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力持ち、昔と今

みなさまからの力石
08 /29 2021
九州大学ウエイトリフティング連盟会長だった美山豊は、
論文「日本重量挙史」の中で、こう述べている。

「私はこの小史を書くにあたって、どうしても日本古来の重量挙(石挙げ)に
触れなければならないと思っていた」

「屈(曲)げたを伸ばす足の力と(臀部。尻のあたり)の引く力、
それにの力で胸まで挙げる。重量挙も全くその要領である」

「石挙げは下半身が鍛えられるため、
宮相撲の選手権の基礎練習として効果大であった」

盤持ちが盛んだった北陸から、優秀な相撲力士が出たのもうなづけます。

今、滑川市立博物館で開催中の「滑川スポーツ史」にも、
郷土の出身力士「緑嶋友之助」が登場しています。

「緑嶋友之助 土俵入りの図」
錦絵「越中 緑嶋友之助 土俵入りの図」
滑川市立博物館提供

緑嶋友之助(1878~1952) 74歳没。

父は地元相撲で大関。四股名は「緑山」。
友之助は17歳で5斗俵を差し上げた怪力の持ち主だったという。

京都相撲から東京の春日山部屋へ入門。
二十歳で初土俵。最高位は小結。37歳で立浪部屋を創立。

横綱双葉山、羽黒山、大関名寄岩など
数々の名力士を育てた。

父と同名の子息・高木友之助は、中国哲学者で後に中央大学総長。

そしてもう一人、
ウエイトリフティングの世界で活躍する青年をご紹介します。

村上英士朗 愛称「タンク村上」。24歳。

富山市出身ですが、母校は富山県立滑川高校。
日本大学を経て、三宅宏美と同じ「いちごウエイトリフティング部」所属。

滑川高校には、「ウエイトリフティング部」があるんですね。

ここにも日本古来の重量挙げ(盤持ち)の伝統が生きていました。



+109キロ級でスナッチ、ジャーク、トータル415㎏の日本記録保持者。
2019年、IWFワールドカップで優勝。

今回の東京オリンピック出場は叶わなかったが、まだまだこれからですね。

好きな言葉は、「不借身命」
一番心に残っている映画は、「黒部の太陽」
行きたい旅行先は、「伊勢神宮」

24歳の若者としてはなかなか古風です。

詳しくは下記のURLの「メンバー紹介」「村上英士朗」をご覧ください。

「いちごスポーツサイト」

その村上、NHKのインタビューでこう言っています。

「やっぱりまだまだウエイトリフティングはマイナー競技なので、
SNSを通じて見てくれる人が増えるとうれしい

北陸の青年たちは骨がある。

日本古来の重量挙げのそばつぶさん、
外国由来の重量挙げの村上さん、

力石には持つところがない。バーベルにはあるけれど重い。

お二人ともその難しさに挑戦中です。


  ーーーーー化粧まわしの「法曹」文字についてーーーーー

緑嶋友之助の化粧まわしに、
相撲とは縁のなさそうな法律の世界の「法曹」が刺繍されています。

なぜなのかを、
(株)ベースボール・マガジン社・相撲編集部の門脇氏に教えていただきました。

「明治44年6月、
関取衆が本場所中の特別給金増額などを掲げて、春場所をボイコット
その先頭に立ったのが「力士団の知恵袋」・緑嶋だった。

力士たちは新橋倶楽部に籠城。緑嶋は得意の弁論でアジったのだ。
闘争は二十日間続き、とうとう毎場所の総収入のうち、
十分の一の慰労金を獲得。

その緑嶋の痛快さに、
当時の法曹界の気鋭の面々が拍手喝さい。
「法曹」の二文字を刺繍した化粧まわしが贈られた」
  =「緑嶋一代記」抜粋。

※「法曹界の気鋭の面々」とは。
  ●花井卓蔵 中央大出身。のちに政治家。第3代検事総長。
  ●三宅碩夫 中央大出身。日本弁護士会設立に貢献。
  ●原嘉道 東京大出身。のちに中央大総長。

※門脇氏からの追伸です。
  「ザ・ドリフターズの高木ブーさんも中央大出身で、
   本名は高木友之助です」

もう、中央大学と「高木友之助」だらけ(笑)


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採用の決め手は力持ち

みなさまからの力石
08 /26 2021
美山豊の住んでいた九州の力石をちょっと見ていきます。

美山はこう書き残しています。

「力自慢の者は普通の挙げ方では物足らないから、
「耳づけ」と称する挙げ方をした。
これは地上にある石に耳を触れ、そのまま石から離さないで肩に挙げる方法である」

また、
「自分の村の石では飽き足らなくなると、重い石を求めて他村へ遠征した」

福岡県太宰府市の太宰府天満宮には、
広島県尾道から遠征してきた大湊和七の力石が3個あります。

これです。
数年前、九州旅行に出かけた知人が送ってくれものです。

img20210824_07442395 (3)

この3個の石には「松」「竹」「梅」と彫られていて、
すべてに「大湊和七」の名前があります。

和七は北前船の寄港地だった尾道の港の浜仲士で、
江戸末期から明治にかけて活躍した力持ちです。

関東の三ノ宮卯之助同様、中国地方ではスター的存在で、
郷里の尾道には銅像も建てられています。

img813_202108240843386f8.jpg
広島県尾道市長江・御袖天満神社

美山豊は地元の小倉付近の調査も行っています。

「徳光の観音堂前」「9斗3升(約139.5㎏)と言う記述がありますが、
場所も石も現在、確認されていません。ですが、この石にはこんなエピソードが…。

この石は明治23年ごろ、石工の中村寅吉が川から神社へ運んだ。
高下駄をはき、下から神社境内まで約50mの石段を担いで登った。

これを19歳のとき担いだ平尾台吹上峠に住む山下半六は、
この強力のおかげで、小倉駅員に採用された。

その小倉地区で現在、確認されている力石は3個

その一つがこちら。
img20210824_07381401 (3)
小倉北区馬島・八幡神社

「北九州市民俗調査報告書(上巻)力比べ」北九州市教育委員会1988に、
こんな記述があります。土地の古老からの聞き取りで、

「大きい力石があると、他村の者は、
「ここには力持ちがいるんじゃナ」と恐れて、夜這いも来なかった」

「夜這い」の習慣は、地域や人によって違いがあります。
「呼び合い」といって、お互いが示し合わせるというものや犯罪になるものなど。

小倉のこれは、力石が女性への性犯罪を未然に防いだといえます。

ただし、「他村の青年から防いだ」というだけのことで、
これはこれで、自分の村の女性の私物化という問題をはらんでいます。

夜這いとは違う「歌垣(かがい・うたがき)というものもありました。

昔、私が取材した「歌垣」、ちょっとお話します。

これは、お堂などに男女が集まって、
焚火を囲んで肩を組み右や左に回ったり、一列に向かい合って歌を掛け合い、
意気投合した男女が一夜を共にしたという習俗です。

その後、風紀上、禁止されて急速に姿を消しました。

ここの「歌垣」もすでに、みんなで唄って楽しむだけの火祭りになっていた。
「ヒョンコ、ヒョンコ」の掛け声は昔のまま。

img20210826_11044046 (2)

取材当時、私は、
歌垣や夜這いの経験者のご老人から話を聞くことができました。

「祭りの夜が来ると小舟で大井川を下ってきてな。
気に入った娘を見つけると輪を抜けて、藪に消えたもんさ」

「やだやァ。
男はおじいさんが初めてだなんて。そんなことあるわけないじゃない」

これを書くと長くなるので、この辺で。

さて、
当時はどこの村でも、村境に巨大な陽石や道祖神を置いて、
村に邪悪なものが入らないようにしていましたが、

力石にもそれと同じ効力があるとしたこの考え方は、
民俗学者にもほとんど知られていなかったのではないでしょうか。

こちらは2個目と3個目の力石です。いずれも個人宅にありました。

img20210824_07381401 (4) img20210824_07381401 (5)
小倉南区井手浦。「九州・沖縄の力石」高島愼助 岩田書院 2009

さて、力持ちゆえ、小倉駅の駅員に採用された山下半六さん、
その力量をいかんなく発揮して、

「ベルト515斤=309㎏を担ぎ、所定の場所まで運んだので、
懸賞金(報奨金か?)3円(今のお金で約6万円)を受領した」という。

「物を担いで歩くときは、肩に7、頭に3の力の配分をする」(山下半六・談)

力のあるなしで採用が決まった時代、
当時の国鉄(現・JR)も盛んに力比べの駅対抗試合を行っていたそうです。

改札も自動、音声も自動の今の世の中と比べたら、
夜這いはさておき、
なんと濃厚な人間関係だったことか。

すべてを生身の人間を通して成り立っていた時代。

他人の汗など気にもせず肌をふれあい、
同じ釜の飯を食い酒を酌み交わし、口角泡を飛ばしてしゃべり、笑い、歌い…。

このコロナ禍に遭遇してしまった現代人には、もう、こういう時代は、

来ないのかもしれません。


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盤持ちの伝承を子供たちへ

みなさまからの力石
08 /23 2021
昭和33年の「とやま国体」の重量挙げ会場で、
北九州大学教授の美山豊は、
40から70代の男たちが熱心に競技を見つめているのを不思議に思った。

「他県では見られない」この光景に興味を持った美山は、すぐ調査を開始。

その結果、この人たちは、
かつて盤持ち(石挙げ)をやっていた人たちということを知る。

男たちが選手と「同じ呼吸」をしている、
そのことに気づいた美山の、体育の専門家としての鋭い感覚はさすがです。

でも、私がそれ以上に驚いたのは、
この人たちが、重量挙げと石挙げは「同質のもの」と看破していたこと。

それこそが、
盤持ちの真髄を知る者の証しなのだと思い知らされました。

こちらは「盤持ち選手権大会記念の手ぬぐい」です。

img20210821_12225814 (2)
「滑川の民俗 下」滑川の民俗編集委員会 平成8年より
滑川市立博物館提供

美山は会報「ウエイトリフティング」の「日本重量挙史」の中で、
滑川の盤持ちについてこう記している。

「この地方では石挙げを「盤持ち」と称し、
昭和20年頃までは非常に盛んであった。終戦後衰えたが、
それでも祭りの行事として年一回開催され、昭和28年最後だったという」

国体の開催はその5年後ですから、
盤持ちの感触や熱気は、まだ彼らの体に残っていたはず。

国体はそれを一気に蘇らせた。そして華やかだったこんな情景も…。

「盤持ちはその規模により、「花盤持ち」「出世盤持ち」の名称をつけた」

「勧進元は青年団で、選手や見物人に酒、握り飯をふるまった」

こちらは同じ富山県内の射水市寺塚原の盤持大会の様子です。
現在は消滅。

img20210821_12574311 (2)
「富山の力石」高島愼助 岩田書院 2007より。菊昌治氏提供

美山の調査記録を続けます。

「試合場は神社の境内で、選手は近郷から70~80人参加」

「挙げる方法は呉東地方では頭上に差し挙げ、呉瀬地方はに担いだ」

八斗挙げたものには酒1升、九斗は酒1升と反物1反、
1石には酒2升と上等の反物1反、優勝者鏡餅一重が贈られた」

「競技会が終わると番付ができて、それを人々に配布して知らせた」

下のURLは、北日本新聞(2020・9・24)掲載の記事です。

「地域に学ぶ 滑川・東部小」

子供たちが、博物館の学芸員さんの案内で地域の歴史を学んだ記事です。
富士神社の盤持ち石もちゃんと見学。

盤持ちの伝承を子供たちへ。

いいですね。生きた郷土史。

私の住む町では、なにがあっても徳川家康の学習で、
こうした地域密着の庶民文化をおろそかにしています。

家康ゆかりの静岡浅間神社での「稚児舞」です。
もちろん、これも尊い伝統文化で、私の好きなものの一つですが…。
CIMG3150 (2)

近隣市町では昭和60年代に、石造物の悉皆調査を終えているのに、
当地では皆無。今後もやる予定はないという。

だから「力石の保存」など言い出すと、「あんなもの」と笑われた。

人口70万の政令都市の当地が、今、初めて博物館を建設中です。

ここには、ずっと博物館がなかった。だから学芸員さんが育たなかった。

でも、やっと建設に着手した博物館は、やっぱり「家康」中心。

「観光客を呼ぶため」と聞いて、唖然とした。
言い過ぎかもしれないけれど、歴史を金儲けの手段にする安易さにがっかりした。

だから、「博物館は第一に地元民のもの」としている滑川市が、

すごく羨ましい。


     ーーーーー応援よろしくお願いしますーーーーー

石川県在住の「そばつぶさん」の動画です。

昨日、「力石にはまって。(担ぐ方)」という思いがけないコメントをいただき、
びっくりするやら感激するやら。

「まだ軽い石から」というので、動画を拝見したら、なんと121㎏!

軽くないですよ!

どうぞ、みなさま、そばつぶさんの勇姿、ご覧になって応援してあげてください。




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呼吸を合わせて

みなさまからの力石
08 /20 2021
「わが国古来の重量挙げとしての力石と、
オリンピック種目の重量挙げとを同時に見たのは、
昭和33年の富山国体のときである」

当時、北九州大学教授だった美山豊は、
1977年発行の、日本ウエイトリフティング協会の会報にそう記している。

こちらが、会報「ウエイトリフティング 特別研究号 №13」です。

このときの美山の肩書は、九州大学ウエイトリフティング連盟会長。

img20210818_03294562 (2)

地元・小倉で力石や力持ちを見てきた美山は、石挙げ重量挙げを、
精神的にも技術的にも「同質のもの」ととらえていた。

会報には、小倉での力持ちたちの貴重な体験談や、
力石をバーベルに持ち換えた飯田(神田川)徳蔵など出てきますが、
これは次回に。

下の写真は、
大正・昭和初期を代表する力持ちの神田川徳蔵です。(赤矢印・白鉢巻き)

重量挙協会理事長の井口幸男は、「徳蔵さんは石差しでは日本一の方」と。
力石の前に、当時は入手困難だったバーベルや鉄アレイが並んでいる。

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「神田川徳蔵アルバム」より

日本では長い間、石挙げや重量挙げは「特殊なスポーツ」
「ふさわしくない競技」「ただ馬鹿力を出すだけのもの」と蔑まれてきた。

終戦の翌・昭和21年(1920)、焼け跡からの復興を胸に、
国民体育大会(国体)が始まり、

重量挙げは第一回目の京都大会から競技種目に加えられた。
だが、本当に世間に受け入れられたのは、

昭和39年(1964)の東京オリンピックで、
三宅義信選手の金メダル獲得以降だという。

協会理事長だった井口幸男は、そうした偏見を払拭させ、
スポーツとしての定着と普及に執念を燃やし続けた。

戦時中、トロッコの車輪をバーベル代わりにして練習に励んだ井口幸男。
img047_2018071007025995d.jpg
「わがスポーツの軌跡」井口幸男 昭和61年より

そんな井口を美山はこう評価した。

「どんなに悪口を言われようが意に介さず、頑張り通した。
我が国の重量挙げが今日あるのは、彼の努力による」

その井口もまた、

「福岡国体(昭和23年)では、
美山が九州男児の意気を見せて成功に導いた」
と、賛辞を惜しまなかった。

こちらが昭和33年(1958)の「とやま国体」(滑川市国体)です。

天皇・皇后両陛下を迎えて。中央は競技の解説をする井口幸男です。
img20210818_03533849 (2)
同上

この滑川市の会場で、美山は、
「40歳から60,70歳くらいの大勢の老人たちが、熱心に観覧する姿」を目撃。

「これは他県では見られない光景であった」

「その観衆の呼吸が選手のバーベルを挙げる呼吸と一致するので、
不思議に思い、直ちに調査した」

「その結果、調査した方々は、
青年時代に力石を差した人たちであることがわかった」

そうしたことから、

「挙げる物が石とバーベルの違いはあっても、
石挙げも重量挙げも原理は同じことに気付いた」という。

こちらは、今回、滑川市初の発見となった富士神社の盤持石(力石)です。
写真左上の石柱には、「盤持石」と刻まれています。

盤持ち石
富山県滑川市追分・富士神社

石挙げに興じたかつての青年たちが、
重量挙げの選手の呼吸と同じ呼吸をしていた、という発見は面白い。

見ているうちに、昔の自分と選手が重なって思わず力が入り、
ここぞという所で息を止めたり、呼吸を整えたりしていたのでしょう。

観客と選手との、力のこもった一体感が浮かんできます。

美山論文、もう少し続けます。


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初!新発見!滑川市

みなさまからの力石
08 /17 2021
「卯之助石」の途中ですが、ビッグニュースのため卯之助はしばしお休み。

このニュース、一緒に喜んでいただければ幸いです。

     ーーーーー◇ーーーーー

驚きました。

昔から盤持が盛んな富山県内の町での、初めての発見ですから。

場所は富山湾に面した「滑川(なめりかわ)市」、ここです。

map_toyama_20210816163907f35.png
滑川市観光協会HPより

情報をくださったのは、これまでもたびたびお世話になっている
(株)ベースボール・マガジン社 相撲編集部門脇利明氏です。

「滑川市立博物館で開催中の展示の中に、
力石があったのでお送りしておきます」

展示とは、地元市民が活躍したスポーツの歴史を振り返った企画展、

滑川スポーツ史
「なめりかわスポーツの輝き
     ~オリンピック×高校野球×相撲~」


その中に、盤持石(力石)も紹介されていたというのです。

門脇氏が送って下さった説明板です。
滑川市1

確かに力石が並んでいます。

展示の中には、こんな珍しいものも。

「盤持大会」と大きく染め抜いた前掛けです。
大会の勝者に送られた賞品だそうです。

下部の「按田助左衛門」は、この大会の後援者でしょうか。

町を挙げての盤持大会。
当時の熱気や賑やかさが浮かんでくるようです。

滑川市前掛け

力持ちの証し

ご先祖はこの前掛けを授与されて、どんなに誇らしかったことか。
オリンピックの金メダル獲得、そんな感じだったのではないでしょうか。

ご子孫も、よくぞ今まで残してくださったものです。

で、当然この力石は「富山の力石」に収録済みと思ったら、

ありません。

それどころか、なんと、ここ滑川市の力石はゼロ

ウソでしょう!

今の今まで、一つも確認されていなかったなんて…。

富山県全体の盤持石(力石)の数は、約600個
なのに、滑川市からの報告はゼロ。

あるのは、民俗史の中に文字として残された伝承だけ。

信じられない思いと、初の発見の興奮を押さえながら、
私は慌てて門脇氏にメールで知らせました。

「あの石、滑川市で初めての力石でした!」

速攻で返事がきました。

「すべて調べ尽くされているものとばかり思っていました。
お役に立ててうれしく思います」

滑川市2

すぐ滑川市立博物館へ連絡。

鮮明な写真をお送りくださるとのこと。

ありがたい。

そうこうしているうちに、門脇氏からさらなる嬉しい知らせです。

送られてきたのは、

北九州大学(現・北九州市立大学)の教授だった
美山豊先生の論文でした。

その中に、盤持に関わった滑川市の人たちとの交流が書かれていました。


<つづく>

※滑川スポーツ史
  「なめりかわスポーツの輝き~オリンピック×高校野球×相撲~」は、
  9月5日まで、滑川市立博物館☎076-474-9200で。入場無料。

※「富山の力石」高島愼助 岩田書院 2007


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神の依り代

三ノ宮卯之助
08 /14 2021
本所 柳島 権治郎」の力石を追って、
とうとう千葉県木更津市まで来てしまいました。

この石は、発見当初から謎に包まれていた。

卯之助研究者の高崎力氏が、貴重な報告書を残しています。

当初、卯之助たちが木更津まできて力持ちをやったと思い込んで、
周辺を調べたものの、卯之助石は発見できなかったという高崎氏、

1年ほどして石のある観蔵寺の住職から、こんな話を聞いた。

「三代前の住職の時、海苔を積んで江戸へ行った船がその帰りに、
この石を船に積んできて、寺近くの山口市郎兵衛のところに置き、

近在の若者たちが集まって、力持ちをやっていた。
その後先代の時、寺で預かることになった」

それがこれです。
観蔵寺1
木更津市中里・観蔵寺 88×47×38㎝

房州での海苔の養殖は、江戸からやってきた一人の男が始めたという。

地元民の妨害に苦しんだものの、養殖が成功するに従い賛同者も増えて、
ようやくこの「上総海苔」が江戸で知られるようになったのは、「天保」の頃。

ということは、この石の刻字年号は天保の前の「文政」だから、
やはり、卯之助たちは木更津へは来ていなかったことになります。

石はやっぱり江戸にあった。

今となっては、元の場所も江戸から運ばれた理由もわかりませんが、
土橋久太郎らが、「欲しけりゃ持ってけ」などと言うわけがない。

なぜなら、

石は樹木と共に、古い時代から神が宿る「依り代」とされてきました。
現在では娯楽や見世物としての面が強調されていますが、

本来はこの神聖な石を持つことで神と一体となり、
大願成就しようと祈願して差し上げたものです。

近代になっても、戦時下の青年たちは、
「甲種合格」「戦地からの帰還」を願って、神社で石を挙げた。

村の青年たちが担いだ石が並ぶ田端神社。重量は28貫目から55貫目まで。
CIMG0976_20210812102833719.jpg
東京都世田谷区荻窪・田端神社

写真は、「東京の横綱」といわれた「田端の市さん」こと小林市松です。

市さんの近衛歩兵第一連隊の入隊が決まったとき、
「武運長久」を祈念してこの境内で石担ぎが行われたという。

「田端の市」さんは、一番重い55貫目(約206㎏)を担いだそうです。

この重量、
土橋久太郎や万屋金蔵、卯之助が担いだ観蔵寺の石と同じなんです。

江戸時代の名だたる力持ちと並ぶ若者だったんですね。

この写真は今も本殿に飾られています。戦地から戻って来なかったのかなあ。

CIMG0995_202108121031201ea.jpg

人生の大きな決断の時、若者たちは身を清め、神仏の前で石を担いだ。

他村の者に持ち去られたら、村の若者の威信をかけて取り戻した。

それほどに神聖で誉れの石だったから、
金銭でのやり取りはご法度」「腰かけたら罰する」とされてきたのです。

土橋久太郎にしても卯之助にしても、
神に認められた証しを石に刻み、感謝を込めて奉納したはずです。

石があった家の「山口市郎兵衛」という名は、
当時の木更津周辺の船主(名主)の中に見出せます。

明治以降、船運が衰退。海苔の商売も不振になり、
力持ちも廃れて石の処分に困ったのか、寺へ持ち込んだ。

だったら元あった場所へ返せばよかったのに。
そのころなら、どこから持ってきたのか知っている人がまだいたはず。

真相はわかりません。

ですが、
奉納した人の気持ちになったら、心がざわつきます。

次回は石の刻字解明に挑みます。


     ーーーーー◇ーーーーー

高島先生ブログ(8月14日)

「茨城県坂東市勘助新田・鷲神社」


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次に控(ひけ)えし力石は…

三ノ宮卯之助
08 /11 2021
権治郎、いよいよ佳境に入ってきましたよ!

とは言っても、そう思っているのは、私ぐらいかも。
それでもいいんです。

「掘り出しもの」探しは、楽し~(笑)

権治郎の出身地が「柳島」と判明したことは大きかった。

それによって、役力士として活躍していたことが番付から証明できたし、
この人が関わった石が、あと4個もあったのもわかったし、

これぞ、逸品の掘り出しもの。大収穫です。

その一つ目の石は、二之江神社にありました。

これです。
img20210808_13311756 (2)
東京都江戸川区。写真は「東京の力石」高島愼助 岩田書院 2003より

「奉納 さし石 當村 定次良 倉吉 福太郎
 柳嶋 権次(治)郎 大工町 小音 當村 定吉
 世話人 嘉七 喜右エ門 喜平 平右エ門」

太文字の二人は、天保7年の番付にも載っていました。

img20210805_14422388 (5)

「東の関脇 □□□□ 権治郎」
「西の大関 □□□□ 定吉」

□□□□の出身地名は同じです。

ただし、二之江神社の二人の地名は、それぞれ
「柳嶋」「當村」。この「當村」は「二之江村」か?

なんとか、この謎を解きたいのですが、う~ん、難しい。

2か所目は、台東区の小野照崎神社。
ここには2個、あります。

img20210808_13325303 (2)
東京都台東区下谷・小野照崎神社。同上

「奉納 六拾貫目 世話人 権治□ 吉右エ□ 市右エ門
 坂本 亀治郎 藤兵衛」

「奉納 六拾三貫目 世話人 権治郎 吉右エ門 市右エ門
 坂本 藤兵衛 亀治郎」

奉納年が彫られていないのが悔やまれますが、
ここでは権治郎は「世話人」になっています。

天保7年より、時代が下っているのかもしれません。

「さて、どん尻に控(ひけ)えしは…」

なぁんて気取ってる場合ではないんですが、

最後の石は、
あの「海苔の船」で、江戸から持ってきちゃったという、
「白浪五人男」顔負けの千葉県木更津市・観蔵寺の力石です。

ただし、これは難問。

果たして、石に刻まれた「権治良}が「権治郎」と同一人物か?

推理を働かせるのに、ちょいとお時間を…。

それまでどうぞ、歌舞伎「白浪五人男」の名場面をお楽しみください。

「弁天娘女男白浪・稲瀬川勢ぞろいの場 1」でございます。



ついでながら、こちらは、「遠州鈴ヶ森」。

「問われて名乗るもおこがましいが…」のセリフで有名な、
五人男の一人、日本駄右衛門こと日本左衛門が、
獄門(さらし首)になった仕置き場です。

今は国道(旧東海道)と住宅地にはさまれた、ささやかな土手になっています。

img20210808_19180953 (3)
静岡県磐田市富士見町

この旅日記、大昔の私の本です。新聞に連載していたものです。

ただ道なりに歩いただけではつまらない、

というわけで、
このブログ同様、寄り道、回り道ばかりしていました。

で、この日本左衛門、本名・浜島庄兵衛。父親は尾州の武士。

「盗みはすれど非道はせず」は芝居の中だけのこと、
本当は200人もの手下を持つ、大変な悪党だった。

でも、鼻筋通った美男で、モテモテ。
恋人がこの仕置き場から首を盗んで逃げた、という話も伝わっております。

これがほんとの「首ったけ」…。


     ーーーーー◇ーーーーー

高島先生ブログ(8月11日)

「福井県坂井市春江町金剛寺・春日神社」


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番付から見えてきたもの

三ノ宮卯之助
08 /08 2021
「本所 権治郎」に関する番付を見ていきます。

力持ちとか番付には、トンと興味のない方には申し訳ないけれど、
これ、大事なところなんで、ゴメンね。

さて、今回お話しするのは、権治郎の番付についてです。

北斎が描いた力者
20140623132845d74 (3)

下の番付は天保4年(1833)4月のものです。場所は深川八幡宮。

中央赤丸は、筆頭行司の「土橋久太郎」です。
右上の赤丸は鬼熊こと熊治郎。

今回、注目していただきたいのは、黄色の丸の中です。

関脇や小結、前頭の地位と名前とのあいだの文字、
ここには、力士の出身地が書かれていますが、小さくて不鮮明。

試行錯誤の末、ようやく判読。
これ、「栁嶌」だ!

「してやったり」

「やりましたね!」と、猫の卯之助も大喜び。
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「まるいし おもいし ちからいし」江戸川区郷土資料室。2015より

意気揚々と、斎藤氏に「読めたドーッ!」とメールしたら、
速攻で、「柳島は、10日も前にメールで知らせたはず(怒)」と。

ありゃあー。

「天保4年の番付が出て来て、ほかのと何日も何度もすり合わせを重ねて
ようやく導き出した」とある。

も、もうしわけない。

とりあえず、そのとき欲しい情報のみ読むという、私の悪いクセが出て、
メールの後半を飛ばし読みしていたのがバレました。

ひらにお許し願いつつ、話を続けます。

黄色の丸の中に、

西の関脇に、「本所 □□ 金蔵」
同じく小結に、「同 栁嶌 権治郎」
同じく前頭に、「同 四ツ目 政治郎」

と、あります。

天保4年の番付。
天保4年富岡八幡 (3)
江戸東京博物館蔵

「栁嶌」は、「柳嶋(柳島)」のことです。
 ※ 現・東京都墨田区

このことから、権治郎「本所・柳島」の住人だったことがわかりました。

そして有名な「土橋久太郎」とのつながりも、ここから見えてきました。

この番付には「卯之助」はまだ、出てきません。

しかし、この2か月後、卯之助は自らを東の大関に据え、
地元・岩槻周辺の仲間たちを集めた「御上覧力持番付」で登場します。

高崎氏はこれを、「将軍家斉のご上覧」としていますが、
それはどうかなぁということを、
「卯之助には悪いけど」で、お話ししました。

これについては別の「力持ちご上覧」を例に、改めて述べます。

柴田勝次郎の「臼の曲持ち」。太ももがまぶしい。
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さて、先の番付から3年後の天保7年
権治郎は、今度は東の関脇へと出世。(赤丸)

でも、ここに書かれた出身地の文字、「本所柳島」とはちょっと違うような…。

これに関して、斎藤氏はこんな意見を。

「判読困難で、江戸柳島にも本所柳島にも見えません。
別の地名なら別人になりますが、しかし、
卯之助、熊治郎と同時代で、しかも役力士の権治郎は何人もいるはずがない。
今は同一人物かと考えていますが…」と、慎重。

疑問は残りますが、今は同一人物として、話を進めていきます。

このときの筆頭行司は、「四ツ目吉五郎」です。(青丸)

この人も、
鬼熊本町東助などの有名力持ちと交流があった大物です。

そして卯之助は、西の関脇として、さっそうと登場します。(黄色の丸)

天保7年の番付。
img20210805_14422388 (3)

それから12年後には、どうなったかというと、
嘉永元年(1848)6月の番付をご覧ください。

苦節12年。卯之助はとうとう東の大関という最高位を獲得。

やりましたね!

日本一の力持ち!
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卯之助このとき、41歳。

その隣は、関脇の「権治郎」です。

権治郎さん、とうとう「大関」には、ならずじまい。
この人の年齢は不明ですが、卯之助より年長かと思います。

このときの出身地名は、
卯之助「江戸 三ノ宮」
権治郎「同 栁嶌」

鬼熊こと熊治郎は、西の大関です。(黄色の丸)

世間一般では、西より東の方が上位とされていますから、鬼熊、残念。

さて、卯之助と権治郎、ふたりとも「江戸」を名乗っていますが、
なぜかというと、

これには「名古屋」「大坂」「兵庫」など、
上方の力持ちが大勢参加しているからです。

東西の力持ちを集めた大規模な興行だったのかもしれません。

嘉永元年の番付。
img20210805_14430530 (3)
山梨県立図書館蔵

この東西の力持ちの中から、卯之助は最高位に輝いた。

名実ともに、江戸の力持ちとして認められたのです。

この嘉永元年には、さいたま市の大門神社で「大王石」を、
また、越谷市の三野宮香取神社で「大盤石」を足で差すなど、
超重量の石を盛んに差しています。

NHKBS・埼玉発地域ドラマ「越谷サイコー」で紹介された「大盤石」です。
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さて、こうして番付を見てきたら、
おのずと卯之助権治郎「接点」が見えてきました。

そこからさらなる展開があるはず。もうワクワク。

こんな重要な資料なのに、
諸先輩方は、なぜ、権治郎の番付を無視してしまったのか。

ちぃ~ッと偉そうなことを言わせてもらえば、
木を見て森を見ず。

みなさん、卯之助本人にばかり気を取られていたとしか…

おーい、忘れられた男、権の字

卯之助の背後から引っ張り出してやったこのアタシに、ちったァ感謝してよねッ!


     ーーーーー◇ーーーーー

高島先生ブログ(8月8日)

「千葉県君津市根本・白山神社」


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忘れられた男

三ノ宮卯之助
08 /05 2021
「本所・権治郎」

力石研究者には、影の薄い存在です。

ですが私は、この人こそ卯之助の江戸進出に力を貸した
影の功労者ではないかと思っているんです。

力持ち名鑑ともいうべき「石に挑んだ男達」には、
本所・権治郎の記録は、卯之助と連名の2個の石のみ。
 =「石に挑んだ男達」高島愼助 岩田書院 2009=

卯之助研究の高崎氏の報告書にも、2個の石しか書かれていない。

調査当時の判断として、まっとうな結論です。

しかし、過去の出来事は誰にもわからない。
捏造や思い込みなどの間違いも多い。当然、見落としもある。

それを見極めて修正していくことが歴史だとしたら、
そこに想像力を働かせて解いていくことも許されるのではないか。

歴史学者の網野善彦氏が言った「歴史には想像力が必要だ」、
この言葉を味方に、この記事を書いてまいります。

そのことを含めながら、「本所・権治郎」をお読みくださったら幸いです。

3個の内、2個が卯之助本所・権治郎連名の石。
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東京都江戸川区北小岩・北野神社

卯之助石には他人との連名の石はほんのわずか。
そのわずかな人の中に、何気なくこの人が入っている。

その何気なさが私には妙に気になった。

卯之助が憧れ、目標にしたという
芝土橋の魚屋「土橋久太郎」や飯田町の酒屋・万屋の金蔵は、

江戸市中だけでは飽き足らず、文政8年から9年にかけて、
それぞれ香具師に頼らない「素人一座」を組んで上方へ出かけた。

金蔵一座は名古屋の大須で大当たり。

〽 樽と俵の曲をなす 互いの力 腰と手に、
   ぬかりは見えぬ五大力


と、替え歌まで作られて遊里で唄われるほどの人気。

久太郎組は大阪の難波新地で興行。

この組には私のお気に入り、美男の木村与五郎や、
米搗き屋の柴田勝次郎もいた。

錦絵に描かれた木村与五郎。「美男薄命」で、若くして世を去った。
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勝次郎は、元柳橋河畔の「大王石」を持った人。

この石は、私が、
明治初年に来日したフランス士官撮影の写真から見つけ、
誰が持った石で今、どこにあるのかを、しつこく追いかけたものです。

お暇な人もそうでない人もぜひ、ご覧ください。

「柴田幸次郎を追う」

この久太郎や金蔵たちは、ご上覧にも浴していますが、それは後述。

しかし、関西へ出掛けて行ったのは久太郎たちばかりではなかった。

実は、本所・権治郎も自ら一座を組んで、出かけていたのです。

久太郎たちに遅れること4年後の文政13年(1830)11月、
現・名古屋市中区末広町の若宮にて、力持ちを披露。

このときの力持ちは、江戸・権治郎を筆頭に、
竹治郎、安治郎、清治郎、定治郎、伝治郎の6人。
全員、頭に江戸がついている。

故意か偶然か、オール「治郎」で決めています。

権治郎名古屋権治郎
「見世物雑志」小寺玉晁 郡司正勝、関山和夫編著 三一書房 1991

「大いに評判よろしく」だったそうです。


     ーーーーー◇ーーーーー

高島先生ブログ(8月5日)

「さいたま市見沼区宮ケ塔・氷川神社」


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チャンス到来

三ノ宮卯之助
08 /02 2021
卯之助の力石には、あまり他の力持ちの名前はない。

あってもせいぜい久蔵大木戸仙太郎のように一人が多く、
あとはほとんど卯之助単独

かたや鬼熊こと熊治郎の石には、
共に担いだ者や世話人名がズラリと並ぶ。

その顔触れもまた見事で、伊豆大島出身の伝吉や、
天才画家の河鍋暁斎の飲み友だちで、東都力持ち界に君臨した本町東助
粋な八丁堀亀嶋平蔵内田屋万屋両方の金蔵など大物ばかり。

渡辺崋山に描かれた飯田町・万屋金蔵です。
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大島伝吉は近年、児童書の主人公になりました。

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「伊東むかし話」山本悟 サガミヤ 2018

鬼熊は、兵(つわもの)ども揃いの一門を率いて、飛ぶ鳥を落とす勢い。

極めつけは、
浅草の大親分・新門辰五郎に目を掛けられたことでしょうか。

そこへいくと我らが卯之助は冴えません。

埼玉や神奈川という江戸周辺を一人でボソボソ。

この違いはどこからきているのかというと、
「正業」を持っているかどうかにあったと、私は思うのです。

鬼熊は酒問屋・豊島屋の看板「たるころ」ですが、
卯之助は力持ちを職業とした旅の見世物芸人

こちらは、6歳と9歳の少年の「子供力持」
大須門前(名古屋市)。文政11年。

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「寛政文政間日記」高坂猿猴庵

関西の力持ちは子連れのプロ集団として一座で動きましたが、
関東では「力持ちで金をとるのは卑しい」という風潮があって、

卯之助は、少し蔑まれていたのかもしれません。

そこで「なにくそ」
と奮起したのか、大木戸仙太郎と競演した翌天保3年、

春日部市で百貫目(375㎏)の大石を持ち上げてしまいます。

石の実重量は八掛けというのが、当時の常識とはいうものの、
それでも凄いことに変わりはない。

卯之助このとき、25歳。

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埼玉県春日部市粕壁東・東八幡神社

後援者は「伊勢講中」

伊勢講とは、
伊勢神宮参拝のため、資金を積み立てて代表者を送り出した組織。

江戸末期、お伊勢さんへ行くのが大流行し、
子供からまで出かけたというのだから、なんともはや。

主人の代参で、「おかげまいり」にやってきたお利口なワンくん。
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「伊勢参宮 宮川の渡し」の部分。広重・画

この伊勢参り、

蘇(よみがえ)りといわれる60年目が特別な年だそうで、
卯之助の興行は、その3年後だった。

伊勢講の人たちは、旅の興奮冷めやらぬ余勢を駆って、
「ええじゃないか、ええじゃないか」とノリノリで、
卯之助を招いたのかも。

卯之助もノリまくって、百貫目もの石を持ち上げてしまいました。

東八幡神社の卯之助石をスケッチしたもの。
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酒井正・画

100貫目の重さの石は、
6年前に最初の師・肥田文八が、さらに2年前には鬼熊が持った。

とうとう卯之助はそれに並んだというわけです。

どうやらこれが江戸進出の起爆剤になったようです。
お伊勢さんの御利益は抜群です。

チャンスは続くよ、どこまでも、というわけで、

やがて、
本所・権治郎との出会いが、それに拍車をかけます。


     ーーーーー◇ーーーーー

高島先生ブログ(8月2日)

「三重県伊勢市青山町鹿野・八柱神社」


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雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞