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舞台は杉戸町へ

消えた間宮一族
10 /30 2020
幸手市平須賀村の外郷内(そとごうち)に、江戸末期まで存在した間宮家

代々、又左衛門を名乗り、
江戸中期には、本因坊九世察元を出した名家です。

しかしこの家は、いつの間にか消滅。

埼玉在住の斎藤氏と私は、この間宮家に憑りつかれました。

そもそもの始まりは、

斎藤氏がポタ放浪中、外郷内の共同墓地の説明板に目がとまり、
導かれるように中へ入ったら、焼却炉の脇に力石を発見

それがきっかけでした。

1左門
埼玉県幸手市平須賀外郷内・共同墓地

力石の刻字は「寛政七年(1795)」
奉納者は、「間宮左門」

この「間宮左門」なる人物を簡単に割り出せたら、コトはここまで及ばなかった。

それが叶わなかったのが運の尽き?

それではと調べ始めたら、地元では全くご存じない。
この家から本因坊が出たことを知ったのはつい最近だという。

で、なんと謎多き悲運の一族かと、ヨソモンが勝手に興味を持ったわけです。

何もわからないからムキになって、唯一の手掛かりの墓石とにらめっこ。

こうして、
人さまの歴史の痕跡へ足を踏み入れてのおせっかいが始まりましたが、
なかなか「左門」さんは現れません。

そんなこんなで、行き詰ったかと思ったとき、
斎藤氏が図書館でこんな記述を見つけました。

img20200924_10072703 (2)

平須賀外郷内のお隣り、北葛飾郡杉戸町にも間宮家があって、
そこへ外郷内の間宮家から養子に入った人がいる、

という杉戸町の郷土史料の記述です。

ここで舞台は一気に、杉戸町下高野の「間宮家」へ。

とまあ、ちょっと大げさですが、

でもこの下高野の「間宮家」は、すごい家だったのです。

下の写真は、昭和52年の板碑調査のおり、
間宮家墓地から発掘された「板碑=板石塔婆」です。

img20201028_11275936 (3)

下の赤丸は、左側の永正14年の板碑の現物です。

板碑間宮家
埼玉県北葛飾郡杉戸町・間宮家墓所

右側の板碑には「康暦二年」、左側には「永正十四年」と刻まれています。

康暦二年は1380年、永正14年は1514年。
ともに室町時代です。

1380年は南北朝の動乱が収まってきたころ。

1514年は群雄割拠の戦国時代の始まりの頃で、
伊豆の北条早雲が小田原城を奪取、破竹の勢いで関東へ攻め上ったころ。

間宮家の家譜によれば、
「間宮一族」は、この早雲の後継、後北条氏の家臣だったとか。

早雲よろしくイケイケドンドンの斎藤氏と私、
焼却炉脇の力石から、思わぬ方向へ行きついてしまい、

正直なところ、
相手がデカすぎて、たじろいでおります。


※参考文献・画像提供/「郷土史料第五集・杉戸町の板石塔婆」
          杉戸町文化財専門委員会・杉戸町文化財調査協力委員会
          町教育委員会 昭和52年
          /「郷土史料第3集・間宮家文書の研究」
          杉戸町文化財専門委員会・杉戸町文化財協力委員会
          町教育委員会 1976
※参考文献/第二十五巻第二号「百姓代官間宮長左衛門」飯塚壮次 
          埼玉県郷土文化会 昭和53年
※情報提供・現地調査/斎藤氏


   ーーーーー◇ーーーーー

高島先生ブログ(10・29)

「福岡県那珂川市片縄・十六神社」

丸い台座にちょこん。
当地にも似たような力石がございます。

CIMG0242_2020103009382018d.jpg
静岡市駿河区・石部(せきべ)神社


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寄り道まわり道

消えた間宮一族
10 /27 2020
消えた「間宮家」の途中から、寄り道まわり道をしてしまいました。

もうみなさんから忘れられたかも。

だって、書いているこの私が、
「えっと、どこまで書いたっけ?」の状態ですから。

軌道修正する前段階に、ちょっとこんなお話を。

埼玉県幸手市に「権現堂」というところがあります。

そこにあった権現堂河岸は、
江戸時代から昭和初期ごろまで船運で栄えたところ。

間宮家があった「平須賀村」はこの近くです。

img20201003_17074635 (4)
「幸手市史」よりお借りしました。

幸手出身の「雷権太夫」が、この村の若宮権現社で、
力士400人、行司30人を引き連れて勧進相撲を開いたことは、
下記の記事に書きました。

「チャッチャカ チャッチャカ」

さて、河岸で働く船頭さんたちが信仰したのが「大杉大明神」。

こちらはその「大杉さん」を祀った水神社です。

権現堂河岸跡に建つ水神社です。上記地図の赤丸のところ。
水神社幸手市権現堂
幸手市商工会議所・TOM幸手よりお借りしました。

このお堂には、河岸場にふさわしい彫刻が施されています。

男たちが米俵を担いでいます。
大波に乗っています。後ろにも俵が見えます。

江戸時代の「貨幣」はお米。
網の目状の河川をたくさんの船が、江戸のお蔵前まで航行していきました。

口をへの字に結んで、筋骨たくましい腕で米俵を担いでいます。

でもあれっ? 左側の人、なんだかペンギンみたいに見えるけど、
背中とフンドシが確認できるから後ろ向きか。一部欠けちゃったのかな。

いずれにしても素晴らしい彫刻です。 

img20201003_17074635 (2)
「幸手市史」よりお借りしました。

「素晴らしい彫刻です」なんて言いましたけど、
トホホ、
私はまだ現物を見ていないのです。

この権現堂堤は春になると、桜と菜の花が満開で、
大勢の花見客でにぎわうそうです。

でも、その華やぎとは裏腹に、

江戸初期から幕末まで確かに存在した旧家が、
こうもきれいさっぱり人々の記憶から消え去ってしまったのが、
私にはなんとも不憫で寂しい

その間宮家をどこまでたどれるかわかりませんが、
春になったら、ぜひ、あの田んぼの中の墓所に、
手を合わせに行きたい、

そんな願いを持っております。

共同墓地田んぼの中の


※参考文献/「幸手市史・民俗編」市生涯学習課市史編さん室 1997


   ーーーーー◇ーーーーー

高島先生ブログ(10・26)

「三重県桑名市多度町下野代・野志里神社」

【説明文】  奉力石

「大正年代此石肩迄上げられた方氏名 
前野三右衛門 水谷房五郎 伊藤金右ヱ門 前野与三郎 岡田専右衛門 
重量三十六貫 百五十K(㎏)」

多度町にお住まいの方、
ここに名前のある方々は、もしやご先祖ではありませんか?


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伝説の力石、掘りました!

みなさまからの力石
10 /24 2020
以前からお世話になっている
(株)ベースボールマガジン社の相撲編集部の方から、
夢のある情報をいただきました。

長野県飯山市飯駒で、数十年前に地中に埋められた力石が、
今年6月、掘り出されたというニュースです。

掘り出された力石と、掘り起こしにご尽力されたみなさんです。

いい笑顔です。
IMG_0687-thumbnail2.jpg
長野県飯山市飯駒

まずはクレーンで、うんとこしょ!

IMG_0665.jpg

二つも出てきました。

まずは一つ目。

IMG_0680.jpg

こちらが、二つ目の力石です。
ここに埋まっていることが地元では伝えられていたそうです。

ちゃんと計測しましたよ。

IMG_0683.jpg

どれ、持ってみるか。

「やめとけ! 腰痛めるぞ!」と、まわりの衆が言ったかどうか。

IMG_0690.jpg

この二つの石は、
企画展「北信濃の相撲文化」展(市ふるさと館。7・4~8・30)で、
展示されたそうです。

いいなあ。
なんか、夢があるじゃないですか。

これぞまさしく、
「庶民文化を掘り起こした!」

詳細は下記のふるさと館発行の広報紙
「みらし! こらし! よってがし!!」の記事を見てください。

「飯山市飯駒に伝説の力石を見た!!」

で、これがきっかけで別の地区から、
「うちにもあるよ」というわけで、また一つ、発見。

「力石は力石を呼ぶ?」

なんの変哲もない石でござんすが、
これでも昔は神さま同様、大切に扱われましたんで。

村の若い衆はおのれの力量を誇示しようと、もう必死。

今どきの若者たちには、
「たかが石ではないか。ばかばかしい」と一笑に付されましょうが、
その純な一生懸命さが尊いではありませんか。

近ごろの若者たちの詐欺や性犯罪を見ていると、
「おい! 石でも持って性根を叩き直せ」

とでも言いたくなる今日この頃でございます。

とはいえ、その原因の一端は若者たちに、お金第一の価値観を植え付けて、
夢と希望の未来をないがしろにしたため、
諦念と自暴自棄に導いてしまった、大人たちの至らなさにありますけれど。


※情報提供/(株)ベースボールマガジン社相撲編集部
※写真提供/長野県飯山市教育委員会


    ーーーーー◇ーーーーー

高島先生ブログ(10・23)

「和歌山県紀の川市打田・藤永宅」

個人宅の力石の保存は、その家の方の意志次第です。
当地では父親が大切に保存していた力石を、
父親没後、「邪魔でしょうがない」と訴えた息子さんがいました。

気持ちはわかりますが、
せめて庭の片隅に置いて由来を書いておかれたら、と思いました。

下記は「へいへいのスタジオ2010」のへいへいさんがとらえた
商店脇の力石です。

「商店脇の力石」

こちらは「埼玉の力石」(高島愼助 岩田書院 2007)掲載の同じ石です。

「奉納 力石 廿九メ目」

当時の若者が誇らしげに石に刻んで、どこかへ奉納したものでしょう。

img20201024_09213594 (2)
埼玉県蓮田市根金

この写真から13年ぶりに、へいへいさんが確認して写真に残してくださった。
13年もよくご無事で、と思いました。

でも、上記の飯山市のように、
後世、懐かしくまた大切にしなくては、という気持ちになります。

かつてのその地域の若者文化を教えてくれる石です。
せめて路傍からどこか安住の地へ移して、
地域の皆さんに愛される力石にしていただけたら、と切に願っています。


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前田公より拝領の力石

みなさまからの力石
10 /21 2020
金沢市の友人から、嬉しいお便りをいただきました。

「金沢城公園に鼠多門(ねずみたもん)とが完成しました。
これで、尾山神社まで簡単に行けるようになりましたよ」

尾山神社といえば、あるんですよ、力石が…。

この鼠多門橋の完成で、金沢城公園と尾山神社がつながり、
新しい「加賀百万石回遊ルート」が誕生したのだそうです。

順番に見ていきましょう。

まずは兼六園から金沢城公園に入り、「玉泉院丸庭園」へ。

「玉泉院丸庭園」です。
11 玉泉院丸庭園
石川県金沢市

「玉泉院」というのは、金沢藩の二代藩主・前田利長の正室の院号です。

この方は織田信長の娘で永姫といいました。
玉泉院の逝去後、屋敷は撤去され庭園に作り替えられたそうです。

庭園をあとに、次は今年7月に完成したばかりの「鼠多門」へ。

立派な門ですね。2階建て、櫓門形式の城門です。

壁は黒漆喰のなまこ壁。

この壁の色がねずみ色なので、「鼠」と呼ばれたとのこと。

また「多門」は「多聞」で、兵器庫や防壁を兼ねる建物の意。

「鼠多門(ねずみたもん)」です。
12 鼠多門

この城門を抜けると、これまた立派な橋に出ます。

できたばかりの「鼠多門橋」です。

玉泉院丸と金谷出丸(現・尾山神社)を結ぶ金沢城最大の木橋です。

橋の側から見た「鼠多門」は、こんな感じ。
14 橋の側からの鼠多門

この橋は江戸前期に存在していたことが絵図で判明していましたが、
その後何度も架け替えられたようで、
今回の発掘調査で、異なる年代の橋脚の痕跡が確認されたとか。

今度の架橋は、明治期に失われて以来、実に140年ぶり
城門も橋も往時と同じ位置に復元されたそうです。

さて、木の香も新しい鼠多門橋を渡ると、いよいよ尾山神社です。

「力石は、橋を降りたすぐの場所にあります。
以前より整備されていますよ」と友人。

尾山神社力石です。
16 4個ある力石 (5)

4個あります。

刻銘は「さし石」のほかに、こんなのがあります。

「奉納 □藩主前田家ヨリ 拝領石 之御手木中」

なんと、藩主の前田公から頂いた力石です。

で、ここに出てきた「御手木(てこ)」ですが、
これは藩のお抱え力士から変化した「手木足軽」「御手木衆」のこと。

「金澤古蹟志巻十二」に、こんなことが書かれています。

「玉泉院丸跡の築庭に、もと相撲組の手木足軽50人と、
鉄砲組の者100人を人足として使った」

この手木衆を召し抱えるとき力量テストがあって、剛力の大男が選ばれたとか。

そうした男たちが担いだのがこの力石なんです。

なにしろお殿さまからの拝領石ですからね、みんな張り切ったことでしょう。

赤丸に「拝領石」、黄丸に「藩主前田家ヨリ」、青丸に「御手木中」の文字。
17 力石アップ (004)

で、この男たち、参勤交代のときは荷物を持って歩いたそうですから、
当然、江戸の地を踏んでいるわけです。

「金澤古蹟志」にはそんな手木たちの何人かが、
江戸の深川八幡社で石を担いだとあります。

中でも金田大石衛門という剛力は、
八十貫目の石を担いで石に年月も刻んだとありますが、

残念! 見当たりません。

「大石」という名に、うさん臭さを感じないでもありませんが…。

尾山神社の力石の説明板です。
15 尾山神社境内の力石由来

説明板にはこう書かれています。

「この石に触ると健康になるといわれ、古くより多くの人々がこの石に触り、
幸福への第一歩である健康を祈った」

みなさん、どんどん触って健康を祈願してくださいね。

で、友人の写真はここまででしたが、実は力石はもう一つあったのです。

これです。
先生尾山神社の力石

師匠の高島先生の調査時には、この写真のように、
二つに割れて拝殿の右側に放置されていたそうです。

これにも「奉納 之御手木中」とありますから、拝領石の可能性があります。

でもその後、神社へ問い合わせたところ、
「境内を整備した際、行方がわからなくなった」とのお返事だったとか。

たとえ割れてしまっても、手木(てこ)衆の歴史を刻んだ石です。

安易に捨ててしまわず、
あの4個の力石と同居させてくださったら、と悔やまれてなりません。

美しい庭園ができたのも、立派な橋が人々に利便をもたらしたのも、
こうした名もなき縁の下の力持ちがいてこそなんですから。


※参考文献/「金澤古蹟志」巻十二 森田平次著 日置謙校訂 
      金澤文化協會 1933
     /「石川の力石」高島愼助 岩田書院 2014


     ーーーーー◇ーーーーー

高島先生ブログ(10・20)

「大阪府大阪市生野区桃谷・御幸森天神宮」

関西の力石は関東の石とはひと味違います。

奉納するとき、小判型に整形したり刻字や刻銘に凝ったりしています。

関西人はエエカッコシー? 
それとも歌舞伎役者に見るケレン味(粋な演出)好みが多いのかしら?


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あーァァ、やんなっちゃった

世間ばなし
10 /19 2020
「三石」の話、飛ばし過ぎて疲れまして、翌日は一日中、眠りこけていました。

朝食を食べたら眠くなり、次に目が覚めたらすでに夕方の6時。
夕食を食べたらまた睡魔に襲われて、気が付いたら翌日の朝になっていた。

そこで気分転換にお町へ。

購入予定の電化製品など3点。
事前に調べておきたいと思って電気店に。

電化製品の大きさや価格を確認して、今度はプリンターのインク売り場へ。
以前見たとき、価格ラベルの付け間違いではないかと思うほど高額で。
緊急に必要だったので疑問のまま購入。なので今度はしっかり確認しようと。

そしたら、店員がバタバタ走ってきて、
「何かお探しですか?」と声を掛けて来た。
即座に「いえ、自分で探せますから結構ですよ」とお断り。

御親切にどうも、と思いつつ、
「ああ、これやっぱり、通販のよりずいぶん高いなあ」と。

そしたらまた「何かお探しですか?」と別の店員が小走りに…。

万引きするんじゃないかと思われたのかと嫌な気分になったが、
そうではなかった。近くにカードか何かがあったのだろうか。
「詐欺にあったらしい年寄り」と思ったようで。

若い人が同じ場所にいても、そちらには何も言わないんですよ。

「ねえ、柄マスクの山田長政さん。いやな渡世になりましたねえ」
CIMG5369 (3)
静岡市

ずいぶん前に似たようなことがあった。

息子のところで祝い事があって、お祝いの送金に郵便局へ。
送金用紙に現金を添えて窓口へ出したら若い局員が大声で、
「宛先の方とはどういうご関係ですか?」と。

「息子ですが…」
「息子さん? あんたと苗字が違うじゃないですか」
「事情があって違いますが、私の息子です」
「事情って、どういう事情ですか?」

会話は周囲の客に筒抜け。

「個人のプライバシーをこんなふうに大声で、失礼じゃないですか」
と抗議したら、
「とにかく怪しい感じだから、こちらへ来てください」と別室へ。

上司らしい男と二人で、また「詐欺ではないか」と言い出す。

息子の通帳がある郵便局へ連絡すればわかることだし、
息子自身へ電話で確かめればいいではないかと言っても、
「相手は偽者かもしれないから」とらちが明かない。

「もう結構です」とこちらからお断りして、その足で別の金融機関へ。
そこで「ほとほと困りました」と事情を話し、難なく送金できた。
こちとら田舎住まいだから、町での用事は滞りなく済ませないと困るんですよ。

最近、金融機関やコンビニなどで、
「詐欺を未然に防いだ」というニュースがひんぱんになった。

くだんの郵便局ではこのちょっと前に、「詐欺を防いだ」として、
局員が表彰されたという。それはそれで立派な事ではあるけれど、
表彰されたいがために行動しているのかと思うほどの行き過ぎも起きている。

友人に話したら、「あの局ね。私の知人も全く同じことされて怒ってた」と。

マスコミは表彰ばかり報道しているけれど、
こういう「被害」も起きているってこと、知って欲しいよなあ。

今や、年寄りは普通にショッピングもできなくなっているのかと暗たんとした。

それにしても少しボケた老人に見られたのか、
それほど挙動不審に映ったのか、
それともPCなんてやりそうにないおばさんが場違いなところにきている
とでも思ったのか。

「まだまだイケるぞー!」と思っている私としては、相当ショック。

そんなわけで、
やっぱり通販の方が気楽だワイと手ぶらで帰宅したのでありました。


   ーーーーー◇ーーーーー

高島先生ブログ(10・19)

「富山県小矢部市小矢部町・熊野神社」

なんだか不細工な力石ですね。
なあんて、力石クン、ごめん!


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書・柿下木冠②

できごと
10 /16 2020
画廊を入って突き当りの角に、柿下先生の書、「石」があった。

「わーい! 石だ石だ」と喜んでいた私に、染色家の鈴木健司氏が言った。

「実は今回のテーマはエロスなんです」

あ、そうなんだと途端にシュン。そういえば…。

CIMG5349 (3)

「石」の隣りには、
陰々滅々とした朱色の中に、煩悩にのたうっているような裸婦が黒々と。

その隣には、金精さまをほうふつさせる奇妙な「矢印」…。

そっかー。

江戸時代の盲目の国学者、塙保己一(はなわほきいち)は、
「群書類従」というお堅い本の編者として知られているけれど、
春本をもとに絵巻物に仕立てたポルノグラフィー作家でもあったというし、

などと、もぞもぞしながら次を見たら、「あっ!」

<感動を熟成して文字に変換した>とおぼしき「陰陽和合ノ図」

題は「竈(かまど)」。書のポルノグラフィーだ!

この発想は民俗学的にも正しい、なんてヤボなことは言いっこなし。 

「ワオッ! これ」
と言いつつ柿下先生を見たら、
先生、これ以上ないという楽し気な表情で、「そう!」

穴かんむりに旧字の亀で、たしかに「竈(かまど)」なんですけどねぇ…。
CIMG5348 (2)

柿下木冠。

木冠は「ぼっかん」と読む。
命名は「昭和の三筆」の一人、師の手島右卿氏。

「手島先生は最初、
グループの名称「抱朴会」の「朴」を考えていたようですが、
「卜」を取ったほうが奥が深いからと木にしたんです」とのこと。

”木”はすべての木(喬木・灌木)の総称であり、
筆力が強くて墨痕が木に三分染み込んだという
中国の書家、王義之の故事『入木道(書道の異称)』の木でもあること。

そして昭和初期の政治家、犬養毅の号「木堂」の木をも指す。
その三つがからまって生まれたのが「木冠」だという。

「重い名前です」と先生。

しかし、この重い名前の「ぼっかん」を「もっかん」と読む人がいるんです。

なんと、先生の作品を収蔵し、たびたび展覧会の会場にもなる
静岡県立美術館でも、作家紹介の欄に今も「もっかん」と記している。

学芸員さん、しっかりしてよ!

先生は南アルプスに源を発した大井川上流左岸の、
そのまた支流、河内川の一番奥の山村に生まれた。戸数わずか5軒。

img20201014_22465304 (3)

赤丸が先生の故郷、榛原郡川根本町文沢です。
向かって左側に大井川、川に沿って大井川鉄道が走っています。

右側の緑の〇は、生徒が一人しかいない静岡市立峰山小学校。

こちらは昭和50年代、峠越えして通学する文沢の高校生です。

img20201014_22373126 (2)
「大井川」よりお借りしました。

制服やカバンを背負いカゴに入れ、地下足袋をはいて、懐中電灯を持ち、
もう誰も通らなくなった荒れた峠を一時間かけて、たった一人で越えていきます。

行先は県立川根高校(茶色の〇)。

柿下先生も中学生のころは峠越えで徳山の中学校(青〇)へ通った。

こちらは先生のお父上と私。
お父上は著名な林業家として知られていました。

そのころ私は大井川を河口から源流部まで歩き、
その沿岸の人々の暮らしを訪ねる紀行を新聞に連載していました。

そんなある日、若き林業家を取材中、山から降りて来たお父上と遭遇。

img20201014_22332850 (4)
文沢にて

木材の価格が低迷する中、苦闘。このとき85歳。バリバリの現役でした。

この方の極めて印象深い言葉が残されています。

「蛇口をひねれば出る水も、水源に木を植え育てる者がいればこそです。
都会の皆さんにもぜひこのことをご理解願いたいものです。
山村に住人がいなくなることは、水道の管理人がいなくなることです」

「木冠」氏の「木」には、お父上が心血注いだ「木」も入っているはずです。

そのお父上の跡を兄が継ぎ、柿下少年は静岡市の町の高校生になった。

そこで手島右卿、山崎大砲という巨匠を師に、書の道へ邁進。

以来、音楽と書のコラボを、
ニューヨークのザンケル・カーネギーホールやアトランタの大学や、
日本でチェンバロ奏者と共演するなど、次々と書の魅力を打ち出してきた。

さて、この日、画廊にあった一番の大作はやっぱり「石」でした。

柿下先生と「石」
CIMG5337 (6)

カメラのレンズ越しに見たこの「石」、
なんだか男(上)と女(下)の姿に見えるなあ、などと思いつつ、パチリ。

そういえば、20年前、ご自宅へ取材に赴いたとき、
帰り際に上から布団が落ちて来て、

「せんせー! 布団が落ちてきましたァー」と叫んだら、
慌てふためいた先生が、やっぱりゴムまりが転がるように奥からバタバタ。

そういえば玄関へ入るとき、2階の手すりにドサッと置いてあったけど、
さては私の来訪で万年床を慌てて窓の外へホッポリ投げたなと、
笑いをこらえながら帰ってきたっけ。

そんなことを思い出して、ふふと笑ったらすかさず声が飛んできた。

「ずいぶん逞しくなったなあ」

ハイ、あのころに比べて胴回りが20㎝も太くなりましたから。

せめて、「豊満聖女」と呼んでください。


※柿下木冠(柿下康次)、昭和15年(1940)生まれの80歳。

毎日書道会評議員。独立書人団常務理事。抱一会理事長。一基会会長。
作品はシカゴ美術館、ジョスリン美術館、ニューヨーク日本クラブ、
土門拳記念館、静岡県立美術館、故郷の小学校などに収蔵。

米国シカゴ名誉市民。

※参考文献・画像提供/「大井川・その風土と文化」野本寛一 
          静岡新聞社 1979 

「三石」のはなしは、これでオ・シ・マ・イ。

チョー特急で書いてきたので、疲れましたァー。


     ーーーーー◇ーーーーー 

高島先生ブログ(10・15)

「埼玉県蕨市中央・和楽備神社」


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書・柿下木冠①

できごと
10 /14 2020
画廊の入り口から、
ゴムまりがコロコロッと転がるように入ってきた人がいた。

「あ、柿下先生」と声をかけると、
いたずらがバレたときの「しまった!」というような照れ笑い。

いつまでも少年のような先生です。

現代書家の柿下木冠(かきした ぼっかん)先生に初めてお会いしたのは、
今から20年も前、
ニューヨークでの個展から4年目、インドから帰国した翌年のことでした。

下の作品は、
1996年にニューヨーク・ソホー・キャストアイアンギャラリーで開催された
柿下木冠書個展の案内状、「RAIN(雨)」です。

img20201013_08184133 (3)

ちなみに私の姓の「雨」、手紙の宛名ではこんな感じ。

img20201013_20123843 (3)


この個展の期間中、先生は一人で夜昼ハーレムに通ったという。

「あそこにはアウト・オブ・アフリカの人達が、
いろんな問題を抱えながら暮らしていますが、ぼくはそういう人達と一緒に
バーでお酒を飲んだり踊ったりしました」

個展会場です。
img20201013_08184133 (2)

「怖かったけど違った意味で引き締まったものを感じました。
それはぼくにとってとても大事な事でした。

そのときのことを素材にして書いたのが、合衆国の『衆』です。

文字は自分がどう感動したかによって、意味も表現も全く違ってくるんですね。

ぼくの場合、感動に出会ったらすぐカタチにしないで熟成させるんです。
そこで初めて文字に変換していくわけですが、
それが人間の尊厳とか生命の根源に繋がっていくんだと思うのです。

代表作を書いていくには、”生きる”ということと噛み合っていないとダメ。
現代の社会と絡み合いつつ内なる自分に向かっていかないと
言葉になりません。

だからぼくは一年に2点ほどしか書けない。
年に3点書けたら大ハナマルです(笑)」

「衆」
img20201013_08262039 (5)

「ニューヨークへ行って、ぼくは変わりました。
何かそこに自分が求めていたものがあって、それを発見した。
それで書くテーマが絞れてきたんです。

それまでは日本の美を書くというような、
切り込みが浅いというか生活が甘かったというか…。

例えば一つのイメージがあってそれに紙をかぶせた。
それがニューヨークへ行ってから、オブラートに包まず
ズバリと入っていくようになったのです。

結果的には魂が入ってくる、生命の根源に入っていく。
それができないと気がすまない、
そういうところにきたんです」

ニューヨークでのデモンストレイション中の柿下先生。
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「昨年、インドの一番汚いところと言われるベナレスに行ったんです。
ニューヨークのハーレムと共通点があるんですが、
自然もいいけど人間を書きたいという思いがあって。

日本の美しい緑の風じゃなくて、土の色をしたベナレスの風を書きたくて…。
その風の中に命みたいなものを入れたいな、と思っているんです」

「ベナレスの風」と柿下先生。
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静岡市のご自宅にて。

20年前にお聞した言葉の数々、今もそのときのまま新鮮です。

深く感動した時の魂の叫びは、どんなに年月がたとうとも生き続ける、
私はそんなふうに思っています。


※参考文献・画像提供/「柿下木冠ニューヨーク書個展・帰国展」1997


   ーーーーー◇ーーーーー

高島先生ブログ(10・13)

「埼玉県さいたま市桜区田島・如意輪観世音堂」

絵を描かれた酒井正さんは、元・文字デザイナー。
後年、原因不明の歩行困難になりましたが、
自転車と杖で石仏と力石行脚。

膨大なスケッチは、「さいたま市の力石」(高島先生との共著)、
「郷土の石佛」(自費)として出版されました。

俳名の「一止」は、ご自分の名前「正」を分解。
「1のところで止める」意だとお聞きしました。


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染・鈴木健司②

できごと
10 /12 2020
「磊(らい)展」会場をのぞくと、
鈴木氏が部屋の一番奥の椅子に前かがみに座っていた。

「雨宮です!」と声をかけたら、パッと顔をあげて、「やあー!」

立ち上がると同時にさっとマスクを外した。私もとっさに外した。
やっぱり私たち、「昭和の人ですねえ」

コロナ禍になったら、マスクをしないのは非常識となったけれど、
私たちの時代には、マスクをしたままでは相手に失礼だと、
そう、教わってきましたものね。

はずしたマスクの下から、あの懐かしい柔和な笑顔が現れた。

20年ぶりの再会です。

取材で一度お会いしただけなのに、不思議ですね。
あの日の取材の続きのような感覚です。

「石と聞いてすっ飛んできました」と告げたら、
鈴木氏、ちょっと戸惑いつつも静かにこう言った。

「本当のテーマはね、エロスなんです」
「エロス!、ワオッ」

そういえば、ありますねぇ、「裸婦像」。あっちにもこっちにも。

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確かに、「交遊記」の中で寺田氏が、
「渋みのある男が密かに描きためた裸婦像」、なんて言っていた。

鈴木氏は、と見ると、ふんわり笑っている。
私もつられて、ふんわり、うむむ。

こちらは今年の新作です。
私の腕もデジカメもポンコツで、本当の色が出せません。
会場でぜひ、本物に接して欲しいです。

CIMG5335 (3)
ちょっと痩せられたかな? 

CIMG5350 (3)

「新聞紙・染」とあるように、作品には新聞紙が使われています。

それを渋木(やまももの樹皮)などの植物染料で染めている。
黒あり茶あり白あり。黄土色にも緑色にも見える。

単純そうに見える植物染料も作家の手にかかると、
数億万年も積み重ねてきた遺伝子の多様性が花開くのだろうか。

その複雑な色合いが錯綜するすき間から、新聞記事が見え隠れしている。
新聞の寿命は短い。翌日には古紙になる。

「再生」としたのは、なんでだろう。

ニュースの残骸を植物エネルギーで染めることで、
古紙は別人格に生まれ変わる、ということなのだろうか。

と、あれこれ理屈をこねていたら、
鈴木氏は笑いながら、「感じるままでいいんですよ」と。

近づいてみると、こんな感じ。小説家の「池波正太郎」の文字が見えます。
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さて、今から遡ること50年ほど前、
鈴木氏は「染めでアートを語る」という独自の世界へ踏み出します。

昭和58年(1983)、転機が訪れます。

新しい展開として始めた作品が認められて、
東京銀座の文藝春秋画廊で個展を開くことになったのです。

作品は、まんだらシリーズ「円と黒 実相の空間」

「ここは第一線の人がやるところだし、3年待って実現したときは、
身も心も震えるほど嬉しかったですよ」と、取材のとき語っていた。

以後、染めによるタブローや布を使ったインスタレーションと、
個展や展覧会への出品も順調に運んだ。

そんな中、「富士山」という難しいテーマに挑みます。
この「富士曼荼羅」は代表作の一つになった。

「赤富士」

赤富士 (2)

「黒富士」

父から受け継いだ県無形文化財の
「手描き草木染蝋纈(ろうけつ)・糊流し染」による技法が、
ユネスコ世界遺産の富士を生かし、富士に生かされています。

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「富士曼荼羅」は、
2007年から2013年にかけて、「富士山を世界に」展のため、
ベルギー、モスクワ、ニューヨーク、インドなど約12か国へ出品。

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開催国には、アーティスト8人とピアニストのフジ子・ヘミングさんが臨んだ。

鈴木健司富士 (2)

平成19年(2007)、文部科学大臣表彰。
平成27年(2015)、春の叙勲で旭日双光章受章。

そして令和2年(2020)の今年、
後継者の娘さん、五代目鈴木緑さんが静岡県文化奨励賞を受賞。

授賞式は今月15日。

父・健司氏も35年前に同賞を受賞。父娘二代の快挙となった。

緑さんは父と同じ多摩美術大学出身。

かつて鈴木氏はこう言っていた。

「植物染料はそんなに多くないのですが、
その色だけで自分の言葉として表現するように、と娘には伝えています」

伝統技術を継承し、アートの先輩の父からアドバイスを受けつつも、
父とはまた違うご自分の世界を創出している、

鈴木緑さんはそういう美術家です。

「紺友染色工房・鈴木緑」

     
    ーーーーー◇ーーーーー

「磊(らい)展」は、明日まで(10:30~16:00)。本日は17:00まで。
     静岡市庁舎からすぐ、青葉通り沿いの江崎ビル2F・ギャラリーえざき。
    
 「磊展」は明日で終了ですが、ブログ記事はまだ続きます。
  柿下先生の書と戯れ、挑み、安らぐ、そんなお話です。

    
    ーーーーー◇ーーーーー

高島先生ブログ(10・11)

「長崎県五島市増田町・水神社」


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染・鈴木健司①

できごと
10 /10 2020
とにかくカッコいいおじさんです。

「おじさん」だなんて気安く呼べないほどの経歴の方ですが、
お会いした瞬間から、大きな優しさに包み込まれます。

元・静岡新聞の寺田氏も「交遊記」の中で、こう言っています。

「イキで、おしゃれで、男マエ」

同性にこう言わせるのですから、本物です。

傘寿を過ぎても変わらず、それにいぶし銀の渋みが加味されて。

自身の作品の前で。
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2018年の賀状より。

鈴木健司 染色美術家。日本美術家連盟会員。静岡県工芸家協会顧問。

県工芸家協会の重鎮であり、同時に現代アート作家。

江戸時代末期から続く紺屋「紺友」に生まれた四代目。
曽祖父も祖父も徳川家出入りの染色職人で、
徳川の家紋を染めることを主な仕事にしていた。

「紺友染色工房」です。今は娘さんが伝統の技を継承。
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静岡市追手町7-14 

庁舎や銀行、病院、商業施設などのビル群の中の「お江戸」。

家康の居城だった駿府城址は目の前。

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鈴木氏は無形文化財技術保持者だった父から、
「デッサン力をつけてこい」と言われ、多摩美術大学絵画科へ進学。
あえて、油絵の道へ進んだ。

33歳のとき、「今日の美術 静岡展ー自然、存在、発見ー」で大賞受賞。

下の写真は、その大賞受賞作品「BASE」です。

寺田氏の解説によると、

「弾力性のある物質の上に、敷石を並べた物体。
その上を歩くと沈む。歩き終えて振り向くと、敷石はもとのまま。
無表情な物体としてそこに居る。
次の時代を支配する<もの派>の先駆的作品と見倣すことができる秀作」

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「<三石>との交流」よりお借りしました。

この受賞がきっかけで、
当時静岡・清水市で活躍していた前衛的なグループ「幻触」に参加した。

同時に父・福富氏が開拓した
「のり流し染」「草木染ろうけつ」の技法を継承。

以来、その技法を根底にすえ現代の感性を表出させたアート作品を
次々生み出してきた。

しかし、鈴木氏はまもなくそのグループから離れることに。

「私の場合はどうしても根底に”職人”がありますから、
技術に裏打ちされていない仕事はダメなんですね。
それで自分はやっぱり<染めで語ろう>と」

以来、「曼荼羅」「実相の空間」シリーズ、「赤のシリーズ」と、
染めで表現した斬新な現代アート作品を矢継ぎ早に発表。

美術の「美」の字も知らないひよっこの私が、
鈴木氏の工房を訪れたのは、そんな脂の乗り切った時期だった。

その時の新聞です。

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取材のあと、「なんでも描いてごらん」と、染めの手ほどきまで。

できあがったのがこれ。ちょっと紫っぽく写っちゃいましたが本当はこげ茶。

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染色の大家を前に頭が真っ白になって。

美的センスのかけらもない絵で、こっぱづかしいですが、
でも、20年間、大切に持っています!


※参考文献/「磊展による《三石》との交遊記」寺田行健 磊展事務局 2020


   ーーーーー◇ーーーーー 

「磊(らい)展」
 ー染・鈴木健司、石彫・杉村孝、書・柿下木冠によるー

 ギャラリーえざき/七間町(青葉通り沿い)江崎ビル2F。
 13日まで。10:30~17:00.最終日のみ16:00終了。


   ーーーーー◇ーーーーー

高島先生ブログ(10・8)

「岡山県瀬戸内市長船町・浦上宅」

個人のお宅の力石をその持ち主が詠みました。
おじいさんが愛用した力石でしょうか。


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石彫・杉村孝②

できごと
10 /08 2020
静岡県藤枝市生まれ。
東海道筋に代々続いた石屋の三男坊。

中学を卒業するとすぐ石工(いしく)の道へ。

「家には旅の職人衆なんかも寝泊まりしてて、朝から晩まで石を叩いていた。
だからよく言うんだけど、
オレは父さんの背骨の間にいるころから、石埃り吸ってツチ音聞いてたって」

「小学生のころ右目を失明してたから、残った片方の目にコッパが入ったら、
オレは完全に見えなくなるって恐怖、いつも持ってたよ」

19歳の時、上野の美術館で北川薫の石彫「うずくまる女」を見て、
一生かけても悔いのない生き方はこれだ、と。

これが彫刻の師、北川との最初の出会いとなった。

その後、どうしても基礎を勉強したくなって、27歳の時、妻子を残して上京。
昼は石屋で働き妻子へ送金。夜は太平洋美術学校へ通った。

帰郷後、藤枝市の滝ノ谷川最上流部の不動峡に工房を持つ。

8年の歳月をかけて摩崖仏を彫った。
一日だけの「岩と縄によるパホーマンス」も試みた。

右端上部に見えるのが、摩崖仏「不動明王座像」         ここです。
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工房にはいろんな人が訪ねて来た。

作家の小川国夫、漫画家のつげ義春、評論家の石子順造、
美術家の赤瀬川原平や鈴木慶則などなど。

以後、怒涛の如く、受賞が続く。

昭和62年(1987)、第6回富嶽文化賞展で大賞を射止めた。

重さ2トンの大作。
杉村さん生涯のテーマ「しゃぐじん(石神)シリーズ」の一つです。

石彫「しゃぐじんシリーズによる」
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静岡県立美術館蔵。「三石との交流」よりお借りしました。

20年前、取材でお会いしたすぐあと、杉村さんはオーストラリアへ旅立った。

「藤枝市から友好都市15周年記念の彫刻を頼まれてね。
1か月間、向こうの美術館の中庭で彫るんだけど。

昔、8年かけてそれこそ命がけで摩崖仏を彫った時は、
市から、景観を損なうなんていわれて。
そのうち、藤枝市が生んだ彫刻家なんて言い出して。

オレ、藤枝市で生んでもらったわけじゃないのにね、ハッハッハッ。
とにかく精いっぱいがんばってくるよ」

風、花,虫、木、草、鳥、土、空、月…。大きな自然の中に神を感じながら。

オーストラリア・ペンリスにて。杉村氏、このとき、62歳。
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帰国後、律義にもオーストラリアでの写真集と帰国した旨のメモをくださった。

写真集の表紙に、オーストラリアの1ドル切手になったご自分の作品を貼付。

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さりげない「パホーマンス」で、私を楽しませてくれた。

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そうそう、肝心の「磊(らい)展」出展作品、ご紹介しなくちゃね。

「石と石」
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板状の白い大理石に、赤黒い石の塊りが激突。

白い正義を邪悪な石が破壊してしまったのか、
はたまた、
しらじらしいウソだらけの世の中に、正義の鉄槌を食らわせたのか。


※参考文献・写真提供
     /「しゃぐじんシリーズ・岩と縄によるパホーマンス」1997・9・26
     /「石彫り途々ー道草遊々 二〇〇〇年」

    ーーーーー◇ーーーーー

なお、2020年10月14日~20日、松坂屋静岡店・美術画廊で、
「杉村孝石彫展ーいっこくわらべと石片仏(こっぱぶつ)-」を開催予定。

コロナ退散を願うこんな「こっぱ仏」も。

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松坂屋静岡店美術画廊提供。

※杉村孝=日本美術家連盟会員。
     昭和43年(1968)、第二次大戦の激戦地・硫黄島での
     「延命地蔵菩薩」制作、平成26年(2014)制作の「9条の碑」など、
     杉村氏の平和への希求は変わることなく続いています。

     また、藤枝市岡部町の「おかべ巨石の森公園」には、
     250トンもの作品があります。


   ーーーーー◇ーーーーー

「磊(らい)展」 ギャラリーえざき 13日まで。

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高島先生ブログ(10・7)

「静岡県賀茂郡東伊豆町稲取・八幡神社」

わーい! 私の句を2つも載せてくれたぞー。

力石は木の根に挟まれていました。
今もあの場所で、人の世の無常を感じていることでしょう。


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雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞