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天保と嘉永をつなぐ力石

三ノ宮卯之助
06 /15 2021
天保と嘉永に挟まれた弘化時代(1844~1848)へいきます。

この時代に卯之助が足で持ち上げた力石です。

IMG_7382.jpg

弘化元年は徳川幕府崩壊の23年前です。

外国船の脅威にさらされ始め、国内では大飢饉や江戸大火。
時代が下るにつれ、
尊王攘夷や討幕運動、開国開港などの動乱が激しさを増します。

そんなさ中の弘化3年(1846)閏5月、
のちの第14代将軍家茂が誕生します。
京都ではこの同じ年に、
のちに家茂の正室となった皇女和宮が誕生。

同い年なんですね。

第2次大戦のときも朝鮮王族に嫁いだ皇女がおられましたが、
こういう動乱期には、懐柔やら敵対関係を緩和するような、
俗にいう政略結婚があったんですね。

このお二人、文久2年(1862)にわずか16歳で結婚。
朝廷と将軍家の結婚、公武合体です。

最近は訳あり庶民との自由合体が世間を騒がせているようですが…。

ま、それはさておき、
幸せも束の間、家茂は大阪城で没してしまいます。享年二十歳。

わずか4年の結婚生活です。

しかし嫁したからには、と和宮(静寛院宮)は、
家茂亡き後の徳川家のために働き、
明治10年(1877)、32歳で波乱の生涯を閉じます。

落飾したときの院号が「静かに寛(くつろ)ぐ」ですが、
その名からは程遠い一生だったことを思うと、なんともいたわしい。

中山道を通って江戸へ向かう皇女和宮の行列
MTQ3D2BLB5JTRFJ72U55DOFEV4.jpg
埼玉県立文書館所蔵・吉田(実)文書

しかし、庶民というものは実にのんびりしたもので、
将軍慶喜が大政奉還して大阪から江戸へ逃げ帰っても、

いつものように正月には門松をたて、祝い酒に酔い、
いよいよ官軍が江戸へ攻め上ってようやく慌てたというのですから、

なんともはや。

力持ちも同じで、ドンパチの隣りの神社で力持ち興行をやっています。
卯之助もこの時代の大変革の中で、悠々と石を担いでいます。

弘化の年号が刻まれた「足持石」も、その一つです。

この石は、2009年11月7日、39個目の卯之助石として新発見。

下の写真は発見者の斎藤氏と「足持石」です。

発見の翌年1月、
浅草での飲み会の折、後輩に自慢したくて再訪した時のものだそうです。

会心の笑み。斎藤さん、若い!

研究資料・ismfileget三ノ宮卯之助「足持石」新発見
東京都台東区浅草6-42-8・合力稲荷神社

なにしろ卯之助の石ですからね、
「見つけたドーッ!」と叫びたくなったことでしょう。

さいたま市の酒井正氏からも、
「この発見は本当に凄いこと」と称賛のハガキが届いた。


 目に染みる赤き鳥居の稲荷社に
         坐すは卯之助足持石なり  
  齋藤呆人

しかし、発見して終わりではない。

卯之助の「卯」の字が異体字のようだし、
下段にはわけのわからない屋号のようなものがゴチャゴチャ彫ってある。

難解そうですが、斎藤氏、黙々と挑みました。

「これこそ、天保と嘉永をつなぐ弘化年間の、
卯之助の足跡を物語る重要な力石ですから」

その発見から12年。

刻字解明へ努力し続けた斎藤氏の道のりをたどります。


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高島先生ブログ(6月15日)

「茨城県古河市久能・香取神社」


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雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞