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芝・高輪大木戸

三ノ宮卯之助
07 /30 2021
木更津市・観蔵寺にある力石を本郷久蔵と担いだ翌・天保2年(1831)、
卯之助は地元の有力者・会田一族の一人と思われる
會田権四郎の支援を受けます。

それが久伊豆神社の五十貫目の石です。
卯之助このとき、24歳。

ただし、「會田権四郎」の名のある石はこれのみ。

CIMG1091 (4)
埼玉県越谷市越ケ谷・久伊豆神社

この会田一族、

元・武士で北条方系とか上杉方系とか、
静岡会田家なんてのもあって複雑ですが、
とにかくこの地に落ち延びて商人になったとか。

ちなみに、千葉・関宿会田氏は、佐倉から葛西、栗橋間の
船の通航権限を持つ河岸問屋として栄えたそうです。

さて、この同じ天保2年、
久蔵に代わって「芝・大木戸仙太郎」が登場します。

仙太郎の石6個のうち、5個が卯之介との連名です。
で、その奉納場所がすべて神奈川県なんです。

下のURLは、「狛犬見聞録」というブログです。

ブログ主さんは、「日本中の神社を参拝して歩こうと思い立ち」、
狛犬に会うために、ご夫婦で全国を歩かれたそうです。

素敵ですね。

そうして歩いているうちに、
「今、記録しておかなければという危機感と使命感も生まれてきた」
と、語っています。

冒頭の写真の右端に、卯之助仙太郎力石が写っています。

力石が置かれた場所や雰囲気がよく出ていて、
「いいなあ」と思い、掲載させていただきました。

「諏訪神社(綱島東」

さて、この仙太郎、「芝 大木戸」と名乗っていることから、
「高輪大木戸」の木戸番か、その周辺の人だったのではないか、
と私は思うのです。

こちらは「江戸名所図会」「高輪大木戸」です。

大木戸国会図書館

木戸とは、
治安維持のため、時刻を決めて門を開閉し通行を制限した番所で、
そこで働いていたのが木戸番です。

ここ高輪大木戸は、東海道から御内府へ入る重要な入り口。
一番にぎわったところだそうです。

木戸番は火消しも兼ねていたそうですから、
仙太郎のような力持ちがいたとしても不思議ではありません。

大名行列も通りますし。

「東海道名所之内 高輪大木戸」 二代広重
d2_1309476_SIP.jpg
国会図書館デジタルデータより

余談ですが、
夜の大名行列を見た人の話を読みました。

沿道には誰もいないのに、足並みを揃え一糸乱れぬ隊列で
音もたてず、影絵のように夜のしじまにスーッと溶け込んでいったそうな。

背中がゾクッとしたそうですが、私もゾクゾクッ。

こちらは初代広重が描いた「高輪之夕景」です。

天保3ー4年ごろの風景だそうですから、
仙太郎と卯之助が横浜や川崎で盛んに石を担いでいたころですね。

初代広重大木戸
同上

この大木戸の跡には、今も高札を掲げた石垣が残っているそうです。

さて、その大木戸仙太郎、

この人もまた、本郷久蔵同様、
天保4年6月の「御上覧」番付と引札に名を残して、消えていきました。


     ーーーーー◇ーーーーー

高島先生ブログ(7月29・30日)

「岐阜市世保・八幡神社」

「広島県玖珂郡和木町瀬田・瀬田八幡宮」


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足跡を追う

三ノ宮卯之助
07 /27 2021
卯之助の力石は所在不明も含めて、39個

そのうち、年号のわかるものが18個。
あとの21個とあわせて、卯之助の足跡を追ってみます。

最初はホームグラウンドの越谷市を中心に、埼玉県内を歩いています。

このころの師匠は同郷の岩槻・長宮村の肥田文八です。

文政8年(1826)、石に初めて名前が登場。=埼玉県久喜市・琴平神社。
 このとき卯之助、18歳
 
肥田文八ほか3名の大先輩と並んで、自分の名前が刻まれたのですから、
嬉しかったでしょうね。

文八は文政9年、千葉県野田市の八坂神社で石を持っていますが、
その4年後、鬼熊がそれに挑戦していますから、

江戸の力持ちにも知れたひとかどの力持ちだったのでしょう。

この八坂神社での奉納力持ちから16年後の天保13年の石に
文八の名がありますから、老いてもなお、がんばっていたようです。

それがこちら。「長宮 肥田文八清行」と刻まれた「八雲石」です。
img20210725_10292195 (2)
さいたま市大宮区高鼻町・氷川神社。酒井正・画

肥田文八の次に卯之助が行動を共にしたのは、
江戸の力持ち、本郷(小島)久蔵です。

久蔵と連名の石は全部で4個。

そのうち年号がわかるものは、文政13年(1830)の1個のみで、
現在、千葉県木更津市・観蔵寺にあります。

このとき卯之助、23歳。

この石は卯之助と久蔵が担いだ7年前の文政6年に、
土橋久太郎、万屋金蔵、権治郎などの
江戸力持の重鎮たちが担いでいますから、

卯之助と久蔵は、有名な力持ちにあやかろうと挑戦したものと思われます。

で、江戸の力持ちたちはこの文政6年と13年に、
房州・木更津までやってきて力持ちを披露したのか、というと、

どうも違うらしい。

かつて観蔵寺を訪ねた高崎氏に、住職はこんな話をしたという。

「房州の海苔を積んだ船が帰りに、
江戸からこの石を乗せて運んできた。
最初、市郎兵衛の家にあったが、のちに寺で預かったと先代から聞いている」

「不二三十六景 上総木更津海上」 安藤広重・画
安藤広重木更津

早い話が「持ってきちゃった」みたいなんです。

だから、土橋久太郎たちも卯之助たちも、
木更津には来ていないということになります。

「上総海苔」が江戸へ知られるようになったのは、
天保の頃だそうですから、=「人づくり風土記 千葉」組本社 1990)=

「持ってきちゃった」のは、やはり卯之助たちが担いだ後ということになります。

さて、古くから江戸湾を航行していた房州の船主たちは、
徳川の時代になってもその権利を主張して、幕府お墨付きの特権を得た。

江戸に特別の河岸もいただき、わがもの顔にふるまうため、
隅田川で木更津船に出会うと面倒を恐れて、他国の船は避けて通ったとか。

お上の「旅人は陸路で」のお達しを無視して、船にどんどん乗せて運ぶ。

夜間も船を出すので、
脛に傷を持つ者や荒くれなどの危ない客たちに重宝されたそうな。

その木更津、

「イヤサお富、久しぶりだなァ」

のセリフでおなじみの、歌舞伎「切られ与三郎」の舞台になったところ。

役者は河原崎權十郎。豊国・画
切られ与三
「早稲田大学データベース」より

モデルは実在の人物で、地元の親分の囲い者に手を出したため、
全身切られて海へ放り込まれた。

が、奇跡的に助かって、
そののち長唄の師匠として出た江戸で、かつての恋人とばったり。

詳しくはご自分で調べてね。

で、その人物のお墓がなぜか、
光明寺(木更津市)と最福寺(東金市)の2か所にあるんです。

このまま「イヤサ、お富」にはまり込むと大変なので、先を急ぎます。

卯之助と久蔵連名の力石4個のうち、
1カ所は先述した千葉県木更津市で、あとの3個はさいたま市と越谷市です。
  
img20210517_19270296 (2)
さいたま市岩槻区釣上・神明神社 酒井正・画

しかし、この文政13年を最後に久蔵は、
卯之助の前からプッツリ姿を消してしまいます。


     ーーーーー◇ーーーーー

高島先生ブログ(7月27日)

「さいたま市岩槻区長宮・香取神社」


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卯之助には悪いけど

三ノ宮卯之助
07 /24 2021
卯之助のご上覧番付をあえて検証していきます。

卯之助研究者の故・高崎力氏は、研究報告書でこう述べています。

「天保4年6月、江戸深川八幡境内で11代将軍家斉のご上覧を賜った。
卯之助は将軍ご上覧唯一の力持ち」

これは凄いことです。

将軍家斉の治世はなんと50年。
この50年の間に、文化・文政という江戸文化の花が開きました。

でも、こんな話も。

政治は側近に任せて大奥へ入りびたり。子供が50人余できた。

きっと徳川家が絶えないよう、がんばったのでしょう(苦笑)

第11代将軍徳川家斉
家斉

将軍の相撲上覧は、この人から始まったそうですが、

その上覧までの手順を、「学習院大学史学会・第15回大会記念講演」、
「相撲の社会史」高埜利彦氏のレジュメから拝借。

相撲年寄りたち(勧進元)が上覧相撲を挙行したいと奉行所に申請。
幕府に、取組書、明細書を提出。(文化6年)
 この間、何度もやり取り。
  
この時の人数が、
相撲取り228人と行司以下合わせて426人。凄い数です。

で、ご上覧は全部で7回あり、そのうち5回までが家斉のとき。

最初は寛政3年(1791)6月。
場所は7回とも吹上御所で、特設の土俵を築いて行われた。
 ※この相撲上覧には別の説もある。後日ご報告します。

初回の取り組み力士は、二代・谷風梶之助小野川喜三郎。
これに雷電為右衛門が加わったという。

jpegOutput.jpg
国立国会図書館デジタルデータより。勝川春草・画

推挙の藩主に「お上の覚えめでたい存在に」という下心があっても、
はたまた相撲界の「これでをつける」という目論見があったにしろ、

まさに、上覧相撲の名に恥じない
当代一流の最高最強のメンバーを揃えました。

ここで私が何を言いたいかというと、身分制度もあって(これは重要です)、
将軍上覧はそんなに「簡単にできなかった」ということなんです。

また推挙には藩主や奉行、勧進元といった
それ相応の有力者がいなければ成り立ちませんから、

果たして地方でちょっと名が売れ出しただけの若造に、
幕府相手に交渉できるほどの後ろ盾がいたのかどうか。

いたとすれば、誰が卯之助を将軍に推挙したのかが気になります。

下の写真は、手作りの卯之助の位牌です。
最後まで卯之助と行動を共にした興行師が持っていたという。

この興行師が幕府に働きかけたなど、まずあり得ません。

img801.jpg

斎藤氏によると、卯之助ご上覧の世話人として名前があるのは、
地元民6人、練馬が2人でいずれも有名力士ではない」とのこと。

高崎氏は、
「卯之助は仲間を東西に分けて番付を作成した」と述べていますが、

力士は一介の駒にすぎず、相手は恐れ多くも日本国の最高権力者です。

私はあり得ないことと思っています。

こちらは卯之助の上覧力持ちと同じ年の4月に、
深川八幡神社で行われた勧進相撲の番付です。

天保7年富岡八幡
東京都江戸東京博物館所蔵

中央の「江戸力持」の下に世話人筆頭として、
当時、権勢を誇っていた一人、「土橋久太郎」がいます。

同時代に、もう一人の実力者、飯田町・万屋金蔵、
そしてもう一人の金蔵、内田屋の金蔵もいました。

この人たちの背後に控えていたのは、酒問屋や魚問屋という大商人です。

このときの卯之助の後ろ盾は、力持ちの師と仰いだ肥田文八ぐらいです。

右上が土橋久太郎です。
20170522091105432_202107222245383e7.jpg

そしてこの番付では、鬼熊(熊治郎)が堂々の東の大関です。

天保4年という同じ年の、卯之助と鬼熊二人の番付を比較すると、
番付表の作りや力士の格に差があり、人数も大幅に違います。

力士・世話人の総人数は卯之助54人に対して、鬼熊は倍近い97人。

これを見た斎藤氏、

「越谷周辺の力士を集めた卯之助に対して、鬼熊は、
江戸市中のバリバリの力士を動員して、向こうを張った感があります」

将軍家斉は吹上御庭での相撲のほかに、
社参で祭りを見たり、品川沖であがったを浜御殿で見物したそうですから、
あるいはそんな折に、とも思いましたが、

品川沖にあがったクジラ。見世物に出されたとか。
kujira14.jpg
品川歴史館所蔵(東京都品川区)

卯之助の興行場所と将軍上覧の確たる証拠が出ない限り、
番付一枚で、「深川八幡で家斉の御上覧」と言い切ることはできない、

と、私は思うのです。

ご上覧という言葉は、なにも将軍の専売特許ではなく、
藩の殿さまなど身分の高い人に対しても使われました。

「天保四年の上覧なら、将軍は家斉だったから、この上覧は家斉だ」
とするのは、少し、短絡的だと思います。

場所の判読も含めて、今一度、検証してみる必要があるのではないでしょうか。

専門的知識のない私メの勝手な推測で恐縮です。

みなさまのご意見など、お聞かせいただけたら幸いです。

力み過ぎて長い文章になりました。反省


ーーー参考までに

文政6年の「相撲上覧一件」を掲載しておきます。
分冊ノ1と2があり、国会図書館デジタルコレクションで見ることができます。

jpegOutput (1)

jpegOutput (2)


     ーーーーー◇ーーーーー

高島先生ブログ(7月23日)

「静岡県伊東市宇佐美・城宿会館」


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江戸っ子といなかっぺ

三ノ宮卯之助
07 /21 2021
三ノ宮卯之助
武州岩槻領三野宮村(現・埼玉県越谷市三野宮)生まれ。

家の前を流れる元荒川で、小揚げ人足をやっていた。
のちに、力持ちを職業とし香具師(やし=興行師)と共に各地を巡業。

かたや鬼熊は、
江戸の宇喜多(現・東京都江戸川区宇喜多町)出身。

「江戸名所図会」にも描かれた酒問屋「豊島屋」(十店)の、
今風にいえば「正社員」

のちに居酒屋の主人になった。

img322.jpg

豊島屋本店は、徳川家康が江戸入城した年から今日まで、
約420年も続く老舗中の老舗。

今も営業を続けているというのが凄い!

江戸時代、ここの白酒が大評判となり、

「山なれば富士、白酒なれば豊島屋」と詠われ、

桃の節句ともなれば、
「遠近の輩、黎明より肆前(しぜん=店の前)に市をなして賑わえり」

という状況だったという。

img322 (2)
「江戸名所図会」「豊島屋酒店 白酒を商ふ図」 天保7年

超有名企業に勤め、これまた誰もが一目置いた「たるころ」の鬼熊。

そのたぐいまれな膂力(りょりょく)は、もっぱら、
寺社に無料で奉仕する奉納力持ちに向けた。

三田村鳶魚は、そういう鬼熊を、
「その職業を守って、
好んで香具師の手の下に潜り込まなかったのは快い
と、称えた。

江戸っ子いなかっぺのこの二人は、
わずか4歳違いで、ほぼ同時代を生き、

同じように図抜けた力量の力持ち力士だったが、
その生きざまはずいぶん違った。

二人揃って名前を刻んだ力石はなく、
あまり交わることがなかったのではないかと思います。

こちらは、天保四年六月の年号がある
卯之助の「御上覧力持」の番付と引札です。

御上覧とは、将軍や各藩の殿さまなどに妙技を披露することです。

img20210719_09272402 (2)

この番付では、卯之助は最高位の東の大関の地位にあります。

この時、卯之助26歳
力持ちとしては上り坂に差し掛かった頃。

そんな卯之助が、
並みいる江戸の力持ちを差し置いてのご上覧。

番付が存在するのだからあったのだろうけれど、うーん?

それに、この番付、いささか不可解。

まず、場所です。

引札は「□□川八幡宮境内」とあり判読不能。
「深川」の当て字とも考えられますが、現時点ではわかりません。

「見世物興行年表」の著者も江戸としつつ、「場所不明」としています。

右の欄外に「甲府」、左の欄外に「石和」の文字があるのもよくわかりません。

登場人物も解せません。

番付に記されたメンバーでやや名の知れた者は、
東の関脇・大木戸仙太郎で、
ご上覧の2年前、横浜付近で卯之助と組んで盛んに興行を行っています。

名が知れたといっても、横浜近辺に力石を残すのみで、
番付登場もこれ一件だけ。

そしてもう一人は、西の大関・肥田文八
あとは越谷周辺の「いなかっぺ」ばかり。

こちらは文政9年に肥田文八が持った石を、
5年後の文政13年に熊治郎(鬼熊)が挑戦した「百メ目余」の石です。

文八、熊治郎の二人の名が刻まれています。

img20210721_07233528 (2)
千葉県野田市瀬戸・八坂神社

肥田文八は、元荒川上流の長宮村の豪農。

下流の瓦曽根河岸で働く卯之助のことが文八の耳に入り、
師弟関係を結んだという。

年齢が親子ほども違う二人。もちろん、肥田文八が師で卯之助が弟子。

このご上覧の2か月前、鬼熊は「深川八幡宮」で奉納力持ちを行っています。
もし卯之助のご上覧の場所が同じ「深川八幡宮」だとしたら、

いなかっぺの卯之助がご上覧の栄に浴し、
江戸っ子で、門人がぞろぞろいる鬼熊に声がかからなかったのは、

どういうこっちゃ、と、こうなるわけです。


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鍵を握るのは…

三ノ宮卯之助
07 /18 2021
東京浅草の合力稲荷神社にある卯之助の「足持石」は、
弘化四年(1847)三月、
浅草寺奥山での力持ち興行に使われた力石と判明した。

ではなぜ、奥山から合力稲荷へ運ばれたのか。
どんな理由で、誰の指示でわざわざ運んだのか。

今回は、この謎解きに挑戦いたします。

見事解けましたら、ご喝采 

「奥山」「浅草寺」「合力稲荷神社」の位置を示します。

浅草寺のすぐ裏にこの稲荷社が書かれた地図があったけれど、
どうなんでしょう。

とりあえず現在の地図ではこうなっています。(合力稲荷神社)
img20210717_10172573 (2)

さて、物事をひとひねりして考えなければ面白くない、
と、いささか素直さに欠ける私、

斎藤氏に送っていただいた番付と、しばしにらめっこ。

そこでハタとひらめいたのが、「鬼熊こと熊治郎」です。

鬼熊は酒問屋豊島屋(十店)の「たるころ」で、

「力量、衆に勝れしより、名前の上に鬼という文字をのせて
鬼熊と呼びなせり」

鬼のように強い男と、当時の誰もがその力量を絶賛。

たるころ=関西などから運ばれた酒樽を船から河岸にあげ、
        酒蔵へ運び入れる者のこと。
        樽を転がすことから「たるころ」と呼ばれた。

この人が鬼熊です。
60近くになって柳原の土手下に居酒屋を開業。そこの主人に納まります。

醤油樽を両手に下げ、縄をかけた4斗樽を下駄にして歩いたという。
鬼熊絵本風俗往来
「絵本江戸風俗往来」菊池貴一郎 東陽堂 明治38年

江戸の文化・風俗研究家の三田村鳶魚(えんぎょ)は、

「柳原の土手を下りたところに、鬼熊横町というのがあった。
私の子供自分に、
縄のれんの店頭に力石がいくつも置いてあったのを見覚えております」

と、著書に記しています。

※「三田村鳶魚全集・第15巻」中央公論社 昭和51年
※三田村鳶魚(明治3年~昭和27年)

「絵本江戸風俗往来」の著者・菊池貴一郎(四代広重)は、
鬼熊は一人ではないという「鬼熊複数説」を取っていますが、
三田村鳶魚は一代説。

墓石もあることから、現在では同一人物説が定説となっています。

鬼熊が持った力石の後ろに、頭だけ見えているのが墓石です。
CIMG0734 (3)
東京都世田谷区北烏山・妙寿寺

名前に鬼の文字を冠した人物は複数います。

同時代には、
水戸様ご用の馬士(まご)「千住の鬼熊」なんてのもいました。
※「幕末百話」篠田鉱造 岩波書店 1997

この鬼熊は大変な乱暴者で、「水戸御用」の虎の威を借り、
「このサンピンざむれえ」と武士にまで食って掛かる。

大男の上に膂力(りょりょく)は3人力というから、誰も手出しができない。

でも安政二年の夏、ついに「パラリ、ズーンと斬られてしまった」とか。

話が横道に逸れました。
卯之助の「足持石」はなぜ、合力稲荷神社へ運ばれたのか。

このを握るのは、「鬼熊」以外にない。

私はそう睨んだのであります。

この推理があたっているのか、はたまた妄想なのかは
読者のみなさまの判断にゆだねるとして、

次回より解き明かしてまいります。


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父と歩けば

三ノ宮卯之助
07 /15 2021
ここで少々脱線。

私の見世物見物の体験をご披露します。

隣町に大きな神社があって、
祭礼のときには近隣から人々が押し寄せました。

母も負けじと子連れで祭りへ出かけた。
しかし、兄や姉たちは高学年になるにつれ離れていき、
いつしか末娘の私だけが取り残されて、母から声も掛からなくなった。

それを不憫に思ったのか、ある年、父は山越えで私を連れ出してくれた。

山越えは、満員電車が苦手な私を思ってのことだった。

今思うと、8、9歳の足でよくあの峠道を歩いたと思います。

写真は、台風のたびに流された吊り橋です。
これを渡って対岸の山を越えると、隣り町へ行けました。

近所にカメラ好きの青年がいて、私たちはよくモデルになりました。
田舎で個人がカメラを持っているのは珍しいころです。

今は亡き長兄と次姉と。真ん中が私。
img20210711_22002567 (3)

道々、貝の化石を拾ったり、
普段は無口な父が山の伝説を話すのを意外な思いで聞いたり、
おにぎりを食べたりして、
ようやく峠へ立った時、眼前に雄大な富士山が…。

左右に大きく裾野を広げ、その懐に家々を抱いて…。

はるか眼下から風に乗って、祭り太鼓が聞こえてきた。
その切れ切れの音を目指して、私は転がるように坂道を駆け下りた。

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あの時の感動は今も鮮明です。

父が万病に効く「ガマの油」なる薬を買って土産に持ち帰り、
母に散々嫌味を言われたのは、確かこのときだった。

母や兄姉たちと行ったときは、見世物小屋に入りました。

「親の因果が子に報い~」という呼び込みに、姉が入りたいとせがむ。
人間の女と熊との間に生まれた「熊娘」を見せるというのだ。

こちらは「熊娘」ならぬ「鬼娘」の見世物。

「生まれながらに頭には角が生え、口は裂けて二本の牙」
との呼び込みに入ってみると、偽装した普通の娘だったという。

img20210711_21462740 (2)
「安永版鬼之趣向草所蔵」

で、熊娘はどうだったかというと、

がらんどうの小屋の中に、
厚化粧の年増がただ一人、椅子に座ってたばこをプカプカ。

黒い毛糸を垂れ下げた長靴下をはいた足を、
時々、見物人の目の前に突き出すだけ。

その足元に「熊娘」と書いてあった。

出口にクリカラモンモンのコワモテがいて、高額料金を吹っ掛けてきた。

そうか。呼び込みが、
「お代は見てのお帰り~」と言ってたのは、こういうことだったのか。

ぼったくられた母は外へ出るなり、姉に向かって怒りを爆発させた。
「アンタが見たいなんて言ったから!」

こちらは、今なら水族館でお目にかかる「アザラシ」です。
江戸のころはなんだかわからず「オバケ」と呼んで見世物にしていた。

img20210711_21491963 (2)
「巷談街説所蔵」

「熊娘」に比べたら、前年見た「ろくろっ首」は、まだ芸があった。

粗末な舞台に男が一人ちょこんと座っていて、
だいぶ人が入ったなぁという頃合いに、どろどろどろと太鼓が鳴った。
すると、顔だけが胴体から離れてスルスル上がっていった。

「種も仕掛けもない」と言っていたけれど、なんのことはない。

幕の後ろに顔だけ出した人と膝だけ出した人が二人いて、
太鼓が鳴ると幕の切れ目から顔を出していた一人が立ち上がるだけ。

「まんが日本昔ばなし・しょうじょ寺の狸ばやし」
にっぽん昔話
企画・グループ・タッグ 二見書房 昭和52年

落語の二人羽織の見世物編ってとこだ。

でも、見物人は大笑い。しかもこの一座には、
ぼったくりの恐い兄さんがいなかったから、みんな笑って小屋を出た。

「のぞきからくり」を覗くと、ただ女優の写真が貼ってあるだけ。
別に腹立たしくもなかったのは、
見世物とは「口上の芸」と子供心に納得していたから。

祭りで唯一、緊張したのはサーカス。

綱渡りもそうだけれど、大きな球形の鳥かご状の中を、
オートバイ乗りが2台、3台と走り回る芸は今でも拍手を送りたい気分です。

兄や姉は「あれ食べたい」「これ買って」だったけれど、
私は何も欲しがらない子供だったので、母から、

「アンタは張り合いがない。アンタにだけ買ってやらないなんて外聞が悪い。
何でもいいから、これ、欲しいと言いなさい」と叱られて、
半べそで、欲しくもないゼンマイ仕掛けのブリキのカメを指さした。

私はただ、寡黙なおじさんの指先からサラサラ流れる色砂が、
画紙に落ちた瞬間、美しい絵や文字になる砂文字や、

あっという間に様々な動物を生み出すしんこ細工のおじさんの妙技を、
飽かず眺めていたいだけだったのに。

様々に歪んだ鏡に自分の顔を映す「七面鏡の見世物」
「己が姿をうつして見るなり。とんだおかしき物也」

img20210711_22025905 (2)
「見世物雑志」小寺玉晁

普段の暮らしの中へも、こうした「異次元世界」の人々が現れました。

玄関の戸を細く開けて、
一の俵が舞い込んだ」と言って、藁製の小さな俵を投げ込み、
スルスルと引き寄せては片目をのぞかせ、

反応がないと、「二の俵が舞い込んだ」と言い、
延々、同じ所作を繰り返した物乞いさん。

「キツネ遣い」と称する流れ者の芸人が村の集会所へ来て、

「姿の見えないおキツネさまが、これからいろんなものを持ってきます。
家へ帰ったらなくなったものがあるかもしれませんよ」

と、村人をたぶらかして、ドロンと消えたことも。

集会所に村人を集めたその留守に、仲間の「おキツネさま」たちが暗躍、
なぁんてことになっていたかも。

たまには後ろ姿も…。このおキツネさまはシッポだけ化けてます。
CIMG0833 (2)
静岡市清水区・美濃輪稲荷神社

私の日常からは想像もつかない異次元の世界で、
怪しさやうさん臭ささをまといつつ逞しく生きている、

そういう人たちの世界があることを、
私は祭りの見世物小屋や流れ者の芸人たちから知りました。

それが私を正史に残りにくい歴史へ導いたきっかけのような気がします。

でも、「親の因果が子に報い…」の「熊娘」がこれを聞いたら、
きっとこう言って嘲笑ったでしょう。

「いいとこの嬢ちゃんに、なにがわかるってんだい!

父と祭りに行ったのは山越えのこれ1度きり。

半日がかりで町へ着き、父と二人でただ参道を歩いて帰って来ただけ。
見世物は見なかったけれど、父と歩いたこの日のことは、
今は静止画となって、心を飾っています。


ーーー青森県弘前市の力石をご紹介しますーー

青森県在住のブログ「海岸便り」の浜風さんからコメントをいただきました。
東北地方の力石をご紹介する機会がなかったので、載せてみました。

「明治二巳巳年 工藤巳之吉 廿五才 力試石 目方五十二メ目」

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「北海道・東北の力石」高島愼助 岩田書院 2005

造り酒屋「高島屋」の若い衆達が酒絞りの石を持ち上げる競争をしていた。
それを見ていた主人が、
「一番重い石を持ち上げたら名前を彫ってやろう」と言った。
巳之吉が首尾よく担いだので、約束どうり石に名前を刻み奉納したそうです。

この石は現在、品川町の胸肩神社にあります。

高島先生によると、青森県で最も重い「刻字」の力石だそうです。

今は亡き伊東明・上智大学名誉教授の調査です。


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ご開帳

三ノ宮卯之助
07 /12 2021
「江戸名所図会」には、「卯之助の晴れ姿」はなかったけれど、

力持ち興行の小屋の形状は、名古屋藩士・小寺玉晁
「見世物雑志」(文政元年~天保7年)で知ることが出来た。

「角力場のごとく四本柱を立て、三方より見物をなす」

卯之助が興行したと思われる弘化4年の浅草寺奥山の小屋は、
間口6間、奥行8間。これは48坪(約158.6㎡)で、畳にして95.8枚分。

ちょっとした家一軒の敷地分。かなりの広さです。

寺社への謝礼(冥加金)は、5貫文(約5万7600円)。
ちなみに「ギヤマンノ船」の冥加金は、20貫文(約23万円)。

同じように見世物でにぎわった両国広小路では、
総額一千両の商いがあったというのですから、
このぐらいの冥加金など、はした金だったかも。

次に、
「江戸名所図会」に描かれた芸人二人をご覧に入れまする。
私の口調も、だんだん見世物口上風になってきました。

一人目は、「曲独楽」の松井源水です。(赤丸)

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本業は薬売り。余興のつもりの独楽まわしが評判を呼び、
ついに将軍のご上覧を賜った。

同時期、奥山伝司なる独楽まわしがここで興行したものの、
「生けるがごとく独楽を自在に操る源水」には遠く及ばず、敗退。
 =「藤岡屋日記」

二人目は手妻師(手品師=ジャグリング)の芥子之助(青丸)。
源水同様、大人気で人垣が出来ております。

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「高下駄をはいて豆と徳利を手玉にとったり、鎌を投げて空中で豆を切ったりした」
  =「浅草」堀切直人 石文書院 2005 原本は「只今御笑草」

「空中で豆を切った」って、そんな小さい物、見えないでしょ。
本当に切れたのなら、鎌の方を褒めてやりたい。

そこは手妻師ですからね、チョチョイのチョイ。

「弄玉」=ジャグリングです。
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「和漢三才図会」より

で、余談ですが、「江戸名所図会」の作者・斎藤月岑の
「武江年表」を見ていたら、突然、ご先祖さまと遭遇。

父の生家は田舎のしがない神社で、昔、伯母から、
「江戸へ出て盛んにご開帳をやっていた」と聞いていましたが、
「武江年表」で見るのは初めて。

こちらは安永九年(1778)、浅草御蔵前八幡宮でのご開帳の記事。

武江年表曽我八幡 (3)

曽我八幡宮といいます。

所在地は中世に松風の荘と呼ばれた駿州鷹ケ丘厚原、現在の富士市。

富士の裾野で曽我兄弟が親の仇を討った話が、
歌舞伎などでもてはやされていたおかげで、60日間、大入り満員。

曽我兄弟の父・河津三郎です。手玉のごとく操った力石が残されています。
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静岡県賀茂郡河津町・河津八幡神社

先祖と氏子さんたちは、
大風で社殿が痛んだといっては、寺社奉行に出開帳を願い出て許され、
かなりの収益を挙げたそうです。

こちらは明和二年(1765)の浅草永代寺でのご開帳記事です。

武江年表明和曽我八幡 (2)

このとき使った箱書きの一部が、今も残っています。

これを書いたのは先代の甥で、当時江戸在住だったのを、
先代が19歳で亡くなったため急きょ呼び戻されて、跡を継いだそうです。

傾きかけた家を再興させた「中興の祖」とか。

大社の許可がなかなか下りない中、難なく許可され、
江戸での出開帳が成功したのは、この人の人脈のおかげだったのかも。

私は字が下手ですが、ご先祖様も下手。明らかに遺伝ですね。(*^_^*)

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大道芸人の小屋に交じって、宝物を見せていた先祖の姿が浮かんできます。

その江戸で、若くして不慮の死を遂げた先祖もいたという。
伯母は不名誉なこととして口をつぐんだから、理由はわからずじまい。

今はもう、父の故郷には誰もいなくなり、
お江戸での出開帳の華やぎも、うたかたの夢と消えました。


     ーーーーー◇ーーーーー

高島先生ブログ(7月11日)

「静岡市清水区興津清見寺町・清見神社」


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千本桜通り

三ノ宮卯之助
07 /09 2021
蹉跎(さだ)庵主人の「見世物興行年表」と、
神戸大学所蔵の引き札から、
合力稲荷神社にある卯之助の「足持石」の足差しは、

どうやら、浅草寺奥山の「千本桜通り」で行われたことが判明。

だって、卯之助銘の「二百貫目」の大石は、ほかにありませんから。

こちらが「江戸名所図会」に描かれた「千本桜通り」(赤丸付近)です。

黄色の丸付近には、
柳の枝で作った弓で的を射る「楊弓場=矢場」が並んでいます。

青丸は興行中の手妻師(手品師)「芥子之助」(けしのすけ)です。後述。

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「新版 江戸名所図会下巻」鈴木棠三・朝倉治彦 校註 角川書店 昭和50年

※同著は神田の名主・斎藤幸雄、幸孝、幸成(月岑)の3代が、
  30余年の歳月をかけて完成させた地誌。絵は長谷川雪丹。

この桜の木は、
卯之助力持ち興行が行われた弘化4年の、114年前(享保18年)に、

吉原の遊女屋とその抱え遊女たちが寄進したもので、
種類は「ヤマザクラ」。

「ソメイヨシノ」が育成されたのは江戸末期から明治初期ですから、
それ以前の花見は、吉野山と同じ「ヤマザクラ」だったんですね。

ーーーーー参考までに

「江戸名所花暦」の「東叡山」の項に、
「彼岸桜より咲き出でて、一重、八重追々咲き続き、弥生の末まで
花の絶ゆる事なし」とある。

また、「浅草寺の千本桜は遅桜で、植えたのは元文のころ」とも。

ーーーーー

「江戸名所 金龍山之図」広重・画。桜並木の背後にあるのは浅草寺本堂。
浅草寺桜本堂
国立国会図書館デジタルデータより転載

ここで行われた見世物興行は多種多彩。

軽業、からくり、ヘビ使い、娘踊りもあれば角兵衛獅子、落語に講談、物まねも。

著名な下岡蓮杖を始め有名無名の写真師たちが軒を連ね、
エレキテルや人体透視術(レントゲンのようなもの)を見せる者もいた。

珍奇、ハイカラ、荒唐無稽となんでもござれ。

油絵の展示も鯨の標本、生きたらくだの展示もあったそうですから、
演芸、芸能、芸術、博物、スポーツと、まさに江戸人の文化のるつぼ。

本物そっくりの生き人形や大仕掛けの細工物に、「貴賤群集す」の状態。

その一つが、ガラス細工の「ギヤマンノ船」

説明のため、原画に赤丸を付けてしまいましたがお許しを。

「興行年表」の作者によると、赤丸の中に、
海水に吹き上げられた口上の「あら子」が描かれているそうです。

「ギヤマン細工舩」 国輝・画
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「見世物興行年表」(東洋文庫画像デジタルベース)より、お借りしました。

船上の人形たちは機械仕掛けで動き、
その口上(こうじょう)をあら子さんが述べていたんですね。

「高うはござりまするが、ごめんをこうむり、
これより口上を持って、申し上げ奉ります」

なぁんて、あら子さん、
キラキラ輝くガラスの船を背にしての晴れ舞台。

天下一品の自慢の喉を聞かせたことでしょう。

さて、ギヤマンとはビイドロに細工を施したものだそうですが、

こんな大きなガラス細工の、しかも彩色までできる技術を、
当時の日本人が持っていたとは、

ぶったまげました。

このオランダ船の正確な大きさはわかりませんが、

文政年に出た「ギヤマン灯ろう」は、横渡り約4mあったそうですから、
このオランダ船もそれ以上の大きさだったのかもしれません。

卯之助の絵もどこかにありそうですが、見つかりません。

なんとか見つけとうござりまする。


     ーーーーー◇ーーーーー

高島先生ブログ(7月9日)

「さいたま市見沼区片柳・天満宮」


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謎が解けた

三ノ宮卯之助
07 /06 2021
東京・浅草の合力稲荷神社に置かれた「足持石」。

こんな狭い稲荷の境内で、力持ち興行はできません。
ということは、
この石は別の場所から運ばれてきたはず。

で、斎藤氏、ウンウン唸りながら、推理しました。

石に刻まれた「弘□」を、解決の糸口にしようと、
「蹉跎庵主人」の労作「見世物興行年表」の「弘化年」をネット検索。

こちらが「足持石」の「弘□」刻字です。
IMG_7382.jpg

この「見世物興行年表」、私も大変お世話になっております。
ここまでやるかというほど、実に実に調べまくっております。

人体でいえば、
血管から毛細血管、果ては遺伝子にまで入り込むといった具合。
 
名乗りの「蹉跎(さだ)」は、
「足ずりをする」「つまづいて先へ進めない」という意味ですが、

この方の場合は、
故意にとどまって「こだわる」の意だと私は思っています。

その「興行年表」を見た斎藤氏から、

「年表の弘化3~4年の3月を見てください」とのメールです。

どれどれと検索してみると、ありました。

「弘化四年(1847)三月、江戸浅草奥山千本桜通りにて、力持見世物」
 =出典は「浅草寺日記」=

ああ、興行場所はやっぱりここだったか!
CIMG0798_2021070222033489c.jpg

しかし、参考文献の「浅草寺日記」は図書館になかったので、
もう一つの資料、
藤岡屋日記 第三巻(近世庶民生活史料 三一書房 1988)を借りた。

「藤岡屋日記」は、
本屋の藤岡屋由蔵が、公私の出来事や事件、見聞きした噂話などを
65年にわたって書き続けた手記です。

その中の「弘化四年三月二十一日の日記に、

「三月十八日ゟ六十日之間、日延十日 浅草観世音開帳

とあった。

つまり
ご開帳期間は60日だけれど、10日ほど延長も可能ですと言う意味。

しかし、お祭り騒ぎを最長70日とは長いですねぇ。

初日からすでに参詣人が押し寄せ、
石灯ろうだの提灯だのお米だのと
寺内いたるところに、各界からの奉納品が置かれていたという。

奉納者には、
船宿、茶屋、芝居の三座、商人たち、新吉原の遊女まで名を連ねていた。

記事の最後に、奥山で行われる見世物の種類が書かれていて、
その中に、力持ち興行がありました。

「力持 二ケ処在」

二か所ということは、
二つの力持ち集団がそれぞれ興行を行ったということだろうか?

せめて力士名が書かれていればなあと思っていたら、
再び、斎藤氏から朗報が…。

「引き札「江戸の花 大力持三ノ宮卯之助」をご覧ください」

img20210530_11533176 (3)
神戸大学図書館・海事科学分館所蔵

「右側欄外に、「□□三月十八日より」
左に「浅草観音境内…

うわーっ、
「浅草寺日記」や「藤岡屋日記」とピタリ符合するじゃないですか。

「卯之助の得意技がいくつも描かれていますが、左下をご覧になってください。
短冊に「大石二百メ目」と書かれていて、
その横に、俵に見え隠れしている大石を足差ししている絵があります。

これ、あの足持石ですよ!。
卯之助は弘化4年3月に浅草寺奥山で、この石を差したんですよ!」

うわっ、本当だ! 

斎藤氏の興奮が私にも伝染。うわっ!

卯之助一座は、浅草寺のご開帳の折、奥山で興行をした。

神戸大学図書館所蔵の引き札は、そのための宣伝ビラだった。

お上から許された興行日数は「50日」
冥加金、5貫文(後述)。

その日数の中で卯之助は、宣伝ビラに描かれた様々な技、
米俵担ぎ、酒樽担ぎ、田舟に馬一頭を乗せた足差し、

そして、二百貫目の「足持石」の足差しを演じて見せた。

斎藤さん! 謎解き、お見事!


     ーーーーー◇ーーーーー

高島先生ブログ(7月6日)

「富山県下新川郡入善町新屋・住吉神社①」


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新発見二つ

みなさまからの力石1
07 /03 2021
ーーーお知らせ

昨夜(7月4日)、
ブログに「接続がプライベートではありません」の警告がでて、
ビビりまくりました。

あれこれやっているうちに、
「これはサーバ側の障害だから待つしかない」とわかり、

ひたすら待つこと12時間。やっとさきほど正常に戻りました。
ご心配くださったみなさま、ありがとうございました。


ーーーーー

ここで、新発見のご報告です。

一つ目は、へいへいさん発見の力石です。

「二十八夜塔か力石か?」

5月24日の私のブログの中で一度取り上げましたが、
石の「二十八」の刻字から、ほぼ力石と思ったものの、

確証を得るため、所有者さんへ問い合わせをしておりました。

そのお返事が所有者の
「桃井可堂郷土史料館」館長の川田弘一氏より届きました。

嬉しいことに、力石であることがはっきり証明されました。

それがこの石です。(真ん中)
桃井可堂へいへいさん (2)
埼玉県深谷市中瀬・桃井可堂郷土史料館

川田館長によると、

この石は川田家に伝わる力石で、
明治21年生まれの祖父からこんな話を聞いていたそうです。

「当家の祖に仙之助なる強力な人物がおり、
雨の悪路を下駄ばきで、この石を本家・川田茂右衛門の屋敷へ担ぎ入れた」

この川田家は幕末、
尊王攘夷「天朝組」を率いた桃井可堂の「可堂塾」だった家で、
ご先祖の川田深太郎は、
水戸天狗党の乱・鉾田宿戦争の殊勲者だそうです。

このほど可堂塾の跡地に史料館を建てたとのこと。

「水戸天狗党の乱」 歌川国輝・画
600px-Tenguto_no_ran.jpg

「この可堂塾には、深谷市で話題の渋沢栄一も出入りしていました。
尊王攘夷の計画を立てているときでもあり、
塾生たちは力くらべもしたことでしょう」と川田館長。

ちなみに館長さんは、大正時代から続く歯科医院の院長先生です。

ご多忙の中、お返事をいただきましたこと、
この場にてお礼申し上げます。

さて、二つ目の新発見へまいります。

発見者は斎藤氏です。

「ポタ中に見つけました。
個人宅です。埋めた石臼を台にして置かれていました」

斎藤さん、この日のお供は愛車の「黄子」嬢ですね。

それにしてもフェンスの外から見つけたとは。
怪しさ100%のまま、見知らぬ家に突撃というのもまた凄い!

野田新発見3
千葉県野田市尾崎・個人宅

どこの誰ともわからない斎藤氏を、
快く迎え入れてくださったHさん。ありがとうございます\(^o^)/

ご当主のH氏によると、

「先代から、家の角の四辻に力石が埋まっていると聞いていたので、
道路の舗装工事の際、掘り出して自宅の庭へ移しました」

野田新発見2
52×40×29㎝

「四辻はうちの先祖が近所の若い衆らと力くらべをしたところで、
そのときこの石を使ったそうです」と、H氏。

祖父から、そして息子へと言い伝えられたおかげで、
この力石は命拾いしました。

よかったね!


     ーーーーー◇ーーーーー

高島先生ブログ(7月3日)

「三重県津市雲津本郷町・浄蓮寺」


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雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞