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奈落の底 …㉗

田畑修一郎
01 /31 2022
夫の武雄から「金ねえんだよ。自分でなんとかしろ」と言われても、
病気は待っていてくれない。

手術は12月の初めと決まった。

入院の際、持って行かなければならないものはたくさんあった。
遅延可能な支払いを後回しにして、お金を工面した。

病院から渡された印刷物を片手に入院準備をしているとき、
孤独という言葉がふと浮かんだが慌てて消した。

医者から告げられた入院期間は「まず一週間」だった。
しかし医者はこうも付け足した。「もしかしたらもう少し長くなる」

とにかく今の目標は「1週間を無事、通過すること」だ。

だが、最大の心配事があった。
母のいない家で息子たちは二人だけで暮らさなければならない。

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ひどいことになったと思ったが、心配しても仕方がない。
留守を頼む子供たちのために食料を買い、留守中の注意事項を書いた。

ガスの不始末が一番気がかりだったが、
退院後、それが現実に起こっていたことを長男から知らされて愕然となった。

ガス漏れ報知器の音で目を覚ました長男が、ガスの臭いに気づいた。
弟がやかんをコンロに掛けたがコンロの火を確認しないまま眠ってしまい、
漏れて流れ出したというのだ。

受験勉強に疲れていたのだろう。
長男の冷静な対処で爆発も中毒死も免れた。

せっかくガンが治っても、二人を失ってしまったらなんの意味があろう。

私は二人に、親の不甲斐なさを詫び、生きていてくれたことへ感謝した。

手術をしたこの年を境に、私は変わり始めていた。
これ以上、不毛の暮らしをする意味がない。

人間、落ちるところまで落ちたら後は這いあがるだけじゃないか。
その奈落の底が「今」なのだと思った。

病院での説明は一人で聞き、手術の同意書のサインも一人でやった。

看護師さんが「ご主人は?」と聞いたので、「仕事で来られない」と言ったら、
「いくら忙しいっていったって。あなた、普通の病気じゃないじゃないの」
と呆れたけれど、私はただ、笑い返すしかなかった。

ふと、隣りの夫婦の会話が聞こえてきた。

DSC03632.jpg

「心配するな」

そう言った夫の横には、青い顔をした妻らしい人がぼんやり座っていた。

看護師さんには見慣れた当たり前の光景だろうが、
私にはひどく贅沢なものに映った。

妻の手術の説明にも来なかった夫に、もはや何も望みはしなかったけれど、
それでも私の心のどこかに、
手術当日ぐらいは駆けつけてくれるだろうという微かな希望はあった。

だが、それも叶わなかった。


※写真撮影は斎藤氏


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ネバーエンディング・ストーリー…㉖

田畑修一郎
01 /28 2022
記憶が抜けていた3年間の最後の年に、私はガンになった。
なんだか現実のこととは思えなかった。

不調を訴えて受診した開業医から、
「疑わしいものが見つかったから」と総合病院を紹介された。

入院はすぐ決まった。

夫に電話した。

「病院へ持って行くものを買ったり、
子供たちにお金を置いていかなきゃならないので送金を」
と告げた途端、受話器から怒鳴り声が響いた。

「金ねえんだよ。
寝巻買うくらいの金もないのか。アンタは主婦だろうが!」

「ガンなんて今どき珍しくもなんともないじゃないか!
そんなことでいちいち電話して来るな! このクソ忙しい時に」

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斎藤氏撮影

しどろもどろになって受話器をおいた私に、長男が叫んだ。

「お母さんはなぜ、そんなに遠慮ばかりしてるんだ!
お父さんになぜもっと強く言えないんだ。そんなだから僕らまで…。
つらいのはお母さんばかりじゃないんだよ」

ハッとした。その通りだと思った。

夫から、まるで他人を見るみたいにあしらわれても、
私は何の疑問も怒りもぶつけてこなかった。いくじなしだった。

この年の夏、長男は東京の予備校へ行き父と暮らした。

だが夜になると、「いつもぼく、一人なんだよ」という電話がきた。
それから1週間もたたないうちに帰ってきた。

帰るなり、「これはお母さんが持つべきものだよ」と、鍵を差し出した。
父の部屋の鍵だった。

あのとき長男は遠回しに、
「お母さん、しっかりしろよ」と、背中を押してくれたのに、
ただ、うやむやにするばかりで…。

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斎藤氏撮影

日ごろは偉そうなことを言っているくせに、いざとなると現実から逃げる私。

そう、私はいつも、
その先にある不安や不幸を見たくないという小心者だったのだ。

だから私は気づかないふりをしてきた。そうして不毛の年月を続けてきた。

まるでネバーエンディング・ストーリーではないか。

でももう、限界が来た。

気づかないふりなどというまやかしは、長続きするものではないのだし、
見たくないものでも、どこかできちんと見なくては同じ繰り返しになるだけだ。

ひょっとしてガン細胞は、そんな私の愚かさを覚醒させるために、
この体に巣くったのかもしれないとも思った。

このままでいいわけがない。
いやでも夫と対峙しなければいけないのだ。
だから私は、どうしても死ぬわけにはいかないのだと思った。

でも今は巣くってしまったガン細胞をどうにかしなければならない。
自分が今、闘う相手はあの夫ではなくガンなんだ。

エンデの本に出てきた少年は、大切なものは「本当の愛」だと知り、
「はてしない物語」から現実へ戻ってきたが、私にだってできないことはない。

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それはまず生きることだ。生きて戻ることことなのだ。
夫と対峙するのはそれからでいい。

入院は12月初めと決まった。

そのとき長男は高校三年生。二男は中学三年生。
ともに受験を控えていた。


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あるある力石

みなさまからの力石
01 /25 2022
私メの「悲劇の人生航路」を、クダクダ書き連ねているうちに、
みなさまが旅先などで見つけてご報告くださった力石の紹介が、
すっかり疎かになってしまいました。

今回は5人の方のブログと斎藤氏の写真をご紹介します。

お一人目は、
「行きたい! 素敵なジャパネスク」のくまくまさん。

「郡上八幡城」

くまくまさん
岐阜県郡上市

くまくまさんは、織田信長や武田信玄などの戦国武将や、
関ケ原の戦いのゆかりの地をめぐっている方です。

「戸隠神社」

くまくまさん2
岐阜県郡上市

お二人目は、
「ようこそ、はづきです」のはづきさん。

東京・多摩湖畔で、
陶器と喫茶のお店「ごはん茶わん・はづき」を経営されています。

自然の中でゆったり。可愛い猫ちゃんも登場します。

「熊野神社」

はづきさん
東京都東大和市

三人目は、
「BusyBee Life」のBUSY-GAEIさん。

「花」から「花」へ忙しく飛び回っているBusyBeeさん。

写真は神田川徳蔵一門の石がある柳森神社。
築土八幡神社の石も出てきます。

「千代田区の力石 他」

びじいさん (2)
東京都千代田区

遠く岐阜市へも飛びました。ブンブンブン

岩戸八幡神社の力石です。

「岐阜市・岩戸八幡の力石」

びじい2 (2)
岐阜県岐阜市

四人目は、
「とりけらのアウトドア&ミュージック日記」のとりけらさん。

ポタで神出鬼没。
軒下から地面の隅まで、目配り気配りが凄い!

「目黒不動」

とりけらさん
東京都目黒区

五人目は、
「へいへいのスタジオ2010」のへいへいさんです。

へいへいさんは紹介しきれないほどたくさん見つけておられますが、
今回は紙面の都合で、2か所だけのご紹介です。

「悪疫退散の力石」

「文字がはっきりした石は祠の脇に、そうでないのは石置き場に。
それだけでこのように分断されてしまうのでしょうか」とへいへいさん。

この「差別」は寂しいですね。どれもかつては大切にされた力石なのに。

記事の中で珍しい「どろいんきょ行事」も紹介しています。

へいへいさん2
埼玉県上尾市・平方八枝神社

「平方観音堂の力石」

あっちこっちに力石と思しき石が出てきます。
斎藤氏にお聞きしたら、今までここで確認されている力石は3個。

「写真だけでは判断は難しい。現地調査をしないと断定できないが、
平方公民館の駐車場脇の石は力石と思われます」とのこと。

それにしてもみんなバラバラに放置されていてもったいないですね。

平方観音堂
埼玉県上尾市

最後は斎藤氏、会心の一枚をどうぞ。

「奉納力石 四十メ目 下柳村 川端講中」

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埼玉県春日部市下柳川端・雷電神社

今はただ猫の枕か力石  雨宮清子

「でも忘れずにこうして寄り添ってくれてるんだ。嬉しいよ」 by力石


みなさまがせっかくブログでご紹介してくださっても、
私の見落としがあるかもしれません。

どうかご容赦ください。

もしありましたら、ご一報いただけたら有難いです。


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記憶の脱落 …㉕

田畑修一郎
01 /22 2022
息子たちがそれぞれ中学生と高校生になった3年間は、
私の記憶からすっぽり抜けている。

兄や夫から「なんでもよく覚えている」と恐れられていたのに、
この期間はなんだか霧の中にいたような曖昧模糊としているのだ。

入学時の制服を買ったことは覚えているが、
その後、成長にあわせて買い替えていったかどうか記憶にない。

誕生日はやっていなかったように思う。入学式や卒業式に出た記憶もない。

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仕事を探したことは覚えている。

近所のスーパーの肉屋の店員になったが、
店主が、「こちらで通帳を作ってそこへ振りこみ、退職の時渡す」と言うので、
現金をもらって1カ月で辞めた。

その後まもなくこの店はなくなったから、我ながらいい判断だった。

「きれいな仕事です」の募集につられて、せんべい工場でも働いたが、
そこも2か月ほどで辞めた。

ベルトコンベヤーで運ばれてくる焼きあがったせんべいを、
割れたものと製品に出来るものとにより分ける仕事で、
従業員はすべて女性。

若い人は一人もいないおばちゃんたちの世界。

ベルトの左右に並ぶ彼女たちのおしゃべりはすべて下ネタで、それも実体験。

肥満体のおばちゃんが、
「行きずりの男だったけど、竹藪に入ってやっちまってサ」と言ったら、
まわりのかみさんたちが、ギャハハと歓声をあげた。

そのおしゃべりと同じ速さで、割れせんをポンポン口に放り込む。

新入りの私に隣りのかみさんが笑いながら言った。
「こないだ、せんべいと一緒にこんがり焼けたネズミが乗っかってきたっけよ」

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終始、黙って聞いていた私に、主任とおぼしき女性が声を掛けてきた。

「ごめんね。びっくりしたでしょう?
でもね、女ばかりの職場はどうしても亭主や子供の自慢話になるでしょ。

そうなったら、妬みも生まれてうまくいかなくなる。
でもああいう下ネタならだれも傷つかないのでね」

私はうわーっと思った。だってすごい知恵じゃないですか。まさに卓見!

それから主任は、こう付け足した。
「あなたはこんなところで働く人ではないよ。履歴書みたけど、もったいないよ」

別にそうは思わなかったが、モーター音で耳鳴りがひどくなって辞めた。

でも、こんがり焼けたネズミや母さんたちの唾が飛び放題を見て以来、
私はせんべいを食べられなくなった。

髪の毛の混入には厳しかったけれど、
せんべいを掴む手は素手で、トイレに行っても水でチャッチャッだったし。

その後、工場は近代的なものに生まれ変わったと聞いたから、
あの母さんたちや下ネタが消えてしまったのはちょっぴり残念に思った。

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次に一般会社のパート事務員になった。

数か月後、出勤途中、路地から出てきた右折車にはねられた。
50 ccのバイクごと飛ばされて、救急搬送された。

全身打撲で呆然となっていた私に看護師さんが「入院しなきゃダメ」といい、
ベッドを用意したのに、私はそれを振り切って家へ帰ってきた。

交通事故に遭ってしまったことがなぜかやたら恥ずかしかったし、
「子供が心配だから家へ帰る」という思いでいっぱいになって、
しびれて感覚のない体を無理やりタクシーに押し込んだ。

だが帰るなり全身がこわばって首から下が動かなくなり、
着の身着のままで1週間、身動きできない状態で倒れ込んでいた。

後日医者に黒いおしっこが出たと告げたら、「中で出血してたんだ」と青くなった。

入院しなかったことが裏目に出て軽症とみなされ、
加害車両が有力者の娘だったこともあって、妙なことになった。

どういう理由か、過失相殺になっていた。

あのとき、車から出てきた若い女性が、「またやっちゃった!」と叫んでいたし、
路地からいきなり飛び出してきたのはその車なのに。

車を持たない身には保険のことがわからなかったし、
加えて夫がまるっきり姿を見せないことも、保険会社の社員を強気にした。

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「首の骨が飛び出している」と指摘されたのは、
それから20年もたってからだった。

それでも死なずに生きている。

反対車線に飛ばされて、目の前にトラックをみたときはダメだと思ったが、
運よくすんでのところで止まってくれて助かった。

それで良しとしなくちゃと前向きになったとき、ガンが見つかった。

負のスパイラルはどこまで続くのか、
幸運の女神に見放されたのか、出口はあるのか。

濃霧の山中をさ迷うような、そんな年月だった。

しかし、あのころ、
子供たちはどうしていたのか、食事は、小遣いは…。
小学生のころからアトピーだった長男に、ちゃんと医者代を渡していただろうか。

今も皆目思い出せずにいる。

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皮肉にも数か月に一度帰る夫のことは鮮明に覚えている。

決まってよれよれのジャケットを着てやってきて、
無理してすき焼きを出すと、「肉なんて何カ月ぶりかなあ」と口走った。

あのクサイ演技に返す言葉は見つからなかったが、
息子たちはまるで修行僧みたいに、ただ黙々と食べていたっけ。


※写真はすべて斎藤氏撮影

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つかの間の幸せ …㉔

田畑修一郎
01 /19 2022
田端修一郎の子煩悩ぶりをみると、元夫のダメ父ぶりが際立つ。

当時の新聞に、ある野球解説者の死亡記事が出ていた。
その人の娘さんのコメントに、私は釘付けになった。

「父はどんなときにも私たち家族を守ってくれた」

そうか、世間ではそれが当たり前なんだよね。
そういう世界があることすら忘れていた自分が恥ずかしかった。

残念なことに私の結婚は、
「どんなときにも家族を守る」大人のパートナーとの結婚ではなかった。

下ははるか昔の、「寿退社」をする私の送別会の写真。

ただ一人の女性同期生だった私のために、同期入社の社員が開いてくれた。

「おれ、惚れてたんだぞ」
「なによ今さら」

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こんなに、みんなに祝福されたのになぁ。努力したんだけどねぇ。

「ぼっとん便所」も「奇妙な義姉と義兄」も、そのまま受け入れてきた。
優しい人たちだった。だけど痛々しいウソが垣間見えた。

ウソはいずれ破綻する。

スタートから間違っていたんだ。

二人の息子は父の仮面の下には、「父親」としての顔がないことに
とっくに気づいていたってのに、私は「なんとかなる」と、もがき続けてきた。

ホントに浅はかの極み。

そんな私を長男が勇気づけてくれた。
「だって夫婦だもん。信じて暮らすのは当たり前じゃないか。
疑いながら暮らす方がよっぽどおかしいよ」

ある日、夫の武雄が言った。実にノー天気に。
「でもさ、俺と結婚していいこともあっただろう?」

そうねぇ。田舎へ来てからの数年間はね。いろんなことをやったものね。

キャンプに、

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スキーに、
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サイクリングに海水浴。

二人とも今は、海のそばに住んでいる。

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子連れ登山も。武雄が同行するファミリー登山は一度だけだったが。

まだ子連れ登山が珍しい頃だったので、周囲から「母親のくせに」と批難された。
批難されてもやめず、生意気にも私は体験から得た本を書いた。

テレビや雑誌に紹介されて、多くの女性から手紙をいただいた。
「お母さんになっても登山をしてもいいんだと勇気をもらいました」と。

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北岳、赤石岳、立山、甲斐駒ヶ岳などなど。写真は鳳凰三山。

母子登山は危なっかしかったのか、行く先々で山男達に助けられた。
実際に危険な目に遭わせたことも。今でも思い出してはヒヤリとする。

長男はいつもおどけて、弟を励ましてくれた。

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なにしろ自然がいっぱいだったし。都会育ちの武雄には新鮮だったのだろう。

庭に畑を作って採れたての野菜を食べ、鶏を飼って生みたて玉子も食べた。

殺処分寸前の子犬をもらって、毎日のように野山を駆け回った。
みんなで犬小屋も作った。

「3兄弟」。写真を撮っていたら愛犬Gが後ろから割り込んできた。

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長男が登校途中で拾った子猫も家族の一員になった。

あのころの武雄は、確かに普通以上にしっかり父親をやっていた。

そういう私たちの動きがよほど奇異に映ったのだろう。
たちまち近所の人たちの目を惹きつけた。特に登山をする私は標的になった。

「登山は若者がすることなのに、みっともない」「遭難したらどう責任を取るのか」
「アンタは「〇〇の変人」って笑われているよ」。〇〇とはこの地区の名。
「私ら、PTAとママさんバレーの時しか外出できないのに」

確かに、
こんなことをする主婦なんて、近所の人たちの理解を超えていたのかも。

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それがよからぬうわさになり、次第にいじめに変わっていった。

離婚をし子供たちも巣立ち一人暮らしになった時、
それまで溜めていた近所の住民たちの妬みが「犯罪行為」として吹き出した。

やがてそれが自治会あげての村八分に発展。
県弁護士会が救済に乗り出し、新聞の全国版の記事にもなった。

この集団いじめは学校のいじめとまったく同質だった。
いじめの対象になった子供が自殺するのも充分理解できたほど凄まじかった。

加害者は決して社会の「底辺」にいる人たちではなかった。

サラリーマン、公務員、教師、大学教授。
むしろ「高学歴」「善良な市民」と自他ともに認める人たちだ。

いじめを主導するのが夫たちで、その使い走りが職業に負い目を持つ輩たち。
そこが「いじめ」のやっかいで怖いところだと実感した。

「何があっても自殺するな」という私からのメッセージとして、
後日、当時の新聞記事やいやがらせの手紙、回覧板などで詳述する。

夏は鮎釣りに行ったし…。土手を走っているのは釣りに飽きた長男。
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さて、夢中になった田舎遊びだったが、夫はすぐ飽きて放り出した。
テントは捨て置かれ、犬の散歩もしなくなった。

それと引き換えに、東京から押し寄せてくる客の訪問が激しくなった。

やがて客が来なくなったと同時に、武雄も帰らなくなった。

中学生の長男が、「家族旅行がしたい」と頼んだが、とうとう実現しなかった。

まだ一家で行動していた時、峠道でヨチヨチ歩きの子犬を見たことがあった。
子犬は1匹ではなかった。道路わきの草むらから次々出てきた。

車の行き交う中、母犬が駆け寄っては咥えて草むらに戻していく。
何度も子犬を引き戻しに来る母さん犬の困惑した顔。

痩せて油っ気のない体の、そこだけが息を飲むほど張りつめていた乳房。

武雄はいつになく憤り、
「子犬と一緒に捨てられたんだよ。母犬が元の家に戻って来ないように。
母性本能を利用した悪質な捨て方だね」と言ってたけれど、

なんのことはない。その後の私と子供たちにしたことと同じじゃないの。

二男が東京のアパートに置き去りにされた3年後、私はガンになった。

泣きっ面に蜂とはこのことだ。

「寿退社」の送別会で、

「ウイーッ。酔っぱらっちゃった」

私、あんなにみんなに愛されていたのになァ。
こんなはずではなかったのに。

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いったい神さまはどこまで私をいたぶる気なんだろうと、心底思った。


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成熟 …㉓

田畑修一郎
01 /16 2022
親友の妹に「もの狂い」した田畑修一郎は、断ち切れない恋情と、
家族に背いたことへの罪にさいなまれて、三宅島へ渡った。

そこで再起し、「三宅島もの」と言われる新たな作品を生み出した。

だが再び神経衰弱となり、今度は千葉県外房の御宿へ赴く。

三宅島へは学友の浅沼に招かれ、
千葉県御宿へは文学仲間の浅見淵(ふかし)が手引きした。

これが功を奏し、私小説からの脱皮という変化をもたらした。

初期の作品では、
「父母と死別し、卑俗な家に養子に出され、兄姉と散り散りにされて、
子供の時から裏切られてばかりだった」という負の気持ちを書き続けていた。

だが、いつまでもそこに留まってはいなかった。

三宅島、外房の御宿、この二つの転地は、
そういう負の意識を払拭させ、人格にも作品にも成熟をもたらした。

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斎藤氏撮影

やがて、田畑は悟る。

石の上の蜥蜴になった「もの狂い」の自分に愕然とし、
「自分も自分の子供たちも食べていかなければならない」ことに気づく。

そして、自分のために御宿の別荘を用意してくれた浅見に、

「子供のことを思うとじっとしていられず、勢い過労になった」
「危機を脱したのは愛する子供たちがいたからだ」と告白する。

千葉県・御宿海岸で。浅見淵(右)と。昭和16年。
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「田畑修一郎の手紙」渡辺利喜子 武蔵野書房 1994より

以後、父親ぶりがめざましい。

3人の子供を自主・自立・自学を大事にした「明星学園」に入れ、
学校の機関誌に寄稿。授業参観や入学式、卒業式にも積極的に出た。

子供のころ、田畑家の隣りに住んでいた渡辺利喜子は、
のちに田畑作品の研究者となり、「田畑修一郎の手紙」などを書いた。

その渡辺がこんな回想を残している。

「田畑は近所の子供たちをよく書斎に招いた。
長女のゆりこさんが、「お父さまのハーモニカがはじまりますよ」
などと呼びに来た」

家にいれば子供の散髪をし、トランプで遊び、風邪の看病をし、
長女のレントゲンに付き添い、子供のバイオリンの修理に楽器店へ赴く。

旅に出れば、ひんぱんに手紙を書いた。

「九日帰る予定。子供たちによろしく。
父さんの所へは何でも聞こえますよ。元気でゐたまへ」

「夏樹の病気はどうか。志摩夫は相変わらずネボウか。
ゆりこはこのごろ手紙をくれないが…」

幼くして父を亡くした経験がそうさせたのか、過剰なほど「理想の父親」に徹した。

下は、養母が残した旅館「紫明楼」を整理して上京するときの記念写真。
3人の子供と仲居さんたちと。昭和4年。田畑25歳。

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「田畑修一郎全集 第三巻」 冬夏書房 昭和55年より

意外な一面もあった。

ダンスが好きで、町でダンスホールを見つけると踊り明かし、
下戸なのに酒の席が好きで、興が入れば故郷の「どじょうすくい」を披露。

文学仲間との盛んな交流も欠かさなかった。
日記に「太宰(治)と飲む」と記してあった。

ほかにこんな記述も。

「講談社より稿料、1週間遅れるとのこと」
「夜、質屋へ行き、40円つくる」

浅見淵の計らいで過ごした千葉県・御宿では、
芸術写真を撮る酒造家の岩瀬禎之に会い、写真も見せてもらった。

「それはほとんど全裸の17、8の海女の写真だった。
彼女たちはいかにも自然でおおらかだった。開けっ放しの人の良い感じだった。

だがなによりも驚いたのは、前に下ろした両手の間に胸から垂れている
二つの大きな乳房だ。まるで牝牛のそれを思わせる圧倒的な印象だった」

下の写真は、田畑が出会った酒造家の写真ではないが、
撮影場所は同じ御宿町岩和田。撮影者は中村由信。1961年撮影。

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「日本民俗写真体系3 東海道と黒潮の道」日本図書センター 1999

しかし酒造家はこんな注意もした。
「海女たちは口が悪くて、うっかりすると散々やられるから」と。

滞在1カ月。

神経衰弱も癒えた田畑は、
東京へ帰る時、妻・松子を呼び寄せ、千葉の海を見せている。

昭和16年(1941)、このとき田畑38歳。

文学仲間からは、「いつも神経のピリピリしていた人」と言われ、
田畑自身も「自分は愛妻家ではない」と書くが、

妻にとって、子供を大切にする夫ほどありがたい存在はない。

その松子がこんな回想を残している。

「茶の間で私が縫物をしていると、疲れたので今夜は早く休みたいからといって、
田畑は隣りの部屋に布団を敷いて横になった。
そのとき、「黒田節」や「関の五本松」や三宅島の地歌を次々と歌ってくれた」


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家族が俺の才能を潰した …㉒

田畑修一郎
01 /13 2022
かつて、数々のスクープをものし、
日本のフォト・ジャーナリズムの先駆けとなった写真週刊誌があった。

創刊2年目で販売部数200万部を達成。一世を風靡した。

元・夫はそこで20年間、アンカーライターをやっていた。
アンカーライターとは、
現場のカメラマンと記者の取材原稿を元に、記事を書くライターのこと。

この雑誌の廃刊後、彼はこの週刊誌での体験を1冊の本にまとめた。

私はこの本が出てから20年たった昨年、初めてこれを読んだ。

ネットの読者評に、

「暴露雑誌の裏側を描いた本には、取材の裏側の隠されたエピソードが
描かれているものだが、この本には見事にそれが欠落している」とあったが、
それは彼には「取材して書く」という経験が全くなかったからだろう。

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小説の新人賞に応募して落ちた話も書かれていた。

「ほとんどフィッシュオンしていたのに、土壇場で逃げられた」とある。

この場に及んでもまだきれいごと言ってんだと私は苦笑した。

彼は作家になりたくて、いくつかの賞に応募したが入選すらしなかった。
そこで知り合いに頼んでいきなり最終選考の候補に潜り込ませてもらった。

本には「ほとんどフィッシュオン」と書いてあるが、事実ではない。

選考委員全員が酷評という無残な結果だった。
「小説とは呼べない。週刊誌記事の拡大に過ぎない」と。

私はその時夫から、ひどい罵声を浴びせられた。

「俺の才能を潰したのは、お前ら家族だ! 謝れ!」

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荒れ狂って手が付けられなかった。

ライターとして長い実績があっても、彼には取材経験がない。
数冊ある著書もすべて、他人の資料から抜粋して切り貼りしたものばかりだ。

自分の足で現地を見、地元の人と接し、生の声を聞かなければ、
人の心を動かせるものは書けない。

人づてに聞いただけでは、事件や事故の悲惨さや生々しさは伝わらないし、
スクープを狙う最前線にいて、
その瞬間を捉えた者でなければ、臨場感は出せない。

地道に取材ばかりやってきた私には、はっきりそう断言できる。

彼には終生、それがなかった。たぶん、性格的にできなかったのだと思う。

開高健の真似をして戦場の取材に出かけても、それは格好ばかりで。
帰国後の旅行鞄から出てくるのは、エジプトやアフリカの観光土産だった。

田畑修一郎は私小説から出発し、やがて客観小説や随筆で新境地を開き、
芥川賞は逃すもののそれなりに評価されていった。

評論家の山室静は言う。
「田畑作品にはけばけばしい色彩も文学方法の斬新もドギツイ問題性もないが、
純なる文学の正道を行くものであった」

その叔父を手本に、元・夫はなぜ、自分の生い立ちを書かなかったのか。

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養父のドロドロに溶けた腕を掴み、エベッタン笑いで渡世してきた父親のこと。
その男と駆け落ちするために子供を捨ててきた母親のこと。
奇妙な結婚生活をする無職の兄のことなど、

めったにない素材がいくらでもあったではないか。

大阪生まれを強調するなら、なぜその地から関東へ出て来て、
うじ虫が這い上り、居間にまで臭気が漂う「ぼっとん便所」の家に
住まざるを得なくなったのか。

義姉が言う「武蔵野の広大なお屋敷」「おとうちゃまは新聞記者」の
欺瞞が嫌だったのなら、その深層心理をえぐり出せば良かったのだ。

新人賞に落ちたとき、そこの編集者が中上健次の著作を送ってきた。

中上は自らの出自と複雑な血族を公言し、それを小説に書き続けた作家で、
「岬」で芥川賞を受賞した。

夫の実家のことなど知らないはずの編集者が中上作品を送ってきたのは、
夫の作品には、「書かずにはいられない魂の叫びのようなもの」がないことを、
見抜いたからだろう。

フィクションであれノンフィクションであれ。

「週刊誌記事の拡大に過ぎない」小説もどきを書いて、
「家族が俺の才能を潰した」とは見苦しい。

今の私ならこう怒鳴り返しただろう。

「責任転嫁するな! あなたに才能がなかっただけのことじゃないの」
「認知されたら作家、されなかったらただの性格破綻者にすぎないんだよ」

DSC02571_20220104212649b7d.jpg

第一、このとき彼には愛人がいた。言うべき相手はその彼女だろう。

本に「そのころ週の半分は静岡で暮らしていた」などと書いていたが、
1、2カ月も帰らないのはザラで、一晩泊まってそそくさ帰っていたではないか。

この場に及んでもまだ、自分を正当化したいのか。

この本は離婚して6年目の、彼が還暦の年に出している。
その頃の彼は愛人のM江と再婚し、新たにもうけた子供と暮らしていた。

だが、本には「M江とは3年前に同棲を解消した」と書く。
もうウソを書く必要などないのに。

ここまで虚栄の世界に埋没していたとは。
曲がりなりにも成熟の証しがあるかと期待したが、全く変わらなかった。

結婚生活での私の努力は大いなる無駄だったと、思い知らされた。


※写真はすべて斎藤氏撮影

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亀がつないだ新発見

斎藤ワールド
01 /10 2022
2022年、新年早々の新発見です!

斎藤氏からの情報です。

数日前の降雪がウソのように、この日は風もなく暖か。
その陽気に誘われて斎藤さん、さっそくポタ。

関東地方、雪の夜。
DSC03736.jpg

雪が消えた中、穏やかな日差しを浴びて杉戸町へ。

街中に忘れられたような瀬戸物屋をみつけて、
もしかしたら探している「亀形の箸置き」があるかと思い入店。

箸置きはなかったが、亀つながりで栗橋八坂神社の石亀の話が出た。

八坂神社の亀です。
栗坂5
埼玉県久喜市栗橋北・八坂神社旧地の灯ろうの足元

話が弾んだ。

瀬戸物屋のおかみさんの実家が栗橋の舟戸町。

江戸川の築堤で実家はなくなったが、
数代前までは江戸川の廻船問屋だったという。

おかみさんはそこから杉戸町に嫁いできたが、
八坂神社のことはよくご存じで、代々の宮司さんのこともよく知っていた。

力石の話をしたら、
「近くの愛宕神社にもあるよ」と、思いがけない話が飛び出した。

こいつは春から縁起がいいや、とばかりに斎藤氏、愛車を走らせた。

ありました!

真新しい竹垣にしめ縄。新年の陽光を浴びて清々しい。

DSC03780.jpg
埼玉県杉戸町杉戸4-4-6 愛宕神社。49余×57×29㎝

嬉しくて、上からも撮った。

この神社には何度も通い、昨年もたびたび来たのに見つからず、
ないものと思っていた。

DSC03778.jpg

瀬戸物屋のおかみさんの話では、

「ここには老巨木のイチョウの洞に、銀杏観音(瑠璃観音)が鎮座しているが、
他に呼び物がない。その必要性を感じて氏子会で討議。
その結果、
昔からあった力石とさざれ石(重軽石=おもかるいし)を設置することにし、
2022年の正月に披露となった」とのこと。

刻字のない力石でわからなかったけれど、
氏子さんたちの間ではちゃんと伝承されていたんだと安堵。

できたてホヤホヤの説明板もしっかりカメラに収めた。

DSC03777.jpg

しかし、神社関係者にも保存の経緯を聞いてみようと再度、愛宕神社へ。

ちょうど神社の会館で氏子さんたちが慰労会の真っ最中。
幹部の方からお話を聞くことができた。

それによると、

 神社に力石やさざれ石があることは、誰一人知らなかった。
 昨年、町役場から「愛宕神社の力石とさざれ石が載った文献がある」
   との連絡があり、氏子たちが石を探したが見つからなかった。
 そこで役場の人に来てもらい、見つけることができた。
 説明文は氏子の作成。
 さざれ石は社殿内で保管している。

さすが斎藤さんです。

しかし、幹部の方の、
「力石は今年初めに設置し、正月参拝者に披露した」
の説明に疑問を持ち、再度、確認したが、「今年初めに設置した」と断言。

うーん。 今年初めっていつなんだろう?

神社に出向く前に、
瀬戸物屋のおかみさんに、力石があった元の場所を聞いておいた。

力石は、石塔の前の棕櫚の木の根元にあったそうです。
DSC03850.jpg

この力石を移動する際、
向かいの家(元・酒屋)から、「この石はうちの所有物」とクレームがあったが、
境内にきれいに設置されたのを見て納得。感謝していたとのこと。

酒屋さん時代に使用人たちがこれで力くらべをやったのかもしれないですね。

でもあのように放置され、誰にも知られず土に埋もれていくより、
こうして皆さんに注目され、可愛がられる方が石も喜びます。

役場で文献を発掘し、氏子さんたちのご尽力で、
愛宕神社に新たな歴史が加わりました。

元・酒屋さんにはぜひ、昔の力持ちの話などお願いしたいですね。

生まれ変わったこの力石、コロナで疲弊し希望をなくした若者たちに、
きっと「力」を与えてくれると信じています。

DSC03779.jpg

情報をもたらしてくださった瀬戸物屋さんに、感謝!


ーーーーー

路傍学会長さんやへいへいさんからの新発見、
着手しないままになっておりますが、必ずご紹介してまいります。
それまで今しばらくのご猶予を。

また、力石を取り上げてくださったブログのご紹介も、
順次、させていただきますのでこちらもしばしお待ちください。


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この人の歌は歌えない …㉑

田畑修一郎
01 /07 2022
2022年は二男の娘で、私の孫に会えた特別なお正月になった。

「お母さんに会わせたくて」と二男が言った。ありがたかった。

父不在の高校生の頃、切羽詰まった顔で二男が言った。
「お母さんだけは僕らを捨てないでよね」

そう言った息子があの「父親」を反面教師にして、
こうして自分の娘にあふれるほどの愛情を注いでいる。

その姿に、「嬉しい。本当によかった」と私は安堵し、息子に感謝した。

二男が庭で遊び始めると、どこからか大きな猫がやって来て…。
「あのね。ゴニョゴニョ」とおしゃべりすると、目を細めてじっと聞いていた。

img20220103_09370062 (8)

小学6年の春休み、
二男は仲良しの友人を誘って東京の「自慢の父」の元へ出かけた。

帰ってきた二男に「東京見物、楽しかった?」と聞いたら、
暗い顔でこう言った。
「お父さんはぼくらをアパートに置き去りにしたまま帰ってこなかった」

友人へのメンツは丸つぶれ。二男は絶望的になった。

高校進学を機に再び東京へ転居の予定で、夫に二男の高校探しを頼んだ。
だが、願書の受付が迫ったとき、夫が伝えてきたのは都立の底辺校だった。

中学の担任はあきれ果て、急きょ、地元の高校へ変更。
しかし地元の難関校に合格しても、父親からは「おめでとう」もなかった。

それでも父親を信じたかったのだろう。

父親が早稲田のラグビーを誇らしく語るのを聞いて、
体育会系でもないのに高校生になるとラグビー部に入部した。

幼いころは広島カープ。めんこもカープ。
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次の年にはジャイアンツ。

img20220103_10103421 (2)

ナイスキャッチ! 父親が遊んでくれた頃。

img20220103_10080720 (2)

だがその父親は、二男のそんな思いなど無視。
毎年、正月恒例の大学ラグビーには愛人を連れて正月を満喫していた。

二男が中学生になったころから、夫は大晦日の夜遅く帰宅して、
「暮れにやり残した仕事を正月中に片付けたいから」と、元日に東京へ帰り、
「俺がこんなふうにムチャクチャ働いているのは、すべてお前たちのためだ」
が決まり文句になった。

それがウソとわかっていても、私は愚かにもそれは一時的なことで、
親が子供を捨てるなんてできるわけがないと信じ込んでいた。

だってせっかく授かった大事な子供ではないですか。

でも世の中にはそんな親が結構いた。平気で捨てる身勝手な親が…。

職場不倫の末、自分も相手も我が子を捨てて一緒になった知人が、
「娘が成人したのでお祝いを贈ったら突っ返された。なんでかなぁ」と。

私は眉をひそめて、

「あなたがお相手と逃げてここに住み始めたころ、若い奥さんと父親が、
あなた方を探しにきたことがあってね。個人情報は教えられないと断ったけど、
可哀そうで見ていられなかった。相手の方のお子さん、まだ小さくて」

と言ったら、ヘラッと笑って、「そうでしょうね」と言い放った。

離婚して10数年たって、混声合唱団に誘われて入ったことがある。

渡された楽譜は、子供のいる男性と再婚した有名歌手の歌だった。
隣りの男性が喜々として「僕、この人の大ファンなんです」と話しかけてきたので、
「私にはこの人の歌は歌えない」と言い返したら、怪訝な顔をしたっけ。

自分の欲望のために子供から父親を奪っておいて、愛や幸せを歌うなんて、
そんな節操のない人の歌など、まっぴらごめんだよ。

右から5番目が私。
img20220103_09514677 (2)

堅物と笑われようとも私は決して子供を捨てたりはしない。

捨てたりはしないけれど、私は毅然と立ち向かうことをしてこなかった。

小学6年の二男が父親に置き去りにされただけでなく、
よそのお子さんまで危険にさらしたのに、夫を責めることもしなかった。

そういう思いもしなかった場面に出くわすと、瞬時、頭の中が真っ白になり、
ただ呆然と立ち尽くすダメな母親でしかなかったのだ。

ただ一度だけ、ラグビー観戦を約束させたことがある。

夫が「こいつ、すごいヤツなんだぜ」と、
ラグビー雑誌の全日本高校ラグビーのキャプテンを得意気に見せたときだ。

「それ、従兄の息子。埼玉浦和高校の…」と言ったら、夫は絶句。
すかさず「ラグビー、一度観てみたい」と言ったら、しぶしぶ承諾した。

その日は駅から秩父宮ラグビー場まで人の波だった。

夫はダフ屋から一枚3万円の券を買った。私のパート賃金一か月分だ。
それを3枚。その手慣れた様子に怒りが込み上げてきたがグッと押さえた。
二男は終始、黙っていた。

下の写真は、実家の母が送ってくれた絣の着物で七五三。
誰もいない近くの神社で。

しかし二男はこのお宮さんが大好きで、東京暮らしでも欠かさず参拝。
2年前のカウントダウンにはお嫁さんと。今回は娘も連れて。

「〇〇(二男のこと)は何があっても行くんだって」と、お嫁さんが笑った。

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だが、私の力はそこまでだった。

夫は我が子を捨てたけれど、私は私で子供たちを守り切れなかった。
同罪ではないかと今でも思う。

「お母さんだけは僕らを捨てないでよね。
お母さんまでそうしたら、ぼくらはどうしていいかわからない」

そう言った二男の言葉は、今も脳裏から離れない。


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制作者は90歳

世間ばなし➁
01 /04 2022
恒例の「おらが村の芸術家」さんの干支の作品をご紹介します。

昨年12月、
もう「寅(虎)」さんは完成したかと見に行ったら、運よくご本人が…。
2021年の干支「丑」さんの化粧直し中。

「はげてきて可哀そうだから」と。


CIMG5758.jpg

で、2022年の干支「寅」はというと、

いました!

立派な家に悠然と巨漢を横たえ、眼光鋭くこちらをひと睨みしています。

檻の柵は可動式になっていて、この時は下ろしていました。

CIMG5747 (2)

近づいてみると、なんとも温和なお顔。

CIMG5752.jpg

傍らに花まで添えて…。

花といい虎さんのお顔といい、芸術家さんの優しさがにじみ出ています。


CIMG5754 (2)

おじさんはニコニコ嬉しそう。

ペンキの刷毛を忙しく動かしながら、
「来年が来りゃあ、俺、90歳になる」

たまげました。

だってとても90歳には見えないですから。
眼鏡なし。補聴器なし。足腰はピン。大きな声がまた明るい。


どう見ても「おじさん」。「おじいさん」とは呼べません。

傍らに立派な愛犬の墓があって、
墓石にはポップとコーン、2匹の名前が刻まれていました。

「それも俺が作ったんだよ。死んじゃったんでな。
とうとう一人になっちゃった」


CIMG5759.jpg

自宅からここまで毎日、自転車でやってきて、
墓の前の座布団に座って、ワンちゃんたちと話をしていくのだという。

「寂しいよ。でも俺も年だで、犬はもう飼えないから我慢してる」

そんなご主人を墓前の黄色い座布団が、
「早く座ってお話しようよ」と誘っていた。


「あのね、おじさんの作品、毎年、ブログに書かせてもらっているんです。
みなさん、とても楽しみにしているので」と言ったら、

「いやー、それは…」と照れ笑いした。

今年も無事に、
「おらが村の芸術家」さんの干支の作品を見ることが出来ました。

90歳に万歳! そして、ありがとう!


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雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞