カルシウム注射 …⑫
田畑修一郎
父親の死で一家離散となった河野家の6人の子供のうち、
家名存続の重責を担わされた長兄の一郎。
その奮闘ぶりは田畑作品の随所に見られる。
年の離れた姉3人の家族と常に連絡を取り、
乗っている船が芝浦港へ入るたびに、末弟の修蔵を訪れた。
修蔵を育てた次姉ノブは医者と結婚して3人の子持ちとなり、
一家は早く島根を出て大阪に居を構えた。
その新天地で、
長編「醫師高間房一氏」のモデルだった夫は、着々と地盤を築いていた。
「本業も相当盛んだったが、
それ以上に町会だの医師会だのの方面で腕をふるい、
世間人としては押しも押されぬ方になった」=「起伏」
東京在住の長姉と三女の姉もまた、女中を雇うほど裕福になった。
その中でただ一人、落ちこぼれていたのが二郎で、
長兄は自分とたった3才しか違わないこの弟をいつも気にかけていた。
落ちこぼれの二郎がこの捨て猫と重なって見えた。

短編「三人」に、二郎、修蔵とおぼしき兄弟が、
横浜港に入港した兄に会いに行く場面がある。
※当時の状況から、この港はたぶん「神戸港」だろう。
港や船が出てきましたし、気が滅入る話ばかりなので、
ここでちょっと気分転換に船の写真などどうぞ。
海の貴婦人「海王丸」です。
富山県の富山新港に恒久係留されています。
まずは美しい姿と地元の方々の取り組みをご覧ください。
「海王丸パーク」
こちらは50余年前の絵葉書の海王丸です。以下、すべて初代海王丸です。

まだ「東京商船大学」があったころの時代。
学生たちは隅田川河口の竹芝桟橋から遠洋航海に出ました。
修一郎の兄の商用船は「芝浦港」に入港しましたが、練習船は「竹芝桟橋」。
この日は学生たちが練習船で初めて遠洋航海に出る晴れやかな日です。
私も兄を見送りに行きました。
兄です。若い! 今はすっかりおじいちゃんですが。
変色した写真が歳月を物語っています。

見送りの人がたくさん来ています。

帆を開くことを「総帆展帆(そうはんてんぱん)」といいます。
マストに上ることを「登檣(とうしょう)」。
練習生は(下の写真)マストに登り、帽子を振って見送りの人たちに応えます。
これを「登檣礼(とうしょうれい)」といいます。
兄はのちに船を下り教員になって、海王丸誘致運動に携わりました。
市民を組織してこの「登檣」「操帆」を指導。
私も富山で見ましたが、ハラハラドキドキ。
兄は学生時代、
先輩がマストから落ちて命を落としたのを目の当たりにしていたので、
危険なことは十分すぎるほどわかっていました。
それでもやる価値があるという信念。
全責任を背負っての指導だから、かなり神経を使ったと思います。
一番テッペンまで登ります。

本文に戻ります。
修一郎たち兄弟3人が会うのは7、8年ぶり。
「長兄は40を少し出たばかり」とあるから、次兄は37、8のころになる。
弟たちと再会した長兄はまず、二郎に声を掛けた。
「君んとこ、みなたっしゃかい」
それから7年後、父母の慰霊祭をやることになり、東京組も大阪へやってきた。
修蔵はこの日の日記に、
「十三(大阪市)の二郎兄の家へ行き、共に豊中(長兄の家)へ行く。
河野(長兄のこと)にて父母三十、三十六年祭執行」とある。
このときのことが作品「起伏」に、長兄は泰作、二郎は啓造という名で出てくる。
「この日、長兄(泰作)は弟二人を並ばせ、大連で買ったカメラで撮った。
「啓造(二郎)、お前は頭がうすくなったな」
カメラをのぞきながら泰作が言った。
「いやこれでもカルシウム注射をしたらだいぶ黒くなった。うぶ毛が生えた」
と、啓造は子供のときのエベッタンを思い出させる独特な笑い顔をした。
それはどこかひょうきんでもあり、ちょっと悲しげでもある苦笑だった」
三日月形の足場を「とっぷ」といいます。

船の話と本文がごっちゃになってしまいましたが、ご勘弁。
「起伏」には修蔵自身が見た啓造も書かれていた。
「啓造は頭の髪が薄いばかりではなく、歯も抜けていたので年寄り臭く見えた」
40を少し出たばかりの二郎が、歯が抜けて年寄り臭く見えたのは、
その前半生がいかに過酷だったかを物語っている。
「啓造(二郎)は、今は大阪の電気会社で無事に勤めている。
昨年肺尖(はいせん)を悪くして、12か月休養した。
カルシウム注射はその時のことである」=「起伏」
また修蔵は作品の中で次兄をこんなふうに書いている。
「(自分から見ても)啓造はお人好しで、そういう点では今の会社でも
人から愛されているらしかった」

斎藤氏撮影
ほかの兄弟姉妹の中で一人だけ浮いたままの、そんな兄をいたわるように、
弟は胸の内をこう吐露している。
「どんな風なのが幸福というべきか、(自分には)よく判らなかったが、
啓造は啓造なりに彼の幸福が続くことを、
自分はわきからそっと支えてやりたいと思った」
しかしその思いは、田畑自身の急逝でわずか2年で断たれてしまいます。
二郎の人生航路は紆余曲折。まことに危なっかしい。
ですがこちらの若人たちの船は、すべて順調です。
いってらっしゃァーい! 元気でねェー!

出帆したらあとは大海原ばかり。
早速始まります。椰子の実を使った甲板磨きです。
長い航海の間には、椰子の実でブローチを作ります。
兄はまだ恋人がいなかったので、帰国後、私がそれをいただきました。\(^o^)/
実は帆船を思い出させてくれたのは、
名古屋ライフを発信しているginさんのブログ「風の中行く」の、
「緊急事態解除…名古屋のつれづれ」です。
ちょっと覗いてみてください。
※「女中」表記/当時の言い方を使用。ご了解ください。

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家名存続の重責を担わされた長兄の一郎。
その奮闘ぶりは田畑作品の随所に見られる。
年の離れた姉3人の家族と常に連絡を取り、
乗っている船が芝浦港へ入るたびに、末弟の修蔵を訪れた。
修蔵を育てた次姉ノブは医者と結婚して3人の子持ちとなり、
一家は早く島根を出て大阪に居を構えた。
その新天地で、
長編「醫師高間房一氏」のモデルだった夫は、着々と地盤を築いていた。
「本業も相当盛んだったが、
それ以上に町会だの医師会だのの方面で腕をふるい、
世間人としては押しも押されぬ方になった」=「起伏」
東京在住の長姉と三女の姉もまた、女中を雇うほど裕福になった。
その中でただ一人、落ちこぼれていたのが二郎で、
長兄は自分とたった3才しか違わないこの弟をいつも気にかけていた。
落ちこぼれの二郎がこの捨て猫と重なって見えた。

短編「三人」に、二郎、修蔵とおぼしき兄弟が、
横浜港に入港した兄に会いに行く場面がある。
※当時の状況から、この港はたぶん「神戸港」だろう。
港や船が出てきましたし、気が滅入る話ばかりなので、
ここでちょっと気分転換に船の写真などどうぞ。
海の貴婦人「海王丸」です。
富山県の富山新港に恒久係留されています。
まずは美しい姿と地元の方々の取り組みをご覧ください。
「海王丸パーク」
こちらは50余年前の絵葉書の海王丸です。以下、すべて初代海王丸です。

まだ「東京商船大学」があったころの時代。
学生たちは隅田川河口の竹芝桟橋から遠洋航海に出ました。
修一郎の兄の商用船は「芝浦港」に入港しましたが、練習船は「竹芝桟橋」。
この日は学生たちが練習船で初めて遠洋航海に出る晴れやかな日です。
私も兄を見送りに行きました。
兄です。若い! 今はすっかりおじいちゃんですが。
変色した写真が歳月を物語っています。

見送りの人がたくさん来ています。

帆を開くことを「総帆展帆(そうはんてんぱん)」といいます。
マストに上ることを「登檣(とうしょう)」。
練習生は(下の写真)マストに登り、帽子を振って見送りの人たちに応えます。
これを「登檣礼(とうしょうれい)」といいます。
兄はのちに船を下り教員になって、海王丸誘致運動に携わりました。
市民を組織してこの「登檣」「操帆」を指導。
私も富山で見ましたが、ハラハラドキドキ。
兄は学生時代、
先輩がマストから落ちて命を落としたのを目の当たりにしていたので、
危険なことは十分すぎるほどわかっていました。
それでもやる価値があるという信念。
全責任を背負っての指導だから、かなり神経を使ったと思います。
一番テッペンまで登ります。

本文に戻ります。
修一郎たち兄弟3人が会うのは7、8年ぶり。
「長兄は40を少し出たばかり」とあるから、次兄は37、8のころになる。
弟たちと再会した長兄はまず、二郎に声を掛けた。
「君んとこ、みなたっしゃかい」
それから7年後、父母の慰霊祭をやることになり、東京組も大阪へやってきた。
修蔵はこの日の日記に、
「十三(大阪市)の二郎兄の家へ行き、共に豊中(長兄の家)へ行く。
河野(長兄のこと)にて父母三十、三十六年祭執行」とある。
このときのことが作品「起伏」に、長兄は泰作、二郎は啓造という名で出てくる。
「この日、長兄(泰作)は弟二人を並ばせ、大連で買ったカメラで撮った。
「啓造(二郎)、お前は頭がうすくなったな」
カメラをのぞきながら泰作が言った。
「いやこれでもカルシウム注射をしたらだいぶ黒くなった。うぶ毛が生えた」
と、啓造は子供のときのエベッタンを思い出させる独特な笑い顔をした。
それはどこかひょうきんでもあり、ちょっと悲しげでもある苦笑だった」
三日月形の足場を「とっぷ」といいます。

船の話と本文がごっちゃになってしまいましたが、ご勘弁。
「起伏」には修蔵自身が見た啓造も書かれていた。
「啓造は頭の髪が薄いばかりではなく、歯も抜けていたので年寄り臭く見えた」
40を少し出たばかりの二郎が、歯が抜けて年寄り臭く見えたのは、
その前半生がいかに過酷だったかを物語っている。
「啓造(二郎)は、今は大阪の電気会社で無事に勤めている。
昨年肺尖(はいせん)を悪くして、12か月休養した。
カルシウム注射はその時のことである」=「起伏」
また修蔵は作品の中で次兄をこんなふうに書いている。
「(自分から見ても)啓造はお人好しで、そういう点では今の会社でも
人から愛されているらしかった」

斎藤氏撮影
ほかの兄弟姉妹の中で一人だけ浮いたままの、そんな兄をいたわるように、
弟は胸の内をこう吐露している。
「どんな風なのが幸福というべきか、(自分には)よく判らなかったが、
啓造は啓造なりに彼の幸福が続くことを、
自分はわきからそっと支えてやりたいと思った」
しかしその思いは、田畑自身の急逝でわずか2年で断たれてしまいます。
二郎の人生航路は紆余曲折。まことに危なっかしい。
ですがこちらの若人たちの船は、すべて順調です。
いってらっしゃァーい! 元気でねェー!

出帆したらあとは大海原ばかり。
早速始まります。椰子の実を使った甲板磨きです。
長い航海の間には、椰子の実でブローチを作ります。
兄はまだ恋人がいなかったので、帰国後、私がそれをいただきました。\(^o^)/
実は帆船を思い出させてくれたのは、
名古屋ライフを発信しているginさんのブログ「風の中行く」の、
「緊急事態解除…名古屋のつれづれ」です。
ちょっと覗いてみてください。
※「女中」表記/当時の言い方を使用。ご了解ください。

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