力持ちと富士塚
富士塚
埼玉県志木市の、
「田子山富士保存会」の方とのやり取りの続きです。
質問 「田子山富士にも羽根倉浅間神社にも猿の石像があります。
これも富士講とつながりがあるのでしょうか」
こちらはブログ「ITO WOKASHI」のplteauさん撮影の猿の石像です。

埼玉県志木市上宗岡・羽根倉浅間神社
答 「大いにあります。
『富士山は、6代目の天皇:孝安天皇の92年、庚申の年に、
それまで厚い雲に覆われていたのが、
雲霧が忽然と晴れて姿を現わした』
との言い伝えがあります。
庚申の申が猿ですので、
「猿が富士山の神様のお使い」となったと言われています。
吉田口登山道の馬返しの地点にも、一対の猿が居ます」
保存会の方から「雲霧が忽然と晴れて」という言葉が出てきました。
また、富士山と縁があるのが、「雲切不動」です。
この「雲霧」で思い浮かぶのが、
「八丁堀亀嶋町 石の平蔵」の歌石です。
これです。

東京都江東区佐賀町・佐賀稲荷神社 伊東明先生・画
これは禁酒を誓い、その思いを歌にして力石に刻んだものですが、
平蔵は富士山に誓ったのでは、と私は思ったのです。
石の摩耗が激しくて判読は難しく、先人の判読したものを見ても、
この歌のどこが禁酒の誓いなんだよという、わけがわからない歌です。
「雲記りも晴れ行 山の高き石の
飛(ひ)ろまるからに 我はささげる」
チンプンカンプン。
たぶん、元はちゃんとした歌だったと思いますが、
現状では、古文書の先生もお手上げです。
ですが、冒頭に「雲記り(霧)も晴れ行」とあります。
以下は拙ブログの記事です。
「八丁堀平蔵の歌石・その二」
推し量って、私流に考えてみると、このような解釈になります。
「富士のお山に禁酒を誓い、それを守ったら、
お山を厚く覆っていた雲や霧がたちまち晴れたように、
自分の心まで晴れ渡った。
だから、
富士山に感謝を込めてその清々しい空の高みに力石を捧げた」
どうでしょう。こじつけ過ぎでしょうか。
で、もう一つ、私の心に引っかかっていたことがあります。
富士塚に埋め込まれた力石の存在です。
こんな風に溶岩の中に埋められています。
富士塚の頂上付近にもありますが、近づけません。

東京都江東区南砂町・富賀岡八幡宮
ここには18個もの力石があります。塚の外に置かれた石もあります。
有名な力持ちのものばかりですが、
一つ、お見せします。
これです。
塚の下部に埋め込まれていたため、なんとか助かっています。

東京都江東区南砂・富賀岡八幡宮
この石には「樊噲(はんかい)石」と刻まれています。
「樊噲」とは、中国・漢の皇帝・劉邦に仕えた武将の名です。
この石を持ち、「樊噲」と刻んだのは、
神田明神下の酒問屋・内田屋の金蔵です。
石銘に古代中国の功臣の名を持ってくるとは、なかなかですね。
実はこの金蔵さん、名字を福岡氏といい、
八丁堀亀嶋の平蔵が歌石を奉納した4年後、埼玉県三郷市で誕生。
その後、江戸へ出て酒問屋に奉公。
そして30歳のとき、なんと、平蔵と同じ力石を持ち、
連名で墨田区の牛嶋神社に奉納。石銘「雲龍石」
この時、平蔵、57歳。
その2年後、金蔵が故郷の香取神社に奉納した手形の額に、
平蔵は世話人として名を記しています。
これです。

「石に挑んだ男達」高島愼助 岩田書院 2009より
そしてこちらがこの富賀岡八幡宮にある富士塚の全景です。
天保4年(1833)の築造です。

こちらは昭和30年ごろの、富賀岡八幡宮の富士塚です。

この富士塚には、
富士山登頂の記念碑がたくさん埋め込まれています。
ほとんどが「やまきち講」です。
これが講印の「山吉(やまきち)」(左)です。
その隣も講印ですが、どこの講か私にはわかりませんでした。

この「やまきち講」の講祖は、身禄直弟子の吉田平左衛門(八行貞山)です。
分布は渋谷、目黒、三軒茶屋、神田、本所、竪川、寺島、
そしてここ、砂町です。
この富士塚と力石を見て、ひょっとしたらと思ったんです。
力持ち力士も富士講の講員ではなかったか、と。

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質問 「田子山富士にも羽根倉浅間神社にも猿の石像があります。
これも富士講とつながりがあるのでしょうか」
こちらはブログ「ITO WOKASHI」のplteauさん撮影の猿の石像です。


埼玉県志木市上宗岡・羽根倉浅間神社
答 「大いにあります。
『富士山は、6代目の天皇:孝安天皇の92年、庚申の年に、
それまで厚い雲に覆われていたのが、
雲霧が忽然と晴れて姿を現わした』
との言い伝えがあります。
庚申の申が猿ですので、
「猿が富士山の神様のお使い」となったと言われています。
吉田口登山道の馬返しの地点にも、一対の猿が居ます」
保存会の方から「雲霧が忽然と晴れて」という言葉が出てきました。
また、富士山と縁があるのが、「雲切不動」です。
この「雲霧」で思い浮かぶのが、
「八丁堀亀嶋町 石の平蔵」の歌石です。
これです。

東京都江東区佐賀町・佐賀稲荷神社 伊東明先生・画
これは禁酒を誓い、その思いを歌にして力石に刻んだものですが、
平蔵は富士山に誓ったのでは、と私は思ったのです。
石の摩耗が激しくて判読は難しく、先人の判読したものを見ても、
この歌のどこが禁酒の誓いなんだよという、わけがわからない歌です。
「雲記りも晴れ行 山の高き石の
飛(ひ)ろまるからに 我はささげる」
チンプンカンプン。
たぶん、元はちゃんとした歌だったと思いますが、
現状では、古文書の先生もお手上げです。
ですが、冒頭に「雲記り(霧)も晴れ行」とあります。
以下は拙ブログの記事です。
「八丁堀平蔵の歌石・その二」
推し量って、私流に考えてみると、このような解釈になります。
「富士のお山に禁酒を誓い、それを守ったら、
お山を厚く覆っていた雲や霧がたちまち晴れたように、
自分の心まで晴れ渡った。
だから、
富士山に感謝を込めてその清々しい空の高みに力石を捧げた」
どうでしょう。こじつけ過ぎでしょうか。
で、もう一つ、私の心に引っかかっていたことがあります。
富士塚に埋め込まれた力石の存在です。
こんな風に溶岩の中に埋められています。
富士塚の頂上付近にもありますが、近づけません。

東京都江東区南砂町・富賀岡八幡宮
ここには18個もの力石があります。塚の外に置かれた石もあります。
有名な力持ちのものばかりですが、
一つ、お見せします。
これです。
塚の下部に埋め込まれていたため、なんとか助かっています。

東京都江東区南砂・富賀岡八幡宮
この石には「樊噲(はんかい)石」と刻まれています。
「樊噲」とは、中国・漢の皇帝・劉邦に仕えた武将の名です。
この石を持ち、「樊噲」と刻んだのは、
神田明神下の酒問屋・内田屋の金蔵です。
石銘に古代中国の功臣の名を持ってくるとは、なかなかですね。
実はこの金蔵さん、名字を福岡氏といい、
八丁堀亀嶋の平蔵が歌石を奉納した4年後、埼玉県三郷市で誕生。
その後、江戸へ出て酒問屋に奉公。
そして30歳のとき、なんと、平蔵と同じ力石を持ち、
連名で墨田区の牛嶋神社に奉納。石銘「雲龍石」
この時、平蔵、57歳。
その2年後、金蔵が故郷の香取神社に奉納した手形の額に、
平蔵は世話人として名を記しています。
これです。

「石に挑んだ男達」高島愼助 岩田書院 2009より
そしてこちらがこの富賀岡八幡宮にある富士塚の全景です。
天保4年(1833)の築造です。

こちらは昭和30年ごろの、富賀岡八幡宮の富士塚です。

この富士塚には、
富士山登頂の記念碑がたくさん埋め込まれています。
ほとんどが「やまきち講」です。
これが講印の「山吉(やまきち)」(左)です。
その隣も講印ですが、どこの講か私にはわかりませんでした。

この「やまきち講」の講祖は、身禄直弟子の吉田平左衛門(八行貞山)です。
分布は渋谷、目黒、三軒茶屋、神田、本所、竪川、寺島、
そしてここ、砂町です。
この富士塚と力石を見て、ひょっとしたらと思ったんです。
力持ち力士も富士講の講員ではなかったか、と。

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