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絶家

「絶家」

幸手市平須賀の「間宮家」を調べると、この言葉が頻繁に出てきます。

「幸手市史」にも、ご近所さんの口からも、
「間宮氏娘」と刻まれた立派な宝篋印塔が建つ宝聖寺のご住職からも、

絶えてしまった家だからね。なにもわかりません」と。

間宮家屋敷跡です。前方にみえる高架は「圏央道」です。
屋敷跡
平須賀外郷内

たとえ絶えてしまっても、
人の営みの痕跡が、しかもかなりの名家だったという家が、
人々の記憶からすっぽり消えてしまうなんてあるのだろうか。

でもこの「間宮家」は、
墓石や石造物にその存在を残すのみで、本当にどなたもご存じなかった。

他人事ながら、なんとも寂しい。

墓石だけになった間宮家の墓所は3カ所ありました。

一つ目はすでに取り上げた共同墓地です。
墓地察元

本因坊九世察元の墓石があるところです。
そして焼却炉のそばには、あの「間宮左門」銘の力石があります。

二つ目は田んぼの中です。屋敷跡の一画にありました。
共同墓地田んぼの中の

屋敷の一画を墓所にすることは古くからありました。

その土地の草分け(開いた人。最初の入植者)などのご先祖を、
屋敷地に埋葬して家の守護神にしたのです。

似たような例が当地にもあります。

江戸時代、廻国行者の六十六部さんがこの地で行き倒れになったので、
村人たちが埋葬して守護神として塚を造った。
その後、六部さんの祭りが始まり、若者たちが墓石を力石にして遊んだ。

今も塚は墓石とともに個人の家の庭にあります。

さて、間宮家の屋敷墓です。
ここは長い間人に知られることなく、地下に眠っていたとか。

近年、貯水槽を作るために掘り起こしたら、
墓石とともに人骨が出てきて、墓地だったことが判明したそうです。

貯水槽と発見された墓石群です。
貯水槽

ここには正保二年(1645)という江戸時代初期の古い宝篋印塔
「間宮昌仙先生」と刻された墓石があります。

昌仙先生は儒者だったのでしょうか。
この人物のことも全くわかりません。

下の写真は、共同墓地から見た貯水槽脇の「屋敷墓」(赤丸)です。
こういう位置関係になっています。

斎藤氏は、
「この共同墓地も元は間宮家の墓所だったのではないだろうか」と。

屋敷の守護神は草分けのご先祖や特別の人のみとされていますから、
その推測はあたっているかも。

墓共同墓地から見た間宮家

3つ目は菩提寺だった宝聖寺です。

この寺の境内には、
屋敷墓にあった「昌仙先生」の娘が、
両親の菩提を弔うために奉納した宝篋印塔があります。

「間宮家は無縁仏になった」

というご住職の言葉を聞いても諦めきれない斎藤氏、
墓地をくまなく歩き、とうとうその一画に古めかしい墓所を見つけました。

五輪塔がありました。
間違いなく古い家の墓所です。

そして、その中の墓石に、「間宮氏」と刻んだ文字が…。

興奮冷めやらぬ斎藤氏からいただいたその日のメールのタイトルは、

「よし! 見つけた!」

下の写真は宝聖寺の墓所です。立派な五輪塔ですね。
庶民ではとうてい造れないものです。
現地へ飛んで行ってひとつひとつ見てみたい衝動にかられます。

2宝聖寺間宮 (3)

斎藤氏、続けて想定外のものまで見つけて思わず身震い。

と、「講釈師、見てきたようなウソを言い」の私ですが、
たぶん、そんな感じだったと思います。

で、慌ててシャッターを押したら、自分の生々しい腕まで写り込んでしまった。

無理もない。この日は、
「よし! 見つけた!」が二つも重なりましたからね。

二つ目の「よし! 見つけた!」はコレ、新しい卒塔婆です。
墓所宝聖寺

だってこの卒塔婆、「平成十四年」ですよ。
今からたったの18年前ですもの。

江戸時代から一気に平成です。

それに花立ても新しく、お花まで供えてあります。
いやが上にも期待が高まります。

この卒塔婆を納めた方が察元の生家「間宮家」のご子孫なら、
と、思わずにはいられません。

次回、新たに発見した墓所について詳しく見ていきます。


        ーーーーー◇ーーーーー


前回ご紹介した「力くらべの絵馬」について

img20200828_08231290 (2)

詳細を幸手市郷土資料館よりお知らせいただきました。

「画面左下に、東舩斎衛貞画 願主 大埜喜重郎と墨書。
奉納場所は不明。奉納年の記載なし。

法量は64×43.5㎝。
現在、当館で保管しております」

今回の「間宮家」を書くにあたり、郷土資料館の学芸員さんに、
大変お世話になっております。ありがとうございます。

       ーーーーー◇ーーーーー

高島先生ブログ(9・2)

「福岡県柳川市大和町皿垣開甲木・海童神社」


「皿垣開甲木」
これ、「さらかきびらき かつき」と読むそうですが、珍しい地名ですね。

只今、柳川市役所へこの地名の由来を問い合わせ中です。

 ーーー柳川市の柳川古文書館から回答をいただきましたーーー

●「皿垣(さらかき)について。
  
  皿垣開の内陸部に皿垣村という地名があります。
  また「サラ(皿)は新しい、垣は垣内・堤防を意味し、新しい開という意味」
  という説があります。

  天正九年(1581)の古文書に、「佐良垣村」とあるのが初見とされ、
  このころ村は成立したと考えられます。

●「甲木(かつき)について
  
  江戸時代初め、柳川城下の豪商・甲木仁左衛門より
  干拓された干拓地であるため、この地名になったようです。

夕べ、メールで問い合わせして早くも本日、お返事を頂戴しました。
充実した丁寧な内容でありがたかったです。感謝申し上げます。


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雨宮清子(ちから姫)

Author:雨宮清子(ちから姫)
昔の若者たちのスポーツ「石上げ」に使われた「力石(ちからいし)」の歴史・民俗を調査研究しています。力石のことを少しでも知っていただけたら嬉しいです。

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