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バナナの話&甲斐犬たまちゃんの話

世間ばなし➁
11 /28 2022
\(^o^)/バナナでした!!

ここ数日、私が見たのはバナナかバショウか、悩んでいましたが、
本日、判明しましたので、お知らせします。

「日本でバナナを見たと思ったら、それはバショウなので勘違いしないように」

植物図鑑にはそう書かれているんですよね。

でも、ご近所さんの「バナナ」はバナナの特徴がちゃんとあるんです。


バナナとバショウの違いは主に二つ。

バナナの苞(ほう)は濃いえんじ色で、葉裏には白い粉がある。
バショウの苞は黄色で、葉裏に白い粉はない。

そこで本日、確認のため出かけたら運よく畑仕事のおじさんと、
知り合いのおばさんがおしゃべりを。

二人とも即、「バショウじゃないよ、バナナだよ」


前方を見たら持ち主が庭掃除中。
こちらも即、「バナナです」

そこへ昔職場で一緒だった人が通りかかり、
「バナナだよ。去年は小さい実だったけど今年は豊作」


ワイワーイ!!

でも、「バナナは熱帯の植物なので日本では育たない」とあるし、
そういうバナナが、なんで、ここに


と思ったら、今は露地でもOKの「耐寒性のバナナ」があるとのことでした。

ーーーーー第一話

こんなところに、バナナかよ!

ここには長く住んでいるけれど、こんな光景見たの、初めて。

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別の場所の川べりに、バナナみたいな木があるなァと思っていたけど、
実がついたのを見たことはなかった。

それがそこからほど近い場所で、
しかも個人宅の庭にバサバサ生えていて、
濃いピンク色の巨大な花の蕾みたいなものがドーンと。

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その上にバナナみたいなものが…。


こんな形のものが、ざっと見ただけで5本ぐらいぶら下がっていました。

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まだ細いバナナだけれど、だんだん熟れて黄色になって、

そう思ったらなんだか浮き浮き。


上の写真の一か月後のバナナです。ちょっとふっくらした感じ。
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でもいよいよここも熱帯になったのかと、ちょっぴり心配も。

近くの沼にはカミツキガメが繁殖しているし、
大蛇まで住み着いたら、うかうか散歩もできない…。

そういえば今年の夏は暑かったもんなァと、
青いバナナを見上げながら、
過ぎた夏の日をちょっぴり懐かしく思った冬の初めでありました。



ーーーーー第2話

甲斐犬の「たまちゃん」がお母さんになりました!

寝る子は育つ。みんなマルマル太って、すやすや。
たまちゃん1

お母さんになったのは、
今年6月、拙ブログにご登場いただいたちしゃ猫さんのブログ
「甲ちゃんと一緒 たまちゃんも一緒 いつまでも一緒」

甲斐犬「甲牙くん」の妹、「たまちゃん」です。

8月に出産。

可愛いですねぇ!! 
たまちゃん、すっかりお母さんになって、びっくりするやら嬉しいやら。

凛々しい甲ちゃんとお転婆姫のたまちゃんのことは、
以下の記事でご覧ください。


「奥秩父の力石」

拙ブログへご訪問くださるみなさま、
ぜひ、たまちゃん母子の健康と幸せを見守ってあげてください。

詳しくは、ちしゃ猫さんの下記のブログをご覧ください。


「”たま”ちゃんに赤ちゃんが生まれました」

たまりませんね、このつぶらな瞳。
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みんな、元気にすくすく大きくなってね!

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私も働いた、働いた …79

田畑修一郎3
11 /25 2022
「赤城の工房へいらっしゃいませんか」

俵さんは私に何度もそう呼びかけてくださった。
「女性の自立を支援する」お仲間たちからも、お誘いの手紙を頂戴した。

だが私は行かなかった。
行かなかったというより、行けなかった。

まだ次男は大学生で離婚まで間があったから離婚しないままだったし、
なによりも多忙だった。


新聞社では使い勝手がよかったのだろう。
フリーの記者だったが、あれこれ仕事を背負わされた。


登山者のゴミやし尿問題の取材のため富士山へ。(左)  
山岳会からの依頼で初心者登山の引率者の一人として南アへ。(右)
ついでに新聞の連載記事にした。
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若い記者を休ませたいからと言われて、
大晦日やお正月にも私はカメラを持って町を歩き回った。

宿直しかいない支局で暗室にこもり、写真の現像と紙焼き。
薬品で爪がふやけた。

どんど焼きや花火は夜間の取材になる。
山村の民俗芸能の神楽や「ひよんどり」は、真冬の真夜中。

夏の特集の水辺や秘境の取材には交通の不便さと危険が伴った。

左は、旧富士郡芝川町瓜島のどんど焼き。
集めた竹やお飾りは2トントラック2台分+軽トラック6台分。
30本の孟宗竹の割れる音が闇夜に轟いた。

右は浜松市新居の「手筒花火」
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長期連載がいつも紙面を埋めた。在籍していた14年間途切れることなく。

大井川中流域の旧中川根町へ。郷土芸能の「鹿ん舞」をカメラに収め、

篝火がゆらめく神社の境内では、少女たちが踊る「ヒーヤイ踊り」を観た。

すべての取材を終えて大井川鉄道の最終便を、誰もいない駅のホームで待った。


この日懸命に舞ってくれた少年たちももう40代。元気にしてるかなぁ。
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毎日が戦争だった。

県内各地の演劇人を訪ね歩き、アーティストに会いに行き、
紀行文を書くために旧東海道を歩き、大井川を海から源流部まで遡り、
川と共存しつつ暮らす人々を訪ねた。


熊の取材には大井川奥地の猟師さんを訪ねて熊鍋をいただいたり、
広島と島根の県境の山村で開催された「世界クマフォーラム」にも出かけた。

左は、調査用の罠にかかり、発信器をつけられた熊。(提供写真)
ほかに、
巣穴で子育て中の熊を撃ったのだろう。頭に銃弾を受けて即死した母熊が、
赤ん坊を胸に抱いている写真があった。赤ん坊は生きていた。

右は林業家と。
「山持さんは金持ちという時代は過ぎたが、
林業は都市の水源を守る重要な仕事」と熱く語った老林業家。

この方は著名な現代書家・柿下木冠氏の父上。
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こんなこともあった。

朝日新聞阪神支局襲撃事件と、
それに続いた同新聞静岡支局爆破未遂事件の2、3年後、
私がいた支局に、突然、関西弁の男が入ってきた。

眼光鋭く、全身から異様な威圧感を放っていた。

危険を察知したデスクがとっさに机の下にもぐって隠れたので、
その場にいた女性事務員と私とで対応した。
男は全国版の記事の苦情を地方支局に言いに来た。

「あの記事はなんだ! 朝日のようになりたいかっ!」

右手に下げた紙袋から何が飛び出すかヒヤヒヤした。


男が立ち去ったあと、机の下からデスクが顔を出した。
デスクがデスクに隠れるなんて、シャレにもならない。

女を盾に自分だけ逃げただけでも恥を知れ!と思ったが、
顔を出したとき発した「大丈夫だよ、うちはウ〇ク新聞だから」に、
女二人、思わず、「はァ?」

それを言っちゃァ、オシメーよ。

ともかく事件にならずに済んだが、
私はこの一件以来、関西弁を聞くと、ギクリとするようになった。

支局長はほぼ2年交代で、東京の本社から赴任してきた。
ほとんどが生え抜きだったが、
一人だけ、頭の薄いぶよっとした、いかにも場違いなジイサンがやってきた。

地方でミニコミ誌をやっていたという男で、これがやたら威張った。
無能なヤツほど威張るというけれど、その通りだった。

どうやら私が目障りだったようで、
なにかにつけ「ミスしたら即刻クビですから」と脅す。

あげくにこんな張り紙まで張り出す始末。(下記)
誰が見ても私に当てつけたもので、単なる嫌がらせだとわかっていた。

ある日、支局へ入った途端、このジイサン、鬼の形相で怒鳴った。
「あんたの記事で県庁の偉い役人から抗議を受けた。クビだっ!」

私は笑いながら、「そんなら、私が直接、話をつけてきますよ」と。
帰社後、「役人さん、どうか穏便にと低姿勢でしたよ」と言ったら、
コソコソと局長室へ隠れて、以後、大人しくなった。

こいつは一年ほどでいなくなった。


張り出した年月日は「1998年4月2日」
私は大声は出さないが、陰にこもるタチだから、いまだに持っている。(笑)
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本社から、
「著作権を会社に譲れ」と再三、言われたがこれだけは突っぱねた。

県内版の大半を書かせておきながら、
フリーという名目のまま、一文字5円だなどと生活保護費よりも安く使い、
今度は著作権をよこせとは、人をバカにしやがってと怒りが沸いた。

退社してからも「譲渡しろ」と手紙が来たが無視した。

あまりの労働形態に疑問を持ち、しかるべきところに相談したら、
「新聞社がこんなでたらめを。きちんと契約書を交わしなさい」と叱られたが、
私の立場は弱い。だからあきらめた。

しかし仕事は楽しかった。企画から原稿まで全部、任された。

任されたというより、小規模支局で新人記者ばかりだったから、
腰を据えての長期取材は不可能。そこを私が埋めた。

誰にも口出しされることなく、自由に取材し書きまくった。
名刺一枚でどんな人にも会えた。


沼津市の写真家と。
この写真はご長男が撮影してくれた。
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お会いしたアーティストは200人以上。
画廊、アトリエ、劇場と県内くまなく駆け回った。

普段は注目されないアマチュア劇団、70団体ほどを訪ねた。
「身内で細々と活動していたので、こんなふうに取材されるとは」と、
誰もが驚き、喜んでくれた。

でもそのすべてが、私の大きな糧となった。

何人かは鬼籍に入ったが、今も交流が続く人も。
テレビディレクターの息子の依頼で、ン十年ぶりに電話したら、
「お久しぶりです!」と。

覚えていてくれたんです。

胸がいっぱいになった。これが記者冥利というものか。

心に残る人は何人もいるが、
一番思い出すのはシェークスピア研究の第一人者の先生。

すでに大学を退官されて別の大学にいたとき、お訪ねした。

権威をまとわない朴訥な老学者で、
「ごちそうする」と嬉しそうに私を学食へ誘った。

先生はコッペパンとジャムを選んだ。
「これ、おいしいよ。ぼく、いつもこれなんだよ」と。
コッペパンってまだあったんだと思いつつ、私も同じものにした。

支局へ帰って事務員に話したら、フンとした表情でこう言った。

「ああ、その先生の隣りの人が言ってた。庭が草ぼうぼうで迷惑してるって」
私は即、こう言い返した。「だったら草を刈ってあげたら?」

子供のいない高齢の夫婦二人暮らしで、妻は介護施設に入っていた。
「施設の終了時間まで妻のそばにいるのが僕の一番の幸せなんだ」

そう言ってジャムをのせたコッペパンに噛り付いたので、
私も同じように噛り付いた。
ほんのちょっぴりでも、「父と娘」の時間になってくれたら、そう思った。

私生活では神楽があれば見に行き、国指定の盆踊りに参加し、
合間に登山雑誌の原稿を書くために山に登り、本を書き、テレビにも出た。

青春切符と地図だけ持ってローカル線の小旅行にも出かけた。
講演を頼まれて、遠く北海道まで出かけた。


未熟な私に飛び込んできた講演依頼。
大勢の聴衆を前にあがりにあがって…。

あのときの不出来をあの時来ていただいた皆様に謝りたい。
でもあの経験から多くを学び、その後は順調にいきました。
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摩周湖にて。

出身校の同窓会の理事にもなった。みんなを歴史散歩に連れて行った。

時には新人記者の代わりに記者会見の席に顔を出し、
勲章受章者のインタビューや社会問題の記事も書いてきた。

取材相手が演劇人なら、伊豆の果てでも県西部の山間地へも行き、
芝居や人形劇を観た。

取材相手がアーティストなら、可能な限り展覧会を観、著作を読んだ。
一晩に2,3冊読んだら、心臓がバクバクしてぶっ倒れた。

画廊で開かれた展覧会とコンサートを取材。

イタリアへ絵の修行に行く友人のために芸大出身の声楽家たちが協力。
私も餞別代わりに絵を一枚買った。
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他社から自分の本の取材も受けた。
事前に「本をください」と言われたので送ったが、当日現れた若い記者から、

「ところでこの本には何が書いてあります? 忙しくて読む暇がなかったので」
と言われて、言葉を失った。

年下の当時のデスクから、たばこを買いに行かされた。

カラオケ、冠婚葬祭にも付き合った。

いやだなぁと言いながら、陶酔しております。
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仕事が夜間に及ぼうが休日だろうが、私だけ手当は一切出なかったが、
真夜中の選挙報道も手伝った。

局長から「新聞購読の勧誘」を強いられて、
紹介されたおばちゃんの生命保険に入るのと引き換えに契約も取った。

だが、2回目の要請があったとき、
新人記者として赴任してきた女性記者に救われた。

「この会社は正社員でない人に、こんなことまで強制するんですか!」

そんな女性記者の一人とは、今も賀状のやり取りが続いている。

「お元気ですか? お体大切に」と、本当の娘のように案じてくださる。
たった1年しか一緒じゃなかったし、その間、会話はほとんどなかったのに。

きちんと見ていてくださったんだなぁと、またまた胸がいっぱいになる。

朝から晩まで必死で働いた。寝る暇もなかった。
ガン患者だったことなどすっかり忘れた。


疲労困憊して、
「もう人生を終わらせて楽になりたい」と虚ろになっていると、
いつもどこからか楽しいお誘いが…。


知人の遊び場の古民家です。廃村にただ一軒。
仲間が集まって、いろりで鮎を焼いたり蓄音機でレコードを聴いたり。
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市井の方から要職にある方までお会いするのだからと、
洋服にはお金をかけた。

ある晩遅くタクシーで帰宅したら、隣家の裏のドアがスーッと開いた。
ドアを細目に開けてそこの主婦がこちらを見ていた。

翌朝、ご近所さんが道端に集まって、聞こえよがしに言っていた。

「ねえねえ、夕べ、男と会ってきたらしいよ」


多忙を極めていたときも、
「山へ連れてって」というご近所さんの要望に応えてきた。

小雨がぱらつくと「こんな日に連れてきて」と文句を言われ、
まだ頂上ではないのに、「疲れたから帰りたい」と言われて引き返した。

当番でもないのに町内会の役も押し付けられた。

それでも悪口を言われる。
「誰もやりたがらないのに引き受けてバカみたい」

思えば子供のPTAの時もそうだった。

自分はいったい、何やってんだろう。

このバカさ加減に自己嫌悪に陥って不眠になった。
バスの中では涙をこらえ、支局に入るときはニコニコ顔で入った。

俵さんからの何度ものお誘いのすえ出かけたのは、
東京での「やきものの個展」だけだった。


東京在住の友人とお訪ねした。
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それから俵さんは乳がんになった。

だがそれも克服して、おっぱいを失った女性たちとグループを作り、
「1、2の3で温泉に入る会」を結成。

しかし、10数年後、肺がんになってこの世を去った。

「離婚を、世間やメディアはそれみたことか、
だから女が仕事をすればロクなことはない。
男は仕事、女は家庭。母親が出歩いていると子育ても失敗するぞ、と」

明るい顔を見せつつも苦悩を吐露していた。

そんな俵さんの大きさに比べたら、私など記者とはとても呼べない。
だが、同じ名の新聞社に在籍ということが私を安心させてもいた。

私はこの大先輩の赤裸々な告白と怒りと前向きな姿勢に、
どんなに励まされたことか。


本社から賞もいただいた。
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俵さんがこの世を去ってから今年(2022)で14年。

一人、モーツァルトを聴いて声を上げて泣いたあの赤城の家や工房は、
今は深い草に埋もれているという。

あんなにお誘いを受けていたのに、
とうとう赤城の家を見ることも、再びお会いすることもなく終わってしまった。

また後手に、と悔やんだが、でも、それで良かったと思うようになった。

贈られた本や手紙を開くたびに、
そこには、今なお「生きた俵さん」がいるのだから。

還暦を目前にしたとき、新聞社を辞めた。
14年間全力疾走で駆け抜けてきた。疲れた。心に空洞ができていた。
潮時だと思った。


写真を見ると一目瞭然。笑顔がない。もう覇気がないのがわかった。
このあとすぐ、新しい感動を求めてカナダへ出かけた。
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俵さんは自著「五十代の幸福」を、
七転八倒していた四十代の私へエールのつもりでくださった。

あれから気の遠くなるような長い年月を歩いてきた。

「お見事でしたよ!」

私が駆け抜けた五十代を、俵さんは天国から笑顔で褒めてくださったと、
私は今も信じている。


ーーー想いあふれて

書き出したら懐かしいあの人この人のお顔が次々現れて…。
うらみつらみ、あれこれを辛抱強くお読みいただき、ありがとうございました。

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モーツァルト …78

田畑修一郎3
11 /22 2022
俵萠子さんの「自立を支援する集会」で、
離婚せざるを得なかった女性たちの、その後の生き生きした姿に接して、
私は自信みたいなものを得た気がした。

それまで読んでいた本の中の言葉に、素直に頷けるようにもなった。

言葉は私に話しかけた。

「失敗と思わず、一つの経験と思うこと」
「私はサバイバー(被害を体験した人)だったという自覚を持つこと」


「被害者は敗北者ではない」

それには、「鈍感であってはいけない」

「自分の経験を言語化」し、「怒りに名前をつけ」
「声を上げること」

「声を上げて加害者に責任を取らせることで、脱被害者へと変わっていく」


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「私が私を大切にするということ」

そうそう、私は職場の上司や年配者からよく言われていた。

「人にばかり気を遣いすぎる。もっと自分を大切にしなけりゃだめだよ」って。

そうよねぇ、思えば職場でも近所でも家でも、
「自分に非があるのではないか」といつも自分を責めて、
加害者と一緒になって自分自身をいじめていたものね。


「自己責任の罠から抜け出し、自分の人生を取り戻す」

そうか、そうだよね。
がんばってみようという思いがふつふつと沸いた。

それから間もなく、俵さんから一冊の本が送られてきた。


「五十代の幸福」

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四十代で泣きわめいている私への、大先輩からの導きだと思った。

同封の手紙にはこう書かれていた。

「あなたにこの本の最後のところを読んでいただきたいので贈ります」


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私はその「最後のところ」から読んだ。

俵さんは五十代になったとき、赤城の森の家で一人で、
「モーツァルト・ピアノソナタ十一番」を聴いた。

音楽を聴くのは何十年ぶりだろうと思いつつ聴いているうちに、
越し方が思い出されたという。


「若い時、この曲を聴いた。
あれから結婚した。
貧しかった。
共働きだった。
家が狭かった。
こどもが生まれた。
必死で働いた。
働いた。

働いた。

   ……略……

二人の子が成人した。
その間に、夫との別れがあった。
若かったころの夫は、この曲が好きだった。
彼はよくこの曲を聴いていた。
でも私は、二人の子と仕事と家事を抱え、音楽なんて、聴こえなかった。
そのくらい必死だった。


すべてが、
過ぎ去った人生のすべてが、
甦り、
胸に溢れ、
押し寄せ、
押し倒し、
気がつくと、私は声をあげて泣いていた」

そして、こんな心境になったと述懐している。


「2回繰り返して聴き終わるころ気持ちは鎮まり、ふと考えた。

でもよかったじゃない。
私にはまだ音楽が滲み込んでくる感性が残っていたということが…。
ともかくも女手一つでまだ小学生だった二人の子供を育てた。
育て終えた。


あの夜聴いたモーツァルトは、
独身のころ聴いたどのモーツァルトより、優しく、深く、美しかった。
あの夜以来、私の中で何かが変わった。ひとくぎりがついた。
それが私にとっての五十代のはじまりだったのではないか
という気がする」


のちに俵さんは本の中で、子供の一人は障がい者だと告白している。

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ポエム2編② …77

田畑修一郎3
11 /20 2022
色を取り戻しに

雲の下に地面がある
雲の上に空がある
そしてわたしは その空の中にいる


空に突き出た岩の上に 私は立っている
悠久の時の中
眼下に広がる雲海の中に 
こどもが作った砂のお山みたいな頭だけの富士山が見える
その左手にうっすらと八ヶ岳が 
そして右手には南アの山々が不確かな影となって連なっている
ああ、わたしは富士山より高く
八ッや南ア連峰よりもはっきりとここにいる


下界を隠した雲よ
意味のない生活のすべてを覆い隠した雲よ
そして同時にわたしを本当のわたしに覚醒させてくれた雲よ


家族がいると足手まといだって あの人が言った
自分の才能は家族に潰されたと あの人は暴れた
そう、だからわたしは小説家になりたいあの人のために
病めるときも健やかなときも
貧しい中でこどもをひとりで育ててきた


だけどあの人はとうとう父親にも夫にも小説家にもなれなかった
酒と女と そして妻をいたぶるだけの生活
風景から色が抜けてモノクロの世界を歩き続けていたわたし
しかし今わたしは 空に突き出た岩の上にいて
富士山より高く 八ッや南ア連峰よりもはっきりとここにいる


去年 この岩峰から飛び下りて死んだ青年がいたという
その人は自分よりもずっと低い富士山を見なかったのだろうか


岩のテッペンで一晩眠ったら
わたしは空から雲へ その下に続く地面へと降りていけるだろう
そのときわたしはきっと見るに違いない
色を取り戻した風景を 
深々と呼吸する地と空と自分自身を


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ポエム2編① …76

田畑修一郎3
11 /18 2022
子供のころは枕元に、ノートと鉛筆を置いて寝た。

うす暗い天井を見上げていると、
言葉が溢れて書き留めずにはいられなかった。

浮かぶのは暗いことばかり。
自分には楽しい「歌」は歌えないのだなと子供心に思った。

大人になっても同じだった。
孤独の中で、こんなポエムを書いた。

   ーーーーー◇ーーーーー

皮を編む

夫が皮を脱ぎ捨てた
臭いの浸みた醜悪な皮だ
わたしはその皮をほどきにかかる
糸を引き抜くたびに埃が舞い立つ
ああ、いやだ 背信の臭い
それでもわたしは糸を抜く


昔、大切な人に贈るために わたしは皮を編んだ
それはまばゆいばかりの真っ直ぐな糸だった
細やかな産毛がふんわりとそよぎ
わたしは思いのたけを込めて編んだ


それも年を経れば着古され
込めたはずの思いは恥辱にまみれた
裏を返せばそこここに背信の数々
わたしの知らない夫の世界が 生々しく姿を見せていた
そうした現実を突き崩すように
わたしは糸を引く
舞い立つ埃を吸うまいとして わたしは息を止める

夫に新しい皮を着せなければならないので
わたしはまた 皮を編む
もはやまばゆさも消え よれよれと曲がりくねった糸で
好きな人のために編むという面映ゆい感情もないまま
悲しみと侘しさと諦めと
そして化石と化したわたしの心を砕きほぐして
編みこんでいく


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俵萠子さん …75

田畑修一郎3
11 /15 2022
日本にDV防止法ができる24年も前に、
DVにさらされて行き場のない女性たちのために、
シェルター(駆け込み寺)をつくった人がいた。

しかも個人で。

そのころの私は、
夫からの不可解な加害行為を見極めたくて情報の収集に明け暮れていた。

個人でシェルターを作ったのは評論家の俵萠子さんで、
その存在を知って私はすぐ手紙を書いた。


間を置かず返事が来た。

「集会にいらっしゃいませんか」

そのひと言で光明を得たと思った。


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のちに読んだ本で私は、
俵さんが女性の自立を支援するシェルターを作ったその一旦を知った。

それはこんな出来事を綴った一文からだった。

家への帰りに乗ったタクシーの運転手が、
客が俵さんとは知らずに悪口を言った。

「あの人、離婚した人でしょ。自分の家庭も満足に収められないのに、
区の教育委員長だなんて、笑わせるよねえ。

口を開けば男女平等なんていってる。ああいう女じゃ、亭主に嫌われるさ。
俺は家に帰れば断固として亭主関白を押し通してるよ」

運転手の話を黙って聞いていた俵さん、本の中でこう述べている。

「これと同じことを何べん聞いたか。
亭主に逃げられた女、心がけの悪い女。

日本では女にとって離婚は人格証明を失うこと。
世間では離婚された女とは言うけれど、離婚された男とは言わない」

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こんなに活躍されている俵さんでもそうだったのかと、私は驚いた。

離婚したことで嫌がらせを仕掛けるのは、男ばかりでないことも、
私はいやというほど経験した。

女が女に抱く憎悪やいやがらせは、自分の不満や嫉妬心を上乗せしたまま
直接、行動に出るからわかりやすいがキツイ。

田舎でも都会でも同じなんだと思った。

世の中には、
「人格証明」を失うことが怖くて離婚に踏み切れない妻たちが大勢いる。
しかし行政は何も助けてはくれない。

そこで俵さんは、「自立を手助けするシェルター」を考えたという。

私が初めてお目にかかったころの俵さんは、
群馬県の赤城山麓の家と東京の家を行き来する忙しい身だった。

その多忙な中でいただいた手紙を私は何度も読み返し、
すぐに集会への参加を伝えた。


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あれは晩秋のころだったと思う。

降りた駅や会場までの経路はさっぱり思い出せないが、
集会所での光景は今も鮮明に覚えている。

暗い夜道を来たせいか、集会所から漏れてくる明かりがまばゆく感じた。

その光に吸い込まれるように中に入るとすでに大勢の女性たちがいて、
みんな楽しそうに笑っていた。

深刻な顔が並んでいると思い込んでいた私は、その明るさにまず驚いた。

集会が始まり、やがてそれぞれが体験談を語り始めた。

生々しい過去を引きずりつつも、暮らしに安定感が出てきた経験者だろうか。
それを新参者と古参者たちが聞く形になっていた。

「元・夫は怒り出すと手が付けられず、椅子を振り上げてピアノに叩きつけた。
もうあの恐怖は…。

普段は温厚で優しいし、近所の人にも会社でも好かれていたから、
夫がこんなことをするのは私に落ち度があるんだろうと…。
だからこれがDVだなんて自分でもわからなかったんです」

今度は別の女性が立ち上がり、また体験を話し始めた。

「夫は酒乱で。
でもお酒を飲まない時は子煩悩な優しい人で…。
だからこれならやり直せると思って…。

でもお酒が入ると…。
私は殴られて、そのたびに顔を腫らしたり、ろっ骨や腕を骨折しました。
そういうことをされていると近所に知られるのが怖くて、
医者にも自分で転んだとウソをついて…。

でもあるとき、猫の首を、猫の首、はさみで切ったんです。
切り落としたんです。
それで今度こそ子供が殺されるかもしれない、私も殺されるかもと思って、
家を飛び出しました。

でも行くところがなくて、子供と電話ボックスで一晩…。
俵先生のことを教えられて、助けていただきました」


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能楽の世界に嫁いだ人がいた。

「父が同じ世界の人なので望まれて嫁ぎました。
でも夫はいつも家にいない。

悩みました。なぜだろうって。それで思い切って姑に相談したら、
息子には以前から馴染みの女がいて離れられないと。

普通の家の女じゃないから嫁にできないので、あんたを迎えた。
あんたは跡継ぎを産んでくれさえすればいいのよ。
そのためだけに嫁にしたんだからって。それで夫の家を飛び出しました。

狭い世界だし父の立場は悪くなるのはわかっていましたが、
でも父は理解してくれました」

再婚報告もあった。

「幸せです」のひと言に、大きな拍手が起こった。

集会所には50人ほどいただろうか。
末席で体験談や報告を聞いていた私に、俵さんがそっとささやいた。

「今はね、自立して安定した暮らしをしている体験者たちが
この会を運営してくれているのよ。

着の身着のままで逃げてくる人が多いので、
お茶碗やらナベカマから洋服までみなさんが差し出して…。
そうして助け合っているの。
本当は国が率先してやらなければいけないことなんですけどねぇ」

DSC08506.jpg

終了後、私は俵さんと夜道を並んで歩いた。

「先生、皆さんのお話、壮絶で驚きました。
でも、私はああいう身体的暴力は受けていないんです。
それでもDVなんでしょうか?」

私の質問にウンウンと頷きながら俵さんが言った。

「精神的暴力っていうのがあるのよ。実はそれのほうがやっかいなの。
目に見えるような傷がないでしょ。だから誰にもわかってもらえない」

内閣府の言葉を借りれば、私が受けたDVはこうなる。

心理的攻撃。経済的圧迫。


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媚びる …74

田畑修一郎3
11 /12 2022
「田畑修一郎」シリーズの最中に別の記事を挿入するため、
お読みくださっている皆さまは戸惑われたかと…。

書いている私も頭の切り替えがなかなか。
でも、ゴールまであとひと息。がんばります。

   ーーーーー◇ーーーーー

女が女を貶める。

見渡せば、これは今なお身近なところで「当たり前のように」起きている。

職場の年かさの独身女性は、
「尻を触られたぐらいでギャーギャー騒ぐなんて。減るもんでなし」
と若い女性を叱った。

また、新興住宅地で自治会役員を決めるとき、
「上に立つ人はやっぱり殿方でなければ」と主張するのは、
決まって教授や教師という「教育者」の妻たちだった。


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のちに移り住んだ集合住宅ではそんなことは全くなかった。

そこは一年交代で当番が回り、すべてをくじ引きで決めたから、
女性が会長になるのは珍しいことではなかったし、
新興住宅地の所帯数の4倍ものこの大団地をみんな見事に運営していた。

私が離婚したことで執拗に嫌がらせを続けた教授夫人から、
「どこへお引越しですの?」と聞かれて、「団地です」と答えたら、
「あー、あー、低所得者層の住むところですわね」と、
口辺を歪めつつ言われたが、

こいつは「上に立つのはやっぱり殿方でなければ」という
「男に媚びて生きるしかない」女の典型で、「低所得者層」と蔑んだ
団地の女たちの足元にも及ばないヤツだと思った。

市井の女であれ企業内のお局的女性であれ、政治家であれ、
同性として被害女性に寄り添うのではなく、笑いものにしたり貶めたりする人、
つまり、DV加害者に味方する女は、

常に自分自身を男の下、強いて言えば権力のある男の下に置くことで、
身の安泰を図り、男に媚びて世の中を渡っている、
そういうずるい、自立できない女ということではないだろうか。


DSC09509.jpg

「愛を言い訳にする人たち」(山口のり子 梨の木舎 2016)に、
おもしろい問題提起があった。

この本はDV加害男性700人の告白をまとめた貴重な記録で、
そこに、
「ふだん何気なく聞いたり口ずさんだりする歌詞に織り込まれた
メッセージについて、考えたことがありますか?」という問いかけがあった。

少々古いが、例としてこんな歌が挙げられていた。


「言うことをきかない彼女に手を挙げることはカッコいいことだ」
と受け止めた男性たちがいたに違いない歌詞として、

♪聞き分けのない女の顔をひとつふたつ張り倒して 
 背中を向けて煙草をすえば それで何も言うことはない

=沢田研二 カサブランカ・ダンディ

DV促進歌です。
女は支配されるのを待っているというメッセージの歌として、

♪じゃましないから 悪いときはどうぞぶってね
 いつもそばにおいてね あなた好みの女になりたい

=奥村チヨ 恋の奴隷

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暴力をパロディ化することで、
暴力を軽く見る意識を人々に強力に刷り込む例として、

♪君にジュースを買ってあげる 月収10万以下だけど
 ときどき暴力ふるうけど

=グループ魂 君にジュースを買ってあげる

レイプ促進歌として、

♪ベッドに押し倒して腰なんかもんじまえ
 思い切りいやがるけど 照れているだけだから
 バタバタ暴れるのは喜んでいる証拠さ

=爆風スランプ 青春りっしんべん

このほか著者は、以下もあげていた。

♪I will follow you あなたについていきたい
=松田聖子 赤いスイトピー

一見、これが危険なメッセージを含んだ歌詞とは思えなかったが、
「この歌詞を信じて、女は引っ張ってくれる男を待っているんだ。
そうならなくちゃと目指した結果、妻にDVをしてしまった、
と告白した加害者がいた」と著者は本に記している。


そして、こうも書いていた。

「これらの危険なメッセージは、たぶん作詞家自身が持っている価値観
なのでしょうが、作詞家が一般大衆の持つ価値観に迎合して
歌詞に織り込んだものであり、
歌が流行することで人々の間に流布されて強化されます。


歌詞だけではない。漫画や小説、テレビや映画など社会に表出している
あらゆる表現に、そのような作用があるとみるべきでしょう」

DSC09481.jpg

確かに、人は刷り込まれた習慣で行動する。
そして一旦刷り込まれたものはなかなか消すことができない。

そのことはかつて各地にあった若者の組織「若衆組」の
「夜這い」にも見ることができる。

某村の小学校に都会から若い女性教師が赴任してきた。
早速、村の若者数人が教員宿舎へ夜這いをかけた。

驚いた教師の通報で若者たちは逮捕。しかし、彼らは納得がいかない。
「なんでだ! 今まで普通にやってきたことなのに」と。

彼らは時代が変わり、それが犯罪になったことを知らなかったか、
もしくは、
知ってはいたが気持ちの切り替えができなかったか、見くびっていたか。

しかし、それから100年以上たった今も「夜這い」は存在するようで…。

ただ、昔の若い衆にはそれなりのルールがあって制裁も課せられたが、
強制わいせつや強姦で逮捕された現代の男たちは、
犯罪と知りながら「合意の上だった」と自分の正当性を主張するのだから、
より卑劣で悪質だ。

今、「若衆組」の頭がいたら、こう言うかも。

「屁理屈をこねるだけで力石も持てねぇヤツは、女に手を出すんじゃねぇ」

会社内でセクハラに悩む若い女性に、
「尻を触られたぐらいで…」と大声で嘲り、男たちに媚びたお局さま、
言わなければいいのに、「私なら自分から差し出すよ」と。

とっさに周囲の男どもが尻をからげて逃げ出した。


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力石、昔と今②

そばつぶさん
11 /09 2022
第二次大戦が終わったのが、昭和20年(1945)。
戦後、急速な機械化が進み、同時に人力の時代は終焉を迎えます。

敗戦国・日本にアメリカがやってきました。
彼らはハイカラなものを貧しい日本人にもたらします。

ジャズ、チョコレート、チューインガム…。

スポーツや娯楽の世界も様変わり。

私が調査した中で、
昭和50年代まで力比べをやっていた集落がありましたが、
大半はそんなドン臭いことをやっているのは「遅れている」と言われて、
力石は捨てられてしまいました。


そうして、
かつて若者たちを熱狂させた力石は、ただの石になっていったのです。

ここは富士川の船着場として栄えた所。


荷揚げの男たちや船頭たちのたまり場だったが、今は見る影もない。
力石は捨てられ、神社も物置風の建物があるだけ。
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静岡県富士市・子之神社

でも記憶だけは残ります。庶民文化という「歴史」です。
庶民文化は土地の人の感情、郷愁、友情、同郷意識を内包しています。

下は、兵庫県宍粟(しそう)市の文化センターに置かれた力石です。
18個あります。


どこから来た力石かというと、廃村になった村々からなんです。
だから石の一つ一つに消えた村の名が刻まれています。

村を去った人々の「絆」がここに再現されています。

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兵庫県宍粟市波賀・波賀文化創造センター

緩やかな変化をしていった山村では、「記憶」が生き続けましたが、
急激な工業化や商業化が進んだ都市では、力石なんて時代遅れの遺物。

有名武将が座ったという伝説の石は有難がっても、
庶民が持った力石に価値を見出すところは少ない。

歴史遺産になった力石も、保存という形で居場所を見つけたものの、
多くはコンクリで固められて、もはや昔の面影はゼロ。


八丁堀平蔵や内田屋の金蔵などの石も埋め込まれてしまった。
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東京都墨田区・牛嶋神社

力石は人に担がれてナンボのものだから、
こうなったら、もはや生けるシカバネです。

そんな中、見事、復活した石もあります。

日本一の力持ちと名声を究めた江戸の力持ち・三ノ宮卯之助の石も、
初めは捨てられ、さびれた神社の車止めに成り果てていました。


斎藤氏が土の中から発見した卯之助の「指石」です。
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埼玉県越谷市三野宮・三野宮神社

捨てられてから160余年もたってから「文化財」として、うやうやしく祀られ、
故郷の偉人になったのですから、運命とはわからないものです。

でもこんなふうに幸運な石ばかりではありません。


こちらは個人宅の石です。物干し台の脇に転がしてありました。
「邪魔でしょうがない。欲しけりゃ持ってって」と。


  「いらない」と若き当主は言い放つ
             亡父の愛でし力石哀し
  雨宮清子

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静岡県富士宮市・個人宅

でも、哀れな話ばかりが残っているわけではありません。

神事として今も行われている兵庫県姫路市の「天満力持ち」は、
市の重要文化財にも指定されていて、まわし姿の若者たちが主役です。

ここの力石は神事以外のときは、鍵をかけて厳重に保管されています。


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兵庫県姫路市大津区天満・神明神社

でも力石の多くは放置されたまま、自然に帰っていきます。

泥まみれの石を見ると、立派な文字が刻んである。

栄枯盛衰は世の習いとはいうものの、
それを刻み付けた当時の若者の顔がチラついて、痛々しくなります。

さて本題です。

これらの石の所有権はどうなんでしょうか。
野っ原の石の場合は?


廃屋にも所有者がいて第三者が立ち入ることはできませんから、
野っ原の力石も土地の所有者のものかも。

でも、
許可を取りたくても所有者の所在すらわからないときは、どうすれば…。


たとえ所有者から石を担ぐ許可が出ても、
空襲などで焼かれた石はもろいから、破損させてしまうこともあり得ます。

もしそうなったら、どうなるんでしょう。
それに万一敷地内でケガをしてしまったら、

と、心配は尽きません。


予測しない事故が起きたとき、
担ぐことを快諾してくれた所有者が豹変するかもしれないし、
泥まみれで放置されていた石でも急に欲が出て、損害を請求されるかも。


ポツンと一軒家ならぬポツンと力石が…。
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埼玉県北葛飾郡杉戸町才羽・八幡神社

斎藤氏は10数年前、ここで力石を2個、新発見しています。
再び今月8日に訪れた際、なんと、土に埋もれた石を見つけ、
掘り起こしたら、人名が刻まれていました。


新発見です! 

詳細は改めて記事でお伝えします。

さて、以前、勤務していた生涯学習施設でこんなことがありました。

ある日、一人の婦人が能面のような顔で抗議にきたのです。

「駐車場の車止めにぶつかってバイクごと転倒してしまった。
責任は駐車場の管理者にあるのだから、
バイクの修理代とケガの治療代を払ってください」


駆け付けた役人が応対するも、1時間以上、一歩も引きません。
近所の住宅地に住むごくごく普通の中年の主婦が、です。

無料駐車場での自損事故。無理筋でもゴネました。実に堂々と。


だから石担ぎも、善意であれ「許可する側」は慎重にならざるを得ません。

昔はこんなにおおらかだったのに。


江戸時代の茶屋「望嶽亭」のご主人だった松永宝蔵さんが描き残してくれた
「大門薬師堂の力比べ」です。
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静岡市清水区由比東山寺

でもあれやこれや考えたら、こんな世の中、窮屈です。
生きている実感が薄れます。

「あんな石っころなんか担いで何になる」って?
なァんにもなりません。ですが、このバカバカしさが人間には必要です。

窮屈は、
若者たちの冒険心や勇敢さや無謀でも突き進む勇気や夢を砕きます。


では、万一、破損やケガが起きたらどうすべきか、

所有者にも挑戦者にも明確な答えがないのでは、と思います。

私にもわかりません。

ただ、今ある力石は、もう「生きてはいません」
それだけは明らかです。


その「死に体」の力石を今一度持ち上げて、命を吹き込みたい、
石に耳をつけて、力石に込められた昔話を聞いてみたい、

そういう「文化財級」の若者が現れて、担ぐ許可を求めたらどうするか、

所有者側が試されています。

「たかが石だよ。割れても構わないから思いっきりやってみろ!
ただ、ケガだけはするなよ」

そういう度量を示せるかどうか…。


下は、地主さんのご協力で保存された石です。

「だれでも自由に力試しができるように、石は固定しませんでした」
と、これを手掛けた石材所の職人さん。
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静岡県富士宮市内房

岡山県の力石総社の石の如く、

「挙げれるもんなら挙げてみな!」

と、力石が挑発しております。

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力石、昔と今①

そばつぶさん
11 /06 2022
「そばつぶさんの大事件!」をみなさまにお読みいただきましたが、

ここで今一度、「力石」という石のことを、簡単にご説明します。


「そばつぶさんの…」を通じて浮かび上がってきた一つに、
「力石の所有権」の問題があります。

今はおおむね、石が所在する土地の人に所有権があります。
神社ならその神社や氏子さんたちの共有財産ということになります。


だから行政では手出し、口出しはできません。

下は、 市の文化財課の方にアドバイスを乞いつつ、
総代さんや氏子さんたちのご努力で、2019年に保存された「万治石」です


「明治」と誤読されたため、長らく土留めに使われてきた力石ですが、
ここを再調査した斎藤氏が、
「明治ではなく、400年前の万治の石だ」と気づき、助かりました。

この発見により、千葉県最古、日本で3番目に古い石と認定されました。


石への「魂入れ」の日、住民の方々が「これからもここを守ってくれよ」と。
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千葉県野田市今上下・八幡神社

では石の所有権、昔はどうだったのか、
当時の経験者たちが残した言葉から探っていきます。


 力石は担ぎ上げた人のもの

重い石ですから力のある者しか持てません。
だから担ぎ上げることができたなら、自宅だろうと寺社の境内からだろうと、
その瞬間からその人に所有権が移った。

持ち去られたほうは悔しいし、評判がガタ落ちになる。
そこでなんとしてでも取り返そうとしたため、石は一晩に何度も移動した。

こういう移動は夜間に頻発し、重い上に隠密行動だから事故になりやすい。
そこで「若衆組」の長老たちは、
安全確保のため一人では担がないという掟を作りました。


力石に限らず、石仏もよく移動しました。
これもみんな、当時の若者たちの仕業です。


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そしてそういう行為は許されていたのです。
それだけ、力持ちは特別な存在だったんですね。


今でも民話などに、
「連れてこられた地蔵さんが元の場所に帰りたい」と、夜な夜な泣くので、
元に戻したという話が残っています。


 寺社はただ力比べの場を提供したにすぎなかった

村の辻や若者の集会所の庭、神社や寺の境内などが力比べの場所でした。
ただし、有名力持ちを招いての興行は寺や神社の境内が多かった。
当時はこうした場所が、文化の発信地でしたから。


現在、多くの力石は境内などに保存されていますが、
これは元からここにあったというより、力石が廃れて行き場がなくなったため、
あとから運ばれてきた石が大半です。


また、寺の住職の中には、
自分の墓石を力のある若者たちに担いでもらいたくて生前、力石として提供。
当県内にも2か所ほどに、そんな墓石があります。


東牛和尚の墓石です。地区の集会所わきにあります。
ここは昔の若者たちの遊び場だった。
CIMG0141.jpg CIMG0142 (2)
静岡県藤枝市兵太夫・阿弥陀堂

 有名力持ちの担いだ石はだれもが挑戦できた

見事に担ぎ上げたら、挑戦者の名前を先人の横に刻んで栄誉を称えた。

今は有名力持ちの石ほど民俗文化財になっているため、追記はできません。

でも、現代の力持ちに担ぐことを許して、見事担いだら名前と年号を刻み、
それを後世につないでいけば、「石は生き続ける」と、私は思うのです。


 江戸時代は力石の争奪戦が起きたほど、若者たちは熱中した

力石を巡って若者たちの争いが激しいので、
町内総代が取り上げて神社に預けたが、それも盗み出してしまった。

今後はこのようなことがないようにしますと、
町内総代と若者総代が奉行所に誓った、
そんな文書が静岡県沼津市に残っています。


「若衆組」の新人の組入り。長老から訓示を受けている。
日本で一番、「若衆組」が発達し機能していた伊豆の若者たちです。
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 人力の時代の力石は、
仕事、暮らし、結婚などに直結していた。明治以降は戦争につながった


力のあるなしで採用や給金が決まりました。だから、
豊かな暮らしが保障された力持ちは、娘たちのあこがれの的でした。


明治になると、
若者たちの自治組織だった「若衆組」が国策で「青年団」に改編され、
国の機関の一つとなって、
日清、日露、第二次大戦の戦争へ若者たちを駆り立てました。

この制度を利用して、
国が若者の力を巧みに利用したと言っても過言ではありません。


各地の村に残る当時の資料を見ると、
兵隊の検査がきた若者は氏神さんへ集まって石をあげ、 
無事、持ち上がると「これで甲種合格間違いなし」と喜び、
担いだまま村中に見せて歩いた話があります。

健康で力のある若者ほど、命を散らしました。


東京の下町には、
戦死してしまった息子の墓の前に、生前愛用した力石を置いて、
息子をしのび、残された親自らがそれを生きがいとした例も。


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昔の人々は力持ちが持った力石には特別な力が宿っていると信じていました。

その霊力に頼り、妊婦さんが石に手を置いて「安産祈願」をしたことも。

「暮らしの中に力石が生きていた」時代は、こんな感じでした。


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そばつぶさんの大事件!

そばつぶさん
11 /03 2022
現代の力持ち・そばつぶさんから久々に便りが届きました。

そばつぶさんは石川県金沢市在住のチャレンジャーです。




届いた便りを見て、大笑い!

富山県小矢部市の棚田神明社で、大事件が勃発!

なんでも、神社の境内隅にあった力石が、
何者かによって参道わきに移されていたっていうんですから。

この珍事に神社関係者の方々、石が一人で動くはずはないし、
人為的だとしても、いたずらとも思えないしと困惑。

そこで新聞社に協力してもらい、
「心当たりのある人は教えてほしい」と呼びかけたそうです。

なにしろ100㎏もある石を始め6個もの石が、
引きずった痕跡もなく移動していたというんですから、

そりゃあ、驚きます。

詳しくは下記の新聞記事をご覧ください。


「盤持ち石が移動 誰が?」

その「犯人」は、なんと「そばつぶさん」だったのです!

神社の関係者から新聞社に通報されちゃったんですね。(*゚Q゚*)

そばつぶさん、すぐ宮司さんと総代さんに連絡して、
謝罪と移動させた理由を説明したそうです。

「この素晴らしい力石が境内の隅に追いやられ埋もれている姿を見たら、
我慢できなくて、人目に付くところへ、と。
事前に宮司さんに連絡すべきでした」と反省しきり。

厳重に罰せられると覚悟したが、そうはならなかった。

逆に神社関係者から、
「力石に興味を持ってくれる人がいて嬉しい」と声を掛けられ、
みなさん、笑って許してくださったそうです。


その顛末は下記のtwitterでご覧ください。

「そばつぶtwitter」

確かに、やり方は少々荒っぽかったですね。

そばつぶさんは、忘れられ泥を被っていた力石を哀れに思い、
この力石に今一度命を吹き込むには、
皆さんの目に触れるところに置くしかない、

そういう一途な思いで突っ走ってしまいました。

でも棚田神明社の関係者さまや地元のみなさまは、
そういうそばつぶさんをご理解くださった、

本当にありがたく思いました。

令和の時代に、こんなにも熱き思いを持った若者がいる、
そのことを誇りにしていただけたら、
力石にかかわっている者として嬉しい限りです。

これを機に、

力石へのご理解とふるさとの名もなき先人たちの偉業を、
今一度振り返っていただけたらと思っております。


そばつぶさんのインスタグラムより。富山県小矢部市・法楽寺
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その後、そばつぶさんは「時の人」になってしまったようで、
テレビで取り上げられました。


「重さ100キロの石が動いた」

テレビ局の人も力石(盤持ち石)の存在を知らなかったんでしょう。
思いがけず注目されてしまいました。

「急にこんなことになって取材を受けて、心の整理が追いつかないんです」
とそばつぶさん。


「人物と目的が判明」

     ーーーーー◇ーーーーー

     そばつぶさんへ

twitterを拝見して、たくさんのファンができたことに驚くやら嬉しいやら。
これもそばつぶさんの「力石への愛」のたまものですね。

みなさんにその心意気と優しさと強さが伝わったのだと思います。
力石を持てないのに力石を語る私メですが、心から応援しております。

マスコミが取り上げてくださったのは、力石にとっても地元の方々にも
いい効果をもたらしたと思います。
そしてそれはまぎれもなく、そばつぶさんのおかげです。

でも、このあとが正念場です。

あんな重い、忘れられた石ですし、
石担ぎは誰の力も借りられない自分自身との孤独な闘いですから、
注目を浴びたいなどという浮ついた気持ちはさらさらなかったことは、
みなさんにもわかってもらえたはずです。

でも、注目されるのは悪いことではない。
作家でも政治家でもアーティスト、芸能人、スポーツ選手、市井の人、
だれでも「一番になりたーい!」欲望があるからこそ、頑張れます。

そしてそれが世の中に新風を起こす。そのことは今回のことでもわかります。

ただ、油断は禁物です。

「人間離れした力技」と持てはやされるのは一時と心得、有頂天にならず、
今まで通り地道に力石と向き合い、失敗を恐れず、無理をせず、
結果はおのずとついてくることを肝に銘じて、
わが道を究めていってくださいね。


私としたことが偉そうにお説教をしてしまいました。
お許しを!

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雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞