、
「私も7、8年前、この盃状穴以外の溝状の窪みを見ているので、
宮司さんの説には頷けた」

斎藤氏も見た「溝状の窪み」です。
溝状2
埼玉県春日部市赤沼・赤沼神社

宮司さんは堀江清隆氏といい、著名な歴史家で、
この凹みのことは、
「石造物に見られる凹み再考」
(蕨市歴史民俗資料館紀要2011年3月)
発表されていた。

溝状のくぼみがついた手水鉢。
溝状4
同上

また、「観音寺の由来について」(戸田市市史研究第10号)や、
東洋大学民俗研究会などに、論文を数多く発表。

さらに「蕨双子織研究家」としての顔を持つという多彩な人物で、
私はいっぺんに魅了されました。

宮司さんが20年かけて復活した蕨市発祥の綿織物「双子織」の記事です。
「蕨双子織」

「盃状穴」という名称は、昭和55年、山口県の古墳時代の遺跡から、
21個もの穴を穿った石棺(蓋)が見つかり、
発掘調査に携わった国分直一氏が「盃(さかづき)状の穴」だからと、
「盃状穴」と命名したのが始まりだという。

※国分氏は当時、梅光女学院大学地域文化研究所教授。

図1(上)は「下関市綾羅木遺跡出土の女性シンボル」
下関教育委員会「綾羅木郷遺跡発掘調査報告」第1集 1981所集

図2(下)が「山口県神田山古墳石棺蓋石に施された盃状穴(松岡睦彦原図)
img20221225_09084506.jpg
「アジア稲作文化の道」国分直一 雄山閣出版 平成6年より

その国分氏の著作「アジア稲作文化の道」に、興味深い記述がありました。
それは慶熙大学の黄龍渾教授の以下の論文
(1971)です。

「これは「カップ・マーク」として知られているもので、早くは、
フランスのラ・フェラシー遺跡(中期旧石器)で見出されている。
この「穴」は、北欧からシベリアにかけても見られ、
朝鮮半島には青銅器時代の支石墓の墓石の蓋上にも見出される。

古近東西、この穴を「女性のシンボル」としているが、
朝鮮半島では自分(黄教授)がこれを「性穴」と命名した」


私はこれを読んで、「ああ、やっぱり」と思ったんです。

以前、韓国・蔚山大学の魯成煥教授にお会いする機会があって、
「日本の「盃状穴」と同じものが韓国にありませんか?」とお尋ねしたら、
教授はちょっとはにかみながら、
「韓国では「女の穴」とか「性穴」と呼んでいます」と、教えてくださった。

国分氏の本の出版からすでに20年以上あとのことだったから、
この名称が韓国ではよく知られていることに驚きました。


神社の石橋に穿たれた「性穴」=「盃状穴」
神社関係者は全く興味を示しませんでした。
これこそまさに、イザナギ、イザナミの世界そのものなんですけどねぇ。
CIMG1467_202212191021245c9.jpg
静岡浅間神社

国分氏はさらに、黄龍渾教授の次のような報告も紹介している。

「先史時代の性穴(カップ・マーク)の集中する遺跡は、
アルトまたはアルバイ(卵石)と呼ばれ、一種の祈願の聖地として、
今日でも田舎の女性が男児の出産を祈る時、性穴を訪れる。


スウェーデンでは夜間にバターをカップ・マークに流し込んでおけば、
その年の農業と家畜の生産高は高くなるとの言い伝えがある。
(ランセン女史からの聞き書き)」

女性の信仰を集めている神社の裏に、ひっそりと置かれた「女陰石」
CIMG0120.jpg

確かに、「卵石と呼ばれている」という説は、
中に生命を宿している「卵」と「妊娠」とが結びつき、なるほどと思わせます。


国分氏は著書の中で、
「わが国においては、北九州の弥生前期の三雲の支石墓の蓋石上に
施されたものが初現です。

わが国の盃状穴を施す民俗は、弥生前期以降に登場していることから、
朝鮮半島を通しての稲作の道との関わりにおいて登場していると見る
見通しは狂ってはいないと考えていいでしょう」と、結論づけ、


「豊作を願う増殖呪術には、
よりリアルな男女の性的シンボルが登場するが、簡易な盃状穴への人気は、
時代が下降するにつれて、より一般的になっていったように思われる」
としています。


伊豆の「どんつく祭」のご神体は巨大な陽物(男性のシンボル)。
祭りには屈強な若者たちに担がれて町を練り歩きます。
ただこの祭り、2018年を最後に終了とのことです。復活して欲しい。
CIMG0226.jpg
静岡県賀茂郡東伊豆町稲取・どんつく神社

国分先生は、
「盃状穴を施す民俗は、弥生時代以降に登場している」としていますが、

でもなぁ、
弥生以前の縄文遺跡からも、「命の誕生」に関した土偶が出てくるし、
山梨県の縄文遺跡からは盃状穴が穿たれた石も見つかっているし…。

縄文時代にも定住して作物を育てていた痕跡が土器などから出てくるから、
必ずしも弥生以降の民俗とは言い難いように思うのですが、
どうなんでしょう。


※参考文献
「アジア稲作民の民俗と芸能」
諏訪春雄・川村湊 編 雄山閣出版 平成6年より、
「アジア稲作文化の道」国分直一

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雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞