富士塚から富士山への道
富士塚
ゼロm地帯に立つ「鈴川の富士塚」。
かつてこれに隣接して吉原湊があり、「見付宿」があった。
その後、自然災害で宿場は内陸部へ移転するが、
湊と富士塚は残った。
江戸時代も半ばになると、街道の整備や交通の発達などで、
富士山登拝への道はいろいろできた。
それを地図上で追ってみます。ちょっと昔の地図です。
黄色い線は下の地図の線と繋がります。
これが「富士塚から富士山頂への道」です。
富士信仰の開祖・角行が往生を遂げた「人穴遺跡」は、もっと上にあります。

下の地図の青い星印が、
「鈴川の富士塚」と「吉原湊」「見付宿」があったところ。
その青い星印の左右に延びているのが「近世の東海道」。
それに並行して「東海道本線」。左の茶〇が「JR富士駅」です。
今はさらに「東海道新幹線」が走っています。
青い星の上に「島田村」とあります。
その上あたりが移転した「新吉原宿」。そこで右からの道と交差していますが、その道が「中世の東海道」です。
東からの登山客が来たのはこの道。
直進すれば、「富士川渡船場」(ピンクの〇)にぶつかります。
富士川の渡船場跡です。向かい側の橋のたもとにあるのが水神の森。

「東海道名所図会」に描かれた「富士川渡船場」です。
駿陽張安・画 赤〇が水神の森
この「東海道名所図会」は約30人の絵師によって描かれています。


この渡船場は西からの登山客の入り口でした。
ここから「空色の道」を行くと、
私の父の生家だった「曽我八幡宮」(紫の〇)です。
富士登山へ行く途中、八幡宮に立ち寄った京都からの客。大正時代。

そこから黄色の道をたどると「富士山本宮浅間大社」。(赤丸)
さらに進んだ方角に、表登山口の「村山口」がありました。

みなさまになんとかわかっていただきたくて、
私、一生懸命なんですけど、ちょっとややこしかったですかねぇ。
この富士塚から登る人は少なかったと思いますが、
日頃から交流があった伊豆の漁師や海岸伝いに船で来た人たちは、
ここから歩き出したと思います。
ご用とお急ぎのない方は、
富士宮市がまとめた登山道の道しるべの数々をどうぞ!
「道しるべ」
せっかくですから、この近くにある力石を2つお見せします。
塚のすぐ近くです。
名前がいいですよ。「三四軒屋・龍王神社」。
「この石は集落の若者たちが力比べで持った石で、重量は106.2㎏」
ここの若者たち、力石で体力をつけて富士登山に臨んだのかも。
のちの青年団も富士登山を体力増進と親睦にしていましたから。
平成22年の建立です。

静岡県富士市宮島三四軒屋
もう一つはこちら。
新幹線・新富士駅のすぐ近くにあります。
「昔の祭りなどで若者が力自慢で持ち上げた石。
昭和62年の天王祭「重量あて」のとき量ったら、114㎏であった」
平成元年建立。この前年に新幹線新富士駅設置。

富士市川成島・浅間神社
龍王神社の石もこれも、通常見かける楕円形の力石ではない。
もしこうして保存がなされなければ、きっと捨てられていたと思います。
人々の記憶と愛着のたまものですね。
ついでに、こんなものもお見せしちゃいます。
すぐ近くの「毘沙門天のだるまさん」です。
ここは日本三大だるま市の一つなんです。

値切る声聞いてダルマが眉を寄せ 雨宮清子
ふと口を突いて出た一句。
当時あった仏教の「大法輪」という雑誌に載りました。\(^o^)/
掲載誌が出てきたので、挿絵を載せます。
雑誌の発行年を見たら、あれま、作ったのは28歳の時。
5歳と1歳の子供を抱えて、東京から転居してきたばかりのときでした。
若かったなぁ

で、だるま市の写真、わざとモノクロで出したわけではないんですよ。
記者時代の写真で、当時の県内版はまだモノクロだったので。
カラーで撮ってモノクロに焼いていました。
これも一つの歴史ですね。
今回も盛りだくさんで。郷土愛のなせる技とお許しあれ。

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かつてこれに隣接して吉原湊があり、「見付宿」があった。
その後、自然災害で宿場は内陸部へ移転するが、
湊と富士塚は残った。
江戸時代も半ばになると、街道の整備や交通の発達などで、
富士山登拝への道はいろいろできた。
それを地図上で追ってみます。ちょっと昔の地図です。
黄色い線は下の地図の線と繋がります。
これが「富士塚から富士山頂への道」です。
富士信仰の開祖・角行が往生を遂げた「人穴遺跡」は、もっと上にあります。

下の地図の青い星印が、
「鈴川の富士塚」と「吉原湊」「見付宿」があったところ。
その青い星印の左右に延びているのが「近世の東海道」。
それに並行して「東海道本線」。左の茶〇が「JR富士駅」です。
今はさらに「東海道新幹線」が走っています。
青い星の上に「島田村」とあります。
その上あたりが移転した「新吉原宿」。そこで右からの道と交差していますが、その道が「中世の東海道」です。
東からの登山客が来たのはこの道。
直進すれば、「富士川渡船場」(ピンクの〇)にぶつかります。
富士川の渡船場跡です。向かい側の橋のたもとにあるのが水神の森。

「東海道名所図会」に描かれた「富士川渡船場」です。
駿陽張安・画 赤〇が水神の森
この「東海道名所図会」は約30人の絵師によって描かれています。


この渡船場は西からの登山客の入り口でした。
ここから「空色の道」を行くと、
私の父の生家だった「曽我八幡宮」(紫の〇)です。
富士登山へ行く途中、八幡宮に立ち寄った京都からの客。大正時代。

そこから黄色の道をたどると「富士山本宮浅間大社」。(赤丸)
さらに進んだ方角に、表登山口の「村山口」がありました。

みなさまになんとかわかっていただきたくて、
私、一生懸命なんですけど、ちょっとややこしかったですかねぇ。
この富士塚から登る人は少なかったと思いますが、
日頃から交流があった伊豆の漁師や海岸伝いに船で来た人たちは、
ここから歩き出したと思います。
ご用とお急ぎのない方は、
富士宮市がまとめた登山道の道しるべの数々をどうぞ!
「道しるべ」
せっかくですから、この近くにある力石を2つお見せします。
塚のすぐ近くです。
名前がいいですよ。「三四軒屋・龍王神社」。
「この石は集落の若者たちが力比べで持った石で、重量は106.2㎏」
ここの若者たち、力石で体力をつけて富士登山に臨んだのかも。
のちの青年団も富士登山を体力増進と親睦にしていましたから。
平成22年の建立です。

静岡県富士市宮島三四軒屋
もう一つはこちら。
新幹線・新富士駅のすぐ近くにあります。
「昔の祭りなどで若者が力自慢で持ち上げた石。
昭和62年の天王祭「重量あて」のとき量ったら、114㎏であった」
平成元年建立。この前年に新幹線新富士駅設置。

富士市川成島・浅間神社
龍王神社の石もこれも、通常見かける楕円形の力石ではない。
もしこうして保存がなされなければ、きっと捨てられていたと思います。
人々の記憶と愛着のたまものですね。
ついでに、こんなものもお見せしちゃいます。
すぐ近くの「毘沙門天のだるまさん」です。
ここは日本三大だるま市の一つなんです。

値切る声聞いてダルマが眉を寄せ 雨宮清子
ふと口を突いて出た一句。
当時あった仏教の「大法輪」という雑誌に載りました。\(^o^)/
掲載誌が出てきたので、挿絵を載せます。
雑誌の発行年を見たら、あれま、作ったのは28歳の時。
5歳と1歳の子供を抱えて、東京から転居してきたばかりのときでした。
若かったなぁ

で、だるま市の写真、わざとモノクロで出したわけではないんですよ。
記者時代の写真で、当時の県内版はまだモノクロだったので。
カラーで撮ってモノクロに焼いていました。
これも一つの歴史ですね。
今回も盛りだくさんで。郷土愛のなせる技とお許しあれ。

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