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駿府城への通船は本当にあったのか

小論文
09 /29 2022
「雁木」をテーマに書いた「雁木にフォーカスしてみた」を終えて、
いまだに引っかかっているのが、「横内川の通船説」です。

著名な郷土史家や歴史家の先生が著作などで、

「駿府城本丸と清水湊は、湊➡巴川➡横内川を経由して繋がっていて、
御城米などを積んだ船が三の丸の「水落」から二の丸の堀へ入り、
船着場で荷揚げして米蔵へ納めた」

と主張しています。
そしてこれが「定説」となって、今もネット上などで拡散されている。


堀に架かる東御門橋からみた高麗門。この門と御水門の間に米蔵があった。
駿府城高麗門

しかし、これを否定する声は昔から根強くあった。

「城から流れ出る横内川は幅も狭く浅いから、船が通ったとは思えない」
「水落ではドドーッと凄い音を立てて水が落ちていたから怖かった」


現在の「水落」です。
ここで「船の向きを変えて横内川を出入りした」とされてきたのだが…。
20220906_094750.jpg

清水湊は江戸時代以前は「江尻湊」といった。
そこから繋がる巴川もかつては、「江尻川」と呼ばれていた。

鎌倉時代にはこの川を経由して、上流部の村々から鎌倉へ木材が送られ、
江戸時代を通じて年貢米を積んだ船が下った。

江戸初期には、
駿府築城に使う石材や木材が、清水湊➡巴川➡十二双(社)川を通り、
城近くの熊野神社の船着場まで運ばれた。

※「十二双(社)は、熊野神社のこと)

明治27年、300年振りに巴川から拾い上げられた城の石垣用の石。
img20220906_18155238 (2)

江戸時代半ばごろにも十二双川を利用した記述が名主日記に出てくる。

この十二双川は川幅が広かったものの、
巴川の船着場「上土」の上流部に位置していたため、
町の商人たちは駿府への最短距離の、
上土に直結した「横内川」の開削を望み、何度も幕府に嘆願書を提出。


現在の横内川は暗渠となり、石碑だけが残っている。
20220906_100246.jpg

しかし、巴川を生活に利用していた村の郷土史2誌を見ると、
横内川の通船は実現しなかったようだ。

2誌はこう書いている。

「江戸の初め、城の水を放流するために横内川を掘削した」
「慶長7年の武徳編年集成に、江戸初期、通船のための拡幅工事を
巴川側から試みたが、出水多く一日で断念したとある」

「その後何度も横内町の商人たちから拡幅開削の嘆願書が出されたが、
この川を農業用水に使っていた周辺農民たちから、
水が使えなくなれば年貢米に支障をきたすとして反対され実現せず」

「江戸末期の天保14年、水野忠邦の天保の改革で、巴川から横内川への
通船路の開発が企画され、巴川側から200間掘り進んだところで、
翌年の水野失脚によりとん挫」


このことは川の石垣用の石の供出を命じられ、工事がとん挫したため
石を捨てざるを得なかった東村の名主日記にも見える。


今も旧東村の山上に残る石切り場跡。写真は放置された矢穴のあいた石。
東村石切り場

結局、「この一件は未完の終結となった」と、2誌とも書いている。

では通船の代わりにどんな手段で清水湊から駿府へ物資を運んだのか。

その答えを10年ほど前に郷土史家が「定説に挑む」の講演で、

「牛車が隊列を組み、別ルートの陸路で運んだ。
今もその道が牛道として残っている」と明かし、
「巴川➡横内川運河は幻に終わった」と、結論付けている。

この「牛車」で陸送という運搬は、経費も時間もかかる。
横内川経由なら駿府へは最短距離で、輸送にかかる負担は少なくて済む。

横内町の商人たちが幕府にたびたび「横内川の拡幅開削」を嘆願したのは、
これが大きな理由であったという。


隊列を組んで牛道を行く牛車。
img20220908_11084575 (2)
「東海道便覧」

駿府城の絵図はいろいろ残されているが、「船着場」の記載はない。
また、発掘調査に携わった方への問い合わせでは、
「雁木跡は出てこなかった」とのお返事をいただいた。

船着場とされてきた場所は幅が狭く、鍵型に折れ曲がっている。


青丸が「水落」。茶丸の鍵状の水路が「船着場」とされてきた「御水門」
黄丸は「東御門橋」。ここと御水門との間に「米蔵」があった。
img20220906_18130690 (5)

なぜ鍵状の水路にしたかについて、こんな説がある。

本丸の堀の水が溢れないよう調整する必要があり、
一気に流すことのないよう鍵状にした。また侵入者を防ぐための工夫。

水路の形状や流域の郷土史の記述から見て、
私は、「船の航行はなかった」との思いに至らざるを得なかった。

しかし、今なおネット上や城のボランティアガイドさんたちは、
「清水湊と駿府城の間に船が行き来していた」ことを拡散し続けている。

静岡市では駿府城の発掘調査に熱心で、
このたび長年の夢だった「静岡市歴史博物館」がオープンした。

この「通船はあったか、なかったか」への明確な答えを、
市では出すべきではないかと私は思っております。

また、どなたか、ご教示いただければ幸いです。


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「雁木」にフォーカスしてみた(最終回)

小論文
09 /27 2022
6回ぐらいで終わるつもりが、いつものおしゃべりが過ぎました。

「これは論文じゃないよ」と、
大阪民俗学研究会の田野先生、苦笑しているかも。

ま、性分です。


最後の〆、新居関所の船着場です。

全国で唯一の現存関所です。国指定特別史跡。

江戸時代はこんな感じ。


「東海道名所図会」より、荒井(新居)関所と船着場の部分。
船着場から上がってすぐの、木を組み合わせただけの黒い「関門」にご注目。
img20220617_12150767 (3)

復元したのがこちら。

この船着場を上がり、まっすぐ行くと「大御門」、右の大きな建物が「番所」


1995年に私が撮影したときと違っています。⑩参照。
そのときは屋根のない「関門」でしたが、現在は屋根付き。
でも「東海道名所図会」には、1995年の写真と同じ関門が描かれています。
新居関所大御門入り
新居関所史料館提供

こちらの絵図は江戸末期~明治初年の巻物。作者不明。

左右に船着場がある。
ここの船着場は一か所のはずなのに、
どちらにも階段状の雁木に似た石段が描かれている。


取締りが厳しかった関所も、時代が下るに従い関所の機能が低下。
そのため、無断で浜名湖を往来する人が増えたという。

この絵は幕末から明治初期に描かれたということなので、
人の往来が自由になった頃の情景なのかも。


絵図・地図2(通364)関所絵図 江戸末期 県指定
新居関所史料館所蔵・提供

新居関所の詳細は下記のURLでどうぞ。
見取り図や動画でわかりやすく説明されています。


「新居関所」

ーー課題ーー

同じ石階段なのに「雁木」と呼ぶ場所と呼ばない場所があるのはなぜか?
近世城郭の船着場の雁木の紹介が極端に少ないのはなぜか?


ーー県西部の沼津市の場合を、
       沼津市歴史民俗資料館にお聞きしました。ーー

「かつて狩野川に張り出した河岸は「だし」と呼ばれていましたが、
断面楕円形または直線的な石積みのようです。
ただし、階段状にはなっていないようです」

「沼津港は戦前に掘り込み港として作られたもので、垂直の岸壁です。
浦地域の昔の絵はがきを見ましたが、船の上げ下げに斜めの床が作られ、
岸壁は直線的のようです」

「このころ作られた狩野川の親水堤は、「階段堤」と呼ばれているようです。
ということでわかる範囲では、「雁木」という呼び名は確認出来ませんでした」

残念。

下の動画は沼津市で今も運行している渡し船
「我入道(がにゅうどう)の渡し船」です。



「雁木考」の終わりにあたり、私の好きな句を。
俳人・種田山頭火が放浪の旅の途中、浜名湖で詠める句です。

「水のまんなかの道がまつすぐ」

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「雁木」にフォーカスしてみた⑪

小論文
09 /25 2022
関所の厳しさと渡船の危険から、
旅人が湖北の本坂道
(姫街道)の陸路を歩くようになった。

そのため、渡船で潤っていた新居宿は困窮。

そこで、ほかの五カ宿と共同して本坂道の通行停止を幕府に嘆願した。


「東海道新居関所の研究」(近藤恒次 橋良文庫 1969)によると、
「この嘆願を受けて幕府は船の安全航行のため、荒井、舞坂間の中瀬に、
波除の杭を打った。その数5,628本。その航路を大名の一行が
多い時で160隻も渡った」


この杭は波戸といい、
広重の「東海道五十三次之内舞坂・今切真景」に描かれている。
絵では数本だが、実際は5,628本。
広重舞坂
国立国会図書館デジタルコレクションより

江戸の狂歌師で幕府の役人だった大田蜀山人は、
享和と元号が改まった年
(1801)に、公用で江戸から難波(大阪)へ出かけた。

その旅のつれづれに記したのが「改元紀行」

蜀山人は役人だから関所もスイスイ。
新居宿の酒家
(酒屋)に立ち寄り、おいしいと聞いてきたウナギを食べた。

その味、「ことによろし」かったそうで…。

旅籠(はたご)「紀の国屋」の当時のメニューは、
ごはんにみそ汁、アサリのむき身、そしてやっぱり名物のウナギ。


さて、新居といえば有名なのが「遠州新居の手筒花火」です。

これです。
「花(花火)を浴びて男気を示す」新居の男衆です。
参加資格は18歳以上。成人の通過儀礼でもある。
img20220917_10324258 (2)
新居町役場提供。この写真お借りしてすでに27年。おじさん、元気かなぁ。

私が撮影したのがこれ。当時の新聞の県内版はモノクロだった。

img20220918_02463876.jpg

翌年行ったら、若い女性たちがイナセな姿で手筒を抱えていた。
火の粉に浮かんだ彼女たちの緊張した顔が非常に美しかった。


こちらは静岡市郷島(ごうじま)「郷島煙火大会」

手筒花火は孟宗竹に畳表を巻き、その上を荒縄で固く巻いたもの。
節を抜いた竹の中に火薬を詰めるが、その作業が一番難しいという。

この手筒には、最後に底が抜けるものとそうでないものがある。

郷島のは最後に筒の底が抜けてドカンと大きな音がするように、
火薬に「ハネ粉」を入れるそうで、
動けば危険なため、腰を落として安定させた姿勢を保つ。

一方、新居のは底が抜けない作りのため持ったまま乱舞できる。


しかし、どちらも爆発の危険は常にある。

「郷島の手筒」です。
市内最大の火薬量の筒を持った男衆が一列に並ぶ。
巨大な火柱が立ち、火の粉が雨のように降り注ぎ、最後に筒の底が割れて
ドカンとものすごい音と煙が地面を揺るがす。
CIMG1525_2022092211525832e.jpg

新居の男たちは「恐怖が快感に変わり陶酔していく」と表現していたが、
命がけで恐怖の極限に挑む郷島の男たちはあまりにも神々しくて、
声をかけるのもはばかられた。


CIMG1521_20220922120715593.jpg
静岡市葵区郷島

さて、浜名湖です。

地震以前、ここを通った「東関紀行」の作者は、

「南に海潮(遠州灘)あり。漁舟波に浮かぶ。北に湖水(浜名湖)あり。
人家岸につらなれり。湖に渡せる橋を浜名となづく」
と、湖が切れる前の情景を書いているが、


その「岸につらなっていた」人家も、地震でことごとく海中に没した。
だが浜名の橋の跡は長く残っていたという。


蜀山人は輿(こし)を担いでいた者に橋の跡を尋ねたら、
「教恩寺の四辻の向かいに道があって、その先に橋の跡がある」
と教えられた。だが公務の身ゆえ、あきらめて先を急いだ。

そのとき作れる歌。


「いにしえのはまなの橋の跡問えば
           風吹きわたる松のひとむら」


教恩寺の境内です。1995年撮影
img20220918_02463878.jpg
新居町浜名

このときの私のお目当ては、天然記念物の「大イチョウ」

だが行ってみたら、無残な切り株になっていた。
台風で倒れたとのこと。

そこでわたくしメの詠める歌。


「いにしえの寺のイチョウを尋ぬれば
             虚ろな穴を残すひと株」


あ、しまった。話が逸れすぎました。「雁木」でしたね。

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「雁木」にフォーカスしてみた⑩

小論文
09 /22 2022
舞阪の対岸、関所のあった「新居」(荒井)の船着場をみていきます。

新居の関所は元は「今切関所」といった。
地震などで2度移転。

設置は箱根関所より20年も早く、
関ケ原合戦後の慶長5年(6年説もあり)のこと。

箱根、福島とともに最も重要な関所として、厳重な取り締まりをおこなった。

「国指定特別史跡」の新居関所。1995年撮影
img20220917_10301229 (2)
静岡県湖西市吉見

裸の放浪画家・山下清もここへ来た。

「山があって道があって、
道のそばに握り飯をくれそうな家があって、海岸に近い町」

そういう町が好きで、
「(本当)の景色の方が絵よりきれい」と思っていた清が、
周囲の勧めではり絵による「東海道五十三次」の制作を始めたのは、
昭和40年、41歳のとき。


清の「関所跡」と題したペン画が残っている。
自転車に乗った少年と少女が関所の門前を走っている絵だ。

「種子島の船着場でおまわりに捕まって追い返された」清にとって、
黒々といかめしさの漂う関所跡は、
気の進まない画材だったのではないだろうか。


広重と三代豊国の共同制作「双筆五十三次・荒井」
女が男装しているのではないかと疑い、改め婆さんが下半身を改めている。
荒井
国立国会図書館デジタルコレクションより

幕府は人質として江戸に住まわせていた奥方の逃亡を防ぐため、
江戸から出る「出女」と、江戸へ向かう「入り鉄砲」を警戒した。

ここを通るには手形(許可証)が必要で、その手形も、「小女」を「女」と
書いただけで、「記録に相違あり」として通行を許可しなかった。

近在の女性たちも同じ扱いだったので、
遠くても手形のいらない三河(愛知県)と縁組をした。


こうした厳重な取り調べから逃れるためと、
宝永4年(1707)の大地震で今切れ口がさらに広がり、
渡船での往来が危険になったため、
旅人は湖北にある本坂(姫街道)の陸路をとるようになった。

とはいっても、そこにも関所があり、


「気賀関所」
気賀関所2
浜松市北区細江町気賀

「改め女」もいた。

気賀関所1

でも、抜け道があったんです。

通行手形がなければ通れないので住民は不便。
そこで領主が裏道を作った。

それが「犬くぐり道」です。

「犬がくぐるなら差し支えない」というわけで、
犬のように四つん這いになって通行した。武士は絶対通らなかったが、
お尋ね者には好都合だった。


「犬くぐり道」
CIMG3318.jpg

旅の自由を奪い人々を威嚇し続けた関所。
そんな関所跡で、山下清はこんな感想を残している。

「人に知られないようにこっそり歩くには、山道か野原がいいな。
舟や渡し場はとがめられやすいものな」

でもこの浜名湖の最奥、細江の奥浜名湖には、
こんな美しい光景があったんです。


「澪標(みおつくし)

航行する舟を安全に導くための標識です。
img20220617_11112672 (2)
「姫街道ー細江ー」細江町役場企画商工課 平成7年より

「遠江引佐細江のみおつくし(澪標)
      あれ(吾)をたの(頼)めてあさましものを」 万葉集巻14

小舟が澪標を頼るように私を信じさせておきながら、
あなたは浅い(軽い)気持ちだったのねと「恨み言」を歌ったもの。

裏切られて「く、くやし~」と嘆いたのは、
男だったのか女の方だったのか解釈はいろいろ。


遠江(とほつあうみ)は遠江国。引佐(いなさ)・細江(ほそえ)は地名。
(みお)は水脈。
「みおつくし」には「身を尽くす」という意味もあります。

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「雁木」にフォーカスしてみた⑨

小論文
09 /20 2022
「舞阪の地名」(舞阪町立郷土史料館 舞阪町 2005)によると、
ここの雁木の名称は、「通称」「別名・別記」とあり、
以下の通りになっている。


●南に位置した雁木は、通称は「渡荷場(とうかば)
別名・別記は「南雁木」「南船着場」で、荷物と庶民用
●中に位置した雁木は、通称は「本雁木」
別名・別記は「中雁木」「中船着場」「中船場」で、武家用。
●北に位置した雁木は、通称「北雁木」
別名・別記は「北かんき」「北船着場」「北船場」で、大名・諸侯用

舞阪町の松並木。江戸時代は3000本。この時は340本。1995年撮影
img20220916_22405746 (3)

「古地図で楽しむ駿河・遠江」
(加藤理文編著 戸塚和美執筆 風媒社 2018)に、
舞坂の雁木を「階段状」に築いた雁木と説明していたが、
ここは「石畳」で階段状ではない。

江戸時代の絵師たちも思い込みからか、階段状に描いている。
絵図はあくまでも絵であって、そのまま信用できない事例の一つ。


「東海道分間延絵図」の「舞坂宿」の部分です。

浜名湖東岸の船着場3カ所が描かれているが、
全部、「階段状」に描かれている。
img20220902_09295498 (4)
東京国立博物館デジタルアーカイブズより

五雲亭貞秀の「東海道五十三次之内舞坂宿並姫街道望遠」も
同様に階段状で、一か所のみになっている。

しかし、浜松市教育委員会設置の説明板には、こう書かれている。

「雁木とは階段状になっている石階段の船着場のことで「がんぎ」というが、
ここでは「がんげ」といい、石畳が往来より海面まで坂になって敷かれていた」

ちなみに「舞阪」の古代名は「象嶋(きさじま)
赤貝がよく獲れたため、
貝殻の放射状の「刻み」の「キサ」からきた地名との説もある。

こちらはその「キサ」を冠した神社、「岐佐(きさ)神社」です。
主祭神は「きさがい(赤貝)比売命」、
もう一人の祭神は「うむがい(はまぐり)比売命」

赤貝とはまぐりが神さま…。いかにも浜名湖らしい。

兄弟たちに妬まれて焼けた大石を落とされた大国主命は大やけど。
そこでこの二人の比売命が削った貝殻を乳汁で溶いたものを塗ったら、
大国主命は「たちまち麗しき男」になったそうな。
img20220617_12323724 (2)
北雁木のすぐ近くにあります。

下の写真は友人と舞坂の脇本陣を訪ねたとき、
某新聞社の記者に頼まれて、モデルになったときのもの。


ガイドのおじさん、
記者の要望に応えてお釈迦様の如く指で天を指したまま動けず。

奥にいる女性もサクラです。


img20220914_09501335 (2)

このままの姿勢で居続けるというのもなかなか大変で。
若い友人が思わず「アハハ!」と。

でもおじさんは直立不動。真面目な方なんですね。


img20220914_11012612 (3)

残念ながら、これはボツになったと、
記者さん、すまなさそうに写真だけ送ってくれました。

いい写真だと思うけどなぁ。ちょっとピンボケだけど。

あ、小論文に私情を挟んでしまいました。
ド素人がモロに出てしまいましたがお許しを!


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「雁木」にフォーカスしてみた⑧

小論文
09 /18 2022
静岡県で唯一の「雁木」は、県西部の浜名湖東岸の「舞阪」にある。

ここの雁木にはほかにはない特徴がある。


「がんぎ」ではなく「がんげ」と呼ぶ。
3カ所あって、身分によって分かれていた。現存するのは一か所。
波除の石囲石垣(いしかこみいしがき)を構成する一つとして造られた。
もっとも大きな特徴は、「石階段」ではなく、「石畳」であること。

古絵葉書に見る「舞阪・北雁木」
幕末・明治のころか? 右下に「石畳状の雁木」が見えている。
img20220902_09295498 (3)
舞阪町立資料館所蔵

江戸時代、対岸の新居に関所が設けられたため、
渡船の管理の一切は新居宿にあった。
寛永3年(1750)の書き上げでは、渡船100余艘、船頭頭15人、水主240人。

不思議なのは、
舞坂と新居の渡船場は、管轄が新居で同じなのに、
船着場の作りも対応も呼び名も違うこと。


舞坂では身分別に分かれていたのに、新居の渡船場は一カ所のみ。
同じような作りであるのに、「雁木」という名称を使っていない。

なぜなんだろう。


国指定特別史跡。復元された渡船場。建物は関所。
警備の都合で一か所に限定したのだろうか。
新居関所
新居関所史料館提供

水が引いたときの様子。

新居 (2)
新居関所史料館提供

下は1995年撮影当時の舞坂の「北雁木」。

このときは、従来からの石をはがしてコンクリートを打ち、
水際のみ砂地になっていた。

遠くに見えるのが弁天島のホテル群。
ここは観光場所にして、現役の漁港という珍しい形態になっている。
img20220602_22544844 (3)

通常「雁木」は、「板状に石を水際まで敷き詰めた船着場」「石積み護岸」
「テラスを持つ階段」などと紹介されている。

また、「雁木」は直接、港湾施設を示す用語ではなく、
一般には階段状の構造物を意味している。
舞坂のような「石畳状」の船着場を「雁木」と呼んだのは、
あまり例がないのではないだろうか。

復元された現在の「北雁木」です。

コンクリートをはがして、元の姿になっている。
舞阪の雁木の石材は浜名湖周辺のチャート。一部に石灰石が混入。
雁木
舞阪町観光協会提供

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「雁木」にフォーカスしてみた⑦

小論文
09 /16 2022
浜名湖東岸の雁木について

他県では「雁木」はさまざまなところにあるが、
静岡県では塁上に上るために設置された近世城郭にはあるものの、
船着場には浜名湖東岸の舞阪
(浜松市西区舞阪町)にしかない。

ここは南に太平洋、北と西に湖という三方を水に囲まれた地域。

広重「東海道五拾次之内舞坂・今切真景」です。

宝永6年(1709)、今切湊の改修工事が行われ、波除のため舞坂の前浜に、
「波戸」(杭木)を打ち込んだ。この絵にその杭木が描かれている。
船はこの杭木に沿って航行。対岸の新居までは海上27町。
「膝栗毛」のやじきたは、この船に乗り合わせた蛇使いの蛇でひと騒動起こす。
広重舞坂
国立国会図書館デジタルコレクションより

湖が切れたのは室町時代の明応7年(1498)8月の地震で、
以降、そこを「今切れ口」と呼ぶようになった。

※ただし、今切れ誕生の時期には諸説あり。

以後、荒井村(現・新居)と前沢村(現・舞阪)間は渡船となる。

戦国~近世には舞阪に「往古上り場」という渡船場があって、
当時の駿河の支配者・今川義元が築造したとの伝承がある。

河口が切れる以前は東岸(舞阪側)と西岸(新居側)の間を
浜名川が流れていた。その川に架橋されていたのが「浜名橋」


「更科日記」の菅原孝標の女や、三十六歌仙の一人で979年、
駿河守として下向した平兼盛など多くの都びとがここを渡って往来し、
和歌や紀行文を残している。

舞阪宿の東の入り口に積まれた「見付石垣」です。


江戸中期、ここに番所が設けられた。
右側の道が旧東海道。まっすぐ行くと、「雁木」に突き当たる。1995撮影
img20220912_15464859 (4)

舞阪宿の対岸は「新居宿」

愛知と静岡の県境にまたがる高師山には鎌倉古道が走っていた。
建治3年(1277)、先妻の子に領地を奪われた阿仏尼は、
それを鎌倉幕府に訴えるため有明の月が残るこの高師山を越えた。


「ふと見上げるとその月も自分と同じように笠を被っている。
月もまた自分と同じ旅路に出たのであろうかと、物悲しくそれを眺めた」

その百年ほど前、ここを通った源頼朝は、浜名の「橋本宿」の娘と恋仲に。
頼朝亡きあと、娘は尼となり庵を結んだ。それが紅葉寺だとか。

でも「新居ものがたり」(新居町教育委員会)によると、
尼になったのは頼朝ゆかりの娘ではなく、
四代将軍頼経の相手をした娘のほうだと書かれていた。


どちらにしても悲運の娘が尼になった。
その人が暮らしたという紅葉寺跡の石仏群です。1995年撮影
img20220912_15464859 (3)

「舞阪の地名」(舞阪町立郷土史料館 舞阪町 2005)によると、

このころの「舞阪」は、「前沢」「廻沢」「舞沢」といった。
戦国時代は「前坂」
江戸時代になると「舞坂」(徳川家康朱印状)。

明治になると「坂」の字は土に返ると書き、縁起が悪いので「阪」に変えた。


「大阪」も「坂」から「阪」になったが、同様の理由だったのだろうか。

舞阪宿の「雁木」の成立

江戸幕府は明暦3年(1657)から寛文元年(1661)に、
水害から宿場を守るための石垣を、舞阪宿を取り囲むように南北西の三方に
設けて、大名の参勤交代に備えた。

これを「宿囲(しゅくかこみ)石垣」といい、
この中に「雁木」3カ所も含まれている。
つまり、雁木は宿囲石垣を構成するひとつとして造られた。


雁木地図
出典「舞阪の地名」

なお、地元では「がんぎ」ではなく、「がんげ」と呼んでいる。

安政2年(1855)の「御普請石垣往還道橋下目論見帳」には、
「北雁木」を
「北かんき」と濁らず記載している。

「東海道名所図会」に描かれた「舞阪」の「本雁木」です。

ここには渡船場が3カ所あり、
大名用、武士用、荷物・庶民用に分かれていた。

東海道から真っすぐ繋がるのが「本雁木」で、ここは武士用の渡船場だった。


img20220617_12131308 (3)

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「雁木」にフォーカスしてみた⑥

小論文
09 /14 2022
東京の雁木は多くの作家に書かれています。

淡島寒月の随筆「梵雲庵雑話」の中の「滅び行く江戸趣味」に、

「向島は桜というよりも、むしろ雪とか月とかで優れて面白く、
三囲の雁木に船を繋いで、秋は紅葉を…」


三遊亭円朝「業平文治漂流奇譚」に、
「向島の牛屋の雁木から上り、船を帰して…」

ここに出てくる「三囲」は、
隅田川沿いにある三囲(みめぐり)神社
(東京都墨田区向島)のこと。

三囲神社の「微笑みのキツネ」。あいだに力石が見えている。
三囲

ここは三井家の神社で、宝井其角の「雨乞いの俳句」で有名。
この川沿いを「墨堤(ぼくてい)」といい、桜の名所だった。

花見客は対岸の「待乳山聖天」から小舟に乗り、
三囲神社前の「竹屋の渡し」で降りて雁木を上った。


左は淡島寒月の随筆に出てくる「竹屋の渡し」 
小寺健吉画。大正2年3月16日 読売新聞掲載。
右は「東京向島・墨堤より隅田川を望む」「日本名所写真図鑑」明治31年刊行。

小寺健吉・画読売大正2年3月16日掲載 img20220705_18382538 (2)

この崖を上ると、三囲神社の大鳥居に出る。雁木はここまで続いていた。

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「新撰東京名所図会」「三囲神社祭之図」東陽堂 1902

円朝の落語にはもう一つ、
「田町の雁木へ船を着けまして…」がある。
これは東京都港区の雁木坂のこと。


改めて「雁木(がんぎ)とは何?」を調べてみた。

まずは雁(がん・かりがね)から。

雁は大型の水鳥のこと。
この鳥が飛ぶとき、リーダーを先頭に隊列を組んでギザギザした形をとるので、
これに似た形状のものを言うようになった。


● 船着場の階段状の桟橋「雁木」
● 雪深い地方で町屋の軒からひさしを長く張り出したもの「雁木造り」

● 魚の名「ガンギエイ」
● 鋸刃状または剣先を並べたような模様を「雁木頭」
● 雁木はしご ● 雁木やすり ● 雁木のこぎりなんてのもある。

●棚(雁木棚)や滑車(雁木車)にもその名がある。

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「広辞苑」より

果ては心の問題として、
だんだん悟りを開くことを「雁木悟(がんぎさとり)」と言い、
流浪の人を「雁戸」、兄弟の序列を「雁序」、手紙の便りを「雁使」、
橋の上の桟を「雁歯」。


中国の関所は「雁門」。
ほかに「雁首(がんくび)」「雁字」「雁巻」。
「ガンモドキ」は形状ではなく味。


「鴈」「雁」の同義異体字だが、
一説には「雁」は「かり」のことで、「鴈」は「がちょう」のこととある。


上方歌舞伎の名優「中村鴈治郎」さんって「がちょう?」
とまあ、これは冗談。

また「かり」は鳴き声から来る犠声音だとか。

この「雁」の元の字は、「隹」(すい・とり)。
「隹」に「十」で「隼(はやぶさ)」、「隹」に「少」は「雀」。

大空を列を組んで渡りゆく「雁」の優美で強い絆を思わせる飛行は、
古来から日本人の心に強い印象と共感を与えてきた。


広重「名所江戸百景」・「よし原日本堤」
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国立国会図書館デジタルアーカイブズより

だが、同じ船着き場の石段でも「雁木」という地区はそれほど多くない。
雁の飛来する場所とそうでない所の違いと関係があるのだろうか。


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「雁木」にフォーカスしてみた⑤

小論文
09 /12 2022
3、川べりの雁木あれこれ

静岡市の巴川の場合。

巴川は④で取り上げた通り、
江戸時代は清水湊からの荷物が上った河川です。

舟便から牛車による陸送、明治になると牛車から軽便鉄道へと
輸送方法は変わっていったが、
個人の荷や農業用の舟は昭和初期ごろまで行き交っていた。

そのため船着き場は無数にあって、
「舟戸」「舟つき」「波止場」などの地名が残っているが、
雁木状の石段はあっても特別な呼び方はなく、
土地の人は「雁木」の名称すらご存知なかった。


巴川上流部の麻機地区は、往古は駿河湾の最奥部だったところで、
縄文、平安の大きな海進を経て海が後退したあとも、
周辺より海抜が低いため大小の沼が残った。

下の地図の赤丸は、石切り場があった東村の山です。

「切り出した石は反対側へ下ろし、波止場で小舟を繋げた上に乗せ、
沼から十二双川へ入って駿府へ運んだ」と名主日記にある。


黄色の「漆山」はかつての幕府の御林。今は「県立こども病院」が建っている。
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「(財)静岡県埋蔵文化財調査研究所 研究紀要Ⅲ 1990」より部分

江戸時代の巡検使も、この波止場を利用した。

こうした湿地帯での暮らしには舟は必需品で、
田植えや収穫時には田舟が活躍した。
この状態は河川の改修工事や土地改良事業が進むまで続いた。


「うちは米農家だったから田植えの時は腰までしか泥につからなかったが、
蓮根農家は胸まで泥の中でね。米農家でよかったとつくづく思ったよ」
とは、80代の地元の方の回想です。


地誌「駿河記」の作者・桑原藤泰が描いた東村の絵の部分。
農民が腰までつかって沼田を耕している。
img20220910_11260183 (2)

泥田で働く農民に発症したのが「こいはち」という病気だった。
寒気と高熱、手足が腫れるというもので、
体中が腫れるのを「身はち」、手足が腫れるのを「四ツ足こい」といった。

村人は「肥付石(こえつきいし)」という毒石に触ったからだと信じていたが、
今でいう破傷風だったのではないだろうか。


「肥付石」です。
この石に針金で作った鳥居を奉納すると病気が治ると信じられていた。
CIMG5522.jpg

舟は農家だけでなく、寺でも必需品だった。
巴川沿いの「東禅寺」の銅板画。右下に船着き場の石段が見える。
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船着き場の石階段。
img20220908_22595265 (3)

「河岸のうち」と題した巴川沿いの船着き場です。
著者によると、ここは瓦の製造工場とのこと。

「舟の荷物を積み下ろした所。およそ10m幅で段々がついていて、
7、8艘の舟がいた(長さ7m、幅1.5mで底が平らな舟)」

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「北街道と巴川」松本繁雄 私家本 昭和60年より

このようにたくさんの「雁木状の石段」があるが、
「雁木」という名称は使われていない。
当県でこの名称が確認できるのは唯一、県西部の浜名湖湖岸の舞阪のみ。
後述。


大阪・淀川、「難波橋」近くにも。

明治初年、F・ベアトが前方に難波橋を見る位置で雁木を撮影しています。

この雁木のことが、
水上滝太郎(1887~1940)の小説「大阪の宿」に出てきます。


主人公は三田という小説家で東京生まれ。
小説を書くために大阪の「土佐堀」に面した川べりの宿に逗留。
淀川へ上る舟と河口へ下る舟の絶え間ない間を縫って、方々の貸舟屋から
出る小型の端艇(ボート)が行き交う。
そんなある日、主人公も女性とボートへ乗った。その女性が言った。


「三田さん、あんた、ほんまに川べりの雁木へ行って、
あてと一緒にお月見しましょうよ」

広島県尾道市土堂の雁木です。

こちらは川べりではなく、「海岸の雁木」(復元)

大林宣彦監督の映画のロケ地にもなった。

「雁木のある風景」
No221_雁木のある風景
「尾道観光協会」「おのみちや」さん提供。尾道観光協会撮影

再開発される前の同じ場所の写真です。
満潮で水が家ギリギリまで来ていますが、わずかに昔の雁木が見えています。


「旧・尾道の海岸通り」
No813_旧・尾道の海岸通り
同上。榊原進氏撮影 1980年

林芙美子の小説「風琴と魚の町」に、
「蓮根の天婦羅を食うてしまって、雁木の上で…」と描かれたのはこの場所。

干潮で雁木が姿を現したときだろうか。


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「雁木」にフォーカスしてみた④

小論文
09 /10 2022
駿府城縄張り図には、確かに「御水門」が描かれており、
東北隅には「水落」があって、そこから一本の水路が流れている。

しかし、御城米ともなると、
何艘もの小舟が厳重な警護の中、航行ということになる。

静岡市の最奥の峠に保管されていた茶葉を駿府へ献上した折のことは、
「お茶壺道中」として今に語り継がれているが、
商家が並ぶ街道のド真ん中を行く「御城米」の船団についての話は、
ほとんど聞かない。


本当にこの川を御城米を積んだ舟が行き来していたのだろうか。

そこで視点を変えて、「郷土史」から検証してみた。

駿府への物資輸送は、物資集積地の清水湊から陸路と川舟によった。
その川舟の船着き場だった「上土(あげつち)」集落の
「上土誌」
(上土誌編集委員会 平成16年)から拾う。

「慶長6年(1601)、薩摩藩島津氏は駿府城築城のための石材や木材を、
清水湊から巴川を経て「十二双(社)川」を舟で遡り、駿府に最も近い
熊野神社辺で荷揚げした」

こちらは水中に落としてしまった駿府城・石垣用の伊豆石です。
300年後の明治27年、巴川製紙所で拾い上げて門柱にした。
img20220906_18155238 (2)

「ただ十二双川についての記録は「駿河国新風土記」や古老の言い伝えで、
正確な記録に乏しい」
(上土誌)

だが、巴川から十二双川へ乗り入れて運んだという話は、
名主の日記などにも出てくる。

いずれにしても、清水湊(江尻湊)に直結していた巴川(旧名・江尻川)は、
重要な輸送河川だったことは、水中に落とした石でも確認できる。

もう一つ、巴川の源流部の沼周辺に点在した7か村の郷土史、
「麻機誌」
(麻機誌をつくる編集委員会 昭和54年)からも拾う。

「築城中の慶長7年の「武徳編年集成」の記事に、
幕府は駿府への最短の道として北街道に目をつけ、
上土から掘削を始めたが、出水多く難儀して一日で取りやめたとある」

「当時の北街道は上土から横内までは水田灌漑用水のための竹の樋が
道路を横切って埋めてあったので、
破損を防ぐため牛車や荷車の通行は禁止されていた。
そのため、上土で荷揚げされた物資は、
人の背で北街道を運ぶしかなかった」
(上土誌)

昭和初期の巴川・上土の船溜まりです。
雁木階段が存在するが、ここでは「雁木」とは呼んでいない。
img20220705_18430042 (3)
「上土誌」より

低湿地帯にあって傾斜のほとんどない巴川は土砂が堆積しやすく、
洪水常習河川であったため、住民は常に水との闘いを強いられてきた。

そして、時代は次第に船の輸送から「牛車」での陸送へと変わっていき、
清水湊から東海道へ入り、直接駿府へ運ぶ運搬が盛んになっていった。

年号不明だが、清水湊の牛小屋頭の鳥羽屋が、
お上からのお尋ねに応えた文書が残っている。

以下、
郷土史家・北村欽哉氏の2014年の講演資料から引用させていただく。

「牛一車、四斗入り、九俵の定法。清水より府中まで、
その価五百文より八百文まで。府中より清水まで多くは空車にて
通行仕り候」
=牛小屋頭の鳥羽屋の文書。

隊列を組んで府中(駿府)へ荷を運ぶ牛車。
清水区には今もこの時の「牛道」が残っている。
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「東海道便覧」北村氏講演資料より転載。

だが、
牛車での陸送より巴川から横内川への通船のほうが時間も金もかからない。
そこで横内町の商人たちはあきらめず、
幕府に何度も「通船願い」を出すものの実現せず。

「寛政9年(1797)、商人たちは、
お堀の水が農業用水に使用されているのを利用して、
水落➡横内川➡巴川の「水路啓開」を願い出たがまたも実現せず」
(麻機誌)

左の高層ビルは静岡県庁。堀は駿府城三の丸の堀です。
元は右へ延びていたがここで切られ埋め立てられた。
横内川が流れていた北街道はこの先にある。
低いビルの間に見えているのが二の丸・東御門の巽櫓

20220906_102357 (2)

周辺住民の反対理由は、通船路開きにより田んぼの水に支障をきたし、
田地が潰れれば年貢米にもひびくというものだった。

天保14年(1843)、今度は「水野忠邦の天保の改革」により、
巴川、横内川の通舟路の開発が企画され、
沿岸の各村々に、
延べ数万人もの人夫や石の調達を命じて大規模工事が始まった。


だが、翌年、水野忠邦の失脚で、この計画もとん挫。
巴川の上土から始めた工事は、
横内川の掘割と石積みが200間ほど完成したところで中止となった。

そのため、
「各村々で準備された石積み用の石は不要になった」
(上土誌)

巴川の源流部の東村の名主は日記にこう記している。
「500個ほど切り出したが、不要になった石200個ほどは沼端に捨てた」

こちらは東村の名主や住民たちが働いた石切り場です。
山上にはこのように、矢穴をあけたままの巨石が放置されている。
山裾の神社にも石垣に転用されたり、放置された石が見られる。
東村石切り場

沿岸住民たちを総動員したものの、
「この横内川・巴川通船路一件は、未完の終結となった」
(麻機誌)
「こうして横内川通船路は陽の目を見ずに終わってしまった」(上土誌)

郷土史家の北村氏も「定説に挑む」と題した講演で、
「巴川運河は幻で終わった」としている。

結局、幕末まで通船はなかったことになる。

しかし、「御水門」の存在から、ネット上でもボランティアガイドさんも、
こぞって「定説」を伝えているが、本当にそれでいいのだろうか。


明治以降の駿府城は荒れるに任せ、狐狸の棲み処と化した。
そして、明治29年、静岡市から陸軍省へ献納され、連隊駐屯地として造成。
崩され埋め立てられて姿を変えた。


静岡市では破壊された城の発掘・復元を長い年月、手がけ、
今なお、調査を続けている。

その発掘調査に携わった学芸員さんに、船着場や雁木のことをお聞きしたら、
「雁木は確認できなかった」とのみ、答えが返ってきた。


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雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞