さよなら、病室 …53
田畑修一郎2
12月31日の大晦日。とうとう退院の日が来た。
兄が迎えに来てくれた。
兄は遠く北陸に住んでいるにも関わらず、
仕事の合間を縫って、留守番の子供の元へ時々来てくれていた。
今日、私は日常に戻る。
今まで寝ていたベッドから抜け出して床に立った時、
いよいよ自立へ向けてスタートするんだと思った。
ふと、ベッドを見ると、そこには私の体形と同じへこみがついていた。
そのへこみを眺めていると、ここで過ごした日々が次々蘇ってきて、
病室の人たちの顔が浮かんでは消えた。

パジャマから普通の服に着替えるのが気恥ずかしいような気もした。
窓際のベッドにハツエさんがいた。
相変わらずベッドに腰かけて、ぼんやり窓外を見つめている。
Tさんも女の子もいなくなった病室から、また一人出て行くのだ。
丸くなったハツエの背中が、わびしく痛々しかった。
私は勇気を出して、その背中に声を掛けた。
「お世話になりました」
ハツエの体が一瞬、ギクリと動いた。
入り口のドアに立って、もう一度声を掛けようとしたとき、
ハツエが小走りに駆けてきて、いきなり私の手を握った。
入院してきたときと同じように、ハツエは私の両手をしっかり握ると、
か細いけれど、力のこもった声で言った。
「家に帰っても無理しちゃダメよ。体に気を付けるのよ」
私の目をまっすぐ見て、言い足した。
「あなたはまだ若いんだから。これからだから、大事にするのよ」
紫のキクザキイチゲ

それからひと呼吸おいてから、こう言った。
「もう二度とここへ戻ってきてはダメ。帰ってきたらおしまいなんだからね」
腹のそこから絞り出すような、切実な声だった。
ナイトキャップを被ったままのハツエは、こけた頬を震わせながら、
幼な子に噛んで含めるかのようにそう言った。
私は何も言えなかった。
ハツエの目はいつの間にか、慈母観音のように穏やかになっている。
胸が熱くなって、言葉が出ない。
こぼれそうになる涙を必死でこらえ、それからようやく「はい」と返事をした。
その瞬間、私の手を握りしめていたハツエの手が、スッと離れた。
思えば、ここにいる誰もが優しかった。
産婦人科病棟の廊下は長く、
その中ほどに四六時中、ナースステーションの緑の文字盤が光っていた。

そのナースステーションを挟んで、左側が病んだ女性たちの病棟で、
右側には出産した健康な女性たちの部屋が並んでいた。
その生と死のはざまで、緑の文字盤はこの日も光り続けていた。
そのぼうっとした光を見ながら思った。
ここは、決して悲嘆にくれる場所なんかではなかった、と。
夜になるとそれぞれのベッドで、みんなこっそり泣いていたけれど、
死ぬことなど誰も恐れてはいなかった。
死ぬことなど恐れてはいなかったけれど、
誰一人、絶望する人はいなかった。
医者から告知されなくても、みんな自分の病気を知っていた。
ただ、家族には知らない振りを通していた。
それが患者としてのたしなみだとでもいうように。

夜、救急車や消防車のサイレンを聞くと、みんな一斉に電話へ走り、
自分の体より母のいない家を気遣った。
そんなとき私は、隣室のFさんのことを思わずにはいられなかった。
まだ若いFさんは幼な子を遠く長野の実家に預けてここにいた。
すでに長期の入院だという。
いつも物静かなFさんが、ある日、こんなことを口に出した。
「娘がね、私を忘れてしまって。たまにしか会わないから。
私が抱っこしようとすると、怖がって泣き出すんです。
おばあちゃんをママだと言って。
どんどん大きくなって、私の知らない娘になっていくんです」
そう言って、大粒の涙をハラハラ落とした。

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兄が迎えに来てくれた。
兄は遠く北陸に住んでいるにも関わらず、
仕事の合間を縫って、留守番の子供の元へ時々来てくれていた。
今日、私は日常に戻る。
今まで寝ていたベッドから抜け出して床に立った時、
いよいよ自立へ向けてスタートするんだと思った。
ふと、ベッドを見ると、そこには私の体形と同じへこみがついていた。
そのへこみを眺めていると、ここで過ごした日々が次々蘇ってきて、
病室の人たちの顔が浮かんでは消えた。

パジャマから普通の服に着替えるのが気恥ずかしいような気もした。
窓際のベッドにハツエさんがいた。
相変わらずベッドに腰かけて、ぼんやり窓外を見つめている。
Tさんも女の子もいなくなった病室から、また一人出て行くのだ。
丸くなったハツエの背中が、わびしく痛々しかった。
私は勇気を出して、その背中に声を掛けた。
「お世話になりました」
ハツエの体が一瞬、ギクリと動いた。
入り口のドアに立って、もう一度声を掛けようとしたとき、
ハツエが小走りに駆けてきて、いきなり私の手を握った。
入院してきたときと同じように、ハツエは私の両手をしっかり握ると、
か細いけれど、力のこもった声で言った。
「家に帰っても無理しちゃダメよ。体に気を付けるのよ」
私の目をまっすぐ見て、言い足した。
「あなたはまだ若いんだから。これからだから、大事にするのよ」
紫のキクザキイチゲ

それからひと呼吸おいてから、こう言った。
「もう二度とここへ戻ってきてはダメ。帰ってきたらおしまいなんだからね」
腹のそこから絞り出すような、切実な声だった。
ナイトキャップを被ったままのハツエは、こけた頬を震わせながら、
幼な子に噛んで含めるかのようにそう言った。
私は何も言えなかった。
ハツエの目はいつの間にか、慈母観音のように穏やかになっている。
胸が熱くなって、言葉が出ない。
こぼれそうになる涙を必死でこらえ、それからようやく「はい」と返事をした。
その瞬間、私の手を握りしめていたハツエの手が、スッと離れた。
思えば、ここにいる誰もが優しかった。
産婦人科病棟の廊下は長く、
その中ほどに四六時中、ナースステーションの緑の文字盤が光っていた。

そのナースステーションを挟んで、左側が病んだ女性たちの病棟で、
右側には出産した健康な女性たちの部屋が並んでいた。
その生と死のはざまで、緑の文字盤はこの日も光り続けていた。
そのぼうっとした光を見ながら思った。
ここは、決して悲嘆にくれる場所なんかではなかった、と。
夜になるとそれぞれのベッドで、みんなこっそり泣いていたけれど、
死ぬことなど誰も恐れてはいなかった。
死ぬことなど恐れてはいなかったけれど、
誰一人、絶望する人はいなかった。
医者から告知されなくても、みんな自分の病気を知っていた。
ただ、家族には知らない振りを通していた。
それが患者としてのたしなみだとでもいうように。

夜、救急車や消防車のサイレンを聞くと、みんな一斉に電話へ走り、
自分の体より母のいない家を気遣った。
そんなとき私は、隣室のFさんのことを思わずにはいられなかった。
まだ若いFさんは幼な子を遠く長野の実家に預けてここにいた。
すでに長期の入院だという。
いつも物静かなFさんが、ある日、こんなことを口に出した。
「娘がね、私を忘れてしまって。たまにしか会わないから。
私が抱っこしようとすると、怖がって泣き出すんです。
おばあちゃんをママだと言って。
どんどん大きくなって、私の知らない娘になっていくんです」
そう言って、大粒の涙をハラハラ落とした。

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