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卯之助とは何者なのか

三ノ宮卯之助
05 /31 2021
関東在住者で力石に興味のある人は誰しも、
何とかして「三ノ宮卯之助」の未発見の石を見つけたい、

と、思うようです。

卯之助の刻字石は長い間、38個のままでした。

もうないだろうと思いつつも、寂れたお堂を見かけると、
つい走り込んで、探知犬のごとく目を皿のようにして探してしまう。

卯之助石でなくても、みなさん、そうなってしまいます。
かくいう私もどこへ行ってもお堂の裏をキョロキョロしてよく笑われました。

こちらは由比本陣公園のお堀のカメさんたちです。

キョロキョロし過ぎた帰り道で見つけ、しばし癒されました。

来月、ここでカメレースが行われるそうです。

CIMG4304 (2)
静岡市清水区・由比本陣公園

さて、もうないだろうと思っていた卯之助石、あったんです。

今から12年前の2009年、
見つけたのはやっぱり斎藤氏でした。

39個目。石銘「足持石」

その話に行く前に、卯之助をより深く知っていただくために、
力石の歴史をざっと振り返ります。

一騎打ち時代の鎌倉武士に好まれ、江戸から昭和の若者たちを熱狂させ、
室町時代の「上杉本洛中洛外図屏風」にも描かれた力石ですが、
戦後はもう手に取る者もいなくなり、放置されるに任せてきた。

「弁慶石」で力くらべに興じる男たち。(上杉本洛中洛外図屏風)
上杉本洛中洛外図屏風
米沢市立上杉博物館保管。上杉家蔵。国指定重要文化財

それを惜しんだ各地の郷土史家たちがそれぞれ独自に調査。
戦後、大学の研究者の間でもこの石に関心が集まり、研究の対象となった。

その先鞭をつけたのが、
スポーツ史がご専門の東京教育大学(現・筑波大学)の太田義一先生で、
戦後間もない昭和27年のことだったという。

こちらは富岡八幡神社に建立の「力持碑」です。

裏面に大勢の力持ちや支援者と共に、太田義一先生の名も見えます。
神田川徳蔵の息子、飯田定太郎氏や「物流の生みの親」と言われ、
東京力持ちの復活に尽力された平原直先生の名も。

裏面力持ち碑
東京都江東区富岡・富岡八幡神社

研究は全国へ広がり、
様々な大学グループが地元の郷土史家たちの協力を仰ぎながら、
次々、論文を発表。

ついに、
ユネスコの体育・スポーツ専門委員も加わる国際会議が開催された。

今、力石が細々とでも命運を保ち、その一端を知らしめてくれているのは、
こうした人々の積み重ねのおかげです。

しかし皆さんご存知の通り、その後、力石への世間の興味は薄れ、
アカデミックな世界でも、
平成初年には上智大学の伊東明先生ただ一人となってしまいます。

「私が力石の世界に参入したのは、そのような時期でした」

と、最後のお弟子となった元・四日市大学の高島愼助先生は、
自著「力石 ちからいし」の中で語っています。

こちらが、伊東明先生(元・上智大学名誉教授)です。

先生は青森から沖縄まで精力的に歩き、膨大な資料を残しました。

20160912102852108_20210527105342e1a.jpg
「力石 ちからいし」高島愼助 岩田書院 2011より

伊東先生も早い時期から卯之助に注目しています。
先生が卯之助の存在を知ったのは、天保7年の番付だったという。

「なぜ卯之助が記憶に残ったかというと、「三ノ宮」に拘泥したからである。
三ノ宮と言えば神戸の三宮が頭に浮かぶが、都内では思い当たらなかった」

と、上智大学紀要に書いています。

「三ノ宮とはどこなのか。卯之助とは何者なのか」

そこから先生の卯之助探しが始まりました。

地図を片手に田舎道や山の中を探して歩き、見つけてはスケッチをし、
計測するという地道な作業を、亡くなる平成5年までコツコツ続けています。

ちなみに先生は大正六年(1917)、静岡県生まれ。同県人として誇らしい!

伊豆にも足しげく通っています。

その伊豆の山中に、
昔、伊東先生が探し当てた石を高島先生と訪ねたことがあります。

神社の様子がかなり変わっていて、石がなかなか見つかりません。

これか?

CIMG0154_20210530011630753.jpg
静岡県賀茂郡東伊豆町稲取・愛宕神社

「うーん。ちょっと違うような…。寸法が…」と高島先生。

じゃあ、こっちかも。

CIMG0182_2021053001150011f.jpg

「そうかも」

というわけで、先生撮影の写真がこちら。
「静岡の力石」(高島愼助 雨宮清子 岩田書院 2011)に掲載。

img20210530_00365860 (2)

石を撮影しながら、先生、感慨深げに、
「車もないのに伊東先生、こんなところまで…」と、声を詰まらせましたよ。

私もつい、もらい泣き。

でも次に訪ねた山神社で、私は大笑い。

だって、金精さまの大行列ですモン。
社殿の両脇には狛犬代わりに巨大なものが…。

CIMG0185_2021053001345049a.jpg
稲取・山神社

先生、急に無口になって石段を駆け下りていきましたデス。

最近、思い出話が多くなりました。年のせいですね。すみません。


     ーーーーー◇ーーーーー

高島先生ブログ(5月31日)

「福井県坂井市境町五本・八幡神社」


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コンコンチキナ コンチキナ

三ノ宮卯之助
05 /28 2021
東京・浅草に「合力稲荷」という神社があります。

日本堤の土手下にあったことから、「土手のお稲荷さん」と呼ばれ、
吉原遊郭に通う男たちが、
ここで「恋の成就」の祈願をしていったとか。

雨が降ろうが、槍が降ろうが…。ごくろうさまです。

「吉原日本堤夜雨」 芳虎 安政元年
吉原日本堤の雨
国立国会図書館ウエブサイトより転載

しかし吉原というところは、春夏秋冬いろんな催しがあって、
大名の奥方がお供を連れて見物に訪れたそうですから、

なんというか、不思議な世界です。

さて、艶めかしさただようお稲荷さんですが、
この合力稲荷を含めた江戸下町の6つの稲荷を詠みこんだ端唄があります。

「紀伊国は音無川の水上に」で始まるこの端唄、

「玉姫稲荷」(台東区清川)が、周辺稲荷の協力により、
隅田川を渡って「三囲稲荷」(墨田区向島)へ嫁入りする内容とか。

この嫁入りに協力した稲荷社は、
「袖摺稲荷」(台東区浅草)、「真崎稲荷」(荒川区南先住)、
「九郎助稲荷」(台東区千束)、そして「合力稲荷」です。

合力稲荷を描いた錦絵がなかったので、
「玉姫稲荷」の仲人役の「真崎稲荷」をお目にかけます。

「真崎之大雪」 広重  向こう岸に見えるのが真崎稲荷神社です。
真崎稲荷
国立国会図書館ウエブサイトより転載

端唄に、「お荷物を担ぐは、合力稲荷さま」と唄われていますので、
どうやら、合力稲荷は嫁入り道具の荷物担ぎに駆り出されたようです。

合力は強力、剛力に通ず。

この端唄が書かれた絵馬が真崎稲荷にあったとのことで、
斎藤氏が送ってくれました。

「江戸端唄集(倉田義博 岩波書店 2014)では、
おとなし川の水上」ですが、絵馬は「川上」になっています」と斎藤氏。

img20210525_10571397 (2)

この絵馬を買い求めようとしたら、若い巫女さんが、
「あの~、これ、恋愛の絵馬なんですが、大丈夫ですか?」と。

「大丈夫ですか?」って、どういう意味よ?

で、斎藤氏、どう答えたかというと、
「大丈夫です。恋愛はとっくの昔に終わりました。べつの理由で買うんです」

巫女さん、小声で、「すみません」

巫女さんは、きっと、
キツネが自分をからかいに化けて出てきたと思ったんですよ(笑)

あ、話がとんだ方向へ。次回はこの合力稲荷にある卯之助石のお話です。


〽  頼めば田町の袖摺の さしづめ今宵は待女郎
   コンコンチキナ コンチキナ



     ーーーーー◇ーーーーー

高島先生ブログ(5月28日)

「静岡県賀茂郡松崎町石部・平六地蔵露天風呂」


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凄いブログです

三ノ宮卯之助
05 /26 2021
すごいブログを見つけてしまいました。

「揺りかごから酒場まで☆少額微動隊」

岡林リョウさんという方のブログです。

タイトルにもちょいとひねりが入って、なにやら粋ですが、
なんたって中身が凄い。

膨大な情報収集力からすると、プロの方とお見受けしました。

どれも一級品。

私がみたことがないものばかりで、圧倒されました。

嬉しいことに「三ノ宮卯之助」と、力持ちの絵や写真、
次回から予定している合力稲荷神社の「足持石」も出てきます。

「足持石」です。
IMG_7372.jpg
東京都台東区浅草6-42-8・合力稲荷神社

この中で私が知っていたのは、
深川力持ちの写真と卯之助の引き札の2点のみ。

上から7番目の絵の右上に、「小島久蔵」が描かれています。

あの瓦曽根の所在不明の石に卯之助と共に名を残した力持ちです。

タイトルの「犠牲者」とは何かなぁと思ったら、
最後の絵を見て納得。

舟を足差しで持ち上げていたら、支えきれなくなってその下敷きに。

これは痛ましい。

やっぱりあったんですね。

事故の絵や悲惨な話はほとんどお目にかからなかったので、
今までは、楽しいことやすごいエピソードばかりご紹介してきましたが、
知っておくべきだった、と。

とにかくご覧ください。

「力石 江戸の残り香、力持ち芸と三ノ宮卯之助と犠牲者と」


拙ブログへの掲載を快く承諾してくださった岡林さまには感謝申し上げます。


ーーーーーどっきりニュース

先日、久喜市太田袋の諏訪・琴平神社の石をご紹介しましたが、
石の説明板の説明書きが削られていたとのこと。

こちらが以前の説明板。

太田袋2

こちらがへいへいさんが見た最近の説明板です。

やすりで削ったような感じだったとか。

太田袋

二つの神社名で氏子さんたちの間で何かあったのかなぁと
心配になりましたが、神さまの前ですものね、

新しい板を建ててくださるものと期待して…。


ーーーーーほっこりニュース

三重県総合博物館の企画展「やっぱり石が好き」に、
力石が展示されました。一個だけですが、嬉しいニュースです。

詳しくは高島先生ブログをどうぞ。

「三重県総合博物館の力石」


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まさかの新発見

みなさまからの力石
05 /24 2021
「卯之助石」の途中ですが、新発見のお知らせです。

発見者は、ブログ「へいへいのスタジオ2010」のへいへいさん。

こんなに立派に保存されていたのに、誰にも気づかれずにいたんですね。

隅に置かれた小さな石は、吉凶を占った「重軽石」でしょうか。

02DSC_1722.jpg
埼玉県比企郡川島町・千手観世音堂

このまさかの発見に、へいへいさん、

「100mしか離れていない隣の稲荷神社や熊野神社の力石は確認されているのに、
ここの力石が新発見だなんて不思議です」

高島先生も、
「これ、新発見です。こんなところにきちんと置いてあって、
これまで情報がなかったのが不思議です」

もしかしたら、
境内を改修した時、埋もれていた石を新しく保存したのかも。

詳しくは下のURLでご覧ください。

「ご存知ですか千手観世音の力石」

でも、つくづく思いました。
埼玉県の方々は官民揃って、力石に愛情を注がれているんだって。

なんか感激です。

もう一つ、
少し前の新発見です。ご紹介が遅れましたがご覧ください。

真ん中の石です。

発見場所はなんと、渋沢栄一の関連施設「桃井可堂郷土史料館」。

「二十八」と刻字があるので、
「二十八夜塔かな? でも力石かも」と判断に迷ったそうです。

でもへいへいさん、月待ちに二十八夜ってあったっけ?

桃井可堂へいへいさん (2)
埼玉県深谷市中瀬・桃井可堂 郷土史料館

へいへいさんは、
「渋沢栄一のゆかりの地」を訪ねて、長野まで出かけています。

大変貴重な探訪記になっています。
その探訪の足跡をブログからぜひ、辿ってみてください。

で、写真を見た高島先生、「新発見のようです」

「この石は以前は奥の方に置いてあったと思います。
最近、外から見える場所に移動したかと。
青年渋沢栄一もこの石を持ち上げたかもしれません」と、へいへいさん。

桃井可堂は幕末、尊王攘夷の挙兵計画を立てた人で、
塾では、賛同する志士たちを多く育てたという。

この力石は、塾生たちが鍛錬に担いだものと思いたいのですが、
近くの中瀬河岸の男たちの石の可能性も。

長野・神畑の力石にはズッコケてしまいましたので、
「渋沢栄一と力石」はなんだかトラウマになりましたが(笑)、

それにもめげず、
只今、史料館館長さんに石の由来を問い合わせ中です。
わかり次第お伝えします。

まずは、下記のURLでご堪能ください。

「二十八夜塔か力石か?」

こちらは絵の新発見です。

冒頭の「江戸名所図会・白鬚神社」は、知っていて現地へも行きましたが、
あとの、
「絵本江戸みやげ・亀戸天神と、「絵本伊呂波歌」は初見。

「江戸時代に描かれた力石」

いいですねぇ。

写真もいいですが、絵にはまた独特の良さがあります。

守備範囲が広く情報量抜群のへいへいさんに感謝!


ーーーーーちょっとお知らせ

朗報です。

利根川堤防工事のため移転した久喜市の栗橋八坂神社の力石のその後です。

ブログ「路傍学会」会長さんの「享保石」発見をきっかけに、
宮司様のご理解で既存の石とともに新しい神社に移転されましたが、

残る一個は、涸れ池の土にめり込んでいるため重機が必要であること、
また神社跡地はすでに国有地になっているため、手が出せません。

出井友吉1

そこで管理者の「利根川上流河川事務所」さまにお願いしたところ、
「神社関係者と保存について調整してみます」とのお返事をいただきました。

「栗橋八坂神社」の記事、中断しておりますが、いずれ再開します。


     ーーーーー◇ーーーーー

高島先生ブログ(5月24日)

「兵庫県淡路市草香・八幡神社」


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消えた卯之助石⑥

三ノ宮卯之助
05 /22 2021
今まで卯之助石は「消えた、消えた」と騒いできましたが、
ひょっとして、消えていなかったかも。

問題の石のある「瓦曽根(かわらぞね)」ですが、
利根川水系の河岸場で栄えた村だったそうで、
若き日の卯之助も荷揚げ人足として働いていたとか。

そうした船頭たちや荷揚げの男達が、最勝院観音堂に集まって、
相撲や力くらべを盛んに行っていた。

石に名を残した小島久蔵も、江戸からはるばる舟でやってきたのでしょう。

こちらは現在の最勝院跡地の石造物保存場所です。

IMG_2771 (2)
埼玉県越谷市瓦曽根・最勝院跡地(現・照蓮院駐車場)

簡単に最勝院の変遷を見ていきます。

最勝院は戦後衰退して廃寺

昭和59年(1984)
  散逸していた力石などを集め、記念碑を建立。

  このときはまだフェンスで囲まれていなかったのでしょうか?

その6年後の平成2年(1990)、伊東明先生の調査
  卯之助石をスケッチで残した。

  先生は石を計測していますから、
  まだフェンスに囲まれていなかったのかもしれません。

翌・平成3年(1991)、寺解体

卯之助研究者の高崎氏は、卯之助の痕跡を見つけようと、
昔の河岸問屋を訪ねたが、
卯之助関連の資料は見つけることができなかったという。

こちらは高崎氏の
平成10年の講演資料掲載の保存場所の写真です。

img20210515_07255664 (2)

これは冒頭に載せた現在の写真の、左方向から撮影しています。

番号は、
①記念碑 ②古い石碑 ③青面金剛像か?

この二つの写真の大きな違いは、力石の数です。

現在は「鈴宇志」と「須賀初五郎」3個の計4個ですが、
平成10年の写真には、「須賀初五郎」の3個の力石(赤丸)がありません。

ただ、②の古い石碑の横(赤矢印)に、力石らしきものが写っています。 

この写真を見た斎藤氏、こう推理しました。

「これ、卯之助石のような気がしますが、どうでしょうか。
「初五郎石」3個はあとから運び込んだ。

運び込んだ時、この碑の横の石も並べようとしたら、
70貫もあるから重くてひっくり返って、裏返しになってしまった」

そうなら嬉しいですね。

文字が摩滅しないうちに石を起こして、拓本を取ればすべて判明します。

でもそうすると、表に「卯之助と久蔵」、裏に「鈴宇志」。
「鈴宇志」なる人?が、勝手に名前を入れたので、「奉納」文字を削られた? 

うーん…。うなるばかりで答えが見つかりません。

だいぶ前になりますが、
当地では掘り起こした力石の重さ当てクイズというイベントがありました。

自治会主催。地域の人たちで大盛り上がり。新聞にも載った。

CIMG0010.jpg
2011年、静岡市清水区由比東山寺・大門薬師堂

その後この力石は、地元の郷土史家の手で保存

法印さんのご祈祷のあと、クレーンで社殿横の一段高い場所に設置された。

2016030105191970c_20210517112846c47.jpg

瓦曽根の謎の力石も、
「果たして卯之助の名が出てくるか?」などと銘打って、

歴史のクイズイベントを開催して、
みんなでこの「謎解き」に立ち会っていただけたらいいのにな。

なになに?
「こんなご時世にそんなバカバカしいことをやってるヒマはねぇ」ですって?

うーん、でもねぇ、私、思うんですよ。

こういうバカバカしいことこそ、人生には必要だってね。


     ーーーーー◇ーーーーー

高島先生ブログ(5月22日)

「埼玉県さいたま市浦和区上木崎・足立神社」


ーーーーー本気でそんなことを?!


東京都が、
夏のオリパラに児童ら81万人を会場へ動員するって聞いたとき、
東北大地震の津波で犠牲になった子供たちが頭をよぎった。

学校のすぐ裏は山で、そこへ逃げれば助かったのに、
校庭に止め置かれて犠牲になった。

子供たちにとって先生は絶対逆らえないから、命まで預けてしまった。
危険を察知する本能は子供の方が鋭いのに。

息子たちが小学生の時、大型台風の直撃があった。
正午ごろ通過。ならば風も雨もない今のうちに帰してほしいと、
多くの父母が学校へ頼んだが、帰せない、と。

台風通過後に帰した方が安全と考えてのことかと思っていたら、
なんと、正午のまさに暴風雨の中を子供たちは帰された。

理由は「早く帰すと給食が無駄になるから」だった。
先生は子供たちにこう言ったという。
「飲めるものはすぐ飲んで、パンは持ってさっさと帰りなさい」

他県では川になった道路で中学生が流されて亡くなった。
速度の速い台風で、午後になったら台風一過の青空になった。

つくづく大人は無責任だと思った。

コロナ禍で、密を避けなさいとか不要不急の外出は止めなさいといいながら、
子供たちをあえて危険な場所へ集めるとは。

81万人の動員は大人の都合であって、決して子供たちのためではない。
私は言いたい。

「欠席したらペナルティを課すぞ」と言われても、逃げなさい!」

ーーーーー


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消えた卯之助石⑤

三ノ宮卯之助
05 /20 2021
「卯之助石」の現状をあれこれお話してきましたが、
ここでようやく、「重箱つつき」に戻ります。

重箱の隅その2  碑の「文政12年」の根拠が見当たらない。

碑にはこう刻まれています。

文政12年(1829) 卯之助(22歳) 

本郷・小島久蔵と越谷市瓦曽根の最勝院観音堂(現照蓮院駐車場)で、
力石七十貫余を持つ」

斎藤卯之助1 (3)

実はこの「文政12年」の出どころが今一つなんです。

唯一残る伊東先生のスケッチには、年号は書かれていないし、
卯之助研究者・高崎氏の資料のこの個所は、ちょっと迷走気味だし。

例えば、
平成10年(1998)の資料では、
「奉納 (不明) 七十メ余 三ノ宮卯之助 江戸本□久蔵 瓦曽根若者中」

と、年号は「不明}としているのに、同じ資料の別の頁では、

「奉納 文政十二□ 七十メ余 三ノ宮卯之助 江戸本□久蔵 瓦曽根若者中」

と年号を入れている。

この年号、その後、「卯之助石」と「鈴宇志石」の間を変転。

斎藤卯之助3
埼玉県越谷中央市民会館

平成16年((2004)の資料と、
同じ年の高島先生との共著「三ノ宮卯之助(2)」の年譜では、

「文政十二□」から「文政十二年三月」と変わります。

この「三月」の登場も唐突です。
年号のあとに「三月」の刻字があったのでしょうか。

それから3年後の平成19年(2007)の資料では、

それまではただ、「奉納 (不明) 鈴宇志」としていたものに、
「己丑歳を加えた年号」と「瓦曽根」を書き足して、

「奉納 鈴宇志 文政十二己丑歳 瓦曽根」とし、
同じ年号を「卯之助石」から「鈴宇志石」に変えています。

「己丑歳」と「瓦曽根」を書き足したのは、
前年に斎藤氏が判読した報告書を知ったからでしょう。

この資料での「卯之助石」はというと、
ただ「所在不明」とのみ記されている。

参考までに、
卯之助と久蔵の名が併記されている別の力石をお見せします。

さいたま市岩槻区釣上(かぎあげ)・神明社の「雲龍石」です。
 ※「釣」は元は「鈎」だったが、「釣」と誤記して今に至っているとか。

奉納年は文政十三年三月。

この石のことは碑の年譜にも刻まれました。

酒井正氏・画              岩槻市史掲載の拓本
img20210517_19270296 (2) img20210507_09042983 (2)

市民会館のに「文政12年」を入れた理由は、
もとにした資料が、
「所在不明」と書いた平成19年ではなく、平成16年の資料だからだそうです。

高崎氏のこの迷走は、
「鈴宇志石」と「卯之助石」を混同したせいなのか。

あるいは、未確認だけれど、
「鈴宇志石」の裏側に「卯之助」刻字があるに違いないと思っていたのかも。

石の表裏に、この二つの名があれば、めでたしめでたしなんですが、
石を裏返さない限り、永久にわかりません。

重箱の隅をつつきすぎて、

「ホントにうるさいわね! どんなに偉い人でも間違いはあるでしょ」
なんて声が飛んできそうですが、

「はい、すみません。口を慎みます」

久喜小学校
埼玉県久喜市立江面小学校の門番・トトロ

とは、なりませんです。

反論に晒されるのは先行した研究者の定め。
間違いを指摘するのは後輩の務め。

でも、明日は我が身かも


     ーーーーー◇ーーーーー

高島先生ブログ(5月20日)

「愛媛県上浮穴郡久万高原町直瀬仲組・集会所」


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私の日常

世間ばなし
05 /18 2021
「重箱の隅」の途中ですが、ちょっとひと息。

これ、息子のお嫁さんから届いた母の日のプレゼントです。

食べられる本物のお花を載せたサブレ(京都・木津川製)とバラの紅茶。
孤独なおこもり暮らしに花が咲きました。

CIMG5605 (3)

こちらは3月に撮った写真です。

散歩の途中、農家さんの庭で見つけました。
手製の孟宗竹の鉢。

花電車!

門柱から奥へ延びています。素敵な心遣いです。

CIMG5575.jpg

いちごのビニールハウスにつけられた受粉用の蜂の巣箱です。

何も変わらないように見える田舎ですが、
季節季節で、様々な風物を見せてくれます。

そこに人の優しさや知恵があって、そっと物語をつむいでくれています。

CIMG5541.jpg

連休になりました。

どこにも行けないので畑にテントをはり、テーブルを持ち出して、
みんなでお茶を楽しんでいました。

ここにはゆったりとした時間の流れがあります。

本当の贅沢って、こういうことかも。

CIMG5597 (2)

天候が不順で、寒くなったり暑かったり。

そんな中を毎日、散歩に出かけます。

今日は暑い日で、汗びっしょり。
帰路、いつもの農協いちばへ立ち寄ったら、スイカが…。

「熊本産」とあります。

喉も乾いているし、食べたい!

そこで店員さんに「甘いですか?」と、バカな質問をしてしまいました。
店員さん、笑いながら当然こう言いました。

「甘いです」

CIMG5610 (2)

家に帰って早速、いただいたら、甘かった!

翌日は寒い日になって、スイカに手が伸びません。

やっぱりスイカは暑い日がお似合いですね。


     ーーーーー◇ーーーーー

高島先生ブログ(5月18日)

「福井県あわら市布目・龍宮神社」


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消えた卯之助石④

三ノ宮卯之助
05 /16 2021
地面に這いつくばって見つけた
「文政十二己丑歳」「瓦曽根」の文字。

どうやらこの石は裏返しになっているようだ。

でもこれが探していた「卯之助石」だとすると、
地名の「瓦曽根」が二カ所になってしまう。

ひっくり返してみたい衝動に駆られるものの、どうしようもない。

そう思いつつ、もう一度上から見た。

一見、何の変哲もない石です。でもよく見ると、妙な痕跡が…。

img20210510_17010816 (6)
埼玉県越谷市瓦曽根・最勝院跡地(現・照蓮院)

石に傷のようなものがついている。
その傷の中に、「納」という文字が見えた。

たぶん、「奉納」と刻まれていたに違いない。
それが無残にも、削りとられているではないか。

移転工事や風化でこんなことになったとは思えない。
どう見ても人為的だ。

一体だれが、何のために。

img20210510_17010816 (5)

拡大したのがこちら。

はっきり、奉納の「納」の文字が確認できます。

さらにその右下に、文字らしきものを発見。

「鈴宇志」と判読。人名か?

人名だとしても、この刻字、
「刻まれた時期がどう見ても新しいんですよ」と斎藤氏。

img20210510_17010816 (10)

つまり、とても江戸時代の刻字とは思えないというのです。

仮に、この「鈴宇志」の刻字が「文政十二年」に刻まれたものだとしても、
年号だけが反対側に彫られているなんてあり得ません。

書体はどうでしょうか。

下の文字と見比べてみてみなさまには、どう見えるでしょうか。

img20210510_17001854 (7)

また、「鈴宇志」って、変わってますよね。

地名では、静岡県浜松市三ヶ日町に「宇志」があります。
また徳島県鳴門市には、「宇志」という神さまを祀った神社があるとか。

人名だったら、「宇志」は、うし、たかし、たかゆきと読むのだそうです。

「鈴」は「鈴木」の略でしょうか。

のちの人がこの石を担いで、
誰かの石の裏側に自分の名前を追記したとも考えられますが、

ならば堂々と表に追記すればいいのに。

なんでしょうね、この「奉納 鈴宇志」

なぜ、「奉納」を削られてしまったのでしょう。
悪意があってのことでしょうか。

謎は深まるばかり。


     ーーーーー◇ーーーーー

高島先生ブログ(5月16日)

「埼玉県桶川市加納・氷川八幡宮」


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消えた卯之助石③

三ノ宮卯之助
05 /14 2021
ーーーお願い

最後に書き添えてありますので、ご覧ください。


     ーーーーー◇ーーーーー


「須賀初五郎」の3個の石の前で、ゴロンと横たわっている石は、
果たして行方不明卯之助石だろうか。

と、気を持たせつつ、検証していきます。

斎藤氏は2006年、この場所を訪れた際、この石に注目。

もしかしたら、これこそみんなが探している「卯之助石」ではないか。
ひょっとしたら、寺の解体の折、裏返しになったのではないか。

そういう推論のもと、
フェンスの外から調査開始。

謎の石です。
上から見るとこんな感じ。うーん、何もありませんねぇ。

img20210510_16593529 (3)
埼玉県越谷市瓦曽根・最勝院観音堂跡地(現・照蓮院駐車場)

ならば横からというわけで、
地面に這いつくばって見たのがこちら。

這いつくばって…。(*^_^*)

この様子をみた人は、さぞ肝を潰したことでしょうね。

でもその甲斐あって見つけました。

おお! なんと文字があるではないですか。(赤線の部分)

img20210510_17010816 (4)

それにしても妙な位置に彫られていると思いつつ読み込んでみたら、
端正な文字で、

「文政十二己丑歳」

卯之助と久蔵が行動を共にしたのは、
文政12年から天保4年の4年間とされているから、

まさに、ぴったしカンカン。

img20210510_17001854 (7)

さらに目を凝らしてみると、その横に、

「瓦曽根」の文字が…。

img20210510_17010816 (7)

わかりやすく縦に拡大しました。

img20210510_17010816 (9)

立派な書体です。

「これこそ行方不明とされている卯之助と久蔵の力石に違いない」

してやったり! 自然に笑みがこぼれたものの、

だが待てよ、
伊東先生のスケッチには、「文政十二己丑歳 瓦曽根」の文字はない

記録にあるのは、これだけ。

「奉納 七十メ余  
三ノ宮卯之助 江戸 本郷久蔵 瓦曽根 若者中」


img20210507_09012945 (2)

「この年号、石の表でもなく裏でもない横っちょの妙な場所にあるから、
伊東先生はこの文字を見逃したのではないだろうか」

なんとか突き止めたくて、あれこれ思案。

地面に隠れた石の裏側を見てみたいという衝動に駆られるも、
石はフェンスの向こう側で、ドデーンと動きません。

しばらく石を眺めていた斎藤氏、

今度は、石の表面に「文政十二」とは異なる文字と、
なんとも言い難い奇妙な痕跡を見つけたのであります。


     ーーーーー◇ーーーーー

高島先生ブログ(5月9日)

「静岡県沼津市内浦重須・老人集いの家」

本日は5日前の記事です。
せっかく私メの歌を取り上げてくださっているので…。


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消えた卯之助石②

三ノ宮卯之助
05 /12 2021
フェンスに囲まれているのは、廃寺跡に保存された石造物群です。

保存というより、閉じ込められて窮屈そうに見えますが、
散逸はまぬがれますね。

ただそばへ寄って調査できない、それが難点です。

かつて栄えた寺院が消滅するって、寂しいものですね。

観音堂跡地2
埼玉県越谷市瓦曽根・最勝院跡地(現・照蓮院駐車場)

下の写真は、15年前の2006年当時のここの力石です。

「さし石」の文字がはっきりしていますので、まだ風化は進んでいません。

というのは、4個のうちの3個は「明治27年奉納」という、
比較的新しい力石だからだと思います。

2006年のころ。
img20210510_17001854 (4)

もう一枚お見せします。

手前の石は4個目の石です。

これがまた謎めいた力石ですが、これは次回に書きます。

img20210510_17010816 (3)

で、この時から15年後の今年の姿がこちら。

みんなそろってヨロヨロ。

後ろの青面金剛像も傾いています。

保存というのは、ただ、しまっておけばいいのではないですね。
人々に見てもらい触ってもらってこそ、「生きる」ような気がします。

2021年撮影
img20210510_17015823 (3)

さて、「さし石」と書かれたこの3個の石、

「須賀初五郎」の名と「明治27年9月」の年月が刻まれていますが、
書体、人物、奉納年、すべて同じです。

石の貫目が18貫と小振りなのが気になります。

この人の石は同じ越谷市東大沢の香取神社にもあると、
「力石に挑んだ男達」(高島愼助 岩田書院 2009)に出ていますが、

うーん、そうかなぁと、私の猜疑心がむくむく。
同一人物とするには根拠が薄いのではないですか?

第一、「初五郎」は同じでも、名字(または村名)が「須賀」「清水」で違います。
※かつて「須賀村」が存在。

また、居住地の違いもあります。

「清水」の奉納先の香取神社所在地が「東大沢鷺後(さぎしろ)」で、
石に「當所 初五郎」「清水初五郎」とありますから、ここ出身。

「須賀初五郎」はかつてあった「須賀村」を名乗った可能性もありますが、
明治も後半になると本名を記すことが多くなるので、その可能性も。

奉納年はというと、
「清水初五郎」は、弘化4年(1847)と嘉永4年(1851)で、
三ノ宮卯之助と同時代の人です。

一方の「須賀初五郎」は明治27年(1894)で、
先の「初五郎」とは、47年もの開きがあります。

へいへい4
越谷市中央市民会館の卯之助顕彰碑

香取神社に40貫と50貫の石を残した清水初五郎、
仮に弘化4年の時、二十歳とすれば明治27年には67歳。

担げないこともないでしょうが、

かつて40貫、50貫を担いだ力士が老いたとはいえ、
18貫を石に刻んで奉納するなんて、プライドが許さないでしょう。

それにこの二人の石の刻字は、書体や形式が違いすぎる。

これは別人だと思った私、恐れ多くも師匠の高島先生へ、
「別人ではないか」との質問状を差し上げました。

こちらがそのお返事。

間違いだったかも。
香取神社の2個は「清水初五良(郎)」で、
最勝寺跡の3個は「須賀初五郎」とすべきだったかもしれません」

おお! 先生、正直でよろしい(笑)

ウフフとほくそ笑んだところで、次回はいよいよ、
3個の「初五郎石」の前に寝そべっている「謎」の石に迫ります。

これが果たして、消えた卯之助石となるか、お楽しみに!


     ーーーーー◇ーーーーー

高島先生ブログ(5月12日)

「大阪府箕面市粟生間谷東・路傍」


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雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞