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「足持石」はなぜ、外に出されたのか

三ノ宮卯之助
09 /19 2021
「まだ続くのかよ!」と、言われそうですが、続きます。

一旦食らいついたらスッポンのごとく、離しません(笑)

ここでの問題提起は、

なぁーんて少々大げさですが、
「足持石」はなぜ、こんな小さな稲荷社へ運ばれたのか、

ということです。

この石は最初からこの稲荷社にあったのではないことは、
下記の記事で証明しました。

「謎が解けた」

斎藤氏が執念で、この石は、

「弘化四年三月、浅草観音境内」で興行したときのもの、

ということを下記の引札から突き止めました。

そしてこの年の3月は浅草寺の開帳の日であったことを、
「藤岡屋日記」「浅草寺日記」で確認できました。

しかも石の貫目までわかった。
120貫(450㎏)

img20210530_11533176 (3)
神戸大学図書館・海事科学分館所蔵

「足持石」はなぜ、浅草寺の外へ出されたか、という問題は、

同時代に生きた力持ちで、
「卯之助」とは4歳しか違わない「鬼熊」こと熊治郎と対比させて、
考えていきます。

二人は同時代の力持ち力士ですが、その生きざまは全く違います。

卯之助の「足持石」は、興行場所の浅草・奥山から外に出されましたが、
鬼熊の力石は、今も浅草寺・新奥山にあります。

「熊遊」碑です。

しかもこの石は、飛ぶ鳥を落とす勢いの町火消し「を組」の頭取、
新門辰五郎の肝いりで建立されたという箔付き。

新門辰五郎は、
言わずと知れたこの奥山の見世物の取締りを務めた大親分です。

中央の石が「熊遊」碑です。150貫(562・5㎏)
CIMG0799 (3)
東京都台東区浅草 浅草寺・新奥山

新門はなぜ鬼熊を取りたて、卯之助には目もくれなかったのか。

それを二人の対比を通して、私の推理を交えて明らかにしていきます。

この碑の台座には、17もの団体や町、個人の名前が書かれています。

書は「應需梅素」

誰が名付けたのか、「熊が遊ぶ」とは、いかにも江戸っ子好み。
洒落ています。

名前に「鬼」を冠して呼ばれることは、
その人物がいかにずば抜けているかを現わしています。

「鬼」の名称、後援者の多さ。
これらを見ても、鬼熊が江戸っ子の人気者で、
その名声がいかに高かったかを如実に表しています。

さて、
江戸・浅草といえば、奥山の見世物、芝居、花火、吉原遊郭に舟遊びと、
江戸文化の華やかさばかりが浸透していますが、

「新撰江戸名所 両国納涼花火ノ図」 一立斎広重
納涼
国立国会図書館デジタルコレクションより

世の中,飢饉続きで、
天保期より地方からの没落農民が流入。

当時の江戸の人口の56%は窮民だったと、
堀切直人が「浅草 江戸明治篇」(石文書院。2005)で語っています。

このころから、外国船が北から南から押し寄せ、
いよいよ徳川幕府崩壊へと向かい始めます。

浅草の森は狐狸の棲み処。

幕末には「貧窮組」が徒党を組んで町に現われて豪商らを脅し、
夜ともなると「辻斬り」が横行。

切られたばかりの被害者が口をパクパクの断末魔がよく見られたと、
「幕末百話」(篠田鉱造 岩波書店 1996)にあった。

そんな世相の中に、鬼熊と卯之助はいたのです。


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雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞