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今年一年の感謝を込めて

ごあいさつ
12 /28 2022
年の暮れの楽しみにしている一つが、「おらが村の芸術家さん」が作る干支。

今年はなかなか着手しないし、そういえば畑で姿を見なくなって久しい。
なにかあったのかと案じていました。

1週間ほど前、若い人が2、3人で木の香も新しい小屋を作っていたから、
あ、いよいよだ、と。
でも「芸術家さん」の姿は?

ちょっと心配になって見に行ってきた。


いました! うさぎさん。今年の干支の寅さんの横に。
寅も顔負けの大きさです。

来年の干支のうさぎさんです。
20221225_123109.jpg

ピンクの耳と赤いおちょぼ口。

全身ふかふかの布で覆われています。とても丁寧に作られています。
首のマフラーが小粋です。


20221225_123306.jpg

でも、あまりにもこぎれいに作られていて、ピーター・ラビット風で、
「おらが村の芸術家さん」の手作り感や自由奔放さが見られない。

それに布で作るのは初めてだし。

うさぎさんの目、ちょっと寂し気なのは気のせいかなぁ。


芸術家さん、新しい年になると91歳ですね。
おじいさんの指示を仰ぎながら、ご家族総出で作られたのでしょうか。

それもまた素敵なことですね。

私はまた新しい干支を拝見できて、いいお正月が迎えられそうです。


20221225_123336.jpg

うさぎさんにバトンタッチする寅さんを、今一度ご覧ください。

「製作者は90歳」

みなさま、今年も一年、拙ブログをお読みいただきありがとうございました。

来年もよろしくお願いいたします。

良いお年を!

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力石を愛する宮司さん

盃状穴
12 /25 2022
力石の大先輩・斎藤氏から興奮気味のメールが届いた。

「へいへいさんって凄いよ。
広範囲な情報取得とフットワークは、本当に凄い!」

なんでも斎藤さん、へいへいさんのブログを覗いたら、
きれいに保存処置された力石の写真が載せられていて驚いたとのこと。

場所は埼玉県戸田市の上戸田氷川神社。


「上戸田氷川神社の力石」

ここは斎藤さんの思い入れ深い神社です。

今から6年前のこと、
先人が調査しつくしたからもうないだろうと思われていたこの神社で、
新発見してしまったんですから。

6年前の2016年11月13日、
力石の刻字調査のため、ここを訪れた斎藤さん、
折しも七五三で、境内は着飾った幸せな親子でいっぱい。

その華やかな光景を見ながら、目的の力石へ直行。
早速力石の判読に着手。

6年前は、こんなふうになっていました。
保存前の上戸田氷川神社1

「やっぱり」と快心の笑みが浮かんだ。思った通り、「誤読」だったのです。

なにしろここには力石が15個もあるので、境内のあっちこっちに。


保存前の上戸田氷川神社2

と、そんなところへ老人氏子の一人が、不審な面持ちで近づいてきた。
丁寧に説明したものの、理解が得られた様子がない。

だが、そこから話は急展開する。


立派な刻字石が並んでいます。三ノ宮卯之助本町東助の石もあるんです。
保存前の上戸田氷川神社3

次に現れた町内会長と宮司さんは違っていた。

宮司さんは埼玉県蕨市にある和楽備神社の宮司さんで、
この上戸田氷川神社を兼務しているとのこと。
ご自分の神社にも3個の力石があることから、宮司さんは力石に詳しかった。

「氷川神社にある15個の力石を合祀の羽黒山権現と共に、
境内別処に移設保存する計画がある」との嬉しい情報です。

力石談義は弾み、意気投合。
「その際は、助言をお願いしたい」と乞われて、
「喜んで協力する」ことを約束して別れた。

この中に、「埼玉の力石」には未読・誤読の力石が6個あり、
力石と紹介されている中に力石ではない石が1個あります。詳細は後日。
保存前の上戸田氷川神社4

また宮司さんはこんなことも話された。

「この神社にしては力石が多すぎる(15個)と思うのは、
たぶん、羽黒山権現を合祀した際、そこにあった力石を他の石造物と共に
移設したからではないか」

戸田川渡口羽黒山権現」 江戸名所図会
戸田羽黒山権現
国立国会図書館デジタルより

「羽黒山権現は”中山道・戸田の渡し”近くにあった社で、
大木の木俣から湧く霊泉が江戸名所図会にも描かれており、
大いに賑わったので、力持ち興行も行われ、
全部とは言わないが、その際、奉納された力石ではないか」


「戸田羽黒霊泉」 江戸名所図会
戸田羽黒山権現霊泉
国会図書館デジタルより

ここには「三ノ宮卯之助」や「本町東助」の刻字石が存在することからも、
宮司さんの推理はあたっているはず。

斎藤さんも「力持ち興行の説は大いにありうる」と思った。

さらに宮司さんの話は、「盃状穴」にも及んだ。


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「ホハレ峠」

書籍
12 /22 2022
かつて岐阜県揖斐郡に「徳山村」という村があった。

本流の揖斐川と支流の西谷川沿いに、8つの集落があって、
総勢1500人が暮らしていたが、ダム建設のため1987年廃村になった。

「ホハレ峠」という本を読んだ。

読み進むうちに泣けてきて、涙で読めなくなって私は何度も中断した。

この本は大西暢夫さんというカメラマンが、
ダムに沈もうとする村を目の当たりにして、

「今まで途方もない時間で培ってきたはずの大地を、
沈めてまで得ようとするものとは何だろうか」と問いつつ、
もう二度と足を踏み入れることができない村に、通い続けた記録です。

東京からバイクで500キロの道のりを通い始めたのが23歳の時。

その4年後の1991年、
もう誰もいないだろうと思っていた村に、
ジジババが暮らしているというのを聞いて行ってみた。

場所は徳山村の最奥部、
西谷川沿いの「門入(かどにゅう)」というところで、34世帯の村だった。

大西さんはその村で、廣瀬 司、ゆきえさん夫婦と知り合った。

この本はその出会いから、夫を亡くして一人になったゆきえさんが、
集団移転先の住宅に移り、93歳で亡くなるまでの約20年間を綴ったもの。

50歳も年の離れた著者とゆきえばあちゃんとの、
豊かで温かい、教訓に満ちたやり取りに心を揺さぶられました。

img20221212_14352761.jpg

門入は唯一、水没を免れた村だったが、危険区域ということで全員離村。

「ばあさん、ここへハンコついたらいいんだよ」と言われ、言う通りにしたら、
今度は「早く家を取り壊して出ていけ」と立ち退きを迫られた。

立ち退かない廣瀬夫妻は開発公団から訴えられて、
大垣市の裁判所で相手から、
「小屋(家屋)の建設は契約の前か後か、何年何月何日か言え」
と迫られて答えられず敗訴。


100年以上前に建てた家だもの、答えられないよ。

夫亡きあと、町へ移ったゆきえさんは、
カートを押してスーパーへ買い物に行くようになった。
村には豊富な自然の恵みがあったが、町では春夏秋冬が消えた。

町の人たちから、
「税金で建てた家」「ダム御殿」と悪口を言われたが、
国からもらったお金はみるみる減り、暮らしは豊かにはならなかった。


「結局、先祖が守ってきた財産を一代で食いつぶしてしまった」
とゆきえさんは言った。

徳山村大字戸入の住人だった増山たづ子さんが、
大事な故郷の姿を永遠に残そうと、ピッカリコニカで写した村人たち。
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「増山たづ子 徳山村 写真全記録」影書房 1997からお借りしました。

著者の大西さんは、
ゆきえさんの生い立ちからその後の人生を追い続けた。

繭を入れたかごを背負い、両親とともにホハレ峠を越えたのは14歳の時。
夜明けの峠のテッペンで、生まれて初めて見た琵琶湖に感動する。

同じ年に紡績工場へ働きに行くため再び、この峠を越えた。
今度は妹二人を連れて…。下の妹はまだ11歳だった。

町で洋服を着て帽子を被り、かかとの高い靴を履いた女性を見て、
「町には変な格好をした人がいる」と思った。

17歳のときはボッカをやった。
「ホハレ峠」は、頬が腫れるほど厳しいからそう呼ばれたが、
そこを、8貫目(30㌔)の栃板を背負って行き来した。

24歳のとき、嫁に行くために、またホハレ峠を越えた。
行先は北海道の開拓地。
親が同じ村の出だったが、相手は現地生まれで顔も知らない人だった。

紆余曲折を経て、夫婦はまた徳山村へ帰ってきた。

二人でパチンコ屋のまかないなどをして現金を稼ぎ、
息子を東京商船大学(現・東京海洋大学)へやった。
村で初めての大学生だった。

2013年8月2日、ゆきえさんは台所で一人で亡くなっていた。

ヘルパーさんが口を拭うと、口から枝豆が一つ転がり出た。
炊飯器は保温になっていて、みそ汁は温かかった。

「枝豆の味見をしていた時、倒れたんだね。ゆきえさんらしい」と
みんなは思った。

大西さんは徳山村に関わってから30年目に、この本を世に出した。
そのあとがきにこう書いている。

「100年の寿命と言われるダムは、一人の人間の寿命の長さでしかないのだ」

「この村を潰してまでダムを作るべきだったのか。
それはこの時代を生き続ける人間が、ずっと考え続けるべきテーマかも
しれないが、僕は、後世にこのコンクリートの山を委ねてしまった
罪悪感のような意識だけが残って仕方がない」

取り壊す前、ゆきえさんは築100年以上の我が家を日本酒で清めた。
img20221212_15173087.jpg
「ホハレ峠」大西暢夫 彩流社 2020からお借りしました。

お金さえ出せばすぐに何でも手に入る今から考えれば、
トチの実を拾いアクを取り、手間暇かけてトチ餅を作るような山村の暮らしは、
時間の無駄ばかりで、不便で時代遅れなのは否めない。

でも私にはそこにこそ、
現代人が置き去りにしてきた大切なものがあるような気がしてならない。

本当の心の豊かさや丁寧に生きる大切さを、私はこの本から教えられました。

※参考文献
「ホハレ峠」ーダムに沈んだ徳山村百年の軌跡ー 
      写真・文 大西暢夫 彩流社 2020
「桜田勝徳著作集 4 離島と山村の民俗」名著出版 昭和56年
「増山たづ子 徳山村 写真全記録」影書房 1997

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今さら …83

田畑修一郎3
12 /19 2022
武雄が送金を止めた。
覚悟はできていたから、「ああ、そうなの」と。

唯一、危惧したのは次男への送金中止だったが、幸いこれは続いた。

3年に進級するとき1年休学して、雄二はアメリカへ留学した。
その交渉もすべて雄二自身がやり遂げた。

「母親」を卒業できたと私は胸を撫でおろした。

離婚届の提出は1年先延ばしになったけれど、辛抱辛抱。


だが、それまでの数年間も、武雄には翻弄され続けた。
縁を切るのは容易なことではない。


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送金を止められてから2年後、
大阪の大介からの電話で、武雄の母親が亡くなったことを知った。

大介が言いにくそうに聞いてきた。
「葬式にはお前ら二人だけで来い、
お母さんは来る必要がないって言われたけどどうする?」

「来るなと言うんだから行かないよ」と返事をしたら、
「じゃあ僕らも行かない」と、なんだか明るい声できっぱり言った。

あちらの家とはもう長い間、やりとりがない。

義兄、義姉と母親は長い間、3人で固まって生きてきた。
末っ子の武雄はそんな家庭を嫌い、私との結婚を理由に家を出たが、
結局、離れられなかった。

そして今度、一家の大きな要(かなめ)だった母親を失ったことで、
彼らだけに通じる「仮想の家」が崩壊した。

かつて義姉が私に話した。

死んだ父親の二郎は新聞記者で母親はお琴の名手、
義兄は優秀な大学を二つも出て、会計士の国家試験のため勉強中。
昔は武蔵野の広大なお屋敷に住んでいた、と。

だがそれは全部ウソだった。
真実は二郎の弟の田畑修一郎が書いた小説の中にしかなかった。

私が納得した唯一の真実は、
父親譲りのあの笑ってごまかす「エベッタン笑い」を、
兄、姉、弟の3人とも継承していたことだけだった。


虚構の家が母という演者の一人を失って、終焉を迎えたのだ。

義兄も義姉もとうに還暦を過ぎたはずだが、
私は14、5年前の顔しか知らない。

そのときも唐突に、
「うちへは武雄と孫さえくればいい。あんたは来なくていい」と言われたが、
私は「秘密」を共有できる「身内」ではなかったのだろう。

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それから2、3か月たったころ、夜、突然、武雄から電話が来た。

「会ってほしい」と言う。「どうしても会って話を聞いてほしい」と。

「お断りします」と伝えても、
「玄関でもいいから。聞いてくれるだけでもいいから」と必死で頼んでくる。
やむなく「それなら」と承諾した。

夜中の1時過ぎ、インターフォンが鳴った。
高速を飛ばしてきたはずだが、車の音がしなかったのは、
少し離れたところへ置いてきたためだろう。

武雄は「金がない」を理由に、私の入院費を払わなかった。
だがその陰で、M江とお揃いのバイクを買い、
二人でキャンプや遠出のための車を買っていた。

その後ろめたさを今も引きずっているのかもしれないとも思った。

ドアを開けるとオドオドした武雄が、闇の中に立っていた。

居間へ戻る私の後をよろよろしながらついてきたが、
部屋の入口に来ると崩れるように座り込んだ。

「葬式に大介も雄二も来なかった」
「……」
「やっとわかったんだ。家族がどんなに大切かって」
「……」
「元に戻りたい。家族として戻りたい」

なんと身勝手な、と私は呆れた。
私は胸の中で叫んだ。

武雄さん、あなたは忘れたの? 

あの奈良の雨の日や木枯らしが吹いた夜、バイクで引きずり回したことを。
M江に結婚を迫られて交通事故に見せかけてお前を、
と告白した東京のアパートでのあの日のことを…。

私はあの瞬間、恐怖の極限を突き抜けて、見るものすべてから色が抜けた。
未だにセピア色の、すべてが緩慢と動く世界にいるんだよ。


すごく苦しい世界だよ。

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一番安心だと思っていた人が実は一番危険な人だと知って、
あれから誰かと同じ部屋に寝るのが怖くて、
部屋にはいつもきっちり鍵を掛けなければ眠れなくなった。

30代40代という、人生で一番華やかで充実したはずの時代を、
あなたのせいで暗く苦しく、みじめに過ごしてきた。

子供たちが小・中・高という一番親を必要とした時期に、あなたはいなかった。
いなかったのではなく、女に入れ込みこれ見よがしに醜態を見せ続けた。

それを葬式に誰も来なくて恥をかいた、すごく惨めだったから、
また家族に戻りたいとは。

もう戻れないんだよ。
居場所を捨てたのは、ほかならぬあなた自身だし、私はもうまっぴら。

私は奥のソファに座り、終始無言で真っ直ぐ武雄を見ていたが、
彼はそんな私を一度も見ることもなく俯いたまま、
ひたすら「戻りたい…」と呟いている。

しばらくの沈黙の後、
「いっぱい言うことがあったけど、言いたいことがわからなくなった」

そう言いつつ、ハァーッと一つ、大きなため息をついた。

それからのろのろ立ち上がると、ションボリ玄関を出て行った。

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アポイント …82

田畑修一郎3
12 /16 2022
夜遅く帰宅すると、けたたましく電話が鳴っていた。
離れて暮らす息子たちに何か起きたのかと、慌てて受話器を取った。

いきなり、怒鳴られた。武雄だった。

「お前、なんだ!」
「はぁ?」
「勝手なことしやがって」

武雄とは、
今後の生活費の約束と不動産登記の名義変更の書類に署名してもらった
あの日以来、会ってはいない。

あれからすでに3年はたっているし、電話で話すことは全くなかったので、
私は何を怒っているのかサッパリだった。

DSC00225.jpg

黙っていると、武雄がまた怒鳴り出した。

「金借りようとしたら、断られたんだよ。不動産担保に金を…。
そしたら相手が言ったんだよ。
貸せません。もう奥さんの名義になっているからって」

私はアッと声を上げた。やっぱり武雄は…。


あのときの私の決断は間違ってはいなかったんだ。
こういう日が来ることを危惧していたからこそ、決断したんだもの。

それが現実となったんだ。
私の予測は間違ってはいなかった。

よかった、本当によかった。嬉しさが込み上げてきた。
即・行動に移したことは、私としては上出来だったではないか。

あの日の夜の武雄のヘラヘラ顔が鮮明に浮かんできた。

「どうせ、こいつは何もできないヤツだから」


そういう顔をしていた。

私は笑いたくなるような高揚した気持ちを抑えて、大きく深呼吸した。

電話の向こうから、今まで耳にしたこともない憎々し気な声がした。


DSC00293.jpg

「勝手なこと、しやがって。
名義の変更なんていつしたんだ! 俺は何も聞いてない!」

「忘れたの? 書類に署名押印したのを…」

そう言うと、武雄はグググッと妙な声を出したまま、黙り込んだ。
私は大声で笑い出したくなるのを抑えて、ふふと小さく笑った。

危なかったなあ。
あのままだったら、この家を追い出されて私は路頭に迷うところだった。

この人はあのときのことを本当に忘れてしまったのだろうか、
それとも、
まさか、本当にやるとは思わなかったのにやったとでも思ったのか。

でもそんなことは、もうどうでもいい。
私は走り出したんだ。
「守りきれた」ことへの満足感が全身を巡り、「安堵」でクラクラした。

武雄の罵詈雑言は止むことはなかった。

私はせめてもの義務のように、黙って聞いていた。

やがて落ち着きを取り戻した武雄が別のことを言いだした。

「こんなことをされたんだからな。送金する必要なんてないだろう。
今後一切、送金は止めるから。
いいな! もう金は一切、送らないからな!」

その言葉通り、こちらへの生活費はピタッと止まった。
それはいい。覚悟の上だ。


DSC09582.jpg

ただ次男は大学生で、卒業までまだ3年ある。
そのことが心配だったが、
入学当初から父親とのやり取りは自分ですると次男は宣言し、
今までその通りやってきた。

受験の時も入学するときも武雄は、自分のところへ泊めることもしなかった。
入学費用と息子の生活費以外は何もしてあげなかった。

東京暮らしが初めての息子なのにアパートの世話もしなかったから、
母親の私が上京して整えた。

どんなに不快な父親であっても、
雄二にはどこかで自分に目を向けて欲しいという願望はあったはずだ。

雄二は自分を鼓舞するように、元気に振る舞っていたが、
私と一緒にアパートを借り、寝具や暖房器具など買いながらも、
どこか寂し気な感じを漂わせていた。

同じ東京にいながら、ただ無機質に金だけ振り込んでくる父親。

金だけのつながりだと割り切っていても、父親に会いたくなったのだろう。

ある日、「おやじのアパートへ行ってみたんだけどさ」と、電話を掛けてきた。
「そしたら、おやじ、会いに来るときはアポイントを取れって追い返された」

そう言って雄二はカラリと笑った。つられて私も笑った。

笑いながら、泣いた。
父親に会うのに「アポイントを取れ」とは、あまりにも情けなかった。

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あの晩、不動産の名義を変えていたことで、
「今後一切、送金を止めるから」と、武雄は言った。

私だけならそれは覚悟の上だが、息子のものまで止めるとなったら、
そのときはただではおかない、M江にも要求するよと、私は心に誓った。

不完全ながらも最後まで父としての責任を果たせば、
息子はそれなりに「愛情」も「信頼」をも感じるはずだ。

それすら裏切ってしまったら、武雄自身のためにもならないではないか。
どうか最後まで「父」でいて欲しいと、私は祈るような気持ちで日々を送った。

その後、雄二から何も言って来なかったところをみると、
その細い糸はつながったままなのだろう。

父としての威厳を示すのは、もうそれしかないではないか。
それさえも切ってしまったら、雄二は真っ直ぐ生きてはいけない、
武雄にはせめてそれだけでも自覚して欲しかった。

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すいま、せ、え、えーん …81

田畑修一郎3
12 /13 2022
夫の武雄が生活費を送ると約束してから2年余たった。
雄二は東京で学生生活を送るようになり、私は一人暮らしになった。

そんなある日、電話が来た。
受話器を取ると、いきなり女がわめきだした。

「あんた、いつまでくっついているつもり!」
「はっ?」
「わかんないの? もう先生はあんたに愛情なんかないんだよ」

電話をかけてきたのはM江だった。


「1号だからって威張るんじゃないよ。先に結婚しただけじゃないの」

なんなんだ、この電話。1号って私のことか?


DSC08587.jpg

M江はさらに私をいたぶるみたいに、鼻先で笑いながら言った。

「専業主婦っていいねぇ。食って寝て。楽だよねぇ。
そういうアンタにしたら、
私みたいな働いている女はバカにみえるでしょうね」

うちへの送金やら子供たちの学費に追われて、
M江に回るお金がなくなったんだろう。

それで腹立ちまぎれにこんな電話を掛けてきたのだろう。
そう思いつつ、私からも声を掛けた。


「今まであなたは、うちへの送金を自分の口座に入れてたでしょ?
だからこちらは生活できなくてね、大変でしたよ」

そう言った途端、M江が一段と声を上げて怒鳴り出した。

「そうでしょうよ! そりゃあそうでしょうよ!
すいませんって言って欲しい?
言って欲しけりゃ、いくらでも言ってやるよ!


す、い、ま、せ、え、えーん
す、い、ま、せ、え、えーん、す、い、ま…

聞くに堪えられなかった。即座に受話器を置いた。

DSC09474.jpg

武雄はこんなのが好きなのか。30過ぎというのにガキみたいな…。

武雄が得意げに言ってたなぁ。
M江は大酒食らいで、
自分と競争みたいにタバコの煙を吐き出す女だと。

それから決まってこう付け足した。
「その点、お前ほどつまらない女はないね。酒は飲めねぇしタバコは嫌うし」

確かにね。そういう意味では二人はお似合いのカップルだと私は苦笑した。

「愛人」という言葉は好きではないけれど、私は楚々として控えめな、
昔風の「妾」という存在を思い浮かべたりしていたので、
M江にはがっかりした。


子供のころ、同級生にこぎれいな女の子がいた。

そこのご主人が町の芸者に産ませた子で、
生れ落ちるとすぐ本妻のもとへ連れてきて育てさせたという。

本妻さんにはたくさんの実子がいたが、分け隔てなく育て、
中学は実子と同じ町の私立へ通わせていた。

「一人だけ、顔立ちが違ってきれいな子」と母が言っていたのを思い出す。

「本妻さんは特別な存在だから、芸者衆もそれをわきまえていたんだよ」
と、母は感慨深げにつぶやいた。

田舎なのに、そんな境遇の子が身近に二人いた。

二人とも芸者の子供だったが、隠すことなく周囲も気にもせず、
子供たち同士も普通に遊んだ。

そういう原風景と「控えめな芸者衆」の記憶があったせいだろう、
M江がひどく下卑て見えた。


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ふと、昔見た映画を思い出した。

あるカトリックの寄宿舎でのこと。
舎監は神に仕える厳格な教育者で、ことに生徒たちに厳しかった。

ところがその舎監がある日、忽然といなくなった。
やがて生徒たちは変な噂を耳にした。


なんでも先生は場末の劇場にいるらしいというのだ。

生徒のだれもが信じることができなかった。
しかし、相変わらず舎監は姿を見せない。
そこで数人の生徒たちが確かめようと、町へ出かけた。

噂に聞いてきた場所は、いかがわしいストリップ劇場だった。

「まさか、あの先生がこんなところに」と、少年たちは戸惑うものの、
やはり確かめようということになり、楽屋らしき暗がりに忍び込んだ。

暗がりの中に光が漏れている部屋があった。
そこから、女の怒鳴り声が響いていた。

これ以上ない卑し気なしわがれ声で女が怒鳴っている。

「この役立たず!」

恐る恐る覗いてみると、
下品な衣装の踊り子らしい年増女が、鞭を片手に仁王立ちしている。
そしてその前には、ピエロ姿の男がいた。
男は床に這いつくばって、鞭で打たれていた。

しかし、
そのピエロの男こそ、あの舎監の先生だったのだ。

女が鞭を振るうたびに風を切るビュワとした音と、
男を打つピシッとした音が痛々しく響き、生徒たちは震え上がった。

だが、女の鞭を受けるたびに、
先生の顔はこれ以上ないという喜びに溢れていた。

そんな映画だった。

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マゾ体質の舎監だったんだろうと言ってしまったら身も蓋もない。

ただ、人は何かをきっかけに、
今までのその人からは想像もつかない方向へ行ってしまうものだなと、
そんな思いにとらわれた。

それから間もなく送金が滞りがちになった。

私は構わず、
「今月はまだ振り込まれていないんですが?」と電話した。

以前の私だったら、自分でなんとかしなくちゃと無理をしたが、
「まだですか?」など言えるようになっていたし、
武雄は武雄で「実家から借りれば…」などと言わなくなった。

「も、もうちょっと待って。必ず送るから」

その言葉通り、振り込んできた。

だがそれも長続きはしなかった。

2世帯分の出費に二人の子どもの学費や生活費で、
いくら今を時めく週刊誌のライターでもさぞかし大変だろうと想像がつく。

だが、私は同情などしなかった。

「東京でみんな一緒に暮らす」という提案を退けたのは、
ほかならぬ彼自身だし、
たとえ武雄が、今、そう願ったところで、時すでに遅かった。

そんなことがあってほどなく、その武雄から電話が来た。

怒り狂った電話だった。


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カモメ …80

田畑修一郎3
12 /10 2022
この自分がまさかDV被害者だったとは、思いもしなかった。
思いもしなかったが、
あの不可解な暮らしの原因がはっきりしたことで、私は「道」を見つけた。

労働基準法を逸脱した職場であれ、私は居場所を得てスタートを切った。
そして、
長男は大阪の大学へ進み、私は次男の雄二との二人暮らしになった。

自分では明るいスタートだと思っていたものの、
過重労働と近所の主婦たち、のちに男たちまで加わっての嫌がらせが始まり、
私は新たな重いものを背負うはめになった。


そんなこんなで口数もすくなくなり、
いつもピリピリしていたのを自覚してはいた。

そういう母親を見て、高校生になった雄二は、
なにかと明るく振る舞い、プレゼントまで贈ってくれるようになった。


次男がそっと差し出したオルゴール。ねじを巻くと音楽とともに花が揺れる。
今も大切に持っている。
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疲れ切って暗い顔をして帰宅し、
打ちひしがれ怒りにただ黙って耐えている母親を見て、
自転車を走らせて町までプレゼントを買いに行った雄二。

あの時私は、内心、ふわっとして泣きたいくらい嬉しかったのに、
そのプレゼントを表情一つ変えず無言で受け取っていた。


なんてダメな母親だったのかと、
こうして落ち着いた老後を迎えた今頃になって、いたたまれなくなる。

あの子は乏しい小遣いの中から買ってくれたのに。

店員は思ったことだろう。好きな女の子にあげるんだなって。


カモメのブローチをもらった。
アクセサリー売り場で一生懸命、選んでくれたに違いない。

「お母さん、大空をゆったり舞って!」

そう伝えているように思えた。
そうなろうと、仕事へ行くとき必ずつけていった。


いつもバッグにつけていた名入りの飾りは、どこへ行ってしまったんだろう。
CIMG5790.jpg

夕食は帰りがけに買ってきた出来合いの弁当が多くなり、
休日も朝から晩まで飛び回って家を空けていたのに、
あの子はグチひとつ言わなかった。

いくら頑張っても父親の役目はできなかったが、
雄二はこの不自然な「母子家庭」を懸命に支えてくれた。


京都の修学旅行の土産。赤とブルーの刺繍が施された小銭入れ。
もったいなくて、とうとう使わずじまい。
CIMG5792.jpg

そういえば制服はどうしていただろう。

入学したときに誂えたことは覚えているが、
成長とともに買い替えたかどうか、さっぱり記憶にない。

新興住宅地の中でも一番少ない班の11軒に、
同級生や似通った年齢の子供がそれぞれ二人ずついた。

雄二の高校が決まったら、近所の主婦たちが路上で騒ぎ出した。


「あそこだけがいい高校に入って…」
「裏から手をまわしたんじゃないの?」

そういう主婦たちの中を朝晩、自転車で走り抜けていた雄二。

その雄二が後年、「あそこは嫌なところだった」と、ポツリと言ったとき、
自分のことに精いっぱいで、わが子の苦悩を知ってあげることも、
寄り添うことさえしてこなかった自分の愚かさに、後悔ばかりが沸いた。


私が長期入院していたとき、
長男の大介は高校3年生、雄二は中学3年で、ともに受験を控えていた。

父親不在、お金のない中、二人で食いつないでいた。
受験生の母親らしいことは何もしないまま、二人は自力で進学した。

その私たち母子をこうして攻撃する。なぜだろうと思った。

周囲の主婦たちに何か言われるたびに、
自分に落ち度があるのかと思ったり、

誠実な態度でいれば、いつかはわかってくれるなどと思っていたが、
すべて無駄だった。


DSC08105.jpg

ところが3年後、再び、近所が騒ぎ出した。

全く付き合いのないS家の主婦が突然訪ねてきてこう言った。

「お宅の雄二くん、どこの大学へ行きました?」

何言ってるんだろうと戸惑っていると、いきなり大声で、
「うちは一応、名のある大学ですから」と言い放って出て行った。

それをどこかで見ていたのか、別の家の主婦が告げ口に来た。


「あの人ね、高校受験のとき、お宅の雄二くんに負けたんで、
わざわざ自慢しに来たんだよ」

「KさんとことTさんとこ、
ほら、入れる高校がなくてどっか遠くへ行ったでしょ。
それが今度はこう言ってるんだよ。
大学へやるお金はいくらでもあるけど、本人は専門学校希望なのでって。
ふふふ、負け惜しみだね」


負けたとか勝ったとかって、何考えているんだろう。

DSC08578.jpg

新興住宅地へ家を建てるもんじゃないということは、以前からよく耳にした。

ここは駅からバスで30分もかかるどん詰まりで、
周囲は純農家が点在する寒村だった。

その村の丘に目を付けた業者が宅地開発して、その頃では珍しい
ガスの集中供給と水洗トイレ完備の「高級住宅地」として売り出した。

元からの住民たちは私たちを「新住民」と呼び、
「新住民」たちは「旧住民」を、「ボットン便所の遅れた人たち」と言い、
交流することはほとんどなかった。

ところが入居してすぐのころから、転居する家が出始めた。

そんな一人と偶然、町で出くわしたとき、彼女がふと漏らした。


「あそこはホントにいやなとこだった。
うちの子が付属小へ行っているだけで、嫌がらせを受けて…。

ああいうところって親の年齢がみんな近いから子供も同級生ばかりでしょ。
いやでも競争心むき出しになるのよね。
やっと手に入れた家だったけど、あそこを出てホッとしています」

公務員、勤務医、大学教授、教師に中小企業経営者、
そんな人たちが大半だった。


DSC09925.jpg

「干してある布団の前で、近所の主婦が集まって、
この布団は安物だなんて言いあったり…。

お宅のご主人、どこへお勤めですの? 係長さんかしら? 
うちのは一応、課長ですけどなんて言ったりね。

あそこは他人と比較する人ばかりだった。
自分になくて隣にあるときは妬む、逆の場合は威張るのよね」

そう言ってその人は笑った。

「そういえばうちも転居早々、エアコンなんていらないよねなんて、
はす向かいの夫婦がわざわざうちの前へ来て大声で言ってて…」

あのころの田舎ではエアコンがまだ珍しいころで…。

「エアコンで悪く言われて、車を持っていないことでバカにされました」
そういうとその人が、「そうそう、それよ」と笑った。

「お宅は部屋がいくつありますの?って聞かれたことも」と言ったら、
「うちもやられた」とまた、笑った。

そんな住宅地で、自治会役員による巨額の横領事件が発覚したのは、
それから7年後のことだった。



(;_;)ーーーーー悲しいなぁーーー

長野市で「子供の声がうるさい」という苦情を受けて、
児童公園の廃止を決めたという。

子供の声がしなくなった世界を想像してみて欲しい。

昔はいたるところで、もっとたくさんの子供の声がしていた。
誰もうるさいなんて思わなかった。
だって、子供は笑顔を運び、元気をもたらし、未来を見せてくれるから。

近くの保育園から鼓笛隊の音楽が聞こえてきます。

児童館の運動場では「見守り隊」のおじさんおばさんたちのもと、
一輪車やサッカーや追いかけっこの子供たちの歓声が響いていますが、
誰もが自然なことと受け止めています。

乗り物の中でぐずる幼児を気にするママや、集合住宅で音を立てさせないよう
子供を叱るお母さん。みんなビクビク暮らしている。

こんなんじゃあ、子供は育ちません。
息子たちのころは一学年300人もいた児童は、今は、わずか60人。

うるさいと思わず、そうした子供たちの「見守り隊」になってやって欲しい、
そう願わずにはいられません。

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そばつぶさん、機関紙に載る

そばつぶさん
12 /07 2022
金沢市在住の「そばつぶ」さん。

金沢大学の関係者でつくる教育サロン機関紙に載せていただきました。

同機関紙は「e教育サロン事務局」が発行するもので、
サロン代表理事の鈴木健之先生のご厚意により、実現しました。

「チョウゲンボウ82号」

そばつぶさんは今なお、テレビに引っ張りだこ。

これはご本人の不断の努力の結果であることは言うまでもありません。

ですが忘れてはならないことがあります。


こうして注目されるのは、
これまで力石に真摯に取り組んできた多くの先輩方の力があってこそです。

そのことを決して忘れないよう、慢心しないよう、
そばつぶさんには肝に銘じつつ邁進していただきたいと願っております。

ーーーその先輩方を改めてご紹介します。

力持ちへの道を開いてきた現代の力持ちです。

まずは「浪速の長州力」さんです。(尼崎市)

尊敬する長老から贈られた黒まわしをしめて。
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姫路市天満・蛭子神社

福島県須賀川市・菅船神社「太郎石持ち上げ大会」では、
三連覇を果たした。持ち上げた石は100㎏。

テレビ出演も果たしました。

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トレーニングジムを経営。
日々、努力を惜しまず、
還暦を迎えてなお、挑戦者として意欲を燃やし続けた。


京都・醍醐寺「五大力 餅上げ奉納」では、
ご夫婦そろって優勝という快挙を成し遂げた。

岡山県総社市・総社宮の「力石総社」にも出場。
力さん3

島根県雲南市吉田町の善福寺観音堂「餅さし行事」では片手で餅を、
兵庫県たつの市の「野見宿祢・力自慢競争」では、米俵を上げた。

浪速さんを通じて雲南市のお米のおいしさを知って以来、
私のごはんはいつも、雲南市飯南町産のこしひかりになりました。


力石上げれば天国落とせば地獄 浪速の長州力

地元関西はもちろん、東北、北陸、中国地方と全国の力持ち大会を総なめ。
まさに「力の人生」そのもの。


「健さんに会いたくて…」

律儀な方で、今も私のもとへご夫妻からクリスマスプレゼントが届きます。

と、本日、書いたら、今日届いたんですよ。わーい!\(^o^)/


「ちりめん招き猫手鏡」
20221207_101156.jpg 20221207_102716.jpg

にゃんこのお腹から手鏡が出てきました。裏を見たら「宝」の文字。
逆流性食道炎の再発でヘロヘロだったけど、

元気が出ましたよ!!

今年、ちょっと体調を崩された浪速さんへ、
みなさまからも声援を送っていただけたら嬉しいです。


ーーーーー

そしてこの方です。
拙ブログにもファンが多いですね。

「大江誉志」さん(岐阜市)

蛭子

大江さん2
兵庫県姫路市大津区天満・蛭子神社

大江さんに初めてお会いしたのは、
姫路市天満の
「力石による力持」神事の神明・蛭子神社でした。

奥様と今は亡き愛犬さくらちゃんを連れて…。

ここは神事なので地元以外の人の参加はご法度。
それを浪速さんの「大江くんに上げさせてください」との熱心なお願いで、
誰もいなくなったらという条件で実現した。


神明神社では明治11年と昭和10年に、
二人しか上げられなかった
「上がらずの石」を大江さんは見事に上げた。

大勢のみなさんに、この快挙を見ていただきたかった。

おおえさん3
同・神明神社

石川県小松市の菟橋神社「盤持ち神事」では、長年、誰も上げられなかった
「上がらずの石」の「八斗石」(120㎏)を担ぎ優勝。


「うぉーっ! やったァ、あがったァ!」と、地元の人たちは大興奮。

同じ小松市向本折町の白山神社では、「赤石」「浮石」「冬瓜石」と、
120㎏を越す石3個を次々持ち上げて喝さいを浴び、
地元マスコミで取り上げられた。


こうして各地の「上がらずの石」を次々成功させた大江さん。

持って生まれた優れた運動能力だけでなく、
それに、人一倍の努力と研鑽をコツコツと重ねてきた証しです。

大江さんタイヤ

己に厳しく、礼儀正しい人

これが私が持っている大江さんの印象です。
そしてそれは今も変わりません。

若き日は空手に汗し、その後はケトルベルトレーナーとして後輩を指導。
ご自宅に広いトレーニングルームを持つ。


このお三方、みなさん、自前の練習場をお持ちです。

石担ぎを一つの立派なスポーツとして捉えている、
決して、面白半分に石を上げているわけではないことがわかります。

そしてどの方も、郷土の先人たちを敬いつつ石に触れています。

「ケトルベルって何?」

大江さんは仕事の合間に各地の神社や寺を訪ね、
神社の方から許可を得て、力石を担がせていただく日々を過ごしてきた。


あまりの怪力に、宮司さん、思わずカメラを構えた。
大江さん4
三重県桑名市・多度神社

大江さんのもう一つの功績は、力石のグループを結成したこと。

石担ぎは危険を伴い、ウエイトリフティングとは違う技術が必要ですから、
誰もができるものではない。
また一見「ただの石」ですから、今どきの若者にはほとんど受けない。

だから孤独の中での自分との闘いになります。

でも大江さんは仲間たちと
「東海力石の会」を結成して、
絆を確かなものにし、力石への道を大きく前進させた。


拙ブログで私が着ている「東海力石の会」のTシャツは、
私サイズに特注してくださった大江さんからの贈り物です。(*^_^*)

大江さん1

「ぼくはもう年ですから、引退です」

そう言っていた大江さんですが、
今年、NHK名古屋放送局からの依頼で、テレビ出演を果たしました。


浪速の長州力さん、大江誉志さん、そばつぶさん、
私にとってはどの方も誠実で心優しく、かけがえのない方々です。

力石は誰かの手で持ち上げてもらわなければ、ただの石ころです。
それをこのお三方は、
「昔の人との力比べが楽しい」と言いつつ、己の力の限界に挑み、
石に命を吹き込んできた。


私は声を大にして叫びます。

みなさん、ありがとう!!

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新発見力石②

斎藤ワールド
12 /04 2022
再び、現地へ立った斎藤氏、はやる気持ちを抑えつつ、新たな石と再会。

なにしろ斎藤氏は今までに723個もの力石を発見している人。

ひとりでこんなに多くの石を見つけた人は、
たぶん全国で斎藤氏のほかはおりません。


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埼玉県杉戸町才羽162・八幡神社

しかもすでに先人が見つけ尽くして、
もうないだろうと言われている場所から次々と発見するのですから、
その凄さは誰もが認めざるを得ません。


2022年11月8日、
この日発見した724個目の石の知らせが私にもたらされたのは、
400数十年ぶりという「皆既月食」の晩で、


写真を添付したメールには、「只今、皆既月食進行中」と書かれていた。

私は慌ててベランダへ。

「こんな歴史的な日に新発見とは」と、興奮しつつオレンジ色の月を眺めた。


なんだか、この新発見石、月食中のお月さまに似ているなァ。
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さてこの日、神社に隣接する家を訪ねると、奥さんが出てきた。
あいにくご主人は留守とのことで、奥さんに現場を見てもらうことに。

「これは力石といって、有形民俗文化財にもなる貴重な石であること」


「ここに刻まれた平三郎なる人物は、どなたかのご先祖かもしれない」

「ほかの2個より価値のある石なので、掘り起こしてくれるよう」頼んだ。

それに対して奥さんは、
「境内を掃除していても全く気付かず、多分、主人も誰も知らないはず。
みんなと相談してみます」と、前向きなお返事。

奥さんが去ったあと、斎藤氏、小さなスコップでさらに掘り下げてみると、
村の名前まで出てきた。

「□□□貫目 □□□□ □月十五日
          米野谷村 宮木平三郎」 


DSC00669.jpg
50余×37余×10余cm

このとき、「遠くで農作業をしている人を気にしながら掘った」

なぜ気にするのかというと、
「怪しい人」と間違われることが度々あるからなんです。

私も力石探しで石仏泥棒だと思われて通報されて、
お巡りさんが駆けつけてきたり、


あんな重いもの、持てるわけないのに。(*`へ´*)

賽銭泥棒と疑われて、どこからともなく現れた初老の男から詰問されたことも。

賽銭などとは全く無縁そうな寂れ果てた神社なのに。
逆に私はどこでも必ず賽銭を上げて私なりのご挨拶をしているってのに。

でもこのあたりでは見かけない顔。しかもザックを背負って…。

「怪しい!」と思われたのでしょうが、
私の動きをこっそり見ていたのかと思うと、こっちの方が気味が悪かった。

駆けつけた初老の男が探るような目で、大声を出した。

「ここで何やってるんだ!」


力石を探しているといくら説明しても、
力石の名称そのものを知らないのだから、全くお手上げ。
女が、という偏見も手伝ってか、
「力石だと? なんだいそりゃあ。でたらめ言うな」と、せせら笑う。

とうとうこの男、携帯を取り出し私の目の前でどこかへ電話。
「今、頭のおかしなのが来てる」と、大声でしゃべり出した。

電車とバスを乗り継いで海岸沿いの片田舎へ来て、
一つも成果がなかったばかりか、この扱いです。

貧乏人のくせに身銭切って、こんな見捨てられた石ころもどきのために、
今日は東へ明日は西へ、
あげくに「石もて追われて」、あたしゃ、いったい…、

情けなかったですよ~。


DSC06578.jpg

社殿の裏や木の下や草むらを目を皿のようにしてうろつくのですから、
確かに「怪しい!」動きです。

都会ならまだしも公共交通もない草深い田舎では、
確実な紹介者がいなければ村へ入ることさえ阻まれます。

大学の先生や「東京の」がつく「偉い人」だと無条件でありがたがるのに、
素人のおばさんだと「頭のおかしな人」になるのですから、もう涙、涙です。

で、そういうところの人ほど、こう言うんですよね。
「東京の偉い先生が古文書を持って行ったきり返してくれない」って。

「肩書に釣られるからだよん」と、私は内心、ザマァ…。

でもねぇ、力石はそういう村にこそ放置されているんですよねぇ。

さて、思い出話はこのくらいにして、
「米野谷村」はどこかということですが、
斎藤氏が地図と地名の由来を送ってくれました。


これです。
DSC00710.jpg

●「才羽(さいは)」
角川版・地名辞典によると、
「才場」とも書く。サイハはサバの転嫁でがないか」とある。

サバには礫土(礫土)の意味がある。
この地帯は渡良瀬川や古利根川の乱流地帯であったことを物語っている。

●平三郎がいた「米野谷(こめのや村)」については、
湾曲して流れる庄内古川(中川)沿いの地域。

この地で穫れる米は砂地ゆえ非常においしいため、
東京から、特に寿司屋さんが買い付けにきた。

平三郎は米農家の力持ちだったのではないでしょうか。

●「八幡神社」
もとは幸手市木立に鎮座していたが、洪水で流されてこの地に祀られた
との伝聞がある。以来、この村の鎮守。のちに合祀。

※「杉戸町の地名・地誌」-その由来と所在を訪ねてー
  鈴木 薫 平成5年より

平三郎石さん、早く掘り出してもらえるといいね。
DSC00597.jpg

そんなこんなを思いながら、大空の天体ショーをながめていると、

久々の新発見で元気はつらつの斎藤氏から、
出来立てホヤホヤの句が送られてきました。


「小春日や斜めに埋む力石(いし)ひとつ」  斎藤呆人

ついでに私も一句。

「平三郎この地に新風(かぜ)を起こしやれ」  雨宮清子

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新発見力石①

斎藤ワールド
12 /01 2022
「新発見力石」ご紹介の前に、昨日入ってきた嬉しいニュースを!

「風流(ふりゅう)踊り」のユネスコの無形文化遺産に、
24都府県41件が登録されましたが、


その中に、私が通い詰めた「有東木の盆踊り」と、新聞記事にした
「徳山の盆踊り」「鹿ん舞」「ヒーヤイ踊り」が入りました。
※「鹿ん舞」の写真は、11月25日のブログに載せましたので見てください。



「有東木(うとうぎ)」には、
盆踊り、神楽、百万遍、登山と何度もおじゃましました。


ここでも単独登山という無謀なことをやりました。
このころはイケイケドンドンで怖さ知らず。

マムシもなんのその。道なき下山路を高圧鉄塔の電線だけを頼りに歩いたり。

人一人しか通れない崖っぷちで、真っ白い大きな犬と遭遇。
なんとも神秘的な体験をしました。


犬は背後から音もなくやってきて、ただ前方のみ見つつ私の体を通り抜け、
振り返りもせず悠然と尾根上へと消えていった。

あれは私を守ってくれた山の神さまだったと、今でも信じています。


左は盆踊りの輪に入れていただいた10余年前の私。 
ささらやこきりこ、扇を持って、見よう見まねで、

〽 くるりとござれ くるりとござれ こきりこ踊りを見せ申す    

右は「百万遍」。大きな数珠を回し、
ダーブツ、ダーブツ ナンマイダーとみなさんと声を合わせて…。

img20221130_21562668.jpg 百万遍
静岡市葵区有東木。東雲寺

ーーーーーここから「新発見力石」ですーーーーー


「野っ原にポツンと置かれた力石の写真、ありませんかァー!」

そんな写真が必要になったけれど手に入らない。
そこで「困ったときの斎藤さん頼み」、緊急に声を掛けました。

そしてなんと、依頼した翌日に早速、写真が送られてきた。

「あそこなら」と思い、2008年に2個の力石を新発見した場所へ、
愛車の「黄子(きこ)」嬢を駆って出かけたというのだ。

この迅速さはいつものこと。


斎藤氏はきっと、ドラえもんの「どこでもドア」と同じものを持っていて、
自在に力石を探索しているに違いないと、
私は密かに思っているのですが…。

そしてなんと、
そこで新たにもう一つ、新発見したというのだから、さらにびっくり。


これです。
DSC00596.jpg
埼玉県杉戸町才羽162・八幡神社

「野っ原ではないけれど、ここならご希望に叶いそうだとあたりを見回したら、
半分以上埋まった石が見えたので、近寄って掘ったら、文字が…」と斎藤氏。


「平三郎」

平三郎くん、「早く誰か、ぼくに気づいてくれよ~」
なぁんて思いながら、だんだん土中に沈んでいったんですね。

「2008年には全く気づきませんでした」

奇跡ですね。

14年前、2個の力石を発見して世に出した斎藤さんに、
また一つ救われました。


改めて全景を写したのがこちら。

確かに遠くに石が確認できます。

大きく写っている2個が、2008年に新発見した力石です。
こちらは刻字なし。
赤丸の中の石が今回発見した刻字のある「平三郎石」です。


DSC00646.jpg
既存の石の寸法は、
①=左の石=70×60×20余cm ②=右の石=65×53×30余cm

でも斎藤さん、二つの石の間に頭だけ出して埋もれている石、
なんだかこれも怪しくないですか?

なァんて、またまた余計な口出しをして、ごめんなさい。(´・_・`)


※斎藤氏からの返信で、「二つの間の石?」と私が思ったのは、
切り株でした。スミマセン…。

で、新たな新発見石、「掘り出さないと全体の刻字が判明しないので、
明日以降、神社関係者を探してお願いしようと」一旦帰宅した斎藤さん、

「力石新発見は彼女なしでは考えられない」とぞっこんの、
最高の相棒・黄子嬢を駆って、翌日、再び現地を訪れました。

果たして、その結果は?


相棒の「黄子」嬢と。
1黄子

ーーーーー

よかったら、
「鹿ん舞」と「ヒーヤイ踊り」の子供たちのがんばりも見てください。

鹿の被り物をつけた少年たちが、ピョンと飛び上がるときの掛け声、

ソーリャア、ウン、ハイ

が、今も耳の底に残っています。



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雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞