富士山の穴
富士塚
富士山には大きく分けて二つの穴があります。
頂上の噴火口と下界の風穴、氷穴と言われる洞窟です。
私は洞窟のどちらにも入りましたが、氷穴は滑って大変でした。
で、噴火口は火の燃えるところで、死の世界。弥勒浄土の世界。
地下にできた洞窟もまた黄泉の国への道。
こちらは浜松市の鍾乳洞「竜ヶ岩洞」です。
ここは命の再生というより業者は観光、訪問客は好奇心で。

下の写真は行者・角行が修行した人穴の奥です。水が溜まっています。
行者・角行が人穴で修行した時、角材を敷いて修行した話が伝わっていますが、
この水ではそうでもしなければ修行が出来なかったのかも。
江戸時代、この人穴へ入った「駿河記」の著者、桑原藤泰は、
こんな感想を残しています。
「奥に入ること二町ばかり。その途中、金仏あり。底は冷水。膝に及ぶゆえ、
二行に材木を敷き、その上を行く」
この本を解説した郷土史家の宮本勉氏の序の言葉がまたいい。
「私にとって桑原藤泰は富士山のようなものである。
それは神々しく高く聳えながらも間近に見え、近づけば近づくほど
気高く畏敬の念を覚える存在である、という意味においてである」
奥に「浅間大神」の碑が立っている。

「富士山・歴史散歩」遠藤秀男 羽衣出版 平成8年よりお借りしました。
しかし、穴は「命が果てる」ばかりの世界ではない。
山頂の噴火口の穴は「ホト(女陰)」とされ、命の誕生の場所。
地下の穴もまた、「蘇りの場」であって、
ともに新しい命の誕生を迎える「擬死再生」の場でありました。
そして、
それを可能にしたのは「水」なのだと民俗学者の野本寛一先生は言う。
「一度死の世界を体験した後は、再生しなければなりません。
それを可能にするのが水です。
聖域に入る時に禊(みそぎ)をするのが一般化していますが、
「古事記」の場合は反対です。
黄泉の国から帰ってきたら、その汚れを清めるために禊をした。
禊には俗(穢)から聖(浄)とその逆の、
死から生へ再生するための浄化があると考えられます」
これを「産湯」と「末期の水」に置き換えると、わかりやすい。
富士登山は夜間が多いのにも理由があります。
ただ暑いからというだけではないのです。

新しい心に生まれ変わるには、闇を通り抜ける必要があるからです。
と、偉そうに言っちゃいましたが、これ、全部、他人様の本からの受け売り。
で、その闇(死の世界)から抜け出て山頂にたどり着くころ、
「ご来迎」を拝します。
これは「ご来光」ではなく、「ご来迎」が正しいそうです。
「自分が太陽を拝むのではなく、
向かい側に仏さまが現れたように自分の影が映る現象、
ブロッケン現象といいますが、それを拝む。
その仏様を迎えることによって幸福感を味わう。
そこで新たな心になって帰っていくのです」(小杉達氏)
「仏を迎える」から、「ご来迎」なのだ、と。
そのブロッケン現象、お見せしようと探しましたが、写真見つからず。
代わりに虹でご勘弁を。

北ア・唐沢テント村
おまけです。
富士山直近の山で遭遇したカモシカの骨。

もう一つ。

「持って帰ろうかな」と言ったら、同行者に叱られた。
「ダメ。ばい菌だらけで危険だから」
私って軽率だねぇ、バカだねぇってつくづく思ったものでした。

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頂上の噴火口と下界の風穴、氷穴と言われる洞窟です。
私は洞窟のどちらにも入りましたが、氷穴は滑って大変でした。
で、噴火口は火の燃えるところで、死の世界。弥勒浄土の世界。
地下にできた洞窟もまた黄泉の国への道。
こちらは浜松市の鍾乳洞「竜ヶ岩洞」です。
ここは命の再生というより業者は観光、訪問客は好奇心で。

下の写真は行者・角行が修行した人穴の奥です。水が溜まっています。
行者・角行が人穴で修行した時、角材を敷いて修行した話が伝わっていますが、
この水ではそうでもしなければ修行が出来なかったのかも。
江戸時代、この人穴へ入った「駿河記」の著者、桑原藤泰は、
こんな感想を残しています。
「奥に入ること二町ばかり。その途中、金仏あり。底は冷水。膝に及ぶゆえ、
二行に材木を敷き、その上を行く」
この本を解説した郷土史家の宮本勉氏の序の言葉がまたいい。
「私にとって桑原藤泰は富士山のようなものである。
それは神々しく高く聳えながらも間近に見え、近づけば近づくほど
気高く畏敬の念を覚える存在である、という意味においてである」
奥に「浅間大神」の碑が立っている。

「富士山・歴史散歩」遠藤秀男 羽衣出版 平成8年よりお借りしました。
しかし、穴は「命が果てる」ばかりの世界ではない。
山頂の噴火口の穴は「ホト(女陰)」とされ、命の誕生の場所。
地下の穴もまた、「蘇りの場」であって、
ともに新しい命の誕生を迎える「擬死再生」の場でありました。
そして、
それを可能にしたのは「水」なのだと民俗学者の野本寛一先生は言う。
「一度死の世界を体験した後は、再生しなければなりません。
それを可能にするのが水です。
聖域に入る時に禊(みそぎ)をするのが一般化していますが、
「古事記」の場合は反対です。
黄泉の国から帰ってきたら、その汚れを清めるために禊をした。
禊には俗(穢)から聖(浄)とその逆の、
死から生へ再生するための浄化があると考えられます」
これを「産湯」と「末期の水」に置き換えると、わかりやすい。
富士登山は夜間が多いのにも理由があります。
ただ暑いからというだけではないのです。

新しい心に生まれ変わるには、闇を通り抜ける必要があるからです。
と、偉そうに言っちゃいましたが、これ、全部、他人様の本からの受け売り。
で、その闇(死の世界)から抜け出て山頂にたどり着くころ、
「ご来迎」を拝します。
これは「ご来光」ではなく、「ご来迎」が正しいそうです。
「自分が太陽を拝むのではなく、
向かい側に仏さまが現れたように自分の影が映る現象、
ブロッケン現象といいますが、それを拝む。
その仏様を迎えることによって幸福感を味わう。
そこで新たな心になって帰っていくのです」(小杉達氏)
「仏を迎える」から、「ご来迎」なのだ、と。
そのブロッケン現象、お見せしようと探しましたが、写真見つからず。
代わりに虹でご勘弁を。

北ア・唐沢テント村
おまけです。
富士山直近の山で遭遇したカモシカの骨。

もう一つ。

「持って帰ろうかな」と言ったら、同行者に叱られた。
「ダメ。ばい菌だらけで危険だから」
私って軽率だねぇ、バカだねぇってつくづく思ったものでした。

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