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力持ちと富士塚

富士塚
05 /31 2022
埼玉県志木市の、
「田子山富士保存会」の方とのやり取りの続きです。

質問 「田子山富士にも羽根倉浅間神社にも猿の石像があります。
   これも富士講とつながりがあるのでしょうか」

こちらはブログ「ITO WOKASHI」のplteauさん撮影の猿の石像です。

羽根倉猿1 羽根倉猿2
埼玉県志木市上宗岡・羽根倉浅間神社

 「大いにあります。
   『富士山は、6代目の天皇:孝安天皇の92年、庚申の年に、
   それまで厚い雲に覆われていたのが、
   雲霧が忽然と晴れて姿を現わした
   との言い伝えがあります。

   庚申の申が猿ですので、
   「猿が富士山の神様のお使い」となったと言われています。

   吉田口登山道の馬返しの地点にも、一対の猿が居ます」

保存会の方から「雲霧が忽然と晴れて」という言葉が出てきました。

また、富士山と縁があるのが、「雲切不動」です。

この「雲霧」で思い浮かぶのが、
「八丁堀亀嶋町 石の平蔵」の歌石です。

これです。
img556.jpg
東京都江東区佐賀町・佐賀稲荷神社 伊東明先生・画

これは禁酒を誓い、その思いを歌にして力石に刻んだものですが、
平蔵は富士山に誓ったのでは、と私は思ったのです。

石の摩耗が激しくて判読は難しく、先人の判読したものを見ても、
この歌のどこが禁酒の誓いなんだよという、わけがわからない歌です。

「雲記りも晴れ行 山の高き石の 
          飛(ひ)ろまるからに 我はささげる」

チンプンカンプン。
たぶん、元はちゃんとした歌だったと思いますが、
現状では、古文書の先生もお手上げです。

ですが、冒頭に「雲記り(霧)も晴れ行」とあります。

以下は拙ブログの記事です。

「八丁堀平蔵の歌石・その二」

推し量って、私流に考えてみると、このような解釈になります。

「富士のお山に禁酒を誓い、それを守ったら、
お山を厚く覆っていた雲や霧がたちまち晴れたように、
自分の心まで晴れ渡った。
だから、
富士山に感謝を込めてその清々しい空の高みに力石を捧げた」


どうでしょう。こじつけ過ぎでしょうか。

で、もう一つ、私の心に引っかかっていたことがあります。
富士塚に埋め込まれた力石の存在です。

こんな風に溶岩の中に埋められています。
富士塚の頂上付近にもありますが、近づけません。

CIMG0770.jpg
東京都江東区南砂町・富賀岡八幡宮

ここには18個もの力石があります。塚の外に置かれた石もあります。
有名な力持ちのものばかりですが、
一つ、お見せします。

これです。
塚の下部に埋め込まれていたため、なんとか助かっています。
CIMG0747.jpg
東京都江東区南砂・富賀岡八幡宮

この石には「樊噲(はんかい)石」と刻まれています。

「樊噲」とは、中国・漢の皇帝・劉邦に仕えた武将の名です。

この石を持ち、「樊噲」と刻んだのは、
神田明神下の酒問屋・内田屋の金蔵です。

石銘に古代中国の功臣の名を持ってくるとは、なかなかですね。

実はこの金蔵さん、名字を福岡氏といい、
八丁堀亀嶋の平蔵が歌石を奉納した4年後、埼玉県三郷市で誕生。

その後、江戸へ出て酒問屋に奉公。
そして30歳のとき、なんと、平蔵と同じ力石を持ち、
連名で墨田区の牛嶋神社に奉納。石銘「雲龍石」

この時、平蔵、57歳。

その2年後、金蔵が故郷の香取神社に奉納した手形の額に、
平蔵は世話人として名を記しています。

これです。
金蔵手形
「石に挑んだ男達」高島愼助 岩田書院 2009より

そしてこちらがこの富賀岡八幡宮にある富士塚の全景です。

天保4年(1833)の築造です。

CIMG0762_20220522114323873.jpg

こちらは昭和30年ごろの、富賀岡八幡宮の富士塚です。

CIMG0763.jpg

この富士塚には、
富士山登頂の記念碑がたくさん埋め込まれています。

ほとんどが「やまきち講」です。

これが講印の「山吉(やまきち)」(左)です。
その隣も講印ですが、どこの講か私にはわかりませんでした。

CIMG0762 (2)

この「やまきち講」の講祖は、身禄直弟子の吉田平左衛門(八行貞山)です。

分布は渋谷、目黒、三軒茶屋、神田、本所、竪川、寺島、
そしてここ、砂町
です。

この富士塚と力石を見て、ひょっとしたらと思ったんです。

力持ち力士も富士講の講員ではなかったか、と。

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人穴遺跡

富士塚
05 /28 2022
埼玉県志木市の「田子山富士保存会」の方とのやり取りの途中ですが、
「人穴遺跡」に寄り道。

こちらは江戸時代、桑原藤泰によって編まれた地誌「駿河記」の、
「人穴の里」です。画は著者。

赤丸は碑塔群、黄色は人穴の集落。赤丸と黄丸の間が角行入定の人穴
img20220520_07374930 (5)img20220520_07374930 (6)
静岡県富士宮市

富士信仰の元祖、角行はこの風穴で修行。
その死後の約60年目に、二人の偉大な行者が出現した。

それが角行直系の「村上光清」「食行身禄」だと、
岩科小一郎氏はいう。

この二人は対照的だったそうで、
村上光清は富裕な商人。代参を依頼する人も諸大名や豪商。

享保20年(1735)から4年かけて、山梨県・北山浅間神社の社殿を新築。

一方の身禄は百姓出身で13歳で江戸へ出て丁稚奉公。
油の行商をしながら、信仰生活を送っていた。


登山のときの着物にも違いがあった。

村上派は盲縞の脚絆に割り羽織。先達は一刀を帯びていたが、
身禄派は白い行衣に金剛杖。

こちらが人穴遺跡の碑塔群の一部です。

CIMG1348.jpg

村上派も身禄派も富士信仰の開祖・角行を人穴の主祭神とし、
死して後はこの地に分骨を願ったため、たくさんの碑塔が残されています。

しかし、昭和17年(1942)、上井出村に陸軍少年戦車兵学校が開校し、
この場所が演習場になったため、住民は近くの北山村へ強制移住。

戦後は住民の多くは戻らず、人穴も富士講も衰退していったという。
「史跡富士山 人穴富士講遺跡調査報告書」富士宮市教育委員会 平成29年

さらに2011年、東日本大震災が発生。ここも震度6強を観測したそうで、
約260基の碑塔群の多くが崩落してしまいました。

img20220520_07295690 (3)
「人穴富士講遺跡調査報告書」よりお借りしました。

復旧作業は震災直後から2013年までとのことなので、
私がここを訪ねたころは工事は終了したばかりの時ということになります。

このときは静岡市も揺れて、鉄筋の建物が左右にしなって…。
建物があんなに曲がるなんて初めて。みんな外へ飛び出しましたよ。


遠いのに影響がある地震と、近いのに全く揺れない地震があるんですね。

この地震の直後に海沿いを歩いたら、
樹木や生垣が海側だけ、白く焼けて枯れていましたが、
あれって何だったのか。

表登山口の村山浅間神社も地震被害を受けた。

赤丸にあった塔が落下。石垣も崩れています。

img20220520_07295690 (2)
同上

人穴遺構を訪ねてから半年後に訪れた村山浅間神社です。

こちらは、塔も石垣も元どうりに修復されていました。

CIMG1769.jpg

富士山の最後の噴火は宝永4年(1707)。
その半年後にはもう登山者が押し寄せたというのですから、

ぶったまげました。

信者たちは競って山頂の火口へお金を投げ入れたため、
火口管理者はいつもの年より、大金を拾うことが出来たという。

道者(信者)たちは、道中も宿坊でも気前よく、
「撒き銭」をしたそうですから、
いつの世も信心にはお金がかかるものですね。

CIMG1344.jpg

でも、登山中の行倒人(いきだおれにん)は絶えることはなく、
奈良興福寺の僧が富士登山の途中見たこんな記録を残しています。

「砂払いというところへ登る。死する者、数人。
死人見て、肝をつぶすばかりなり」
=「寺辺明鏡集」

遭難者はそのまま放置されていたようですが、

でもねえ、
坊さんが肝をつぶすって、どういうこっちゃ。

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江戸八百八講

富士塚
05 /25 2022
平安の昔からあった富士山信仰が、庶民を熱狂させたのは江戸中期。

それは、行者・食行身禄の弟子の高田藤四郎(日行青山)が、
師と富士講発展のため、富士塚を築造したころだったという。

岩科小一郎氏の「富士講の歴史」(名著出版 昭和58年)によると、

「藤四郎は師の没後3年目に「身禄同行」という講を起こし、
師の33回忌にあたる元文元年(1736)をめどに富士塚築造を発願。


しかし出来たのは発願から43年後、師の没後46年目のことだった。
その藤四郎の死後、弟子たちによって、
講は「身禄同行」から「丸藤(まるとう)講」と改名した」

この講は身禄直系ということで広く講仲間を集め、各地に枝講ができた。

藤四郎こと日行青山が戸塚村(新宿区高田)に築造した「高田富士塚」
jpegOutput (3)
「江戸絵本土産」広重が・国立国会図書館デジタルより

ちょうどそのころ、
人々は飢饉や物価高騰で疲弊。世の中は打ち壊しや一揆で騒然。

そんな時、身禄が残した
「世直し」「四民平等」「男女は同じ人間なり」
という教えが庶民を惹きつけた。

富士講は江戸八百八講といわれるほど増え、富士塚も各地に築造。
※講組織の実際の数は約130講ほど。

富士塚は破却されたものを含めると都内に約60。
近県のものを合わせると約200ほどだったという。

こちらはブログ「ITOWOKASI」のplateauさん撮影の、
敷島神社の富士塚「田子山富士」=国重要有形民俗文化財=です。

高さ約9m。明治5年築造。築造者は高須庄吉(藤山晃行)。
敷島富士塚
埼玉県志木市本町・敷島神社

大きくて立派なだけではなく、登山道沿いに小御嶽神社や石祠、
大天狗、小天狗などを配した本物そっくりの富士塚です。


また、
地元の方々の手厚い保存整備と広報活動の素晴らしい所で、
その熱き思いと行動力が随所に見られます。

富士講にはそれぞれ「講印」という、その講の印があります。
富士山登拝のとき、この印を菅笠に付けるので「笠印」ともいいます。

こういうものです。
img20220427_09310469 (2)
img20220427_09293788 (3)
調査報告 第4集「富士講と富士塚」ー東京・埼玉・千葉・神奈川― 
神奈川大学日本常民文化研究所 1979よりお借りしました。

で、私はplateauさんの写真を見ていて、あれ?と思ったんです。
※赤丸をつけさせてもらいました。すみません。

敷島神社の富士塚の「御胎内」入り口です。
敷島胎内

赤丸の中は「講印」です。

これは高田富士塚を築造した日行青山の講印
「丸藤(まるとう)講」の印です。

ですが、
この敷島神社の富士塚築造者は「丸吉(まるきち)講」なんです。

だから当然、「丸吉講」の印のはず。なのに、なんでよその講印なの?

でも今度は、
同じ市内の羽根倉浅間神社「羽根倉富士嶽」を見てみると、
ここは日行青山の系統の「丸藤講」なのに、碑は「丸吉」の講印。

「丸吉講」の富士塚に「丸藤講」の印があって、
「丸藤講」の富士塚に「丸吉講」の印がついている。

あれれ。なんで?

「羽根倉富士嶽」です。明治13年築造。高さ約6m。危険なため立ち入り禁止。
羽根倉塚
埼玉県志木市上宗岡・羽根倉浅間神社

富士塚についてにわか勉強の私、わからないことに突き当たり、
そこで、地元保存会の方に教えを乞いました。

答えてくださったのは「田子山富士保存会」の重鎮の方です。

質問 「こんなふうに、
    違う講組織の印をつけることはよくあることなのでしょうか。

    どちらかが枝講なのでしょうか」の疑問へのお答えがこちら。

 「よくあることです。元講、枝講の関係ではありません。
   同じ地区にある講が親睦のために連合体をつくることもあったそうで、
   そういう組織を「睦(むつみ)」と呼んだようです」

質問 「羽根倉富士嶽の築造にも携わった上宗岡「まるとう講」八代先達の
    星野勘藏は、講祖・高田藤四郎と同じ「日行」という行名ですが、
    これもよくあることですか」
とお聞きした答えがこちらです。

 「よくあることとまでは言えないが、星野勘藏はかの有名な狛俊學から
   この行名をいただいたという記録があるから、
   相当評価されていた人だったと思われます」

こちらは
「田子山富士塚」の動画ですが、初めのころに「星野勘藏」が出てきます。


富士塚は富士山が望見できるということが、
築造場所の基本的条件だったそうですが、

この富士塚からも、ちゃんと見えました。

「田子山富士保存会」の方とのやりとりはまだ続きます。

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御師の村

富士塚
05 /22 2022
富士山の話の途中で、「縄文時代」に入り込んじゃいました。

なんでかなァとつらつら考えたら、これでした。

徳川幕府を倒したイギリスかぶれの若造たちが、
「文明開化」と称して廃仏毀釈をやり、縄文の時代から続いてきた習俗を、
「淫らな風習」「邪悪な教え」として大弾圧した。

その禁止されたものの一つに修験があったからで、
胸に金ピカの勲章をつけた成り上がり「名誉白人」が、
こうした「日本の心」を捨てさせたことに、カチンときたからでした。


廃仏毀釈で首を斬られた仏像を見るたびに、
なんでこれが「文明開化」なんだと。(怒)

山中にあった首を斬られたお地蔵さんです。
台石に「若者□」とありますから、若者組・若衆組で奉納したものでしょう。

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まあ、いつの世も時代は先を急ぐんだから仕方ないんですけど。

明治新政府にアイディンティティを否定された庶民は、
お咎めを恐れて石棒や女陰石を土中に埋めた。

富士講信者を迎え入れていた御師(おし)も、
明治四年の「御師職禁止令」で職を失った。

講の一行を出迎える御師(左)と道者(信者・講員)たちです。
img20220517_22573170 (2)
「富士詣」仮名垣魯文

白装束に金剛杖を持ち、講印をつけた菅笠をかぶった道者たちは、
道中もたくさんのお金を落としてくれる大事なお客様でした。

掲げているのは「マネキ」という講旗です。

こちらは山梨県「吉田口」の御師だった「外川家」の屋敷内です。

img20220515_09504287 (2)
「富士山御師の歴史的研究」高埜利彦編 山川出版社 2009の
執筆者・伊藤裕久氏の「御師町の街並と住居」からお借りしました。

御師は百姓と神職の中間的身分だったそうで、
富士山登山口に宿坊を構え、信者たちの登拝案内と檀那場へのお札配り、
武家の代参などを生業にしていたそうです。

それが明治4年の「御師職廃止令」でこの特権を失います。

「廃止令」のその後を同書の執筆者・谷本晃久氏が、
河口湖畔の御師集落「川口」を例に述べています。

こちらは葛飾北斎の「富嶽三十六景」のうち、
河口湖畔から見た富士山と逆さ富士を描いた「甲州三坂水面」です。

国会図書館
国立国会図書館デジタルより

この絵を見ながら、私は川口村はここかなあとか、この大きな屋根は
寺ではないのかなどと謎解きをやりましたが、ついにギブアップ

これは地元の方に聞くしかないと、早速、山梨県河口湖町へ問い合わせ。

すぐにとびきりのお返事が来ましたよ
葛飾北斎のこの絵の謎解きをされている方のHPをご紹介くださったんです。

これが面白いんです。

私は右端の村が「川口村」かと思っていましたが、とんだ方向違いでした。

「葛飾北斎の富士山の場所を特定する謎解き」

さて、謎解きのあとは、
「御師職廃止令」で生業を失ったあとの「川口村」についての話です。

「富士山御師の歴史的研究」の中で、谷本氏はこう語っています。

「明治の変革は御師集団の生業を揺るがせることになった」

とはいえ、特権を失ってもすぐ衰退したわけではなかったようで、

「大正期の旅行案内を見ると、吉田口は変わらず繁栄していたが、
交通の不便な川口はふるわず、その差は歴然としていた」


「しかし、それをもって
従来の学者の川口御師に対する「退化の百年」という位置づけは、
果たして妥当だろうか」と疑問を呈し、

「挫折を伴いつつも、様々な可能性を模索していった川口御師集団の近代化を
評価し直すべきではないか」
と。

「尊王攘夷の東征軍に参加して、官吏への道を模索し、
御師から祠官、禰宜への転身をはかり、宿坊を宿屋経営へと経営転換。

そして、生業を維持するため、富士講系教派神道と結んで、
明治20年ごろまで御師職を継続させてもいた。

御師の教養だった俳句、和歌、漢詩の素養を生かして、
教導職(教師)になったり、役場の官吏、養蚕業などにもなった」


「御坂釈迦ケ岳」(1641m)の頂上に坐(いま)すお地蔵さんです。
誰が着せたのか、きれいな服に身を包み仲良く下界を見下ろしていました。

img20220519_17052027 (3)
山梨県笛吹市芦川町

下は川口村(現・富士河口湖町)の中心的存在だった
「河口浅間(あさま)神社」の紹介URLです。

「天空の遥拝所」

谷本氏はその一例として、この村の御師の家に生まれ、
のちに作家になった「中村星湖」をとりあげている。

「星湖は母から、江戸の聖堂で学び、
近郷きっての学者であった曽祖父のことを聞かされ、そのあとこう言われた。

「お前も学問に精出して、偉い者になれ」

星湖少年は衰退する故郷を出て、甲府中学から東京の早稲田大学高等予科へ。
卒業後は東京に留まり、教師になるものの、

第二次大戦末、故郷へ帰り公職についてふるさとの近代化へまい進、
90歳でこの世を去った。

御師たちは、学問や医業を生かし志向性を持って、
主体的に近代化へ参入していった。決して退化ではなかった」
と。

私は富士五湖周辺の山もよくほっつき歩きました。

たき火でアジの丸干しを焼いていたところを写真に撮られました。(#^.^#)

img20220515_13213832 (3)

山梨県の富士山周辺の山は一種独特の雰囲気がありました。

山中の廃屋の軒下に子供の水筒が下がっていたり、墓が放置されていたり。
まむしの養殖場や当時騒がれていた宗教の一団に遭遇したことも。
あの痛ましい行方不明があった道志の山も歩きました。

富士山をとすれば、その周辺の山々はのような…。

でも、山のテッペンから見下ろした湖の美しさは、また格別でした。

img20220515_16062237 (2)

ブログ「ITOWOKASI」のplateauさんの河口湖の美しい雪景色をどうぞ!

「雪景色、忍野」

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縄文のアニミズム

富士塚
05 /19 2022
またまた横道へ逸れそうな懸念ですが、突っ走ります。

学校では決して教えない「原初日本人の心が垣間見える」話です。

某県の考古学博物館にお邪魔したとき、思い切って聞いてみたんです。

「発掘現場では”いやらしいもの”は出ないのでしょうか?」

だってどこへ行っても陳列品は似たり寄ったりで、お上品なものばかりだから。
そしたら、
若い女性の学芸員さん、ちょっと顔を赤らめて小声で打ち明けました。

「出ます。山ほど。でも表に出せないから倉庫に置いてあるんです」

こちらは「出産土偶」です。
img20220418_13575604 (2)
山梨県須玉町教育委員会所有

正式名称は「顔面把手付深鉢」

でもこれ、どう見ても、
母親の子宮から産道を通って顔を出した赤ちゃん誕生の瞬間ですよね。

学者も最近はこの説に傾いているとか。

これは縄文中期の土偶だそうですが、こうした妊娠、出産を現わした土偶は、
約1万年続いた縄文時代の草創期から後期ごろまで制作されて、
現在までに約2万点も発掘されているそうです。


子宝にまつわる石造物の代表的なものは、石棒と石皿で、
発掘現場ではもちろん、今でも寺社の片隅で目にします。

このことはのちに述べることにしますが、
子宝にまつわるものとして、「盃状穴」(はいじょうけつ)があります。

こちらは静岡浅間神社の石橋に穿たれた「盃状穴」です。

CIMG1467~1

石橋だけではなく、手水鉢、常夜灯、石段などあらゆる石に穿たれています。
もちろん、力石にもあります。

下の写真は、盃状穴のある力石です。
ここは山梨県へ通じる峠への登り口で、博打場があったとか。

ここを通ったのは主に馬喰(ばくろう)と呼ばれた馬の売買をした人たちです。

祭りのときや人が集まったりすると、
博打をやったり力石を担いだりしたという話は、山村でよく聞きました。

この力石は富士山の溶岩を力石にしていました。

CIMG0102_202205140942489b4.jpg
静岡県富士宮市稲子・路傍

「盃状穴」は、女性たちが子宝に恵まれたいときや安産を願って、
夜間密かに、小石で根気よくこすってあけた穴だと言われています。

また、穴をあける対象に力石を選んだのは、
力持ちの偉大な力を頼ってのことだと聞きました。

近いころまで農山村では、
出産を控えた妊婦さんが力石に触って安産祈願をしたり、
結婚式たけなわの自宅に村の若者たちが力石を投げ込んだりしたそうです。

そういうことからも、
石は昔から子孫繁栄としての妊娠と結びついていたように思います。

出産にまつわる夥しい土偶や女たちが懸命にあけた盃状穴を見るたびに、
私は共感しつつ思うのです。

子宝への切望、出産がいかに危険なものであったか、
その危険を越えて無事、子の誕生を迎えた喜びがどんなに大きかったか、

そういうものを表しているのだ、と。


下は静岡市内の海寄りにある神社の境内です。
隅には埋められた石が数個あり、状況や形態からどう見ても力石でしたが、
文献資料を漁っても出来る限りの聞き込みをしても、証明できなかった。

この石には無数の盃状穴があり、近くに今は使われていない土俵もあって、
昔の若者たちが力石を担ぎ、相撲に興じたことを彷彿とさせるのですが、残念。

今も心残りの場所です。

CIMG0367.jpg

この「盃状穴」という命名は、
遺跡の発掘調査をしていた大学の先生が石棺に無数の「穴」を見つけて、
盃(さかづき)状にあいた穴だから、この名を付けたそうですが、

「出産土偶」を「顔面把手付深鉢」と命名したように、
いかにも学問の分類上といった感じで、ちょっと味気ない。


たぶん、各地固有の別の呼び名があったはずですが、
明治政府の廃仏毀釈に始まる習俗の禁止で消えてしまったのでしょう。

でも、別の呼び名がかろうじて残っていた例がありました。

これです。
山梨県の縄文中期~晩期遺跡から出土した「蜂の巣穴」です。

この土地では石にあけたこの穴を「蜂の巣穴」と呼んでいたとのこと。
なるほど、蜂の巣状です。

またこの石は道祖神場に置かれ、「子供を産め」という意味の
「コンボーメ」とか「コンボータ」と呼ばれていたそうです。

img20220418_17111283 (2)
「石にやどるもの・甲斐の石神と石仏」中沢厚 平凡社 1988

そう言えば、
私が育った田舎のおかみさんたちが犬の子でも人間でも言ってました。
「コンボ―が生まれた」って。

「コンボー」は「子ン坊」のこと。

「コンボーメ」は「子供を産め」
「コンボータ」は「子供が生まれた」
という意味。
山梨県に近く、そこからの嫁入りも多かったから、自然と使ったんでしょう。

静岡での聞き取りでは盃状穴にヨモギなどの野の草を詰め、
小石で突っついてままごとをして遊んだ話がありましたが、

山梨県でも子供たちが穴をチョコンチョコンと突っついて
「コンボーメ」などと囃し立てて遊んでいたそうです。

そうしたことが、自然と石の名称になっていったのかもしれません。

この「子を産め」というのは、子宝祈願の「盃状穴」とまったく同じです。

それも縄文からの風習というのですから、私はたまげてしまいました。

上の写真にもありますが、
山梨県は「丸石」を道祖神として祀った独特の風習を持っています。

そのため、静岡県でも山梨県の影響を受けた地域にこの丸石があって、
力石と紛らわしくて見極めるのに苦労しました。

この力石(左)はそれを証明する資料があったため、無事、記録できました。

CIMG0132_20220514141627519.jpg
山梨県南巨摩郡南部町・道祖神場

遺跡から大量に出てくる石棒は男性を、丸石は女性を表しています。

「石にやどるもの」に、山梨県北巨摩郡大泉村から、
「石棒と丸石、蜂の巣石がセットになって大量に発見された」
と書かれています。

これらが3点セットで出土するということは、
縄文人にとって子供にまつわる大切な呪術の道具だったのだと思うのです。

いわば「縄文のアニミズム」

約2万点もの和合、妊娠、出産の土偶を制作した縄文人。

その本当の理由はいまだに確定していないため、
考古学者たちはいろいろの説を公表しています。

「豊穣と安産祈願」「生命の再生を祈願」、
最近、「植物の精霊を再生させる祭祀用の壺」と言う説も。

最後の説は、土偶の顔や文様が、
ドングリや粟などの植物の種に類似しているところから、

その種子を深鉢状になった土偶に入れて、再生を祈願したというものです。

この人の本を読んで、「なるほどなあ」と思ったものの、
それとはかけ離れた生身の人間同様の非常にリアルな土偶もありますから、
全部は当てはまらないんですよね。

さて、話変わって、
こちらは現代の「縄文大工」のJOMONさんの動画です。



外国の建築家と仕事をするなど腕のいい大工さんのJOMONさん。

2009年に都立大の先生と能登半島の真崎遺跡で、
縄文住居の復元に携わったとき、「縄文」に魅了され、
以来、縄文人暮らしを実践。


初代縄文人に、三重県津市の人がいましたから、
JOMONさんは二人目ということでしょうか。

一見、この方の暮らしぶりは変人奇人だと思われがちですが、
決してそうではない。

匿名で発言し、表と裏の顔を乖離させなければ危険がいっぱいという
現代社会と現代人のほうがずっとおかしいと、私は思うのです。


HPもどうぞ。

「JOMONさんがやってきた!」

こういう人がいることはすごく貴重。世の中が明るくなります。

子供のころ、野山を駆け回り、
村の子らを真似て野の実を食べて、ちょっぴり縄文人だった私。
人間の本来あるべき姿を教えてくれているとも思います。

JOMONさんの本名が、私と同じってとこも、

なんだか、うれしいなあ

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富士山の穴

富士塚
05 /16 2022
富士山には大きく分けて二つの穴があります。

頂上の噴火口と下界の風穴、氷穴と言われる洞窟です。
私は洞窟のどちらにも入りましたが、氷穴は滑って大変でした。

で、噴火口は火の燃えるところで、死の世界。弥勒浄土の世界。
地下にできた洞窟もまた黄泉の国への道

こちらは浜松市の鍾乳洞「竜ヶ岩洞」です。
ここは命の再生というより業者は観光、訪問客は好奇心で。

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下の写真は行者・角行が修行した人穴の奥です。水が溜まっています。

行者・角行が人穴で修行した時、角材を敷いて修行した話が伝わっていますが、
この水ではそうでもしなければ修行が出来なかったのかも。

江戸時代、この人穴へ入った「駿河記」の著者、桑原藤泰は、
こんな感想を残しています。

「奥に入ること二町ばかり。その途中、金仏あり。底は冷水。膝に及ぶゆえ、
二行に材木を敷き、その上を行く」


この本を解説した郷土史家の宮本勉氏の序の言葉がまたいい。

「私にとって桑原藤泰は富士山のようなものである。
それは神々しく高く聳えながらも間近に見え、近づけば近づくほど
気高く畏敬の念を覚える存在である、という意味においてである」

奥に「浅間大神」の碑が立っている。
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「富士山・歴史散歩」遠藤秀男 羽衣出版 平成8年よりお借りしました。

しかし、穴は「命が果てる」ばかりの世界ではない。

山頂の噴火口の穴は「ホト(女陰)」とされ、命の誕生の場所。
地下の穴もまた、「蘇りの場」であって、
ともに新しい命の誕生を迎える「擬死再生」の場でありました。

そして、
それを可能にしたのは「水」なのだと民俗学者の野本寛一先生は言う。

「一度死の世界を体験した後は、再生しなければなりません。
それを可能にするのがです。

聖域に入る時(みそぎ)をするのが一般化していますが、
「古事記」の場合は反対です。
黄泉の国から帰ってきたら、その汚れを清めるために禊をした。

禊には俗(穢)から聖(浄)とその逆の、
死から生へ再生するための浄化があると考えられます」

これを「産湯」と「末期の水」に置き換えると、わかりやすい。

富士登山は夜間が多いのにも理由があります。
ただ暑いからというだけではないのです。

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新しい心に生まれ変わるには、を通り抜ける必要があるからです。
と、偉そうに言っちゃいましたが、これ、全部、他人様の本からの受け売り。

で、その闇(死の世界)から抜け出て山頂にたどり着くころ、
「ご来迎」を拝します。

これは「ご来ではなく、「ご来が正しいそうです。

「自分が太陽を拝むのではなく、
向かい側に仏さまが現れたように自分の影が映る現象、
ブロッケン現象といいますが、それを拝む。

その仏様を迎えることによって幸福感を味わう。
そこで新たな心になって帰っていくのです」(小杉達氏)

「仏を迎える」から、「ご来迎」なのだ、と。

そのブロッケン現象、お見せしようと探しましたが、写真見つからず。
代わりにでご勘弁を。

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北ア・唐沢テント村

おまけです。

富士山直近の山で遭遇したカモシカの骨。

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もう一つ。

img20220418_21102603 (2)

「持って帰ろうかな」と言ったら、同行者に叱られた。

「ダメ。ばい菌だらけで危険だから」

私って軽率だねぇ、バカだねぇってつくづく思ったものでした。

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修験

富士塚
05 /13 2022
円錐形の独立峰・富士山

古代から人々は、
頂上に万年雪を乗せた優美な姿に心を寄せ、神の山と崇めてきた。

しかし時には大地を揺るがせ火を吹いて周囲を破壊し尽くすから、
その偉大な力を祟りと感じ、恐れおののき、ひれ伏してきた。

で、私は長いこと、
この「崇(あが)める」「祟(たた)る」の漢字を混同していて、

ある日、あれ?と思ったんです。

よく見ると、「崇める」「祟る」

「宗」は物事の根本。尊ぶなどの意。「示」は訓示、威を示すなどの意。

これを富士山になぞらえたら、よくわかったんです。

つまり、山は神さまの住むところとされていて、人々が「崇める」、
ところがその敬う心を忘れたら、たちまち神の逆鱗に触れて「祟る」。


※でも西洋では山は悪魔が住むところなんだそうですね。

こちらは富士のふもとの縄文遺跡「大鹿窪(おおしかくぼ)遺跡」です。

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静岡県富士宮市柚野大鹿窪

縄文草創期の集落跡で、
約1万3000年前の噴火のときの溶岩流の上に出来たそうです。


ドカンと火を吹いて溶岩が流れてくるところにわざわざ住むって、
特別のメリットがあったということでしょうか。

ここが発見されたとき、私はすぐ飛んでいきましたよ。

定住集落跡として
日本最古級のもので、平成20年に国の史跡になっています。

私の写真では富士山はちょびっとなので、こちらをご覧ください。

ここの縄文人たちは、朝な夕なにこのお山を崇めていたと思います。

「国の史跡 大鹿窪縄文遺跡」

昔から富士山周辺には新興宗教が集まるといわれてきました。
富士山の神威にあやかろうとしてのことでしょうか。

ですが、この富士信仰はちょっと違います。

なにしろ富士山そのものがご神体で、そこに登ること自体が信仰なので。

古今、いろんな人が登りました。

修験の開祖といわれる飛鳥時代の役小角(えんのおづぬ)は、
配流先の伊豆から富士山頂へ飛翔して、一夜のうちに帰って来たとか。

烏天狗だったのか!

役小角は鉄下駄を履いていたそうです。
でもこちらは富士宮市の若者たちが、力比べのとき履いた鉄下駄です。

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静岡県富士宮市大中里青見丘路・丘路八幡宮

室町時代には「末代上人」が出てきます。
この人は富士の登山口で一番古い「村山口」を開いた修験者と言われています。

この村山修験の集団は、
当時の駿河の支配者・今川氏の間者(隠密)だったとの説も。

反対側の「吉田口」の御師の中には、
甲斐の武田氏の間者(スッパ)がいたという話も。

さて、話を戻すと、
戦国時代から江戸初期には、長崎出身の「角行」という行者が出ます。
伝説上の人物との説もありますが、どうなんでしょう。

この人は富士の人穴という溶岩洞窟で千日修行ののち往生。

人穴です。富士の西麓にあることから、ここを西の浄土といいます。

CIMG1346.jpg
静岡県富士宮市人穴

この穴の中で角材の上で修行したので、
「角行(かくぎょう)」という行名を与えられたそうです。


洞窟は母の「胎内」であり、「他界への通路」

だからそこでの入滅は、
死ではなく、「擬死再生の場」、生まれ変わる場とされていました。

今は中に入れません。

角行のあとに出てきたのが、
三重県出身の「食行身録(じきぎょうみろく)です。

身録、63歳の時、富士山7合5勺目の烏帽子岩で厨子に入って断食。
35日目に入定した。

角行の往生から約100年後のことだったそうです。

江戸に「富士塚」が現れるのは、
この身録入定の「46年後」のことだそうです。

修験って、不思議な世界だなあと思います。

こちらは「食行身録」の流れをくむ富士山先達です。
頭に晒し木綿の「宝冠」をつけています。

富士講研究の第一人者・岩科小一郎氏によると、
左の人は「七五三かぶり」、右の人のが「宝冠かぶり」だそうです。

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「富士講の歴史」岩科小一郎 名著出版 昭和59年

著者は本の中でこうおっしゃっています。

「先達はただ一心に人々の救済のために努める人。
1紙1銭たりとも自己収入を得てはならぬという身録の教えを守り、
身銭を切り、そのために家が傾くと言われた。


行衣は初山(初登山)に着たものを1代で着通す。
20年、30年着たものにつぎを当てるから、柔道着のように厚くなる」

「お山ではすぐに足袋が切れる。
そこである行者が思案した末、裸足で登り、歩き方を会得。
以来、足袋が破れなくなったという。

裸足で富士溶岩の上を歩くとは正気の沙汰ではないが、
それが修行というものである」


「人々の救済のために努め、1紙1銭たりとも自己収入を得てはならない」って、

今どきの政治家に聞かせてやりたいなぁ。

議員辞めても新幹線代、くすねていた小者がいたし、
今日はまた国会の議長が「歳費は月100万円しかもらってない。
上場会社の社長は1億は必ずもらうのに」なんて、たわけたことを…。

国は国で国交省の統計不正が5兆円
不透明コロナ支出が16兆円だと! ((((;゚Д゚)))))))

国から大物、小者、辞めた者までどいつもこいつも、ッたく!

img699_20220513133540923.jpg

次郎長親分も怒ってます。

頭丸めて裸足で富士山に登って来い!

こちらは丹沢山開きのときの修験の方々です。

img20220425_10551656 (2)

ご近所の真言宗醍醐派 三宝院末の火渡りです。

ソワタヤ ウンタラター カンマン

境内にリズミカルなマントラが響きます。

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京都・醍醐寺の修験の方々です。

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浜垢離、水垢離

富士塚
05 /10 2022
身を清める、(みそぎ)をする、

神さまに近づく祭りのときや富士山のような霊山に登拝する時、
人々は水で身を清めてから臨んだ。

戦前の青年団の富士登山です。こうして記念写真を撮ったんですね。


やっぱり若者ですね。前列の青年、ゴザを小粋に持っています。

img408_202205080053551a3.jpg
出典資料紛失。「千代田村誌」の「上足洗青年団」ではなかったかと。

政治家が何かをしでかして、
ちょっと雲隠れして「禊(みそぎ)が済んだ」などというけれど、
そのたびに私は鼻白む思いがする。


だって禊って、もっと真剣で敬虔なものだもの。

ま、それはそれとして、
ここでは昔の富士登拝のときの禊をみていきます。

ゼロm地点からの出発なら、駿河湾「浜垢離(はまごり)をします。

由比の薩埵(さった)から見た駿河湾です。
向かいの入り江の一番深い所が、「富士塚」のある田子の浦
遠くにかすんでいるのが伊豆半島です。

晴れていれば富士山は、真ん中の山の上に見ることができます。

CIMG3950 (1)

浜垢離が済んだら、浜石を拾って富士塚に積んで、いざ、出発です。

「吉原大宮往還」の道へ入り、一路、富士山本宮浅間大社へ。

浅間大社の神田川です。
この水は富士山の伏流水が湧き出ている大社内の
「湧玉池(わくたまいけ)から流れてきます。

富士山ってどんだけ水を蓄えているのかと感心するほど豊富な水量です。

富士市が水を使う製紙業で栄えたのがよくわかります。

昔はこの湧玉池で水垢離をしたようです。

CIMG5008_20220507224102578.jpg
静岡県富士宮市・富士山本宮浅間神社

ここから村山口へと向かいます。

と、その前に、今の浅間大社の元宮・山宮浅間神社へ立ち寄ります。

昔は社殿はなく、富士山を神と崇めた遥拝所でした。

富士山元宮・山宮浅間神社
CIMG1759.jpg
静岡県富士宮市山宮

山宮浅間神社をあとに、いよいよ表登山口だった「村山」へ。

ここには富士山における修験道の中心地「村山修験」があって、
集落そのものが修験の村だったそうです。

そしてその中心にあったのが修験者の道場興法寺大日堂です。
しかし明治になると廃仏毀釈で寺は破却。

分離された「村山浅間神社」だけが残りました。

護摩壇(ごまだん)です。

CIMG1352.jpg
富士宮市村山・村山浅間神社

ここは表口で「池西坊」「辻之坊」「大鏡坊」の坊があって、
「富士行」
と呼び、関西方面の信者が泊った。

反対側の北口の山梨県吉田口は「宿」といい、「富士講」と呼び、
江戸や関東の信者が泊った。

表口の村山はあくまでも修験道場だったが、江戸後期になると、
北口も表口も違いがなくなったという。


さて、こちらが、
最後の禊(みそぎ)をした村山浅間神社の「垢離(こり)取り場」です。

たしか、
横に渡された樋のようなところから水が出る仕掛けになっていたと思います。

CIMG1354.jpg

富士の雪解け水で身を清めて、いよいよ霊峰富士へ向かいます。

村山古道です。

歩いてみましたが、道はすぐ不鮮明になりました。

でも、石畳や木々の間から、昔の人たちの足音や息づかいや、
「六根清浄」の掛け声が聞こえてくるような、そんな気がしました。

私も登山の時、苦しくなったら心の中でよく唱えていました。
「六根清浄 お山は晴天」って。雨にたたられても「晴天」と。

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ここには狛犬さんもおります。

風雪に耐えて幾星霜。溶岩の上に乗っかっております。


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近くに白糸滝や音止滝も。角行がここで滝修行をしたとの説も。

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音止滝(おとどめのたき)。

音止め

ふうーっ
なんだか観光案内みたいになっちゃって。

最後にこんな富士山をお目にかけます。

富士山を模した土俵です。

現在も子ども相撲大会が行われているそうです。

負けると頂上から転がり落ちるそうですよ。
かなりの高さがありますから、真剣にならざるをえません。

こういう真剣勝負、今の子供にはあまり機会がないから貴重ですね。


富士宮市上井出・上井出天神社です。
img20220418_14160511 (3)
「山と森のフォークロア」静岡県文化財団・静岡県環境民俗学研究会
羽衣出版 平成8年よりお借りしました。

力石探しの途中で個人が作った「富士塚」を見つけましたが、
写真が見つからず、ご紹介できません。

トホホ

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徳島・大阪・埼玉で新発見

みなさまからの力石2
05 /07 2022
新発見情報がドドッときました。

嬉しい悲鳴です! 今回は南からまいります。


ーーー徳島県からーーー

お寄せくださったのは、以下の資料館の学芸員さんです。
「松茂町歴史民俗資料館・人形浄瑠璃芝居資料館」

これです。
笹木野地区_春日神社
徳島県板野郡松茂町笹木野・春日神社

同じ境内に「そうかな?」と思える石があったと、こちらも送って下さった。

現地へ行かなければ、なんともいえませんが、
こうして並べてあるところを見ると、そうかも、と思えてきます。


笹木野地区_春日神社(2)

学芸員さん、ご多忙なお仕事の合間に、
町内全部の寺社を回って調べてくださったそうです。

本当にありがとうございました。

あとはこれ以上、お手を煩わせることのないよう、
力石関係者で調べなければ罰が当たりますね。



---大阪市からーーー

次の力石は、4月13日の「東京・大阪・タイランド」にご登場いただいた
「大阪民俗学研究会」代表の田野登先生を通じて、もたらされました。

先生の最新ブログ記事を記しておきます。

「晴耕雨読-田野登ー」

発見者は同会会友の榎田鉄也氏です。

2個あります。

● 塚本共同墓地内。

これです。
力石
大阪市淀川区塚本6丁目4・塚本共同墓地

「墓地の中で石仏のように弔われていた」と榎田氏。

右側に名前のようなものが刻まれています。「□□□之□…」と。
生前親しんだ力石を墓石にしたんでしょうか。


なんだか「力石さま」そのものの墓石のような…。

もう一つはこちら。

● 澪標(みおつくし)住吉神社

力石が置かれているのは、境内社の光石(こうせき)社(戎社)

実はこの石、「大阪の力石」に記載済み。私のうっかりミス。(。-_-。)
でも、いかにも大阪らしい背景と風貌の力石なので、
それを楽しんでいただけたら、と思っています。

「澪標」とは、船に水深や水脈を知らせて安全な航行をうながす標識。

こういうものです。大阪市の市章にもなっているそうです。

みおつくし
こちらが力石です。四十貫(150㎏)

「神勢力」

光石神社戎神社2
大阪市此花区伝法3-1-6 澪標住吉神社の光石社(戎社)

「力石が神社の御神体扱いされているということで覚えていた」と榎田氏。

関西などでは神社に奉納するとき、
こんなふうに石を整形することが多いのです。

楕円形の石を見慣れているので、これを兵庫や岡山で見たときは、
ちょっと違和感がありました。


力石の美容整形?
関西人は外づらエエカッコシイが多いのかしら。

こちらが説明板です。ざっとこんなふうに書かれています。

「江戸時代、諸国廻船でにぎわっていた伝法港。
そこで働く荷役の仲士たちがこの石で力を競い合った。
当時の神社の参道は伝法川まで延びていた」


力石の由来2

榎田様、ありがとうございました。

以下は榎田氏のブログです。
丹念に町を歩き、隅々まで目を凝らした「足で綴った歴史民俗誌」です。

「enotetuのblog 東淀川区の歴史雑記帳」

大阪は三重之助先生のテリトリー。

せっかくいただいた好情報です。
先生、出番ですよ!

「よろしゅうおたのもうします」

あ、田野先生の口癖が感染ってしまいました。(笑)


---埼玉県ーーー

ブログ「ITO WOKASHI」plateauさんが撮影した中に力石があって、
なんと、これ、新発見だったんです。

斎藤氏が手持ちの資料をすべて調べてくださったのですが、
この石は未掲載だったそうです。

「まだまだありますねぇ」と斎藤氏。

これです。

「二十四貫目」

01356_202204241641383ef (1)
埼玉県志木市本町2-9-40・敷島神社

まだ説明板が新しそう。最近の保存でしょうか。

埼玉って、本当に日本一の力石県ですねぇ。

以下の記事に詳しく載っています。
富士塚のところでまた、使わせていただきます。

「力石のある神社(敷島神社)」

みなさま、
貴重な情報と写真をお寄せくださってありがとうございました。


ーーーお知らせーーー

ブログ「わがまま勝手な呟き」の麿さんが、
貴重な映画2本をご紹介くださっています。長いですが見応えがあります。


「ドンパス2016年ドキュメンタリー映画」

ロシアのウクライナ侵攻が始まった時、
多くの日本人は一斉に怪しからんといい、寄付を始めた。
私はその軽さにびっくりしました。

どうしてこんなに安易に「善悪2元論」に走るのかと。
特にインテリ層や日ごろ反戦を叫んでいる人たちがこぞって。
あの寄付がどちらに渡っても爆弾に変わるのは目に見えていましたから。

90歳を過ぎたチョムスキー教授も同様のことをおっしゃっていた。

日本には、
これくらいの分析力がある学者やジャーナリストはいないのでしょうか。

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富士塚から富士山への道

富士塚
05 /04 2022
ゼロm地帯に立つ「鈴川の富士塚」。
かつてこれに隣接して吉原湊があり、「見付宿」があった。

その後、自然災害で宿場は内陸部へ移転するが、
湊と富士塚は残った。

江戸時代も半ばになると、街道の整備や交通の発達などで、
富士山登拝への道はいろいろできた。

それを地図上で追ってみます。ちょっと昔の地図です。

黄色い線は下の地図の線と繋がります。
これが「富士塚から富士山頂への道」です。

富士信仰の開祖・角行が往生を遂げた「人穴遺跡」は、もっと上にあります。

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下の地図の青い星印が、
「鈴川の富士塚」と「吉原湊」「見付宿」があったところ。
その青い星印の左右に延びているのが
「近世の東海道」。

それに並行して「東海道本線」。左の茶〇が「JR富士駅」です。
今はさらに「東海道新幹線」が走っています。

青い星の上に「島田村」とあります。
その上あたりが移転した「新吉原宿」。そこで右からの道と交差していますが、その道が「中世の東海道」です。

東からの登山客が来たのはこの道。
直進すれば、「富士川渡船場」(ピンクの〇)にぶつかります。

富士川の渡船場跡です。向かい側の橋のたもとにあるのが水神の森

img20220430_18434916 (2)

「東海道名所図会」に描かれた「富士川渡船場」です。
駿陽張安・画 赤〇が水神の森

この「東海道名所図会」は約30人の絵師によって描かれています。
img20220502_12120682 (2)img20220502_12120682 (6)
    
この渡船場は西からの登山客の入り口でした。

ここから「空色の道」を行くと、
私の父の生家だった「曽我八幡宮」(紫の〇)です。

富士登山へ行く途中、八幡宮に立ち寄った京都からの客。大正時代。

曽我八幡

そこから黄色の道をたどると「富士山本宮浅間大社」(赤丸)

さらに進んだ方角に、表登山口の「村山口」がありました。

img20220428_11583854 (2)

みなさまになんとかわかっていただきたくて、
私、一生懸命なんですけど、ちょっとややこしかったですかねぇ。

この富士塚から登る人は少なかったと思いますが、
日頃から交流があった伊豆の漁師や海岸伝いに船で来た人たちは、
ここから歩き出したと思います。


ご用とお急ぎのない方は、
富士宮市がまとめた登山道の道しるべの数々をどうぞ!

「道しるべ」

せっかくですから、この近くにある力石を2つお見せします。

塚のすぐ近くです。

名前がいいですよ。
「三四軒屋・龍王神社」。

「この石は集落の若者たちが力比べで持った石で、重量は106.2㎏」

ここの若者たち、力石で体力をつけて富士登山に臨んだのかも。
のちの青年団も富士登山を体力増進と親睦にしていましたから。

平成22年の建立です。

CIMG0864_202204301259008b6.jpg
静岡県富士市宮島三四軒屋 

もう一つはこちら。
新幹線・新富士駅のすぐ近くにあります。

「昔の祭りなどで若者が力自慢で持ち上げた石。
昭和62年の天王祭「重量あて」のとき量ったら
114㎏であった」

平成元年建立。この前年に新幹線新富士駅設置。

CIMG1243.jpg
富士市川成島・浅間神社

龍王神社の石もこれも、通常見かける楕円形の力石ではない。
もしこうして保存がなされなければ、きっと捨てられていたと思います。

人々の記憶と愛着のたまものですね。

ついでに、こんなものもお見せしちゃいます。
すぐ近くの
「毘沙門天のだるまさん」です。

ここは日本三大だるま市の一つなんです。

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  値切る声聞いてダルマが眉を寄せ   雨宮清子

ふと口を突いて出た一句。
当時あった仏教の「大法輪」という雑誌に載りました。\(^o^)/

掲載誌が出てきたので、挿絵を載せます。

雑誌の発行年を見たら、あれま、作ったのは28歳の時。
5歳と1歳の子供を抱えて、東京から転居してきたばかりのときでした。
若かったなぁ


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で、だるま市の写真、わざとモノクロで出したわけではないんですよ。

記者時代の写真で、当時の県内版はまだモノクロだったので。
カラーで撮ってモノクロに焼いていました。


これも一つの歴史ですね。

今回も盛りだくさんで。郷土愛のなせる技とお許しあれ。

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雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。