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郷土の誇り・南砺物語⑫

待ちに待った「白山久助」こと、「虎林久治郎」の詳しい資料が、
砺波郷土資料館の学芸員さんから届きました。

右側が、私が見たかった虎林碑・裏面の碑文です。
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「福光町の石碑」より

本名・中村久助
出身・西太美村才川七

この碑は久助の生まれ故郷の人たちが、昭和8年に建立。

記念碑の建立話は早くから出ていて、
「石は太谷川からそりに太い綱をつけて大勢で引いた」そうですから、
久助さんは郷土の誇りだったんですね。

こちらがその「虎林久治郎」です。髪、あります。ハゲ虎ン。

身長・176㎝ 体重131㎏ 
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「郷土史」や「碑の裏面」の説明と、実際の記録とは違いがあります。

碑の説明では、
「明治25年関脇となり、虎林久次郎襲名」とありますが、

実際は、「明治32年に、白山久助から虎林久治郎に改名。
翌明治33年小結。関脇にはなれなかった」

なのに地元では「関脇」となっている。
この点について、ベースボールマガジン社の方が説明してくださった。

「江戸時代から昭和30年代前半ぐらいまでは、地方巡業に行く場合、
部屋、一門単位に分かれて行くことがほとんどで、
人数が少ないため、巡業番付では、
「関脇」と書かれて参加していたのではないでしょうか。

それが地元では関脇と言い伝えられた。
このような例は非常に多いので注意が必要です」

「二十二代木村庄之助一代記」にも、
小結になる前年の明治32年の大阪相撲では、「前頭」とあることから、
碑の「25年、関脇」は誤記ということになります。

で、虎林久治郎さん、大正11年(1922)に65歳で没していますから、
やはり、入門は37歳。小結になったのが42歳。京都相撲移籍が47歳。
高年齢です。

しかし、マガジン社の方は、
「五場所も務めた実力者です」と称賛。

幼少より腕力が強く、相撲や盤持ちを好んだという虎林。
碑にはこう刻まれています。

「米3石を肩にして衆人を驚かせた」
 ※3石は450㎏。米俵で7.5俵。

こちらは才川での盤持ちの種類の一つ、
肩に担いで立ち上がる「挟箱盤持」です。

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「才川七郷土史」

盤持には米俵を担ぐ「米盤持」と、石を担ぐ「石盤持」がありました。

こちらは「石盤持」で8斗(4斗俵2俵)以上担いだ人に与えられた
「表彰盃」です。

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同上

虎林碑の基礎石は、このときの力石だそうです。

「この碑が完成した時はみんな集まって、
花火をあげたり、むぎや節を踊ったりして祝った。
虎林の字を染めた大きな手ぬぐいを全戸に配った」(才川七郷土史)

地元の相撲熱、すごいですね。

大相撲に劣らず人気だった「草相撲」の様子、
砺波郷土資料館のウエイブサイト「砺波正倉」で、ぜひご覧ください。

出町は相撲取りで遊郭を営む者が多く、
若い力士に家業を手伝わせ、稽古をつけていた話など興味が尽きません。

「草相撲」の特集は全部で5ページ。下記のURLは3ページ目の一部です。

「砺波野の草相撲の力士たち」

HP左上の「知る 歴史のタイムトラベルを開き、
「草相撲の力士たち」をクリックして、お好きなページからどうぞ。

ところで、虎林の碑文で一つ気になったことがあります。

碑の揮毫者「釋彰住」という人物です。
有名な真宗大谷派管長だった大谷光演さまの「釋彰如」と一字違い。

真宗信徒のほかに、特別のご縁がある方なんでしょうか。

さてさて、ようやくスタート地点の南砺市へ戻ってまいりました。
「めでたしめでたし」というわけで、「南砺物語」、これにておしまい

と、その前に、

今回の「南砺市の旅」で見つけた「盤持石」をご紹介します。

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南砺市城端上見(うわみ)・上見神明社
※「城端町の歴史と文化」城端町史編纂委員会 町教育委員会 平成16年

資料の中での発見ですが、新発見です。

集落の若者たちは、
あの善徳寺の盤持大会参加のため、この石で練習したそうです。

城端の西新田神明社の新発見から始まった「南砺物語」、
同じ城端の神社の新発見で〆となり、有終の美を飾ることが出来ました


※参考文献・写真提供/「福光町の石碑」福光あけぼの会 
         石碑調査編集委員会 平成15年
         /「福光町才川七郷土史」福光町才川七郷土史編集委員会
          1997
※協力/砺波市立砺波郷土資料館。「砺波正倉」
   /ベースボールマガジン社・相撲編集部・門脇利明氏


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白山久助・南砺物語⑪

南国の相撲の話から、今度は北国のお相撲さんのお話です。

こちらも相撲大国。たくさんの力士を輩出しています。

富山市出身で、明治から大正にかけて活躍したのが、
第22代横綱・太刀山峰右衛門です。

その横綱が後輩たちのために相撲場「太刀山道場」を、
小学校の敷地に残してくれたそうです。

その「太刀山道場」で相撲を始めたのが、
同じ富山市出身の
東大関・朝乃山英樹(平成6年生まれ。近大出身)です。

富山市郷土博物館の「博物館だより」で、
太刀山の錦絵や太刀山道場、その他の力士などをご覧ください。

朝乃山は2019年5月場所で初優勝。このとき、西前頭8枚目。

日本相撲協会の「力士プロフィール」で、可愛い笑顔を見てください。

思わずこちらも笑顔になります。

この初優勝、ものすごい快挙だったんですね。

富山県からは太刀山以来103年ぶり、
三役経験のない力士の優勝は、佐田の山以来58年ぶりとか。

さらに、
来日中のトランプ大統領から、「大統領杯」を授与されたそうです。
トランプさんはババを引いたけど、朝乃山はエースになった。

久々の富山出身のスター誕生です。

それだけここは、相撲の歴史が厚いということなんですね。

そのためか、富山県には相撲力士の立派な碑がいくつかあります。
その一つ、南砺市福光町の「力士 虎林之碑」をご覧ください。

これです。
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富山県南砺市福光町才川。基礎石は盤持ちに用いた力石です。

実はこの「虎林」という四股名の力士、明治・大正の頃には、
大阪相撲に「力松」「久治郎」
京都相撲に「ハゲ虎」こと「直次郎」がいて、

碑の力士はどの人か、私にはサッパリだったので、
ベースボールマガジン社・相撲編集部の方にご教示いただきました。

その結果、
この記念碑の主が「ハゲ虎」でなかったことに、まず安堵(笑)

編集部の方から、
白山久助ではないかな」と。

●明治27年4月、大阪相撲に白山久助の名で入幕。
●同32年6月、虎林久治郎と改名。
●同33年6月に小結。一度平幕に落ち、36年1月、5月、37年にも小結。
●同37年5月限りで京都相撲に移籍。

事前に、富山の図書館から取り寄せた「福光町才川七郷土史」には、
「明治22年、33歳で大阪相撲に入った」とある。

27年入幕のとき、すでに37~38歳。年を取り過ぎています。

編集部の方も、
「白山久助に間違いないはずですが、ただ年齢が…」と。

そこで、「砺波野の草相撲」を特集された
「砺波郷土資料館」へ改めて問い合わせてみました。


このつづきは次回へ。


※参考文献・写真提供/「福光町才川七郷土史」
         福光町才川七郷土史編集委員会 1997
※協力/(株)べースボ-ルマガジン社・相撲編集部・門脇利明氏
 

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高知の話・南砺物語⑩

「ばんもち」なる呼称は、四国の高知県にもあります。

北前船の航路とは反対側なのに12ヵ所も。
この呼び名が存在する12府県のうち、高知県は6番目に多い県なんです。

理由はわかりません。

「ばんもち石」の説明がある場所を3ヵ所お見せします。
まずは須崎市の力石です。

ばんもちかたぎは、村の若者の晴れの力の見せどころであった」
 =「須崎市史」

須崎市久通・観音堂
高知県須崎市久通・観音堂

場所がわかりやすいように、地図を出しておきます。

紫の丸がさきほどお見せした力石の所在地・須崎市です。

39 (2) (2)

こちらは南国市(黄色の丸)の力石です。

「子供の頃(大正末期ごろ)、鎮守の社前で青壮年がふんどし一つで、
藁をひとつかみしごいて両手に握り、石を抱いて膝に取り腹に乗せ、

ゆすり上げて肩にしていたもので、
ばんもち石、ばんもちをやると言ったように思います」
 =棚橋正實氏談

南国市上廿枝・八坂神社
高知県南国市上廿枝・八坂神社

「藁や縄を両手で持って」というやり方は、北陸でよく見られることから、
なんらかの手段で伝わったはずなんですけどねぇ。

明治29年(1898)年ごろ、
この高知県から北海道北見方面に入植した団体があります。

坂本龍馬の姉の子で、坂本直寛の「北光社」です。

ですが、同じ入植者の北陸農民との接点はありません。

北海道入植はむしろ徳島県の方が多いのですが、
おもしろいことに、徳島には「ばんもち」という名称はありません。

ここで今も続いている石担ぎをご覧ください。
美良布(びらふ)神社夏祭りでの「力自慢大会」です。

黒潮洗う逞しい土地での石担ぎ、さぞ、豪快でしょうね。

場所は香美市(茶丸のところ)。

うぎゃああああ!

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高知県香美市香北町・美良布神社

うぎゃああああ!

うぎゃあああ

こちらはポスターです。子供相撲もあります。

「高知の香美市の観光BLOG」でどうぞ。

思いっきりデカイ石です。

高知力持ち大会

さて、「ばんもち」説明文、3ヵ所目です。

こちらは「若桜の力石」といいます。
「若桜」(本名・小野熊吉)は、大相撲力士だったそうです。

石にはめ込まれた碑文に、
「海部町高園」という地名と「妻緑さんの寄金で篆刻した」とあります。

「説明文
重い石を担ぎ上げることをバンモチといいます。
ここのバンモチ石は彫られているように、小野熊吉が18歳のとき担いだ石です」
 =原田英祐氏資料

場所は安芸郡東洋町
徳島県との県境の町です(地図の右、赤丸のところ)。

力石は相撲場に置かれています。

東洋町より力石写真
高知県安芸郡東洋町白浜

この町出身の大相撲力士・玉乃浦友喜(1932~2016)は、
27歳で廃業したのち、近畿大学相撲部のコーチに就任。

その関係から春には、この相撲場が近大相撲部の合宿所になったそうです。

東洋町役場・総務課企画調整室の方によると、

「合宿に使われたのは25年ほど前です。
相撲場は現在もありますが、残念ながら今は相撲場として使われておりません」

お隣りの室戸市(青丸)は朝潮太郎(四代)(最高位・大関)の出身地です。
朝潮さんは、近大相撲部出身でしたね。

高知県は相撲が盛んなところのようで、
朝潮出身の室戸市には中央公園相撲場があり、

高知市(白丸)春野町には、
高知県立「春野総合運動公園相撲場」があり、

同じ市内にもう一つ、大原町に「高知市総合運動場相撲場」があります。

改めて思いました。高知県ってすごい!

さて、最後に四国・香川県の意外な力石をご覧ください。
祠にまつられて、宮司さんのありがたい祝詞までいただいております。

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香川県三豊郡豊浜町(現・観音寺市)・豊浜八幡神社

この力石には、幕末から明治初期に名を馳せた「鬼熊」の名と、
その「門人」として、
江戸の「新川七五郎」、大阪の「松本辰五郎」の名が刻まれています。

この二人が四国までやって来た理由について、
高島先生はこう推測しています。

「これと共通した人名の文久元年の力石が、神戸市に2か所残されている。
この豊浜八幡神社は翌文久2年に改築されていることから、
二人は招かれて、奉納力持ちを行ったのではないだろうか」

鬼熊さん、よかったね。
遠い四国でこんなに大切にされて…。


※情報・写真提供/高知県安芸郡東洋町役場・企画調整室
※参考文献/「四国の力石」高島愼助 岩田書院 2005


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加賀藩の話・南砺物語⑨

「南砺物語」のはずが、あちこちへ飛んでしまい、焦っておりますが、
もう少し、お付き合いのほどを。

「ばんもち」は北陸地方特有の力石の呼び名です。
その呼称が、どこに伝播し今はどうなっているかというお話です。

斎藤氏の調査では、
石そのものに「ばんもち」と刻まれたもの(切付け・刻字)はわずか1個。
じかに石にペンキで書いたもの(書付)も、やはり1個。

意外な結果です。

と、前回、ご報告しましたが、斎藤氏、念には念を入れて再確認したら、
新たに、「刻銘(切付け)」石を1個、「書付」石を2個発見。

斎藤氏、全国の力石を全部調べ直したので、
すっかり「目がショボショボおじさん」になっちゃったそうです。

でもやっぱり、「刻銘(切付け)」も「書付」も少ないですね。

ならば碑文や説明文ではどうかというと、12府県にありました。

ダントツなのが石川県で、104か所。
師匠の高島先生もこう言っています。

「石川県で力石を訪ねると、「ああ、バンモチ石かね」と答えられる。
県全体でバンモチ石という名称が通り名になっていた」

こちらは能美市の「バンモチ石」です。

「碑文 盤持ち石」

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石川県能美市金剛寺町・富樫八幡神社

加賀(石川県)といえば百万石の大大名。さすがに保存も立派です。

江戸時代は越中(富山県)をも支配していたそうで、
日本海の西回り航路の先鞭をつけたのも、加賀藩だったとか。

なんでも当時、年貢米を大阪へ輸送するには琵琶湖の水運だったが、
運賃が高額なうえ、船に乗せたり馬の背に移し替えたりで俵が痛む。

そこで考えたのが下関経由の輸送。
島原の乱鎮圧のため、このルートで軍隊を送ったことがヒントになったとか。

こちらは昭和9年の「磐持大会奉納額」です。

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石川県長浜市佐味町・長浜神社

「北前船」と聞けば、大きな一枚帆の美しい大型船体を思い浮かべますが、
ここまで来るには大変な苦戦を強いられた、ということが、
「人づくり風土記・富山」に書かれていました。

最初、上方への航海に、琵琶湖で使っていた「北国船(ほっこくぶね)」
という平底船で運行していたそうです。

これは帆がムシロで漕ぎ手が櫓をこぐというもので、海難事故も多かった。

こんな船では櫓を使わず帆で走る上方の「弁才船(べざいせん)」には勝てません。

上方の人たちは、この貧相な船を笑って、
「北前船(きたまえぶね)」と軽蔑の意味をこめて呼んでいたというのです。

つまり、「北前」とは「日本海」を指した言葉で、
「いなかっぺ」という意味で、差別的に使っていたと思われます。

関西人はけしからん!

こちらは観光ガイドブックに載った力石(左下)です。
こういう本に載せていただくと嬉しいですね。

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石川県加賀市塩屋町・八幡神社の力石

バカにされて意地になった加賀藩では上方の船を雇い、
それ以外の地方(じかた)の船を排除。

「この加賀藩の了見の狭さが、
北陸の海運全般を上方依存にさせてしまった」
と、「人づくり風土記」の著者は静かに抗議。

こうした状況のもとで越中(富山)の船主たちは、弁才船の建造を試み、
船頭たちは天文、気象、海流などの新しい航海技術を学んだ。

そうした懸命の努力で、やがて黄金時代を迎えます。

北海道開拓でも、この北前船でも感じ取れるのは、
北陸の人の我慢強さや勤勉さです。

こちらは、今も続いている小松市の「磐持大会」です。

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石川県小松市浜田町・菟橋神社

この北前船の船頭の中に、明治の南極探検隊の一員になった人がいます。

羽咋市の野村直吉で、
明治45年、白瀬中尉の南極探検隊の船長として加わります。

わずか204トンの機帆船で5万8000キロを航海。
一人の死傷者も出さなかったそうです。

北前船の船員の航海技術はそれだけ高かったんですね。

刻苦勉励といえば、息子が高校生の頃の先生の話が思い出されます。
先生、ため息をつきながらこう言いました。

「進路相談のとき、長野や北陸の親は、
「この大学に入れなかったらあきらめて働いてもらいます」と言うのに、
静岡の親は、
「入れるところならどこでもいいよ」と言う。甘いんですよ、ここの親は」と。

そういえば、静岡から総理大臣は一人も出ていないしなあ。

覇気がないから小粒が多いんだよね。ふう…。

気を取り直して、小松市の「磐持の由来碑」をご覧に入れます。
静岡県にはこういう立派なものもない。当県は力石の貧困県なんです。

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石川県小松市向本折町・白山神社

それにしてもみなさま、

コロナで外出もままならない日々、どうされていますか?

私はついに暴発!

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とはいえ、火薬のない火縄銃では暴発もなにもないですけど。

それにこれ、3年前に県西部の郷土館で写したもの。
ああ、こんなふうに自由に出歩きたい!


※参考文献/「北前船ー寄港ガイド」加藤貞仁 無明舎出版 2018
      /「北前船‐日本海こんぶロード」読売新聞北陸支社 1997
      /「江戸時代 人づくり風土記16 富山」「越中七浦と北前船」
       高瀬保 農山漁村文化協会 組本社 1993

   ーーーーー◇ーーーーー

高島先生ブログ(1・22)

「福井県今立郡池田町千代谷・八幡神社」

足羽川ダム、豪雪地帯、能楽、そして力石。


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「ばんもち」の呼称・南砺物語⑧

日本地図はいつも太平洋側から見た形に描かれています。

学校では太平洋側を「表日本」、日本海側を「裏日本」と教わった。

裏だの表だのという言い方はなんだか変だなあと、子供心に思っていました。

だって「裏」って、暗くて冴えないイメージでしょ。
自分の立ち位置が有利なように決めつけた言い方だなって。

だけど、そんな私も、

「はるばる長き布を引けるがごとく」裾野を広げた表富士は、
裏側からは決して見られないよね、などと自負し、

そういう表側に住んでいることに、
ほのかな優越感を持っていたのだから、我ながら勝手なもんです。

表でも裏でも、富士山周辺の学校の校歌には、
みな霊峰富士が詠みこまれています。

「岳南健児」の私たちは、「国家有為の材たるべし」と富士に誓ったけれど、
私に限っては無理だったなァ。

でも富士の湧き水で産湯を使ったこの私、富士山は特別な存在です!

とかなんとか。

CIMG4983 (2)
静岡県富士宮市

さて、本題に戻ります。

日本地図を逆さまにして日本海側から俯瞰してみると、
今までの通説がひっくり返ります。たちまち裏が表に、表が裏になります。

富山県のHP上の「逆さ地図」で、体験してみてください。

環日本海文化圏。
アジアや北方からの人や文化の流れが見えてくるようです。

江戸から明治中期ごろまで、ここで活躍したのが北陸の商人たちです。

北陸の商人たちは自前の「北前船」で、
蝦夷地と「表日本」、さらに琉球、アジア、ロシアまで行き来していた。

彼らはただ荷を運ぶだけの運送業者ではなかった。

それぞれの出航地でできるだけ安く品物を買い付け、
寄港地ではできるだけ高値で売って利ざやを稼ぐという、
抜きんでた経営手腕がものをいう、商社のような存在だったそうです。

ひと航海で約一億円の儲け。並の商人ではできません。

情報網を張り巡らせていち早く価格の相場をつかみ、
船主は出先機関まで出張り、船頭に取引を任せつつ密に連絡を取る。

幕府御用商人とは違い、権力べったりの商いはしなかったという。

とまあ、ここまではよそ様の本の受け売り。本題はやはり力石です。

人が動けば風俗習慣も移動する。いい例が「獅子舞」です。

ここでは、北陸地方で力石のことを指す「ばんもち」なる言葉が、
どこにどれだけ残っているかをみていきます。

調査してくださった斎藤氏から、こんなメールが…。

「力石への刻銘はというと、驚いた! たったの一件

その一件がこれです。
小矢部市ばんもち
富山県小矢部市柳原・個人宅

これは、わら打ち石を力石に使ったもの。
ご子孫が先祖の苦労をしのび、1985年に保存。ほかに3個あります。

※大阪市北区の大阪天満宮に、三ノ宮卯之助が持った「大盤石」ありますが、
  これについては後述。

また「書付」の石はというと、新潟県妙高市に一か所で、そのうち1個のみ。
 ※書付=文字を石に刻んだのではなく、墨やペンキなどで書いたもの。

「番持石 四拾八貫」

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新潟県妙高市樽本下樽・下樽神社 「碑文 平成八年保存」

新潟が出ましたので、こんな力石もご紹介します。

小学校の創立記念碑に使われた力石です。

この学校に赴任してきた校長先生が、
校庭に転がっていた「六斗目の石」と称する力石を、碑に転用しました。

「門出小学校 創立百周年記念 昭和五十年十月九日
                  富田一男書 小村辰夫刻」

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新潟県柏崎市高柳町門出・門出小学校。酒井正・画

「清く明るく 強く正しく」

残念ながら、この門出小学校は2012年に閉校してしまいました。

その後の様子を取材した方のブログがありますのでご覧ください。
この「百周年記念碑」も残っています。

「学舎の記憶」=新潟を中心とした廃校を旅するブログ=

子供の声が消えて、力石も寂しげです。


※参考文献/「新しい近世史3」「北前船の情報世界」高部淑子 
      「近世・近代期北前船商人の経営展開」中西聡 新人物往来社
       1996
     /「新潟の力石」高島愼助 岩田書院 2007

   
   ーーーーー◇ーーーーー

高島先生ブログ(1・19)

「埼玉県桶川市寿・稲荷神社⑨」

卯之助は今や饅頭にもなり、ストラップにも手ぬぐいにもなった。
でも地元の研究者が発見するまでは、全く忘れられた人だったのです。


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北前船・南砺物語⑦

北前船(きたまえぶね)なくしては、北海道開拓は難しかっただろうし、
大阪の昆布文化も決して育まれることはなかったであろう」

作家の津本陽氏は「北前船」の本の冒頭でこう語っている。

津軽(青森県)弘前の人、平尾魯僊(ろせん)は、
安政二年(1855)、蝦夷地(北海道)をめざして船に乗った。

徳川から明治新政府にかわる14年前のことです。

わずか7、80石積みの小舟で、十三湊(とさみなと)を出港。
目指すは江戸幕府唯一の蝦夷支配地、松前(まつまえ)です。

※ちなみに、北前船は「千石船」です。米を千石(150トン)積めます。

平尾魯僊は商人のせがれですが、画家ですから絵も描きました。

前方、左端に小さく「マツマヘ」と書かれています。
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乗員は船乗り6人と客3人の合計9人
狭い船内には囲炉裏やかまどもあります。

湾内から権現岬まで3時間もかかった。

この岬を回り込もうとしたとき、凪(なぎ)で航行不能となり、
やむなく湊へ引き返した。

ところが、一天にわかにかき曇り、ヤマセが吹き出した。

船頭たちは「今こそ」と、果敢に津軽海峡へ乗り出した。
船は走ること、矢を射るごとし。

しかし、右に傾くかと思えば左へ起き上がり、まさに転覆寸前。
船中の客たちは潮をかぶり、寒風にさらされて、

「みな顔色失し、嘔吐すこぶる狼藉なり」

翌朝、ようよう松前の港口に着いた。

改め役の小役人の威張り腐った取り調べに「カチン」ときたが、
市中には昆布ニシン粕の商人や船乗り、旅客があふれていて、
魯僊はその活気に驚く。

夜はことに賑々しく、
遊女屋を始め店々はみな灯篭、燭台を灯して熱気ムンムン。

すこぶる繁盛の様子。

建物はみな立派な造りで、社寺の彫刻も素晴らしい。

目を港内に転じてみれば、百数十艘商船が碇をおろし、
「帆柱、林叢(りんそう=樹木がうっそうとしている)の如し」状態。

海側から見た松前湊です。
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絵を見ると確かに、湊には帆柱を林立させたたくさんの商船が浮かび、
その向こうに無数の家並みが見えます。

左側に松前城が威風堂々と建っています。

そんな松前に今も残る力石、ちょっとご覧ください。

台座に「300年前の力石」と刻まれています。
これが力石だということは、古老からの言い伝えだそうです。

この石を「ばんもち」「ばんぶち」と言わない所を見ると、
これは、北陸以外の漁民たちの力石ではないかと思います。

300年前といえば、八代将軍吉宗の時代。

蝦夷地から日本海沿いを南下し、下関で瀬戸内海へ入り大阪へ着岸という
西回り航路が定着してきたころです。

この石は当時を知る唯一の生き証人です。
でもゴツゴツしていて、担いだら痛そう(笑)

松前町原口・八幡宮1
北海道松前郡松前町・原口八幡神社

ついでながら、この神社の珍しい神事をご紹介します。



松前は神楽が盛んなところです。
「お城神楽」といい、元々は松前藩のお城で行われていたそうです。

しかし、ニシン漁の衰退で人口が減り、同時に神楽の担い手も減少。
それでも各地区が結束して保存につとめ、
2018年、国の重要無形文化財に指定されたそうです。

神楽は神職さんたちによって演じられています。



獅子が泣き叫ぶ子供を「さらって」いく「鹿部稲荷神社」の獅子舞も
ぜひどうぞ。
ワンちゃんまで神殿に連れ去られます。

みんな大笑い。


北海道茅部郡鹿部町宮浜・鹿部稲荷神社

神楽は同じ所作が続き長いので、興味のない人はすぐ飽きてしまいます。

おまけに寒い時期、吹きさらしの舞殿で演じるので、
みなさん、「もう、帰ろうよ」とうるさい。

だから神楽は一人で観るに限ります。

とはいうものの、この私だって雰囲気に浸っているだけで、
内容を理解しているわけではありません。

思うに、現代人にとって神楽は、歌舞伎や能を見る外国人と同じ。
レクチャーなしでは所作の意味がわかりません。

正直なところ、
同時解説装置が欲しいなあと思うことがしばしばであります。

御用とお急ぎのない方は、
別の「鹿部稲荷神社」の神楽獅子舞を、もう一つ見てください。
神と人が一つになって遊ぶ、本来の姿はこうではなかったか、と。

胸に偽おっぱいを入れた天狗のおじさんが、コミカルに動きます。




※参考文献/「日本庶民生活史料集成・第二十巻」「松前紀行」平尾魯僊
      第一書房 1972
     /「日本海こんぶロード・北前船」能登印刷出版部
      読売新聞北陸支社 1997

   ーーーーー◇ーーーーー

高島先生ブログ(1・16)

「埼玉県桶川市寿・稲荷神社⑥」

「卯之助」が続いております。
やっぱり卯之助は力持ち界のスターですね。


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獅子舞王国・南砺物語⑥

富山県には1000以上の獅子舞の団体があるそうです。

ここ南砺市には131カ所の地区に102団体。
とにかくすごい数です。

南砺市からちょっと離れますが、
日本海に面した下新川郡入善町新屋の獅子舞をご覧ください。



こうした獅子舞を、
北海道へ入植した人たちがそれぞれの新天地へもたらします。

北海道には獅子舞を演じる地区が80か所、
そのうち富山県からもたらされたものが42か所。

北海道の獅子舞の半分以上が富山から移入されたというのですから、
いかに「ふるさとへの思い」が強かったかわかります。
 
獅子舞にもいろいろ特徴があります。
旭川市の獅子舞のほとんどは、この入善町の獅子舞を伝承しているとか。

次にその北海道に根付いた獅子舞をご覧ください。

こちらは南砺市からの移住者によってもたらされた
札幌市・丘珠神社の「丘珠獅子舞」です。



入善町の獅子舞は「二人立ち」といって、獅子の中に一人か二人入る形ですが、
「丘珠獅子舞」は、たくさんの人が入る「百足(ムカデ)獅子」で、
「砺波型」「氷見型」「射水型」といわれるものです。

この獅子を見ていて、ふと、思い出したものがあります。

記者時代に撮影した静岡県掛川市の「仁藤の大獅子」です。

獅子頭の重さは220㎏。胴体の長さは25m
大きさは日本一だそうです。

獅子に入る人数はムカデもびっくりの約120人
これが町を練り歩き、夜は天然寺の境内で乱舞です。

120人もの人たちの足がよく揃うものだと感心しました。

当時の新聞の県内版はまだモノクロでしたので、これでご勘弁を。

img20210109_20543883 (3)
静岡県掛川市仁藤町の大獅子。
このほかに3頭の獅子が舞う瓦町の「かんからまち」もあります。

余談ですが、この寺には江戸時代のオランダ商館長の墓があります。
玉垣に囲まれたかまぼこ型の墓石です。

この「オランダ・カピタン」は、江戸参府旅行の途中、ここで客死。
仏式で葬式をしたそうです。

戒名は「通達法善居士」

獅子舞の話ばかりで気が引けますので、
入善町新屋で今も続いている「力石による大磐祭り」もお見せします。

興味のない動画って、疲れますよね。
と、気を遣いつつ、3本も強引にお見せしちゃいます。(*゚ェ゚*)


富山県下新川郡入善町新屋・住吉神社

さて、豪快な「大磐祭り」を見ていただいたので、
私も力石の「大ばん振る舞い」といきますか。

北海道の力石、二つほどお目にかけます。

この石たちは郷土資料館という素敵な場所に鎮座しております。

一つ目はこちら。

「石銘 力持石」 130㎏ 寄贈者 島松旭町 野口惣二氏

(説明文 ばんもち石

「明治時代開拓に汗を流した島松地区の若者が、
この石で力くらべをしたものです。ー略ー
寄贈者の父はこの石を担ぎ上げた力持ちの一人であったそうです」

恵庭市南島松・恵庭市資料館1
北海道恵庭市南島松・郷土資料館

もう一つがこちら。

「石銘 ばんだい石」 120㎏(約32貫) 文化二年(1805)と伝えられる。
寄贈者 恵庭市林田 島倉歌吉氏

(説明文 ばんだい石(字不詳)

「今から170年前、鮭、鱒などの漁獲場として栄え、年間四千石の漁獲量の
あった漁太地域で発見されたもの。
当時の若者たちが大勢集まっては力くらべに用いたと伝えられる」

恵庭市南島松・恵庭市資料館2

「ばんもち」という名称から、日本海の荒波をものともせず航行していた
「北前船」が浮かんできます。

北前船に乗った北陸の船頭たちの足跡が、ここにも見出せます。

でもね、
こうして置かれた石を見ていると、この私でも思っちゃいますねぇ。

やっぱり力石は、担がれてナンボのものかもって。

なお、現代の力持ち、岐阜の大江誉志氏は、
入善町新屋のあの磐持石を見事に担いでいます。

下記をクリック。動画の上から12段目の左端で見ることができます。

「東海力石の会」


※参考文献/「平成28年度 南砺市獅子舞調査回答結果」
     南砺市文化・世界遺産課
     /「北海道の民俗芸能一覧」北海道オープンデータポータル
     北海道電子自治体共同運営協議会 平成30年11月21日現在
     /「道内の獅子舞活動ー富山県・香川県から伝承された獅子舞ー」
     浅見吏郎 2013年3月
     /「新発見・力石」高島愼助 斎藤保夫 岩田書院 2010


   ーーーーー◇ーーーーー

高島先生ブログ(1・12)

「埼玉県桶川市寿・稲荷神社➁」

日本一の卯之助石です。

   ーーーーー◇ーーーーー

本日(1・12)、ツバメを見ました。
まだ1月ですよ。静岡県の山沿いでも3cmの積雪。
いくら当地が暖かいからと言っても、飛来、早くないですか。
3羽見ました。エサ、とれるのか心配になりました。

鳥に詳しい方、どうなんでしょう?
近くの沼には、コハクチョウの群れがいるというのに。

こちらは1月4日に撮影したハヤの群れです。
目の前にカワセミが止まりましたが、私に気づいて飛び去って行きました。

CIMG5404 (4)

当地はただいま、冬と春が混在しております。


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獅子舞・南砺物語⑤

獅子舞に入る前に、北海道の力石をご紹介します。

といっても、北海道の力石はわずか11個

石担ぎに興じる余裕がないほど、過酷な日常だったのかもなぁと思いました。

その数少ない力石を二つ、ご紹介します。

一つは、
屯田兵によって開かれたので「屯田兵村」と呼ばれた
旭川市永山にある永山神社の力石です。

「奉納 九斗五升目力石 
 藤川惣吉 二階堂朝太郎 国沢芳之助
「奉納 国沢芳之助

屯田兵村の構成は、1村400人の村が6カ所で、計1,200戸。
入植者は主に四国、和歌山、岡山、鹿児島など西の地方だったそうです。

旭川永山神社 (2)
北海道旭川市永山・永山神社

昭和62年、永山神社奉賛会会長がこんな話を残しています。

「往時、神社祭典、招魂祭には青年衆は相撲をとり、
力石を担ぎ、差し上げるなどして力を競ったものである」

もう一つは札幌市・厳島神社の力石です。

入植は明治4年、岩手県から185人、明治17年に広島県からの入植も。
力石がある厳島神社は、この広島県人によって創建されました。

ここはすでに江戸時代、新道建設のため和人が入り、
明治には陸軍が置かれ、大正時代にはりんご栽培や酪農が盛んになった。

近代には冬季オリンピックの会場となり、
札幌ドームもできて、近代化へ一直線

入植という暗さはあまり感じられません。

石銘は「力石 二十八貫」

台座には14人の「肩揚成功者」の名前が刻まれています。
昭和46年建立。

札幌厳島神社 (2)
北海道札幌市豊平区福住・厳島神社

過酷とはいえ、
政府公募の屯田兵は、家も食料も農具も支給されて恵まれていた。

民間の手引きや自費での入植者はどうだったかというと、

開高健の小説「ロビンソンの末裔」の如き、
惨憺たるものだったのかもしれません。

この小説は、
第二次大戦の戦争末期、政府公募で北海道を目指し、
途中で敗戦となって国から捨てられた入植者たちの悲惨さを描いたもの。

富山県立博物館協会の渡辺玲子氏の、入植の足跡をたどった論文にも、
入植者の厳しい様子がうかがえます。

渡辺氏によると、富山県砺波地方の人たちの主な入植先は、

「石狩国幌向(ほろむい)原野
「十勝国中音更(なかおとふけ)原野」「天塩国名寄太(なよろぶと)原野

原野、原野で気が遠くなりそうですが、
そんな中、人々はふるさとの神社や寺を心のよりどころとし、
ふるさとの祭りを導入してがんばってきた。

その原動力となったのが、富山県で盛んな「獅子舞」だったようです。

まずは富山の獅子舞を、下記の動画でご覧ください。

「南砺市文化芸術アーカイブズ」


※参考文献/富山県博物館協会・渡辺礼子
  「明治・大正期に砺波地方から北海道へ移住したひとびとの足跡を辿る」


   ーーーーー◇ーーーーー

高島先生ブログ(1・10)

「神奈川県鎌倉市小袋谷・公会堂」

穴がボコボコ開いています。

   ーーーーー◇ーーーーー

コロナだけでも大変な時なのに、記録的な大雪になってしまって。
雪国のみなさま、どうか、ご無事でいてください。


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忘れ難きふるさと・南砺物語④

北海道に夕張郡栗山町という町があります。

栗山町史によると、

明治二十一年(1888)、宮城県仙台藩士の泉麟太郎が、
「夕張開墾起業組合」を設立し、7戸、24人でアノロ川右岸に入植」

それがこの町の始まりだという。

明治初年、麟太郎の主君の仙台藩筆頭、角田藩・石川邦光が
室蘭に入植したものの挫折。
仙台藩では伊達氏分家も、有珠郡や当別などに入植している。

官軍に逆らった藩は、「人跡隔絶の地」でしか
生存を許されなかったということでしょうか。

藩士の泉麟太郎は頑張りぬき、炭坑と共に発展。町の基礎を作った。

富山県からこの地への入植は、明治24年ごろだそうです。
2年後、炭鉱鉄道が開通。戸数も30戸までになった。

この栗山町に、富山県南砺市・善徳寺で行われている
「盤持大会(米盤持)と同じものがありました。

これです。
栗山町 (3)
北海道夕張郡栗山町中里

残念ながら、この大会は平成十三年(2001)、
運営委員の高齢化などに伴い、72回をもって終了してしまいます。

でも、特筆すべきこともありました。

大会終了の20年前の昭和五十六年(1981)、TBS日曜劇場で、
この盤持大会をテーマにしたテレビドラマが放送されたことです。

題名は「よっこらショ」

主人公の力持ちに鈴木ヒロミツ、その妹に伊藤蘭、妹の恋人に森川正太、
ヒロミツさんと蘭ちゃんの父親役は下元勉。

このドラマ、今から40年も前の放送です。

人気グループキャンデーズで歌って踊っていた女の子の蘭ちゃんも、
すでに66歳。本当に光陰矢の如しですね。

その蘭さんのご主人は、テレビドラマ「相棒」の水谷豊さん。
水谷さんは北海道芦別市生まれ。

ここの芦別神社に力石があったそうですが、今は所在不明。残念!

で、この「よっこらショ」、
なんと昨年11月に2度も再放送したそうで、見逃してしまいました。

こちらは富山県の「盤持大会」です。
img20201212_23535171 (2)
富山県南砺市城端・善徳寺

米俵二俵を担ぎ、片手を差し上げるスタイル、全く同じです。

それもそのはず。

昭和初期に富山県出身者たちが、
故郷の城端・善徳寺の「盤持ち」を導入したことから始まったそうです。

「盤持ち」は、「忘れ難きふるさと」の懐かしい民俗行事だったのですね。

きっと、
善徳寺に掲げられていた「盤持番付」も、思い浮かべたに違いありません。

こちらは古い「盤持番付(ばんもちばんづけ)です。
南砺市城端・善徳寺・板番付

そしてこちらが最近の「番付」です。

番付南砺市提供

その「忘れ難きふるさと」を記憶している人々がいなくなれば、
民俗行事が消滅しても仕方のないことかもしれません。

こちらは2016年発行の「くりやま社協だより」です。

表紙に盤持ちの体験者が載っています。

この栗山町は、明治時代から昭和にかけて炭坑でにぎわい、
町の人口は2万人にもなった。

しかし昭和40年代になると、炭坑の閉山、鉄道の廃止で町は打撃を受けた。

現在の栗山町は、人口約1万2000人、戸数5803世帯。

寂しくなったと感じますが、人口減少、少子高齢化は全国どこも同じです。

今から133年前には、人跡隔絶の地だった荒野に、
仙台藩士の泉麟太郎主従が7戸、24人で入植した。

その7戸から5803戸24人から1万2000人になった。

ここが新たな「忘れ難きふるさと」になった人が、1万2000人もいるのです。

この町には宮城県人、富山県人の不屈の魂が根付いている。
だから、何にも負けない強さがある。

私はそう思いたい。


   ーーーーー◇ーーーーー

高島先生ブログ(1・7)

「富山県射水市大江・永森神社」

ものすごく立派に保存されています。

   
   ーーーーー◇ーーーーー

追悼・はなタン

ブログ「わがまま勝手な呟き」の麿さんの愛犬・はなタンが永眠しました。

会ったことはないけれど、
ブログから、心優しい控えめなワン子さんを想像していました。

はなタン (3)

写真の無断使用、麿さん、ごめんなさいね。


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屯田兵?・南砺物語③

みなさま、お正月はいかがお過ごしだったでしょうか。
私は食っちゃ寝の寝正月。

腹ごなしに散歩に出たら、公園の上空にたくさんのカイト(凧)が…。
沼を埋め立てて造った広い広い公園です。
スケボーやローラースケート、一輪車の子もいます。

子供たちの歓声が風に乗って舞い上がっていきます。
凧あげは子供よりお父さんの方が必死。

子供たちの元気な声、ホッとします。
久しぶりにお正月らしい光景に出会って、大満足でした。

もう少し、富山県の話を続けます。

   ーーーーー◇ーーーーー

「夜高祭」の福野町に、桐木(きりのき)という集落があります。

この集落の墓地に力石が一つ置かれています。

これです。

南砺市桐木・古井家墓地
富山県南砺市福野地区桐木・古井家墓地 71×40×24㎝

刻字があります。

「大正七年四月一日於地蔵堂庭 桐木村力士 古井□□肩此石
北海道中士別 長谷川政五郎記」

桐木村の古井家のどなたかが、地蔵堂の庭でこの石を肩まで担いだ。
その栄誉を後世まで伝えるため、
北海道中士別の長谷川政五郎さんがそれを石に刻んで奉納した。

この桐木村は、野口雨情に歌われた
「人寄せ石」の今井政次郎の生地、梅ヶ島村の近くです。

二つの石の刻字年代も近いので、二人は顔見知りだった可能性があります。
もしかしたら、北海道の長谷川政五郎も昔の仲間だったのかもしれません。

で、注目したいのは、「北海道中士別」という地名です。

士別市はどこかというと、旭川・旭山動物園の上部、赤丸のところです。

Hokkaido_x.gif

ここは元ボクシング世界王者の輪島功一氏が育った町。
そして、今は「めん羊の町」として有名ですが、

かつては一面の原野。

明治七年(1874)、ロシアの南下を恐れた明治政府は、
北海道の警備と開拓のため、
屯田兵(とんでんへい)」制度を作って多くの人を送り込んだ。

実はこの制度の本当の目的は、
明治維新で失業した大量の武士の救済反乱防止

当然、最初の入植者は失業士族だったが、のちに一般平民に替わった。

制度発足から25年後の明治三十二年(1899)、
この士別市へ約100戸入植。

富山県からも多くの農民が新天地を求めて渡って行った。

しかし欧米列強のアジア植民地化や日清戦争の勃発で、
政府の目は朝鮮半島や中国大陸へと移ったため、
「屯田兵制度」は明治三十七年に廃止。

士別は「最後の屯田兵村」になったという。

2019年、士別市では屯田兵の住まいを改修復元。

「改修前」と「改修後」の家をご覧ください。

「屯田兵屋改修復元事業概要」

極寒の地なのに、あまりにも粗末な家で驚きました。

ヒグマや毒虫の危険を伴いつつ、クマザサが生い茂る荒れ地の開墾。
当時の苦難を文字で知るだけでも、すさまじさが伝わってきます。

そんな中でも事業を起こし成功する者もいた。

力石に「中士別」と刻んだ「長谷川政五郎」が、
入植者だったかどうかはわかりません。

でも私はこう思いたい。

新天地で成功した一人で、石に自分の名を刻むことで、
故郷に錦を飾ったのかもしれない、と。

しかし今はもう、
「北海道中士別」の文字を刻んだこの力石だけが、
長谷川政五郎の生きた証しを伝えるものとなりました。


   ーーーーー◇ーーーーー

高島先生ブログ(1・4)

「静岡県賀茂郡河津町谷津・河津八幡宮」

待ってました! 仇討ちの曽我兄弟のお父さん登場です。

といっても、今どき「曽我兄弟の仇討ち」と言っても通じるかどうか。
ま、とにかく、鎌倉時代の力石です。


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プロフィール

雨宮清子(ちから姫)

Author:雨宮清子(ちから姫)
昔の若者たちのスポーツ「石上げ」に使われた「力石(ちからいし)」の歴史・民俗を調査研究しています。力石のことを少しでも知っていただけたら嬉しいです。

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