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カルシウム注射 …⑫

田畑修一郎
11 /30 2021
父親の死で一家離散となった河野家の6人の子供のうち、
家名存続の重責を担わされた長兄の一郎。

その奮闘ぶりは田畑作品の随所に見られる。

年の離れた姉3人の家族と常に連絡を取り、
乗っている船が芝浦港へ入るたびに、末弟の修蔵を訪れた。

修蔵を育てた次姉ノブは医者と結婚して3人の子持ちとなり、
一家は早く島根を出て大阪に居を構えた。

その新天地で、
長編「醫師高間房一氏」のモデルだった夫は、着々と地盤を築いていた。

「本業も相当盛んだったが、
それ以上に町会だの医師会だのの方面で腕をふるい、
世間人としては押しも押されぬ方になった」=「起伏」

東京在住の長姉と三女の姉もまた、女中を雇うほど裕福になった。

その中でただ一人、落ちこぼれていたのが二郎で、
長兄は自分とたった3才しか違わないこの弟をいつも気にかけていた。

落ちこぼれの二郎がこの捨て猫と重なって見えた。
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短編「三人」に、二郎、修蔵とおぼしき兄弟が、
横浜港に入港した兄に会いに行く場面がある。
 ※当時の状況から、この港はたぶん「神戸港」だろう。

港や船が出てきましたし、気が滅入る話ばかりなので、
ここでちょっと気分転換に船の写真などどうぞ。

海の貴婦人「海王丸」です。
富山県の富山新港に恒久係留されています。

まずは美しい姿と地元の方々の取り組みをご覧ください。

「海王丸パーク」

こちらは50余年前の絵葉書の海王丸です。以下、すべて初代海王丸です。
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まだ「東京商船大学」があったころの時代。
学生たちは隅田川河口の竹芝桟橋から遠洋航海に出ました。

修一郎の兄の商用船は「芝浦港」に入港しましたが、練習船は「竹芝桟橋」

この日は学生たちが練習船で初めて遠洋航海に出る晴れやかな日です。
私も兄を見送りに行きました。

兄です。若い! 今はすっかりおじいちゃんですが。
変色した写真が歳月を物語っています。

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見送りの人がたくさん来ています。

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帆を開くことを「総帆展帆(そうはんてんぱん)」といいます。

マストに上ることを「登檣(とうしょう)」。

練習生は(下の写真)マストに登り、帽子を振って見送りの人たちに応えます。
これを「登檣礼(とうしょうれい)」といいます。

兄はのちに船を下り教員になって、海王丸誘致運動に携わりました。

市民を組織してこの「登檣」「操帆」を指導。
私も富山で見ましたが、ハラハラドキドキ。

兄は学生時代、
先輩がマストから落ちて命を落としたのを目の当たりにしていたので、
危険なことは十分すぎるほどわかっていました。

それでもやる価値があるという信念。
全責任を背負っての指導だから、かなり神経を使ったと思います。

一番テッペンまで登ります。
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本文に戻ります。

修一郎たち兄弟3人が会うのは7、8年ぶり。 
「長兄は40を少し出たばかり」とあるから、次兄は37、8のころになる。

弟たちと再会した長兄はまず、二郎に声を掛けた。
「君んとこ、みなたっしゃかい」

それから7年後、父母の慰霊祭をやることになり、東京組も大阪へやってきた。

修蔵はこの日の日記に、
「十三(大阪市)の二郎兄の家へ行き、共に豊中(長兄の家)へ行く。
河野(長兄のこと)にて父母三十、三十六年祭執行」とある。

このときのことが作品「起伏」に、長兄は泰作、二郎は啓造という名で出てくる。

「この日、長兄(泰作)は弟二人を並ばせ、大連で買ったカメラで撮った。

「啓造(二郎)、お前は頭がうすくなったな」

カメラをのぞきながら泰作が言った。

「いやこれでもカルシウム注射をしたらだいぶ黒くなった。うぶ毛が生えた」
と、啓造は子供のときのエベッタンを思い出させる独特な笑い顔をした。

それはどこかひょうきんでもあり、ちょっと悲しげでもある苦笑だった」

三日月形の足場を「とっぷ」といいます。
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船の話と本文がごっちゃになってしまいましたが、ご勘弁。

「起伏」には修蔵自身が見た啓造も書かれていた。

「啓造は頭の髪が薄いばかりではなく、歯も抜けていたので年寄り臭く見えた」

40を少し出たばかりの二郎が、歯が抜けて年寄り臭く見えたのは、
その前半生がいかに過酷だったかを物語っている。

「啓造(二郎)は、今は大阪の電気会社で無事に勤めている。
昨年肺尖(はいせん)を悪くして、12か月休養した。
カルシウム注射はその時のことである」=「起伏」

また修蔵は作品の中で次兄をこんなふうに書いている。

「(自分から見ても)啓造はお人好しで、そういう点では今の会社でも
人から愛されているらしかった」

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斎藤氏撮影

ほかの兄弟姉妹の中で一人だけ浮いたままの、そんな兄をいたわるように、
弟は胸の内をこう吐露している。

「どんな風なのが幸福というべきか、(自分には)よく判らなかったが、
啓造は啓造なりに彼の幸福が続くことを、
自分はわきからそっと支えてやりたいと思った」

しかしその思いは、田畑自身の急逝でわずか2年で断たれてしまいます。

二郎の人生航路は紆余曲折。まことに危なっかしい。

ですがこちらの若人たちの船は、すべて順調です。

いってらっしゃァーい! 元気でねェー!

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出帆したらあとは大海原ばかり。
早速始まります。椰子の実を使った甲板磨きです。

長い航海の間には、椰子の実でブローチを作ります。
兄はまだ恋人がいなかったので、帰国後、私がそれをいただきました。\(^o^)/

実は帆船を思い出させてくれたのは、
名古屋ライフを発信しているginさんのブログ「風の中行く」の、

「緊急事態解除…名古屋のつれづれ」です。

ちょっと覗いてみてください。

※「女中」表記/当時の言い方を使用。ご了解ください。

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田畑キク …⑪

田畑修一郎
11 /27 2021
養母が亡くなって、修一郎は旅館の主になった。

しかし、8か月後、養母の遺産すべてを売って、
何もしなくても10年は食っていかれるという金額を手に入れた。

その金を持って嫌いな故郷へは二度と帰らない決意で、一家で上京。

「家を建てておけば(金が)減る代わりに家だけは残る
という友人からの名案で、武蔵野の一画に家を建てた」

これを読んで私は思わず、「ハハハ」と笑った。

なぜならこの私も、
夫・武雄のハチャメチャな乱費に先行きの不安を覚えて、
全く同じ思いで家を建てたのだから。

当時、私の母は異郷にいる妊娠中の娘を気遣って、
「腹帯をしっかり巻いて」と手紙に書いてきた。

その同じ手紙に、娘を案じる悲鳴に似た言葉があった。

「新婚家庭に時を選ばず押し掛ける客とは、さぞ大変だろうに。
一晩で武雄君が一か月分の給料を使ってしまうとは…」

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田畑は自分の作品「蜥蜴(とかげ)の歌」で、
主人公・石岡の口を借りて新築した家をこう語っている。

「この家はけちな計算によって、ちまちまして…略…」
「これが石岡の気に食わなかった。ましてそこに釘付けにされ…略…」
「しばられることのない世界に惹かれて飛び出してきたのに」

と、散々グチをこぼしている。

これでは養母キクは浮かばれません。

行く当てのない9歳の子供を引き取り、名門の島根県立浜田中学に入れた。
寄宿舎へは男衆を付けて送り出した。

19歳で実母と同じ病気を発症したため、
神奈川県茅ケ崎市のサナトリウムで一年間療養させた。

なのに養子は学生の分際で結婚までして、その嫁も孫も押し付け、
小説家を夢見て、一人東京へ出ての文学三昧。

「文学仲間」 
後列右から5人目が田畑修一郎。丹羽文雄、火野葦平、宇野浩二の顔も。
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「田畑修一郎全集」第3巻 冬夏書房 昭和55年より。写真の年時場所不明。

時代は金融恐慌、ファシズムの台頭と世上は騒がしく、
第二次世界大戦へ突入という最悪の情勢。

地元にあっては、
周囲からは「妾」と蔑まれ、養子は「背任横領の子」と白い目で見られ、
その養子からは「百姓の出」「水商売」と嫌われる。

それでも養母キクはただ黙々と働き続けた。

修蔵は自らの冷酷な行いを作品に、半ば自虐的にこう暴露している。

「二十歳をいくらも過ぎぬ若さで女をこしらえた養子のために、
キクは寒い1月の最中、女の実家がある北国まで行って正式にもらい受け、
町へ連れて来て披露もしてやった」

「生まれた子供を養母を養母とも思わぬいつもの仕方で押し付けた」

その心理の奥に、「肉親一人とてない養母に贈り物をしてやった」という
身勝手な思い上がりさえひそんでいた。

そして、あくまでも第三者風な物言いで、こう突き放す。

「その子供がハシカに罹り、肺炎を併発したとき、
養母は心配のあまり呆けたようになった」

「それから間もなく養母は急性肺炎で寝付いた。
あれほど片時もはなさなかった幼子を、「伝染(うつ)るから」と寄せ付けず、
わずか一週間で死んだ」=「あの路この路」

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斎藤氏撮影

下のURLは芥川賞候補になった田畑の「鳥羽家の子供」を扱った記事です。

各選考委員の「選評の概要」が面白い。

佐藤春夫、滝井孝作が高得点なのに対して、
横光利一、室生犀星、菊池寛は無言。菊池寛が無言なのはよくわかる。

「候補作家の群像」

平成4年、田畑修一郎は益田市の名誉市民になった。

益田市立歴史民俗資料館には、
田畑の自筆原稿や初版本などの資料が収蔵されている。

破滅した家の孤児がおのれ一人では、こうはなれなかっただろう。

同じ島根県出身者に、
津和野町から出た明治の文豪・森鴎外がいた。
浜田市には劇作家の島村抱月もいる。

森鴎外の生家(石見国鹿足郡津和野町)
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新潮日本文学アルバム「森鴎外」新潮社 1996

田畑が「マイナー作家」と言われようとも、著名な鴎外や抱月や、思想家の西周、
同じ益田市出身の俳優で作家の徳川夢声などとともに、
その業績を故郷・島根で讃えられ、WIKに名前を連ねられたのは、

すべて、「紫明楼」の女将、田畑キクのおかげなのだ。

私は田畑作品よりなにより、この明治女の潔さと心意気に感動した。

だって、たぐいまれな経営手腕といい、人としての懐の深さと温かさといい、
世話になった河野の旦那様への恩返しの一途さといい、

あまりにも完璧ではないですか。


※参考文献/「田畑修一郎全集」全3巻 冬夏書房 昭和55年

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紫明楼 …⑩

田畑修一郎
11 /24 2021
田畑修一郎の創作活動は、
大正13年、早稲田第一高等学院在学中の21歳のころから始まった。

その年、2歳年上の木島マツ(松子)と結婚。

その時の心境を主人公・石岡に託して、「蜥蜴の歌」に書いている。

「早婚は幼時から肉親の愛に飢えていた石岡が、
自分の心を温めてくれる相手を性急に求めたせいである」

木島マツは新潟県西頚城郡根知村出身で、田畑と知り合った頃は、
島根県・益田実科高等女学校の家庭科の教師だった。

妻・マツの故郷のことは「赤松谷」に書かれている。

集落は山々に囲まれた谷間にあって、始終、地滑りに怯えて暮らしている、と。

作家・幸田文は、静岡市の日本三大崩れの一つ、大谷崩れを見て、
その凄惨さに、「気を呑まれて、自然の威に打たれ」、
以来、「崩れ」地帯を歩くようになったという。

大谷崩れです。歩いているのは私。平坦に見えますがすごい傾斜です。
涼しい顔で映っていますが、かなり前かがみで足を踏ん張っておりました。

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NHK雑誌「おかあさんの勉強室」のグラビア撮影

幸田文は、マツの故郷近くの、新潟県東頚城郡松之山町にも行っている。
ここでは昭和37,8年ごろ、町内全部を飲み込んだ地すべりが起きた。

その惨害を目の当たりに見て、
「被害を受けた方々への遠慮や差しさわりがあると思うと、書く気になれなかった」
と、その時の心情を綴っている。

さて、修一郎の妻になったマツは、そのまま養母宅で暮らします。

翌・大正14年、長男誕生。

翌・昭和元年、田畑は妻子を養母に預けて、早稲田大学へ入った。

無職の学生が結婚して子供を作り、
その妻子の生活から、自分の学費や東京での生活費まで
養母の世話になっているのです。

それなのに田畑は、養母キクへの侮蔑や反発を随所に書いている。

そのことについて、松子は「田畑修一郎全集」第3巻で、こう書き残している。

「養母について小説ではあんなに辛らつに書いていますが、
私は、あれほどよくできた母はいないと思っています。

一度として私は叱られたことはありませんし、田畑への気の配り様は、
それは並大抵ではありませんでした」

昭和2年ごろの一家です。
後列 修一郎、養母キク、前列 松子、長女、長男。

長男(前列)のはだしの足の指、緊張したのでしょうか。反っています。
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「田畑修一郎全集」第1巻 冬夏書房 昭和55年より

23歳のとき、同人雑誌「街」を創刊。

同人には火野葦平、丹羽文雄、坪田勝などがいた。
この年、長女「光草子(ゆりこ)」誕生。命名は火野葦平だったという。

私はこの名前を見て、アッと思った。

結婚式の新郎側のただ一人の招待客が、確かこの名前だった。

その後、義姉が毎年、年賀状の宛名書きに行くという
「伯母の家」へ連れていかれた。

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斎藤氏撮影

そのとき、母屋からチラッと出てきた人がその招待客に似ていたが、
田畑作品の内容など知らない時分だったから気にも留めずにいた。

義姉が「〇〇電気の会長の奥さま」と言った伯母さんは、
母屋の向かい側の簡素な隠居所にいた。

あの大企業の〇〇電気の会長宅にしては質素で、
これも義姉の「夢物語」かと思ったが、

しかし、あそこが「光草子(ゆりこ)さん宅」だったとしたら、
あの「伯母さん」は修一郎の妻の松子さんになるが、
今となっては確かめようもない。

あのとき、義姉が「伯母さまの肌、きれいでしょう?」と言ったら、
「伯母さま」が、「私は化粧品使わないの。自分の唾液が化粧水なの」

そう言って指に唾液を付けると、頬をピシャッと叩いたので、
一気に座がなごんだ。

養母のキクは家族写真を撮影した翌・昭和3年、61歳でこの世を去った。

下の写真は、キクが経営していた旅館「紫明楼」です。これは絵葉書。

時の政治家・田中義一や総理大臣の若槻礼次郎、作家の島崎藤村など、
各界の著名人が泊った有名な旅館だったという。

田畑紫明楼
島根県益田市教育委員会提供


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ぬるぬるする手 …⑨

田畑修一郎
11 /21 2021
男兄弟3人を描いた「三人」は、原稿用紙4枚半という超短編で、
大半は不運な次兄の過去を語っていた。

この中に、「樺太(からふと)」が出てくる。

義姉が「新聞記者のおとうちゃまが取材で訪れ」、
「一緒に駆け落ちしたおかあちゃまが住んでいた」と話した場所だ。

この「樺太」については、私の読み落としがなければ、
3巻の全集中、記述はここ一か所ということになる。

「勢三の養父は鉱山師だったが、生涯中、方々の山を歩き、
窮乏の中にエベッタン(次兄・勢三)は樺太へ行き…」とある。

それは「彼自身が樺太で木材の商売に失敗していたころだった」
と、末弟の修一郎は書いているが、「木材の商売」とは初耳で驚いた。

この「木材の商売」が事実かはわからない。
ただ、義姉が言った「新聞記者」とはどこにも書いてなかった。

極貧の中、さらに不運が次兄の身に起きる。

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「養母は故郷の山国で死に、
養父自身も、あたかも傷ついた獣が身を隠すように何年か所在不明の末、
九州の竹藪の多い村で鉄道自殺を遂げた」

短編「三人」は、養父の死に場所を九州と書いているが、
「黒白」では、茨城県としている。

「魚島鉱業の事務所から勢三(次兄)を呼びに来た。
鉱山仲間の一人が来ていて、養父はその仲間からも姿を隠してしまったが、
ひと月前の茨城の地方版に轢死人の記事が出ていて、彼ではないかと」

勢三は鉱業所宛てにだいぶ前に養父から届いたハガキを頼りに、
茨城へ出かけた。

村役場で尋ねると、身元不明の轢死体を埋葬した場所へ案内された。

そこは竹藪が生い茂る一帯で、その裏手に無縁墓地があった。

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すでにあたりには夕闇が迫っていた。

「掘り出した棺桶の外側こそまだ新しかったが、
蓋を取ると強烈な異臭が立ち上り、中に黒々とした形のないものが見えた」

「エベッタンでない半泣きの顔で、腐食しかかったぬるぬるする手や足を探り、
金歯の具合で養父であることを確かめた。

翌日、焼き直した遺骨を抱えた勢三は、
誰にも見送られることもなくその小駅をたった」

義姉が言った「おとうちゃまの養父も自殺」の実態はこうであった。

小説だから信じるのは危険ということはあっても、
尋常では書けない凄惨さがあり、

不運続きの次兄へ寄り添う肉親ならではの作者のいたわりが、
行間に滲み出ていた。

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私が結婚して2年目の、長男が1歳の誕生日を迎えたころ、
突然、夫が「今度、家族で墓参りに行く」と言い出した。

追いかけるように義姉から電話がきた。

「とうさんの遺骨はずっとお寺さんに預かってもらっていたんだけど、
今度、島根のお墓へ納めようと思ってね。それで家族4人で行くことにしたの」

「家族4人って?」と、夫の武雄に聞くと、

「オレとお袋と姉貴と兄貴。お前らは連れて行けないってサ」

と、いつになく嬉しそうに笑った。


※写真はすべて斎藤氏撮影


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虚構と現実 …⑧

田畑修一郎
11 /18 2021
夫・武雄の実家の「常ならざる雰囲気」に戸惑いつつも、
私はともかくも新婚生活をスタートさせた。

下は、会社の上司が故郷・能登の窯元へ特注してくれた結婚式の引き出物。

「若い二人だし。かさばらなくて価値のあるものがいいと思ってね。
これなら熱燗の器にも、一輪挿しにもなるから」と。

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武雄は「エベッタン笑い」をする一家の中で、一人だけ笑わない人だった。

「オレはあの家が嫌いで。とにかく出たくて出たくてしょうがなかったんだ」

今考えると、私は単に家を出たい足がかりだったのか、と。

でも当時の私は、単純に家族とは違う「まともな感覚」と安心しきっていた。
だが、一抹の不安もあった。

それはまだ結婚前のことだった。

友人から聞いたというアパートを見に行くことになったのだが、
そこは横浜からかなり遠い私鉄沿線の田舎の小駅で、
降り立つと駅前には何もなく、遠くに農家がポツンポツンと見えた。

武雄は駅前に立ったまま、いつまでも動かない。

「どの辺? アパートの名前は?」と聞いた途端、私の顔に鉄拳が飛んだ。
道路工事のお兄さんたちがアッと声を挙げた。

夫は怒りに満面ふくらませた顔で、私を睨みつけると、
「オレをばかにしやがって」と吐き捨てて、ホームへ駈け込んでいった。

ずいぶんあとになって、夫が言った。
「駅を下りたら目の前にアパートがあると思ってたんだ」

これは切り刻んで捨てようと思った写真。
いろんな求婚があったのになあと、今は笑いながら過ぎた日々を懐かしむ。

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新婚早々、私はすぐ窮地に追い込まれた。

夫は「金も愛情も与えられるもの」という考えしかなく、
「オレが稼いだ金をオレが使って何が悪い! 
なぜ、お前に渡さなきゃならないんだ」と怒鳴りまくる。

食べ物を買うお金がない。
私は自分の失業保険で家計をやりくりするしかなかった。

彼は「エベッタン」の3人を嫌っていたが、彼自身が人前では笑わないだけの、
よりタチの悪いエベッタンだと気づいたのは、一緒に暮らし始めてからだった。

「純粋な好青年」と思わせたものは、その幼児性だった。
そう気づいたときは、時すでに遅かった。

私のお腹には新しい命が宿っていた。

「オレをばかにしやがって」は、結婚生活中、時も所もお構いなく聞かされた。
別れた後もなお、彼は元・妻を自分のブログ上で罵倒し続けた。
  
夫は誰にも温厚な性格で「いいとこのぼっちゃん」と言われた。
実家の母も最初は手紙にこう書いてきた。

「やわらかなムード、誰かに似ていると思ったら羽仁進でした」
 ※羽仁進/映画監督。この人の家庭もドロドロだったけど。

しかし母の同じ手紙に、「気になったこと」も書かれていた。
この母の勘は、のちに現実のものになったのだが。

「柔らかいムードの羽仁進に似た人」

それは、「うじ虫が這い上るぼっとん便所」の家であっても、
義姉の「おとうちゃま。おかあちゃま」「広大なお屋敷」の創作の中で、
育まれていったからだろうと、私は思った。

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斎藤氏撮影

田畑作品を読む限り、彼らの父・二郎は常に軌道からはずれた人だった。

末弟の修蔵は、長兄を「筋肉の逞しい船乗り」として誇らしく思っていたが、
次兄は、「エベッタン」の顔を残してはいたものの、
子供だった修蔵の目にも危なっかしい存在として映っていた。

田畑は短編「三人」にこう書いている。

「次兄は酒をこっそり飲むようになって、卒業間際の中学を落第し、
放校同様な目にあって、親戚の家へ帰ったときにも叱られても、
彼は昔のままの笑顔でいた」

「養家先を逃げ出して、大阪の中の島公園のベンチで寝ているところを捕って、
連れ戻されるときもやはりその笑い顔であった」

いよいよ行くところがなくなった次兄は、末弟の養家先へ預けられた。
田畑キクはこのやっかい者も引き受けたことになる。

彼は家出した時、
金がなくて腹が減って困ったことを小学生の弟に聞かせた。

それを聞いた弟はそっと立って、
隣室の引き出しから1円札を盗んで兄に渡した。

「兄は少しクシャミが出そうな顔をして、その金を懐にしまいこんだ」

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斎藤氏撮影

そんなある日、「エベッタン」が泣いた顔をして二階から降りてきて、
乱暴な足つきでそのまま出て行った。

弟はその気配に、何かあったに違いないと思い、
急いで2階へ戻り兄の机の引き出しを開けると、
中に長兄からの手紙があった。

「おん身の心底は不憫に思えど、我ら兄弟はかかる時に泣くべきにあらず候。
この兄のことを少しは考えてみてくれよ。

兄も辛きことは山ほどあれど、訴うるところもなく、泣くこともできぬ。
おん身このたびのふるまいは何ごとぞや」

ぎゅんと胸をしめつけられた弟は、急いで下駄をつっかけて、
家の者に見つからないように裏口へ出た。

しかし、
「次兄の姿は、河原の上にも、土堤の上にも見あたらなかった」

初めて夫の家族に会った日から半世紀余りたった今、私は思う。

夫や義姉たちはこの短編を読まなかったのだろうか。
小説とはいえ、真実に近い自分たちの父親のこの現実を…。


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宿命 …⑦

田畑修一郎
11 /15 2021
二郎が鉱山師の養父Sとヤマで働いた話は、「黒白」に描かれている。

山中のヤマで、重い坑木を担ぎながら勢三(二郎)は、
この「文字とは遠い世界」からの逃避を考え、
ひそかに「専検」の準備を整えていた。

そして2年過ごしたヤマを下りて、逃げるようにSの故郷の町へ戻った。

「町へ帰って間もなく、勢三は資格試験に通った」

初めは「学門なんかいるもんか」と言っていた養父だったが、
「鉱山学校へ入れ」と言い出した。

「勢三はその学校を望まなかったが、
文字が読めるということだけでも満足しなければならない」と考え、入った。

「しかし間もなく養父からの仕送りが途絶え、
そのうち、居場所さえわからなくなってしまった」という。

元・津和野藩士の家に生まれ、父は銀行の支配人で地元の名士。
どこまでも希望に満ちた暮らしが約束されていた一家だった。

それが父の不祥事と死であっという間に崩壊。一家離散となった。

そのときの生家・河野家を思わせるような
オディロン・ルドンの「仮面が弔いの鐘を鳴らす」 

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雑誌「ユリイカ」1974年2月号掲載 「エドガー・ポー」より

上3人は女ばかりで、一番豊かだった時代に育ち、家の消滅前に嫁いでいたが、
下3人の男兄弟は父母の死と破産という悲劇をもろに受けた。

しかし、長男の一郎には「家名存続のための資金が残され」、
生まれ落ちた瞬間から肺病の母親から引き離された末弟の修蔵は、

「不憫な子」と周囲から同情され、手厚い見守りが始終施されたが、
真ん中の二郎は、そのはざまでほとんど置き去りにされていた。

母が病床に伏したとき、二郎はまだ5才。

兄さんや赤ん坊より、ずっと目に見える愛情と保護が必要だったはずなのに、
作品からは、それがなされた形跡は見当たらない。

注目を引こうとすれば、「いたずらが過ぎる」と叱られる。

だから始終、えへらえへら笑っているしかなかったのだろう。

「微笑みは最大の防御」ということを本能的に感じ取り、
「エベッタン」になり切ることをわずか5歳の幼児が編み出した。

「二郎はなにがあっても、えへらえへら笑っていた」
という田畑作品の二郎像は哀れで痛ましい。

二郎はそうして笑うことだけが自分を落ち着かせ、居場所を確保できるのを、
知らず知らずのうちに会得したのだと私は思うのです。

そして、「えへらえへら」は、いつしか木彫りの恵比寿さんのように、
二郎の顔に刻み付き、そのまま固定した笑顔になった。

親の育児放棄で仲間に入れず、一人遊びをするチンパンジーの子供。
5歳の二郎と重なって見える。

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静岡市・日本平動物園

小説「黒白」に、
「飼い犬よりほかには愛情を持ったことがない」鉱山師Sが、
以前から跡継ぎに勢三を欲しがっていたことが書かれている。

「その男を普段からあまりよく言わなかった両親が、
今となっては持て余し気味の勢三をSに託す気になり、
14歳という多感な少年のとき、身一つでSに引き渡した」

それから鉱山という異質の世界に放り込まれ、
二郎のその後は、さらに厳しいものになっていった。

小説という虚構の主人公に、修一郎は次兄の二郎を投影した。

自分と同じように養子に出され、自分以上の過酷な運命に翻弄された
「エベッタン」をいたわるかのように。


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飼い犬よりほかには …⑥

田畑修一郎
11 /12 2021
次兄の二郎らしき人物は、主に4作品と日記に登場する。

代表作で芥川賞候補になった「鳥羽家の子供」には、
「鉱山師だという新しい養父に連れられて、
南のK市へ連れていかれた」二郎が描かれている。

そのとき、二郎は中学生で14歳だった。

小説「黒白」では、養父を思わせる鉱山師が出てくる。

「60を半ば過ぎているというのに、小柄ながらでっぷり肥って、
赭ら顔に精悍な小さな眼の光る、50位にしか見えない男だった」

この男には子供はなかった。

「生涯を鉱脈探しに山奥ばかりをうろついて、未だかって飼い犬より他には
愛情を持ったことのない男で、故郷の山奥には老妻が捨てられていた」

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斎藤氏撮影

鉱山師の名字は修蔵兄弟の母親の生家と同じSで、
河野家の遠縁という記述があったから、全くの他人ではなかったようだ。

この小説の二郎は「勢三」という名で登場する。

「勢三は養父に連れられて、南九州の山の中で2年間過ごした。
養父が住まいにしていた小屋には、
天草生まれの眉の太い女が一緒に住んでいた」

「男は方々に採掘権を持っていたが資力がない。
いつかは大鉱山の持ち主になるつもりだったが、
資力がなければできぬことなのだ」

翌日から勢三はゴムの雨合羽を着せられて、坑内へ連れていかれた。

そこで養父は工夫が掘り出した鉄鉱石を見せて、
「ここには一千万円の鉱脈があるだろう」と言った。

今度は養父と一緒に、太い松の坑木を担いで坂道を登った。
各地のヤマに連れていかれ、北九州では大炭坑主にも会わせられた。

「彼は、養父の一攫千金の夢もその銅臭にもかかわらず、
子供染みた病気のようなものであることにうすうす気づいていた」

やがて勢三はヤマを逃げ出し、養父の故郷の町へ戻った。

日本三大鉱山の一つ、「別子銅山歓喜抗の入り口」
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愛媛県新居浜市角野新田町 「鉱山の歴史」小葉田淳 至文堂 昭和41年

この話を読んだ時、義姉が、
「新聞記者のおとうちゃまは、九州から樺太(からふと)まで取材に歩いた」
と言ったのを思い出した。

あれは、
鉱山師の養父と歩いた土地のことを、すり替えて話したのではないだろうか。

義姉はとめどなく、「秘話」を話した。

「おかあちゃまとの出会いは樺太だったんですって」

「おかあちゃまは娘時代、お琴の勉強に東京へ出てきたんですって。
凄いでしょう。明治の時代に娘を東京へ出すなんて」

本当だろうかという疑いが湧いた。

だって当時の北海道は開拓民の地で、
娘を琴の勉強に東京へ遊学させる富裕層は、そう多くはなかったはずだし。

それにこの家には琴はなく、そんな話は義母からは全く出なかった。

義母の故郷はそのときどきで、樺太になったり北海道に変わったりした。

そしてもう一つ変わってきたことは、義姉の両親の呼び名だった。

私の結婚からそう時を経ず、
「おとうちゃま」が「とうさん」に、「おかあちゃま」も「かあさん」に変わった。

「かあさん」と呼ぶその声は、無理のないのびやかなもので、
それを聞いて、私はようやくこの状況に溶け込める気持ちになったのだが。

しかし、義姉の「ドキッとする話」は相変わらず続いた。

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斎藤氏撮影 =遠くに影絵のような富士山が見えています=

「かあさんはね、人妻だったのよ。子供が二人いたんだけど、
それも捨てて、樺太からとうさんと駆け落ちしたんですって」

かたわらに座っていた義母は、苦笑いしつつも否定はしなかった。

この話ばかりは真実のように思えた。

私の祖母、つまり父の実母もまた既婚者だったのに祖父の手がついて、
本妻の死後、二人の子を捨てて祖父の元へ入った人だったから。

しかし、田畑の作品には、そんな話は一切出てこない。

男兄弟の邂逅を描いた短編「三人」の中で、
「三人はそれぞれ夫になり、父親になった」という記述があるきりだ。

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不思議に思ったのは、
小説や日記には長兄や3人の姉の子供たちとの交流が頻繁に出てくるのに、
二郎の妻や子供たちは皆無だったことだ。

一家が離散してから30年後に6人の兄弟姉妹が大阪へ集合した話が、
「起伏」という作品に書かれている。

その中に、次兄を誘うため修蔵が二郎の家に立ち寄り、
昼飯ができる間、二人で碁を打つ場面が出てくる。

「碁の勝負がつかないうちに支度ができた」

とあることから、
そこに、昼ご飯の支度をした二郎の妻の存在が確かにあった。

そしてその場には、10代後半になっていたはずの義姉や、
一つ年下の義兄、赤ん坊の武雄もいたはずなのだ。


 ーーーちょっと脱線

このところ、元・皇女の話題もちきりで、私もミーハーなのでついつい…。
夕べ、お金の返済があったとか。

で、映像を見たら、「借りた方」はアゴ挙げて、「貸した方」はうつ向いて。
それ見て思ったんです。昔の人はうまいこと言ったなァって。

「借りるときのえびす顔、返すときの閻魔顔」

これまた、余計なおせっかいで(#^.^#)


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エベッタン …⑤

田畑修一郎
11 /09 2021
「田畑修一郎全集」は全部で3巻。

長編といえるものは、あまり多くはない。

次姉の夫を題材にした「醫師高間房一氏」「郷愁」
急死する前年、10数年ぶりに訪れた故郷の旅行記「出雲・石見」

子供たちが通った明星学園にヒントを得た童話「さかだち学校」くらいで、
あとはほとんど短編。

原稿用紙10枚にも満たないものも収録されていた。

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田畑が検印について触れたものが残っている。

そのころ滞在していた長野・上高知温泉ホテルから、
東京の妻・松子にあてた手紙に、こう書かれている。

「墨水書房の検印は黒水牛の四角な判で無題 (3)といふのだ。
判は本棚の小さい名刺箱の中に入れてあるが、床の間の竹籠や硯箱の
一番下になっている白木の箱に入っているはずだ。
墨水へは速達で送ってくれ」

それがこちら。「蜥蜴(とかげ)の歌」の検印。
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「醫師高間房一氏」の検印。
img20211016_20144727 (3)

創作という形であっても、兄や姉を思わせる人物がよく出てくる。

早くから島根を出て東京の荻窪に居を構えた長姉一家は、
末弟の修蔵が上京するときの足掛かりになっていたし、

肺を病んだ母の代わりに修蔵を育てた次姉ノブのことは、
ことさら多く書き綴っていた。

修蔵を育て始めた時のノブは、まだ16歳。

3年後に母が死んで、父は周囲の猛反対を押し切って、
妾だった料理屋の女将、田畑キクを家に入れたが、
ノブはこのキクを認めず、修蔵には指一本触れさせなかった。

ノブは末弟を母代わりに育てた。義姉もまた末弟の武雄を育てた。

同じように母親代わりという体験を経た二人だったが、
その後進んでいった道は大きく違った。

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斎藤氏撮影

修蔵が7歳になったとき、ノブは医師と結婚。

あれほど嫌っていたキクに修蔵を委ねて、自らの道へ進んだが、
義姉は終生、弟たちの庇護者で居続けた。

一見、弟たちを捨てたように見えたノブだったが、
それは、外の風を吹き込むことで弟たちに自立を促す効果を生んだ。

だが義姉は弟たちを守るあまりとどまり続け、家の空気は停滞した。

それは気高い自己犠牲に見えるが、自己陶酔ともいえたのではないだろうか。
一家はその共依存の安らぎから離れられず、未来が先細っていったのだから。

そんな中に突如入り込んだのが、私という他人だった。

妾の田畑キクは、「百姓の出」「水商売の女」と蔑まれながらも、
弥吉の生前は自ら河野家の女中に徹し、
弥吉死後は料理屋を旅館に変えて経済力を確保して、遺児を引き取った。

キクは「河野家」の名を継いだ長男の一郎をも、
中学卒業までの約束で修蔵と共に引き取ったという。

「あっぱれ」というほかはない。

義姉は河野家の長男・一郎のことも私に語っていた。

「一郎おじちゃまは外国航路の一等航海士だったの」

修一郎も作品の中で、
「一郎兄は船乗り」とたびたび書いているから、これは本当だろう。
ただ「一等航海士」ではなく、「商船会社の機関長」とあった。

その一郎の家は豊中に、次姉一家の家は兵庫県・花屋敷にあった。

二郎一家も大阪にいたのなら、この人たちとは会っていたはずなのに、
義姉は伯母ノブのことは何も話さず、一郎は船乗りとだけ語った。

長男の一郎は岩手で急逝した末弟の元へ駆けつけ、現地で仮葬儀を済ませ、
東京での本葬にも付き添ったが、そこに二郎の姿はない。

田畑修一郎の仮葬儀が行われた盛岡の名刹・報恩寺。
報恩寺
岩手県盛岡市名須川町

一郎と修一郎の関係の深さは、作品にもよく表れていて、
頼りがいのある兄として、ひんぱんに登場している。

しかし、「二郎兄」の記述はあまりない。

その数少ない「二郎」の登場は、どれも変わり映えがしない。

養父のSは鉱山師であったこと。
「二郎」のあだ名は「エベッタン」(えびすさん)だったこと。

修一郎は書く。

「二郎は子供の時から、何があっても、えへらえへら笑っていた」
「大人になってもエベッタンは変わらなかった」

「エベッタン」と知って、とっさに浮かんだのが、あの3人だった。

あの3人、義母、義姉、義兄の笑顔はまぎれもなく「エベッタン」だった。

木彫りの恵比寿さんの固定した笑顔のように、彼らの笑みも動かなかった。

それが私には不思議であり、不気味でもあった。

その中に、ただ一人、笑わない人がいた。

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斎藤氏撮影

それは夫の武雄で、
そうした3人とは距離を置くように、彼だけは、
笑わず、会話に入らず、同調もせず、無表情でいた。


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広大なお屋敷 …④

田畑修一郎
11 /06 2021
それにしても義姉は、初対面の弟の嫁に、
「自殺」という強烈な事実をなぜ、話すのだろう。

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それは普通に考えれば一族の恥部で、秘すべきものではないのか。

もしかしたら、
今まで一人で抱え、その苦悩を持ちこたえられなくなって、
誰かに話して楽になりたい、そんな気持ちになったのか。

そうなら、
半分身内で半分他人の私が、格好の相手に思えたのだろう。

田舎から来た、世間知らずの小娘が相手なら御しやすいし、
同情もするだろうとの計算も働いたのかもしれない。

義姉は夫の武雄よりはるかに年長で、
自分では「武ちゃんとは一回りほど離れている」と言ったけれど、
私の目にはすでに40を超えているように映った。

末弟の武雄との年齢に大きな開きがあるのは、
「あいだに子供が二人いたんだけど、流行り病で亡くなったので」
と、義姉は補足した。

夫の家族の歴史には自殺とか背任横領などという、
私には無縁の世界があった。そして夫は、まぎれもなくここの一員だった。

しかし当時の私には、
この結婚をやめるとか引き返すなどという選択肢は微塵もなかった。

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この家には義姉のほかに、すでに頭髪の薄くなった一つ年下だという義兄と、
かなり老いた小柄な母親がいた。

義姉はその母親を見ながら、
「武ちゃんはおかあちゃまが高齢出産で、体も弱かったので私が育てたのよ。
だからこの子のことは体の隅々まで知ってるの」

そう言って、満足げに笑った。

だが、その言葉の中に、
「だから武ちゃんのことは、あなたよりずっと知ってるのよ」
という一種、優越感のようなものが見えて、私は名状しがたい不安を覚えた。

この3人は始終ニコニコ笑っていた。奇妙にもまったく同じ笑顔だった。

その義姉が、深刻な話のあと、
あの「おじちゃまのご本」を手渡したときの、誇らしげな態度に戻ってこう言った。

「私たちはね、ここへ来る前は武蔵野の広大なお屋敷に住んでいたの。
でもおとうちゃまが病気になって、それでお屋敷を売ってね。
それで、やむなくこの借家に越してきたのよ」

それから、「二郎さん」の遺影を見上げながら、
「おとうちゃまは新聞記者だったの。朝日の…」と言い足した。

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しかし、それから半世紀近くたって、初めて読んだ田畑作品には、
武蔵野に居を構えていたのは、田畑修一郎と長姉の一家で、
「二郎兄」の一家は、大阪にいたという話しかでてこない。

「新聞記者だった」話も、どの作品にもなかった。

当時の私は、「武蔵野の広大なお屋敷」の話も、「新聞記者だった」話も、
まったく疑わなかった。

だが、今、偶然手にした田畑作品から、
義姉の話とは違う「二郎さん」を見せられて心がざわつき、
次々と疑問が湧いてきた。

もしかしたらあれは、義姉の「夢物語」ではなかったのか、と。

当時、私が訪ねたS家は、
都会の中にそこだけ時代に置き去りにされたような1区画で、
家屋と言えば、戦後の文化住宅を思わせる粗末な家だった。

玄関のガラス戸を開けると上り口を兼ねた板敷があって、
そのわずかな廊下の左右に6畳と4畳半の茶の間と納戸があった。

茶の間の入り口に、人ひとりがやっと立てるだけの簡易台所があって、
足を踏み入れると床が軋んだ音を立てた。

風呂はなかった。そのことだけを義姉はなぜか恥ずかしがった。

後年、庭に、
その庭は全く同じ造りの隣家への通路になっていたのだが、

そこに移動式の簡易シャワーボックスを備え付けたのは、
そのことの表れだったに違いない。

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玄関の真正面はトイレになっていた。

トイレの戸は木の引き戸で、
開けるとどこも湿っぽく、汚物の臭いが鼻をついた。

当時、都会ではもう珍しいぼっとん便所だった。

かたわらに大きな殺虫剤の容器が置かれていた。
それを見て一瞬たじろいだとき、背後から義母が声を掛けてきた。

「うじ虫が這い上ってくるんでね」

振り向くとそこには、
作り笑いでも照れ笑いでもない、ごく自然の、
まるでそういう顔に生まれついてでもいるかのような柔らかい笑顔があった。


※写真はすべて斎藤氏撮影。


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名家の消滅 …③

田畑修一郎
11 /03 2021
田畑修一郎

本名 修蔵。養子以前の姓は「河野」
田畑は著作の中で何度も書いている。「自分は河野の人間なんだ」と。

実父は河野弥吉といった。

弥吉も妻も共に津和野藩士の子。
21歳と16歳で結婚して、6人の子供をもうけた。

その末に生まれたのが修一郎で、このとき父48歳、母43歳。
一番上の姉は23歳で、すでに他家へ嫁いでいた。

「田畑修一郎年譜」で、
「一郎」「二郎」「修蔵」と男兄弟の名前を見たとき、
かつて義姉が「おとうちゃまはジロウ」と言っていたのを思い出し、

改めて全集の口絵にあった写真を見て、
ああ、似ている、確かに兄弟だったんだと得心がいった。

昭和13年、36歳のときの田畑修一郎。色白で長身だったという。
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「田畑修一郎全集 第二巻」冬夏書房 昭和55年

そのころ「おとうちゃま」はすでに遺影となって、義姉の家の茶の間にいた。

目や頬のたるみ具合から、弟より長生きしたことがうかがわれたが、
没年齢は教えてくれなかった。

田畑の小説の中に「5歳上の二郎兄」とあったから、そうなんだろうと思った。

元・津和野藩士で地元の名士。子宝にも恵まれて行く末は万々歳。

しかし、誰もが順風満帆と思っていた資産家の河野家が、
母親の死を皮切りに、あっという間に崩壊。一家は離散してしまいます。

母は46歳で死去。この時、修蔵3歳、二郎8歳。

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斎藤氏撮影

悪いことは続くもので、

浜田銀行益田支店の支店長だった父・弥吉が、
信用貸しで銀行に損害を与えてしまい、私財を全部提供したものの、
世話をした顧客から背任横領罪で訴えられて、自ら命を絶った。

9歳だった修蔵は、後妻の田畑家へ養子に出され、
14歳の二郎は、
「Sという新しい養父に連れられて、南の方のK市へ行った」

その「二郎さん」が、遺影の中で穏やかに笑う茶の間で、
義姉がゆっくり口を開いてこう言った。

「おとうちゃまは2度もつらい思いを…」

そこでちょっと声を落とし、いくぶんためらいつつ話を続けた。

「もらわれていった先の養父もね、自殺しちゃったのよ」


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雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞