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自分の骨壺をくわえて …58

田畑修一郎2
07 /30 2022
Gがわが家へやってきたのは、東京から転居してまもなくのことで、
長男が小学1年生、二男が2歳のときだった。

近くの酒屋の奥さんから、

「知り合いの家で困っているので、犬の子をもらってくれないか。
ほかの子はみんなもらわれていったのに、
1匹だけ残ってしまって。このままだと保健所へ連れて行くしかない」

そう言われて引き取ることにした。


Gに主役の座を奪われた二男
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連れてきた子犬は貰い手がなかったのもさもありなんという貧相な犬。
やせ細り、生まれながら老人みたいな可愛げがない子犬だった。

これは回虫がいるせいかもと思い、市販の虫下しを飲ませたら、
いやというほど虫が出てきて、
その後はもりもり食べるようになって、あっという間に美しい犬になった。


エアデールテリアとセッターの合いの子と聞いていたが、
そのどちらの性格も引き継いでいて、
忠実で従順、忍耐強く、温厚で聡明な犬になった。

なによりも子供が大好きで、
以後はずっと息子たちの一番の親友にして先輩、心の拠り所となった。


共に野山を駆け巡り、川遊びに興じ、
息子たちのグチや悩みのはけ口になり、安らぎを与えてくれた。


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頑健な犬で、共に暮らした14年間、
一度も病気もケガもせず、獣医の世話になることはなかった。

安楽死が、獣医の手に委ねられた最初にして最後となった。

私は恩を仇で返したのだ。罪は重いと思った。

自分の病気にかこつけて、
目も見えず爪も伸び放題にしてしまい、
老犬にもかかわらず、食事に気を配るのも私は怠った。


獣医さんにGの最期を委ねたあの日、
学校から帰ってきた二男の雄二は、空っぽになった犬小屋を見て、
すべてを悟ってくれた。

私に何も聞かず、私も何も話さなかった。


いつも二男に寄り添って。
「このごろお母さん、怒ってばかり。ねえG、聞いてる?」「聞いてるよ」
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翌年、私は市が毎年主催する動物慰霊祭の式典に参加した。

会場の市民会館には愛犬や愛猫、鳥などを亡くした人たちがたくさんいた。

壇上に上がった人たちが最期を看取った話をしたとき、
私はいたたまれなくなった。

こんなことで、
あれほど私たち一家に尽くしてくれたGへの贖罪になるわけがない。

バスを乗り継いで愛護館まで行き、慰霊碑に手を合わせたときも、
死んだあとになってこんなことをするのは欺瞞だと思った。

「幼稚園入園かぁ。がんばれよ」
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同じ町内に住むという主婦から、猛攻撃を受けたことがあった。

「うちの息子がお宅の犬に噛まれた。
そんな狂暴な犬を飼っているのは問題ではないですか」と。

「うちの息子」は中学生で、「塀を乗り越えて庭に入り」、犬が吠えたので
「石を投げたり棒で叩いた」。被害は「ズボンに歯の跡がついた」

さらに、主婦は語気を強めて言った。
「ズボンに穴があいただけで済んだけど、下手すりゃ命にかかわった」

見知らぬ中学生が塀を乗り越えて侵入したのなら、立派な犯罪だよなあ。
不審者を吠えたのなら、番犬としての務めを果たしたことになる。

例え犯罪者でも、肉を噛まないよう気を付けてズボンだけ噛んだのは、
Gの優しさ、思慮深さなんだけどなぁ。

近所の問題児がちょくちょく空き巣に入ったときは、
顔見知りゆえにシッポを振って出迎え、まんまとやられた。

どっちにしても、Gはホントに繊細で気のいい犬だった。

そういうもろもろの出来事を思い出すたびに、己の冷淡さがそれに重なった。

「おいらの自慢の次男坊がとうとう中学生になったんだぞ」と胸を張るG
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Gが逝って3年ほどたったころ、夢を見た。

灰色とも白色ともはっきりしない混沌とした中、
遠くから何かが駆けてくる気配がした。

音がしないのに、何かが懸命に駆けてくる。

その混沌としたモヤの中から、突然、Gが現れた。


見ると、口に何かを下げている。布でくるんだ丸いもの。

とっさに「Gの骨壺だ」とわかった。
Gは自分の骨壺をくわえて、私のところに駆けて来たのだ。

目は笑っていた。これ以上ないという優しさに満ちていた。

「G! G!」


そのGに向かって大声で叫んだ時、
目の前でGがパッと消え夢から覚めた。

Gはすべてを許して私のところへ帰ってきてくれたと思った。


Gをおんぶして
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勝手な思い込みかもしれないけれど、
「安心していいよ」と言ってくれているような気がした。

今でもあの夢のシーンはいつも私と共にある。


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安楽死 …57

田畑修一郎2
07 /27 2022
一家が崩壊する前兆みたいに、飼い犬のGがこの世を去った。

この世を去ったというのは正しくない。私が殺したのだ。

Gは私が退院して間もなく、泡を吹いて倒れた。
往診を頼んだ獣医さんから、心筋梗塞だと聞かされた。

注射を打つと、やがて呼吸が落ち着いてきた。

帰り際、獣医さんから、
「水を欲しがっても飲ませたらいけない。窒息死しかねないから」
そう言われたが、

欲しがってシーシー鳴くので口を濡らしてやると、
嬉しそうにペロペロ舐めた。

そのとき、Gの目から涙がひとつぶ、ポロっと落ちた。


ひそかに炬燵に潜ったけれど、頭隠して尻隠さず。
律儀に後ろ脚は窓の外だから、すぐばれた。

犬は戸外で飼うものという固定観念があったので、Gはいつも庭にいた。
でもいつも羨ましそうに中を覗いていた。

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見えない目から涙が…。

犬も涙を流すのかと驚いた。

同時に、自分の命の瀬戸際にあっても、
飼い主へ感謝を見せるGの真っすぐな性格に胸が締め付けられた。

うかつにも、私はGの失明に長いこと気付かなかった。

名前を呼ぶと小首を傾げ、
匂いの元を探るみたいに鼻を上向きにしてそろそろと歩き出し、
サッシの縁に体をつけて移動する。
そのしぐさを見て、私は初めて気が付いた。

Gは目が見えていないんだ、と。


思えばここ数年、自分や子供たちのことばかりに集中していて、
Gのことはほったらかしにしてきた。

私の入院中はみんな犬どころでなかったに違いない。

退院してきたとき、
犬小屋の横にGの排せつ物が山のようになっていた。

めったに入れてもらえない室内に、この日は許可されて
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その汚物の山を見たとき、せめて夫が片付けてくれていたらと思ったが、
留守の子供の心配すらしない人に期待するのは、しょせん無理な話だ。

こうした荒んだ家庭では、犬や猫を飼ってはいけないんだとつくづく思った。


最初の発作のとき、トイレに行きたがったGを長男が抱えて、
外でおしっこをさせたら、このときも嬉しそうにシッポを揺らした。

重症の体になっても、Gは恩を忘れなかった。

そのときは奇跡的に元気になり、2度目の発作は自力で回復した。


3度目の発作は半年後の夏の初めに起きた。

往診を頼んだ獣医さんが、「まだ生きていたとは」と驚いた。
最初の発作のとき、もう助からないと思っていたのだという。

このときは二男が登校してしまい、
この大きなGを抱える力がなかった私は、
海岸で差す大きなパラソルで日差しを遮ってやるしかできなかった。

「この夏はもう乗り切れない。もう助からない」と獣医が言った。

動物は己の死期を悟る本能は人間よりあるという。
このときGの脳裏に去来したのは、
一番密着度が高く最後まで身近にいてくれた二男なのかもしれない。

二男に犬小屋を乗っ取られ、
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ゴルフの標的にもされた。

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大きな唸り声をあげて苦しそうなG。

私は途方に暮れた。
お金がないから治療が長引けばどうしたらよいのか。

犬の治療費より人間の食費にそれを回したいし、
家には車がないから、死なれたときどうしたらいいのかわからない。

それにこれ以上、苦しむ姿を見るのは耐えられない。


これは実情を率直に獣医さんに話すしかないと、ありのままを話した。

獣医さんは黙って聞いてくださった。
それからこうおっしゃった。

「本当は最期まで看取ってやって欲しい。
でもご事情はよくわかりました。
自分が責任を持って愛護館へ埋葬をお願いしてきますから」

そう言って、獣医さんはGを引き取ってくれた。

ふとGを見ると、さっきまでの荒い呼吸がなくなって静かになっている。
私のこのむごい決断を聞いていたに違いない。

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「このまま苦しませるより、安楽死を」と言った私のその言葉は、
たとえ数日の命であってもあまりにも身勝手すぎる。

これが息子たちであったなら、私はどんな犠牲を払ってでも助けたはずだ。

獣医さんのワゴン車の荷台に横たわったGは、
見えない目で静かに夏の青い空を見上げていた。

体や腕をさすっていたとき、爪が丸まっていることに気が付いた。
そういえば長い間、切ってやらなかった。本当にひどい飼い主だったんだ。

14年もの間、何があっても私たち一家を信頼し支え守ってくれたGを、
今度は守り支えるのが私の責務なのに、
それを最後の土壇場で人間の私が裏切ってしまった。


私はこの罪をずっと背負って生きていくしかないと思った。

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にいさん寒かろ、おとうと寒かろ …56

田畑修一郎2
07 /24 2022
話を3か月前の大晦日に戻そう。

あの日私は、兄に先導されて病院を出た。
1カ月ぶりに見る青い空。冷たい風も心地よかった。

私は力強く大地を踏みしめた。
だが、翌年日常が戻ったころ、二男の雄二がこんなことを言った。

買い物袋を下げてお腹を押さえて歩いていた私の姿を、
学校帰りに見たのだという。

「あれでも動いているのかっていうくらい、
お母さん、ゆっくり歩いていたんでびっくりした」と。

退院の日の私もきっと、「あれでも動いているのか」というくらい
そろそろと歩いていたに違いない。

でもその時の私は、さっそうと歩いているように思っていたのだ。

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タクシーが病院を出て間もなく、
「武雄くんが後ろをついてくる」と、兄が言った。

お腹の痛みをこらえつつ体をねじって後方を見ると、
見覚えのある水色の50ccバイクが見えた。

私がバス代節約のためようやく買ったオンボロバイクだ。
武雄はそれにまたがって、つかず離れずついてくる。

「出がけに武雄くん、迎えに行きますなんて言ったけど、
あんなので病人をなんて…」

兄は怒りを抑えた声で言った。

家に入ると、母と姉が出てきた。

私は夢遊病者みたいにふわふわ歩き、そのまま部屋を突っ切って、
庭に面したサッシを開けた。

庭に飼い犬のGがいた。

「G!」と声を掛けると、Gは小首を傾けて声に聞き入り、
それからハッとして私の方に向き直ると、大きくシッポを振った。

このときは気づかなかったが、この数日後、Gが失明していたことを知った。

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母がサッシをさらに大きく開けて、庭にいた武雄に声を掛けた。

「布団を敷いてあげたらどうですか」

武雄は慌てて部屋へはいると、押し入れから布団を引っ張り出し、
まごまごしながら敷き始めた。

どれも昔のまんまのせんべい布団。
それに、縁がほつれて固くなった毛布をぎこちなく重ねている。

私はそこへ倒れ込むように横たわった。

その様子をドアの陰からジッと見ていた飼いネコのサビが、
突然、私めがけて走ってくると布団の中へ潜り込んできた。

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それからどのくらいたったころだろうか。

誰かが私に話しかけているのに気づいてうっすら目を開けると、
そこに母がいて、こう言った。

「お重に赤飯とお煮しめを詰めて来たからね。
私たちはこれで帰るから」

返事が出来ないまま、私は再び眠りに落ちた。

次に目を覚ました時、あたりはすっかり夜になっていた。
ぼんやりした頭で、そろそろと起き上がり居間まで歩いた。

ソファにいた大介と雄二がハッとした顔で私を見た。

「お父さんは?」と聞くと、暗い顔で雄二が言った。

「東京へ帰った」

帰った? 今日は大晦日だよね。明日はお正月。

今までも「仕事が溜まっている」と見え透いた言い訳をしては、
元日の朝、そわそわと東京へ帰っていたから慣れてはいたけれど、
まさかこういう日にまでとは思いもしなかった。

あの人は母に、入院費を立て替えてくれたお礼も言わず、
その母が用意してくれた赤飯とお煮しめを食べて出て行ったという。

ひねくれ男がみんなの前で、すねて見せたってわけか。

大人としてのまともな挨拶が出来ない人とはいえ、
あまりにも不甲斐ないではないか。


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でも、もう何も言うまい、思うまい。
私が取るべき道は、後ろを振り返らず前へ進むだけのことだ。

ソファに座ると、息子たちの表情が少し和らいだ。

長男の大介が目を伏せたまま言った。

「おやじに約束させたよ」

「えっ!」

「父親として僕らにどこまで責任を持ってくれるのかって…。
おやじ、黙っているから、ぼくと雄二を大学まで出す気はあるのか。

あるんならそう約束して欲しい。それから先はそれぞれの責任だから。
そう言ったんだ」

あ、先を越されてしまったと私は思った。

大介は淡々と話し続けた。

「そしたら、大学まで出す。約束は守るって」


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母の入院で受験生の二人には苦労を掛けた。
その上、我が子の進路にさえ関心がない父親であってみれば、
勉強どころではなかっただろう。

長男の大介は母親の汚れたパンツまで洗っては届けてくれた。

勉強に疲れた弟がガスの点火を確認しないまま眠り込み、
漏れたガスが部屋に充満した。

警報器の音で目を覚ました大介が、
窓という窓を開け放して処置してくれたという。

「ぼくら、危うく死ぬところだったよ」

私は絶句した。
恐怖と感謝と、わけのわからない感情に打ちのめされた。

よく気が付いてくれた。
何か大きな力が子供たちを、私を、守ってくれたんだと思った。

ふと、脳裏に、
「にいさん寒かろ、おとうと寒かろ」の昔話が浮かんだ。

両親を亡くした幼い兄弟が、食べるものもなくなり、
たった一枚残った布団に抱き合ってくるまり、
「にいさん寒かろ、おとうと寒かろ」と互いを気遣い死んでいった。


でも大介と雄二はその危機を回避していた。
兄の機転で、無事生き延びてくれていたのだ。


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私はただただ、ありがとうを繰り返した。

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病室に花嫁さん …55

田畑修一郎2
07 /21 2022
「さやこさんは大丈夫だった?」

八重が聞いてきた。

躊躇しつつ、「大丈夫だった」と返事をした。

「良かったね」
黄色味を帯びた顔で、八重が言った。

あれからたった3カ月しか立っていないのに、
病気は患者をどこまで苦しめる気なのか

隣りの病室にいた藤井だって、
あんなに病気と闘っていたのについに負けてしまって…。

八重の送別会の時、
「みんな子宮をなくした者同士だから、ノンウームの会作って
退院したら会いましょうよ」

そう言っていた藤井は、それから間もなくいなくなった。

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「私、医者に頼んだのよ。通常の倍の抗がん剤、使ってくださいって。
だって生きていたいから。せめて娘の結婚を見届けたいから」

その藤井が、いつの間にか姿を消したことをみんなは気づいていた。

転院したかもしれないし、家へ帰ったのかもしれない。

だが、藤井本人が黙っていなくなったのだからと、
みんなはそれを尊重して沈黙を貫いた。

そして、「ノンウームの会」は夢に終わったことを悟った。

懐かしさといたたまれない気持ちが、ふいに私を突きあげた。

その時、八重が唐突に言った。

「ばあさん、死んじゃったよォー」

「えっ、ハツエさん?」

「うん。でも最期は幸せだったよ」

そう言ったとたん、八重の体がふらりと傾いて、
階段の手すりにもたれかかった。私は慌てて八重を支えた。

背中に腕を回して体を支え、そのままソロソロと階段を下りて、
私たちは階下の長椅子に並んで座った。

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「ばあさんね、最後は個室に入ってサ。
ほら、あそこは最期の人が入るところだって、散々言ってたでしょ。
その本人がそこへ入っちゃったんだよ」

「そうそう、そんなこと、言ってたよね」

「そこへお嫁さんが来たんだから、びっくらこえたよ」

「お嫁さん?」

「息子のお嫁さん。
結婚式に出られないお母さんのために病室で式挙げちゃったんだよ。

もう病院中、大騒ぎよ。
だって文金高島田に打掛着た花嫁さんが、病院にきたんだもの」

「うわ! それはすごい。病院始まって以来のことじゃないの?」
と、私が笑いながら言うと、八重もフフフと思い出し笑いをした。

「そういえばハツエさん、看護師さんつかまえては、
うちの息子の嫁になってくれって、よく言ってたものね」

「そうそう。みんな逃げてたよね。あんな姑じゃたまらないもの。ハハハ」

八重が快活に笑った。一瞬、昔の八重に戻った。

私は自分の診察も忘れて、二人で座り続けた。
八重の話も途切れなかった。

「ばあさんを真ん中にして花嫁と花婿が並んでサ。
みんなで記念撮影してた。

ばあさんったら、真新しいカツラ被って…。
ほら、トレードマークだった市松人形みたいなおかっぱ頭の…。
すっかり少女に戻っちゃってサ。
あんときのばあさんの顔ったら、そりゃもう幸せ全開よ」


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医者も看護師も見守る中での結婚式。

八重は明け放されたドアのすき間から、それを見たのだという。

ハツエさんは気がかりだった息子の結婚をその目で見て、
夫や家族に囲まれて逝ったという。

最高の旅立ちをしたんだ。

「よかった!」
「うん。よかった」

そう言って、私たちはホッと息をついた。

いつの間にか八重の頬にほんのり赤みが差していた。

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命を託す …54

田畑修一郎2
07 /18 2022
幼な子を長野の実家に預けているというFさんとは、
新生児室の前で知り合った。

そのころの私は新生児室に出かけ、
ガラス越しに生まれたばかりの赤ちゃんを見るのが日課みたいになっていた。

そこへやって来たのがFさんで、
初対面の時、「お宅の赤ちゃんはどこですか?」と、声を掛けられて、
思わず、あらーっと、声を出した。

「私、病人なんです。若く見てくださって嬉しい」と言うと、
Fさんは「すみません」と、恥ずかしそうに柔らかく笑った。


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それから二人して、
ガラスの向こうにズラリと並んでいる赤ん坊をいつまでも眺めた。

少し頭が長い子は、難産だったのかなとか、
口をパクパクしているから、お腹が空いたのかも、とか。

一人が泣きだすと連鎖反応みたいに、次々「フギャフギャ」泣きだす。

「見ているだけでなんだか救われますね」と言うと、
Fさんは赤ん坊に目を向けたまま、「はい」と、返事をした。


Fさんは、ここにいる赤ん坊に、
長野の実家へ預けている幼い我が子を重ねているのだろう。

私は自分の命をこの子供たちに託していくような、そんな気がした。

そうして私たちは、この新しい命を飽かず眺めては、
ひととき、安らかな気持ちになった。

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そのFさんも、年末年始を家で過ごすために、
すでに病室をあとにしていた。

「おじいちゃんとおばあちゃんが娘を連れて来てくれるんです。
今年のお正月は娘と過ごせるんです」

そう言って、Fさんは晴れやかな笑顔を見せた。

大晦日にここに残っている患者は数えるほどしかいなかった。
ハツエはその中の一人になってしまったんだろうか。

そういえば、ハツエの夫は抗がん剤治療のあとも、病室へは来なかった。
でもお正月には、きっと懐かしい我が家へ帰るに違いない。

そう念じつつ、私は病室をあとにした。。

そのハツエのその後を聞いたのは、退院から3か月ほどたったころだった。

退院後の経過観察のため、再び病院を訪れたとき、
私は階段を危なっかしく降りて来る患者を見た。

ひどく疲れたような様子だったが、見覚えのある顔だった。

顔はやつれているけれど、ぶよっとした体とずんぐりした肩。
もしかしたら、あれは岡本八重さんではないのか。

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しかし、昨年、みんなに送別会を開いてもらい、
私が「命」を感じたあの「冬のいちご」をふるまい、
翌日は見違えるほど着飾って、元気いっぱいに退院したはず。

それがなぜ、今、ここに?

相手も私に気づいたのか、階段の途中で立ち止まり、私を凝視している。

あの目は八重さんだ、間違いない。

私は不安な気持ちを押さえながら、階段を一気に駆け上った。

「八重さん? 八重さんよね」

そう呼びかけると、八重は顔をくしゃくしゃにして頷いた。

「どうして? どうしてまた…」


「私、肝炎になっちゃって」
八重は胸に溜まっていたものを吐きだすように早口で言った。

「肝炎?」
「うん。私、輸血したでしょ。それにウイルスが…」

私も輸血した。だが私は無事だった。
それなのに、八重さんは肝炎に…。

私は言葉を失った。


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さよなら、病室 …53

田畑修一郎2
07 /15 2022
12月31日の大晦日。とうとう退院の日が来た。

兄が迎えに来てくれた。

兄は遠く北陸に住んでいるにも関わらず、
仕事の合間を縫って、留守番の子供の元へ時々来てくれていた。

今日、私は日常に戻る。

今まで寝ていたベッドから抜け出して床に立った時、
いよいよ自立へ向けてスタートするんだと思った。


ふと、ベッドを見ると、そこには私の体形と同じへこみがついていた。

そのへこみを眺めていると、ここで過ごした日々が次々蘇ってきて、
病室の人たちの顔が浮かんでは消えた。


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パジャマから普通の服に着替えるのが気恥ずかしいような気もした。

窓際のベッドにハツエさんがいた。
相変わらずベッドに腰かけて、ぼんやり窓外を見つめている。

Tさんも女の子もいなくなった病室から、また一人出て行くのだ。
丸くなったハツエの背中が、わびしく痛々しかった。


私は勇気を出して、その背中に声を掛けた。

「お世話になりました」

ハツエの体が一瞬、ギクリと動いた。

入り口のドアに立って、もう一度声を掛けようとしたとき、
ハツエが小走りに駆けてきて、いきなり私の手を握った。


入院してきたときと同じように、ハツエは私の両手をしっかり握ると、
か細いけれど、力のこもった声で言った。

「家に帰っても無理しちゃダメよ。体に気を付けるのよ」

私の目をまっすぐ見て、言い足した。

「あなたはまだ若いんだから。これからだから、大事にするのよ」


紫のキクザキイチゲ
26 紫のキクザキイチゲ

それからひと呼吸おいてから、こう言った。

「もう二度とここへ戻ってきてはダメ。帰ってきたらおしまいなんだからね」

腹のそこから絞り出すような、切実な声だった。

ナイトキャップを被ったままのハツエは、こけた頬を震わせながら、
幼な子に噛んで含めるかのようにそう言った。


私は何も言えなかった。
ハツエの目はいつの間にか、慈母観音のように穏やかになっている。

胸が熱くなって、言葉が出ない。
こぼれそうになる涙を必死でこらえ、それからようやく「はい」と返事をした。

その瞬間、私の手を握りしめていたハツエの手が、スッと離れた。

思えば、ここにいる誰もが優しかった。

産婦人科病棟の廊下は長く、
その中ほどに四六時中、ナースステーションの緑の文字盤が光っていた。


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そのナースステーションを挟んで、左側が病んだ女性たちの病棟で、
右側には出産した健康な女性たちの部屋が並んでいた。

その生と死のはざまで、緑の文字盤はこの日も光り続けていた。
そのぼうっとした光を見ながら思った。

ここは、決して悲嘆にくれる場所なんかではなかった、と。

夜になるとそれぞれのベッドで、みんなこっそり泣いていたけれど、
死ぬことなど誰も恐れてはいなかった。


死ぬことなど恐れてはいなかったけれど、
誰一人、絶望する人はいなかった。

医者から告知されなくても、みんな自分の病気を知っていた。
ただ、家族には知らない振りを通していた。

それが患者としてのたしなみだとでもいうように。

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夜、救急車や消防車のサイレンを聞くと、みんな一斉に電話へ走り、
自分の体より母のいない家を気遣った。

そんなとき私は、隣室のFさんのことを思わずにはいられなかった。

まだ若いFさんは幼な子を遠く長野の実家に預けてここにいた。
すでに長期の入院だという。

いつも物静かなFさんが、ある日、こんなことを口に出した。

「娘がね、私を忘れてしまって。たまにしか会わないから。
私が抱っこしようとすると、怖がって泣き出すんです。

おばあちゃんをママだと言って。
どんどん大きくなって、私の知らない娘になっていくんです」

そう言って、大粒の涙をハラハラ落とした。

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自分でやるしかないんだ…52

田畑修一郎2
07 /12 2022
身体がだるい。
高熱が出たわけでもないのに、体中が熱い。

ぼんやりしたまま、ベッドに仰向けになって天井を見つめた。

とにかくここを出なくては…。
それにはお金がいる。頼るところは実家の母しかいない。

長年、姉と二人きりで暮らしてきた母は、高齢もあってか言葉にトゲが目立つ。
しかし、それでも黙って頭を下げるしかここを出る方法はなかった。

翌日、私は緊張しつつ母に電話を掛けた。
いきなり、母が言い放った。


「それじゃあ、金の工面ができるまでそこにいるんだね」

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それから間をおいてこう付け加えた。

「なんでも自分でやるしかないんだよ。誰も助けてはくれないんだから」

その通りだと思った。情けなかった。

微熱という中途半端な熱で体が浮き上がる。
見るものがみんな歪んで見えた。

公衆電話から病室まで、どうたどり着いたのか記憶がない。

私はふわふわとベッドに倒れ込むと、そのまま気を失った。

どのくらい時間がたったのか、わからなかった。

廊下から人の行き交う音が流れてきた。
その音が次第に大きくはっきり聞こえ出したとき意識が戻った。

体中からにじみ出た汗で、枕も布団もじっとり濡れている。
お腹に当てていた氷がすっかり水になっていた。

まかないさんが、ベッドまで食事を運んできた。
昼食かと思ったら、もう夕食だと言う。

病室を見まわしたら、向かいのベッドにTさんの姿がない。
退院したのだと、まかないさんが教えてくれた。


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そういえば、誰かが私の顔を覗き込んでいた。

影絵みたいにぼんやりとしか見えなかったけれど、
あれはTさんだったんだ。

女の子ももういなかった。

はす向かいのハツエさんはベッドに座り、一心に窓外を見つめていた。

年末年始を自宅で迎える患者が、次々と一時帰宅や退院をしていく。

私はそんなハツエの背中を見ながら、
「とうとう二人だけになりましたね」と、心の中で呼びかけた。

「金の工面ができるまで、そこにいるんだね」と、言い放った母だったが、
その日のうちに多額のお金を振りこんでくれていた。

それを知って私は入院以来、初めて泣いた。


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安堵と恥ずかしさと、それに悔しさや憎しみや不安の入り混じった涙が、
あとからあとから流れ落ちた。

「自分でやるしかないんだよ。誰も助けてくれないんだから」

そう言った母の言葉を胸に刻み、
この「恥」はいずれどこかで清算できるだろうと思った。

いや、恥ずべきなのは夫の武雄なのだ。彼に必ず清算させると誓った。

大晦日に私は無事、退院することになった。

生きて戻れることになったこの日は、私自身の再生の日となった。
それはまた、夫との決別の日でもあった。

はからずも私のガンは、夫との暮らしを清算するきっかけとなり、
私に自分らしく美しく強く生きる勇気を与えてくれたのだ。

この春、大学生と高校生になるはずの二人の息子の今後を考え、
倫理観も失せてしまった夫と離れる手はずや、

その夫の背後にいる奇妙な人たちから逃れる方法をも模索するという
その荒海に乗り出すために、私は大きく舵を切った。

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この弱った体でなにができるのかわからない。
だが、希望はあった。

これまでの理不尽な夫のふるまいから抜け出せる、
そのことだけでも大いなる「希望」だと思った。

夫からの得体の知れない「暴力」に、耐えることはもうやめた。
耐えるなんてことは、美徳なんかじゃないんだから。

今後の自分の生殺与奪は私自身の手に取り戻す、
同時に夫・武雄のそれも…。

そう考えたら気が楽になった。


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ぼくらは家族じゃなかったのか …51

田畑修一郎2
07 /09 2022
ひどいことになったと思った。とても現実のこととは思えなかった。

病気を一人で抱えている私に、今度はお金の工面をしろとは…。
ここまで冷酷になれる夫は、夫の皮を被った別人ではないかとさえ思った。

本当に人間って、こんなに変わってしまえる生き物なんだろうか。
それともこれが夫の本性だったというのだろうか。

電話の向こうで武雄が言った。
「オレが病気になったわけじゃなし」

そういえば結婚して間もなく、同じようなことを言っていた。
生活費をくれないので困って、しばらく私の失業保険で食いつないだ。

とうとうお金が無くなって催促したら、武雄はこう言い放った。

「オレが稼いだ金をオレが使って何が悪い」

この人は変わったわけじゃない。最初からこういう人だったんだ。

夫の武雄と過ごしてきた20年という歳月が突如、私の頭の中に浮かび、
それが猛烈なスピードで回転し始めた。

私たちは東京で知り合った。
同じ会社の先輩後輩だった。

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ごく自然に出会い、それから自然の流れで結婚した。
子供もできて、世間並みの家庭を作った。

東京から地方へ転居してからは、
家族みんなでハイキングにも行ったし、海にも行った。

犬も猫も家に迎えて、野山を駆け回わり、桑の実や野イチゴも食べた。

確かに、新婚当初からあった武雄の子供っぽさは、
年を追うごとにひどくはなった。

だが、今のこの異常さは…。

武雄の育った家には年老いた母親と年の離れた兄と姉がいて、
戦後のバラックに毛が生えたような粗末な小さな家で暮らしていた。

そこへ時折り訪ねてくるのが、お見合いの日に一度だけ同衾して、
そのまま別居を続けているという義兄の妻と娘で、
みんな奇妙な人たちだった。


ボットン便所からうじ虫が這い上るのを見て驚いたけれど、
驚いた態度を見せてはいけないと、私は平静を装った。

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ただ、「優秀な大学を二つも出た兄の昭一」が、
「会計士になるための難しい勉強を続けるために無職」という言い訳や、

「お父ちゃまは新聞記者だった。以前は武蔵野で広大なお屋敷に住んでいた」
と言う義姉のまやかしや、

夫と子供を捨てて武雄の父と駆け落ちしてきたという義母に、
なにか得体の知れない不安を持っていたことは確かだった。

武雄はその母や兄、姉のウソの生き様が嫌いだと言った。

そこから逃げ出したいとずっと思っていたと真剣に訴えたとき、
私はそれを信じたのだが…。


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それが今、根底から壊れかけている。

病気の妻を我が子もろとも平気で捨てる武雄もまた、
あの一族と同類だったという、おぞましい現実が形を表したのだ。

私はそのことに最初から気づいていたのに、それを払拭するために、
「なんとかなる」と、ごまかしてきただけだったんだ。

武雄は新婚当初から、あれほど嫌いだと言っていた実家へ頻繁に出かけ、
帰るなりこう言った。

「おふくろがサ、わざわざ向こうへ帰ることもないじゃないのって、
そう言って俺を引き留めるんだよな、ハハハ」

年々、虚しさは増して、事態はひどくなっていった。

そして今また、「お金がない。入院費が払えない」と。

病院へ顔を出した長男の大介が、声を押し殺すように言った。

「金がないんならサラ金にでも借りてくるのが家族というもんじゃないのか。
お母さん、ぼくらは家族じゃなかったのか」


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何も言い返せなかった。

退院まじかだというのに、その日から微熱が出た。
「腎臓をやられないように気を付けて」
と、看護師が心配そうに声を掛けてきた。

負けたくない。ここで負けたら恨みが残る。恨んだまま死ぬのなんていやだ。

微熱というのはなかなかクセモノで、
「さあさあ、これが高熱になるか消えるかはあなた次第」と、
どうやら患者にその舵を取らせようとするものらしい。

だから私は微熱退散に全神経を傾けた。
だが、入院費用の工面だけは頭から離れなかった。


私は熱を帯びたお腹に氷を当てながら、どうしたらいいんだろうと考えていた。
そうして天井を眺めていると、次第におかしさが込み上げてきた。

みかん畑の支柱にからまってしまったカイト。まるで当時の私みたいだ。
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だってそうじゃないか。

世間広しと言えども、夫に入院費を払ってもらえない妻なんて、
そうそういるはずがない。

へその脇からその果てまで鋭利なメスで切り裂かれた腹の上に、
氷の袋を乗せて入院費用の心配をしている患者なんて、
哀れ過ぎてお笑いのネタにもなりはしないではないか。

ここまでくれば、かえって哀れな自分が道化に見えてくる。

そのとき、以前、何かの本で読んだ言葉を思い出した。

「人生や自分と対決しないところで、人は美しく生きることが出来ない」

「ぼくらは家族じゃなかったんだね」と言った大介。
その大介に心の中で呼びかけた。

「そうだね。あなたの言う通りだったんだね。
家族の本当の姿は、誰かが病気したときに見えてくるというけれど、
今、それが現実のものになったんだよね」

そして、こう付け足した。

「きっと生きて戻るから。
そしたらこれからはお母さん自身のこの手で、舵を握るつもり。
舵を握ったら行先を大きく変更するからね」

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見えてきた家族の姿…㊿

田畑修一郎2
07 /06 2022
タオルを持った婦長が部屋を出ていってしまうのを見届けると、
ハツエは打って変わって憎々し気にこう言った。

「フン。人を馬鹿にして。
こういうところって医者に金積むか、医者の知り合いがいるかで、
すごく待遇が違うって言うからね」

ハツエの目がまた私に向けられた。
むくんだ顔がさらに膨張して、今にも爆発するかのようだ。

その顔を私に向けたまま、ハツエはなおも言い続ける。


「ガンのくせになんにもしない人がいるからね。
私なんか医者に金積まなかったから、
あんな新薬の実験台にされちゃったんだ」

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ハツエはガン患者の私が、あのつらい抗がん剤治療をしないのは、
医者に金を積んだか、医者に知り合いがいるせいだと言う。

「医者に知り合いがいる」というのは、あたっている。

兄が従兄弟の医者に妹の病気の相談をしたから、
こちらの医師に問い合わせぐらいはしたかもしれない。


だが、それが、
「新薬の実験台から免れた」などというハツエの妄想には、
とても結びつきそうにない。

そんなことを言ったら、抗がん剤治療をしたTさんだって真弓さんだって、
実験台ということになってしまう。

そのとき、ふと思った。

こんなときにこそいるべきなのはハツエの夫なのに、
何故、彼はいないのか。


同室の患者を犠牲にして自分は逃げている、そうとしか思えなかった。

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思えば今までその夫が、
ハツエのベッドの傍らに座っているのを見たことがない。

「エレベーターの中で主人がね、お前は可愛い女だねって言って、
チューしてくれたの」とハツエは嬉しそうにみんなに自慢していたが、
あれもまた、彼女の妄想だったのだろうか。

だとしたらこの人もまた私同様、置き去りにされた妻なのか。

そう思ったら哀れにも思えて、
私はハツエの憎悪に燃えたその目を真っすぐ受け止めた。

そう受け止めるだけの余裕が、いつの間にか私にはできていた。

現実から逃げてはいけない。本質を見誤ってしまうから。
現実を直視すること。
そこから出発しなければ問題は解決しないのだから。

それから間もなく、ハツエの髪が抜けだした。

「こんなに抜ける」
片時も放さないヘアブラシを見ては、怯えた声をあげている。

その声が次第に小さくなり、ヘアブラシがくず入れに投げ込まれたあと、
ハツエは頭にナイトキャップを被り、一日中、ベッドに潜るようになった。


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その年の大晦日、私は退院することになった。

そんなある日の早朝、ふいに長男の大介が病室の外から声を掛けてきた。

細目に開けたドアのすき間から、大介の困惑しきった目が覗いていた。

病院はまだ閉まっているはずなのに。
私は急いでベッドから抜け出すと、そっと廊下へ出た。


「守衛さんに入れてもらったんだ。
お父さんがね、緊急に電話をくれって」

大介は白い息を吐きながらそう言った。


まだお日さまも出ないこの凍てついた中を、
懸命に自転車を走らせてきたのだろう。
その大介の顔が、固く冷え切っていた。

少し痩せてもいた。
母のいない1カ月間を、弟と二人で過ごしてきた。

それだけでも充分重荷なのに、東京にいる父はその我が子に、
「お母さんに電話を掛けろと言ってこい」と命じたというのだ。


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それでも私は別の理由を探した。だって、いくらひどい父親でも親なんだもの。

よほどの緊急事態が起きたに違いない。そうでもなければ、
我が子をまだ明けきらない冬の道へ放り出すなんてことをするはずがない。

私は胸騒ぎを覚えて、そのまま公衆電話へ走った。

夫はすぐ電話に出た。

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「あのさぁ」

気抜けするほどのんびりした、どこか投げやりな声が聞こえてきた。

「あのさぁ。金ねえんだよ。入院費、そっちでなんとかしろよな」

これが緊急を要したことなのか。あまりにもひどすぎる。

絶句したまま固まった私にイラついたのか、
「おい! 聞いてるのか!」と、声を荒げた。

私はカッと頭に血が上ってますます声が出ない。

受話器から何かを食べている音がする。

「なんとかしろといったって…」
やっとの思いでそう言うと、さもバカにしたような返事が返ってきた。
「はぁ? 貯金ぐらいあるだろうが」

「あるわけないじゃないの。あなたからの送金、ずっと滞っていたし…」
「だったら実家から都合してもらえばいいじゃないか」


また、実家から借りろという。
絶望という部屋に閉じ込められたような気がして、うまく息が吸えなくなった。

そんな私に追い打ちをかけるように、武雄が言い放った。


「病気になったのはお前なんだし、だから入院費は自分で何とかしろよな」

そう言い捨てると、ガチャンと電話を切った。

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ちょっと婦長さん …㊾

田畑修一郎2
07 /03 2022
長い嵐が止んだみたいな穏やかな朝だった。
だが、すがすがしい朝ではなかった。

誰もが遠慮しながら部屋の空気を吸い、足音を立てずに歩き、
ひそやかに朝食を噛んでいた。

だがハツエだけは違った。

バタバタとスリッパを鳴らして歩き、所かまわずゲーッとタンを吐き、
これみよがしに鼻をかんだ。


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八重の送別会のとき、
私が「命が灯った」と思ったあの冬のいちごを拒否したハツエが、
朝食を手づかみでむさぼるように食べている。

まるでこの世のあらゆる「生」を奪い取るみたいに貪欲に食べきって、
あっという間に皿を空にした。

「まあハツエさん、そんなに食べれるなんてすごいじゃないの!」

看護師が目を丸くして言った。

その声につられて、Tさんが言った。

「私、点滴を受けたあと、2、3日は何も食べられなかったんだけど、
ハツエさんはすごいですね」

するとすかさずハツエが、しわがれた声で言い返した。

「ええ、おかげさまで。
私のは軽い抗がん剤でしたからね。あなたとは病気が違いますもの」

ハツエの皮肉っぽい口調にTさんが顔をそむけたとたん、
そのハツエの口から、ブワーッと食べ物が噴き出した。

さっき飲み込んだすべての食べ物が、
ハツエの口から噴水のように噴き出て、布団いっぱいにばらまかれた。

胃液の混じった何とも言えない異臭が部屋中に充満した。

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そんな中、午後から女の子の手術が始まった。
軽い手術だったのか、夕方には病室へ戻ってきた。

翌朝、女の子の顔や手を看護師が熱々のタオルで拭いているのを
ジッと見ていたハツエが、いきなり癇癪を起した。

「ちょっと、婦長さん」

部屋に入ってきた婦長をつかまえて、抗議しだしたのだ。

「あの看護師、病人を差別するんです」
「えっ?」
「あの女の子には熱いタオルを持ってきたのに、私にはくれないんです」

婦長はちょっと肩をすくめ、それからいたわるような口調で言った。

「あのね、ハツエさん。
あのタオルは動けない人にだけ持ってくるものなんですよ。

ハツエさんはお元気だし、
なんでもご自分で出来る方ですから必要ないと思うのよ」

「いいえ」。ハツエはきつい調子で言い返した。

「いいえ。私は一人では何もできません。私の体はすごく衰弱してるんです」

もあい

婦長は困惑気に微笑みながら部屋を出て行くと、
すぐに熱々のタオルを持ってやってきた。

「今日だけですよ。今日だけ特別」

ハツエは勝ち誇ったように婦長に顔を突き出した。

ハツエの顔一面に湯気が立ち込め、その白い湯気の切れ間から、
満足そうなハツエの顔がチラリと見えた。


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雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞