生きた証しを力石に
栗橋八坂神社・流転の力石
13年前の2007年10月、
斎藤氏はこの栗橋八坂神社で、3個の力石を発見します。
3個とも刻字があり、
そのうちの2個には人名、奉納年が刻まれていた。
そのときの石の位置を図に書いてくれました。

斎藤氏の説明によると、
「境内の左の方に水のない池があった。
深さは1メートルほどだったので、池の底まで下りて調査。
3個とも池の縁に置かれた状態で、そのうちの1個は植木の根元にあった」
右ページの一番右端、➁と書かれた力石からお見せします。

埼玉県久喜市栗橋北・栗橋八坂神社移転前の涸れ池にて
60余×33余×10余㎝
「奉納 三十メ 明治廿七年六月 舟戸町 願主 出井友吉」
次に、真ん中の①と書かれた力石をご覧ください。

47余×32×24㎝
「二十五メ 明治廿七年六月 納人 舟戸町 大橋源太郎」
気になったのは、この二つの石の奉納年月です。
全く同じなんですね。
これを見た当時の宮司さん、
斎藤氏にこんな感想をもらしたそうです。
「もしかしたら、
出征兵士の戦勝安全祈願のために奉納したのではないだろうか」
調べてみると、
「日清戦争が勃発したのがこの明治27年で、
日本軍の朝鮮出兵が6月だったのです。宮司さんの推測は当たっていました」
と斎藤氏。
「日清両国戦争図」

国立国会図書館ウェブサイトより転載
戦地へ向かう若者たちが氏神様に集まって、
戦勝祈願や無事帰ってくることを願って力石を担いだ話は、
各地に残っています。
当地には昭和の大戦中、
この力石を担げたら甲種合格間違いなしと信じ、無事担げたら嬉しくて、
石を担いだまま村中の人に見せて歩いた、そんな話が残っています。
※当時は国による徴兵のための身体検査があり、
甲、乙などとランク付けされた。重い力石を持てる頑健な若者は甲種合格。
しかし、そうした若者ほど生きて帰っては来なかった。
この出井友吉と大橋源太郎が兵士自身であったのか、
それとも兵士を送りだしたご家族だったのかはわかりません。
ですが力石には、それを担いだ若者の名前を刻みますから、
この二人は兵士自身だったのでは、と私は思います。
明治6年、政府は20歳の男子に兵役を課す「徴兵令」を公布。
ただし、戸主、養子、嗣子、官吏、学生と、多額のお金を支払ったものは免除。
そのため、実際には農村の次男以下が兵役の義務を負わされた。
その後、改正を重ね、明治22年には「国民皆兵制」となった。
日清戦争の戦病死者は1万3311人。
生きた証しを力石に刻んでいったこの二人は、
無事、戦地から戻ってこられたのだろうか。

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斎藤氏はこの栗橋八坂神社で、3個の力石を発見します。
3個とも刻字があり、
そのうちの2個には人名、奉納年が刻まれていた。
そのときの石の位置を図に書いてくれました。

斎藤氏の説明によると、
「境内の左の方に水のない池があった。
深さは1メートルほどだったので、池の底まで下りて調査。
3個とも池の縁に置かれた状態で、そのうちの1個は植木の根元にあった」
右ページの一番右端、➁と書かれた力石からお見せします。

埼玉県久喜市栗橋北・栗橋八坂神社移転前の涸れ池にて
60余×33余×10余㎝
「奉納 三十メ 明治廿七年六月 舟戸町 願主 出井友吉」
次に、真ん中の①と書かれた力石をご覧ください。

47余×32×24㎝
「二十五メ 明治廿七年六月 納人 舟戸町 大橋源太郎」
気になったのは、この二つの石の奉納年月です。
全く同じなんですね。
これを見た当時の宮司さん、
斎藤氏にこんな感想をもらしたそうです。
「もしかしたら、
出征兵士の戦勝安全祈願のために奉納したのではないだろうか」
調べてみると、
「日清戦争が勃発したのがこの明治27年で、
日本軍の朝鮮出兵が6月だったのです。宮司さんの推測は当たっていました」
と斎藤氏。
「日清両国戦争図」

国立国会図書館ウェブサイトより転載
戦地へ向かう若者たちが氏神様に集まって、
戦勝祈願や無事帰ってくることを願って力石を担いだ話は、
各地に残っています。
当地には昭和の大戦中、
この力石を担げたら甲種合格間違いなしと信じ、無事担げたら嬉しくて、
石を担いだまま村中の人に見せて歩いた、そんな話が残っています。
※当時は国による徴兵のための身体検査があり、
甲、乙などとランク付けされた。重い力石を持てる頑健な若者は甲種合格。
しかし、そうした若者ほど生きて帰っては来なかった。
この出井友吉と大橋源太郎が兵士自身であったのか、
それとも兵士を送りだしたご家族だったのかはわかりません。
ですが力石には、それを担いだ若者の名前を刻みますから、
この二人は兵士自身だったのでは、と私は思います。
明治6年、政府は20歳の男子に兵役を課す「徴兵令」を公布。
ただし、戸主、養子、嗣子、官吏、学生と、多額のお金を支払ったものは免除。
そのため、実際には農村の次男以下が兵役の義務を負わされた。
その後、改正を重ね、明治22年には「国民皆兵制」となった。
日清戦争の戦病死者は1万3311人。
生きた証しを力石に刻んでいったこの二人は、
無事、戦地から戻ってこられたのだろうか。

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