舞台は杉戸町へ
消えた間宮一族
幸手市平須賀村の外郷内(そとごうち)に、江戸末期まで存在した間宮家。
代々、又左衛門を名乗り、
江戸中期には、本因坊九世察元を出した名家です。
しかしこの家は、いつの間にか消滅。
埼玉在住の斎藤氏と私は、この間宮家に憑りつかれました。
そもそもの始まりは、
斎藤氏がポタ放浪中、外郷内の共同墓地の説明板に目がとまり、
導かれるように中へ入ったら、焼却炉の脇に力石を発見。
それがきっかけでした。

埼玉県幸手市平須賀外郷内・共同墓地
力石の刻字は「寛政七年(1795)」
奉納者は、「間宮左門」
この「間宮左門」なる人物を簡単に割り出せたら、コトはここまで及ばなかった。
それが叶わなかったのが運の尽き?
それではと調べ始めたら、地元では全くご存じない。
この家から本因坊が出たことを知ったのはつい最近だという。
で、なんと謎多き悲運の一族かと、ヨソモンが勝手に興味を持ったわけです。
何もわからないからムキになって、唯一の手掛かりの墓石とにらめっこ。
こうして、
人さまの歴史の痕跡へ足を踏み入れてのおせっかいが始まりましたが、
なかなか「左門」さんは現れません。
そんなこんなで、行き詰ったかと思ったとき、
斎藤氏が図書館でこんな記述を見つけました。

平須賀外郷内のお隣り、北葛飾郡杉戸町にも間宮家があって、
そこへ外郷内の間宮家から養子に入った人がいる、
という杉戸町の郷土史料の記述です。
ここで舞台は一気に、杉戸町下高野の「間宮家」へ。
とまあ、ちょっと大げさですが、
でもこの下高野の「間宮家」は、すごい家だったのです。
下の写真は、昭和52年の板碑調査のおり、
間宮家墓地から発掘された「板碑=板石塔婆」です。

下の赤丸は、左側の永正14年の板碑の現物です。

埼玉県北葛飾郡杉戸町・間宮家墓所
右側の板碑には「康暦二年」、左側には「永正十四年」と刻まれています。
康暦二年は1380年、永正14年は1514年。
ともに室町時代です。
1380年は南北朝の動乱が収まってきたころ。
1514年は群雄割拠の戦国時代の始まりの頃で、
伊豆の北条早雲が小田原城を奪取、破竹の勢いで関東へ攻め上ったころ。
間宮家の家譜によれば、
「間宮一族」は、この早雲の後継、後北条氏の家臣だったとか。
早雲よろしくイケイケドンドンの斎藤氏と私、
焼却炉脇の力石から、思わぬ方向へ行きついてしまい、
正直なところ、
相手がデカすぎて、たじろいでおります。
※参考文献・画像提供/「郷土史料第五集・杉戸町の板石塔婆」
杉戸町文化財専門委員会・杉戸町文化財調査協力委員会
町教育委員会 昭和52年
/「郷土史料第3集・間宮家文書の研究」
杉戸町文化財専門委員会・杉戸町文化財協力委員会
町教育委員会 1976
※参考文献/第二十五巻第二号「百姓代官間宮長左衛門」飯塚壮次
埼玉県郷土文化会 昭和53年
※情報提供・現地調査/斎藤氏
ーーーーー◇ーーーーー
高島先生ブログ(10・29)
「福岡県那珂川市片縄・十六神社」
丸い台座にちょこん。
当地にも似たような力石がございます。

静岡市駿河区・石部(せきべ)神社

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代々、又左衛門を名乗り、
江戸中期には、本因坊九世察元を出した名家です。
しかしこの家は、いつの間にか消滅。
埼玉在住の斎藤氏と私は、この間宮家に憑りつかれました。
そもそもの始まりは、
斎藤氏がポタ放浪中、外郷内の共同墓地の説明板に目がとまり、
導かれるように中へ入ったら、焼却炉の脇に力石を発見。
それがきっかけでした。

埼玉県幸手市平須賀外郷内・共同墓地
力石の刻字は「寛政七年(1795)」
奉納者は、「間宮左門」
この「間宮左門」なる人物を簡単に割り出せたら、コトはここまで及ばなかった。
それが叶わなかったのが運の尽き?
それではと調べ始めたら、地元では全くご存じない。
この家から本因坊が出たことを知ったのはつい最近だという。
で、なんと謎多き悲運の一族かと、ヨソモンが勝手に興味を持ったわけです。
何もわからないからムキになって、唯一の手掛かりの墓石とにらめっこ。
こうして、
人さまの歴史の痕跡へ足を踏み入れてのおせっかいが始まりましたが、
なかなか「左門」さんは現れません。
そんなこんなで、行き詰ったかと思ったとき、
斎藤氏が図書館でこんな記述を見つけました。

平須賀外郷内のお隣り、北葛飾郡杉戸町にも間宮家があって、
そこへ外郷内の間宮家から養子に入った人がいる、
という杉戸町の郷土史料の記述です。
ここで舞台は一気に、杉戸町下高野の「間宮家」へ。
とまあ、ちょっと大げさですが、
でもこの下高野の「間宮家」は、すごい家だったのです。
下の写真は、昭和52年の板碑調査のおり、
間宮家墓地から発掘された「板碑=板石塔婆」です。

下の赤丸は、左側の永正14年の板碑の現物です。

埼玉県北葛飾郡杉戸町・間宮家墓所
右側の板碑には「康暦二年」、左側には「永正十四年」と刻まれています。
康暦二年は1380年、永正14年は1514年。
ともに室町時代です。
1380年は南北朝の動乱が収まってきたころ。
1514年は群雄割拠の戦国時代の始まりの頃で、
伊豆の北条早雲が小田原城を奪取、破竹の勢いで関東へ攻め上ったころ。
間宮家の家譜によれば、
「間宮一族」は、この早雲の後継、後北条氏の家臣だったとか。
早雲よろしくイケイケドンドンの斎藤氏と私、
焼却炉脇の力石から、思わぬ方向へ行きついてしまい、
正直なところ、
相手がデカすぎて、たじろいでおります。
※参考文献・画像提供/「郷土史料第五集・杉戸町の板石塔婆」
杉戸町文化財専門委員会・杉戸町文化財調査協力委員会
町教育委員会 昭和52年
/「郷土史料第3集・間宮家文書の研究」
杉戸町文化財専門委員会・杉戸町文化財協力委員会
町教育委員会 1976
※参考文献/第二十五巻第二号「百姓代官間宮長左衛門」飯塚壮次
埼玉県郷土文化会 昭和53年
※情報提供・現地調査/斎藤氏
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「福岡県那珂川市片縄・十六神社」
丸い台座にちょこん。
当地にも似たような力石がございます。

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