郷土の誇り・南砺物語⑫
待ちに待った「白山久助」こと、「虎林久治郎」の詳しい資料が、
砺波郷土資料館の学芸員さんから届きました。
右側が、私が見たかった虎林碑・裏面の碑文です。

「福光町の石碑」より
本名・中村久助
出身・西太美村才川七
この碑は久助の生まれ故郷の人たちが、昭和8年に建立。
記念碑の建立話は早くから出ていて、
「石は太谷川からそりに太い綱をつけて大勢で引いた」そうですから、
久助さんは郷土の誇りだったんですね。
こちらがその「虎林久治郎」です。髪、あります。ハゲ虎ン。
身長・176㎝ 体重131㎏

「郷土史」や「碑の裏面」の説明と、実際の記録とは違いがあります。
碑の説明では、
「明治25年に関脇となり、虎林久次郎襲名」とありますが、
実際は、「明治32年に、白山久助から虎林久治郎に改名。
翌明治33年に小結。関脇にはなれなかった」
なのに地元では「関脇」となっている。
この点について、ベースボールマガジン社の方が説明してくださった。
「江戸時代から昭和30年代前半ぐらいまでは、地方巡業に行く場合、
部屋、一門単位に分かれて行くことがほとんどで、
人数が少ないため、巡業番付では、
「関脇」と書かれて参加していたのではないでしょうか。
それが地元では関脇と言い伝えられた。
このような例は非常に多いので注意が必要です」
「二十二代木村庄之助一代記」にも、
小結になる前年の明治32年の大阪相撲では、「前頭」とあることから、
碑の「25年、関脇」は誤記ということになります。
で、虎林久治郎さん、大正11年(1922)に65歳で没していますから、
やはり、入門は37歳。小結になったのが42歳。京都相撲移籍が47歳。
高年齢です。
しかし、マガジン社の方は、
「五場所も務めた実力者です」と称賛。
幼少より腕力が強く、相撲や盤持ちを好んだという虎林。
碑にはこう刻まれています。
「米3石を肩にして衆人を驚かせた」
※3石は450㎏。米俵で7.5俵。
こちらは才川での盤持ちの種類の一つ、
肩に担いで立ち上がる「挟箱盤持」です。

「才川七郷土史」
盤持には米俵を担ぐ「米盤持」と、石を担ぐ「石盤持」がありました。
こちらは「石盤持」で8斗(4斗俵2俵)以上担いだ人に与えられた
「表彰盃」です。

同上
虎林碑の基礎石は、このときの力石だそうです。
「この碑が完成した時はみんな集まって、
花火をあげたり、むぎや節を踊ったりして祝った。
虎林の字を染めた大きな手ぬぐいを全戸に配った」(才川七郷土史)
地元の相撲熱、すごいですね。
大相撲に劣らず人気だった「草相撲」の様子、
砺波郷土資料館のウエイブサイト「砺波正倉」で、ぜひご覧ください。
出町は相撲取りで遊郭を営む者が多く、
若い力士に家業を手伝わせ、稽古をつけていた話など興味が尽きません。
「草相撲」の特集は全部で5ページ。下記のURLは3ページ目の一部です。
「砺波野の草相撲の力士たち」
HP左上の「知る 歴史のタイムトラベル」を開き、
「草相撲の力士たち」をクリックして、お好きなページからどうぞ。
ところで、虎林の碑文で一つ気になったことがあります。
碑の揮毫者「釋彰住」という人物です。
有名な真宗大谷派管長だった大谷光演さまの「釋彰如」と一字違い。
真宗信徒のほかに、特別のご縁がある方なんでしょうか。
さてさて、ようやくスタート地点の南砺市へ戻ってまいりました。
「めでたしめでたし」というわけで、「南砺物語」、これにておしまい。
と、その前に、
今回の「南砺市の旅」で見つけた「盤持石」をご紹介します。

南砺市城端上見(うわみ)・上見神明社
※「城端町の歴史と文化」城端町史編纂委員会 町教育委員会 平成16年
資料の中での発見ですが、新発見です。
集落の若者たちは、
あの善徳寺の盤持大会参加のため、この石で練習したそうです。
城端の西新田神明社の新発見から始まった「南砺物語」、
同じ城端の神社の新発見で〆となり、有終の美を飾ることが出来ました!
※参考文献・写真提供/「福光町の石碑」福光あけぼの会
石碑調査編集委員会 平成15年
/「福光町才川七郷土史」福光町才川七郷土史編集委員会
1997
※協力/砺波市立砺波郷土資料館。「砺波正倉」
/ベースボールマガジン社・相撲編集部・門脇利明氏

にほんブログ村

砺波郷土資料館の学芸員さんから届きました。
右側が、私が見たかった虎林碑・裏面の碑文です。

「福光町の石碑」より
本名・中村久助
出身・西太美村才川七
この碑は久助の生まれ故郷の人たちが、昭和8年に建立。
記念碑の建立話は早くから出ていて、
「石は太谷川からそりに太い綱をつけて大勢で引いた」そうですから、
久助さんは郷土の誇りだったんですね。
こちらがその「虎林久治郎」です。髪、あります。ハゲ虎ン。
身長・176㎝ 体重131㎏

「郷土史」や「碑の裏面」の説明と、実際の記録とは違いがあります。
碑の説明では、
「明治25年に関脇となり、虎林久次郎襲名」とありますが、
実際は、「明治32年に、白山久助から虎林久治郎に改名。
翌明治33年に小結。関脇にはなれなかった」
なのに地元では「関脇」となっている。
この点について、ベースボールマガジン社の方が説明してくださった。
「江戸時代から昭和30年代前半ぐらいまでは、地方巡業に行く場合、
部屋、一門単位に分かれて行くことがほとんどで、
人数が少ないため、巡業番付では、
「関脇」と書かれて参加していたのではないでしょうか。
それが地元では関脇と言い伝えられた。
このような例は非常に多いので注意が必要です」
「二十二代木村庄之助一代記」にも、
小結になる前年の明治32年の大阪相撲では、「前頭」とあることから、
碑の「25年、関脇」は誤記ということになります。
で、虎林久治郎さん、大正11年(1922)に65歳で没していますから、
やはり、入門は37歳。小結になったのが42歳。京都相撲移籍が47歳。
高年齢です。
しかし、マガジン社の方は、
「五場所も務めた実力者です」と称賛。
幼少より腕力が強く、相撲や盤持ちを好んだという虎林。
碑にはこう刻まれています。
「米3石を肩にして衆人を驚かせた」
※3石は450㎏。米俵で7.5俵。
こちらは才川での盤持ちの種類の一つ、
肩に担いで立ち上がる「挟箱盤持」です。

「才川七郷土史」
盤持には米俵を担ぐ「米盤持」と、石を担ぐ「石盤持」がありました。
こちらは「石盤持」で8斗(4斗俵2俵)以上担いだ人に与えられた
「表彰盃」です。

同上
虎林碑の基礎石は、このときの力石だそうです。
「この碑が完成した時はみんな集まって、
花火をあげたり、むぎや節を踊ったりして祝った。
虎林の字を染めた大きな手ぬぐいを全戸に配った」(才川七郷土史)
地元の相撲熱、すごいですね。
大相撲に劣らず人気だった「草相撲」の様子、
砺波郷土資料館のウエイブサイト「砺波正倉」で、ぜひご覧ください。
出町は相撲取りで遊郭を営む者が多く、
若い力士に家業を手伝わせ、稽古をつけていた話など興味が尽きません。
「草相撲」の特集は全部で5ページ。下記のURLは3ページ目の一部です。
「砺波野の草相撲の力士たち」
HP左上の「知る 歴史のタイムトラベル」を開き、
「草相撲の力士たち」をクリックして、お好きなページからどうぞ。
ところで、虎林の碑文で一つ気になったことがあります。
碑の揮毫者「釋彰住」という人物です。
有名な真宗大谷派管長だった大谷光演さまの「釋彰如」と一字違い。
真宗信徒のほかに、特別のご縁がある方なんでしょうか。
さてさて、ようやくスタート地点の南砺市へ戻ってまいりました。
「めでたしめでたし」というわけで、「南砺物語」、これにておしまい。
と、その前に、
今回の「南砺市の旅」で見つけた「盤持石」をご紹介します。

南砺市城端上見(うわみ)・上見神明社
※「城端町の歴史と文化」城端町史編纂委員会 町教育委員会 平成16年
資料の中での発見ですが、新発見です。
集落の若者たちは、
あの善徳寺の盤持大会参加のため、この石で練習したそうです。
城端の西新田神明社の新発見から始まった「南砺物語」、
同じ城端の神社の新発見で〆となり、有終の美を飾ることが出来ました!
※参考文献・写真提供/「福光町の石碑」福光あけぼの会
石碑調査編集委員会 平成15年
/「福光町才川七郷土史」福光町才川七郷土史編集委員会
1997
※協力/砺波市立砺波郷土資料館。「砺波正倉」
/ベースボールマガジン社・相撲編集部・門脇利明氏

にほんブログ村

スポンサーサイト