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富士登山今昔

富士塚
04 /30 2022
ここで富士山への登り口を確認。

今は一般向けの登山ルートは4つ。
ほかに難易度の高い登り口が二つありますが、昔はもっとあった。

白い四角の場所が現在の一般向け登り口。


img20220428_12021673 (3)
「富士山歴史散歩」遠藤秀男 羽衣出版 平成8年よりお借りしました。

私も何度か登りました。

「富士山に登らぬ馬鹿、2度登る馬鹿」って言いますから私は大馬鹿。(笑)

高校へ入ると、富士登山は新入生の恒例行事になっていた。

みんな普段着に布靴履いて、手には金剛杖。

翌年、この中の一人からラブレーターをもらいましたが、
お互い恥ずかしくて…。
とうとう話もしないまま卒業。

「青いレモンの味」のままでありました。


前列、カーディガンを羽織っているのが私。
img20220418_19261766 (2)

それから数十年後に再び、同じ富士宮口の同じ3合目から。

このときはすでに5合目(2400m)まで車で行けましたが、
あえて3合目から登りました。

で、なんで「〇合目」などと枡でお米を計る言い方をするのかというと、
穀物を上から落とすと円錐形になる。その形と同じだからなんだそうです。

だから、富士山の異名の一つが「穀聚山」。

このときは廃道になって久しかったため、道はひどく荒れていました。
山小屋が屋台くずしになって散らばっていたり。

でも昔の標識なんかがまだあって感慨無量でした。

img20220418_19243331 (2)
富士山旧道

明治・大正頃の登山はどうだったかというと、
菅笠にゴザをしょって…。

ゴザは防寒と雨具と布団がわり。


img20220418_21112316 (4)
「昔の富士登山」和田嘉夫 私家本 平成21年よりお借りしました。

私が行ったころは、こんなブルドーザー道も。

当時は診療所に医者を送るためと聞いていたけど、
私がいた新聞社の局長はこれで登頂したって言ってた。


img20220418_19243331 (3)

こちらは、富士開山式に向かう新聞記者団の一行だそうです。

大正5年の写真です。

記者さんたちも背中にゴザを背負っています。

img20220418_21132077 (3)
「昔の富士登山」和田嘉夫 私家本 平成21年よりお借りしました。

こちらは「駿河須走口」の写真。同じく大正5年。

駕籠に乗って登山をした人がいたんですねぇ。
お金持ちか足腰の弱い女性だったのでしょうか。

この仕事で暮らしが立つ人がいたのですから、ま、いいか。
でもこの写真の富士山、筆で描いたような…。

img20220418_21132077 (4)
同上

富士山のだいご味は、なんといっても大砂走りを駆け下ること。
急斜面をどこまでもズルズル、1歩で3m先へ行く。

止まろうにも止まりません。

靴の中に溶岩の砂が入ろうが構っちゃいられません。
砂塵を巻き上げて、駿河湾へ向かって飛び込んでいく感じ。

あっという間に下界です。
爽快で、あれは病みつきになります。


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海抜0メートルに立つ富士塚

富士塚
04 /28 2022
     ーーーーー前置きーーーーー

ガン病棟の女たちの葛藤を書いていると思えば力石に戻ったりと、
お読みくださっているみなさまも戸惑われることと思います。

なにしろ昔から、「材木屋」なので(木=気が多い)、寄り道・回り道ばかり。
どうぞ、なにぶんのご理解。

ーーーーー


自然の美しさを追い続け、その瞬間を再現して見せてくださる
ブログ「ITO WOKASHI」のplateauさん。

嬉しいことに最近は力石も対象の一つに。


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埼玉県志木市宗岡・羽根倉浅間神社。

幕末から明治にかけての石ですが、
江戸力持番付の西前頭、東京力持番付の年寄りに記載されている
荒井清治郎など、有名力持ち力士が名を連ねています。


「力石のある神社 羽根倉浅間神社」

ですが、この記事に私が引きつけられたのはこればかりではないんです。

引き籠り生活で眠りこけていた私の頭が突如、覚醒したのは、
この中に「富士塚」と「胎内穴」、「猿の石像」が登場したからなんです。


力石も取り上げますが、まずは上に挙げた事柄から追いかけていきます。

とは言うものの、思いつくまま、気の向くまま。

素人なので他人のお説の受け売りといういい加減な私ですから、
気楽にお読みいただけたら本望です。

まず、「富士塚」から参ります。

こちらはブログからお借りした羽根倉浅間神社の富士塚です。


富士塚
お名前が少々ズレました。すみません。

ご存じのように富士塚は富士山を模した塚で、
富士信仰の信者たちが一個ずつ石を運んで築いたものですが、
崩壊の危険があるため、今はほとんどがコンクリートで固められています。

下の動画は静岡県で唯一の富士塚ですが、
手を入れ過ぎたため「富士山文化遺産」から漏れてしまいました。
 ※県内にはほかに数か所存在したが、すべて消滅してしまった。

ここは海抜0メートル。

昔はここから富士山頂(標高3776m)を目指したそうです。

まあ、こうもガチンガチンじゃあ、ちょっと、不自然かもなあ。

さて、いきなりですが、動画を3本。

まずは全容がよくわかるものから。
富士塚と背後の富士山がぴったり重なります。




東京などにある富士塚より築いた時代が早く、その背景も違うそうです。

まあ、すぐそばに本物がありますしね。

先の動画は2013年撮影のものですが、のちにさらに手を加えて、
頂上に登れるようになっています。山頂のお鉢巡りといったところでしょうか。

でも私は以前の方がいい。次回にその違いをお見せします。


次は富士市の女性二人が富士塚へご案内。
美しい海も出てきます。




最後は子供たちのチャレンジ精神と頑張りをご覧ください。

子供たち、輝いています。
この輝き、大事に大事に見守っていきたいですね!




元気な子供たちに触発されて、

オーッ! 私も気合が入りました!
だって私はあの富士の雪解け水で産湯を浴びたんですから。

(^^♪ 富士の心は母心、仰げば命の泉湧く 

富士山は私の命の源泉で~す!

この際、「ちから姫」から「さくや姫」に変えようかしら。


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日韓イカカニ合戦

世間ばなし➁
04 /26 2022
老境真っ盛りの私の楽しみの一つは、
拙ブログへご訪問いただく方々のブログを拝見すること。

さまざまな考え方捉え方を知り、気づかされることもしばしば。
遠いお国の風景や暮らし、
国内では地元の方ならではの見聞に目を開かされて…。

読み終えるころには目がショボショボ。

そんなショボ目に飛び込んできたのが、韓国の巨大カニです。

ひゃーっ、ビルが巨大ガニに襲われている。
スパイダーマンのカニ編だ!


2022041922372387c.jpg
韓国・盈徳(ヨンドッ)
「ズワイガニで有名な所だが、日本ではめちゃくちゃマイナーな町」だとか。

これは、
ブログ「KOREA 駐在おやじの韓国紹介」の駐在おやじさんの記事。

「おやじさん」は、本当にあっちこっち歩き回っています。
そこで飲んで食べて。

逆流性食道炎の私には、目の毒。(笑)

しかし、料理よりも釘付けになったのがカニの看板。なにしろデカイ!

「カニの有名な町にやってきた」

これを見て思い浮かんだのが日本の「かに道楽」のカニの看板です。

そういえば当地にもあったけど最近は見かけないなぁと思い、ネット検索。

でも出てきたのは「道楽」ではなく「札幌かに本家」

そこになんと、「静岡店は2018年に閉店」とあった。

静岡市にあった、ありし日の「札幌かに本家」です。
足がゆらりゆらり動いた「かにの看板」もちゃんとあります。

sizuoka (1)
静岡駅前

でも、「本家」と「道楽」の違いって何だろうと思ったら、
「本家は「かに道楽」からのれん分けした店」なんだそうです。

そんなおり、韓国のカニに負けてはいられませんとばかりに、
金沢の友人が巨大イカのモニュメントの写真を送ってきた。

その名も「イカキング」

場所は「日本三大イカ釣り漁港」の一つ、
能登・九十九(つくも)湾の「イカの駅つくモール」

これです。全長13m、重さ約5トン。イカの中に人が入れるそうです。
02 話題のイカキング
石川県鳳珠(ほうす)郡能登町。2020年6月オープン。

これ、新型コロナ対策の臨時交付金で作ったそうで、
「一時のブームで終わるかもしれないのに、イカがなものか」との声もあるが、
観光客や地元の方々には好評だとか。

実は私、恥ずかしながら能登にはその昔、新婚旅行で出かけました。
一応そんなこと、やったんですよ。(笑)

でもとても心に残る町でした。

そんな在りし日の残像を追って、とかなんとか格好つけて、
この動画で、久し振りに能登の自然を味わいました。



さて、この「日韓イカカニ合戦」

どちらも手ごわい相手。勝負やいかに、と思っていたら、
駐在おやじさん、出してきましたよ。金ぴかの凄いヤツを。

これです。
202204192237378d5.jpg

す、すごい! この振り上げた爪、見てください。

ああ、イカさん、負けそう…。このところイカ漁も不漁だし。
カニも高くてお正月にしか食べられないから、普段はカニカマだし。

とまあ、弱気になりましたが、どちらも文句なしのキング。

この勝負、しばらくお預けといたしましょう。

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憤怒と憎悪と …㊽

田畑修一郎2
04 /24 2022
ハツエが差し出した左手に、点滴用の針が差し込まれた。
ハツエは口を真一文字に引き結んだまま、天井を睨んでいた。

ポコポコポコ

液の落ちる音が窓際のハツエのベッドから、微かに響いてくる。
慌ただしく看護師が部屋を訪れだし、ひっきりなしに瓶が取り換えられていく。

ハツエの体内には「用心のための抗がん剤」が、次々と流し込まれていった。

夜になってようやくハツエの手首から針が抜けた。
と同時に、猛烈な吐き気が始まった。

吐き気が襲うたびに、ハツエは金切り声を挙げた。
間仕切りのカーテンにハツエの影がゆらめく。

その影がのたうち回わるたびに金切り声が天井に吹き上げられ、
それが部屋中に拡散して、
容赦なくTさんや女の子や私の上に落ちてきた。

胃袋の中のものを全部吐きだし、胃液を一滴残らず吐き切ったはずなのに、
それでもハツエは、ガーッ、ガーッと吐き続ける。

DSCF9345.jpg

消灯後の闇の中に、ハツエの悲鳴に似た唸り声が絶え間なく続き、
ひっきりなしに看護師が飛んできた。

「ハツエさん! 
そんなにしょっちゅうナースコールされたんじゃ、困るんです!」

「でも看護師さん、私、苦しいんです」

ハツエは胸をかきむしり、ひときわ甲高くガーッと吐いた。

「だったらお注射しましょう」
「何の注射ですか!」
「吐き気を止める注射ですよ」

「いやよ、私」
「いやよって言ったって。
ねえハツエさん、これ打てば吐き気も収まって、ゆっくり眠れるんですよ」

Tさんも入ってきたばかりの女の子も、ぴっちりカーテンを引いている。
女の子は眠れないまま、怯えているに違いない。

いくぶん芝居がかったハツエの大騒ぎに、私は腹立たしさを覚えた。

昼間ハツエは、点滴治療も放射線治療も受けないガン患者の私に、
憎々しげに暴言を吐いた。
それが永久に抜けないトゲとなって私の胸に突き刺さっていた。

彼女がこれ見よがしの断末魔めいた悲鳴をあげるたびに、
そのトゲがうずいた。


DSC01471_2022041718370117b.jpg

結局、ハツエは注射を拒んだ。
ナースコールをしても、もう看護師は飛んではこなかった。

あたり憚らず発し続ける吐き気の音と断末魔のような叫び声が、
一晩中、病室を揺るがし続けた。

みんなも眠れないのだろう。
しきりに寝返りを打つ気配が朝まで続いた。

早朝、ハツエが間仕切りのカーテンを乱暴に引く音がした。
そのまま、物音ひとつ、聞こえてこない。

みんなが動き出すのをじっと待ち構えているのだろうか。
夕べの大騒ぎから一転、あまりにも静かすぎていやな予感がした。

向かいからTさんの動く気配がした。

ぐずぐずしていたら廊下に朝食が来てしまう。
私も思い切って起き上がり、そっとカーテンを開けた。

そのとたん、
私の方向に体を向けてベッドに座っていたハツエの、
鬼気迫る顔とぶつかった。。

一夜にして、すっかり形相が変わっていた。

薄暗い部屋の中に山姥のような顔が青白く浮かんでいて、
その憔悴しきった風貌に私は思わず目をそむけた。

目だけが異様な光を帯びていた。
カサカサに乾ききってしまった皮膚。油分が吹き飛んでしまった髪。

あの髪形は私のを真似て院内の美容室でカットしてもらったものだ。

ある日、ハツエが私の頭をジロジロ見ながら言った。
「あなたのヘアスタイル、いいわねぇ」

それから間もなく、意気揚々と帰ってきたハツエの頭は、
おかっぱ頭からすっきりしたショートヘアに変わっていた。

そのショートヘアも嵐でなぎ倒された雑草みたいに乱れている。

そういう腐敗することも出来ないような干からびた肉体が、
無機物みたいに朝の静寂の中にいた。


DSC04188.jpg

ハツエは憤怒と憎悪がない交ぜになった目をしばらく私に向けていたが、
急に立ち上がると室内の洗面台に向かって歩き出した。

それから勢いよく蛇口をひねると、
ほとばしる流水に顔を突っ込んでガブガブ水を飲み始めた。

たちまち床が水浸しになった。


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用心のために …㊼

田畑修一郎2
04 /22 2022
昼食が終わってひと息ついたころ、
ハツエのところに医者と看護師がやってきた。

その二人の顔を見た途端、ハツエの顔が引きつった。

看護師が点滴台に液体の入った小瓶をぶらさげたとき、
ハツエが金切声を挙げた。

「先生、これはなんですか!」

「ちょっとね、用心のためにね」とさりげなく医者が言った。


DSC04270.jpg

「これ、抗がん剤なんでしょう? 私はただの筋腫なのになぜですか?」

震えながら医者を問い詰めるハツエに、医者がまた同じことを言った。

「用心のためですよ」

まるでビタミン剤みたいなものですよ、とでもいうふうに。

「用心のためって言うけど、
私の筋腫は手術でみんな取っちゃったはずではないですか」

40代ぐらいの、ハツエには息子ほどの医者は苦笑しつつ、
自分の母親をなだめるみたいに微笑んで、できるだけ優しく言った。

「筋腫にもいろいろありましてね。
中にはいつ悪性に変わってしまうかわからないものもあるんです。

あなたのは確かに筋腫でしたが、
一度これを受けておいた方が安心だと思いましてね」


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入院中のハツエの楽しみは、夜間、ロビーにテレビを見に行くことだった。

なんでも連続テレビ小説で、それがとても悲しい話だとか。

ある晩、ロビーを通りかかると、テレビの前でハツエがしきりに泣いていた。
テレビ画面には瀕死の病人がいて、
今まさに息を引き取ろうとしている場面が映し出されていた。

「あの主人公、ガンだったんですって。かわいそうにねぇ。
もう手遅れだったんですって」

ロビーから引き上げてきたとき、ハツエは泣きはらした目でそう言うと、
そそくさとベッドに潜り込んだ。

そのハツエに医者が宣告したのだ。

「用心のため」の抗がん剤点滴治療を。


DSC04367.jpg

ハツエはとっさに医者の手を握り、しばらくその手をもて遊んだあと、
突然、私の方へ向き直ると、声を荒げて言い出した。

「だったらなぜ、さやこさんは抗がん剤をやらないんですか!
あの人こそ、正真正銘のガンなんでしょう!」

この思わぬ展開に、医者も看護師も困惑して押し黙った。

確かにハツエの言う通り、私はガン患者なのに、
抗がん剤の点滴治療はおろか、放射線治療も受けていなかった。

ガン患者なのになにもせず、ガンでもない自分がガンの治療を受ける、
ハツエはその矛盾を突いてきたのだ。

IMG_1825.jpg

部屋に重い空気が流れた。

ハツエは医者の手を十分すぎるほど握ったあと、
その沈黙を破るかのように、

「用心のためにね」

と精いっぱいの皮肉を込めて言い、
それからおとなしく医者に手首を差し出した。

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エレベーターの中で …㊻

田畑修一郎2
04 /19 2022
翌朝、朝食が終わった頃、岡本八重が部屋へやってきた。

八重は長めのスカートに淡いパープルのカーディガンをふんわり羽織り、
ハイヒールを履いていた。

きちんとお化粧もしていた。

「うわぁ、八重さん、見違えちゃった」

Tさんが素っ頓狂な声をあげた。「とても病人には見えない!」

八重は恥ずかしそうに俯くと、手にしていた色とりどりの花を、
Tとハツエの花瓶に差し始めた。

花瓶のない私のテーブルには、花瓶ごと花を置いた。
小声で「私のお古でごめんね」と言いながら…。


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みんなが祝福と、そして、ちょっぴり羨望の目で八重を見つめた。

八重は大きな肩をすぼめるようにして、出口を背にして立つと、
昨夜とは打って変わったか細い声でこう言った。

「ごめんね。みなさん。一人先に退院しちゃって」

「八重さん、おめでとう!」

Tさんと私が同時に拍手した。
ハツエがつかつかと歩み寄って、八重の両手をしっかり握りしめた。

「がんばってね、八重さん」

夕べの諍いをすっかり忘れたかのように、
ハツエがはっきりと力のこもった声で言った。

「ありがとう、おばさん。おばさんも…」

そう応えた八重の目が、みるみる涙でいっぱいになった。


DSCF4679.jpg

ここは病院なのだから、出ていく者と残る者とがいる。
いつかは自分も出ていく者のほうへまわりたいと、
ここにいる誰もが思っている。

八重は生きてここを出ていくのだ。
再び生きる者の側に出て行く八重に向って、私は心の中で叫んだ。

「私も続くからね」

しかし、私は翌年、その八重を再び、この病院で見ることになる。

ハイヒールをはいてさっそうと退院していった八重が、
別人のようになった姿を…。

この日はさまざまなことが起きた。

真弓のいた空のベッドに新しい患者が送り込まれてきた。
まだ中学生だという。

少女は来るなり、ベッドにもぐり込み頭から布団を被った。


DSC04525.jpg

ハツエはもう何もしなかった。

新参の患者のところに赴き手を握ることも、
「あなたは何の病気?」と聞くことも。

ただぼんやりと、窓外に目をやっていた。

以前ハツエが意外なことを言ったことがあった。

「入院はこれで2度目なの。
前に手術した時はすごく順調で、お医者さまも褒めてくだすったの。

でもそれからしばらくしてから、足がパンパンに腫れてきちゃってね。
それで再入院したんだけど…」

そのときのハツエは、あまり深刻そうには見えなかった。

「おかしいなぁって思って医者に聞いたら、
手術のとき、足の付け根から何か取ったっていうのよ。
私、そんなこと何も聞いてなかったのに。

たいしたことじゃないから言わなかったんですって。
なんでも用心のために取ったらしいのよ。

でもね、そのせいで、
お水の流れが悪くなっちゃって、足が膨らんじゃって」

その膨らみを解消するために、毎日、地下の放射線室に通っているのだという。


DSC03948.jpg

「いえね、私のは単なるマッサージなんだけど、
307号室のSさんはガンで、毎日、あそこでコバルトかけてくるんですって。

なんでもあれをかけると、食欲が全然なくなってしまうんですって。
お気の毒にねぇ」

さして、気の毒そうに思っているふうでもなかったが、
ハツエは毎日「マッサージ」に地下へ通い、至極元気に過ごしていた。

そして土曜日が来ると帰宅を許され、
精いっぱいの化粧をして病室を出て行った。

日曜の夕方、病院へ戻ってきたときのハツエは、
久しぶりのわが家がどんなだったか、仔細に話してくれた。

「何しろお父さんと息子の男所帯でしょ。洗濯物は溜めっぱなしだし、
布団は敷きっぱなしで大変なのよ。
やっぱり私がいないと駄目なのねぇ」

そういうときのハツエは自信にあふれていた。

そうしてひとしきり我が家のことを話した後、決まってこう言った。

「帰りは主人が送ってくれるんだけど、
エレベーターの中でね、別れ際に主人が言うの。

お前は可愛い女だねぇって。
そう言って、ギュッと抱きしめてキスしてくれるのよ」


DSC03691.jpg

それを聞いていた八重が顔をしかめながら言ったっけ。

「ゲッ、気持ちワリい」


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声を殺して泣く …㊺

田畑修一郎2
04 /16 2022
「ね、知ってた?」

いつも陽気な八重が珍しく怒りをあらわにした。

「ノンウームって聞いて、急にいやな事思い出しちゃって」

八重は興奮気味に掃除のおばちゃんたちとのことを話しだした。

「あいつら、モップで床拭きながら、
ベッドの脇にぶら下がっている点滴の瓶を見て、
この人はガンだとかただの筋腫だとか探っていくんだよ」


病室にはいろんな人が出入りする。
シーツの交換にくる人もいれば、床にモップをかけにくる人も。

確かに、同じ場所ばかりモップを動かしながら様子をうかがう人もいて、
何を探っているのだろうと不審に思ったことがある。

思い過ごしかもしれないと思っていたが、
みんなが一様に顔を曇らせて頷くのを見たら、やっぱりそうだったのかと。


DSC05324.jpg
埼玉県さいたま市岩槻地区

「あのおばちゃんたち、
いやな目つきで人の様子をチョロチョロ見たりするもんだから、
逆に私、おばちゃんたちはいつも元気でいいねって言ってやったんだよ。

そしたら、あいつらしゃあしゃあと言うんだよ。
そうよ、私らまだ子宮持ってるもんね。みなさんとは違いますって」

八重は興奮して、体を震わせながら続けた。


「子宮取っちゃったら、もう女じゃないからね。
色気はなくなるし、ダンナには逃げられるし…。

そう言うから、あんた、言ってくれるじゃないの!って怒鳴ってやったんだ。
そしたら、あいつ、平気な顔して、ここに入院してて離婚した人、
私ら何人も知ってるもんねって抜かしやがった。

あああ、思い出しても腹が立つ」


さっきからただニコニコ笑っていた小柄な女性がポツリと言った。

「私、大丈夫かなあ。もう子供産める身体じゃないし…」


DSC05327.jpg

ふと、真弓を思い出した。

真弓は手術後、いつまでたっても生理が来ないので医者に尋ねたら、
「もう君には来ないんだよ。子宮取っちゃったから」

そう言われたと話してくれたっけ。

小柄な女性の青ざめた顔を見て、八重が肥った体を縮めて謝った。

「ごめん。私、とんでもない話ししちゃって」


すかさず、藤井が明るい声で言った。

「子宮を一つ取ったくらいでなによ!
みんなでサ、ノンウームの会作って、ますますいい女になろうよね!」

「そうよ。人生、これからだもの」と、Tさんが言った。

DSC05380.jpg

しばらくの沈黙のあと、みんなの顔に笑みが戻り、
また少しずつ明るい声が漏れだした。

そのときドアが開いて、当直の看護師さんが顔を覗かせた。

「あらあら、皆さん、お楽しみで…」

年配の看護師さんだった。
その穏やかな顔に救われて、部屋がパッと明るくなった。


「明日、岡本さんの退院なんで、送別会してたんです」
「それはそれは。でも残念ですが消灯時間です」

みんな一斉に立ち上がり、
宴卓の上の焼き芋の皮や空き缶を手早く片付け始めた。

つかの間の楽しい時間が終わった。

消灯後のベッドの中で、私はその余韻に浸っていた。
Tさんもハツエさんも闇の中で沈黙している。


昼の明るい日差しの中では、誰一人泣く者はいないけれど、
夜のベッドの中では、泣かない人は一人もいなかった。

DSC05340.jpg

みんな声を殺して泣いていた。

死ぬことなど誰も恐れていなかった。
恐れてはいなかったけれど、
誰一人、絶望する人などいなかった。

自分の身より、妻や母のいない家を気遣って泣いていた。


だが私は泣かなかった。いや、泣けなかった。

回復に向かうにつれて、心配事が日に日に募ってきて泣けなかったのだ。

夫は入院の準備にお金を出さなかった。
ひょっとして入院費まで知らん顔するつもりだろうか。

まさかそこまでひどいことをしないだろう。

みんなが声を潜めて泣いている中、天井を睨んで、
私はそればかり考えていた。



ーーーNHK「東海ドまんなか」についてーーー

大変面白い番組で、大江さんたちと力石がたくさん出てきます。

もしかしたら、全国でも、
「NHKプラス」「見逃し配信」で見ることが出来るかもしれません。

「見逃し配信」

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東京、大阪、タイランド

みなさまからの力石
04 /13 2022
「みなさまからの力石」、続きます。

今回はすでにみなさまお馴染みの方お一人と、初登場のお二人です。


ーーお一人目はブログ「路傍学会」の路傍学会長さんーー

2か所、ご紹介します。

記録済みの力石ですが、19年たったらこんなにきれいになりましたという、
ビフォー、アフターをご覧ください。


● 熊野神社(東京都杉並区天沼)

ビフォー ただ地面に転がしてあります。
でも、これが本来の姿ではありますが…。

img20220408_19511432 (2)
「東京の力石」高島愼助 岩田書院 2003より

アフターオオーッ、これは!

路傍さん1
①46余×47×24㎝ ②50余×45×24㎝

「奉納 三十メ」「奉納 四十メ 喜蔵」

すごい変わりようです!

年月が経るごとに放置される石が多い中、こんなにきれいに磨かれて…。
前の写真、違うのを載せちゃったのかと思うくらい変わりました。


担ぐ人がいなくなって捨てられるより、こうして生まれ変わって、
みなさまに親しんでいただけるのはありがたい、と力石も言っております。

「路傍祠のLandscape53」

会長さんによると、説明版に、
「神の御前で勇姿を見せ祈願した」と彫られているそうです。

● 白山神社(東京都大田区東嶺町)

ビフォー
大田区
「東京の力石」より

こちらは19年前もきちんと保存されていました。

「三十五貫目 峯村」「三十メ」

アフターさらに進化。
大田区
①66余×37×28㎝ ②58余×41×26㎝

出世して「縁結びの神様」になりました。

コンクリートで固められていたものを一度掘り起こし、
新たに玉砂利を敷いたみたいですね。神々しいです。

もはや力石として活躍した昔日の面影はなくなりましたが、
これも時代ですね。

真ん中に置かれた石は型の石でしょうか。

この「女」「男」の札は、昨年までは掛けてなかったみたいです。
恋占いのおみくじを置いて、
力石の前あたりにおみくじを結ぶ場所があったら、なおいいですね。


「青面金剛のLandscape369」

力石ではありませんが、会長さんが見つけた
そこはかとなく切なくて、やがて笑いがこみあげてくる、

「昭和生まれの店主」意地と根性の張り紙をご覧ください。

界隈1
界隈2

「そうだそうだ! 何が悪い。姫も昭和生まれだい!」

詳しくは下記のURLへどうぞ。

「界隈のLandscape95」

--お二人目はブログ「晴耕雨読-田野登-」の田野登先生ですーー

田野先生は「大阪民俗学研究会」の代表をされている民俗学者さん。

ほかに「大阪春秋」編集委員、大阪区民カレッジ講師、大阪あそ歩ガイドなど、
多方面に精力的に活動をされていて、
「ちっともジッとしていない」方。

その先生が力石をご紹介くださっています。

● 三社神社(大阪市港区磯路)

「さし石」

田野先生
54余×37×24㎝

ある日、ガイド場所の下見に出かけた先生、
「かつての市岡新田会所の場所へ」

たどり着いたのは波除公園。
「この場所ってホンマの場所?」

そこで、

「古地図や古写真から、新田会所のホンマの場所を推測」

さらに西進。
「地元のウジガミサン
三社神社の鳥居の傍らに謎の石、発見」

「さし石です。力石です」

「三社神社は近世は現在地より北東の市岡新田会所の南東の一画に鎮座。
近代になって遷座を繰り返し、
その後、嵩上げ工事が完了した現在地に鎮座した。
宮司さんが、この石は港湾関係の人と関係があるのではないかと話していた」
と、田野先生。

「幻の市岡新田を歩く」

先生、もっともっと見つけて、
「大阪あそ歩」参加のみなさまに見せてあげてください!

ーー三人目はブログ「ちい公ドキュメントな日々」のちい公さんーー

大阪とタイランドを忙しく行き来しています。

奥さまはタイの方で、可愛い「魔女」のPERNさん。
魔女さん

PERNさんのブログ「魔女の手紙タイランド」もぜひ、ご覧ください。

タイの暮らしや歴史、子供の遊びなどに日本との共通点があるなど、
興味深い事柄がたくさん出てきます。


さて、ちい公さん、ある日、力石探しにアユタヤへ出かけました。

「石を探してアユタヤ王朝を」

「アユタヤのお話 ①」

アユタヤは駿府(静岡市)生まれの山田長政がいた町です。
江戸の初期、朱印船に乗ってタイへ渡り政府高官に上りつめたという人物。

市内に建つ長政の胸像です。マスクをしています。
CIMG5369 (2)

「空ゆく雲のようにいつも自由でありたい」と夢見る「浮雲」のちい公さん。

アユタヤの遺跡を自在に動き回ります。

そして、

「この石もしかして…。ま、まさか」

IMG_1454.jpg

意図的な置き方だけど、確証はないしねぇ。

「アユタヤ遺跡にて」

後日、メールで、

「アユタヤ探索では、力石らしき石には巡り合わず」

寺院の関係者に聞いたら、

歴史遺跡のような場所より、豊作を祈ったり祝ったりする
カントリーサイドの寺院をあたるべきだ」と。

そこで田舎出身の人から情報収集したら、石の写真が届いた。

これ、何かの祭祀跡みたいですねぇ。

環状列石(ストーンサークル)かなぁ? 

タイ1

下の写真も同じ場所みたいですが、これ、石棒(男根)かなぁ?

環状列石の真ん中にはこういう立石が立ててあって、
縄文人のなんていわれていますよね。また太陽信仰を伴っていたとも。

円を描くように石を配置するのは、お母さんの子宮のつもりで、
そこに死者を入れて、命の再生を願ったということのようです。

なぜ太陽信仰が伴うかというと、
太陽の光を浴びて子供を授かったという信仰があったからなんです。

で、生命の誕生を望むのなら、石棒(陽石)が必須だし。

こんなことを言うと考古学者に笑われますけど、
私は古墳も同じではないかと思っているんです。

前方後円墳でいうと、

遺体を安置した円墳部分が子宮で蘇りの場所、方墳部分が産道。
古墳の周りの水は羊水。

どんなもんでしょう? 
古代から人は、いったん浄土に行き、再びこの世に生まれ出る
「生まれ清まり(替わり)」を願っていたし。

とかなんとか。

でも、物事は柔軟に考えなくちゃね!

力石とは全然違うけど、タイのこれはこれでおもしろい! 興味深々です!

タイ2 (3)

詳しい調査はやはり現地へ行かなければどうにもならず。
コロナの終息待ちです。

しかしアンテナを広げておれば、何かが飛んでくるでしょう。
粘り勝負になりそうです」と、ちい公さん。


私も粘り強く待ってまぁーす!

ーーーお知らせーーー

岐阜の大江誉志さんがテレビに出ます。力石を担ぎます。
NHK名古屋放送局「東海ド真ん中!」

 放送日は15日19時30分~19時55分(愛知・岐阜・三重)
 再放送は16日9時30分~9時55分(上記の県+静岡)

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野の学者

みなさまからの力石
04 /10 2022
学者には「官の学者」「野の学者」がいる。

そう言ったのは、「あるく、みる、きく」を提唱し、
自ら「野の学者」に徹した民俗学者の宮本常一氏だったと思います。

今回ご紹介するブログ「成田に吹く風」の船山俊彦氏は、
まさに「野の学者」

「新しいものと旧いものが混在する成田という街」に暮らし、
「良い意味でも悪い意味でも、
かつて日本人の心を育んできた風景に想いを寄せていただくきっかけになれば
と願い、長年、ブログを綴ってこられた。

力石も見つけてくださっています。
7か所、ご紹介します。

まずはすでに記録済みの力石から。


ーー1か所目は香取神宮です。

きれいな力石ですね。
成田1
千葉県香取市香取 68×42×21㎝ 65×44×23㎝ 60×32×28㎝ 
59×46×35㎝

2006年発行の「千葉の力石」(高島愼助 岩田書院)には、
4個分の説明があります。ただ写真は船山氏と同じ3個のみ。
もう一個は別の場所にあるのかな? ただし保存場所は同じ。

この石には明治末に活躍した金杉藤吉佐賀町の芳次郎、徳治郎などの
有名力持ち力士の名が刻まれています。

「千葉の力石」によると、石に刻まれた明治42年にこの神社で、
大規模な力持ち興行が行われ、そのときの額や玉垣が残されているそうです。


「下総一の宮・香取神宮(5)」

ーー2か所目は成田山へ通じる道の一つ「松崎(まんざき)街道」です。

船山氏によると、この旧道は、
利根川から安食(あじき)、松崎(まんざき)を経て成田山へ達する道で、

前半を安食街道、後半を松崎街道と称したそうです。

2個のうちひとつは欠けてしまっています。
成田2
千葉県成田市山口

「松崎街道・なりたみちを歩く(2)」

ーー3カ所目は大鷲神社。立派な神社です。

成田3
千葉県印旛郡栄町安食

ここの石は2011年に斎藤氏が報告しています。

「力石にしては小さいと思ったが、説明板に氏子青年たちが力比べに使った
とあったので、力石として報告した」と斎藤氏。


3個とも小振りで、一番小さい石で30×26×19余㎝しかありません。

「栄町の大鷲神社」

ーー4か所目は、皇(すめら)神社。

力石は2個。こちらはそのうちの一つです。

文字が消え、判読が難しい状態です。
成田4
千葉県成田市野毛平

船山氏はそれぞれ「奉納 霊石」「壱石」と判読。

2010年発行の「新発見・力石」(高島愼助、斎藤保夫 岩田書院)では、
小倉博氏の調査報告として、


①「奉納壱石目余 網戸邑 半七持之」②「五斗八目」とある。
しかし、説明文では「奉納壱石目余 半左衛門」とある。

うーん、これは? 誤記でしょうか?

「石に刻まれた網戸邑は過去に存在した村で、現在は旭市。
刻字は詳しく報告されているので、

文字の摩耗前にきちんと判読したのではないだろうか。
でも、石の刻字が半七で説明文が半左衛門? うーむ」と斎藤氏。


ちなみに「壱石」約150㎏。米俵2俵半。かなり重い。

大きさも①60×43×25㎝、②59×39×23㎝と立派です。

201505032042202d1.jpg

しかし、船山氏によると、

「昭和50年代に入ると国際空港の開港による騒音のため、住民たちは移転。
神社の周りから人影が消え、生活の匂いが遠のいてしまった」とのこと。


栄枯盛衰は世の習いとはいえ、寂しいなあ。

「野毛平の鎮守皇神社」

   ーーー◇ーーー

次は未採録の「力石のような石」を3カ所、ご紹介します。

ーー1か所目は六所神社。

途中でイボ取りの「疣神さま」を発見。

力石に似た石は祠の横にありました。ちょっと小さいですが、どうでしょう。


成田5

船山氏は「力石らしき丸い石」と半信半疑。
でもこの「力石みたいだなあ」という直感は案外、当たることが多いのです。

力石は木の根や祠、碑などの傍らによく置いてあります。

ただ残念ながら、
文献もなく伝承者は皆無。刻字がなければただの石なんです。


「竜台の六所神社」

ーー未採録2か所目は、若王神社と三王神社です。

ちょっと寂れています。

人っ子一人いない境内で、サビねこちゃんと遭遇。

人のいない杜を守ってくれているんでしょうか。
それとも逞しく生き抜いている「さすらいの猫」でしょうか。


成田ねこ
千葉県成田市下金山

肝心の「力石のような石」はこちらです。

力石でなくても誰かが置いた石ですから、特別な石だったんでしょうね。

成田6

「若王神社と山王神社」

ーー最後の一つです。

みなさんから「まだあるの?」なんて言われそうですが、
どうぞ、最後まで見てください!

成田7
千葉県富里市久能

この写真を見たとき力石みたいだなあと思い、
船山氏に大きさを問い合わせたら、寸法を測りに行ってくださったんです。

約36×約25×約15㎝

船山氏の見解は、
「風化等で壊れた小祠の代わりに置かれた石と考える方が正解に近いかと」
そして、
「恐れ多いのですが、石にちょっと触らせていただいた」とおっしゃる。
この一言でお人柄が偲ばれるようで、ジンときてしまいました。


「久能の駒形神社」

普段は森閑とした神社ですが、年2回、獅子舞が披露されるとのこと。

300年も続いているそうですから、歴史の深い地区の由緒ある神社なんですね。

こういうところはかつて「若衆組・若者組」が盛んだったので、
力石も多いはずなんですが…。


獅子舞
富里市教育委員会生涯学習課 提供(船山氏ブログより)

古い街道をたどり、草深い村里を歩き、線路を越え、細い山道を登り、
曲がりくねった道々で道しるべや地蔵さんや道祖神に出会う。

人がいなくなった村に取り残されたお堂や荒れ果てた寺、傾いた石仏や
草むらに埋もれた墓石群。


ブログ「成田に吹く風」に出てくるこうした風景の中に、
地に足を着き、一人コツコツと歩いていく船山氏の姿が見えてきます。


冒頭にお伝えした
日本人の心を育んできた風景に想いを寄せていただくきっかけになれば」
という氏の言葉が、

優しく温かく胸に染み入ります。

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ノンウームの会 …㊹

田畑修一郎2
04 /07 2022
自分より若い、しかも「ストリップ」を踊る下品な八重から一撃されて、
ハツエがあたふたし始めた。

見れば、周囲の人たちまで自分に非難の目を向けているではないか。

ハツエはがっくり肩を落とし、
まるで憑き物が落ちたみたいに虚脱して、背を丸めて椅子に縮こまった。

ふと、生前、真弓が言った言葉が私の脳裏に浮かんだ。
「本当の病名を知らなければ、病気と闘えない」

付け加えるなら、「病気は一人では闘えない。家族一丸とならなければ」

それは私自身の心の叫びであった。

ハツエは医者からも夫からも、
自分の本当の病名を知らされていないのだろう。

病気は病人自身のものなのに、ハツエはそこから外されていた。
だからこんなふうに疑心暗鬼と不安の中にいるのだ。

騙すことが愛情とは私には思えない。
病名を知ってハツエが自暴自棄になるとも思えなかった。


DSC04741.jpg

病人は、いつかは必ず自分の病気の真実と直面するときが来る。
それでなくとも病人は自分の病気のことはよく知っている。

たとえ病名を隠されても、家族への配慮のために騙されたフリをし続ける。
そのことはここにいて、私が常に感じていたことなのだ。

だがハツエはあまりにも素直すぎた。

社会的地位もあり、いつも「正しく頼もしい」夫に盲目的に従い、
自分の頭で考えることを放棄し続け、それが習い性になってしまったのだろう。

しかし病気が自分のものである限り、
いやでも向き合わなければならないときが必ずくる。

そして騙されていたと悟る時が…。

一番身近な人への信頼が崩れたそのときこそ、
衝撃と怒りはより大きくなり、傷はより深くなるはずだ。

DSC04805.jpg

ハツエはいつもパジャマの上から白い割烹着をつけていた。
付き添いの「家政婦」に間違われるが、
「割烹着が一番落ち着くから」と、言っていた。

それは長年誇りにしてきた「良き妻、良き母」の象徴で、
彼女自身の人生そのものだからだろう。

今どきこんな古めかしい割烹着なんか誰も着やしない。

だがそれは、家庭という最小の社会の中でハツエを成長させ、
理想的な妻としての自信と我が子へのゆるぎない愛情を育み、
ハツエをハツエたらしめた彼女だけの主婦の制服だったに違いない。

そこでしか通用しなくても、
その制服を着た妻もまた成熟した立派な一人の人間なのだと認め、
夫婦で真実と向き合っていくのが夫の役目ではないのか。

そこから夫だけ逃げて、妻にこんな修羅場を演じさせるのは残酷だと、
ここにいる誰もが思った。

その哀しいような気まずい空気を突き破るように、
「ねえ、みなさん」と、隣りの病室から来た藤井が語り掛けた。


DSC04822.jpg

「英語でね、子宮のことをなんて言うか知ってますか?」
「……」
「ウームって言うんですって」
「へぇーっ!」
「だから子宮を持っている人のことをウーマンって言うんですって」
「なあるほどねぇ」

みんなの関心が、ハツエから藤井に移って行った。

「私たちみんな、そのウームを失くしちゃったんだから、
文字通りただの人になっちゃったってわけよ。

で、考えたんだけど、退院したら月に一度くらい集まって食事でもしながら、
失くした子宮の追想でもしたらどうかしら。
ノンウームの会とかなんとかつけちゃって」

後年、私は評論家の俵萠子さんの著作の中に、似たような記述を見た。

俵さんは私が自立への道を歩く手助けをしてくださった方だった。
今も懐かしくて、無性にお会いしたくなる。


その俵さんも65歳のとき、乳がんになった。

DSC04044.jpg

片方の乳房を切除し苦悩したすえ、同じような患者と交流を始めた。

そこで乳房を再建した人やパットを胸に入れた人などを知り、
「にせパイくらぶ」を作ろうか、などと考えた。

「にせパイくらぶ」はその後、「1、2の3で温泉に入る会」になって、
「男の胸」になった乳がん患者たちに勇気を与え続けた。

俵さんは、
「切り取られた胸に小さなおっぱいが生えてきた夢を見た」そうだが、
私は医者から子宮切除を告げられたとき、医者にこう返した。

「手術はいやじゃないけど、子宮失くすのはつらいなあ。
できれば代わりのを付けて欲しいなあ。ビニールでも何んでもいいから」

すると医者が、
「子供さんいるんだし。もう用はないのに、やっぱり取るのはいやかねえ」
「いやですよー」と返したが、医者のなにげないこの言葉は私の傷になった。

俵さんも似たようなことを本に書いている。

「生きるか死ぬかと言うときに、
性なんかどうでもいいだろうという医学界の声が聞こえてきそうだが、
ライフというのは性を含んでいるはずだ」と。


DSC_0960.jpg

「ノンウームの会を作ろう」という藤井の提案に、
たちまちみんなが元気づいた。

「素敵!」
「大賛成!」
「かっこいいじゃない、ノンウームの会なんてさ」

どの顔もゆるゆるとほころんでいる。

そんな中、それまで黙って聞いていた八重が唐突にしゃべりだした。

「私サ、このあいだ、掃除のおばちゃんと大ゲンカしちゃったんだ」


※参考文献/「癌と私の共同生活」俵萠子 平成9年 海竜社


ーーーーーお知らせーーーーー

岐阜の大江誉志さんがNHKに出ます。力石を担ぎます。

NHK名古屋放送局「東海ドまんなか!」

放送日は4月15日19時30分~19時55分(愛知・岐阜・三重)で放送。
再放送は4月16日9時30分~9時55分(上記の県と静岡)で放送。

全国放送でないのが残念ですが、視聴可能な方はぜひ、見てください!

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雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞