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武士から「百姓」へ

消えた間宮一族
11 /05 2020
間宮家の家譜によれば、

「間宮好高が天正18年の山中城合戦で討ち死にしたため、
子の「好綱」が下高野に帰農。
下高野・間宮家一代目長左衛門を称した」とあります。

合戦に敗れた武士が「百姓」になった例は当地にもあります。

甲斐の武田信玄の息子・勝頼は、山中城落城の10年前、
天目山の戦い(甲府市)に敗れ、嫡男の信勝、正室の桂林院と共に自害。

この正室は、山中城を築城した北条氏康の娘です。

武田家滅亡を受けて家臣の遠藤正忠は、
勝頼の妹・お市を連れて駿河(静岡市)へ逃げ延びたといわれています。

同じ「お市」でも、信長の妹のお市さんは有名ですが、
こちらのお市さんは、信玄系図の娘たちの中には見出せません。

が、ともかく、その後二人は夫婦になって帰農。

お姫様がお百姓さんになっちゃったわけですが、
安倍川の河原を開墾して「遠藤新田」を開きます。

江戸時代には名主として活躍。
ご子孫が現在に続いているのは、下高野の間宮家と似ています。

こちらは間宮家の菩提寺、永福寺です。

ここでも斎藤氏の愛車「黄子」嬢が大活躍。
1下高野永福寺
埼玉県北葛飾郡杉戸町下高野

ここに、「間宮長左衛門」の名を刻した宝篋印塔があります。

門前にドーンと聳えていて…」と斎藤氏。

これです。確かに、ドーンですね。

2永福寺

「間宮長左衛門」の名は、下段右から4番目(赤丸)にあります。

建立年は宝暦六年(1756)ですから、
この長左衛門さんは、第14代目の人ということになります。

3永福寺

この宝篋印塔には、同じ下高野の「新井又兵衛」の名前もあります。

この新井家、
幸手城主の一色氏と同族で、のちに武を捨てて下高野に土着したという。

江戸の初め頃、この家の新井佐内と間宮家の長左衛門が新田を開発。

それが今に残る「佐内新田」だということが、
「杉戸町の地名・地誌」にありました。

永福寺の宝篋印塔に刻まれた「新井又兵衛」(黄丸)です。

新井又兵衛永福寺

それ相応の地位にあっても合戦で敗れて主君を失えば、
たちまち路頭に迷います。

徳川幕府が瓦解したとき、武士がおおぜい駿府にきたけれど、
その悲惨さを知るにつけ、胸が痛みます。

荒れ地に入植して茶園を開いたり、居合抜きの大道芸人になったり、
娘を遊郭に売ったり、利殖用にウサギを飼って大損したり、
商人や牧師、新政府の役人と、その後の身の振り方は千差万別。

画家になる前の小林清親は、剣豪の榊原健吉に誘われて、
剣術の大道芸をやったり、浜名湖で漁師になったり…。

主君の場合もいろいろ。

山中城の合戦で、間宮豊前守・康俊と弟の信俊、
その信俊の子の源十郎は討ち死にしたけれど、

城将の北条氏勝はそれから約20年生き延びて、
家康から二代将軍秀忠に代替わりするころ没しました。

武田勝頼のように夫婦ともに自害する大将もいれば、
生き延びる人もいて…。

でも、自害しても生き延びても、気持ちは重かったにちがいありません。

さて、気分を変えて、

下高野の間宮一族が眠る菩提寺・永福寺の
珍しい「どじょう施餓鬼」をご覧ください。




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高島先生ブログ(11・4)

「東京都江東区北砂・志演神社」

「志演」とかいて「しのぶ」と読みます。

こちらは私の師匠・高島先生の、
そのまた師匠で、上智大学教授だった伊東明先生のスケッチです。

師匠のブログ写真と見比べてみてください。

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雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞