田畑修一郎 …②
田畑修一郎
新刊本「石ころ路」は、小品3編からなる私小説で、
故郷での養母との暮らし、結婚後、一家で上京したが経済的に苦しくなって、
妻が洋裁店を開いた話、神経衰弱になって三宅島へ逃れた話の3編。
どうせ売れない文士が御託を並べた貧乏話だろうと、偏見の目で読んだ。
ところがこれが、なかなかよかった。
世を拗ねて投げやりで文句たらたらなのに、なんとなく共感してしまう。
自分を語っているようで、そうではない。どこか突き放しているのです。
主人公の屈折した心情とは裏腹の、随筆のような淡々とした語り口と、
エンピツでさらりと描いた素描のような感覚が、私の感性にピタッと来た。
この中の1作目の「木椅子の上で」は、昭和16年の初版本にもあった。
洋裁店で一家を支える妻。収入のない作家には自分の居場所がない。
それで毎日、公園の木のベンチに寝転んでぼんやり過ごしている。
と、書いたところで、突然ですが、
ここでちょっと別のお話を挿みます。
予定していた写真がダメになって、急きょ、斎藤氏に花を添えてもらいました。
下の写真は斎藤氏の「路上物件」の「片一方」部門・「るみちゃんの草履」。
鼻緒に「るみ」と刺繍があります。

場所/野田市
斎藤氏談
「片一方のものを目にするたびに、なぜ片一方に? もう片方はどうしたのかな。
どんな人が使っていたのか。なぜ捨てたんだろう、と。
お母さんかおばあちゃんが思いを込めて、
ひと針ひと針、「るみ」と刺繍したんだろう。
おかっぱ頭のるみちゃん、浴衣に赤い帯締めて村祭りに行ったのかな。
大きな綿菓子を買ってもらって喜んでいる姿が浮かびます」

「全面に古色を帯びていたから、かなり前に道の際の花壇に捨てられたのかも。
一週間ほどたって、通りかかったら草履はもうどこにもなかった」
「るみちゃん」、今はご自身がお母さんになっているかもしれないですね。
さて、本文に戻ります。
田畑修一郎の小説「木椅子の上で」に、
明治の実業家・渋沢栄一が建てた感化院「井ノ頭学校」が出てきます。
この感化院の写真、見ていただきたかったのですが使用許可、ダメでした。
使わせていただくには使用料が必要で、私には高額すぎて断念。
今まではどこからも使用料を請求されたことはなかったので、面食らいました。
でもそれは、「営利目的ではないから」という私の甘えだったのかも。
ちょっと落ち込みましたが、自らを省みるいい機会になりました。
話を続けます。
で、この感化院は田畑の散歩コースの途中にあった。
ここの少年たちは、こんなふうだった。
「得体のしれない半動物」のように、感化院の高い塀にずらりと座って、
通行人をじろじろ見下して笑ったり、木を揺さぶったりしていたが、
あるとき、さっぱりした洋服とよく磨きのかかった丈夫そうな靴を履いた
二人の子供と母親が通りかかると、彼らはぴたりと静まった。
その母子は、
「善良な、甘えやかな、幸福そうな或る物だった」
「彼らには縁のない、知ることのない、味わうことのなかったものだった」
と、田畑は書く。
しかしすぐ、こう書き足している。
「いや、知らないことはない。彼らはよく知っている。
ただ何かしらがそこから彼らを遠ざけ、縁のないものにしているだけだった」
「木椅子の上で」が収められている「蜥蜴の歌」です。

「蜥蜴(とかげ)の歌」田畑修一郎 墨水書房 昭和16年
2番目の作品は表題になっている「石ころ路」で、
神経衰弱になって、友人を頼って三宅島で過ごした話。
戦前の文士なんて、理屈ばかりこねて独善的で、その上実質が伴わず、
世間では「三文文士」と嘲られて食えないに決まっていた。
そんな中、田畑は逃げるように三宅島へ渡り、ここで1カ月余も暮らした。
三宅島へ脱出した田畑は、島にいる友人の世話を受けて過ごした。
その人は早大時代の友人で浅沼悦太郎といい、島の豪農だった。
で、この人、なんと、
暗殺された日本社会党の書記長・浅沼稲次郎のお兄さんだそうです。
暗殺は昭和35年。田畑は昭和18年に没していますから、知るよしもなし。
「浅沼稲次郎」といったって、もう知らない人ばかりかも、ですね。
でも、人のつながりって、どこかで絡み合い交差しているんですね。
そこへ一か月余も世話になった。
今の人なら「無償で人の世話をするなんてバカらしい」と思うだろうし、
もし世話をするなら、何らかの見返りを求めるはず。
しかし、当時は違った。
「困っているならうちへ来い」という。
そういう昔の人の度量の大きさが、令和時代の私にはあまりにも眩しすぎる。
今は廃止された検印が懐かしい。

3番目は実体験の養母への嫌悪、確執を小説仕立てにした「あの路この路」。
田畑はこのテーマを、名前や内容を変えて何度も書いている。
懸命に育ててくれた養母さんが可哀そうなくらい冷たく辛らつに。
読んでいるうちに、はるか昔、
この「おじちゃまのご本」を手渡した義姉の顔が浮かんできた。
「うちのおとうちゃまやおじちゃまたちの、
つまり、私たちのおじいちゃまは、
銀行の偉い人だったけれど、ある事件のために自殺してしまったの」
義姉は唐突にそう言って、
「そんなこと、ちっとも気にしてないけどね」とでもいうように微笑んだ。
義姉がさりげなく言い、私が無言で聞いていた「自殺」という言葉が、
80年余を経た本の、変色した行間からふわふわと浮かび上がってきた。
6人いた子供のうち、
5男と末っ子の田畑の2人は養子に出されたという。
本の中で、田畑は繰り返し語っている。
「自分の養子先は、父の愛人で実母が死んだあと後妻に入った
料理屋を営む女将のところだった」

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故郷での養母との暮らし、結婚後、一家で上京したが経済的に苦しくなって、
妻が洋裁店を開いた話、神経衰弱になって三宅島へ逃れた話の3編。
どうせ売れない文士が御託を並べた貧乏話だろうと、偏見の目で読んだ。
ところがこれが、なかなかよかった。
世を拗ねて投げやりで文句たらたらなのに、なんとなく共感してしまう。
自分を語っているようで、そうではない。どこか突き放しているのです。
主人公の屈折した心情とは裏腹の、随筆のような淡々とした語り口と、
エンピツでさらりと描いた素描のような感覚が、私の感性にピタッと来た。
この中の1作目の「木椅子の上で」は、昭和16年の初版本にもあった。
洋裁店で一家を支える妻。収入のない作家には自分の居場所がない。
それで毎日、公園の木のベンチに寝転んでぼんやり過ごしている。
と、書いたところで、突然ですが、
ここでちょっと別のお話を挿みます。

予定していた写真がダメになって、急きょ、斎藤氏に花を添えてもらいました。
下の写真は斎藤氏の「路上物件」の「片一方」部門・「るみちゃんの草履」。
鼻緒に「るみ」と刺繍があります。

場所/野田市
斎藤氏談
「片一方のものを目にするたびに、なぜ片一方に? もう片方はどうしたのかな。
どんな人が使っていたのか。なぜ捨てたんだろう、と。
お母さんかおばあちゃんが思いを込めて、
ひと針ひと針、「るみ」と刺繍したんだろう。
おかっぱ頭のるみちゃん、浴衣に赤い帯締めて村祭りに行ったのかな。
大きな綿菓子を買ってもらって喜んでいる姿が浮かびます」

「全面に古色を帯びていたから、かなり前に道の際の花壇に捨てられたのかも。
一週間ほどたって、通りかかったら草履はもうどこにもなかった」
「るみちゃん」、今はご自身がお母さんになっているかもしれないですね。
さて、本文に戻ります。
田畑修一郎の小説「木椅子の上で」に、
明治の実業家・渋沢栄一が建てた感化院「井ノ頭学校」が出てきます。
この感化院の写真、見ていただきたかったのですが使用許可、ダメでした。
使わせていただくには使用料が必要で、私には高額すぎて断念。
今まではどこからも使用料を請求されたことはなかったので、面食らいました。
でもそれは、「営利目的ではないから」という私の甘えだったのかも。
ちょっと落ち込みましたが、自らを省みるいい機会になりました。
話を続けます。
で、この感化院は田畑の散歩コースの途中にあった。
ここの少年たちは、こんなふうだった。
「得体のしれない半動物」のように、感化院の高い塀にずらりと座って、
通行人をじろじろ見下して笑ったり、木を揺さぶったりしていたが、
あるとき、さっぱりした洋服とよく磨きのかかった丈夫そうな靴を履いた
二人の子供と母親が通りかかると、彼らはぴたりと静まった。
その母子は、
「善良な、甘えやかな、幸福そうな或る物だった」
「彼らには縁のない、知ることのない、味わうことのなかったものだった」
と、田畑は書く。
しかしすぐ、こう書き足している。
「いや、知らないことはない。彼らはよく知っている。
ただ何かしらがそこから彼らを遠ざけ、縁のないものにしているだけだった」
「木椅子の上で」が収められている「蜥蜴の歌」です。

「蜥蜴(とかげ)の歌」田畑修一郎 墨水書房 昭和16年
2番目の作品は表題になっている「石ころ路」で、
神経衰弱になって、友人を頼って三宅島で過ごした話。
戦前の文士なんて、理屈ばかりこねて独善的で、その上実質が伴わず、
世間では「三文文士」と嘲られて食えないに決まっていた。
そんな中、田畑は逃げるように三宅島へ渡り、ここで1カ月余も暮らした。
三宅島へ脱出した田畑は、島にいる友人の世話を受けて過ごした。
その人は早大時代の友人で浅沼悦太郎といい、島の豪農だった。
で、この人、なんと、
暗殺された日本社会党の書記長・浅沼稲次郎のお兄さんだそうです。
暗殺は昭和35年。田畑は昭和18年に没していますから、知るよしもなし。
「浅沼稲次郎」といったって、もう知らない人ばかりかも、ですね。
でも、人のつながりって、どこかで絡み合い交差しているんですね。
そこへ一か月余も世話になった。
今の人なら「無償で人の世話をするなんてバカらしい」と思うだろうし、
もし世話をするなら、何らかの見返りを求めるはず。
しかし、当時は違った。
「困っているならうちへ来い」という。
そういう昔の人の度量の大きさが、令和時代の私にはあまりにも眩しすぎる。
今は廃止された検印が懐かしい。

3番目は実体験の養母への嫌悪、確執を小説仕立てにした「あの路この路」。
田畑はこのテーマを、名前や内容を変えて何度も書いている。
懸命に育ててくれた養母さんが可哀そうなくらい冷たく辛らつに。
読んでいるうちに、はるか昔、
この「おじちゃまのご本」を手渡した義姉の顔が浮かんできた。
「うちのおとうちゃまやおじちゃまたちの、
つまり、私たちのおじいちゃまは、
銀行の偉い人だったけれど、ある事件のために自殺してしまったの」
義姉は唐突にそう言って、
「そんなこと、ちっとも気にしてないけどね」とでもいうように微笑んだ。
義姉がさりげなく言い、私が無言で聞いていた「自殺」という言葉が、
80年余を経た本の、変色した行間からふわふわと浮かび上がってきた。
6人いた子供のうち、
5男と末っ子の田畑の2人は養子に出されたという。
本の中で、田畑は繰り返し語っている。
「自分の養子先は、父の愛人で実母が死んだあと後妻に入った
料理屋を営む女将のところだった」

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