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田畑修一郎 …②

田畑修一郎
10 /31 2021
新刊本「石ころ路」は、小品3編からなる私小説で、

故郷での養母との暮らし、結婚後、一家で上京したが経済的に苦しくなって、
妻が洋裁店を開いた話、神経衰弱になって三宅島へ逃れた話の3編。

どうせ売れない文士が御託を並べた貧乏話だろうと、偏見の目で読んだ。

ところがこれが、なかなかよかった。

世を拗ねて投げやりで文句たらたらなのに、なんとなく共感してしまう。

自分を語っているようで、そうではない。どこか突き放しているのです。

主人公の屈折した心情とは裏腹の、随筆のような淡々とした語り口と、
エンピツでさらりと描いた素描のような感覚が、私の感性にピタッと来た。

この中の1作目の「木椅子の上で」は、昭和16年の初版本にもあった。

洋裁店で一家を支える妻。収入のない作家には自分の居場所がない。
それで毎日、公園の木のベンチに寝転んでぼんやり過ごしている。

と、書いたところで、突然ですが、

ここでちょっと別のお話を挿みます。 
予定していた写真がダメになって、急きょ、斎藤氏に花を添えてもらいました。

下の写真は斎藤氏の「路上物件」「片一方」部門・「るみちゃんの草履」
鼻緒に「るみ」と刺繍があります。

斎藤ぞうり
場所/野田市

斎藤氏談

「片一方のものを目にするたびに、なぜ片一方に? もう片方はどうしたのかな。
どんな人が使っていたのか。なぜ捨てたんだろう、と。

お母さんかおばあちゃんが思いを込めて、
ひと針ひと針、「るみ」と刺繍したんだろう。

おかっぱ頭のるみちゃん、浴衣に赤い帯締めて村祭りに行ったのかな。
大きな綿菓子を買ってもらって喜んでいる姿が浮かびます」

るみちゃん

「全面に古色を帯びていたから、かなり前に道の際の花壇に捨てられたのかも。
一週間ほどたって、通りかかったら草履はもうどこにもなかった」

「るみちゃん」、今はご自身がお母さんになっているかもしれないですね。

さて、本文に戻ります。

田畑修一郎の小説「木椅子の上で」に、
明治の実業家・渋沢栄一が建てた感化院「井ノ頭学校」が出てきます。

この感化院の写真、見ていただきたかったのですが使用許可、ダメでした。

使わせていただくには使用料が必要で、私には高額すぎて断念。
今まではどこからも使用料を請求されたことはなかったので、面食らいました。

でもそれは、「営利目的ではないから」という私の甘えだったのかも。
ちょっと落ち込みましたが、自らを省みるいい機会になりました。

話を続けます。

で、この感化院は田畑の散歩コースの途中にあった。

ここの少年たちは、こんなふうだった。

「得体のしれない半動物」のように、感化院の高い塀にずらりと座って、
通行人をじろじろ見下して笑ったり、木を揺さぶったりしていたが、

あるとき、さっぱりした洋服とよく磨きのかかった丈夫そうな靴を履いた
二人の子供と母親が通りかかると、彼らはぴたりと静まった。

その母子は、
「善良な、甘えやかな、幸福そうな或る物だった」
「彼らには縁のない、知ることのない、味わうことのなかったものだった」

と、田畑は書く。

しかしすぐ、こう書き足している。

「いや、知らないことはない。彼らはよく知っている。
ただ何かしらがそこから彼らを遠ざけ、縁のないものにしているだけだった」

「木椅子の上で」が収められている「蜥蜴の歌」です。
img20211016_20161510 (2)
「蜥蜴(とかげ)の歌」田畑修一郎 墨水書房 昭和16年

2番目の作品は表題になっている「石ころ路」で、
神経衰弱になって、友人を頼って三宅島で過ごした話。

戦前の文士なんて、理屈ばかりこねて独善的で、その上実質が伴わず、
世間では「三文文士」と嘲られて食えないに決まっていた。

そんな中、田畑は逃げるように三宅島へ渡り、ここで1カ月余も暮らした。

三宅島へ脱出した田畑は、島にいる友人の世話を受けて過ごした。

その人は早大時代の友人で浅沼悦太郎といい、島の豪農だった。

で、この人、なんと、
暗殺された日本社会党の書記長・浅沼稲次郎のお兄さんだそうです。
暗殺は昭和35年。田畑は昭和18年に没していますから、知るよしもなし。

「浅沼稲次郎」といったって、もう知らない人ばかりかも、ですね。

でも、人のつながりって、どこかで絡み合い交差しているんですね。

そこへ一か月余も世話になった。

今の人なら「無償で人の世話をするなんてバカらしい」と思うだろうし、
もし世話をするなら、何らかの見返りを求めるはず。

しかし、当時は違った。

「困っているならうちへ来い」という。

そういう昔の人の度量の大きさが、令和時代の私にはあまりにも眩しすぎる。

今は廃止された検印が懐かしい。
img20211016_20152918 (2)

3番目は実体験の養母への嫌悪、確執を小説仕立てにした「あの路この路」

田畑はこのテーマを、名前や内容を変えて何度も書いている。
懸命に育ててくれた養母さんが可哀そうなくらい冷たく辛らつに。

読んでいるうちに、はるか昔、
この「おじちゃまのご本」を手渡した義姉の顔が浮かんできた。

「うちのおとうちゃまやおじちゃまたちの、
つまり、私たちのおじいちゃまは、
銀行の偉い人だったけれど、ある事件のために自殺してしまったの」

義姉は唐突にそう言って、
「そんなこと、ちっとも気にしてないけどね」とでもいうように微笑んだ。

義姉がさりげなく言い、私が無言で聞いていた「自殺」という言葉が、
80年余を経た本の、変色した行間からふわふわと浮かび上がってきた。

6人いた子供のうち、
5男と末っ子の田畑の2人は養子に出されたという。

本の中で、田畑は繰り返し語っている。

「自分の養子先は、父の愛人で実母が死んだあと後妻に入った
料理屋を営む女将のところだった」


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たまには文学でも …①

田畑修一郎
10 /28 2021
少し力石から離れたくて、

それで気分を変えようと、図書館のHPで新着資料の一覧を見た。
それをぼんやり眺めていたとき、
「石ころ路」という楚々とした本が目に付いた。

著者が「田畑修一郎」と知り、
「へぇー、今も新刊本が出てるんだ」と驚き、
急に借りて読もうという気になった。

それがこちら。
img20211016_20121677 (2)
「石ころ路」田畑修一郎 山本善行・撰 灯光舎 2021・7

田畑修一郎といったって、知っている人はそう多くはない。

そのことは、こんなことからもわかる。

新たに刊行してからすでに30年ほど立つ評伝や著作を何冊か借りたが、
その全部のスピン(ブックマーク。紐のしおり)が手付かずで、製本当時のまま。

つまり借りた人は、30年間で私が初めてということですが、
残念だなという思いと、人の手に触れていないという気持ちよさ、
人に読まれたという痕跡を作ってあげたという自己満足で、

私はちょっと、幸せな気分になった。

さて、田畑修一郎です。

出身は島根県
戦前の昭和18年、民話採集で訪れた岩手県盛岡で39歳の若さで急逝。

代表作は、
芥川賞候補になった「鳥羽家の子供」「醫師高間房一氏」などで、
そのほとんどが私小説。

実は私の書棚に、この人の本が3冊あります。
戦前の古い本で、長い間、放置してきたため、すっかりボロボロ。

個人的な事情があって読む気にならず、かといって捨てるのも惜しい。

そんなわけで、なんとなく書棚の一番下に放り込んであった。

その3冊です。
CIMG5685 (3)

この本を手渡されたときのことは、今も鮮明に浮かびます。

手渡してきたのは、これから私が結婚する相手の姉さんで、
唯一の家宝を惜しみつつ手放すかのごとく両手に捧げ、

それから誇らしげにこう言った。

「これはおじちゃまのご本なの」


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3匹のワン

世間ばなし➁
10 /25 2021
予定の記事に使いたい写真の許可願いを今、先方に出したところです。

許可をいただくまで、私の日常のひとこまでご勘弁を。

今の住居(コンクリ長屋)に転居したのが8年前。
家電も調度品も買い替えて心機一転。

ものを大量に捨てましたが、こうしてまた新たに買うので同じことのような。

本は三分の一ほどになりました。
処分してから、「あ、あれは取っておくべきだった」と後悔。

でもまあ、もう若くないんだからと自らを納得させて…。

これ、そのとき買った玄関マット。
CIMG5682 (4)

ひと目見て気に入って、何度も洗いつつ今も。

最初はワンちゃんたちを踏みつけるのが可哀そうで、
それで跨いでいましたが、今は踏みつけています。

もう8年も。

ささやかな玄関ですが、帰宅するとこの3匹がシッポを振ってくれてるような、
これまた、ささやかな幸せをかみしめて喜んでおります。

さて、最近よく食べるのが、農協マーケットの「わさび漬け」

実は夏の初め、猛烈な鼻炎に見舞われて。
たぶんエアコンのカビ。掃除が不十分だったようで、点けた途端、ハックション。

くしゃみ、鼻水が止まらず、やけくそで食べたのが「わさび漬け」です。
食べた途端、来ました! 鼻にツーン!

CIMG5712 (2)

で、なんと、このツーンでくしゃみ、鼻水がパタッと止まった。

エエーッ、まさかというわけで、それから売っているもの全部試してみた。
すべて地元農家さんの手作りで、味が違います。

どれも効き目はありましたが、私のお気に入りは、
家康が絶賛した日本のワサビ発祥の地「有東木」のわさび漬け。

ここは、国の重要無形文化財の盆踊りの集落です。
かつて私も毎年楽しませていただきました。

ささらやこきりこ、扇を持って踊ります。
この写真、今まで何度も使いましてすみません。

img138 - コピー

この「わさび漬け」、その集落のわさび農家の奥さんの手作り。
茎だけでなく本体もたくさん入って、酒かすは適宜。良心的なんです。

お医者さんから「まさか」と笑われたけど、鼻炎はそのまま終息しましたよ。

で、トウガラシわさびですが、辛み成分が違うんだそうです。
トウガラシ好きは怒りっぽくて、すぐトサカに来やすいという説があるけど、
どうなんでしょう。

私は本わさび派。本わさびは西洋わさびと違って辛さがマイルド。
辛みが足りないときは、砂糖をつけてすりおろすと辛くなります。

さて、ストーブの話です。

ストーブは8年前のものから、今年買い替えました。

まだまだ使えましたが、コードに足を引っかけて
コンセントの差込がひんまがってしまって…。

このごろこういう失敗が多くなりました。

で、買い替えたのがこちら。

CIMG5678 (2)

コロナのステンレスシーズヒーター、コアヒートスリム。

日本製、ヘルツフリー、コードが長いので選びました。

なかなか快適。
ですが、低温だとヒーターが黒いままです。

「赤い火」=「暖かい」という刷り込みがあるせいか、
あれっ?と思ったり。

視覚から感じる暖かさも重要かな、なんて思ったり。
でも、食事の時だけなので、これで充分。

あとは脱衣所とトイレに温風暖房欲しいけど、狭い家だし、
エアコンガンガンつけて、このストーブを活用すればいいか。

というわけで、私の冬支度はこれにて完了です。

で、試しに今日、この電気ストーブ、改めて検索したら、
私の購入時より2000円も安くなってた! 

うう…。見なきゃよかった。


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さよなら、三ノ宮卯之助

三ノ宮卯之助
10 /22 2021
三ノ宮卯之助が掲載された新聞記事が、埼玉在住の方から送られてきた。

これです。
卯之助記事
読売新聞 2021年10月15日付け

このように地元の郷土研究会が、
ふるさと活性化の起爆剤に卯之助を起用するのも、
それをマスコミに売り込んで宣伝してもらうことにも、異論はありません。

ただ、研究会の卯之助研究は、3,40年も前の一個人の研究情報に依拠し、
それを再調査しないまま広報している、そのことを危惧しているのです。

新たに作った冊子の内容も、昔の資料のまま。

例えば、肥田文八の出身地の「長宮村」を、「現在の春日部市長宮」と、
相変わらず間違えたまま。

正しくは、「現・さいたま市岩槻区長宮」ではないでしょうか。

埼玉から遠く離れた私が、なんで地元の郷土史の方々に、
「間違いですよ」と指摘しなければならないのか。

悲しくなります。

NPO法人作成のパンフレット
img20211018_16381797 (2)

「余計なお世話」なんだろうな。

でも私は、地元が話題に挙げ喧伝するほど「あざとさ」が目に付いて、
だんだん「卯之助」にうんざりしてきてしまったんです。

力石や力持ちのことを知って欲しいと願い、そのためには、
マスコミに取り上げられることを喜んできた私ですが、

でも私が愛し、その対象とするのは、
妙なエピソードや伝説などをまとわない「ありのまま」の力持ちたちなので。

さよなら、三ノ宮卯之助

私はこう思っているんです。

プロ、アマ問わず力持ちは、決して「偉人」でもなければ、「化け物」でもない。
伝説の中に生きようとしたのでもない。

ただ、己の力の限界に挑み続けた生身の人たちなんだって。


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ジャコのお魚図鑑

世間ばなし➁
10 /19 2021
私が毎日欠かさず食べているのが、干したチリメンジャコ。

以前はそれほど食べなかった。

なのになぜこうなったかというと、ジャコの中に変わった魚がいて、
それを探すのが面白くて買うようになった。

考えてみればバカな話。だけど愉しい。

こんなのがいました。

右上はイワシの子っていうのは、私でもわかった。
だって買ったジャコはほとんど、これだから。

でも左上の背中に黒い点々があるシラスと、下のやたら長いのがわからない。

CIMG5659 (3)

そこで釣りがご趣味の金沢大学の先生にお聞きした。

先生もとんだ質問に、さぞ面食らったことでしょう。
でも、優しい方なので、釣り仲間にも見せてご意見をうかがってくれたそうです。

下のひょろ長いのは「カマスの子」
左上の背中に黒い点々のあるシラスも「イワシの子」だという。

※「カマスの子」という見解に対して、「タチウオの子」という意見が
  寄せられました。確かにカマスにしては胴が長すぎる。
  みなさま、いかがでしょうか。

「背中に黒い点々もイワシ」。
へぇー、そうなのか。
なんだか不気味だったから、よほど珍しい魚だろうと思っていたのに。

で、ネットで調べたら、載ってました。マイワシ。

なァーんだ。

魚屋さんでよく見かけるイワシじゃないの。
そうすると、黒い点々がない方は何だろう。カタクチイワシ? ウルメ?

マイワシ (2)
  =「旬の食材百科」からお借りしました。=

ジャコはジャコ飯にしたり、野菜の酢の物に振りかけたり、炒め物に混ぜたり。

そして、また新たに購入。

今度のには、こんなのが…。

CIMG5677 (2)

鯛の子供?

また先生を煩わせるのは忍びないので、今度はお聞きしませんでした。

どなかた教えてください!

※torikeraさんから、「私見ですが」として、ご意見をいただきました。
 「上はアイゴ、下はアジではないか」と。

ちなみにこのチリメンジャコは、三重県産。

三重県といえば、
ブログ「ご存知ですか 力石!」の、三重之助先生のお国です。

先生、ジャコ、食べてますか?


ーーー追加ーーー

うまく撮れなかったのですが、本日のチリモンです!

エビ?

CIMG5698 (2)



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みなさまからの力石便り

みなさまからの力石
10 /16 2021
力石を知っていただき、それを心に留めて見つけてくださる方が増えました。

そうした力石をご自分のブログで紹介してくださる。

ありがたいです。

今回は3人の方のブログをご紹介します。
お一人目はだまけんさんのブログ「だまけん文化センター」です。

主に絵画と寺社巡りを書かれています。

絵画は浮世絵から現代アート、国内外のアーティストなどと
幅広く取り上げています。

寺社巡りと御朱印情報の記事も豊富です。

「芝稲荷巡り⑩ 高輪神社」

右端の狛犬の台座の脇に置かれたのが力石です。
高輪だまけん
東京都港区高輪・高輪神社ここには今まで2個、確認されています。

写真の力石の刻字です。

「□拾貫目 芝入横町 石右ェ門 芝甼 岩右ェ門」

名前に「石」とか「岩」を付けています。江戸っ子の洒落かも。

お二人目は、「刺し子・刺しゅう & 暮らしの記」の笑子さん。

刺し子という珍しい作品を手掛けています。

仕事部屋から外へ出たときの神社巡りの一つがこちら。

「成子天神社 その二」


刺繍成
東京都新宿区西新宿・成子天神社

ここの7個の力石のほとんどに、
「虎松」「喜太郎」「亀治郎」「市蔵」の名があります。

石銘も「力」「虎龍石」と立派。
重量も「五拾八貫目」(218㎏)など、重量のあるものが並んでいます。

昭和61年に有形民俗文化財に指定されています。

笑子さんの2か所目は、こちらです。

「新井薬師前駅から中野駅まで・後編」


刺し子刺繍北野天神
東京都中野区新井・北野神社

13個あります。

重量は、
三十八貫目余(約143・5㎏)から、70貫目(252・5㎏)と、かなりの重さ。

この中に、「卯之助」名がありますが、これは卯之助違い。別人です。

例の三ノ宮卯之助の石も、「北野神社」にありますが、
こちらの所在地は江戸川区。

ややこしいですね。

三人目の方は、「海岸便り」の浜風さん。

拙ブログに写真ブログの方がたくさん訪問してくださいます。

どの方の写真もそれぞれに撮影者の思いが込められていて、
楽しませていただいています。

浜風さんもそのお一人。お住いの東北圏をその被写体にされています。

海、漁港、渓流、岬、山…。

風景を写しているのに、そのどれからも人の息づかいが静かに、
時には大きなうねりとなって感じられるのです。

中でも私が心惹かれた一枚がこれです。

「寺下観音の力石」

青森かんのん
青森県三戸郡階上町阿保内寺下・寺下観音堂・歴史資料館

年を経たお堂の前に並べられたこの風情です。

この静止したような空気の中に、
ずっと座って溶け込んでしまいたい衝動にかられます。

以前は地べたにじかに置かれていましたが、
どなたかが台座に飾って下さったようです。

祭りの時、近在の若者たちが力を競ったそうですが、
耳を澄ませば、
当時の若者たちの華やいだ声や熱気が聞こえてきそうです。

浜風さん、ここを再訪。それが下の記事です。

「寺下観音 力石ふたたび」

海岸便り2

長い間の雪や雨、風ですっかり風化してしまいましたが、
わずかに若者の名前が出ていました。

「寺下仁八」


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迷走するにもほどがある 怒!

三ノ宮卯之助
10 /13 2021
「筆子塚」に刻まれた「向佐夘之助」が、
どのように解釈され、それがどのように迷走していったかを見ていきます。

「筆子」とは、寺子屋に通う子供たちのこと。
「筆子塚」とは、筆子たちが師への報恩のために建てた碑のこと。

多くは、師が没した時や数年後に、成人した筆子たちが建立。

さて、三野宮香取神社の「筆子塚」です。

今から11年前の2010年9月、
斎藤氏は、この神社の「筆子塚」台座に、卯之助の名を発見。

これは例の「足持石」発見の翌年のことです。

そのときの苦い経験から、卯之助研究者のT氏への問い合わせは、
同氏と親交がある、さいたま市在住の酒井正氏に依頼した。

だが回答はT氏ではなく、石仏に詳しいK氏からきた。

優しい酒井さんの手紙には、斎藤さんへの気遣いが端々に。

T、K氏のお二人とも新たな卯之助ファン=研究家が現れて、
詳しくお調べのことと喜んでおられましたよ」と。

酒井さんです。
以前、ブログに載せたいと伝えたら、この写真を送って下さった。
img20210419_10172153 (2)

さて、酒井さんからの手紙です。

2010年9月14日、越谷市郷土研究会の副会長(現・顧問)で、
石造物の悉皆調査をされたK氏からの回答として、
次のような伝言がありました。

①台座の向佐多次郎が夘之助の何にあたるか判らない。
 ただ、K氏は年代的に見て卯之助本人であるのは
ほぼ間違いないと言いながらも、断定はできないとのこと。

※私の独り言=「年代的に見て卯之助本人」、もうここからおかしい。
           理由は後述。

②現在、「生家」といっている向佐家は、卯之助の生家ではなく、
 兄弟姉妹の子孫らしい。

③卯之助が江戸、三野宮…、どこかで、
 自分の家庭を持っていたかどうかもわからない。

この「家庭」なる言葉、旅がらすの卯之助には似合いませんが、
斎藤氏からの問い合わせに呼応したものでしょう。

斎藤氏の調査では、
「多次郎の名は文献・資料からは見いだせなかった。
生家のおばあさんも、全くわからないとのこと」

この手紙から10日ほどして、再び、K氏からの追伸が届いた。

中に、K氏の手になる
平成9,10年(1997,8)の「石造物調査報告書」のコピーがあった。

これです。

「天神像」とあります。左側赤丸に向佐多次郎 同 夘之助とあります。
img20211007_18561478 (4)

台座正面に、
卯之助の出身地とされる三野宮村の筆子たちの名前が並んでいます。
しかしこの中に「向佐家」はありません。

台座右側(調査書では左側)の村名は「大森村」。
「向佐」名があるその隣はただ「村」とだけ。大森村の枝村の意か?

上部に句が刻んであります。
寺子屋の師匠の辞世の句でしょうか。

問題は次の調査書です。右寄りの中ほどをご覧ください。

「夘之助の名前が刻まれているが、これは、
この頃活躍した日本一の力持ちの三ノ宮卯之助
指すものと思われる」

おいおいおい

「この頃活躍した」って、卯之助はこの安政5年にはもういないはずでしょ?
没年は4年前の嘉永7年だって公表したのは、あんた方じゃないの。

img20211007_18561478 (3)

追伸では13年前の調査書の、この個所をトーンダウン。

「過去帳などの消失により、確証は得られない現在は断言できない」

しかし、直接話を聞いた酒井氏は、その時の様子をこう補足している。

K氏は、天神像の夘之助は三ノ宮卯之助を指すものと思うものの、
それを活字にするのはご慎重のようでした」

「ご慎重」と言ったって、13年も前に活字にしてるじゃないですか。
それに、13年たってもまだ、「卯之助本人」だと、思い込んでいる。

寺子屋の師匠と子供。「稚六芸の内 書数」 歌川国貞・画
寺子屋

寺子屋が増加し始めたのは、天保期(1830~1844)といわれていますから、
文化四年(1807)生まれで、地方の片田舎にいた卯之助が、
寺子屋へ通えたかどうかさえ疑問です。

酒井氏がどんなにK氏を、
「石造物に関しては凄いとしか言いようのない方」と褒め、
「推測の範囲で楽しむのがよろしいようで」とフォローしても、

間違いは間違いです。

だって、卯之助はすでにこの世にいなかったのですから。

調査報告書の編集委員や研究会内部から、
「それはおかしい」と言う声は挙がらなかったのでしょうか。

私如きが言うのはおこがましいですが、私はこう思うのです。

「歴史には間違いがある。しかしそれは決して恥ずべきことではない。
歴史の考察は、先人の業績を踏み台にして、
それに次世代が新事実を積み上げていくこと。
ただし、最も大事なのは、自説の間違いを認める潔さ」だと。

img20211007_18593303 (2)
斎藤氏撮影

さて、とりけらさんがご自身のブログに書いた
「筆子塚の夘之助は(三ノ宮)卯之助の子供らしいという話があるとか」の、
その典拠にしたのが、

K氏と同じ越谷市郷土研究会の会員のブログ、
「越谷探訪」の記事です。それには、こうありました。

K氏の「大袋地区の石仏」(平成9,10年度調査/平成27年12月改定)に、
「(筆子塚)の夘之助は、三ノ宮卯之助(嘉永7年没)の息子であろうか」とある。
この息子であろうかというK氏の考察には信ぴょう性がある。

おいおいおい

先輩のみならず後輩までも。

1997年には「卯之助本人」と書き、
2010年の斎藤氏からの問い合わせには
「本人と推測しているが断言できない」といい、
それから5年後に今度は、「卯之助の息子」とは、

そのどこに「信ぴょう性がある」といえますか!

K先生、「本人説」から「息子説」へ大変換。

もし、証拠もなく、
卯之助の没年とのズレに気づいて、慌てて「息子」に変えたのなら、

失礼な言い方ですが、それは「改定」ではなく、「偽装」です。

権威ある方の発言や著述は信用度が高い。
読み手の知らない分野のことならなおさらです。だから責任は重いのです。

「推測を活字にするのは慎重に」と言いながら、18年後にまた
活字にしていることも、その根拠が必要と私は思います。

「仮説を立てて真相に迫る」ことと、「推測で断言」は、別モノですから。

img697 (3)
三ノ宮香取神社 酒井正・画

ブログ「越谷探訪」のこの記事、
「三野宮香取神社の力石と石仏など境内風景」は、今年4月ですからまだ新しい。

ブログ主さん、「三ノ宮卯之助の息子説は信憑性がある」とした確たる証拠を
お示しいただけたら、ありがたいです。

さて、

「家斉将軍が上覧した」と碑に刻み、100年後に死亡報告と位牌が届いたといい、
死因は食中毒か毒殺で悶死と、これまたおどろおどろしい話を世間に流布。

そして今度は「卯之助には息子がいた」という新説。

センセーショナルなエピソード満載です。

同会では市民対象の歴史探訪を行っている。
ここへ来て、「この人は三ノ宮卯之助の息子らしいなんて説明されたら、
たまったもんじゃない。

耳から入る情報、特に初めて聞く人には、
「らしい」なんかすぐ取れて、「息子」とのみインプットされるのは、よくあること。

世間受けする話題こそ、広がるのも定着も早いのです。

「推測の範囲で楽しむ」?

冗談じゃない! それこそ歴史への冒涜です。

なんだか卯之助は、地元でおもちゃにされているような気がして…。

考えすぎかなぁ。「迷走」に翻弄されて、めまいがしてきた。


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死んだはずだよ、卯之助さん

三ノ宮卯之助
10 /10 2021
卯之助話がようやく終わってヤレヤレと思ったのも束の間、
「とりけらさん」「へいへいさん」のブログを拝見して、

唖然茫然。

そこには、卯之助の没年に疑惑が生じる記事が…。

生家の当時のご当主によると、卯之助の没年は嘉永7年(1854)。

しかし、三野宮香取神社に残された「天神像」(筆子塚)の台座に、
「向佐多次郎 同 夘(卯)之助」と刻まれていて、

その年号が公表していた没年より4年もあとの
安政5年(1858)というのだ。※「向佐」は卯之助の本名。

なに! 卯之助は没年から4年も生きていた!

どこまで世間を騒がせるヤツなんだ、ッたく! 
と、ボヤキつつ、
うやむやが一番嫌いな、融通の利かない私のこと。

早速、真相究明に乗り出しました。

まずは、
「とりけらのアウトドア&ミュージック日記」から。

こちらは三ノ宮香取神社の卯之助石の保存場所です。
三野宮とりけらさん
埼玉県越谷市三野宮

とりけらさんは野の草花音楽に詳しいだけではなく、
ポタリングの利点を生かして、水源富士塚などを巡っている方。

これがまた微に入り細を穿って、詳しいこと。

最近では力石にも言及してくださっています。

そのとりけらさんの「安政5年生存説」を思わせる
「天神像」(筆子塚)の記事がこちら。

「三ノ宮卯之助(うのすけ)の力石が…」

問題の天神像です。学問の神さま、菅原道真が彫られています。
とりけら筆子塚

とりけらさんのこの記事を見て、
「へいへいのスタジオ2010」のへいへいさんも、早速現地へ。

このお二人、フットワーク抜群です。
そして故郷・埼玉をこよなく愛することや、自然が大好きな所も似ています。

へいへいさんはもう皆さまにはおなじみかと思いますが、
探求心はもちろん、情感あふれる写真のすばらしさには定評があります。

三野宮香取神社の卯之助の力石群と石像です。
へいへいさん筆子塚1

詳細は下記をどうぞ。

「三野宮香取神社の力石と筆子塚」

この「天神像」は、
とりけらさんとヘイヘイさんが指摘しているように「筆子塚」です。

その台座左の面に、確かに「夘之助」の名がありました。

向佐多次郎
同 夘之助


「死んだはずだよ、お富さん」じゃないけれど、

私もびっくり。

♪ 死んだはずだよ、卯之助さん、
  生きていたとは、お釈迦様でも、知らぬ仏の卯之助さん

へいへいさん筆子塚2

実はこの話には、があります。

その種明かしの情報は、やっぱり斎藤氏が持っていました。

斎藤氏も上記のお二人同様、埼玉県人です。
埼玉の人はやっぱり凄い! 私が尊敬する酒井正さんも埼玉の人です。

上げたり下げたり、私も忙しい(笑)

種明かし、というより、本当はやりたくない大暴露

それでは次回まで、しばし…。


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金沢発

そばつぶさん
10 /07 2021
卯之助の話が思いのほか長引きました。

バンモチ(力石)に挑戦している「そばつぶ」さんから、
ずいぶん前にいただいた新発見力石、ようやくご紹介です。

大変立派な石です。
これが今まで報告されなかったことが不思議です。

芳稲連(はたれ)八幡神社の盤持石です。重量100㎏。

盤持石の由来
昔より昭和初期に至る間 当町を始め近在の若衆の標として 
数多くの若者の腕を競った石であり 後生の物語として保存するものなり」

「はたれ」とは、また変わった名称ですね。
謂われをご存じの方、ぜひ、ご一報ください。

はたれ
石川県金沢市二ッ寺町

もう一か所は、同じ金沢市の国府神社です。

これです。

国府神社 金沢市古府町DSC_0505~2 (3)
石川県金沢市古府町

プレートです。

DSC_0506~2 (002)

150㎏、120㎏とあります。

こういう重量を見ると、
今、記録に残る有名力持ちは「あまり威張れないよネ」と思います。

大重量を差したとはいえ、卯之助も鬼熊にしても、これ以下の石を差して、
天下を取った気でいましたが、
地方では土地の若者たちがホイホイ担いでいたわけですから。

そして、無名のまま石だけを残して、きれいにこの世を去った。

先日、ここ金沢市の「盤持石」の新聞記事を、
いつもお世話になっている(株)ベースボールマガジン社の門脇利明氏が、
送って下さった。

金沢市示野中町・誉田神社の3個の盤持石です。

重量は95㎏、127㎏、142.5㎏。

20210923 北國新聞 
北國新聞 2021年9月23日

記事によると、還暦を迎えた3人の住人が、
「昔から伝わる風習を大事に伝えていきたいと、
境内に無造作に置かれていたこの石を、2008年に保存した」そうです。

日を置かず、金沢市寺中町の大野湊神社の宮司様が、
なんと、同じ記事をお送りくださって、私は感無量。

宮司様は「そばつぶさん」が送って下さった上記、2か所の神社も
兼任されている方です。

さらに、地元の古い郷土史までお送りくださった。

こちらです。

「二塚郷土史」二塚農業協同組合 昭和53年。

個数27個。石銘、貫目、所在地も詳しく調査されています。

img20210906_14490423 (2)

もう一つは、「大徳郷土史」大徳公民館 昭和45年。

個数26個。こちらも石銘、貫目、所在地が記されています。

斎藤氏に調べてもらったところ、
「現在の所在地に数個あるものの、同じ石かどうかは確認できない。
ほとんどが未掲載かと思われます」とのこと。

斎藤氏、今にも金沢へ調査に飛び立ちそう。

img20210906_14560824 (2)

実は以前、そばつぶさんから、
神社でなかなか担がせてくれないとの悩みが寄せられていました。

「事前に神社へ電話して、石を担がせてくださいとお願いしていますが、
なかなか聞き入れてくれません。

ぼくは石担ぎは神事であり、決して罰当たりな野蛮なものではないことは
理解していて、それなりの礼儀を持って担がせていただいていますが、

力石を知らない宮司さんや近所の人や通りすがりの人には、
そう見えてしまうようで、残念です。

先人の汗と血が沁みついた力石を担ぐことで、さらなる手に入る実感が
あることも挑戦した者でないとわからないと思います」

そばつぶさんへのアドバイスを大先輩の大江誉志氏にお願いしました。

「そういったところは、さっさと諦めて、
別の担げるところで頑張る、が正解です」

さすが、経験者ですね。

私が関わったところの保存工事をした石屋さんは、
こうおっしゃっていました。

「また担ぎたいと思う人のために、石は固定しませんでした」

全国の神社やお寺の関係者のみなさま、勇気ある若者たちのために
どうぞ、ご理解をお願いいたします。


ーーーーーそばつぶさん、がんばってます。

困難にもめげず、挑戦中。

地元の方との会話が楽しい\(^o^)/





ーーーーー感謝をこめて

門脇様、大野湊神社の宮司様、そばつぶさん、

貴重な情報をありがとうございました。

名もない石を名もない私が、名のある研究機関ではなく
ブログという手段での発信。

それを信用し、信頼して盛り立ててくださっている。
本当にありがとうございます。今後とも、よろしくお願いいたします。


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瑞穂の国は美しい

世間ばなし
10 /04 2021
田んぼは実りの季節。

これは1カ月前の田んぼです。

かかしのご夫婦、今年もがんばっていました。

黄金色になるまで、もうひと踏ん張りです。

CIMG5646.jpg

こちらは去年撮影した、刈り入れ後の田んぼ。

田んぼの端っこに片付けられた稲架(はさ=稲を干す棒)の上で、
無事お勤めを果たしたかかしの夫婦がへたばっておりました。

「とうちゃん、お疲れさまでした」
「お前もごくろうだったな」

CIMG5572 (2)

去年は大鷲がヒューッと舞って雀の群れを脅していたけど、今年はこの方。

CIMG5651 (3)

小雨の降る日に通りかかったら、紺の雨合羽を着た女性が、
稲穂の上に突き出た雑草を取っていた。

フードで顔は見えなかったが、若い女性のようだった。
珍しいな。

写真を撮りたかったけど、なんだか失礼な気がして通り過ぎた。

数日たって行くと、その田んぼだけきれいに刈られていた。

20210913_171534.jpeg

2,3日して通りかかると、少し離れた田んぼでおじいさんが作業をしていた。
かたわらに女性がいた。

田んぼの際に腰かけて帽子を脱いだら、
長い黒髪がさらっと肩に落ちた。

この前の人だ。やっぱりずいぶん若い。
おじいさんと孫娘だろうか。

田んぼに若い女性なんて初めて見た。なんだか、やたら感動してしまった。

埼玉の斎藤氏からも田んぼの写真が届いた。

稲刈りが済んだあとの田んぼです。
土を起こしている周りで、シラサギがエサを狙っています。

トラクターの赤とシラサギの白が美しい。

杉戸

ポタリングの途中で見つけたこんな人たちも。

「へのへのもへじ」くんと、「へめへめくつじ」さんです。

へのへのもへじ へめへめくつじ

そういえば、このお兄さんがいた田んぼへは、まだ行ってなかった。

もう稲刈りは済んじゃっただろうな。

CIMG5644 (2)

雨にも負けず、夏の暑さにも負けないで頑張っていたお兄さん、
こんなことを背中で言ってました。

「昔、じいちゃんが、

実るほど頭を垂れる稲穂かな

なんて言ってたけど、
最近は青い穂のまま立ち枯れる、困った年寄りが増えちまったな」


            ーーーーー◇ーーーーー

ーーーそばつぶさんのバンモチ


久しぶりにそばつぶさんの勇姿です!




     ーーーーー◇ーーーーー

地震に遭われたみなさま、どうぞ、ご無事で。


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雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞