卯之助とは何者なのか
三ノ宮卯之助
関東在住者で力石に興味のある人は誰しも、
何とかして「三ノ宮卯之助」の未発見の石を見つけたい、
と、思うようです。
卯之助の刻字石は長い間、38個のままでした。
もうないだろうと思いつつも、寂れたお堂を見かけると、
つい走り込んで、探知犬のごとく目を皿のようにして探してしまう。
卯之助石でなくても、みなさん、そうなってしまいます。
かくいう私もどこへ行ってもお堂の裏をキョロキョロしてよく笑われました。
こちらは由比本陣公園のお堀のカメさんたちです。
キョロキョロし過ぎた帰り道で見つけ、しばし癒されました。
来月、ここでカメレースが行われるそうです。

静岡市清水区・由比本陣公園
さて、もうないだろうと思っていた卯之助石、あったんです。
今から12年前の2009年、
見つけたのはやっぱり斎藤氏でした。
39個目。石銘「足持石」
その話に行く前に、卯之助をより深く知っていただくために、
力石の歴史をざっと振り返ります。
一騎打ち時代の鎌倉武士に好まれ、江戸から昭和の若者たちを熱狂させ、
室町時代の「上杉本洛中洛外図屏風」にも描かれた力石ですが、
戦後はもう手に取る者もいなくなり、放置されるに任せてきた。
「弁慶石」で力くらべに興じる男たち。(上杉本洛中洛外図屏風)

米沢市立上杉博物館保管。上杉家蔵。国指定重要文化財
それを惜しんだ各地の郷土史家たちがそれぞれ独自に調査。
戦後、大学の研究者の間でもこの石に関心が集まり、研究の対象となった。
その先鞭をつけたのが、
スポーツ史がご専門の東京教育大学(現・筑波大学)の太田義一先生で、
戦後間もない昭和27年のことだったという。
こちらは富岡八幡神社に建立の「力持碑」です。
裏面に大勢の力持ちや支援者と共に、太田義一先生の名も見えます。
神田川徳蔵の息子、飯田定太郎氏や「物流の生みの親」と言われ、
東京力持ちの復活に尽力された平原直先生の名も。

東京都江東区富岡・富岡八幡神社
研究は全国へ広がり、
様々な大学グループが地元の郷土史家たちの協力を仰ぎながら、
次々、論文を発表。
ついに、
ユネスコの体育・スポーツ専門委員も加わる国際会議が開催された。
今、力石が細々とでも命運を保ち、その一端を知らしめてくれているのは、
こうした人々の積み重ねのおかげです。
しかし皆さんご存知の通り、その後、力石への世間の興味は薄れ、
アカデミックな世界でも、
平成初年には上智大学の伊東明先生ただ一人となってしまいます。
「私が力石の世界に参入したのは、そのような時期でした」
と、最後のお弟子となった元・四日市大学の高島愼助先生は、
自著「力石 ちからいし」の中で語っています。
こちらが、伊東明先生(元・上智大学名誉教授)です。
先生は青森から沖縄まで精力的に歩き、膨大な資料を残しました。

「力石 ちからいし」高島愼助 岩田書院 2011より
伊東先生も早い時期から卯之助に注目しています。
先生が卯之助の存在を知ったのは、天保7年の番付だったという。
「なぜ卯之助が記憶に残ったかというと、「三ノ宮」に拘泥したからである。
三ノ宮と言えば神戸の三宮が頭に浮かぶが、都内では思い当たらなかった」
と、上智大学紀要に書いています。
「三ノ宮とはどこなのか。卯之助とは何者なのか」
そこから先生の卯之助探しが始まりました。
地図を片手に田舎道や山の中を探して歩き、見つけてはスケッチをし、
計測するという地道な作業を、亡くなる平成5年までコツコツ続けています。
ちなみに先生は大正六年(1917)、静岡県生まれ。同県人として誇らしい!
伊豆にも足しげく通っています。
その伊豆の山中に、
昔、伊東先生が探し当てた石を高島先生と訪ねたことがあります。
神社の様子がかなり変わっていて、石がなかなか見つかりません。
これか?

静岡県賀茂郡東伊豆町稲取・愛宕神社
「うーん。ちょっと違うような…。寸法が…」と高島先生。
じゃあ、こっちかも。

「そうかも」
というわけで、先生撮影の写真がこちら。
「静岡の力石」(高島愼助 雨宮清子 岩田書院 2011)に掲載。

石を撮影しながら、先生、感慨深げに、
「車もないのに伊東先生、こんなところまで…」と、声を詰まらせましたよ。
私もつい、もらい泣き。
でも次に訪ねた山神社で、私は大笑い。
だって、金精さまの大行列ですモン。
社殿の両脇には狛犬代わりに巨大なものが…。

稲取・山神社
先生、急に無口になって石段を駆け下りていきましたデス。
最近、思い出話が多くなりました。年のせいですね。すみません。
ーーーーー◇ーーーーー
高島先生ブログ(5月31日)
「福井県坂井市境町五本・八幡神社」

にほんブログ村

何とかして「三ノ宮卯之助」の未発見の石を見つけたい、
と、思うようです。
卯之助の刻字石は長い間、38個のままでした。
もうないだろうと思いつつも、寂れたお堂を見かけると、
つい走り込んで、探知犬のごとく目を皿のようにして探してしまう。
卯之助石でなくても、みなさん、そうなってしまいます。
かくいう私もどこへ行ってもお堂の裏をキョロキョロしてよく笑われました。
こちらは由比本陣公園のお堀のカメさんたちです。
キョロキョロし過ぎた帰り道で見つけ、しばし癒されました。
来月、ここでカメレースが行われるそうです。

静岡市清水区・由比本陣公園
さて、もうないだろうと思っていた卯之助石、あったんです。
今から12年前の2009年、
見つけたのはやっぱり斎藤氏でした。
39個目。石銘「足持石」
その話に行く前に、卯之助をより深く知っていただくために、
力石の歴史をざっと振り返ります。
一騎打ち時代の鎌倉武士に好まれ、江戸から昭和の若者たちを熱狂させ、
室町時代の「上杉本洛中洛外図屏風」にも描かれた力石ですが、
戦後はもう手に取る者もいなくなり、放置されるに任せてきた。
「弁慶石」で力くらべに興じる男たち。(上杉本洛中洛外図屏風)

米沢市立上杉博物館保管。上杉家蔵。国指定重要文化財
それを惜しんだ各地の郷土史家たちがそれぞれ独自に調査。
戦後、大学の研究者の間でもこの石に関心が集まり、研究の対象となった。
その先鞭をつけたのが、
スポーツ史がご専門の東京教育大学(現・筑波大学)の太田義一先生で、
戦後間もない昭和27年のことだったという。
こちらは富岡八幡神社に建立の「力持碑」です。
裏面に大勢の力持ちや支援者と共に、太田義一先生の名も見えます。
神田川徳蔵の息子、飯田定太郎氏や「物流の生みの親」と言われ、
東京力持ちの復活に尽力された平原直先生の名も。

東京都江東区富岡・富岡八幡神社
研究は全国へ広がり、
様々な大学グループが地元の郷土史家たちの協力を仰ぎながら、
次々、論文を発表。
ついに、
ユネスコの体育・スポーツ専門委員も加わる国際会議が開催された。
今、力石が細々とでも命運を保ち、その一端を知らしめてくれているのは、
こうした人々の積み重ねのおかげです。
しかし皆さんご存知の通り、その後、力石への世間の興味は薄れ、
アカデミックな世界でも、
平成初年には上智大学の伊東明先生ただ一人となってしまいます。
「私が力石の世界に参入したのは、そのような時期でした」
と、最後のお弟子となった元・四日市大学の高島愼助先生は、
自著「力石 ちからいし」の中で語っています。
こちらが、伊東明先生(元・上智大学名誉教授)です。
先生は青森から沖縄まで精力的に歩き、膨大な資料を残しました。

「力石 ちからいし」高島愼助 岩田書院 2011より
伊東先生も早い時期から卯之助に注目しています。
先生が卯之助の存在を知ったのは、天保7年の番付だったという。
「なぜ卯之助が記憶に残ったかというと、「三ノ宮」に拘泥したからである。
三ノ宮と言えば神戸の三宮が頭に浮かぶが、都内では思い当たらなかった」
と、上智大学紀要に書いています。
「三ノ宮とはどこなのか。卯之助とは何者なのか」
そこから先生の卯之助探しが始まりました。
地図を片手に田舎道や山の中を探して歩き、見つけてはスケッチをし、
計測するという地道な作業を、亡くなる平成5年までコツコツ続けています。
ちなみに先生は大正六年(1917)、静岡県生まれ。同県人として誇らしい!
伊豆にも足しげく通っています。
その伊豆の山中に、
昔、伊東先生が探し当てた石を高島先生と訪ねたことがあります。
神社の様子がかなり変わっていて、石がなかなか見つかりません。
これか?

静岡県賀茂郡東伊豆町稲取・愛宕神社
「うーん。ちょっと違うような…。寸法が…」と高島先生。
じゃあ、こっちかも。

「そうかも」
というわけで、先生撮影の写真がこちら。
「静岡の力石」(高島愼助 雨宮清子 岩田書院 2011)に掲載。

石を撮影しながら、先生、感慨深げに、
「車もないのに伊東先生、こんなところまで…」と、声を詰まらせましたよ。
私もつい、もらい泣き。
でも次に訪ねた山神社で、私は大笑い。
だって、金精さまの大行列ですモン。
社殿の両脇には狛犬代わりに巨大なものが…。

稲取・山神社
先生、急に無口になって石段を駆け下りていきましたデス。
最近、思い出話が多くなりました。年のせいですね。すみません。
ーーーーー◇ーーーーー
高島先生ブログ(5月31日)
「福井県坂井市境町五本・八幡神社」

にほんブログ村

スポンサーサイト